colors Re:write ~Nothing but gray~

Index ~作品もくじ~


 
【日曜日】

 悪いとは思っている。でも許してもらおうとは考えていない。
 ごめんなさいと言う言葉は嘘くさくて。それに対する許容はもっと嘘くさい。
 どうせ本当は怒っている。憎んでいる。許さないと思っている。
 だから絶対謝らない。タスクはずっとそうしてきた。

――はぁ、はぁ、……はぁ、……。

 真夜中の誰もいない、閉鎖されたはずの学校で、タスクは派手な音を立てて絵筆を足元のバケツに放り込んだ。
 目の前の鏡にはオレンジ色の絵具で、檻のような縦横の線が引かれていた。
 これが最後だった。今や学校中の鏡という鏡にこのオレンジの落書きが施されている。

『この学校の美術室には作者不明の白いコートの女の絵がかかっている。
 彼女はこの高校の守り神で鬼の眷属らしい。
 彼女にはたくさんの子どもがいて、夜中、誰もいない学校で子ども達を遊ばせている。
 灰色の目隠しをして校門の前でかくれんぼをしている子ども。
 学校中を駆け回って鬼ごっこをする子ども。
 中には悪戯好きの子どももいる。
 鏡という鏡にオレンジ色の絵具で落書きし、教室という教室に真っ黒な足跡を残す。
 白いコートの女神はそんな子どもたちを優しく見守っている。
 でもさすがに悪戯が過ぎると怒って彼女自身が子どもを叱りに現れる』

 タスクは手に持ったライトで自分が歩いてきた道を振り返る。
 そこには真っ黒な足跡がずっと続いていた。
 上履きに墨汁をつけて学校中を走り回った。
 それはまるで泥棒でも入ったかのようだった。

『白いコートの女神は運命を操る力を持っていて、もしその姿を見ることができたなら、考えられないような幸運に恵まれる。
 最底辺の学力の生徒が、国公立大に現役で合格したり、到底釣り合わないような美女や美男との交際が叶ったりする。
 彼女はよく屋上の給水塔の上にいて、そこで学校全てを見渡している。
 そして太陽が出る頃には眠くなって絵の中に戻っていく。
 だから、夜明け前の青い大気に包まれた屋上には彼女の姿が見えることが多い。
 彼女は朝焼けを浴びて赤い影を帯びている。
 そして、美術室の黒板に若葉色のチョークでお礼を残していくらしい』

――式部北高校の七色不思議という噂話だ。
 話の中に七つの色の名前が出てくることからそう呼ばれている。
 実際この式部北高校の美術室には作者名もタイトルもない白いコートの女の絵がある。
 そして、たまに思い出したかのように、その女の姿を見たという生徒がいるという噂が流れることも珍しいことではなかった。

 しかし、生徒達に有名なこの噂とは別にもう一つ、この噂には秘密の話がある。
 それは、白いコートの女神を手に入れ、願いを叶えるための儀式の内容だった。

『深夜の誰もいない学校に忍び込んで、鏡という鏡にオレンジ色の絵具で落書きをし、廊下や教室に真っ黒な足跡を残して、女神をおびき出す。
 灰色の目隠しをして「もういいかい」と叫ぶと、女神はそれが子どもの声だと思ってそちらに向かう。
 そうやって女神を屋上の給水塔の上まで呼び出す。
 後は夜明け前、大気がコバルトブルーに染まる頃に、赤く染まる朝焼けの給水塔の上に、学校の校章の印を書き 自分の影を写しこみ、そこで「みーつけた」と叫ぶ。
 そうすると、影の中に女神を捕えることができる。
 女神を捕えたら、お願いごとを言う。願いは一週間から一か月の間に叶う。
 願いが叶ったら、白い紙に若葉色のペンや色鉛筆で『お帰りなさい』と書いて燃やす。
 そうすると女神は解放され、元の絵に戻っていく。
 願いが叶った後、叶わなくても影に捕えてから一週間以内に女神を帰さなければならない。
 そうしないと心配した彼女の子ども達の鬼が彼女を探しにやってくる。
 そして、あなたが女神を捕えていると知ったら、あなたのことを食べてしまうだろう』

 タスクは閉鎖されている屋上の扉を盗んできた鍵で開ける。
 途端に、警報が学校に鳴り響いた。
 タスクは歯噛みした。学校の警備システムが作動したのだ。
 あと少しなのに――、苛立ちと無念が募る。
 しかし、そのままその場を後にし、あらかじめ開けておいた窓から学校を出た。
 タスクが逃げた直後に警備会社のトラックが来て、学校に入っていくところだった。

――もうダメだ。おしまいだ。
 いや、とうにおしまいだったのだけれど。
 無かったことにしようと思った。今日一日の失態、失敗、全て、全部。
 オカルトに頼るなんて馬鹿げた話でも、他に方法がなかった。
 でもそれも頓挫に終わった。もう後は――死ぬしかない。

 タスクは汚れた制服のまま深夜の街を駆け抜け、ある廃ビルの屋上に上る。
 そのままフェンスを乗り越えて、明かりも灯っていない真っ暗闇の足元を見た。

――式部北高校合唱部、銅賞。

 今日は全国高校合唱大会の地区予選だった。
 坂崎亮(サカザキ タスク)は式部北高校合唱部の伴奏を務めていた。
 決して下手な歌ではなかった。
 人数は男女合わせて三十人に満たないが、完成度という意味では関東予選に勝ち残る常連校と比べても引けを取らないものだった。
――歌は。問題は伴奏、つまり、タスクの演奏の方だった。

 一言で言うなら、緊張してしまったのだ。
 タスクは過度の緊張で頭が真っ白になり、そして曲の途中で伴奏の手が止まった。
 復帰しようとしていくつか音を触っても見当違いの雑音になるばかりで、手は震え、足はペダルを踏むことさえ困難だった。

 伴奏のないまま曲は終わり、部長で指揮をしていた三年の蝶野カイコは静かに礼をした。
 タスク達一年にとっては入学して二か月の最初の舞台。
 カイコ達三年の部員にとっては、公の大会としては最後の舞台だった。
 三年の女子の先輩には、舞台を下りた袖で悔しそうに泣いているものもいた。

 誰ひとり、タスクのせいだとは言わなかった。
 それでも誰もがタスクのせいだと思っていたに違いない。

――地区予選銅賞、それでも私は諸君が最大限の努力を尽くしてくれたことを知っている。我々のコンクールはここでおしまいだが、秋には文化祭のステージがあるし、市の催しもある。おちおち落ち込んではいられないぞ。

 解散の前にホールの玄関でトロフィーを片手にカイコは笑顔で言った。
 そして、泣く部員を慰めた。

――銅賞、結構じゃないか。分けて見れば、『金と同じ』だ。私達は、金賞はとれなかった。だが、金賞と同じだけの、それにふさわしい努力をした。胸を張りたまえ、諸君。私達はこの結果に対して、一つもやましい点などない。ただ、他の部が我々より上手かっただけだ。我々は、我々にできるベストを尽くして、そして敗れた。恥じることじゃない。

――式部北高校合唱部一同っ! 礼っ!

 カイコが掛け声をかけると部員は大きな声でありがとうござました、とホールに向かって頭を下げた。
 その下げた頭の下で、坂崎のせいだ、という声が聞こえた。
 それは誰の声でもなくタスク自身の心の声だったかもしれない。
 しかしタスクはその言葉に居た堪れなくなって、弾かれたようにそこから逃げ出した。

 カイコ達三年生がどれほど頑張っていたかをタスクは知っている。
 もともと弱小だった部をどれだけ大切に守っていたかをよく理解していた。
 だから、彼らに、彼女らに申し訳なくて、この大会の結末をなかったことにしたくて、タスクは夜中の学校に忍び込んだ。

 もうとっくに頭の中は混乱状態で、まともな思考回路は残っていなかった。
 警報のように携帯電話は鳴動しっぱなしで、タスクのやっていることも法に触れていた。
 忍び込んで、鍵を盗んで、学校中を汚して回って――。

 そんなことで、失敗をなかったことになんてできるわけないのに。
 でもその時タスクはそれを信じていた。こうすれば全てなかったことにできるのだと。
 そうすれば、カイコたちの努力は報われて、自分の失敗は消えてなくなるのだと。
 七色不思議の儀式を行えば、この学校の女神が、願いを叶えてくれるのだと。

 しかしそれもまた失敗に終わった。いや、元より上手くいくはずもないことだった。
 もうタスクはどこにも行く場所がない。
 少し調べれば学校を荒らした犯人がタスクだということも露見するだろう。

 タスクが今いるのは、カササギビルという廃ビルだった。
 式部市の北の住宅地に頭一つ、うんと飛びぬけてぽつんと立っているビル。
 壁面に鵲(カササギ)と染め抜かれていることからその名で呼ばれる。
 本当の名前は誰も知らなかった。

 誰にも使われずに捨てられたビル。いまだに何の使い道もないビル。
 景観や日照を阻害していると、解体を求める署名さえあるこのビルは、今の自分にひどく似ている。
 タスクにはそう思えた。

 最後に一つ、息を吐く。
 そしてタスクは、静かにフェンスから手を離した。
 空中に踊りながら、落ちていく体。
 揺れて、回って、捻じれて――。

 地面にぶつかったタスクの体は死体というにはあまりにも無残な肉の塊になった。
 首は折れ曲がり、鼻からも耳からも血が流れる。
 視界は徐々に色彩を失い灰色に眩んでいく。
 タスクの顔は一階部の駐車場に向けられていた。
 見えなくなりつつあるタスクの目はそこに広がる光景を捕えていた。

 女の人が、首を絞められて。
――ああ、そうだ。あれは、殺されているんだ。

 関節を逆に曲げられた右手が、冷たい金属に触っているのをタスクは感じた。
 ライターだった。
 タスクは、最後の力を振り絞って、そのライターに火をつける。
 何故そんなことをしたのか。その行動に何の意味があったのか。
 それを考える思考回路は既に機能していなかった。
 
 色彩を失っていく視界の端で。
 ライターはあるはずのない灰色の炎をあげた。
 タスクはその薄明かりに照らし出された女の首を絞める男の顔を見た。
 その男の顔は――。
It's anything but apology
»»  2013.09.02.
【月曜日】



――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。

 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。
 梅雨の晴れ間。
 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。
 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。
 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。
 寝坊して閉門に間に合うかどうかというぎりぎりの時間だったが、体が重くて走る気力が出ない。
 もともとそんな体力もないと言ってしまえばそれまでかもしれなかったが。
 その道の途中で、今しがたようやくタスクは昨日のことを思い出した。
 できれば忘れていたいことだった。

「タスク、おはよう」

 後ろから声がした。
 タスクは不機嫌な顔で振り返った。返事はしない。
 声でそれを気にするような相手ではないとわかったからだ。
 案の定立っていたのは同級生の松木太一(マツキ タイチ)だった。
 小学校一年生からの長い付き合いである。
 タスクのこの応対は相手もわかりきったことだった。

 この男は髪の毛を切る金もないほど貧乏を自称する。
 事実かどうか知っているわけではないが髪は実際長い。
 前髪は目を覆うほど。
 後ろ髪に至っては背中まであり、首の後ろで一つに結ばれている。
 知り合って以来タイチはずっとその髪型だった。
 いつ見ても鬱陶しいが、こう蒸し暑い時には一層暑苦しく見えて余計に不快だった。
 服装も学校のあるなしに関わらず制服しか着ない。
 この季節は半そでのワイシャツに、グレーのズボン。
 いつもと同じ姿だ。

「お返事は?」

 タイチは笑顔でタスクに言う。それも毎度のことだった。

「子どもか」

「お返事」

「……」

「お返事」

「おはよう。これでいい?」

「それでいい。馬鹿馬鹿しいと思ってるだろうけど大事なことだぞ。挨拶と笑顔と身だしなみ。人間関係の基本だ」

――身だしなみはお前も問題だろ、と心の中で突っ込む。
 そう、お前『も』だ。タスクも身だしなみが決して整っている方ではない。
 生まれつき栗色の髪の毛はこれまた生まれつき巻き気味だった。
 寝癖でいつも髪の毛はひどく乱れる。
 くしをあててもドライヤーを吹き付けても、どうにも収まりが悪い。
 かといって整髪料に頼るのは何だか不良っぽくて手が出せないでいた。
 さらにタスクもタイチも私服の生徒がほとんどの学校に制服で通学する。
 タイチの場合、自称によれば他に服がないかららしい。
 しかしタスクは制服にせざるを得ない切実な理由があった。
 タスクは高校一年生男子だが身長は159.5㎝しかない。
 この国の中学一年生男子の平均より小さいくらいだ。チビなのである。
 制服でも着ていないと、誰も高校生だと思ってくれないのだ。

「……そのさ、昨日は残念だったけど元気出せよ」

――ああそうですか。

 あまつさえこの話である。
 タスクの不快感はうなぎのぼりに上がる。
 眉間を中心に目の周りに寄るしわが一層深まり、表情が物々しくなっていく。

「失敗は誰にでもある」

――余計な御世話だ。そんなことはわかっている。

「気に病むようなことじゃない。お前だけのせいでもない」

――お前に何がわかる。

「今度挽回すれば――」

「うるさい。放っておいてくれ」

 タスクはタイチの言葉を遮って言う。
 励ましてくれるくらいならいっそ知らない振りをして欲しかった。
 少なくとも今のタスクにはそれは侮辱に感じられた。
――今度なんてない。舞台は常に一度きりだ。

 そう、あの人達の、カイコや三年生達にとっての高校生最後のコンクールの舞台は。
 もう二度とないのだ。それをタスクが失敗させてしまった。
 やり直しがきく類いのものではない。タスクの胸はまたつきんと痛んだ。
 
 タイチはまだごにょごにょ言っている。
 無視していても、タスクの気分を荒立てる言葉ばかりだった。
 タスクは奥歯を噛みしめる。
 タイチは多分、善意で言っている。励まそうとしてくれている。
 そもそも遅刻寸前のタスクとこの時間に通学路で会うわけがない。
 つまり、タイチはここで待っていたのだ。タスクを励ますだけのために。
――バカじゃないのか。

「少し黙っててくれ」

 そう言うので精いっぱいだった。
 タイチはまだ何か言いた気だった。
 しかし中途半端に口を開けたまま、結局何も言わなかった。
 タスクが本当に言いたいことは、言わなければいけないことはこんな言葉では絶対ない。
 でも、タスクは言わない。言えない。

 言えない代わりに出る言葉は憎まれ口だった。
 考えを述べることが苦手なわけではない。世間話はいくらでもできる。
 でも、タスクの口は気持ちを正直に伝えてくれない。
 嬉しくても、悲しくても。楽しくても、つらくても。
 どんな時もとげとげしい言葉しか出てこない。

 一方的に励ましの言葉を連ねていたタイチから、タスクは逃げるように速足で歩いた。
 そのせいかどうか定かではないが、閉門するぎりぎりのところにタスク達は間に合った。
 門を閉めているのは保健室の教師だった。
 その男がじろじろとタスクの方を見る。きっと知っているに違いない。
 タスクのコンサートにはテレビ中継も来ていた。
 ひょっとしたら学校中が、この街中がタスクの顔を知っているのだ。
――式部北のへたくそな伴奏者として。
 タスクはうつむいたまま校門をくぐった。

『気にすることはないよ、タスク――』

 そこに聞こえた言葉はタスクの逆鱗に触れた。

「気にするなって、どういうことだよ」

 タスクはそれについに切れた。
 起きた時から消えないイライラが頂点に達して、口から溢れた。

「気にするなだって? それってどういう意味だよ!」

 後ろにいたタイチはいきなりのことにぽかんと口を開ける。
 門を閉めた教師も怪訝そうな顔をしていた。

「その程度だったってこと? 気にする必要のない程度の舞台だったって。それなら、何で伴奏なんてさせるの? 歌が下手で、ピアノくらいしか取り柄がなかったから? そんな理由でやりたくもない舞台に立たされて、こっちはいい迷惑だよ!」

 ああ、何を言ってるんだ、ボクは――。

 こんなのは八つ当たりもいいところだ。伴奏はタスク自身まんざらでもなかったのに。

「……ごめん」

 タイチが謝る。
 その言葉に、途端にタスクの怒りは冷めた。
 同時に、言いようのない罪悪感が胸に押し寄せる。

「今日のボクは機嫌が悪いんだ。そっとしておいてくれ……」

 また本心とは違う言葉が口を突く。
 今タスクが言わなければいけないのは絶対にこの言葉じゃない。

「機嫌がいいタスクなんて見たことないけどな。十年間付き合ってきて」

 タイチは笑って言う。
 タスクはこいつ、とタイチの頭を小突いた。
 タイチは避けるでもなく殴られて、へへと笑う。
 タスクはそれで何だかいつも通りになった気がした。

「でも、タスクなんであんな場所でいきなり沸騰しちゃうわけ? 怒りだすタイミングおかしいぞ」

 タイチは何の気なしにそう言った。タスクはその言葉に戸惑う。

「気にするなって言ったじゃないか」

「言ってないだろ。タスクがしゃべるなって言ったから何も言わなかっただろ。オレ偉い」

 タイチはエッヘンと言わんばかりに胸を張る。
 嘘を言っている風ではない。
 からかっているわけでもなさそうだった。
 でも確かにタスクはその声を聞いた。はっきりと聞こえた。

「幻聴でも聞こえるようになったのか?」

「うるさい。ボクは傷ついているんだ」

「おーおー可哀想に。良ければオレの胸を貸すぞ。たんとお泣き」

 胸を広げるタイチの鳩尾にタスクは手刀を繰り出す。
 タイチはうぐ、とカエルのような声を出した。
 幻聴――だったのだろうか。そうなのかもしれない。
 夢と現実の区別さえ曖昧なのだ。
 でも、あの言葉は確かにタスクの耳に届いたと思う。
 本物の声のように、外側から。

「今日はいつにも増して暴力的じゃないか。よっぽど鬱憤がたまってるんだな。性の抑圧は体に良くないぞ」

「余計な御世話だ」

 タスクはタイチの頭に手刀を繰り出す。
 タイチはひらりと身をかわした。
 そして、走り去るように玄関をくぐり抜けた。
 タスクもそれを追うようにしてようやく学校に入っていった。
 タスクが下駄箱で靴を脱いでいると校内放送が流れた。

『生徒会から放送です。臨時のクラス委員集会を開きます。各クラス委員は至急生徒会室に集まってください。繰り返します――』

 タスクはついてないな、と思った。
 タイチは何だろな、ととぼけた顔をしている。

「そういうわけだから。行ってくる」

 タスクはタイチにそう言って、教室とは真逆の生徒会室へと歩いて行った。
The Suicide meets The Moratorium
»»  2013.09.02.
 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。
 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。
 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。
 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。
 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。
 
 クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。
 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。
 漢字で篠塚蜻蛉(シノヅカ トンボ)と書く。当然だが女子である。
 しかし女子にしては珍しいほどに短い刈り込んだ髪形で、体格もいい。
 見た目と名前だけで男と勘違いする人も多い。
 女の子らしく見えるのは精々、下まつ毛が長めで目がパッチリしていることくらいか。

 トンボは、性格も男勝りな部分が強い。
 今時珍しくないかもしれないが、自分のことをボクという。
 明るく一本気で、考えなしだがやることはやる性格だった。
 トンボは立候補してこの面倒なクラス委員になったツワモノだ。
 クラスでも一目置かれているし、人気者だった。
 
 生徒会室のドアを開けると部屋の中にはすでに全員が揃っているようだった。
 タスクが最後だったらしい。
 別段のんびりしていたつもりはないが、それでも何となく気まずい。
 部屋の教壇に立っているカイコの姿を見て、さらに気まずい気持ちになった。
 正直今日は顔を合わせづらい。
 タスクは少し体をかがめながら、トンボの隣の席に座った。

「これで、全員かな。諸君」

 諸君、なんて日常的に口にするのは多分タスクの人生の中でこの人だけだろう。
 上は半そでのブラウス、下は赤茶色のプリーツのスカート。
 襟もとはボタンを一番上まで詰めてリボンのタイで飾っている。
 髪の毛は艶やかに黒く、前髪は左に流し、耳元で金の蝶を模したピンで留めている。
 これが生徒会長――蝶野蚕(チョウノ カイコ)の標準的な服装だった。
 どこかの制服のように見えるが私服である。

「今日集まってもらったのはちょっとしたトラブルが原因であることを先に言っておこう。この学校の近辺で不審者が出没していると、警察から直接学校に通告があった」

 タスクはぎくりとした。
――まさか、だって、昨日のことは夢だったはず。
 だから今日自分はちゃんと家のベッドで寝ていたし。
 昨日学校でやったことは、全部夢の中の出来事のはず。
 そんなタスクの心境に構わずカイコは続ける。

「学校としてはこれに対応しないわけにはいかない。そこで今後しばらく、学校終了後、五時以降の生徒の居残りを禁止する。部活、生徒会、その他あらゆる理由での居残りを認めない。とにかく学校としては五時までに全生徒の完全下校を行う」

 カイコがそう言い切ると、教室の中はざわついた。
 当然である。
 もうすぐ夏で、野球部は甲子園予選もあるし、運動部は練習の盛りを迎える時期だった。
 異議があります、と真っ先に手を挙げたのはトンボだった。

「発言を認めよう、篠塚君」

「陸上部は来週末金曜日から大会を控えている重要な時期です。この時期に部活を行えないのは大きなハンディキャップになります。不審者の出没というだけでその対処はやりすぎではないでしょうか」

「発言はもっともだし、私もこれは特に運動部に対して大きなデメリットをもたらすものだということは重々承知している。だが、この措置は警察からの勧告に対し学校側が決めたものであり、我々としてはその決定に口をはさむ権限を持たない」

「続けて言います。学校側と生徒側の意見が対立した際にその仲裁を行うのが生徒会の役割だと、生徒会憲章にあります。だとしたら、ボクたちはここで生徒側の権利を守るために学校側と交渉するのが役割ではないでしょうか」

 トンボは食い下がらずさらに追及を続ける。
 カイコは持っていた蛇の目の紋の扇子で口元を隠しながら答えた。

「それももっともな意見だが、今回は学校側に従うことが、生徒にとって何よりも守らなければならない最善の利益を保護することにつながると確信している」

「何が出たんですか」

 トンボが問う。カイコはこれに不快そうに少し眉をひそめた。

「ただの不審者じゃないはずです。こんな対応は。一体何があったんですか。答えてください、蝶野会長」

「……」

 カイコは答えなかった。
 ただじりじりと不快感で相手を焦がすようなまなざしでトンボの目を見つめ返す。
 トンボはそれにも動じず視線をカイコからそらさなかった。

 タスクはその物々しい空気に耐えられず、携帯をいじろうと思った。
 要するにこの現状から逃避することを選んだのだ。
 ポケットに手を突っ込むと、何か携帯以外のものに手が触れた。
 タスクは不審に思ってそれを取り出す。

 タスクの手に握られていたのは銀色のライターだった。
 確かジッポーライターとかいう奴だ。
 でもどうしてこんなものがタスクのポケットに入っているのだろう。
 タスクも含めてタスクの家にタバコを吸う人間はいない。
 こんなものを拾った覚えも――。
 
 それに思い至った瞬間、タスクはヒュ、と息を飲んだ。
 そして机とイスを突き飛ばす勢いで立ち上がる。
 実際に机は前の席にぶつかった。座っていた男子がタスクを睨む。
 イスは勢い良く床に叩きつけられて、大きな音を立てた。

 教室中の視線がタスクに集まる。
 カイコも、トンボも、誰もが唖然とした顔をしていた。

「何事かね、坂崎君?」

 カイコが問う。

――どうしたんだろう。ボクは一体、どうしてしまったんだろう。
 そうだ、あの時だ。屋上から飛び降りて、その後。
『何か』を見た気がする。そして、このライターを掴んだ。

「篠塚君、すまんが坂崎君を保健室に送ってきてくれないか。顔が真っ青だ」

 トンボはキッとカイコを睨む。
 それは体よくこの空間からトンボを排除するための口実だったからだ。
 しかしそれでもトンボはそれに従った。そうする以外になかった。
 タスクはトンボに伴われて保健室に向かう。

 その間のことはタスクの記憶にはない。
 タスクの頭の中には、どうなったんだという疑問が飽和していた。

――ボクはあの後どうなったんだ。ピアノの失敗の後。
 ボクは、学校で、七色不思議の儀式を実行した。
 学校中を墨だらけの靴で歩いて。鏡にオレンジの絵具で落書きをして。
 でも途中で警報が鳴って逃げた。その後。

――誰もいないビルの屋上に上って、その後。

――飛び降りた。
 周りは真っ暗で、遠くに街の明かりが星のようで。
 風がなかったら宇宙だと思っただろう。無重力空間だと。
 内臓はふわりと浮き上がって。一瞬で一生を振り返った。
 そして、激痛が全身を襲った。その後。

 死を感じた。死ぬと思った。
 実際に――死んだ。死んだはずだ。
 後頭部から地面にぶつかって。
 その後ゆっくりと体が折れ曲がった。そして、その後。
 何かを見た。何かとても、恐ろしいものを。
 そしてこのライターを掴んだ。

――あれは確か。

――ボクは一体、どうしていた。どうなっていた。
Zippo lighter: the evidence of suicide
»»  2013.09.02.


 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。
 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。
 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。
 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。
 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。
 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の吉沢颯(ヨシザワ ハヤテ)が立っている。
 ならばカイコはこの部屋にまだいる。おそらく後ろを向いたその椅子に。
 トンボは迷いのない足取りでつかつかと机の前に向かう。
 声をかけようとしたその時、いきなり椅子が前を向いた。

「坂崎君はどうだった?」

 トンボが言うより早く、カイコが質問した。
 トンボは口まで出かかった言葉を飲み込むしかない。
 それが蝶野カイコという女の話し方だった。
 ことこういう場面では、カイコは常に相手のペースを飲む。

「国栖先生に任せました。タスクは心ここに非ずと言う感じでした。それで――」

「何が、出たか、と言うことだろう?」

 トンボが先を言う前にカイコが続けた。
 カイコは広げた扇子で口元を覆いながら試すような視線でトンボを見つめた。
 おそらく隠した口元は笑っている。トンボは少しイライラしていた。

「君にだけは本当のことを言っておこう。――吸血ジャックだ」

 ぴしゃりと扇子を閉じてカイコはそう言った。
 その名前にトンボは一瞬動揺する。
 それは、その名前は、吸血ジャックは――。

――連続猟奇殺人鬼、吸血ジャック。
 闇に隠れて人を襲い、殺してその死体を恐ろしく残虐な手段で『飾り付けて』見せびらかす。
 ある週刊誌がその煽り文句でこの殺人鬼を呼んだのがいつの間にか定着していた。
 確かすでに殺された人は見つかっているだけで九人。
 襲われてからくも生き延びた人はその倍はいるという。
 それだけの証言者がいながら、いまだ犯人は男性で、単独犯と言うことしかわかっておらず、正体は要として知れない都市伝説と化している犯罪者だった。
 トンボにとっては、忘れたくてもできない名前だった。

「いや、この言い方は正確ではないな。吸血ジャックの殺人なのではないか、と思われている痕跡が発見され、警察は周辺に警戒を呼び掛けていると言うべきか。本当のところはまだわかっていない。ただ、それが実際吸血ジャックだったなら、この学校は危険なのだ」

 わかるね、篠塚君――。
 カイコは静かに言って椅子から立ち上がる。
 ハヤテは無駄のない動作でその椅子をすぐに直し、自分とカイコの鞄を持った。

「カササギビル――そこで一人分の人間の致死量の血だまりだけが見つかっている。死体は見つかっていない。どのような方法でその血だまりを作ったのかもわかっていない。ただ、あまりに不審だし、何よりも去年のことがあるから、そういう判断がされた。いくら大会が近くても、居残りはダメだ。生徒会は生徒の命を何よりも優先する。――私はもうこの学校の生徒が死んだり殺されたりするところを見たくない」

 カイコはトンボの方を見ずにそう言いながら部屋を出る準備をしていた。
 そして、すれ違いざまに本当に小さく耳元で、すまない、とだけ呟いた。

「出るときは電気を消してくれたまえよ。急ぎたまえ、そろそろ一時間目の授業だ」

 カイコはトンボに背中を向けてそう言った。
 言葉が終わると同時にハヤテがドアを音もなく閉めた。

「間違っても――」

 ハヤテが閉め切る寸前でドアをぴたりと止める。
 カイコはその隙間からトンボの方を見ずに後ろを向いて続ける。

「間違っても、お兄さんのことと、去年この学校で起こっていたこと、そしてカササギビルのこと――他言してはならない。これは秘密だ、私と、君との。わかっているね」

 カイコがそれだけ言うと、ハヤテが完全にドアを閉めた。
 トンボはしばらくそのドアの方を見つめていた。
 吸血ジャックがまた出た。この近くで。
 兄を殺したあの殺人鬼が――。

 気がつくとトンボは握りこぶしを作っていた。その手の中がじんわりと汗で湿っている。
 始業五分前の予鈴が鳴った。
 トンボはそれを聞いて、慌てて荷物をまとめて生徒会室を後にした。

 タスクは、結局午前中はずっと保健室から戻ってこなかった。
 トンボは悶々としたものを抱えながら、そのままお昼休みを迎えた。

「トンちゃん、これから暇?」

 購買でパンを買おうとするトンボにタイチが声をかけてきた。
 その手にはカレーパンと焼きそばパンが握られていた。

「何?」

「タスクのお見舞い行こーよ。はい、好きな方選んでいーよ」

 じゃあ、とトンボは焼きそばパンを取る。

「珍しいな、タイチが人にパンを買うなんて」

「そう? 惚れ直した?」

 まさか、とトンボは笑った。惚れ直す以前に惚れてさえいない。
 ただ、タイチがトンボに好意を持っているのは確かなようで、ことあるごとにアプローチを受けているのは事実だった。
 初めこそ照れたりしていたが、二か月も経てばさすがに顔色一つ変えずに流せるようになるものだ。
 二人で並んでパンを食べながら廊下を歩いた。

「何だろーな、やっぱり昨日のこと気にしてんのかなー」

 タイチはカレーパンを口いっぱいに頬張りながら言う。

「昨日のこと?」

「うん、ほら、昨日、合唱部のコンクールで、タスク、伴奏やってたんだよ」

 ああ、とトンボは頷いた。
 確かそんな話をタスクに聞かされた覚えがある。
 本心か照れ隠しか、タスクがやたらと乗り気でないことを強調していたような。

「何かあったの?」

「ピアノ。上手くいかなくって。止まっちゃったんだよ。タスクにとってはきっと、すごくショックなことなんだろうな。多分それをまだ引きずってるんだと思う。昨日は終わり次第行方くらませちゃったくらいでさ、いつの間にか帰ってたみたいだけど。合唱部はそれでかなり迷惑したみたい」

 それでか、とトンボは朝のタスクの様子に納得した。
 カイコは確か合唱部の部長で、指揮者だったはずだ。
 顔を合わせづらい心境だったに違いない。
 とはいえ、それが理由で朝あんな風に唐突に具合を悪くするものだろうか。
 タイチは保健室に着くまでに食べちゃって、とトンボを急かした。
 腑に落ちないものを感じつつも、トンボはともかくパンを胃の中に詰め込んだ。

「失礼しまーす、坂崎君のお見舞いに来ましたー」

 保健室は開けた瞬間ひやりとした空気を感じるほど冷房が効いていた。

「あれ、どうしたんですか、国栖先生がタバコを吸ってないなんて。灰皿も空っぽじゃないですか。具合でも悪いんですか?」

 タイチもトンボも怪訝そうに顔を見合わせた。
 養護教諭の国栖は重症のヘビースモーカーで、校内は全て禁煙にもかかわらず、堂々と煙草を吸っていることで有名だった。
 いつものごとく、煙が霧のように充満しているかと思いきや、部屋に染みついたやに臭さ以外、たばこの残滓は全くない。

「お前な、学校は校内禁煙なんだから当たり前だろ」

「うわ、先生が自分から禁煙とか言い出すなんて。らしくないどころじゃないですよ。本当にどこか悪いんですか?」

 タイチは言いながら自分の額と国栖の額に手を当てて体温を比べる。
 国栖はそんなタイチに喧しいと渋面を作った。

 国栖は去年の四月末、養護教諭を務めていた女性教師が産休に入った折に、その代理で赴任し、その先生がそのまま寿退職してしまったので、彼もそのまま式部北高校の保健医として収まったらしい。
 口調は粗野で、態度も横柄なところがあるが、医師としての腕は確かで、ことさら性教育と称した猥談は男子から人気があったし、その辺は女子の中にも大人の魅力と称してうつつを抜かしている生徒も少なからずいる。

「お前ら、俺をおちょくりに来たんじゃねえだろ! 坂崎の見舞いなんだろ、ほらさっさと連れて帰れよこいつ。おう、坂崎、見舞いが来てるぞ、ちょっと開けるぞ」

 国栖はタスクの返事も構わずにベッドを仕切るカーテンを開けた。
 中から慌てたようにちょっと待って、と言う声が聞こえたが止める間もなくベッドの中に光が差す。
 その中を見て、トンボは慌てて後ろを向いた。

「うわうわ、ちょっと待ってって言ってるじゃないか!」

「何だぁ、坂崎、その格好は。なんかごそごそやってんなぁと思ってたら、お前、こんなところで」

 タスクは何故か全裸だった。
 ベッドの上でズボンもワイシャツも、下着さえも脱いで、その上から布団で体を隠している。
 顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。それはトンボも同様である。

「だから性の抑圧は体に悪いって言ってるのに……」

 タイチが呆れたように言うと、タスクは目に涙さえ浮かべて、違うって言ってるだろと大声で言った。
 とにかくカーテンを一度閉め、タスクが着替えるのを待った。
 数分して、タスクは顔を赤くしたままうつむいてカーテンから出てきた。

「何しに来たんだよ……」

 タスクは目線を下げたままぼそぼそと言った。

「お前なぁ、せっかく友達がお見舞いに来てやってるのに他にないわけ?」

「頼んだわけでもないよ……勝手に来たくせに」

 タスクの言葉にタイチは頭をがりがりとかいた。

「先生、こいつ大丈夫なの?」

「知らねーな。見たところ外傷はねえよ。精神的な問題なら俺は管轄外だし」

 国栖はパソコンで麻雀をやりながら興味なさそうに答えた。

「もう、ちゃんと仕事してくださいよ。タスク、お前大丈夫なら午後からは授業出ろよ」

「そうそう、松木の言う通り。つらいならさっさと帰るなり、平気ならさっさと授業行くなり、ずっと保健室にいられるのも迷惑なんだよ」

 国栖の言葉は到底保健室の先生とは思えない。
 そこが魅力だという人もいるのだが。
 タスクはその言葉に迷ったように唇を噛む。
 やがて小さな声で、先生、と国栖を呼んだ。

「……ボクの体、何ともありませんか? どこか折れてたり、欠けてたりしませんか? 本当にボクの体、ちゃんと元通りになってますか?」

 タイチもトンボもその言葉にタスクの方を向く。
 国栖も振り返って鋭い目つきをタスクの方に向けた。

「そりゃ、どういう意味だ? 何か体に異常が出る心当たりでもあんのか?」

「……信じてもらえないかもしれないけど、ボクは昨日、自殺したんです。ビルから飛び降りて、一度死んだはずなんです。首の骨が折れたのだって覚えてます。でも、ボクは今こうして生きてる。それが信じられなくて、裸になって体を確かめてたんです。先生、ボクはちゃんと生きてますよね?」

 タスクは真剣な様子で訴えた。その言葉に部屋は沈黙に包まれる。
 トンボは言葉の意味を計りかねた。タイチはわざとらしく大きな声で笑った。

「アーッハッハッハ! いくらショックだからって、その冗談はどうかと思うぞ、笑えないし……」

「松木」

 国栖が短くタイチを呼んだ。その声はさっきまでの軽薄で粗野なものではなかった。

「そこの衝立をここに持って来い。坂崎はここ座れ」

 国栖はパソコンをいじる手を止めて、雑然とした机からノートとペンを取り出した。
 タイチが衝立を二人の前に広げ、トンボからはその姿が見えなくなる。
 トンボはなるべく見ないよう、聞かないように隅の方にいた。
 しばらくすると二人がその向こうから出てきた。

「体に異常は見られないな。少なくとも触診では確認できない。で、何だ、その自殺か? 詳しい話を聞かせろ。何なら人払いをするが」

「あ、いえ、大丈夫です……」

 衝立から出てきたタスクは正面のテーブルの前に座った。
 対面して国栖が掛け、タイチとトンボは横に座る。

「昨日、何があった?」

「昨日は、みんな知っていると思うけど、全国高校合唱コンクールの埼玉地区予選があって、この学校の合唱部の伴奏者としてピアノを弾いていたんです。でも……」

 タスクはその先を言いよどむ。
 タイチの話では手痛い失敗をしたらしいが、それを認めて口に出すのはためらわれるようだった。
 そのことは国栖も知っているらしく、問題はその後からだろ、と促した。

「はい、ボクは多分、演奏が終わってステージを下りた後、動転してそのまま会場を抜け出して、全部なかったことになればいいと思って――学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行ったんです」

 タスクの言葉に、全員ぽかんとした顔を浮かべる。
 タイチは口を間抜けに開けていたし、トンボは何を言っているんだろうと思っていた。

「七色不思議って――お前あんなもん信じてるわけ?」

 タイチが呆れたように言う。
 トンボもその噂くらいは聞いたことがある。
 何でも美術室にある絵にこの学校の守り神みたいなものが描かれていて、それが夜な夜な抜け出しては悪戯をするとかいう話だ。
 それで確か、その守り神に願い事を叶えてもらうためにおびき出す儀式みたいなものもあって、タスクはそのことを言っているのだろう。

「具体的には、何をしたんだ?」

 いつになく、国栖は真剣な様子で聞いた。

「ボクは、学校に忍び込んで、上履きに墨汁をつけて黒い足跡を学校の廊下中につけて回って、オレンジ色の絵具で鏡に格子を嵌めるように縦横の線を引いたんです。そうすると、白いコートの女神は子ども達が悪戯をしていると思って絵から出てくるんです。そして、灰色の目隠しをして、もういいかいって叫ぶと、それが子どもの声だって思ってそっちに来るんです。そうやって女神をおびき寄せて、屋上まで行って、盗んできた鍵で屋上の扉を開けようとして、そこで警報が鳴りました。ボクは急いで逃げて、ああ、もうダメだともって――死のうとしたんです」

「死のうとした?」

「ビルから飛び降りようと思って高いビルに上って、フェンスもよじ登って、そしてボクは落ちたはずなんです。ちゃんと落ちた時の痛みも覚えてる! ボクは、死んだはずなんです!」

 タスクは声を荒らげて言った。国栖は落ち着けとタスクをなだめる。

「少なくとも俺の聞いてる範囲で、学校にそんな悪戯がされたってことは聞いてねえぞ」

「そうです。だからボクも夢だったんだって思ってたんです。コンクールのことは夢じゃないけど、その後のことは全部夢なんだって」

「夢じゃねえのか?」

 国栖がそう尋ねると、タスクはポケットからおずおずと何かを机の上に置いた。
 それは銀色のジッポーライターだった。

「ボクは死ぬ直前、飛び降りたビルの駐車場で、何か、とても怖いものを見たんです。その時、ボクは折れた手で、そこにあったこのライターに火を点けた。何を見たのか思い出せません。でもこのライターはボクのじゃない。ボクはライターなんか持ってないし、うちにタバコを吸う人もいません。これは、これがあるってことは、ボクが見たものが夢じゃないって証拠なんです」

 タスクは真剣な様子だった。
 それでも笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないかと怯えた顔をしていた。

「ねえタスク、そのビルって――」

 トンボは聞いた。何故か引っかかった。

「カササギビルだよ。ほら、北の住宅地にぽつんと立ってる……」

「それ――本当?」

「何だと?」

 タスクの答えにトンボと国栖は同時に反応した。
 おそらく同じものに思い至ったに違いない。
 タスクは二人の顔を驚いたように見比べた。

「うん、そこから飛び降りたんだよ……でも何?」

 タスクの問いに、トンボと国栖は顔を見合わせた。
 国栖は首を振って、トンボに話すよう促した。
 カイコに他言無用と言われたが、タスクの話が無関係には思えなかった。

「実は、カササギビルで、身元不明の、致死量の血だまりが発見されていて、大騒ぎになってる。朝、集会があったろ? 不審者とか言ってたけど、本当は吸血ジャックかもしれないからこんな大げさに居残り禁止とかしてるんだよ」

 タスクが行ったという自殺。それと前後して見つかったカササギビルの血だまりの後。
 関係がないわけがない――。トンボはそう思った。
 トンボがそれを言うと、不意にタスクが白目をむいた。
 かと思うとそのまま崩れるように床に倒れた。

「タスク――!」

 トンボとタイチが駆け寄るより早く、国栖がそばに座り肩に手を当て、声をかけた。

「松木ぃ! 救急車を呼べ! 篠塚は職員室から他の先生を呼んで来い!」

 言われるままにタイチもトンボも保健室を駆け出る。
 
 タスクはそのまま病院に搬送された。
 トンボは去って行く救急車を遠くから不安な心持で眺めていた。

「トンちゃん、もう授業が始まっちゃう」

 タイチが後ろからトンボの肩をたたいた。
 付き添いには国栖が行った。トンボはタスクのことが気がかりだった。

「大丈夫、タスクはああ見えてすんげぇしぶといから」

 タイチは多分、トンボを安心させるために笑って言った。
 トンボもそれが分かったから、うん、とそれに従った。
 救急車のサイレンが遠ざかっていく。
 その音は、あのクリスマスの朝に響いていたものと何一つ変わらない。
 兄が死んだあの朝も、トンボは中学校の道を走る救急車の音を聞いていた。
 あの時トンボは何一つ心配していなかった。
 
 でも本当は、何かに気付くべきだったのだ。
 その音は間違いなくトンボにとっては危険を知らせる警鐘だったのだから。
 今も、その同じ音が何かを告げている。
 きっと悪いことが起こる。それもトンボの予想をはるかに超えて。
 トンボはそんな不安を抱えたままタイチに背中を押されるように教室に戻った。
Infirmary: Moratorium and Dragonfly visit The Suicide
»»  2013.09.02.
【火曜日】



 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。
 学校に行く気には到底なれなかった。

 当然、平日である。六月に祝日はない。
 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。
 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。
 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。

 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。
 搬送された時点で意識は取り戻していたが、付き添いの国栖が勧めたこともあり、一日精密検査を受けるために入院することになったのだ。
 レントゲンなどの検査は昨日のうちに済んでいた。
 今日はMRIや脳波測定など、タスクは一生受けることもないだろうと思っていた検査が行われる。
 それと合わせてこれまた一生受けることはないだろうと思っていたものがあった。
 カウンセラーによる精神鑑定のテストである。
 
 それは国栖が受けろと言ったものだったが、タスクは半ば自分からそれを受け入れた。
 確かに自分は精神を病んでいるのかもしれない。それもかなり深刻に。

『嫌だなぁ、ボクはそんなものじゃないよ。脳機能の障害なんかと同列視されるのは不快の極みだね』

 くすくす、くすくすと頭の中をくすぐるように笑い声がコロコロと移動する。
 それだけでタスクは気が狂いそうなほどもどかしい気持ちになる。
 今すぐに脳みそを取り出してきれいな水で洗って欲しいくらいだった。
 昨日、救急車の中でタスクの目を覚ましたのは救急隊員の呼びかけではない。
 この頭の中から聞こえる、得体のしれない何者かの笑い声だった。

 最初は聞き取れないほど小さかった声は、今は不快感を伴わなければきっと、タスクはそれが外からのものか区別できないほどはっきりと、大きなものになっていた。

『声』が笑う。
 タスクはベッドの中で思わず布団で頭を覆った。
 そんなことをしても頭の中からの声には全く無力なのに。
 それを見透かしたように声はさらに笑った。

――君は、誰だ。

『ボクは君、君はボク、ボクの名前は――』

 タスクはいつもそこから先を聞き取ることができなかった。
 それは何かに集中している時に聞こえている音が、耳には入っているけれど記憶に残らない感覚とよく似ていた。
 タスクはその言葉を聞き取っている。聞こえているのはわかる。
 でも理解できない。記憶に留めておけない。

『声』は頭の中で落胆したようにため息をついた。

『なんて掌握しにくい素体だろう。存在を同一化すればすぐに同調できると思っていたけど、まさか“認識”してもらわないとこちらとしての存在の体裁が保てないとは……。つくづく世界の乖離を思い知らされる。この世界は思う以上にずっと物質に依存しているんだ』

『声』はわけのわからないことをずっと呟き続けている。
 ただ、それはどうやら目的が達成できない不満であるようで、どうやらその目的はタスクにとって好ましくないことであることは確かなようだった。

「気が狂いそうだ……」

――いや、もうとっくに狂っているのかもしれない。 

「坂崎さん、検査ですよ。……大丈夫ですか? どこか痛いんですか?」

「……大丈夫、です」

 布団から顔を出すと、心配そうに覗き込む看護士と目があった。
 大丈夫なわけがない。自分はおかしいのだ。誰か気付いてくれ――。
 タスクは祈るような気持ちで視線にありったけの思いを込める。

「そう? 我慢しないで言ってね? 立てるかな?」

「はい……」

――視線で思いが伝われば苦労はない。
 あらゆることにおいて気持ちを正直に伝えられないことで悩むタスクが一番よくわかっていることだった。
 案の定看護士はそのままタスクにカルテを渡して検査の場所を案内するとそのまま行ってしまった。

『無理はしない方がいいよ、タスク』

 また声が頭の中を駆け巡った。タスクはその声を頭から引きずり出したくて、髪の毛をぐしゃりと掴んだ。
 もちろんそんなことをしても何の意味もないが。

『まだ見えないんだね。やっぱり相性が悪いのかなぁ』

 くすくすと笑う声に、タスクは黙れ、と頭の中で念じる。
 すると一旦は声の方は静かになる。
 それはつまりこの何者かが確かにタスクの内側に存在していることを示していた。
 念じるだけでは思いは伝わらないことは、さっきの看護士が示している。
 ならば念じることで通じるこの声は一体――。

「それを確かめるための検査なんだろ……」

 タスクは気を張るように自分の頬を両手で二度叩いた。
 そして検査室の受付に、カルテを出した。

 午後の検査が終わった時には、既に四時過ぎだった。
 結局異常も見つからなかったタスクは、このまま親が迎えに来たら帰る予定で、すでに着替えも終え、普段着を着ていた。
 相も変わらず雨は降り続いている。
 病院の中庭のアジサイは、きれいな青色をしていた。
 ぼんやりとそれを自販コーナーの前のソファに座って眺める。

 タスクは自分の経験や、幻聴に関しては医者に言うのを控えていた。
 いや、言えなかったというべきか。
 それを言うことで自分に何がされるのかを考えると怖かったのは事実だ。
 何か目に見える形ではっきりと、たとえば脳に異常が見つかるとか、あるいは心理検査で決定的な欠陥が見つかるとかすれば、言えたかもしれない。
 しかし、あいにくと言うべきか、幸いと言うべきか、そういうはっきりとした形での異常は、タスクには見られなかったのである。
 だからタスクは言えなかった。自殺のことも、『声』のことも。

「あれ? 坂崎じゃないか。どうしたんだ? どっか悪いのか?」

 そんな声に振り向いてみれば知り合いが立っていた。
 大柄なシルエット。
 短めのスポーツ刈りと、いかにも健康ですよと言わんばかりのがっしりした熱い胸板。
 小柄なタスクからするとずいぶんと背の高い、日に焼けた少年だった。
 右目の下の泣きぼくろは本人によるとトレードマークらしい。

「……桜木陽介(サクラギ ヨースケ)先輩」

「なんでフルネーム?」

「いえ、別に……何となく」

 ヨースケは式部北高校の陸上部所属の二年生である。
 タスクとは直接の交流はない。
 ただ、陸上部のトンボと、タイチと三人で一緒にいると、何故か世話を焼いてくれる。
 ファストフードなんかをおごってもらったことも一度や二度ではない。
 タスクの知り合いである。タスクが知っていて、相手もタスクのことを知っている。
 そんなことは当然なのに、どうしてだか確認するようにフルネームで呼んでしまった。
 自分は坂崎タスク、相手は桜木ヨースケ。
 タスクは確かめるようにヨースケの顔を見つめて、頭の中で何度かその名前を唱えた。

「大丈夫か、顔色悪いぞ?」

「ちょっと調子が悪くて、検査入院です」

「ああ、そう言えば昨日の救急車、坂崎が運ばれたんだって? どうせ日曜日の件が堪えてるんだろ?」

 いきなり図星をついてくる言葉に、タスクは思わずヨースケの顔を睨み付けた。
 この男もやはり――知っているのだ。
 ヨースケはといえば、別段責めるようでも嘲るようでもなかった。
 ただいつものように朗らかな春の太陽のような、明るい大きな笑みを浮かべていた。

「坂崎、もしかして、無理してない?」

「どういう……意味ですか」

 この男は――苦手だ。
 底抜けに明るくて、嫌になるくらいポジティブだ。
 人の心にもずかずかと入り込んでくる図々しさを持っている。
 正論ばかり言うし、目を背けていたいことにも強引に顔を向かせる。

「本当は、ピアノ、やりたくないんじゃないかと思って」

 タスクはその言葉に心臓を掴まれたような胸の苦しさを覚えた。

「そんなこと……」

 ありませんという言葉はついに口から出ることはなかった。

「あれぐらい気にすんな坂崎、俺は小学校の頃、運動会のリレーのアンカーで転んだ拍子にズボンとパンツが脱げてフルチンで走ったくらいだからな。しかもそのビデオを後で母さんに見せられるときの恥ずかしさと言えば、とても口で言い表せないぞ」

 ヨースケは明るい声で笑った。その声は無性にタスクの心をかき乱した。
 頭の中の『声』とは全く別の意味で、タスクの精神を踏みにじる。
 タスクの失敗は、そんな微笑ましいものと同列に語るべきことではないのだ。
 タスクにとって、そう扱われることはひどく腹立たしく思えた。

「坂崎?」

 名前を呼ばれてハッとする。
 考えれば考えるほどイライラするような気がした。
 これ以上この話題に触れられるのはよくない。

「……先輩は?」

「いや、俺は好きで……」

「いえ、なんで病院に? 練習で怪我でも?」

 タスクは半ば強引に話題を変えた。
 見たところヨースケはいつも通り、健康そのものといった様子だ。
 少なくともどこか悪いようには見えないし、トンボからそんな話を聞いた覚えもない。

「母さんの身体が弱くて、入院してるんだ」

 ヨースケは話題をそらされたことに構う様子もなく、素直に質問に答えた。
 ヨースケにしてみればこれは世間話で大した話題ではないのだ。
 それはそれで、自分のことがどうでもいいと言われているようで少し腹が立った。

「今はそのお見舞いの帰り」

「はぁ……それは、その、大変ですね」

 月並みなことを言いながら、聞かなければよかったと思った。
 ヨースケは見た目と同様に、何一つ歪んだところのない健やかな人生を送っていると思っていた。
 それだけに、親が入院しているというのは予想外で、タスクは何だか勝手に気まずい気分になった。

「最近はだいぶ落ち着いてきたからそうでも無いけどな」

 ヨースケはあっけらかんと答える。
 どうやらあまり気にしている様子はない。
 タスクはそれに少しだけ安心する。

「ヨースケぇ、おれもジュースほしい」

 突然、低い位置から声がした。
 ヨースケの少し後ろに男の子がヨースケの服の裾をぎゅっと握って立っている。
 歳は五歳くらいだろうか。背丈はヨースケの腰あたりまでしかない。
 あどけない無垢な顔立ちと、つむじのあたりの一房上を向いた髪の毛が可愛らしい。

「その子は……? 先輩の?」

 肌の色は真夏でもないのに、ほとんど焦げ茶色をしている。
 よほど外遊びが好きなのだろう。
 黄色い雨合羽に、同じ色の長靴を履いていた。
 自分が長靴など履いたのは、一体いつが最後だろう。
 もうきっとあの長靴は、タスクの足には入らない。

「ん? ああ、こいつは――知り合いの子で、ちょっとうちで面倒を見てるんだ。ジュースはまた今度な、ほら、タスクおにーちゃんだ、あいさつしな――」

「クロ……ト」

 ふいにタスクの口から言葉が漏れた。
 後から黒人(クロト)と書くのだと頭が理解する。
 ヨースケが怪訝な顔をする一方で、呼ばれた子どもは顔に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

「そうだよ! タスクおにーちゃん、こんにちは!」

「こ、こんにちは……黒人君」

「何だ? 二人は知り合いか?」

 ヨースケは意外といった表情で、タスクの方をまじまじと見ている。
 だが、タスクは驚いたなどと言ったものではない。

――知らない子どもだ。タスクに幼児の知り合いはいない。
 知らないはずだ、初めて会うはずだ。
 でもタスクは、この子どもの名前を知っていた。
 黒人なんて名前は聞いたことも見たこともない。
 それなのにわかった。直感した。一体何故――。 

「そーだよ! いつも一緒に遊んでもらったもん!」

――清流に魚が泳いでいる。裸んぼの子どもが楽しそうにそれを眺めている。
 きっとさっきまでそこで泳いでいたのだろう。
 ボクは後ろからその子に近付いてその体をふかふかの布で包む。
 甲高い笑い声が布の中で響いて、ボクはごしごしとその子の体を拭いていく。
 男の子がばあ、と布の中から顔を出した。黒人だ。そして、ボクは――。

 何だ、この記憶は――。それはタスクのものでは到底ありえない。
 タスクが知らない、経験したことのない記憶だった。
 でもその中に、黒人がはっきりと出てきている。
 黒人の笑顔、泣き顔、ふくれっ面。笑い声、泣き声、歓声、嬌声――。
 そんなものが溢れてタスクの記憶を圧迫する。

 里山の風景、薄桃色の花が咲き乱れる村、きれいな川があって、秋には森にたわわに木の実が実る、桃源の園――。

 タスクは大きくうつむいて頭を押さえた。ヨースケが怪訝そうに近づく。
 頭の中の声は、頭蓋を破るほどに大きく叫んで。
 それがタスクの中のタスクの人格を消していくようだった。

――ボクは誰だ。ボクハダレダボクハダレダボクハ――。

「ね、『ハイネ』」

 黒人が満面の笑みを浮かべて、名前を口にした。

「……ああ、そうだったね、黒人」

――灰音。

 そうだ、それがボクの名前だ。ボクは君だ。君はボクだ。ボクは、灰音。
 鴉のしもべ、十二の色の名を冠す鬼の一介――灰音。
 ボクはすっかり調子を戻して、黒人に笑いかけた。

「お、やっと笑った」

 ヨースケが言う。笑わないではいられなかった。
 それほどに誇らしく、すがすがしい気分だった。

「なんかずいぶんつらそうな顔してぜ? 『人間、笑ってる方が楽しいに決まってる!』ってな。病院の知り合いの爺さんの受け売りだけどさ、やっぱ笑った方がいいぞ」

 笑った方がいい、か。
 確かに『坂崎タスク』のように陰気を振りまいて過ごすよりはよほど周りに与える印象はいいだろう。
 人間はどうやら、しかめっ面をしている人間には警戒心を示すらしい。
 ならば笑顔はそれを解く意味でも大切なものだ。

「……ありがとうございます」

「ん? 俺、何かしたか?」

 ヨースケは不思議そうに首を傾げた。
 この男は自分が何をしたのか、『坂崎タスク』にとって何を導いたのかわかっていないだろう。
 黒人自身さえ、よくわかっていないと思う。それを考えるには黒人はあまりに幼い。
 それでもこのヨースケの出会いが、ボクの意識の構築の一助になったのは間違いない。
 おかげで――タスクを掌握することができた。

「よくわかんないけど……ま、元気が出たんならいいや。早いとこ学校来いよ、トンボが寂しがってる」

 にしし、と笑いながら「家まで競争だ!」とヨースケと黒人は帰っていった。
 どうやら黒人はあの契約者と友好的な関係を作っているようだ。
 そういうやり方は確かに意味がある。
 この世界における主体が、ボク達ではなく人間やこの世界の生き物にある以上、契約者の主体性は残しておいた方が、都合がいい面も多々あるだろう。

 でもボクはそういう悠長なことはしてられない。
 一刻も早く鬼としての本分を全うしなければならない。
 人柱を立て、その命を鴉のために捧げなければ。
 もう相手は決まっている。坂崎タスクの幼馴染、松木タイチだ。
 一日タスクの中に入って、学校には非常に強力な結界が張ってあることに気付いた。
 あの中ではボクたちは存在していられない。
 でも焦る必要はない。タスクとタイチの距離は、ごくごく近いものだ。
 殺す機会はいくらでも訪れる。
 人間の分際で世界の理の領域に足を踏み入れたならず者――あの、松木を。その子孫を。

Hospital: The Sun and Black wake up Gray in Suicide
»»  2013.09.02.


――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。

 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。
 ホームルームの進行と学級日誌の編集。
 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。
 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。

 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当を作ってきてくれているのは事実だった。
 もともとタスクは誰かに料理を振る舞うことが好きらしい。
 家でも朝食と夕食、そして弁当をいつも家族の分作っているそうだ。

 基本的に高校に給食はない。
 そんな中、万年金欠のタイチは昼食も食べずにお金を節約していた。
 その様子を心配したタスクが、タイチの分の弁当を持ってくるようになった。
 ちょうどその頃、トンボが風邪で欠席した時、タスクは家を訪ねてくれた。
 それはそれで一つ笑い話があったのだが、それ以来、タスクはトンボがいつも菓子パンばかり食べているから体調を崩すのだと、トンボにまで弁当を作ってくれるようになった。

 だからタスクがいない今日のような日は、トンボはパンを買わざるを得ない。
 タイチはそれならお金がもったいないと、何も食べないことが多かった。
 それから考えれば、昨日のことはタイチにしてみれば破格の好意だったかもしれない。
 何しろ自分ののみならず、トンボの分までパンを買ってくれていたのだから。

――お弁当だよ、トンボ。

 ふ、と耳に懐かしい声をトンボは思い出していた。
 遠足の時、お花見に行く時、必ずお弁当を作ってくれた、懐かしい兄の声。
 トンボは兄のお弁当が大好きだった。
 思えばタスクの料理はどこか、兄の料理によく似ている。
 特に卵焼きが、毎回中身にそぼろやホウレンソウを巻くところは全く一緒だった。
 もう二日、タスクの弁当を食べていない。
 トンボは日誌を閉じ、わきに置いた鞄を机の上にあげた。
 本当にタスクは、大丈夫なのだろうか。

「トーンちゃーん! あ、いた」

 そんな風に黄昏ている所に間抜けな声が響き、乱暴にドアが開けられた。
 タイチだった。

「ねえタイチ、そのトンちゃんって言うのやめてくれないか?」

「え? 何故に?」

「何かその……恥ずかしいじゃないか」

 トンボが言いにくそうに、その浅黒い肌がほんのりと染めながら言った。
 それを見たタイチは腹を抱えて笑った。

「な、何だよ! そんなに笑うところじゃないだろ!」

 トンボはただそのあだ名が、何とも子供じみていると言いたかっただけである。
 大体クラスの男子も女子も篠塚、あるいは篠塚さんと呼ぶ。
 親しい陸上部などではトンボと呼び捨てにされることも多いが、トンちゃんとちゃん付けで呼ぶのは学校ではタイチだけで、学校の外でも姉だけが使う呼び方だった。
 さすがに十五歳にもなって、ちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしいものがある。

「いや、トンちゃんかわいいなって」

「なっ」

 その言葉になおもトンボは赤面する。
 するとタイチはまた声をあげて笑う。
 どうやらトンボの顔が赤くなるということが、タイチには面白いらしい。
 いい加減腹立たしいので、タスクがいつもするようにタイチの後ろ髪を引っ張ってやる。

「痛いいたい。もうひどいなぁトンちゃん。ここはたまたまの次に大事なところなんだから優しくしてほしいよ」

「た、たまたまって……」

 さりげなく下ネタを混ぜてくるタイチに三度赤面する。
 またもやタイチは大笑いした。
 さすがに悔しくなって張り手でもくらわそうと思った時である。

「やれやれ、楽しいのは結構なんだがね」

「……あ、……会長」

 ドアの前に立つ女子は蛇の目の紋が入った扇子で優雅に口元を隠しながら、くすりとその向こう側で笑い声を漏らした。
 生徒会長の蝶野カイコだった。バカにされたようで、トンボは少し腹が立った。

「五時には完全に帰宅するよう、指示を出したはずだが。はて、率先して生徒の規範となるべきクラス委員がその禁を破っているとは。あまつさえその理由が男子生徒と談笑にふけっていたから、なんて。少々落胆させられたかな、君はもう少し、模範的な人間だと思っていたのだが、篠塚君」

 顔を背け目を伏して、芝居っ気たっぷりに扇子の後ろでカイコはため息を吐きながらトンボ達の方に歩み寄った。

「今、学級日誌を……」

 提出しに行こうとしたところです、と言おうとした先に、トンボの眼前にカイコは扇子を突きつけた。
 トンボは言うに言えずに言葉を飲み込む。

「一年五組の学級日誌、確かに私が預かった。しかし、今後は休み時間内に仕上げておきたまえ。クラス委員であれ、学級日誌を残すためであれ、居残りは禁止だ」

 カイコは扇子を降ろしてトンボから少し強引に学級日誌を取る。
 最初から渡すつもりだったのに、無理に奪われたようで、トンボは気分を害した。

「坂崎君は休みか。ああ、そうだ、篠塚君。明日彼が学校に来たら、お昼休みに生徒会室に来るように伝えておいてくれないか。話があるのでね」

「ご自分で……」

 お伝えになっては、という前にカイコはトンボの顔の前に扇子を広げた。
 二つの蛇の目が睨むようにトンボを射すくめる。

「くれぐれも、頼んだよ。では用が済んだら早々に帰りたまえ」

 囁くように言って、カイコはさっと後ろを向き、そのまま部屋を出ていく。
 背後に従っているハヤテは静かにそのドアを閉めた。

「生徒会長、蝶野カイコ。……何だか芝居がかった人だなぁ」

 その様子をぽかんと見ていたタイチが零した。
 芝居がかった、じゃなくて芝居なのだ。
 トンボは少なからず一年前のカイコを知っている。
 兄が生徒会の会計で、カイコが書記だったからだ。
 それ以前に兄とカイコは幼馴染だった。
 そして、トンボの記憶に残るカイコという女は、ああいった性格ではなかった。
 彼女は豹変した。おそらくちょうど、兄が死んだ時期から。

「いや、あの人の言う通りだ。早く帰ろう」

 一刻も早く、あの女がいる場所から離れよう。
 それだけを考えてトンボはつかつかと廊下を歩いた。
 タイチがやかましく何かを話しかけていたが、適当に返して中身までは意識しない。
 いつも兄のそばにいた蝶野カイコ。兄の隣で所在無げにおどおどしていた女。
――兄を救えたかもしれないのに、みすみす救えなかった女。
 トンボはカイコのことが嫌いだった。
 もしかしたらその嫌悪感は自分に向けられるべきものだったかもしれなかったけれど。

「トンちゃーん、もう、何ぷりぷりしてんだよ」

 トンボはぷりぷりしてないとそっけなく言って速足で道を歩く。
 雨上がりの夕焼けは怖いくらいに真っ赤だった。
 道にはあちこち水たまりができていて、いちいちトンボの進路をふさぐ。
 またいだりよけたりしているから、さっさと通り過ぎたいのにちっとも思うように進めない。
 十字路を通り過ぎようとしたときにタイチが唐突に手を握った。
 この道をまっすぐ行くと駅前に出る。
 左に曲がるとトンボの家の方に、右に曲がると例のカササギビルがある北市街に続く。

「こっちだよトンちゃん」

 トンボの手を掴んで、トンボの家とは逆歩行にタイチは曲がり角を右に曲がる。

「タスクのお見舞いだろ?」

 タイチがそう言うのを聞いてトンボは思い出した。
 今まで頭に血が上っていて、目的を忘れていた。
 トンボの鞄にはリンゴが入っている。姉が持たせたものだ。
 お見舞いにはリンゴよね、と。

 思い出してぼーっとしているうちに、タイチはトンボの手を引いて走り出していた。
 水たまりもぬかるみもお構いなしで、まっしぐらに病院に向かう。
 着いたころには二人とも靴と言わず、ズボンが泥だらけになっていた。

 受付で病室を尋ねようと思ったら、尋ねるまでもなくタスクを見つけた。
 会計前の椅子に座って、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。
 服装はパジャマや入院服ではなく、私服である。

「あれ、もう退院?」

「……松木、タイチ」

 挨拶もせずタイチはタスクに言った。
 タスクはタイチの顔をまじまじと見て、小さな声でその名を呼んだ。
 トンボは何かその様子に違和感を覚える。

「どこも、異常なかったんだろ? っていうか、本当は具合なんて悪くないんだろ」

 くすくす、くすくすとその音はどこから聞こえたものだろう。
 トンボはそれがタスクの口から、タスクが笑っているその声だと気付くのに時間がかかった。
 不思議に思うか思わないか――その刹那。
 タスクはこれまでにトンボが見たことのないひどく歪な笑みを浮かべてタイチの喉を掴み、そのまま馬乗りに床に押し倒した。
 タスクが座っていたソファが弾かれて大きな音がした。足が一本折れて傾いている。
 周りの人が一様にそちらを向いた。みんな目を丸くしている。

「タスク! 何を……」

「くくぐぐぐ! ぐげげげげ! げぎゃぎゃぎゃぎゃ! 松木、タイチ! カラスを縛る、血脈の裔! 見ててよカラス! 見ててよみんな! 松木の子どもを、ボクが殺すよ! ぐげぎゃぎゃぎゃ!」

 タスクはトンボが聞いたことのない奇妙な声を出して、訳の分からないことを叫んだ。
 その手に青筋が浮き出るほどの力を込めて、タイチの喉を握り締める、いや、握りつぶそうとしていた。
 タイチは激しく足を動かし、タスクの腕を離そうと掴む。
 タイチの口からはあぶくが出ていた。
 トンボは実際に人が泡を吹く様子など初めて見た。
 その喉からはカエルの鳴き声のような音が聞こえていた。

「タスク! やめろ! 何やってるんだ!」

 トンボは慌ててタスクを引きはがそうとする。

「やめろタスク! ――痛っ!」

 途端に、その手に鋭い痛みが走った。思わず手を引いて、噛まれたのだと気付く。

「タスク……?」

 目の前のタスクは笑いながら、その喉からタスクの声とも思えないひび割れた音を喚かせながら、タイチを絞め殺そうとしている。
 そして両手が使えないからと、止めるトンボの手に噛みついた。
 その行動は絶対に正気の人間のすることではない。
 トンボは友人の豹変に慄然とした。

 恐怖に動けないトンボの隣を大きな影が横切った。
 トンボはそれに見覚えがあった。
 大人にも見劣りしない長身、隆々とした逞しい胸板、日に焼けた肌、そして、右目の下の泣きぼくろ――桜木ヨースケだった。陸上部の先輩の。

 ヨースケはいつの間にかできたタイチとタスクを囲む人ごみの中にいきなり割って表れたように走り出て、トンボが止める間もなくタスクのその顔に膝蹴りをブチ込んだ。
 会計のそばで女の人の悲鳴が上がる。
 多分タスクのお母さんの声だ、とトンボはどこか冷静に思った。

「タスクのおかーさん、ごめんなさい!」

 ヨースケはそちらも見ずに大きな声で言った。
 膝蹴りにタイチの首から手が離れたすきをヨースケは見逃さず、そのままタスクの襟首を掴んで床に叩きつけた。
 受け身だってまともに取れないタスクは頭からリノリウムの床にぶつかった。

「ヨースケ先輩! どうして……!」

「よぉトンボ、なーんか嫌な予感がしたから、戻って来たんだけど案の定だったな。俺にしてみればお前がどうしてって感じだけど、とりあえず松木を頼む。『アレ』はお前達の手に負えるものじゃない」

 言われてようやく気付いて、トンボはタイチに駆け寄った。
 タイチはうっすらと涙さえ浮かべて、大きく咳き込んでいた。
 長い髪の毛の乱れ方と、その首にくっきり残る手の後が、タスクがやったことの恐ろしさを物語っていた。
 トンボはとにかくその背を擦る。

「っげほ、げっほ、ごほごほ! っかは、はぁ……」

「大丈夫? タイチ、立てる?」

 トンボはタイチのそばに膝を立ててその体を起こすのを手伝った。
 その間も、視線は床に倒されたタスクから離すことができなかった。
 タスクは膝蹴りでしたたかに鼻を打ちつけたらしく、赤いものが滴っていた。

「ぐぐぎ、ぎぎぎ……」

 床から立ち上がることのできないタスクがヨースケの方を向いて手を伸ばした。
 苦しそうにもがいて、助けを求めるように。
 眉をしかめ、口をゆがめる――その顔が、ふっと笑った。
 その瞬間、トンボはわが目を疑った。タスクの体が、ほんの一瞬だが、燃えた。
 本当に一瞬、アニメーションに一コマだけ入れられた関係ない映像のように、それでもトンボの目は確かにとらえた。タスクの体を焼く、色彩のない灰色の炎を。

 しかし、次に気付いた時には炎は消えていた。
 消えていたのは炎だけではない。タスクの鼻血もなくなっていた。
 見間違いだったのだろうか、とトンボは思った。
 あまりのことに、自分も動転している。
 それははっきりとわかっていた。自分は今、冷静では決してない。 
 そしてタスクは、呆然とした顔で床から起き上がった。

「タイチ……? 篠塚? ……桜木先輩? 何、この人だかりは……? 何でみんな、こっちを見てるの?」

 タスクはとんちんかんなことを口にした。
 今しがたタスクが行った凶行は、ここにいる全ての人間がはっきり見ている。
 しかし、当の本人は本当に覚えがないように立ち上がってトンボ達に近付いてきた。
 その方向にいた人垣はタスクから逃げるように散らばる。
 座り込んだままのタイチとトンボ、そしてその前に立ちふさがるヨースケだけが残された。

 タイチもトンボも、思わず身構える。
 ヨースケは二人をかばうように、タスクの進路をふさぐように両手を広げた。
 タスクはその様子に足を止めた。

「何で二人ともそんな目でボクを見る? 一体これは……」

 タスクの顔は徐々に状況を理解し出したのか、怯えたように目が開いていく。
 その時、人垣を割って男の看護士がストレッチャーを引いてくるのが見えた。
 体格のいい男達が三人、タスクに近寄っていく。

「ダズグ!」

 タイチがまだ濁った声で叫んだ。

「逃げろ!」

 その言葉に弾かれたように、タスクは一目散に病院の入り口へ走って逃げだした。

「あ、君! 待ちなさい!」

 看護士が叫ぶ。一方でタイチの隣にも別の看護士が近づいていた。

「追うぞ、トンちゃん!」

 タイチは立ち上がり、看護師の手を避け、トンボの手を引いてタスクの後を追いかける。
 トンボは後ろを振り返って、ぽかんとしているヨースケに言った。

「先輩! あとのことよろしくお願いします」

 逃げ出した三人を、口を開けたまま見送ったヨースケは、改めてその場にざわめく人々を見た。
 その顔は困惑や不安、恐怖に歪んでいたり、または楽しそうな表情をしていたりと様々だったが、一様にヨースケの方を向いて、説明を求めるような顔をしていることでは同じような顔だった。

「えーっとぉ……」

 ヨースケは頭をぼりぼりと掻いて困ったように笑う。とりあえずヨースケは――。

「この度はみなさん、ご迷惑をおかけして、真にすみませんでした!」

 ひたすら謝り倒すことにした。
The Evil Gray: Why do The Sun and Black defend Moratorium?
»»  2013.09.02.


 タスクはひたすらに走っていた。
 走りながら思い出していた。
『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。
 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。

 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。
 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。
 二人はタスクをどう思っただろう。
 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思われたに違いない。

――違う、あれはボクじゃない!

 誰が信じるだろう。タスクの意識が幽霊か何かに乗っ取られていただなんて。
 タスクは自分がどこにいるかなんて全く分からないまま、ただがむしゃらに走った。
 とにかく、誰もいない場所へ、誰にも見つからない所へ――。

 いつの間にかタスクは誰もいない街角に紛れていた。
 一軒家が並ぶ住宅街、家々を囲むのは灰色の塀だった。
 道路のアスファルトも灰色、電柱も、空に浮かぶ雲さえ青味がかった灰色をしていた。
 灰色に囲まれた道。その一角で足が、不意に止まる。
 そしてタスクは、ようやくそこがカササギビルの前であることに気付いた。
 住宅街は月曜日の朝に見つかった惨劇の痕跡に怯えているのか、人っ子一人いない。
 夕闇に浮かぶ大きな影はまるで墓石のようだった。

 タスクはフラフラとそのビルに近付いた。
 そしておそらく駐車場になっている一階の正面の入り口の前に立つ。
 そこはタスクが飛び降りて死んだまさにその場所のはずだった。
 血だまりが見つかったというのも、おそらくここだろう。
 しかしもう警察が後始末をしたのか、それらしい痕跡はどこにもなかった。

 タスクはその地面に跪き、手をついた。

「タスクー! はぁ、はぁ、タスク!」

 後ろから、息を切らしたタイチとトンボがやって来た。

「……死んだんだよ」

「え?」

「ここで死んだんだよ! 日曜日! ボクは、ここで、ここから飛び降りて、ここに落っこちて、死んだんだよ! 自殺したんだよっ!」

 タスクは大声で叫んだ。ダン、と地面を握りこぶしで叩き、頭をそこに打ち付ける。
 痛みが走る。こんなことをすれば、体が壊れてしまうと思った。

――いや、壊れてしまえ。壊れるべきなのだ。だってボクは、もう死んでいるんだから。

「これは何だ! どうしてボクは生きてるんだ! 頭の中の声は誰だ! お前はボクをどうしたいんだ!」

「止めなよタスク……」

 タイチは地面をたたき続けるタスクの腕を思わず掴んだ。
 タスクはそれに振り返り、タイチの顔を見ると、必死の形相で迫る。

「ああ、タイチ、さっきはごめん、あれはボクじゃないんだ、ボクの中にいる何かがボクの体を乗っ取って、でもひどいよな、怒ってるだろ、そうだタイチ、怒ってるならボクを殺してくれないか……」

「ちょ、タスク、落ち着けって……」

「落ち着け? どうして落ち着いてなんていられるか! こうしている今にも、ボクは君を、君達を、殺すかもしれないんだぞ! 早くボクを殺し――」

「止めろ、タスク」

 その声はトンボのものだった。
 しかし本物の男のように、低く、威圧するような声だった。
 タスクはトンボの顔を見上げる。
 トンボはその襟首を掴んで、無理やり立たせる。
 そして一発、タスクの頬を殴った。

「友達に、殺してなんて頼むな」

 押し殺すような声でトンボはそう言って、タスクの肩を思い切り抱きしめた。

「わかるよ、タスク。今、タスクの中で、とても恐ろしくて、でも誰にもわかってもらえない大変なことが起こってるんだろ」

 トンボの手がタスクの頭を撫でるように後ろに添えられている。

「苦しいんだろ、つらいんだろ。わかるよタスク。だって今のタスクは、普通じゃないから。思わずボクに噛みつくような、タイチの首を絞めるような、そんなタスクだったら絶対考えられないことを、させてしまう何かが、君の中にあるんだろ」

「う、……ふぐ……」

――わかるよ。
 その言葉をどれだけタスクは待ち望んでいただろう。
 言わなくては伝わらない。それは当然だがタスクには言えないことがたくさんあって。
 その言えないことを、誰かが分かってくれることをずっと待っていたのだ。

「大丈夫、わかってる。タスクにタイチやボクを殺させたりしない。友達に友達を殺させたりしない。そんなことは絶対にさせない。……だから、死ぬとか、殺して、なんて言わないでくれ。お願いだ」

「うぐ、うわああああぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁぁ……!」

 トンボに抱きしめられたまま、タスクは大声で泣いた。
 その時だった。

「危ない!」

 タイチのものでもタスクのものでもない男の声がビルの方から響き、直後に突っ立っていたタイチもろともトンボとタスクは誰かに強く突き飛ばされた。
 タスクはとっさに手をつきながら、上を見た。
 雨上がりのグロテスクなほど赤い夕焼けに、そこだけ空が欠けているかのように真っ暗なシルエットを浮かび上がらせるビル。その屋上から降ってくるフェンスを。

 幸いにしてタスクは今達突き飛ばされ、フェンスの落下方向から外れていた。
 その代わりというようにタスク達を突き飛ばした男がその下にいる。
 呆気ないほどに一瞬だった。
 次の瞬間には男の体に深々とフェンスの角が突き刺さっていた。

 男は死んでいるように見えた。
 肩甲骨の間を中心に背中に突き刺さって倒れたフェンスは心臓を、少なくとも肺を貫通しているように見えたし、何より男は呻きも動きもしなかった。

「何で、何で山下さんがここにいるんだよ……」

 その男の方へフラフラと近付いていくのはタイチだった。
 どうやらタイチはその男を知っているようだ――いや、タスクも知っている。
 タイチは彼を山下さんと呼んだ。タスクは薄暗がりに倒れるその体をあらためて見る。
 うつ伏せに付して顔は見えない。それでもその姿には確かに見覚えがあった。
 タイチは男のそばまで行くとその横に跪いてその顔に触れる。

「救急車だ……、タスク! 救急車を」

 タイチは縋るような声でタスクの方を振り返る。
 タスクは携帯を出そうとして、ポケットに手を突っ込む。
 その中に入っていた、携帯ではない冷たい金属がふとタスクの手に触れた。

「何やってるんだ、トンちゃんでもいいから、早く救急車を! まだ……まだ……!」

「ダメだタイチ。山下さんはもう……死んでる」

 タスクにはなぜかそれが間違いないことが理解できた。
 まだ助かるかもしれない――そんなことは微塵も考えられなかった。

「そんなのタスクが決めることじゃないだろ!」

「認めろタイチ! もうどんな医者でも、その人を助けられない……。わかってるんだろ」

 タスクがそういうと、タイチは叫ぶような声を張り上げた。
 タスクはその横に静かに歩み寄る。そして、ポケットからライターを取り出した。

「タスク……?」

 タイチが聞き返す間もなく、タスクはジッポーに火をつける。
 炎は何故か赤ではなく、灰色をしていた。

「医者には治せない。でも、これは。多分、この火は、このことを、無かったことにできる。これはきっと、そうやって使うものだ」

 タスクの中の、タスクのものではない知識がそう告げる。
 自分にはそれができると。死を、なかったことにできる。
 この灰色の炎は、そういうものなのだと、タスクの中の何かが教えてくれる。

 タスクはタイチが止めるより早く、その火を男の体に灯した。
 灰色の炎はあっという間に男の全身に燃え渡った。
 人体がこんなに簡単に燃えるはずがない。
 この炎が燃やしているのは体ではない。今この炎は死、そのものを焼いている。
 目の前の死を、なかったことにしている。何故かタスクはそう確信を持っていた。

 灰色の炎は勢い良く燃え上がり、そして一瞬で消えた。
 火が消えると同時に、男の体からは傷痕がなくなっていた。
 辺りに流れ出した血も、跡形もなく消えている。
 そして、男は小さく呻いて、目を、開けた。

「山下さん? 嘘……生きて……」

「――タイチ、僕は……、いや、死んだよ。死を感じた。そうでなくとも背中にフェンスが刺さったのを覚えている。僕は、今、何をされた?」

 男はタイチの手を借りて起き上がる。
 恐ろしく冷静に自分の身に起きたことを把握しているようだった。
 タイチは男にタスクがしたことを説明する。
 といっても、タイチにもトンボにも、そして多分タスク自身、自分が何をしたのか、完全には理解していなかった。
 そんな何もかもわからないタイチの説明を聞いても、男は何か理解したように頷く。

「なるほど、つまり――僕は生き返させられた、ということか。君がやったんだね、タスク君」

 タスクは、今度は取り返しのつかないことをしたかのように蒼白な顔をしていた。
 そして、消え入るほど小さな声で、はい、と微かに答える。

「助かった、というべきではないのだろうね。まあいい。なるべくしてなったことだ。タスク君、君はいつ死んだ?」

 男はタスクを責めるように詰問する。

「あの、あなたは……」

 言ったのはトンボだった。
 トンボのその問いに、タスクもタイチも、そしてその男もようやくトンボの存在を思い出したような顔をした。
 トンボは男を不審げに睨んでいた。
 青い半そでの開襟シャツに、黒いスラックス。服装のニュアンスだけならタイチに近い。
 長めの緩やかにうねる髪の毛は栗色に近く、暗い色のレンズの丸眼鏡をしていた。
 胡散臭い外見なのだ、この男は。
 タスクは小さいころから知っているからあまり違和感を覚えないが、初対面では恐ろしく怪しく見えるだろう。

「ああ、これは申し遅れましたね。僕は山下と言います。山下勝彦(ヤマシタ カツヒコ)巡査部長。式部市中央交差点派出所勤務の警察官、そして――」

 男は胸ポケットから警察手帳を広げながら、タイチの方を目で見やった。

「オレの保護者――みたいな人」

 タイチはうんざりしたように顔を手で覆って言う。

「保護者、みたいな人?」

「血縁上はタイチの母方の叔父に当たります。あなたのことはよく聞いてますよ。篠塚トンボさん」

「よ、余計なこと言わないでよ、山下さん!」

 タイチが上擦った声で叫ぶ。山下は肩をすくめてはいはい、と頷いた。

「タイチの両親は彼が小さい頃に死んでいてね。今日まで十年間、二人で生きていくにはそりゃあ並々ならぬ苦労があったわけだよ。当時僕は高校生だったし」

 山下は確か、まだ三十にもなっていないはずだった、とタスクは思い返す。
 トンボはお互いに突っつきあう山下とタイチを見ていた。
 トンボも幼くして両親を失い、姉と兄と、三人だけで生きてきたと聞いたことがある。
 もしかしたら、何かその境遇に、思うところがあったのかもしれない。

「で、何故君達がここに?」

「それよりも山下さんがここにいる方がおかしいでしょ。その格好ってことは、仕事じゃないんでしょ。手帳は持ってるけど」

 山下の問いには答えず、タイチが聞く。
 それは当然の疑問だった。現れたタイミングからして都合がよすぎる。

「趣味、ということでは納得してもらえないんだろうね」

 当たり前だっつーの、と頭の後ろで手を組んで言うタイチに山下はため息を漏らす。

「まあいい、いずれにせよこれは一つの事件、ことによれば殺人未遂かもしれない大問題だ。三人とも、ちょっとこれから交番に来ていただきます。そこでお話ししましょう。何故僕がここにいたのか――そして」

 山下は眼鏡をただした。
 沈む夕日がレンズに反射してきらりと光る。

「ここでフェンスを君達に向かって落とした犯人について」

 タスクは濃い色のついたレンズの後ろにある山下の眼光を見た。
 研いだ包丁のように鋭い輝きを浮かべる色素の薄いその目を。



「はい……はい、ええ、お願いします。そうしていただけるとこちらも助かります。ええ、お礼は必ず……はい、では」

 蝶野カイコは生徒会室のイスに深くもたれかかり、ため息をつきながら携帯を膝の上に置いた。
 それはカイコの身内の病院からの連絡だった。
 何でも式部北高校の生徒が病院で乱闘騒ぎを起こし、その当事者として桜木ヨースケという生徒を引き取っているが、ひたすら謝るばかりで話にならないという。

 その乱闘には入院していた坂崎タスクも関わっていたらしく、現在その行方が知れない。 
 とりあえずカイコはコネでその騒動は内密にしてもらうように願い出た。
 幸いにして理解のある院長の配慮によりそれは聞き入れられ、カイコはこれから病院に謝罪し、ヨースケの身柄を引き取りに向かう。

「ハヤテ」

「すでにこちらに着替えの準備ができております」

 カイコがその名を呼ぶと、その手に持ったハンガーにかかったカイコの制服一式をハヤテは示す。
 カイコはイスから立ち上がり、ハヤテの目もはばかることなく、ネクタイをほどき、ブラウスを脱いだ。
 白い肌に少し汗が浮いているのは部屋の蒸し暑さのせいか、それとも電話の内容に肝をつぶしたためだろうか。
 ハヤテは下着姿のカイコに乾いたタオルを差し出す。
 カイコは無言でそれを受け取り、手早く体を拭いた。
 その上から皺ひとつない半そでのワイシャツと灰色のブレザーを着て同じ色のプリーツのスカートを穿く。
 そして、校章が入った赤いネクタイを結ぶ。

 式部北高校の制服――一年前の惨劇以来着用の義務がなくなった呪われた衣だった。
 それでも高校生が礼装をしようと思ったら制服がある以上は制服を着ざるを得ない。
 手鏡を取り出し、髪の毛の乱れを直す。
 唇に薄くリップを塗り直し、最後にソックタッチを塗って左右のソックスを揃える。

「行くぞ」

 ハヤテは無言でカイコが脱いだ服を畳んで袋に入れ、それと自分とカイコの鞄を持ち、生徒会室のドアを開けた。
 そこにちょうど、白衣の男が通りかかる。養護教諭の国栖だった。

「おう、蝶野、お前、今帰りか? 何だその――」

「――何だその格好、何で制服なんか着てるんだ、ですか。ちょっとした雑事ですよ。生徒が少し、騒ぎを起こしたようですから。お礼参りです」

「桜木はごめんなさい以外のことを言わねーらしいぜ。よかったな、ちょうどお前さんの家の傘下の病院で。普通なら――」

 学校側にも内密にするよう院長と折り合いをつけたはずの話を、すでに国栖は知っているらしかった。
 カイコはそれでも顔色を変えずに国栖の言葉を遮る。

「――停学ものの騒動、でしょうね。病院での乱闘騒ぎ。ソファが一脚壊れたそうですから、不問に処すことはできないでしょう。でも、あいにく乱闘が起きた病院は小野学院大学付属病院で、騒ぎを起こした生徒はこの学校の生徒であり、そして蝶野カイコは現在その学校の生徒会長で、小野学院大学附属病院の所属する小野宮グループ総帥小野宮蓮穣の長女なんです。私は生徒会長として学生の権利を最大限に保護します。権力を使って事件をもみ消すことだって、必要なら躊躇しません」

 国栖はうつむいて肩を揺すって下品な笑い声をあげる。
 カイコはその様子に眉一つ動かさない。

「いやぁ、流石に――」

「――やることのスケールが違う、これだからお金持ちのお嬢様は。あなたに言われる筋合いはありませんよ国栖先生、いや、国栖栄一郎元総理のお孫さんの方が適当ですか。それより、その話はどこから?」

「ったく、いちいちこっちのセリフを先読みするお前さんのしゃべり方は気に障るぜ。なぁに、あの病院にゃ、医学部の知り合いがいるんだよ。俺は、友達は大切にするタイプだからな。――親友を見捨てたお前さんと違ってな」

 にたりと国栖が歯をむき出しにして笑う。
 その言葉を聞いた瞬間にカイコのまとう空気が変わった。

「――失礼します。急いでいるので」

 カイコは頭を一つ下げて、国栖の前を通り過ぎた。

「気ぃ付けろよ、辺りはもう暗くなってるからよぉ」

 国栖はカイコの方も見ずに大声を上げる。

「――吸血ジャックが出るぜ」

 聞こえない程の声でそう呟き、国栖もその場を去った。
Monochrome: The Fire burns up The Death
»»  2013.09.02.


 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。
 話によればそこが山下の勤務先らしい。
 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。
 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も多く、混み合っている。

 だからその派出所は、派出所という割には大きめの建物で、正面には式部市のゆるきゃらが警棒をかぶって交通安全のたすきをかけていた。
 山下が入ると、中にいた若い警察服の男性が驚いたような声をあげた。

「山さん、どうしたんですか? 今日は非番でしょう? 何か事件ですか」

「まあそんなところだね、ちょっと行き会いでばったり。調書を取るから奥を使わせてもらうよ。さあ、入って」

 山下が言いトンボ達は身の置き場に困ったようにおずおずと建物に入る。
 山下は奥へ、と指をさして示す。
 そのまま進んでいいものかと躊躇していると、タイチが先陣を切って進んだ。

「ほら、早く早く。お疲れ様です沢井さん」

「何だい、タイチ君が一緒ってことは――山さんもしかして、例の?」

 タイチが沢井と呼んだ若い警察は声を潜めて山下の耳元で言う。

「まあ、そうだろうね。大丈夫、君には迷惑かけないから。しばらく奥には誰も通さないでね」

 沢井は困ったようにため息をついて、はあいと子供のような返事をした。
 タイチの案内でトンボとタイチは派出所の奥の畳の部屋に通された。
 広さは四畳半ほど。真ん中にちゃぶ台があり、壁にテレビがかかっている。
 タイチは慣れた手つきで押入れから四つ座布団を出して、ちゃぶ台の周りに敷き、自分が一番奥の窓の前に座った。
 タスクとトンボはやはり迷うようにタイチの両脇に座る。
 そして入口に一番近い席に山下が腰を下ろした。
 いつの間に持っていたものか、その横に大きめのブリーフケースを置いた。

「では、改めて自己紹介をさせてもらおう。僕は埼玉県警式部市式部署中央交差点前派出所勤務の山下勝彦巡査部長です」

 山下は名刺入れから名刺を取り出し、タスクとトンボに差し出す。

「オレには?」

 タイチが不満そうに言うと、山下は苦笑して必要ないだろと答える。
 トンボはその名刺の肩書きに見慣れない単語を見つける。

「――霊能調査室、室長?」

 聞いたこともない部署だった。警察にそんな部署があるのだろうか。

「ん、ああ、まあ、ひとまずそれは置いておきましょう。すみませんが、一応これは先程のカササギビル――正式には小野宮建設株式会社所有のマユダマビルと言いますが、そこで起きたフェンス落下についての調書ということで記録させていただきます。失礼ですが、全員、お名前をフルネームで、生年月日、住所、職業を教えてください。それじゃあ、篠塚さんから」

「え、あ、はい、名前は篠塚蜻蛉、西暦2005年8月15日生まれ、十五歳です。住所は埼玉県式部市本郷423‐5 ラフォーレ式部202号室です。職業は、式部北高校一年生」

 山下はトンボが言うのとほとんど同じスピードで紙にトンボが言った内容を書いていく。
 そして次にタスクを指名した。

「坂崎亮、西暦2006年1月21日生まれ、同じく十五歳、埼玉県式部市小坂井382‐3 荻谷マンション805号室、職業も同じく北高一年生」

「山下さん、それオレも答えんの? 一緒に住んでるのに」

「君が答えたという事実は書類上重要なんだよ。いいから答えて」

「松木太一、西暦2005年4月10日生まれ、十六歳、埼玉県式部市上尾1874‐2 式部北高校一年生」

「式部北高校一年生、と。ありがとうございます。さて、本題に入る前に、僕が何故あの場に居合わせたのかという疑問から解消しておこう。月曜日に、カササギビルで騒動があった事件をご存知ですか?」

 山下の言葉に、タスクはピクリと身を震わせた。
 トンボはまたあの時のようにタスクがいきなり倒れるのではないかと心配になる。
 しかしタスクは机の上に置いた両手を不安げに組み直すにとどまった。

「確か、ボクは、人一人分の致死量の血だまりが見つかって、それを警察は吸血ジャックの犯行と判断し、周囲に警戒を呼び掛けていると聞いています。だから、北高でも放課後の居残りが禁止になって。陸上部は大会も近いのに」

 トンボが言うと、山下はフム、と自分の顔を鉛筆の頭でつついた。

「そこまで詳細に伝わっているのですか? 一応警察内部でも、この件に関して、吸血ジャックであるという判断は曖昧なまま可能性だけ残して捜査権は既に別の機関に移行し、外部に漏らさないように通達があったはずなんですが」

「あ、いえ、この話、実は、多分、ボクだけに特別に教えてくれたんです」

「ほう、それはどなたが?」

「蝶野、カイコ……生徒会長です」

「蝶野……ああ、彼女ですか」

 山下はその名前を聞くと、何かを考えるようにし、思い出したように言った。
 蝶野、ふうん、とその名前に何かあるようにしばらく繰り返しながら紙に何かを書き込む。

「彼女が、篠塚さんに特別に、教えてくれた、ということですか?」

「はい、あの、山下さんは、蝶野会長のこと、ご存じなんですか?」

「ええ、まあ、式部北は個性的な子が多いので」

「うわあ、聞いた? トンちゃん、警察の権力を使って女の子に目ぇつけてるんだって。トンちゃんも気をつけた方がいいよ。闇に隠れていきなりがばってこともあり得るから!」

 山下の言葉にタイチは下世話な解釈をしたようだった。
 山下は気にした風もなく、話を進める。
 無視されてタイチはやや憮然としているのがおかしかった。

「生徒会長は、いつそのお話を?」

「月曜日の朝、臨時のクラス委員会議が開かれて、その会議の最中ははぐらかした言い方で、会議が終わった後に話しかけて、そのことを聞きました」

「さすがに蝶野さんは動きが速いですね。警察がカササギビルの痕跡を発見したのが月曜日の午前三時、近隣学校には朝一番で勧告を出しましたが、それでもその朝に集会を開くとは。それに、その上で独自のルートでこの事件の公表されなかった部分を把握している、――優秀、というべきですかね」

 トンボは苦笑いをしてその言葉には賛同しなかった。
 実際カイコを優秀というのはトンボには躊躇いがある。

「ところで、タスク君とタイチは、今の話は――?」

「知ってます、月曜日のお昼休みに、保健室で……」

 答えたのはタスクだった。
 声ははっきりしていたが手は硬く組まれて、顔面は少し色を失っている。

「なるほど、しかし、それなら話は早い。実は、僕が今日あそこにいたのはまさしく、あそこで発見された痕跡というのが、真実吸血ジャックによるものかを調べていたからです。この件が吸血ジャック絡みの線があるということは、今のところ内密にしておかなければいけないことなんですが、知っているなら隠す必要もない」

「えっと、お仕事で?」

「ズバリ言うなら、趣味です」

 トンボの質問に山下は即答した。
 その答えにトンボはしばらく何も考えられなかった。
 タスクもタイチも何も言わず、空気が凍ったように場は静まり返った。

「えっと、それは――」

 トンボは何とか言葉を継ごうとした。
 山下はふ、と笑う。多分優しげな笑みを浮かべたのだと思うが、かけている丸いサングラスがその顔を恐ろしく怪しげな人物に見せていた。

「僕は、吸血ジャックの正体を追っていますが、それは警察としての職務ではありません。一派出所の巡査部長程度が調べることではない。僕は個人的にこの事件の真相を知りたいと思っているのです。ですから、鑑識がいなくなって、立ち入り禁止も解除された今日になってようやく現場に立ち入ることができました。何しろ個人で動いている以上この件に関して警察という肩書は使えませんからね。そして僕がビルを見聞している最中に、君達がやってきて、僕はしばらく影からその様子を見ていました。その時、屋上からフェンスが落ちてくるのが見え、咄嗟に君達を突き飛ばした、というわけです」

 さらりと言っているが――あの時確かにこの男は死んでいた。
 少なくともトンボにはそう見えたし、タスクもそう言った。

「……でも、山下さんは、警察官なんですよね。自分で捜査なんかしなくても、よくわかりませんけど、その、調書とか、見せてもらえばいいんじゃ?」

 トンボはおずおずと言った。
 山下を疑うわけではなかったが、信じられないのも事実だった。

「それができれば苦労はないんですがね、実は吸血ジャック事件は少し前からかなり厳格な秘匿捜査対象に移行したらしく、僕は今それを調べているのがどこの部署なのかも知りませんし、警察のデータベースに吸血ジャックの捜査ファイルは存在しない扱いになっているくらいです」

 山下が肩をすくめていうのに、トンボは戸惑いを覚える。
 データベースにファイルが存在しないとはどういうことだろう。

「つまり、この事件はデータベースからアクセスできない部分にその情報を収集し、これまであったデータも全てそちらに移行させたということでしょう。事実、表向きには吸血ジャック事件は今年の三月以降起こっていないことになっていますから」

 起こっていないことになっている――? トンボは山下の言葉を繰り返した。

「それらしい犯行は――、つまり今回のカササギビルのような、それと疑われるような犯行は各地で起きています。しかし、それらは全て、表面上は吸血ジャックのものとは関係ない事件として処理される。今回も篠塚さんは特別にそれを知った経緯がありましたが、この街の多くの人は、不審者が出たのだと思っているはずです。少なくとも警察はそういう勧告しか出していない。それに、マスコミも報道していないでしょう」

 そう言えばそうだ。
 吸血ジャックと言えば、一時期は新聞の一面を飾るような大事件だったのに。

「警察の捜査が秘匿捜査に移行すると同時に、マスコミにも大規模な報道管制が敷かれているようですね。――もっともこれは、あなたのお兄さん達の事件のせいかもしれませんが」

 山下の言葉に、今度はトンボがピクリと反応した。
 トンボは短く山下の名を呼ぶ。

「――まあそんなこんなで、僕がこの事件を追うためには、身を粉にして現場に赴き、自分の手と足と五感を使って調べざるを得ないということですね。ですから、信じられないことかもしれませんが、あの場に僕がいたのは本当に偶然なんです。しかし、君達の場合はどうでしょう」

 山下の声が少し下がった。

「君達三人は、あの場所で何をしていたんですか? ひょっとして、カササギビルの一件に関して、何か心当たりがあるのではありませんか?」

 トンボは目線だけ動かしてタスクの顔を見た。
 タスクはずっとうつむいて自分の組んだ手を見ている。
 タスクは手を見たまま言った。

「――言おう」

「タスク――!」

「隠していても始まらない。正直に言えば、警察の山下さんは、ボクを逮捕するかもしれない。病院でタイチを殺そうとしたのは事実だし。でも、もしかしたら、力になってくれるかもしれない。ううん、いや、逮捕されるなら、ボクはきっとその方がいいんだ。だってまた、いつ『あいつ』に乗っ取られて、タイチを殺しそうになるかわからないんだから」

 タスクは顔をあげた。その目は怯えているけれど、しっかりした意志が宿っていた。

「ボクの話を聞いてください――」

The Magician pursues Jack the Vampire
»»  2013.09.02.


――自殺、したんです。

 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。
 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。
 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。

「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」

 ああ、と山下は頷いた。

「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」

「はい……、コンクールの失敗がショックで……、なかったことにできればいいと思って、おまじないをしに学校に忍び込んだんです」

「ほう、おまじない、ですか」

 山下は興味深そうに眼鏡をあげた。
 タスクは小さくはい、と答える。

「七色不思議っていうのが、うちの学校には昔からあって。でも、途中で学校にいるのがばれて警報が鳴って、逃げ出したんです。それで、学校に忍び込んでいたこともばれたら、もうおしまいだと思って――ビルから飛び降りました」

「それは、君の記憶違いということは考えられないのですか?」

「記憶は――間違ってないと思います。間違っているのは現実の方なんです。ボクは確かに日曜日、学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行って、途中で警報が鳴って逃げ出して、その後にカササギビルの屋上から飛び降りたはずなんです。でも、学校で行った儀式の後も、ボクが自殺したという事実そのものも、なかったことになってるんです!」

 タスクの言葉は段々に大きな声になっていく。
 トンボが落ち着いて、と小声で言うがタスクにはほとんど聞こえていなかった。

「月曜日、ボクは起きた時は寝ぼけていて、生きてることを不思議にも思わず学校に行きました。その途中で日曜日のことを思い出して、でも今生きてるんだから、全部夢だったんだろうって、そう思って学校に行ったら、朝クラス委員の臨時集会が開かれて、そこでポケットから携帯を出そうと思ったら、その中に、これが、これがあって――」

 タスクは震える手で落としそうになりながら、山下にライターを差し出した。
 山下が問うまでもなく、タスクは興奮したまま続ける。

「このライターは、ボクがカササギビルから落ちた時、そこにあったものなんです。ボクは折れた手でこれを掴んで、それで――何かを見たと思うんです。でも思い出せなくて。でも、でも、このライターはボクのでも家族のでもないんです! ボクがこれを持ってるってことは、あの夢は、日曜日の出来事は、現実だったってことだから、それじゃあボクは、今のボクは一体何なんだって思って――」

「落ち着いてください、タスク君。タイチ、水を」

 タイチは言われるままに一旦部屋から出て、盆に水差しと湯呑を四つ乗せて戻ってきた。
 そして水差しの水を湯呑に注いで、タスクの前に置く。
 タスクは無言でそれを一気にあおり、ドン、と机に置いた。
 タイチは何も言わず二杯目を注ぎ足す。タスクはそれも一気に飲み干した。
 タイチは三倍目を注いで、それからトンボと山下にも水を勧めた。
 正直トンボはタスクを追いかけてから喉が渇いていたのでありがたかった。
 タスクは三倍目を半分ほど飲むと、湯呑を置いて、息を整えて話を続けた。

「気がついたら保健室で、ボクは自分の体を確認したんです。どこかに自殺して壊れたままの部分があるんじゃないか、いや、そもそもボクは幽霊で、足がないんじゃないかとか思って。でも、どこにも異常はなかったんです。そのうちにタイチと篠塚がお見舞いに来て、保健の先生にも見てもらったんですけど、やっぱりおかしいのは記憶だけで。その時に、篠塚から、カササギビルの事件のことを聞いたんです。ビルにあった血だまりは、ボクの血なんです! あの日、あそこで誰かが死んだなら、それはボク以外にはありえないんです! ――それで、その話を聞いた後、ボクは保健室で気を失ってしまったらしくて、そのまま救急車で病院に運ばれたんです」

「その病院は?」

「小野学院大学附属病院、カササギビルの近くの」

 山下は紙に素早く書き込み、続けてくださいとタスクを促した。

「それで、ボクは検査入院ということで、一日入院しました。その日の朝から、ボクの頭の中には、何かがいるんです」

「検査で何か異常が見つかったということですか?」

 違います、とタスクは首を振る。

「違うんです。検査では何も見つからなかったんです。そういう異常じゃなくて、頭の中から声がするんです。くすくす、くすくすって、頭の中に笑い袋があって、それが転がるみたいに。それで何かボクにはわからないことを言って、最初は小さかったのに、どんどん大きくなって――それでついに、ボクはその何かに、乗っ取られてしまったんです」

「乗っ取られた?」

 これ見て、と言ったのはタイチだった。上を向いて首を見せる。
 そこにはまだ赤黒い手の跡が残っていた。

「それは?」

「タスクにやられた」

 山下の質問にタイチはこともなげに答えた。
 タスクは即座にボクじゃない、と大声で言った。

「つまり、その頭の中にいる何者かに乗っ取られて、タイチを襲ってしまった、と?」

「――そうです。それで、ボクは恐ろしくなって病院から逃げ出して、いつの間にか、またカササギビルに来ていて、ボクはここで死んだんだって、じゃあ、今生きているボクは、タイチを殺そうとしたボクは、一体何なんだろう、何になってしまったんだろうって」

「それを止めたり励ましているうちに、山下さんがいきなりやって来たわけ」

 タイチがそう結ぶと、山下は、なるほど、と言ってまた鉛筆で自分の顎を突いた。

「で、どうすんの、こいつ」

 タイチは含みを持たせた言い方でタスクを顎でしゃくる。

「話を聞く限り、どうも山下さんの領分だと思うんだけど」

 タイチはにっと笑って言う。
その目は前髪の下で、わくわくしているような色をしていた。

「ああ、そうだね。僕も、何とはなしにそんな気はしていたんだ」
 
 山下もそれに含むところがあるように目を伏せて笑い返す。
 
「山下さん、タイチ?」

「どうやらこの事件は、霊能調査室の管轄に属するようだ」

 山下がサングラスを取って言う。サングラスはそのまま胸ポケットにしまった。
 メガネの下の目は、思いのほか怜悧で、刃物のような鋭さを持っていた。

「霊能――調査室、たしか、名刺にも書いてありましたね。何なんですか?」

 聞いたのはトンボだった。タスクは名刺の文字などほとんど見ていなかった。

「警察に存在する非公認の部署です。扱うのは主に心霊による犯罪。呪いによる殺人、憑き物による騒動、神隠しによる失踪、祟りによる災害――そんなものがあるわけない、と思っている人がほとんどでしょうが、実際こうしたものによる被害はことのほか多い。しかし、これらの存在は警察がその根拠となる法によって規定されている存在ではないので、公式には認めることはできません。だから、僕のような人間が、非公認にそれらの捜査を行い、場合によってはそれを駆逐する。霊能調査室はそういう被害専門の部署として、二年前に僕が作りました」

「――え? 山下さんが作ったんですか?」

「その通り」

 トンボはぽかんと口を開けて聞く。

「待ってください、この、霊能調査室は、警察は非公認、つまり、存在を認めてないんですよね」

「そうです」

「ってことは、山下さんが、個人の、独断で、勝手に、やってるだけなんですか?」

「そう言われると返す言葉がないのがつらいところですね。ええ、仰る通り。この組織は僕が個人的に、独断で、勝手に設立し、基本的に僕一人で運営しているのが現状です。部下や仲間がいるとは言えませんね。もちろん運営費も自費で行っています。おかげでタイチにはつらい思いをさせてしまっていますが」

 タイチが貧乏という理由は――そんなところにあったのか。
 これにはタスクも開いた口がふさがらなかった。

「それでも派出所の中では認められつつあります。最近は沢井君がこちらに相談してくれたり、部長も黙認していますから――」

「やめようタスク、帰ろう」

 トンボが強い調子で言った。そして答えを待たずに立ち上がる。

「飛んだ茶番だ。タスクは深刻なのに。タイチも見損なったよ。こんな冗談みたいなことを……」

 トンボはタスクを振り返った。タスクは相変わらず座り込んでいる。

「ほらタスク、帰ろう。今君に一番必要なのは――」

「――帰るなら、帰っていいよ」

 その言葉にトンボはタスクをじっと見つめた。
 タスクはやはり、自分の組んだままの手を見て、トンボの方は見ずに言う。

「ボクは、深刻なんだ。あの頭に響く『声』をどうにかしてくれるなら、非公認のなんちゃって組織だって構わない。ボクは、山下さんに調べてもらいたい。ボクは、ここに残るよ」

「タスク……!」

「帰るならどうぞ。この雨の中をお一人で帰るなら。確かご住所は本郷でしたね。ここからは、かなり距離がありますが」

 いつの間にか外は再び本降りの雨に見舞われていた。
 山下の言うように徒歩でここから家まではかなり遠い。
 そしてトンボには今手持ちの傘がない。
 トンボはやや憮然として座布団に座った。

「インチキみたいなことをしたら、止めてもタスクを連れて帰ります」

 トンボは強く山下に言う。
 結構ですよと山下は柔らかく笑った。

「まず、タスク君に憑いている存在の正体はほぼ特定できました。色鬼(シキ)という怪異です」

「シキ……?」

 タスクは繰り返した。色の鬼と書いてシキと読みます、と山下が言う。

「タスク君、君はどうやら本当に日曜日に死んでしまったようですね」

「何を!」

 トンボが思わず声を荒らげるのをタイチが制した。

「色鬼という怪異は、同じ読みで屍の鬼と字をあてられることもあります。屍とはつまり、死体のこと。色鬼とは畢竟、死体に取り憑いてそれを生き返らせ、周囲に害をなす怪異です。その点で言えば東欧の吸血鬼、中国のキョンシー、あるいはブードゥー教におけるゾンビなどと似ていると言えます。つまり、タスク君は実際日曜日にカササギビルで投身自殺を図り、一度死んで、その後に色鬼に憑かれ、蘇った」

「そんな馬鹿な……、だってタスクは――!」

 トンボが悲壮な声を上げたが、それもやはり黙殺される。

「そもそも色鬼の怪異というのは関西の山奥に伝わる非常に地方色の強いローカルな怪異です。僕もまさか、この街で出会うとは思わなかった。それとも、これはやはり吸血ジャックとの関わりがあると考えるべきなのかな」

 山下は独り言のように顎を触っていった。吸血ジャック、とトンボが聞く。

「吸血ジャックがなぜそう呼ばれているか、その理由はご存知ですか?」

 山下がトンボの方を見ながら言った。

「それは……、確か、見つかった死体は失血多量が原因で、あの切り裂きジャックみたいに夜陰に紛れて女性を襲うから」

 もっとも女性のみが対象だったのは本当に初期だけだったけれど。

「それが一般的な解釈ですね」

「違うんですか?」

「ええ、違います。吸血鬼の特徴の一つは血を吸うこと。これは篠塚さんが言ったように、死体から血が抜かれていたという指摘の通りです。しかし、吸血鬼にはもう一つその被害者に残す大きな特徴がある。吸血鬼に血を吸われた死体は、その後で生き返り人を襲う。吸血ジャックの被害者の特徴はその死亡推定時刻が常に被害者の生存が確認された時間より前、つまり、吸血ジャックに殺される前に被害者が死んでいたというありえない検死結果を伴うことです。吸血ジャックの被害者はみんな、蘇った死体であった可能性が高い。いや、こういうこともできる。『吸血ジャックは蘇った死者を殺すためにその死者を二度と生き返らないようにしている――』」

「そんなわけない!」

 トンボは両手でちゃぶ台を強く叩きつけた。

「これもタスクが真剣だからって我慢してたけど、もう耐えられない! 吸血ジャックは変態の恐ろしい殺人鬼で、その被害者は何の罪もない善良な人だ! 吸血ジャックが殺す前から死んでいたとか、でたらめを言うのもいい加減にしてくれ! ボクは帰る!」

 トンボはものすごい剣幕で山下に吐き捨てた。

「外は雨が――」

「知るか! 知ったことか! もうこんなところにいたくない! これ以上付き合い切れない! 帰るったら帰る! さよなら!」

「あなたのお兄さんが吸血ジャックに殺された、とは言っていませんよ、篠塚さん」

 山下が張りのある声で言った。
 トンボの動きがぴたりと止まる。

「……それ、どういう意味ですか」

 聞いたのはタスクだった。

「篠塚のお兄さんが殺されたって……どういうことですか? しかも、吸血ジャック? それも、……ボクの話に、関係あるんですか?」

「僕は大いに関係していると思っていますが。篠塚さん、あなたのお兄さんを殺した本当の犯人を探しているんじゃないですか? もしかしたらその人物は、もうあなたの身近にいるかもしれませんよ」

 トンボは振り返る。その顔にはすさまじい怒気がこもっていた。
 山下はその視線を受けても全くひるんだ様子を見せない。
 むしろ周りにいるタスクやタイチの方が気まずくなるほどだった。

「どうか座って話を聞いてくれませんか。吸血ジャックの真相を追う者の一人として、同じ志を持つ、いわば僕たちは仲間のようなものです」

「ボクが知りたいのは兄さんの死の真相と、タスクを元に戻す方法だ。……あんたが言う通りなら、ボクが知りたいのは吸血ジャックの正体じゃない。勝手に仲間にしないでください」

 それも結構、と山下は肩をすくめ、ため息交じりに言う。

「どうせあと三十分もすれば終わる話です。少しご辛抱願えませんか。僕としてもこの雨の中、傘も持たせずにに女の子を帰すのは忍びない」

 トンボは荷物をどさりと落として、座布団の上にドスンと座った。
 タスクはその様子に少し怯える。

「また幽霊とかそういう話を長々とするなら、今度こそ止めても帰りますよ」

 三度目はありませんよ――。山下はサングラスをただし、その手の下で静かに笑った。

Ghost Researcher
»»  2013.09.02.


「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」

 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。

「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」

 山下は薄く笑って答える。
 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。
 トンボにはこの男の真意が測れない。

「じゃあ――」

「あの」

 続けざまに真犯人について聞こうとするトンボの耳に、小さくタスクの声が聞こえた。

「話を邪魔するようで悪いんだけど……、式部北高校で、四人の生徒が殺害されている、って……何? そんなの、聞いたことないんだけど」

 おずおずというタスクを見て、トンボはしまったと思った。
 この事件は――この話は、知らない生徒には教えないようにカイコからも再三忠告されている事件だった。
 トンボは山下の顔を伺う。

「この際ですから、やむを得ないでしょう。それにタスク君は、もうその事件の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、彼に状況を説明する分、篠塚さんには再三にわたって聞かされた話をもう一度聞いていただくことになりますが」

「それは――まあ我慢しますけど」

 トンボはやや憮然として机に乗り出した身を下げた。

「では――、まず吸血ジャックという犯罪者について、過去の事件も交えてお話ししましょう。広域連続殺人及び死体損壊遺棄事件――通称吸血ジャック事件は、今年の三月までで全国各地で三十七件の事件が報告されていました。三月以降はどうやら警察内部での対応が変化したようで、この事件自体が秘匿されてしまったことから、僕が知りえる情報は今年三月以前の警察がまとめた情報であることをまず了承ください」

 そう言えば、山下は警察のデータベースから事件にアクセスできなくなったようなことを言っていた。
 トンボはそれを思い出す。

「三月までの三十七件のうち、死亡――つまり殺人は九件。残りの二十八件は未遂に終わっています」

「未遂、ってことは、生きてるってことですか?」

 タスクの質問に、山下はその通りですと答えた。

「吸血ジャックの殺人の大胆にして残忍なところは、被害者が外に助けを求められないようにし、動けなくした上で、恐ろしく時間をかけてその命を奪う点です。まず凶器ですが、鋭く細長い刃物――小刀のようなものを使っていることが判明しています。それでまず被害者の喉、声帯をはさんで二か所を刺し抜くことで、声を出せなくします。これがまるで、吸血鬼が血を吸った跡のように見えることも、この殺人鬼にその名がついた所以の一つです」

 山下は右手の人差し指と中指で首筋を二か所押さえながら話した。
 確かにそこに穴が開いていれば、吸血鬼に血を吸われたように見えるかもしれない。

「その上で多くの被害者は太ももの大動脈叢を同じような道具でめったざしにされています。ここを貫かれれば、大抵の人は痛みで歩けませんし、そのまま放置すれば、失血多量で三十分もかからずに死に至る。逆に言えば三十分近くは意識があるということです。そして、死に瀕する被害者を前に、吸血ジャックは問いを出すらしい」

「問い?」

 聞いたのはトンボだった。

「内容はどうも全ての事件で違っているようですね。ただ、二者択一の問題で、非常に答えにくい問題ということは共通しているようです。例えば、『あなたの息子は成長して確実にあなたを殺すことをあなたは知っている。あなたはその息子を殺されることを承知で育てるか、それとも息子が小さいうちに殺すか。人殺しを出さないようにするためにはどうすればいい』というような問題が多い」

「それに外れた人を殺しているってことですか?」

「いいえ」

 トンボが聞くと、山下はそれを否定した。

「吸血ジャックは自らの問いかけに、どちらかを選んだ人間は見逃し、救急車を呼んでいます。つまり、殺された九人はその問いに答えなかった人間、ということだと思います」

「そんな――! だってそんな問題、答えられるわけない!」

 それができない人間が死ぬなんて、あまりにひどい話だ。

「ボクは――その問題、答えられない」

 静かにタスクが口を開いた。
 トンボも山下もそちらを見た。

「ボクは、自殺した人間だからわかる。ボクは、自分の生きる理由を否定した。自分が生きることに価値を見いだせない。だから、息子を育てて、自分が殺されるとしてもそれはそれでしょうがないと思える。でも、そんなボクを殺すことで、自分の息子が殺人犯という烙印を押されて生きるなら、息子がかわいそうだ。その問題の正解は――息子は他人に預けて、自分が死ぬ。そうすれば、人殺しは生まれない」

「――正解です。タスク君」

「そして、この答えに至る人間は、もう死んでいる人間ってことでしょ?」

「タスクは死んでなんていない!」

 トンボは怒ったように言う。

「タスク君が正しい。この問いは、死んでから生き返った人間と吸血ジャックのみに理解できる問いで、吸血ジャックは生き返った死者と思われる人間を瀕死の状態にし、その上で問いを突き付けることで、生者と死者を鑑別しているものと思われます。死にかけの人間は何よりも生きたいと望む。生きたいと望む人間は必ずどちらかを選ぶ。しかしこれらの問いは絶えず自らが死ぬという選択を選んだ場合にのみ、誰かが殺人をするという結末を回避できる問い立てです。そして、生き返った死者は、自ら死ぬことを望み、吸血ジャックの問いに答えず、死を選ぶ。その後吸血ジャックは呪術めいた装飾を死体に施して去って行きます。その死体を検死してみると、死亡推定時刻には必ずその被害者が生きていたという証人や証言が出てくる。つまり――」

「吸血ジャックは、生き返った死者を、生き返らないように殺している」

 タスクが言った。
 トンボはその結論に奥歯をぎりりと噛みしめた。

「そんな、そんなことって――」

「あなたが怒ることはないのですよ篠塚さん。さっきも言ったように、この吸血ジャックはあなたのお兄さんを殺した人物とは別人なのですから」

「……わかってます。それだって、気持ちいい話じゃないでしょう」

 実際山下の説はまるで吸血ジャックがタスクのような人間を救済していると言っているように聞こえてトンボには不愉快だった。
 もちろん違うのだとわかっていても、兄もその一人に数えられているような気がして腹立たしいこともあった。

「ところで、今吸血ジャックに殺された人は九人と言いましたが、その内四人が、君たちの通う式部北高校の生徒で、去年の五月から十二月の間に、連続的に殺されたことから、その事件を別個に式部北高校生徒連続殺害事件と呼びます。女子生徒三人と、男子生徒一人、つまり、篠塚トンボさんのお兄さん、篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)さんが殺された事件です」

「ってことは、山下さんはさっきからそのトンちゃんのお兄さんを殺したのは別人だって言ってるんだから、吸血ジャックが殺したのは実際には八人ってこと?」

 それまで黙っていたタイチがひらめいたように口を開いた。

「いいえ、式部北高校生徒連続殺害事件で、四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません。いわば、もう一人の吸血ジャック、と言ったところかな」

「もう一人の吸血ジャック……?」

「しかし、吸血ジャックがこの事件に関与していないというわけではありません。どうやらこの事件は二重の犯罪である、と僕は推測しています」

「どういう……」

 トンボの疑問に山下はちゃんと一から説明します、と言ってケースから一つのファイルを取り出した。
 もうかなりボロボロに擦り切れていて、貼られた付箋もくたくたに折れ曲がっている。
 表には式部北高校生徒連続殺害事件と書かれていた。

「まず最初の事件は去年の五月に起こりました。ちょうどゴールデンウィークが明けた頃です。殺されたのは一年生の早田明美さん。彼女の死体は両手両足をバラバラにされ、君たちが通う式部北高校で全て別の木に針金で括りつけられていたようです」

「ちょっと! ……やめてください、そう言うことを言うのは」

 トンボは思わず山下を止めた。
 この事件で死んだ人間の死を詳しく聞かされるということは、つまるところが兄のそういう姿を克明に聞かされるということだ。
 それは到底トンボには耐えられない。
 山下は意外にもわかりました、とすんなりとそれを受け入れた。

「この陰惨な犯行現場と、あちこちの施された悪趣味な呪術的様式から、警察はこれが当時世間を騒がせていた一連の殺害死体損壊遺棄事件、つまり吸血ジャック事件の可能性ともう一つ、それが学校関係者による可能性で捜査を行いました。そして約一月後の六月に三年の潮ヶ浜夜さん、その二十日後に二年の曽根百合子さんが同じく陰惨な死体となって学校で発見されました。それから半年近く間を開けて、篠塚アゲハさんが、クリスマスのその日に、学校で遺体となって見つかりました」

 トンボは何も言わなかった。
 ただ、その当時のことを思い出していた。トンボはその日何も知らなかった。
 兄がずっと楽しそうに、クリスマスを心待ちにしていたことだけは覚えている。
 兄が楽しそうだから、トンボも無条件にその日はきっと何かいいことがあるに違いないと思ってうきうきしていた。
 兄はその前日、学校から帰ってこなかった。
 トンボは別に不思議に思わなかった。
 兄が生徒会の役員だということは知っていたし、どうせまた同じ役員の友達の家にでも泊まっているのだろうと思っていた。

 何も心配していなかった。心配する要素など一つもなかった。
 ただ、その日はひどく寒い日で――通学するトンボの耳にはいつもよりパトカーや救急車のサイレンが騒がしいように聞こえていた。
 あるいはそれが予兆だったのかもしれない。
 トンボの通う中学校に連絡があったのは昼で、姉が迎えに来たのはお昼休みが終わるころだった。

――そうだ、これは兄の用意した本当に大がかりなドッキリなのだ。
 トンボはこのまま姉と一緒にどこかに連れて行かれて、そこで兄がネタ晴らしをする。
 姉さんったらなんて顔をしてるんだろう。
 兄さんもこんなわざとらしくしたらバレバレなのに。
 いつ兄が出てくるんだろう、ドッキリ大成功の立札はどこに現れるんだろう、トンボは祈るように震える手足を励ましながら、おぼつかない足取りで病院に行った。
 病院に本当に霊安室があることを知ったのはこの時だった。
 姉が入り、顔色を失って出てきた。入ろうとするトンボを姉は抱きしめて止めた。
 トンボはついに、兄の、アゲハの死体に面会することは叶わなかった。
 姉がそれを許さなかったのはそれが見るに堪えない姿だったからだと今はわかる。
 最後に見た兄は、骨になっていた。
 高温で焼かれ、すすけた灰色の骨の一片に。

 それから警察に事情聴取という名の尋問を受けて、そこでトンボは断片的に兄が殺されたということと、それがどうやら巷で言う殺人鬼、吸血ジャックによるものらしいということを知った。

「それで――」

 トンボの口から出たのは、そうした兄の死にまつわる様々なとてつもない感情ではなかった。

「山下さんが、吸血ジャックが兄を殺したのではないと考える根拠は?」

「状況的なことから言えば、この事件以外の吸血ジャック事件とこの事件には異なる点が多くあります。まず最初に言ったように、死亡推定時刻と生存の証言に関する矛盾が見られないこと。これは通常の殺人事件であればむしろそれが当たり前ですが、吸血ジャック事件としてみるなら異常です。全ての被害者はどうやら殺されたその日に死んでいる。そしてもう一つ、篠塚アゲハさん以外の殺された女子生徒三人に、性的暴行の跡がありました。これが吸血ジャック事件と決定的に違うところです。吸血ジャックの被害者はそもそも女性が多いですが、その中に殺害された人も、未遂で終わった人も含め、性的暴行を加えられた被害者はこの事件の三人の少女以外に一人もいません。さらに殺害の方法も違う。この四人は絞殺されています。吸血ジャックの殺し方ではない」

「でも、死体は吸血ジャックが飾ったようだった」

 トンボの言葉をその通り、と山下は受ける。

「このことから二つの可能性が考えられます。一つは吸血ジャックの模倣犯の可能性、あるいは殺害した後でそれを吸血ジャックの犯行に見せかけ、自分を被疑者から外すための工作として死体の損壊を行った。そしてもう一つは――誰かが式部北高校の生徒を殺害した後に、本物の吸血ジャックが現れ、その死体を装飾した」

「普通は模倣犯の説を疑うよなぁ」

 タイチが頬杖をついて言う。

「山下さんは、犯人が二人、つまり誰かが殺した後に吸血ジャックが現れた、という可能性を確信してるようですが」

 タスクが聞いた。その目は疑念に満ちている。

「まず、どうして模倣犯が考えられないのか、ということから説明していきましょう。これは死体損壊の手法が吸血ジャック以外には考えられないからです」

「どうして……?」

「吸血ジャックは生き返った死者を生き返らないように殺す、と言いましたね。でも、これは正確な言い方じゃない。吸血ジャックは『色鬼が蘇らせた人間』を再び殺して、二度と生き返らないように封じる術式でその死体を損壊しているのです」

――また色鬼。

「でも、だったら余計に、北高で殺された人たちはそもそもその……色鬼に蘇らされた人じゃないんだから、それを吸血ジャックが色鬼を封じる術式で損壊するのはおかしいんじゃないですか?」

 タスクの疑問はもっとものようにトンボにも思えた。

「そこで出てくるのが――これです」

 山下が出したのは二枚の紙だった。一つには何かの魔方陣のようないくつかの大小の縁が連なり、その内側に文様のある図像。もう一つはどこかの地図――いや、トンボたちが通う式部北高校の見取り図のようだった。

「これはさる神社の曼荼羅です。太虚空巣大曼荼羅図(たいこくうそうだいまんだらず)と言います。そしてこっちは君たちが通う式部北高校の地図です」

 たいこくうそう、と呟きながらトンボは曼荼羅を見る。真ん中に大きな円があり、その周囲に小さな円が配置してある。
 小さい円の中の模様は全て違っていて、全部で十二個あり、六角形の頂点をなす位置に、左右対称に配置されていた。
 大きな円の天辺に三つの小さい円が三角形を作って接している。
 そこから左右の両肩の位置に二つずつ、両足の位置に一つずつ、そして底の部分には三つの小さな円が今度は逆三角形に並んでいた。
 真ん中の大きな円はその中の左隅にもう一つ円を内包していて、そこには中央に黒い丸があってそこを中心に螺旋を描く太い線が描かれていた。

「学校の南側三か所に、バラバラにされた早田明美さんの体がありました。左足は南東の桜の木に、右足は南西の枝垂れ桜の木に、そして彼女の本体は真南に位置する椎の木にくくりつけられていました。彼女の胸には三つ穴があけられていて、そこには折られた木の枝が三つ、生えるように突き刺さっていた――」

 山下は学校の見取り図のその死体の一部が見つかった位置にそれぞれ右足、左足、尾と書きこむ。

「そして北西のプールでは左腕の関節を全て砕かれ、首に巻きつけるようにして潮ヶ浜夜さんが見つかっています」

 さらに右肩のプールに左翼と書く。

「北東の体育館裏の壁には右腕を磔にされた曽根百合子さんが、そして北にある花壇で見つかった篠塚アゲハさんは両目が抜かれ、眉間の間を貫かれていました」

 トンボは耳を塞ぎたかった。そんな悲惨な兄の姿を、想像するのさえ嫌だったのに。
 体育館には右翼と書き、さらに学校の一番上にある花壇に目と書いた

「この魔方陣は、ずっと昔にその神社の神主が、そこに祭られる神様を『捕まえる』ための魔方陣だったと伝えられています。その神は一説によると太虚、あるいは空の巣と書いてカラス、そのまま鴉とされることもある。『鴉は三眼四翼、二足三尾にして、その身は暗く、十二の色を持つ』――四人の被害者の死体はそれぞれ、この鴉の姿を現している」

「太虚――」

 タスクが小さく繰り返した。

「色鬼とは、その鴉のしもべであり、鴉のために人柱を築く怪異と伝えられています。つまり、吸血ジャックは、式部北高校に出た四人の生徒の死体を使って、色鬼と鴉を捉えるための結界を張ったと考えられます」

「――でたらめだよ! 馬鹿馬鹿しい!」

 トンボは吐き捨てるように言い、頭をがりがりとかいた。

「一見つじつまが合っているように聞こえるけど、ボク達にしてみれば、そんなカミサマだか幽霊だかがいるって話自体がでたらめかどうかもわからない! 大体、何で吸血ジャックがそうまでして学校に結界なんて張らなくちゃいけないんだ! そんな、色鬼だとか、鴉だとか、全然うちの学校と関係――」

 トンボはそこまで言いかけてごくりと唾を飲む。対面からあるよ、と小さな声がした。
 見るとタスクが目を見開いて虚空を見つめていた。
 その曼荼羅の大きな円の中の螺旋の中心。全てを巻き込んで沈んでいく虚空を。

「式部北高校の生徒で、色鬼に取り憑かれているのは、ボクだ。じゃあ、吸血ジャックは、ボクを――」

「違うってタスク、それは全部、この人の自作自演――!」

 トンボは慌ててタスクを止めた。

「でも、山下さんの説明で全て解決する! 吸血ジャックは色鬼に憑かれてよみがえった人間を再び殺す殺人鬼! その吸血ジャックが色鬼を封じるための魔方陣を学校に張っていて、その学校の生徒であるボクが今、色鬼に取り憑かれている――他にこの状況をどう説明するっていうんだ!」

 タスクが強い調子で言う。トンボは反論できなかった。
 それが全て山下の自作自演による作り話という以外、タスクの自殺とこれまでの不可解な事件、さらにはトンボの兄の死まで含めて、一つのストーリーに収まってしまう。

「……確かに、吸血ジャックが北高で死んだ四人の死体を損壊した犯人である可能性が高い、それは、模倣犯は考えられない次元で、吸血ジャックのこれまでの犯行と合致している、それは千歩譲って納得しました。でも、ボクの質問に山下さんはまだ答えてませんね」

「――真犯人は誰か、ということでしょう」

 山下はにやりと笑う。

「早田明美殺害時から、捜査線上に浮かんでいたのは、学校内部の犯行――つまりこれが、生徒によるものではないかという疑惑でした。その結果、重要参考人として挙がったのが、式部北高校生徒会六十二代生徒会の四人、生徒会長神楽崎弓枝(カグラザキ ユミエ)、副会長萩原充(ハギワラ ミツル)、書記小野宮蚕(オノミヤ カイコ)、そして会計――篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)でした」

 トンボは言葉を失った。

――そんな、兄さんが、人殺しの犯人として疑われていた?

「生徒会長の神楽崎ですが、彼女は当時学外で暴行を振るっていて、何度か僕も彼女を補導しています。調べてみればどれもこれも彼女には非がない、というより、相手が麻薬の売人だったり、痴漢だったり、売春の仲介業者だったりと、彼女なりに正義を貫いた結果として、暴力沙汰になったという事件が多かったと思いますが、実際彼女は相手に全治一か月の重傷を負わせたという事例もあります。さらに彼女はいわゆるバイセクシュアルであり、そちらの方面では進んでいたという話もあります。もしかしたら女子生徒と痴情のもつれから殺人に発展した可能性が当初からささやかれていました」

 山下はさらに続ける。

「副会長の萩原ミツルは当時二枚目副会長として有名でした。いや、そもそもこの六十二代生徒会は美男美女ぞろいということでそれなりに学校内外では話題になっていた。アプローチしてくる女子も後を絶たなかった。また彼はオカルト関連に興味を持っていたという記録があります。ならば可能性は低いこととはいえ、吸血ジャックの犯行が色鬼封じのものだと気付いて、いや、いなかったとしてもそれらしく見せかけることができたかもしれません」

「あんたさっき、死体を損壊したのは吸血ジャック本人だって――」

 山下はトンボの発言を無視し続ける。

「書記の小野宮カイコ、今は蝶野と名乗っているようですが、彼女は日本有数の大企業、小野宮グループの総帥小野宮蓮穣の長女です。今日タスク君が行っていたという小野学院大学付属病院も小野宮グループのもの。さらに――カササギビルは小野宮グループの小野宮建設が所有していたビルです。彼女はアゲハさんが殺されたのちに名前を蝶野と改めている。大企業の娘が連続殺人のあった学校に通っていたというのはマスコミのスクープの種になるからと本人は言っていますが、それが犯行に小野宮家が関与していたことを隠すためのものだとしたら?」

 次々と不審な点を挙げていく山下。
 トンボは頭の中でありったけの否定をその疑惑にぶつける。
 兄がそんなものに加担していたわけがない。
 兄がそんなことするはずがない。

「でも、でも、兄さんは――兄さんは潔白のはずだ!」

「そう、それ故に殺されたのだとしたら」

 山下の宣告にトンボはもう返す言葉がない。

「式部北高校生徒連続殺害事件が生徒会の四人が行った集団私刑事件だったら話は簡単です。痴情のもつれから神楽崎ユミエは早田明美を殺してしまい、その犯行を潮ヶ浜夜と曽根百合子に見られた。萩原ミツルが吸血ジャックの犯行に偽装することを思いつき、小野宮カイコがその金と権力を使って偽装工作をする。そうして三人を次々に殺していく中で、篠塚アゲハは良心の呵責に耐えかねて犯行を自首しようとし、結果三人に殺害された」

「――仮定の話だ!」

 トンボは叫んだ。

「そう、仮定の話です。証拠は何もない。だからこそ、僕は今回、タスク君の事件がもしかしたら半年前のこの事件を解くカギになるのではないか、と期待しているんです」

「――期待?」

 肩で荒く息をしながらトンボは苛立ちのこもった口調で聞く。

「犯人だと疑われていた小野宮カイコは現在生徒会長としてまだあの学校に残っている。彼女が君にカササギビルの件は吸血ジャックかもしれないと言ったと言いましたね。ならば彼女は同じように連絡を取っているかもしれない。神楽崎ユミエと、萩原ミツルに。もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。この事件の犯人は本物の吸血ジャックについて何かを知っている。逮捕できればそれが聞き出せるし、いやいや、もしかしたら本物が現れる可能性も――」

「ふざけるな!」

 トンボは両手をちゃぶ台に叩きつけた。
 時間差でじいんと痛みが伝わってくる。

「タスクが、こんなに悩んで、必死な時に、あんたそのタスクを利用して――」

「こんなに繰り返しても、まだお分かりじゃないとは。いいですか、そこにいる、彼は、坂崎タスクの抜け殻です。本物は日曜日に死んでいる。そこの彼は、ただの死体だ。息もすれば言葉もしゃべるし、記憶もタスク君と共有しているが、彼はもう坂崎タスクじゃない。色鬼という怪異によってよみがえった化け物、灰音だ。化け物退治に化け物を利用することがそんなにいけないことで――っ!」

 ぱちんと音が響いた。山下の頬を叩く音だった。
 叩いたのはトンボではなかった。タイチだった。
 トンボは唖然と口を開ける。
 タイチはそのまま山下の襟首を掴んで立ちあがった。

「山下さんには世話になってるし、そのことは感謝してるけど、オレの、友達を、化け物呼ばわりするな。それは、それだけは許さない」

「はは、涙ぐましい友情だねタイチ、君は今日彼に殺されかかったんじゃなかったかな?」

「タスクがオレを殺すわけない。もしそんなことになりそうになったら、なる前に止めるのがオレの保護者としてのあんたの責任だ。あんたの仕事は幽霊の被害に困っている人を救うことだ。霊能調査室室長なんだろ」

 それはトンボがこれまで聞いたことのない、タイチの本気の怒りの声だった。
 低く、太く、威圧的な声。
 山下はそれにへらへらとした笑みを消し、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、タスク君、と呼んだ。
 タスクはハッとしたようにそちらを向く。

「君にこれからいくつかの知恵を授けよう。色鬼灰音は君の自我を乗っ取り、タイチを殺そうとしている」

「……は、はい」

 目の前で行われている会話についていけずに呆然としていたタスクは、急に話を振られて戸惑っているようだった。
 タイチは山下のその様子にひとまずは掴んでいた襟首を離す。

「色鬼――というより、大概において、この世ならざる者が人を殺すにはいくつかの段階があるものでね。それは今日君が灰音に乗っ取られてタイチを殺しそうになったことや、君自身が意志によって彼の力を利用し、僕を生き返らせたことからも明らかなように、今君と灰音は、君の肉体の主導権を綱引きし合っているようなものだ」

 要するに、と山下はケースを開ける。

「これから灰音は君の自我を乗っ取り、完全に掌握しようとして来るはずだ。おそらくこの一週間のうちに決着をつけに来るだろう。だから君は学校の外でタイチと二人っきりになる状況を避けること。これがまず第一の予防線になる」

「学校の外で、って、学校の中ではいいんですか」

 タスクは不安げに聞いた。

「不安は消えないが、大丈夫ではないかと思っている。それは、篠塚さんには聞き苦しいことかもしれないが、吸血ジャックが張った結界があるからだ。僕はこれが確実に機能しているものだと思います。もっとも、タイチかタスク君を学校に通わせないという手段が一番確実と言えばそうなんだが、正直な話、タスク君はできるだけ学校にいた方がいい。おそらくこの街で、色鬼から逃れられる場所があるとすれば、それは今のところ学校以外に考えられません。多分色鬼が出るとしても、この円からはみ出る校門より内側には入ってこれない」

「仮定の話、なんですよね」

 タスクは念を押すように聞いた。

「仮定というなら全て仮定だ。君が死んだ、というところからね。そして、最後の砦に、この振り子を君に預けておこう」

 そう言って山下はポケットから紫がかった水晶の振り子をタスクに渡した。

「これは紫水晶の振り子と言ってね、件の神社に伝わる、鴉を捕まえる際にその体を縛ったとされる数珠を模したものだ。多分、色鬼や他の災いが訪れる前兆を君に教えてくれる。これを首にかけて肌身離さず持っていること。今はそれが精いっぱいだ。君から色鬼を落とすのはもっと専門の霊能力者が必要になる。僕はこれでも素人だからね」

 そして二人には――と山下はタイチとトンボを見た。

「そこまでタスク君が大事と言っているのだから、なるべく彼の様子には気を張っていた方がいい。少しでもおかしなことがあったら、すぐに僕に知らせること。タイチはタスク君に襲われそうになったり、近くに灰色の炎が見えたりしたらすぐに逃げること。それで全部だ。今僕らにできることは」

 山下がそう結論するのを見計らったようにそっとふすまを開けて沢井の顔がのぞいた。

「すいませぇん、山さん、自分もう終業とっくに過ぎてるんスけど、その、まだかかりますかね」

「――というわけで皆さん、長々とお話に付き合っていただきましたが、今日はこれにてお開きにしたいと思います。僕が送っていくから、タイチ、二人を車に案内して、僕はここを元に戻していくから。悪かったね沢井君、今終わったところだ」

 沢井はほっとしたような顔を浮かべて、お疲れ様です、と何故か一礼した。
 タイチはいつものように間延びした返事をして、投げ渡された車のカギを受け取った。
 タスクは大切そうに振り子を握り締めている。
 トンボは――何だかひどく頭を使った気がして、何も考える気になれなかった。

 トンボが家に着くと、もう十時近くなっていた。
 メールを確認すると、姉から今日も帰れないという内容が届いていた。
 トンボはとにかく服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて汗を流した。
 それだけやると、電気もつけずに部屋のベッドに倒れこむ。

 兄を殺したのは吸血ジャックじゃない――。
 仮定の話だったけれど、聞き捨てならないことだった。
 そして。
 兄を殺したのは兄が誇りを持って所属していた旧生徒会のメンバーかもしれない――。
 トンボはそれを断固として否定する。
 そんなはずがない、と強く思った。いや、そうであってはならないと思った。

 吸血ジャックがタスクを殺しに現れるかもしれない――。
 そしてタスクは、悪霊に操られて人殺しになるかもしれない――。
 タスクのことだから、そうなる前にまた自殺してしまうのではないか、とトンボは少し心配になる。

「……そう言えば、……ヨースケ先輩はあの後どうなったんだろう」

 あの病院での騒動。大事になってなければいいのだが。
 徐々にトンボの上と下の瞼は距離を縮める。
 とにかく、明日、朝練のときに、聞いてみよう、病院のこと、去年のこと――。
 小さな部屋に小さな寝息が静かに響いた。
Who killed Butterfly?
»»  2013.09.02.
【水曜日】



 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。
 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。
 一分一秒でも無駄にはできない。
 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。
 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。

 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。
 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備していた。
 式部北の陸上部は男女混合だった。
 部員は一年から三年まで合わせても二十人に満たない小さなものだった。
 それでもこの式部市にある高校ではトップクラスの成績を残していたし、歴代の成績の中には全国大会で優勝した記録もあった。

 トンボはその中で一年の期待の星として一目を置かれていた。
 女子の短距離走では最速で、男子の記録と比較しても負けずとも劣らないほどだ。
 そして現在、陸上部でエースを務めているのは二年の桜木ヨースケだった。
 二百メートルで二十秒台を記録している。
 これは世界クラスの記録としても通用する好成績だった。
 選手としても一途な気持ちで懸命に練習に励み、後輩のいい模範となっている。
 明るく社交的で優しい性格もあり、後輩からは慕われ、先輩からは頼りにされる存在だった。

 グランドを整備する生徒の中に、トンボはヨースケを見つけ、そのそばに駆け寄った。
 まず最初に昨日のことを謝ろう。そして次に――。
 心の中で段取りを考えているうちにヨースケの方がトンボに気付き声をかけた。

「よぉ、トンボ。今日はちょっと遅かったな」

 ヨースケはいつも通りの大きな笑みを浮かべて言う。

「ぼ、ボクがやります。それより――」

 トンボはヨースケからグランドレーキを奪って昨日のことを聞こうとした。

「昨日のことか? まあ何とかなったっつーか、何とかしてもらったっつーか、大事にはならなかったみたいだな。警察も呼ばれなかったし。会長さんに感謝だな」

「どうも、すみませんでした。……でも、会長、って、蝶野会長ですか? あの人が何か?」

「何かあの人、すっげー大物らしいな。あの世界の小野宮の社長の娘なんだとか。それであの病院も会長の親のグループの傘下なんだと。そのコネでいいように取り計らってくれたみたい。おかげで助かったな。警察とか呼ばれてたら、進路に差し支えるし。大会も出られなくなるかもしれないと思ってたから、本当に俺は運がよかった」

――蝶野カイコが。事件をもみ消した? 
 トンボの脳裏に昨日の山下の言葉が過ぎる。
 蝶野カイコは式部北高校生徒連続殺害事件の容疑者の一人かもしれなくて。
 兄を殺した真犯人は、カササギビルの件を知り動き出すかもしれない、と山下は言った。
 そこに吸血ジャックに狙われている可能性のあるタスクの起こした事件のもみ消し――?
 トンボにはそれが単なる偶然とは到底思えなかった。

「トンボ? どした? 手が止まってるぞ? まーショックだろうしなぁ。俺としては坂崎と松木のその後の方が心配なんだけど。あの二人大丈夫か? 何かケンカとかしてない?」

「あ、いえ、……そんなことはありませんけど」

「そっか、よかった。友達は仲良くするのが一番だからなー」

 その様子を見てトンボは心を決める。

「あの! 先輩!」

「んー?」

 ヨースケは後ろを向いたままアキレス腱を伸ばすストレッチをしている。

「去年、この学校で起こった――殺人事件のことで、……何か知ってることは、ありませんか」

 ヨースケは今二年生、転校生という話も聞かないから、多分この学校に去年もいたはずだ。
 ならばその事件当時のことを知っているに違いない。
 ヨースケはトンボの質問を聞いてしばらく止まった。
 そして答えず、またしばらくストレッチを続けた。

「あー、そっか、篠塚アゲハって、あれ、お前の兄貴だったのか」

 ヨースケはトンボに顔を見せないままに今気付いたような調子で言う。
 トンボは小さくえ、と返した。

「知ってるんですか、兄のこと」

「知ってるも何も、六十二代生徒会は伝説だからな。学校にいた奴も、他の学校の奴も、ユミエ会長、ミツル副会長のツートップと、書記の蝶野先輩と会計のアゲハ先輩を知らない奴の方が少数派なくらいじゃないかな。そっか、――つらかったな」

「え――」

「お兄さん。それで、事件のこと知りたいのか?」

 ヨースケは振り返らない。そのまま足の運動を続ける。

「それは――」

「やめとけ」

 トンボが答えようとするのをヨースケの冷たい声が遮った。

「トンボ、お前がこの事件をどこまで知ってるか知らないけど、オレはお前と全く同じ質問をされたことがある。アゲハ先輩――お前のお兄さんに」

「兄さんが?」

「付き合ってたんだ、オレ。ヨルと」

 ヨル、とトンボは繰り返す。
 誰のことだろう、と思っていると、ヨースケは潮ヶ浜夜とフルネームで言った。
 それは確か――。

「二番目に殺された。プールで見つかった」

 トンボはヨースケの背中を見た。
 それだけで、ヨースケがその死を心から悲しんでいることがよくわかった。
 ヨースケが振り返らないのは、その顔を見られたくないからだとトンボは気付く。
 怒りか、悲しみか、とにかくいまだ生々しい感情がきっとそこには表れていて、ヨースケはそれをトンボに見せまいとしている。
 それほどまでに、まだこの事件は生きているのだ。
 トンボの中と同じく、ヨースケの中にも。

「アゲハ先輩が、殺されたヨルのこと、何か知っていることはないか、変わっていたことはないかって、しつこく聞いてきてさ。オレ、割と本気で犯人見つけてぶっ殺したいと思っててさ。そしたら、ヨルのことも忘れられるって。忘れて生きていかなきゃ、そのためには犯人に復讐しなくちゃって思ってた」

 ヨースケの声が、小さくなっていく。

「でも、アゲハ先輩が死んで、――やめた。調べてどうなる? 犯人を知って、復讐して、それで俺は何もなかった顔して平気で生きられるのかって思った。そんなことできない。だったら復讐なんてしない方がいい。そうすることでヨルを忘れてしまうなら、復讐なんてしないで、割り切れない思いを抱えたままずっと覚えている方がいい」

「先輩……すみません、変なこと聞いて」

 トンボは聞いたことを後悔していた。
 そして一刻も早く、この話を終わらせなければならないと思った。
 うかつに聞くことではなかった。聞いていいことではなかったのだ。
 それは誰よりもトンボが一番よくわかっていたことなのに。

「アゲハ先輩がそれを聞いてきて、オレはヨルが死ぬ前に預かった、ヨルの日記を渡したんだ。三日後に先輩はそれを返してくれて、それから四日で、――死んだ」

 ヨースケが振り返る。
 そこにいつものお日様のような笑顔はない。
 その顔に表情はない。色彩がない。喪に服す人の灰色の顔だった。

「お前がそれでもこの事件のことを知りたいなら、今日の放課後、禅定寺の墓地に来い。そこにヨルの墓がある。――もしかして、最初からこうなるって決まってたのかな」

――今日は、ヨルの命日だから。
 ヨースケは笑った。多分無理して。
 東の空からさす太陽が、逆光になって顔を隠している。
 それでもトンボにはその笑顔がとても悲しいものに見えた。

 ホイッスルの音がした。集合の合図だ。

「ほら、行くぞトンボ! 大会まで時間がないんだからな!」

 トンボの背中を強く叩いてヨースケは先に走り出した。
 トンボは重たいグランドレーキを引きずりながら、それを倉庫にしまって集合場所に行った。
 ヨースケは、その後、さっきのことはおくびにも出さず、いつも通りに走り込み、汗をかいていた。
 トンボは改めて、この先輩は強い人間なんだと思った。
The Sun cannot be bound The Night
»»  2013.09.02.


――悪夢を見た気がする。
 それはタイチを殺すという内容のものだった。
 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。

 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。
 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。
 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。
 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべきなのかもしれなかった。

 どちらにしても、そんな内容の妄想が止まらないのは、どうやらタスクの中にいるもう一人の存在――山下が言うところの色鬼、灰音のせいであることは間違いなく、それによってタスクに健やかな眠りが当分は訪れないことも間違いなかった。

 時計を見ると、朝の五時だった。
 六月ともなるともう昼間と言って差し支えないほど太陽は明るい。
 そして晴れの空は、夏らしい暑さを、確実にこの街にもたらしていた。

 今更眠るのも馬鹿馬鹿しいし、本来ならタスクはこれくらいの時間に起きて家族の朝食と、弁当を作るのが日課だった。
 トンボとタイチの分も一緒に作る。
 もう二日サボっている計算になるから、そろそろ再開しないといけないだろう。
 一応タイチからは山下経由で、トンボからはその姉経由で、一食二百円で月に二十食、合計で四千円のお小遣いをもらっている。
 二家合わせれば八千円と、バイトもしていないタスクにとってはちょっとした額になる。
 おいそれと休むこともできないだろう。

 タスクは冷蔵庫の中のものを適当に組み合わせて朝食と弁当を作る。
 そのうちに家族が起き出して、めいめいに朝の日課を始める。
 洗濯物を干していた母は、テーブルで弁当を盛りつけるタスクの顔をまじまじと見た。

「やっぱり、顔色よくないわ」
 
「ごめん、ここの所、眠れてなくて」

「……あんた、また無理してるんじゃないの? 今日は学校休んだら?」

 母の忠告にタスクは首を振る。

「もう事実上二日欠席なんだから。そろそろ授業にも顔を出さないと、置いて行かれちゃうから。学校行くね。ボクは、朝ごはんいらないから」

「あ、ちょっとタスク――」

 タスクは弁当を三つ持って、部屋に鞄を取りに行って制服に着替え、逃げるように家から飛び出した。

――また家にいたら、今度は家族を殺してしまうかもしれない。

 そう思うと到底家にはいられなかった。
 それに、山下の話を信じるなら、今タスクが、灰音から逃れていられるのは、学校だけだという。
 信じられるだけの根拠はなかったが、それにすがるしかないのも事実だった。
 タスクは学校にやや速足で向かう。
 くすくす、くすくすと声が聞こえた。
 タスクは胸にかけてある紫水晶の振り子を握る。
 触れるとそれは、石とは思えないほど、熱くなっていた。

――近くにいるんだ。灰音が。

 タスクは思わず立ち止まってあたりを見回す。
 電柱の陰に、ごみ箱の裏に、屋根の上に。
 電線の上に、木の茂みの中に、側溝の影に。

 くすくす、くすくすと、それは確かに存在していた。
 タスクを見ていて、笑っている人外のもの。
 タスクを生き返らせて、タイチを殺そうとする鬼が。

――もういいかい?

 それは紛れもなく鬼のセリフだった。かくれんぼで鬼が言う決まり文句。
 子どもの遊びの他愛ない言葉なのに、今のタスクにはこの上なく恐ろしく聞こえた。
 タスクはついに走り出して、ようやく学校にたどり着く。
 いつもより随分と早い時間の登校だったが、運動部は朝練をしていて、学校はそれなりに騒がしかった。
 放課後の活動が制限された今は、そうせざるを得ないのだろう。
 タスクは自分の席に座って、大きく息を吐いた。

 ただの登校に、ここまで疲れるとは――。
 こんなのが続けば、灰音が何か悪さをしなくても、疲弊したタスクがちょっとしたことで何か大それたことをしかねない、とタスクは自嘲気味に思った。
 そして、改めて自分の教室を見回した。

――視線は感じない。声も聞こえない。
 胸の水晶を触る。さっきとは打って変わって、石特有の冷たさが伝わってきた。
 つまり、ここには灰音はいない。安全なのだ。
 山下の言葉はどうやら正しいらしい。今のところは、まだ。

 しかしそれは同時に、この学校に色鬼に対する結界が張られていることを示している。
 つまり、四人の生徒が惨殺されたのが、事実だということだ。
 早田明美、潮ヶ浜夜、曽根百合子、そして、トンボのお兄さん――篠塚揚羽。

 この学校で、殺人事件が。
 そして――犯人は学生かもしれない。いや、あの、蝶野カイコかもしれない。
 山下はそう言っていた。

 タスクにとってカイコはやや特別な位置にいる先輩だった。
 クラス委員としては生徒会長であるカイコは直属の長を務める人間だったし、それよりも何よりも、カイコはタスクが所属する合唱部の部長で、指揮者だった。
 あの日曜日の舞台で、タスクが誰よりも一番恥をかかせてしまった人物。
 誰よりも一番迷惑をかけてしまった人物。

 しばらく合唱部は、練習は中止というメールがいつだか来ていた。
 起き抜けの朝は声も出にくいし、朝練をする部活でもないから当然かもしれない。
 タスクは机に体を投げ出して、腕で枕を作って顔を横に乗せた。

――カイコが犯人だったなら。タスクの中で蝶野カイコの顔が思い返される。
 カイコはいつだって余裕綽々という顔をしているのだ。
 何をやらせても常に完璧で、まるであらゆることが遊びであるかのように。
 あの日だって、悔やんだり、怒ったりはしていなかった。
 カイコは、ただ笑っていて、後ろに男がいて、首を絞められていて。
 ライターの炎に照らし出された顔が。

――ああ、あの顔は、あれはそうだ。
――死んでいる。
――殺されている。

「おーい、おい、タスク! おーきーろー! タスク!」

 目を開けると前髪に隠れた目がこちらを見ていた。
 タイチだ。どうやら無事に登校したらしい。
――なぁんだ。よかった。
 タスクはそれに安心して、またうとうとと目を閉じた。

「あーもー、二度寝とかやめてくれる? 起きろっつーの、もうすぐホームルームですよ! クラス委員さん!」

 バン、と頭を強く叩かれて、タスクはガバリと起き上がる。

――眠っていたのか。

 時計を見ると、八時半だった。少なくとも二時間近くは寝ていたことになるだろうか。
 クラスはタスクが来た時よりはるかに騒々しくなっていた。
 数人の女子がこちらを見てくすくすと笑っていた。
 タスクはその声に、恥ずかしさよりも、あの不快な声と似ていることに腹が立った。

「今日こそはお弁当作ってきてくれたんだろーなー」

 心配はそこ? とタスクが聞くとタイチは他にあんのか、と胸を張る。

「君の大好物の三食そぼろ弁当だよ。なんかさ、大丈夫、とか、心配したぞ、とか」

「心配してほしいのか、タスクは」

 タイチに問われ、タスクは改めて自問した。
 心配されたいのだろうか、ボクは――。

「オレが涙ぐんだ顔でお前が無事に学校に来ていることに感激したら満足か?」

「何もそんなことしろって言ってないだろ」

――ボクは、ただ。察してほしいだけだ。思っていても、言えないこと。
 誰にも言えない、本当の気持ちを。

 そうは思ったが、タスクは実際、何が本当の気持ちかがわからない。
 何せ今タスクの心には、タスクの心だけでなく、鬼の心が混ざりこんでいる。
 今こうやって考えていること自体が、どうして鬼に支配されていないと言えるだろうか。
 実はもう自分は既に乗っ取られていて、あたかも坂崎タスクのように考えているけれど、実際には鬼がそう錯覚させているだけなのでは――。

「……アホくさ」

「あ?」

 君のことじゃない、とタスクはタイチに言った。
 自分の支離滅裂な考えに嫌気がさしただけだ。
 鬼がタスクの振りをするのはともかく、何故そこで自分が鬼か坂崎タスクかを自問しなければならないのか。そんなもの鬼だったら考えるまでもない。
 つまり自分がどっちか、なんてことを不安に思っているのはタスク以外にはありえない。
 とりあえずタスクは、自分が自分であることに安心していい。いいはずだ。

「そーいえば、噂を聞いたぞ」

「噂?」

 タスクはさして興味も示さず、タイチの方さえむかずに頬杖をついて窓の外を見ていた。
 グラウンドを挟んで向こうにある校門を国栖が閉めているのが見えた。

「校門の前に灰色の目隠しをしてる男の子がいるんだって」

「それ、七色不思議だろ?」

「うん。そうなんだけどさ、その男の子は女神の子どもの鬼じゃなくて、昔この学校で七色不思議をやって、鬼に食べられちゃった子どもなんだって。それで、灰色の目隠しをしているのは、何でもそれをつけてると、鬼の目から逃れられるからなんだって」

 その言葉にまた、悪寒が全身を駆け抜けていく。いや、タイチの言葉のせいではない。
 その、国栖が閉める、校門の、門柱に、誰かがいる。
 青い、着物姿の男の子。栗色の収まりの悪い髪の毛の、色の白い痩せた子供。
 ちょうどタスクの小学生時代のような――。
 ――そして、目には灰色の布が、目隠しをしている。

 門柱に腕で目隠しをするようにもたれて、それはまるでかくれんぼで数を数える鬼の仕草そのもの。

――もういいかい。

 男の子の声だ。教室の喧騒も、鳥の鳴き声も、風の音も、何もしない。
 全てが灰色の石のように固まっている。目の前のタイチさえも。
 その中で、唯一色彩を持った目隠しの男の子が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 目隠しに覆われた目でこのグラウンドを挟んだ三階の、この教室のこの窓を見て。
 いや、――ボクを見て。

――見ぃつけた。

 そう言って、笑った。その笑みは、徐々に校庭の熱が産む陽炎に溶けていく。
 ぼやけていく。段々にその輪郭を失い、世界が色彩を取り戻す。

「――だからー、そんなタスクに、おまじないに灰色のスカーフを持ってきてやったぞ。これで目隠しすればばっちり! いいアイディアだろ? おい、聞いてる?」

 いつの間にかタイチが怒った顔をしていた。
 タスクは我に返って、顔を手で覆った。

「い、今――」

「あん?」

 タイチは怪訝そうな声を出す。
 それが雄弁にタイチは何も感じていないことを物語っていた。

――ボクだけに見えたんだ。ならば、今のが。あれが。
――色鬼、灰音。

「もしかして――何かいる?」

 タイチは今更のように声を潜めて聞いてきた。
 タスクはその配慮をもっと早くにしてほしかった。
 いや、同じことだったのかもしれない。
 タイチがその噂をしようがしまいが、あの鬼は、ずっと校門にいたのだろう。
 おそらく、それ以上入って来られないために。

 これもまた山下の言った通りだった。
 今の所、山下の言葉は全て当たっている。

 チャイムが鳴り、トンボがやって来た。
 短髪の少女は、肩にかけたタオルで顔を拭く仕草さえどこか爽やかで、見た目陰鬱な男二人組とは対照的だった。
 トンボはその陰気な二人に、はつらつとした声であいさつをする。
 タイチは元気よく答え、タスクはうん、と小さく言った。

「そう言えばタスク、確か蝶野先輩が、今日のお昼休み、生徒会室に来るようにって」

 トンボはタスクに近付いて、まずそう言った。
 その言葉にタスクは一気に気が重くなる。

「それより、何の話をしてたの?」

「それがさー、トンちゃん聞いてよ」

 タイチが話そうとしたとき、担任がやってきて、そのままホームルームになった。
 タイチは不満げに頬を膨らましていたが、灰色のスカーフだけタスクに渡すと、席に戻って行った。
 クラス委員のトンボとタスクはそのまま壇上に立ち進行を務める。

 鬼に見つからないように、灰色の目隠しを――。
 タイチの言葉が反芻される。タスクはさっき見つかってしまった。
 今からでも灰色の目隠しをつければ、鬼の目から逃れられるのだろうか。
――アホくさい。

「出席を確認します。青葉君――」

 タスクは間抜けな考えを振り払うように、いつもより大きな声で点呼を取った。
The Evil Gray stands school gate
»»  2013.09.02.


 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。
 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。
 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。
 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。
 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーから、校門を隠れるように覗き込む生徒の一群があった。

「なんだい、この集まりは」

「あ、篠塚さん、ほら、あの人」

 トンボが声をかけるとその中の女子の一人が指をさして校門の方を示す。
 トンボも彼女達に倣って顔だけ出して覗くと、そこには人影があった。
 心臓がドキリと鳴る。
 持てる視力の全てを持って、その人物の全容を見ようとした。
 男は校門の脇に立ってずっとこちらを見ている。

「ね、なんか怖いでしょう?」

「何が? 普通の人じゃないか?」

「普通の人ならあんな風にずっと立ってたりしないって。待ち合わせにも見えないし、やっぱり、吸血ジャックかしら」

 はぁ、とトンボは上擦った声を出す。
 
「私知らなかったんだけど、実はこの学校去年生徒が吸血ジャックに殺されてるんだって」
「あ、それ私も聞いた。でも学校側は隠ぺいしてるって」
「学生が犯人かもしれないからだって聞いたけど……」
「ほら、今放課後居残りでしょ、あれってやっぱり吸血ジャックの被害があったからみたいなんだって。確か北市街のカササギビルって所で」

――なるほど、いくら警察が対応していようと、学校側が隠していようと、人の口に戸は立てられないものだ。
 さすがに普通の生徒も、つまりここにいる女子達のような、全く関係ない生徒でも、気付き始めたのだ。
 どうやら今が、普通の状況ではないと。
 そこに不審な男が現れ、火に油が注がれて、吸血ジャックかもしれないなどという話になったのだろう。

――でも、こんな白昼堂々と……。

 トンボはもう一度壁から顔を出した。
 男は相変わらず門の脇に突っ立っている。
 今にも降って来そうな黒ずんだ鈍色の雲の下で。
 まるでトンボには男が雨を運んできているようにも見えた。

「あ、篠塚さん!」

 トンボは心を決めた。自分は生徒会の一翼を担っているのだ。
 校内に不審者がいるなら、確かめる義務がある。例えそれが――。
――吸血ジャックであろうと。

 トンボは靴を履き替え、つかつかとその不審者に近寄っていく。
 男もまたトンボに気付いたらしい。
 不審者であれば、立ち去るとか逃げるということがあってもいいはずだ。
 しかし、男はただ無表情に立ち尽くしていた。

「あの!」

「篠塚……トンボ、かな」

 男は小さいがよく通る声で呟いた。トンボは名前を当てられて少し動揺する。
 男は割ときれいな身なりをしている。遠くで見るよりだいぶ若いようだ。
 高校生、いや大学生だろうか。
 黒いシャツに黒いズボンで肩から黒い鞄をさげて――全身黒ずくめである。

 小奇麗な顔で女みたいだ。似てはいないがそのキーワードから兄を思い出してしまう。
 兄はどこか幼い印象を持っていた。
 だが、目の前の男はそういった幼さを全く感じさせない。
 目は怜悧でどこか悩ましげで、顔全体からは知的な印象を受ける。
 鋭いのだ。顔の形も、漂う雰囲気も。
 ただ立っているだけでも、ボーっとしているようには見えない。
 瞑想にふけっている、あるいは思索に没頭しているように感じられた。

 きっとこんな時期でなければ、玄関に集まった女子の群れの評価も違ったのだろう。
 連続猟奇殺人鬼のような男ではなく、突如現れた謎の美男子になっていたはずだ。
 いや、もしかしたらあの集まりはそういうものだったのかもしれない。
 あの人になら殺されてもいい、くらいのことは平気で彼女達は言うだろう。
 それほどに誰も去年のことは何も知らないのだ。特に一年生は。

「篠塚トンボはボクですけど、何か御用ですか?」

「連れが上にいる」

「連れ?」

 生徒の父兄ということだろうか。あるいは教師の兄弟か子どもか。
 上にいるという言葉は二階ということか。
 しかしいずれにしても、こんなところで待たせているのは失礼にあたるだろう。

「あの、お待ちならどうぞ中へ」

「いや、それには及ばない。もうすぐ来るだろうから。……そうだ、最近七色不思議について、新しい噂が流れていないかい?」

 男は唐突にそんなことを言い出した。

「え、ええ、確か、灰色の目隠しの男の子が校門前にいて、っていう話、ボクは今日初めて聞きましたけど……、失礼ですがお名前をうかがってもよろしいですか?」

 学校も不手際だと思う。
 不審者ならこんなふうに学校に放置しておくのは不用心だ。
 そうではなく学校の関係者の類縁なら、こんなふうに待たせておくのは失礼だろう。

「萩原充(ハギワラ ミツル)。篠塚は優秀な男だった」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 少し遅れてそれがどうやら兄のことを言っているのだと気付く。
 兄の友人だったのだろうか。
 トンボは尋ねようと思ったが尋ねる前にその名前に思い当たった。

 萩原ミツル――去年の、六十二代生徒会男子副会長だった男だ。
 そうか、兄は生徒会会計だったから、面識があるのは当然と言えば当然だ。
 六十二代生徒会は四人しか構成員がいなかった。
 それはこの時代の伝説が伝説たる所以の一つだ。
 会長神楽崎ユミエ、副会長萩原ミツル、書記蝶野カイコ、会計篠塚アゲハ。
 いや、その四人は――。

 そうだ、昨日、山下の話だ。
 確か、あの男はミツルが兄の殺害に関与しているという推測を語った。
 その人物が何故、こんなタイミングで、トンボの前に登場する。
 あまつさえその人が吸血ジャックかもしれないと噂されているなんて、出来過ぎている。

「兄は……兄が、お世話になり、なってました」

 口がうまく回らない。
 自分でもびっくりするくらい、トンボは動揺していた。

――もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。
 山下はユミエとミツルを指してそう指摘した。

「僕は何もしていない。興味深い男だったが――」

「どうして……」

 ミツルの言葉を遮ってトンボは言った。

「どうして、学校に来たんですか? これじゃあ、これじゃああなたが、あなたたち六十二代生徒会が、兄さんを殺したっていう、あの推理が、当たってることになっちゃうじゃないか! どうして、何しに来たんですか! まさか、本当に――!」

 それは間違いなくあてつけだった。
 それでもトンボにとって、山下のその推理が当たることは何よりも避けなければならないことだった。
 それが正しいとすれば、兄は三人の女子生徒を殺していた犯行に関与していたことになってしまう。
 兄はいつも楽しそうに学校に行って、自分の生徒会を誇らしげにトンボと姉に食卓で語っていた。
 その兄が、その生徒会が、恐るべき殺人集団だったはずがない。
 それを認めることは耐えがたいことだった。
 その思いが、トンボの口から零れ出す。

「――篠塚アゲハを殺したのは僕じゃない。同様に、この学校で殺された三人の女子についても、僕は潔白だ。僕だけじゃない、神楽崎も小野宮も、そして篠塚も。ただ――証明はできない」

 ミツルは表情を変えずに淡々と言った。
 そんなのあんまりだ、とトンボは思った。
 無実なら、はっきりとあの山下に言って証明してほしい。
 兄が死んで、ものを言わないことをいいことにあることないこと言いまくったあの男に。
 どうか兄の潔白を晴らしてほしかった。
 兄の無実を証明してほしかった。
 トンボは思いの丈を瞳に込めて、じっとミツルのその伏し目がちの両目を見た。

 ミツルは一度トンボから視線をはずして、学校の校舎のはるか上の方を見た。
 その時、猛烈な風が背後から吹いてきた。
 トンボは背中を強く押されるようにして、思わずミツルの方に倒れこんでしまう。
 学校の方から黄色い歓声がトンボの耳にも聞こえた。
 風はすぐ収まった。トンボは慌ててミツルから離れる。

「すす、すいません」

「いや、謝るのはこっちの方だ、連れが戻ってきた。すまない、悪戯好きな風でね。トウタ、あまり人を驚かすな」

 何を――言っている。

 ミツルの隣には誰もいない。
 いや、学校から出てきたものなどトンボ以外に誰もいない。
 今もミツルの周囲にはトンボしかいない。
 連れが戻ってきただなんて、どこにいるのか。

 ミツルの視線はなぜか、さっきからトンボの頭の上あたりをじっと見ている。
 そこに何かいるかのように。
 トンボは不気味に思って上を見上げるが、当然何もいない。

「やはり結界か……そうなると、吸血ジャックの犯行はこのことを知っていたことになるな。しかし何故この学校に結界を張った?」

「吸血ジャック? あの吸血ジャックですか? やっぱり何かあるんですか?」

 ミツルの不思議な独り言にトンボは食いついた。ミツルはトンボを見て一言呟いた。

「アゲハの死を知りたいなら、七色不思議を探すことだ」

 行こうトウタ――。

 ミツルはそう言って歩いて学校を離れて行った。
 トンボは茫然とその後ろ姿を眺める。
 昼休みが終わろうとしていた。
 トンボの頭にぽつりと冷たいしずくが当たる。
 雨が降り出したらしい。

Dragonfly meets The Angel with Pink wind
»»  2013.09.02.


 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。
 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。
 もう五分は立ち尽くしているだろうか。
 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。
 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。

 コンクールの件だろう。
 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃げ出したことでかかった迷惑。
 蝶野カイコは合唱部の部長でその舞台の指揮者だった。
――怒られるのだろう。正直なことを言えばまた逃げ出したかった。

 そんな風に悶々としているタスクの目の前のドアが、勝手に開かれた。
 タスクは驚きのあまり小さく息を呑んだ。
 立っていたのは吉沢ハヤテだった。
 いつもカイコの影のように付き従っている二年生の男子。
 常にカイコの鞄を持ち、その一歩先を行きドアの開閉までをも執事のようにこなす男。
 それだけでもごく普通の高校生のタスクからすれば十分に変人だったが、服装も一風変わっていて、今日は濃い 青い色のシャツに黒のスーツのベストとズボンを着ていた。
 髪の毛もサイドバックにし、左目を前髪で隠すという、どう考えてもコスプレのような恰好をしている。
 それだけ個性の強い恰好をしていれば、どこにいてもよく目立ちそうなものだが、その寡黙な性格のせいか、往々にして、カイコにその存在を指摘されないと、誰もが見落としてしまうほど、存在感が希薄な人間だった。

「どうぞ」

 ハヤテはほとんど口を動かさずに小さな声で言った。
 その後ろに会長席に座ってファッション雑誌を読んでいるカイコが見えた。

「なんだ、いたならばさっさと入ってくればいいのに。迷って決断を遅らせると、ずっと迷っていることがいつか気持ちよくなって、何かを選択することそのものから逃げることになってしまう。入りたまえ。坂崎タスク君」

 カイコはこの蒸し暑さに辟易したように手にしていた雑誌を机に伏せて言う。
 タスクはそれでも部屋に足を踏み入れるのを躊躇した。

「――なんだね、そんな叱られる子供のような顔をして。高校生にもなって分別のない顔をするんじゃない。私は君を叱ったりしないよ。むしろ、その逆だ」

 え、とタスクは小さく言う。
 見かねたカイコが吉沢君と呼ぶと、ハヤテがタスクの肩を押して、中に連れ込んだ。
 タスクは転びそうになってそのまま部屋の中央に躍り出る。
 後ろでハヤテがドアを閉める音がした。

 その音を聞いて、タスクの心臓が跳ね上がる。
 何も怒られることだけが怖いわけではなかった。
 蝶野カイコは――山下によればこの学校の生徒を殺した犯人かもしれない人物だった。
 そして自分は、吸血ジャックにその命を狙われているかもしれないよみがえった死体で。
 今、その容疑者とその片腕のような存在に前後を挟まれている。

 山下は学校にいれば色鬼からは逃れられると言った。
 それでタスクがすっかり安心していて気付かなかった。
 色鬼から逃れられたとしても、学校の中に吸血ジャックが、あるいはそれに見立てて生徒を殺した殺人鬼がいるかもしれないという可能性を。

「実は――君に謝っておこうと思ってね」

「え――」

 恐怖による緊張が最高潮に達していたタスクはカイコの言葉に虚を突かれた。

「先日の――日曜日の件。私は、君が極端に緊張に弱いということも知っていた。だが、あえて君を伴奏者に選び、舞台に立たせたのは、もしかしたら、君のそのあがり症を、何とかできるのではないか、なんて思いあがっていたからかもしれない。私は自分が教師にでもなった気でいたんだ。人を成長させ、指導する力があると。そんな私の高慢さが君に深く傷をつける原因になった。それをあの日、思い知ってね。ずっと君に、謝ろうと思っていたんだ」

――すまなかった。
 カイコはそう言い、タスクに向かって深々と頭を下げた。
 傲岸不遜で、いかにも唯我独尊といったカイコとは思えない、しおらしい行動だった。
 タスクは返す言葉がわからず、むやみに手を振った。

――怒らないのか? 怒っていないのだろうか、この人は。

「あの後、とにかく君のことが心配でね。電話がつながらなくてひょっとしたら早まったことにでもなってないかと思っていたんだが。月曜日にちゃんと出てきてくれて安心した。本当はその日に言おうと思っていたんだが、結局こんなに時間が経ってしまった。その後もどうにも本調子ではないようだし、もしかしたら私が思っているより、ずっと君を傷つけてしまったのではないだろうか。こんな言葉だけでは慰めにならないかもしれないが、あれは君のせいではない。もしそのことで自分を責めているなら、もう気にしなくていい。合唱部の伴奏がつらいようなら、今後は別の人に頼む。だからどうか、思いつめないでほしい」

――心配? この人が、ボクを?

 タスクには全く信じられないことだった。
 蝶野カイコという人は、他の人を頭一つも二つも飛びぬけていて、周りのことなど気にせずに、自分の進みたい道を勝手に行ってしまう人間だと思っていた。
 タスクのことなんて、少しも歯牙にかけていなくて、ただ失敗した使えない人間と落胆されたものだと思っていた。
 そして、そのことで糾弾されるのだと。

 思いもよらぬカイコからの謝罪と、タスクを気遣う優しさを見せられ、タスクはカイコに抱いていた偏見のようなイメージが少し変わった。

「あの……それで、話って」

「ああ、これを言いたかったんだ。君に一度はっきりと謝っておきたくて、ずっともやもやしていてね。昨日は病院で暴れたというし。まあそれはこっちの方で何事もなかったことにするように手配したが」

 カイコが手を打ってくれたのか。
 だから学校からも警察からも何もなかったのか。

「――もしかして、君は、何かとても大変なことに見舞われているんじゃないか? 何かとても重大なことを、誰にも言えないでいるんじゃないか?」

――ああ、この人は。

 ようやく、聞いてくれた。
 タスクはこれまで自殺の話や頭の中でする声について、いつも自分から切り出していた。
 国栖にも、山下にも、自分から言わなければならなかった。
 自分で自分がおかしいのだと言うことは、とてもつらいことだった。
 でも、この人は、気付いてくれた。タスクが今とてもつらいことを察してくれた。

「――実は……」

 そしてタスクは、日曜日の自殺から始まった、今も続く長い苦しみの胸の内をカイコに語る。
 いつの間にか外は雨が降り出していた。
 生徒会室には外の喧騒が遠く、静かな雨音だけが響く。
 カイコはずっとその話を遮らず、ただ頷きながら聞いてくれた。

「――すると、今の君は日曜日にすでに死んでいて、松木君を殺すために、その色鬼とかいう怪異によって生き返り、今なおそれに自我を奪われるかもしれないと、怯えている、ということかい?」

 カイコは右手で扇子を開いたり閉じたりを繰り返しながら言った。

「――信じてもらえないかもしれませんが、本当なんです」

 カイコは目を閉じて深く椅子にもたれかかった。
 
「にわかには、信じがたいね」

 やっぱり、そうか。自分でだって、確信を持っているわけではない。
 心のどこかでは、日曜日から今日までは全て夢で、いつものように目覚ましに起こされることを望んでいる。

「それが本当なら、私はいよいよ君に対して申し訳が立たない」

 カイコは目を開けて天井の蛍光灯を見ながら言った。
 そしてタスクを見る。タスクは小さくえ、と呟いた。

「だってそうだろう。畢竟君が悩まされている悪霊に取り憑かれたのは、自殺したからじゃないか。そしてその自殺の理由はあの日曜日の舞台にある。そこに君を立たせたのも、その結果君を追いつめてしまったのも私だ。私が君の気持ちをもっとちゃんと考えていれば、君の今の状況はなかった――違うかい?」

「あ――いえ、でも」

 タスクはずっと自分のせいではないと言ってもらうことを望んでいた。
 それなのに、カイコが今のタスクの状況をすべて自分のせいだと言うのには、何故か抵抗感があった。
 タスクはカイコのせいではない、と言いたかった。でも、言葉が出てこない。

「死んだ人間は、生き返ったりしないよ」

 不意にカイコが言う。

「死は絶対だ。生きているものは必ず死に、そして死んだものは決して生き返らない。それはこの宇宙を支配する絶対の法則だ。幽霊だろうが、妖怪だろうが、鬼だろうが、その法則を曲げることは絶対にできない」

 タスクは自分の経験していることが世迷言と言われているようで何だか嫌だった。

「だからね、もし君が本当に死んでいて、生き返ったのなら、それは奇跡なんだ。あのキリストが磔刑されて、その三日後に復活したことと同じ、いや、もしかしたらそれ以上の、考え難い、起こるはずのない、奇跡」

 奇跡? とタスクは繰り返す。
 今タスクが経験していることは、到底そんな美しい事柄には思えなかったが。

「私はね、坂崎君、死人を生き返らせようとしたことがある。君ももう聞いているかもしれないが、この学校に伝わる七色不思議の噂があるだろう? 私はそれを一度だけ試したことがある」

「それって――篠塚アゲハさんを、ですか?」

 タスクは思わず聞いた。
 カイコはそれを聞くと彼女にしてはとても珍しく驚いたような顔をした。

「アゲハのこと――知っているのかい?」

 カイコは扇子を広げて口元を隠して聞いた。
 タスクはしまったと思う。声がさっきより明らかに低くどすの利いたものになっていた。

「あ――えっと、だからその、噂で」

 タスクは適当なことを言ってごまかそうとした。

「噂?」

 カイコの目つきが鋭くなる。タスクは射すくめられて、観念した。

「昨日、タイチの叔父さんの警察の山下さんから、教えてもらったんです。病院で騒ぎを起こして、カササギビルでフェンスが落っこちてきた後、山下さんが調書を取るからって交番に連れて行って、そこで教えてもらいました。去年この学校で起こった事件のことも、色鬼のことも」

 カイコは扇子を口の前でとじ合わせ、あの人か、と呟いた。

「そこで――あなたが、あなたたち六十二代生徒会が四人の生徒を殺した犯人かもしれない、と。蝶野先輩、いや、本当は小野宮って言うそうですね。あの小野宮グループの社長の娘さんだって」

――私のことを小野宮と呼ぶな。

 突然聞こえた低い声はカイコのものだった。
 しかしカイコが本当に言ったのかと疑ってしまうほど、普段の声とはかけ離れた冷たい声だった。
 驚きのあまり目を白黒させてカイコを見るタスクに、カイコはくすりと笑いを漏らした。

「余計なことをあることないこと吹き込んでくれる。あの人は去年もそういう人だったからな。前半は全面的に否定しよう。私たちが四人の生徒を殺した犯人、これは絶対に違う。神に誓ってもいい。ただ、私が小野宮グループ総帥、小野宮蓮穣の娘であることは事実だ。ただ、父にはあともう二人息子がいるし、私は代わりの代わりの代わりくらいの扱いで、だから公立の学校にしか通わせてもらえないがね」

 自嘲気味にカイコは言う。
 そう言われれば、世界規模の資産家の娘が公立高校にいるというのも変な話だ。

「前妻との間に男児がいて、つまり、私には血の繋がらない兄が、いたというべきかな。本来ならその兄が次期総帥であり、実際彼は才能も実力も、器量もそれにふさわしい人物だった。だが、ずっと昔に消息不明になってしまった。おかげで今小野宮グループは水面下で跡取り競争に必死でね。私まで、その座につけて利益をすすろうとする有象無象がうごめいている。そういう人間にとって、去年この学校で起こった事件はどう映ったと思う? あるいは今の総帥、小野宮蓮穣をその座から引きずり降ろそうとしている人間の目には」

――それは。タスクには権力闘争とか、そういうことはいまいちよくわからなかったけれど。
 それでも権力の座にある人間の身内が殺人事件に巻き込まれていて、あまつさえその容疑者として疑われているなんて情報は、悪用されればこの上なく厄介なものだろう。

「私が小野宮ではなく、母方の旧姓を名乗っているのは、せめてそう言うことから自分なりに身を守ろうとするささやかな抵抗だ。別にそんなことをしなくても、蓮穣は私のことなど小娘としか――いや、ただの石ころか何かとしか思っていないだろうけど」

 それはともかく、とカイコは一度自身に関する話題を打ち切った。

「とにかく私は、他の生徒に比べれば圧倒的に財力や権力に恵まれた境遇にありながら、そして生徒の最善の利益を保護する生徒会の一翼を担っていながら、殺人者の凶行から誰ひとり救ってやることができなかった。たった一人の親友さえ」

 それはおそらく、アゲハのことを指しているのだろう。

「悔しくて悔しくて、自分の無力が情けなくて、私は七色不思議なんて言うおまじないにさえ縋った。でも結局、アゲハは生き返らなかったし、何も起こらなかった。だからね坂崎君、死んだ人間が生き返る、なんてことは、あり得ないんだ。もしそんなことが本当にあったなら――それにはきっと、何か深い意味がある」

「深い、意味、ですか? ――もしかして」

 それは例えば、タイチを殺すとかいうことだろうか。
 カイコはタスクの思いを先読みしたように破顔してそうじゃなくてね、と言った。

「そんな呪わしいことじゃなくてね、例えば、君はその復活が、君自身の意志によって行われた可能性を考えたことはあるかい?」

「ボクの?」

「そう、無理やりに生き返らせられたんじゃない。君は君自身の望みによって、復活したのだとしたら? 君自身が生きたいという願いによって復活したのなら――ならば君はそれに足るだけの願いがあったんじゃないだろうか」

――願い? ボクはただ、自分が消えてしまうことしか考えていなかったと思うけれど。

 そう言うとカイコはそうだなぁ、と閉じた扇子を口に当てた。

「どうして、君は消えたいと思ったんだろう」

「それはだって――、生きてるのがつらくて、何をやってもうまくいかないし、期待に応えられずに失望ばっかりされて、それがこの先もずっと続いていく、お先真っ暗な人生だから、だから、消えたいって、死体も見つからずに、思い出も残さずに、誰の記憶からも、消え去れればいいって」

「ほらね」

 カイコはピッと扇子でタスクを指して、意を得たように笑った。

「それは裏を返せば、生きるのがつらくなかったら生きたいってことじゃないか。誰かの期待に応えたいっていうことじゃないか。消えたいっていうのはそうやって誰も悲しませたくないっていう気持ち。君は、自分が思うように生きられないから辛くて消えたい――それはつまり、もっとうまく生きたいってことだ。誰も君のその生きたい気持ちに気付いてくれないから、気付かれないままに消えてしまいたいんだ。君は誰より生きたいと思っている。みんなの期待に応えたいと思っている。それが君の、本当の気持ちなんだ」

 カイコの言葉にタスクは心臓を貫かれた気がした。
 大胸筋が覆って、肋骨が厳重に張り巡らされたその奥にある、自分の心の一番敏感な部分に触られた気がした。

「だから、その気持ちを神様みたいなものが聞き届けてくれて、この宇宙を支配する因果さえ超越して、君に新しい命をくれたんじゃないかな。だとすれば、君の体に宿っている新しい命は、奇跡なんだ。君の切なる願いがもたらした条理を覆す福音」

「……でも、頭の中の鬼が」

 タスクの中で灰音はいつだってタスクを乗っ取ろうとしていて、そしてタイチを殺す機会をうかがっているのだ。

「それが試練、なんじゃないかな」

「試練?」

「君が一度死んで、生き返るという奇跡のために君が君自身の力で乗り越えなければならない試練。君が心の中の鬼に負けてタイチを殺してしまえば、その後君は吸血ジャックに殺される。でももしも、鬼に打ち勝つことができたなら――君はその新しい命で、今度こそ幸せになることができる――なんて、ちょっと夢見がち過ぎる話だったかな。忘れてくれたまえ」

 カイコは扇子を広げて、顔を隠すようにして笑った。
 隠しきれていない頬が少しだけ赤い。
 ああ、この人は、見た目よりずっと、年齢相応の少女なのだ。
 そう思ってタスクの鼓動は浮かれるように少し速くなった。

「何はともあれ、自殺が実は夢だったにせよ、実際君が生き返っているにせよ、君が今生きているという事実は動かない。だったらね、坂崎君、やることは一つだよ」

 カイコは扇子を閉じて人差し指を添えてタスクの心臓をまっすぐ指差すように伸ばして言う。

「生きたまえ。決して死のうなどとは考えず、がむしゃらでもいい、見苦しくてもいい、つらいことがあったら迷わず誰かに縋り付いて構わない。迷惑をかけることだってあるだろう。でもそんなことに構わず、君は君の命を、生き抜くんだ。それが、生きるものに等しく与えられた使命だよ」

 カイコがそう言ったところに、昼休みの終わりを告げる始業五分前の予鈴が鳴った。

「――すまん。話題がそれっぱなしだったね。とにかく私は、日曜日の件で、君に謝っておきたくて今日呼んだのだけれど。それで、君の方はどうだろう――実は秋に関東地区の合唱祭があるんだが。伴奏を――頼みたい」

――この人は、それでもまだ、ボクのことを頼ってくれるのか。

「……少し、考えさせてください」

 カイコはフッと笑った。

「そうだね、返事はいつでもいい。君の中で、何かの区切りがついて、どちらの答えでも、私の前で胸を張って言えるようになったら、その答えを聞かせてくれたまえ。今日はこれで用事は終わりだ。下がっていい」

 タスクは一礼して、生徒会室を後にした。
 何があったわけでもないのに、なんだか足取りが軽くなった気がした。
The Silkwarm: It may sound like love
»»  2013.09.02.


 放課後には雨は止んでいた。
 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。

 授業が終わり、今は四時四十五分。
 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。
 何をして時間を潰したものか。
 考えていると確かヨースケと約束をしていたことを思い出した。
 場所は禅定寺だったか。
 そこに、去年この学校で起こった事件の第二の犠牲者である潮ヶ浜夜の墓があるという。

 禅定寺はここからそう遠くない。歩いて十五分くらいだ。
 幸い雨もやんでいるし、ヨースケは放課後と言っていたから、歩いて向かえばいいだろう。

「トーンちゃーん!」

 靴を履きかえるトンボの耳に聞こえてきたのは間の抜けたタイチの声だった。
 トンボはあえてそちらを見ずに、何、とそっけなく返事をする。

「今日はーせっかく部活がなくて、タスクのお見舞いもないのでー、オレと一緒にー」

「悪いけど、この後禅定寺に行かなくちゃいけないんだ」

「え? 何故に? まさかデート? なわけないか。デートにしても禅定寺は渋すぎるし」

 トンボはタイチに本当のことを言おうか迷った。
 言えば確実にタイチはついてくるだろう。
 だが、多分ヨースケはトンボ以外の人間がついてくることを望まない気がした。
 それに、そんなにかき回していいことではないような気がする。

「――お墓詣り。悪いけど、ついてきてほしくはないんだ。なるべく一人にしてほしい」

 トンボはタイチに言う。嘘はついていない。
 本当のことも言っていないけれど。
 タイチはほっぺたを膨らましてちぇ、と言った。

「せっかくトンちゃんとデートしようと思ったのにー、もういい! オレ、タスクと一緒に超えてはいけない一線を越えちゃうから!」

「ごめんごめん。今度ちゃんと時間作るからさ。今日は見逃して」

「もう、今度っていつよ! あなたいっつもそう言って! もう知らない!」

 タイチはわざとらしく泣き出したように腕で目を拭って玄関を駆け抜けた。
 トンボは大きくため息をついた。
 あれはあれで巻き込まれない分には愉快な友達なのだけれど。

「ご愁傷様……」

 後ろからぼそぼそとした声でつぶやかれ、トンボはびっくりして振り返った。
 タスクだった。相変わらず目線は合わせず、わずかに斜め下を見ている。

「お墓詣りって、お兄さんの?」

「あ、ううん、それとは違うんだけど――ごめん、ちょっと急いでるんだ。また明日ね」

 トンボはこれ以上足止めを食らうとヨースケが帰ってしまうと思い適当に話を打ち切って、タスクに手を振って別れを告げ、玄関を出た。
 雨は止んでいたけれど、曇り空の雲は厚く、それでいて街はむしむしとうっとうしい暑さが立ち込めていた。
 少し歩くだけで服にジワリと汗が浮かぶ。不快な暑さだった。
 
 トンボが禅定寺の霊園に入ると、そこには墓参りする家族があった。
 その中にヨースケを見つける。
 では、あれは、おそらく潮ヶ浜夜の家族。
 トンボは堂々としていればいいのに、何故か影から窺うように身を隠してしまう。
 さすがに遺族と会うのは気が引けた。
 ヨースケがここに来いと言ったのは、家族と引き合わせるためだったのだろうか。
 だとしたら思いのほか人が悪いと言わざるを得ない。

 家族は墓を清め、墓を花で飾って、ろうそくを灯し、焼香をする。
 思い思いに何かを言っていたようだが、何を言っているかはわからない。
 やがて、ヨースケもその墓に線香を供え、手を合わせた。
 そして、家族が帰るのを、頭を何度も下げて見送る。
 家族の姿が見えなくなってしばらくして、ヨースケは大きな声で出てきていいぞと言った。

――気付かれていたのか。
 別にヨースケの方から呼んだのだから、負い目を感じる必要は何もないはずだった。
 それなのに、何故だかいたずらがばれて兄に叱られる前に名前を呼ばれるような気になった。

「よぉ、トンボ、悪ぃな。待たせちまったみたいで。――そっちに隠れてる二人も出てきたらどうだ! 別に今更怒らねーよ!」

 ヨースケはトンボとは逆側の墓石の列を振り返って言った。
 その影から、ひょっこりとタイチとタスクが顔を出した。

「タスク! ……それにタイチ……」

 驚いたようにタスクの名を呼び、その後に睨みつけてタイチの名を呼ぶ。
 タイチは何その差! と心外そうだが、タイチがタスクを誘ったに違いなかった。

「つけてきたのか?」

「ぶっぶー、外れー、先回りしたんですー! トンちゃんが禅定寺に行くって言ってたから、タスクを誘って走ってトンちゃんより十分前には着いてましたー!」

「タイチ!」

 トンボは怒鳴った。タイチは怯まない。
 代わりにタスクが居心地悪そうに視線を落ち着きなく動かした。

「君は、今お墓詣りしてた人達が、どういう人達だか、ヨースケ先輩がどういう立場なのか――」

「やめろトンボ」

 言ったのはヨースケだった。
 トンボが振り返ると、そこにはいつもの陽だまりのような大きな笑顔があった。

「友達は仲良くするもんだぞ。――それにヨルのことはお前が松木を怒る理由にはならない。オレは怒ってないんだから、お前が怒ることもないんだ」

 ヨースケは言って大きな手でわしわしとトンボの頭を撫でた。
 昔兄がしてくれたみたいで、なんだかトンボは懐かしくてたまらなくなった。

「よーし松木、女の子をつけ回すのはよくないけど、つけ回したくなるお前の気持ちはよーくわかるぞ! それに、お前ら、やっぱり何かあるんだろ。病院のことと言い、トンボの態度と言い、怪しすぎるぞ。この事件に関しては色々嗅ぎまわられるのは、俺としてはすごく気分悪い、だから正直に白状しろ。お前ら、何をしようとしてるんだ?」

「オレは別に――」

「ボクは、去年起こった式部北高校生徒連続殺害事件の真犯人を探しています」

 タイチの言葉を遮ってトンボは言った。
 真犯人、とヨースケは眉をひそめる。

「何でこう、アゲハ先輩と同じことを言うかねぇ、それ、お兄さんから聞いたのか? この事件、吸血ジャックが犯人じゃないって」

 いいえ、とトンボは静かに答える。

「タイチの叔父さんの警察の人から聞きました。この事件には他の吸血ジャック事件には見られない特徴があって、吸血ジャックの犯行じゃない可能性があり――そしてそうなら、四人を殺した犯人は学校関係者かもしれないと」

「で、お前は六十二代生徒会を疑ってるってわけか。でも、それで行くなら、多分その推理は間違ってる」

 ヨースケが断定的な口調で言う。
 トンボは本当ですか、と思わず声を弾ませた。
 そうでなければいいと思って疑っているから、ヨースケの言葉は嬉しかった。

「ああ、だって、オレは去年同じ語り口でアゲハ先輩にヨルのことで何か知ってることはないかってさんざん聞かれて、日記を渡してるからな。もし旧生徒会が犯人で、言っちゃ悪いがお兄さんが関与してたとしたら、そんな行動取るわけないだろ? その後にアゲハ先輩は殺されてるからカモフラージュのためだったとも考えにくい」

――それは、そうだ。
 アゲハが犯行の一部を担っていた、いやそこまでいかなくても、六十二代生徒会が犯行を重ねていることを知っていたなら、わざわざ真犯人を探してヨースケに話を聞く必要はない。ならば、やはり――。

「まあ、結論を急ぐな。仮定の話をしよう。吸血ジャック事件、いや、去年の式部北高校で起こった四つの殺人事件が、吸血ジャックに見せかけるための犯行で、それが学校関係者によるものだと仮定する。その場合犯人にとって一番都合の悪い存在ってのはどういう奴だと思う?」

 聞かれてトンボはううんと考え込んだ。
 犯人にとって一番都合が悪い、それはやっぱり推理力が豊かで、洞察力に富んでいて、些細なことからも犯人を特定する観察力を持った探偵のような人物が――。

「去年の事件を知っていて、かつその犯人を探そうとする可能性の高い人間、その中でも、教師、あるいは学生として日常的に学校に出入りする人物――つまりは、去年の事件の被害者の身内で、今この学校の一年生で、まさにその事件を調べようとしている、よーするにトンちゃんのことだよ!」

 タイチは自信満々にトンボを指さして、長い前髪の下で不敵に笑う。

「人を指さすのはよくないぞ。特にお墓ではな。まあそう言うことだ。松木の言う通り。犯人が本当に学校関係者で、まだ学内にいる人物だとしたら、一番チェックしているのは去年の被害者の身内、あるいは親しかったもので、学校に頻繁に出入りする人間、つまり、俺やトンボのことだ。そういう人間がこれ見よがしに事件を調べてますよーとかって行動し出したら、犯人はまず何をする?」

「その人物の、抹殺!」

 ぐわしと拳を握りしめてタイチがまたも自信満々に言う。
 タスクはその後ろ髪を一度引っ張った。

「いい加減にしておけ。そういう空気じゃないことに気付け」

 タスクが不快そうに言う。

「何だよもー、みんなが葬式みたいな暗い顔してるから、明るくしてやろーと思ってやってるのに! わかったよ、真面目に答えればいいんだろ! 真犯人が学校関係者で、被害者に親しかった人が、過去の事件の捜査をしていることに気付き始めたら、だろ、そんなの決まってんじゃん、何食わぬ顔して近付いて、味方の振りをして自分が疑われないように推理を誘導して間違った方向に疑いをかけるんだよ」

――味方の振りをして、間違った方向に疑いをかける……?
 トンボはタイチの言葉にぞっとする。
 それならば、今トンボは六十二代生徒会を疑っていた。
 その疑いを持たせたものこそが犯人と言うことになる。
 すなわち――山下勝彦が。

「――でも、山下さんは犯人じゃないぜ」

 トンボの考えを読んだようにタイチが言った。

「すげーなお前。松木って馬鹿だと思ってたんだけど、それ正解だ」

 ヨースケは感心したようだった。
 トンボもきっと立場さえ違えばタイチの推理に感心しただろう。
 今一つそう思えないのはその行いがどこか間抜けだからだろうか。
――それとも山下が犯人でタイチも関わっていたのでは、と疑い始めているからだろうか。

「でもトンボ、騙されんなよ。俺が言ってんのはな、これまでとこれから、とにかくお前がこの事件を調べる上で、誰かが犯人かもしれないっていう疑惑をお前に吹き込んでくる人間が――つまり、俺みたいにお前に接触してくる人間の中に犯人がいることを考えろってことだ。要するに、俺もお前に間違った推理を誘導しに現れたのかもしれないって危険を考えろ。お前はここに来るまでの間、少しでも俺を疑ったか?」

 トンボはとんでもないと首を横に振る。
 ヨースケははぁと大きなため息をついた。

「松木がどうしてついてくるって言ったのかわかってないだろ」

 それは――いつもの通りの悪ふざけだと思っていた。
 ヨースケの深刻な様子に、そんなふざけたタイチを連れて行くのははばかられた。

「もし学校内に真犯人がいるなら、いの一番に危険なのは自分だってことを少しは自覚しろ。松木はお前が心配だからついてきたんだよ。普通なら、俺を疑わなきゃいけない。兄の事件を調べて、一番初めに聞き込みをかけた人間が、偶然にも第二の殺人の被害者の恋人で、その人物から日記を渡したいから放課後お墓に来てくれ、なんて、罠以外の何物にも見えないぞ。これで俺が真犯人で、もし松木と坂崎がお前についてこなかったら、間違いなくお前は明日、学校で死体になって発見されてた」

 そう言われると、トンボはぐうの音も出ない。
 自分でも迂闊だったと思う。
 ヨースケが犯人かもしれないという可能性そのものを考えなかった。
 これではヨースケが犯人でなくても、いつか真犯人に同じような手口で殺されかねない。

「すいません……でも、それじゃあ、誰も信じられなくなります……」

「誰かを信じたいなら、犯人探しなんて今すぐやめろ」

 ヨースケはきっぱりと言った。

「俺はなトンボ、ヨルが殺された時、お前と同じように犯人を学校の仲間の中に探して、復讐してやろうって思ってた。学校にいるやつみんなが犯人かもしれないと疑ってたし、少しでも怪しかったら殺してやろうって本気で思ってた。でも、アゲハ先輩がヨルの日記を返すときに言ったんだ。『潮ヶ浜さんの復讐をするのは自由だけど、潮ヶ浜さんの名のもとに桜木君が殺人を行うなら、それは君が潮ヶ浜さんに人殺しをさせることだ』って」

――復讐って、便利な言葉だよな。ヨースケは弱弱しく呟く。

「自分が好きな人を殺されて憎む気持ちって、絶対に殺された人が殺したやつを恨む気持ちとおんなじじゃない。それなのに、復讐って言葉を使うと、俺が殺したいって気持ちを、ヨルのせいにできちゃうんだよ。ヨルが殺されたから、だから俺が犯人を殺して、ヨルの無念を晴らすんだって。それは俺が人殺しをするのはヨルのせいだって言うことで……いつの間にか俺、ヨルが好きだって言いながら人を殺すことを正当化してた。俺はヨルを、人殺しの理由にしてたんだ。それってすごく怖いことだ。だから――」

 ヨースケは真剣な顔で言っていた。
 とても悲しそうな顔だった。
 この人はきっと、潮ヶ浜夜のことが大好きだったんだろう。
 そして今、トンボのことを本当に親身に心配している。
――自分はそんな気持ちにさえ、疑いの眼差しを向けなければならないのだろうか。

 そんなことを思っているトンボの前にヨースケは二冊の日記帳を差し出した。
 一つはいかにも女の子が好みそうなパステルカラーの鍵付きの日記帳。
 もう一つはただの厚めのノートと言った感じだった。

「誰かを信じていたいなら、俺や、坂崎や、松木や、お前のお兄さん自身を信じていたいなら、今すぐ犯人探しや探偵ごっこなんてやめろ。――これは去年の四月から、ヨルが殺される日までの間の日記と、お前のお兄さん、アゲハ先輩が事件について調べた記録だ。でもオレはヨルの日記は読んだけど、アゲハ先輩のは読んでないからな。あの人が死んで、事件を調べたいなんて気はなくなっちまった。もし真相が、お前にとって受け入れがたいものだったとしても、それでもお前がお兄さんを殺した事件の犯人を知りたいと思うなら、この日記はお前に預ける。読んでいいし、お前の考えを書いてもいい。返さなくていい。なんなら燃やしても構わない。でも、ここに書いてあることは、絶対に疑いの眼差しで見なくちゃいけない。だって俺が――真犯人かもしれないんだからな」

「ヨースケ先輩……」

 冗談でもやめてください、と言うとするトンボにヨースケは手のひらを広げて制す。

「冗談じゃないぞ。本気で言ってるんだからな。俺が犯人だったら、お前を殺さなかったのは松木と坂崎っていう邪魔がついてきたから。そこで俺はその場合に備えて、お前に犯人をミスリードさせる手段として、この日記帳を渡す――そう思っとけ。この日記を受け取るんならな。確信はいつだって足元をおろそかにさせる。こいつが犯人、なんて確信はともかく、こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。その覚悟があるなら――」

「もらいます」

 トンボはヨースケの手から日記を取り、迷いなく言う。

「そして、先輩のことも信じてます。タスクも、タイチも、兄さんのことも。先輩には虫のいい話に聞こえるかもしれないけど、ボクはやっぱり親切にされれば、それを疑うより先に、信じてしまいます。いつか、騙されて、痛い目を見る、いや、本当に死にそうな目に遭うかもしれません。それでも、ボクは信じたい。兄さんと、兄さんが信じたものの潔白を」

 ヨースケはやれやれと言わんばかりにうつむいて笑って、大きな声でだってよと言った。

「純粋で危なっかしーお姫様だ! いつ誰に騙されるかわからねーぞ! お前らで守ってやりな! 二人のひよっこナイト様よ!」

 ヨースケはトンボを二人に押し付けるように背中を押して、鞄を背中に担いで後ろを向いた。

「言いたいことは言ったし、渡したいものも渡したし、釘を刺した方がいいと思ったことは一応釘を刺しといたからな。後はお前ら三人で好きにしな。俺はこの件に関してはもう何も言わないし、協力もしないからな。じゃーな」

 ヨースケはそのまま霊園を後にした。
 トンボはその姿が見えなくなると、タイチとタスクを振り返った。

「ごめん、タイチ。ボクが不用心だった。心配してついてきてくれてありがとう」
The Sun visits The Night's grave
»»  2013.09.02.


 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。

「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」

「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」

「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」

 胸を叩こうとしたタイチの腕をタスクが掴んだ。
 さすがにタスクの目の前で調子に乗りすぎたか。そう思ってタスクの方を見て――。
 そこでようやく、二人は異常に気付く。
 タスクはギュッと胸のあたりを押さえていた。おそらくそこにある紫水晶の振り子を。
 その顔はひどく歪んでいる。
 笑おうとする筋肉と、それをこらえようとする筋肉がぶつかり合っているようだった。

――鬼が来たんだ。ここは学校じゃないから。そしてタイチがいるから。
――こんな時に。

「……タイチ、トンボ、逃げろ」

 呻くようにタスクが言った瞬間、潮ヶ浜夜の墓に供えられたろうそくと線香が、墓石より高く灰色の炎を上げて燃え盛った。
 タイチは即座にタスクに掴まれた腕を振りほどき、トンボの腕をつかんで霊園の出口に向かう。その足が突然止まった。
 
「タイチ……?」

 トンボが怪訝に思って名前を呼ぶと、即座にタイチはタスクを振り返り、トンボの腰に肩を当てて、そのまま横に弾き飛ばした。
 さっきまでトンボ達がいた石畳が、灰色の炎を上げ、一瞬で燃え尽きていく。
――いや、それはどんどん燃え広がるように横に伸びて、いつの間にか霊園そのものを灰色の炎の壁が覆っていた。

「クソ、逃げ道を塞がれた……!」

 タイチが苦々しく言い、タスクとトンボの間に立ちふさがる。

「トンちゃん……短い人生だったけど、オレ幸せかもしれない。だって死ぬ前に好きな人と一緒にいられたし」

「――バカ、こんな時に!」

 叫ぶトンボの胸にタイチは顔をうずめる。そのまま地面に押し倒された。
 タイチの背中の上を、灰色の火球が通り過ぎて行った。

 それが知らない人の墓石に当たって、その墓を燃やし尽くしていく。
 墓が一瞬のうちに見る間に跡形もなくなっていくのを見て、タイチもトンボも戦慄する。

「……トンちゃん、合図したら、トンちゃんは目を閉じるんだ。その間、何が聞こえても絶対に目を開けないで。作戦がうまくいったら、きっとタスクは元のタスクに戻ってるから。そしたらさ、トンちゃんはタスクと二人で、学校で一緒にお弁当食べて、一緒に帰ったり、一緒に海に行ったりお祭りに行ったりして、それで一緒に卒業するんだ。これまで通りになる。何も変わらない、今まで通りだ。今日のことは台風みたいなものだよ。だからさ、タスクのこと怖がったり、嫌いにならないで、ずっと一緒にいてやってくれよな」

「タイチ?」

「合図は、アイ、ラブ、ユーだ。オレがユーって言ったらトンちゃんは目を閉じるんだ。大丈夫、あいつの狙いは最初からオレだよ。トンちゃんはオレといなければ危害を加えられないから」

「待ってよタイチ、君は――」

「行くよトンちゃん、アイ、ラブ……」

――やめろ、そんなの聞きたくない。
 ボクが目を閉じて、その間に君は何をするつもりだ?
 タスクが元に戻るって、どうしてその後に君が登場しない?
 ずっと一緒にいてやってくれ? そんなの君も一緒に決まってるだろ!

 タイチがユーと叫んだ。トンボは大声でやめろと叫ぶ。
 タスクは歪んだ笑い声をあげながら、タイチに向かって灰色の火を放った。
 それがタイチにぶつかる――その寸前。トンボの目の前に天使が現れた。

 トンボはわが目を疑った。
 だってその人は、本当に空から降りてきたから。
 猛烈な風をはらんで、ゆっくりと天から階段を降りるように、その男は降臨した。
――萩原ミツルは。

 突風にあおられた灰色の炎は見る間に小さくなり、やがて消えた。
 ミツルが消しているのだ――風を操って。そうトンボの直感が告げる。

「今のうちに逃げよう、トンちゃん!」

 炎の壁が無くなった隙をタイチは見逃さない。トンボの手を握って立ち上がる。

「何してるトンちゃん、立つんだよ! 立って逃げなきゃ!」

 トンボは立てなかった。いや、正確には、見惚れていた。

 まるでそれは一幅の絵画、あるいは神話の一場面の切り抜きのようだった。
 墓碑が立ち並ぶ野原に現れた鬼。その鬼の前に風と共に舞い降りる天使。
 そして天使は鬼を恐れることなく近づいて、その頬に触れる。
 鬼は天使の威光に跪いて、天使が何かを囁いた。
 風の音がうるさくて、トンボには聞こえない。
 しかしそれがタスクの耳に入ると、タスクの目に光が戻った。
 天使が祝福し、鬼が人間に戻る一幕――。
 劇的というなら、この上なく虚構めいた状況だった。
 あまりに現実的でなくて、夢を見ているのだとさえ思った。

 そして天使は――ミツルはトンボとタイチを振り返った。

「篠塚、悪いことは言わない。この二人と一緒に行動するのはやめておけ。いつかこういう目に遭って、君は命を落とす羽目になる」

 感情のないその言葉は、一種荘厳な宣託のようにもトンボには聞こえた。

「あ、アンタ、何なんだよ! 突然現れて! 助けてくれたのはありがたいけど、いきなり何を……」

 ミツルは叫ぶタイチの方を見て、その顔に手を伸ばす。
 タイチは怯んだように身をのけぞらせた。

「助けたのは篠塚であって君ではない。僕に憑いている色鬼も君を殺さないという判断を下すかどうかは、まだ躊躇っている」

「それ、どういうことだよ……」

 タイチはミツルの言葉に顔色が変わる。

「モラトリアム――君は今、色鬼灰音以外の全ての色鬼から、殺すべきかどうかを猶予されている。それは君を殺すことがこの世界と色鬼と鴉に何をもたらすかが未知数だからだ。それにさしたる影響がないことが判明すれば、色鬼達は君を殺すことを躊躇しないだろう。覚えておけ、松木タイチ。今後どう物語が展開しようと君の一族は、常に色鬼にとっても人間にとっても敵勢だということを」

「何だと……! オレの一族って、どういうことだよ! あんた、オレの親のこと――」

 噛みつくように言うタイチに構わず、ミツルは、今度はタスクを指さした。

「行かなくていいのかい。君の、大事な、大事な友達が、目を覚ます――」

 タスクはわなわなと顔を覆ってその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 タイチはそれを見て、くそ、と呟いてそのそばに駆け寄る。
 トンボはやっと我に返って、ミツルを見上げた。

「あの――、ありがとうございます」

 ミツルは何も言わずにトンボの顔に手を伸ばし、その顎に手を触れる。

「よく似ている……」

「え――」

「もう彼らには関わるな。また坂崎タスクがああなっても、僕はもう助けない。覚えておくことだ」

――行こう、トウタ。
 ミツルはまたそう言うとトンボの顔から手を離し、帰って行った。
 トンボは呆然とそれを見送り、そして座り込むタスクのそばに駆け寄った。

「大丈夫、タスク?」

 タスクはおどおどした視線でトンボとタイチを見て、それからうつむいて顔を両手で覆った。
 わなわなとその肩が震えだす。
 うう、うう、とうめき声のような音がその喉から聞こえてきた。
 また、泣いてしまうのだろうか。トンボがそう思った時だった。

――うう、ふぐ、ふふふ、ははは……。

――うめき声、違う、これは、笑い声だ。タスクは笑っている。高らかに声を上げて。
 トンボとタイチはその様子にさっと身構えた。

「ば、バーカ」

 タスクが言った。
 トンボもタイチもきょとんとする。

「だ、大丈夫だって? ま、ま、まだわからないのか、この場で誰がいちば、一番足手まといだったか!」
 
 タスクの声はがたがたと震えていた。歯の根が合っていないのだ。
 タスクは暗い瞳でトンボをあざけるような視線で睨む。

「は、はっきり言ってやるよ! じ、自分のこと、ぼ、ぼ、ボクだとか、か、かわ、かわいいと思ってんのか、きも、きも、キモいんだよ、この――おとこ女! いい年して、こ、高校生にもなって、すこ、すこ、少しは、恥じらいを持て! ば、ば、バーカ、ハハハ、ハハハハハ!」

「何だと、お前タスク! トンちゃんがどれだけ――」

 トンボがその言葉を理解して、怒りを感じるより先に、タイチがタスクを怒鳴りつけた。
 タスクはそのタイチにも、やはりバカにするような目を向けた。

「お、お、お前も、タイチも、い、いい加減にしろよ! その髪型、何なんだよ、び、貧乏キャラぶってんじゃ、ねーよ! アホみたいな振りしてるのも、ば、ばれてんだよ! バレバレなんだよ! ぶ、ぶりっ子女に、アホの振りした男に、お、お、お似合いのバカップルだな、バーカバーカ! もう近寄んな! ば、バカがうつる!」

 タイチがその横っ面を殴りつけた。
 タスクはその顔に下卑た笑みを浮かべてへらへらと笑う。

「こ、言葉で返せないと、ぼ、暴力に頼るぅ、ち、知能が低い、げげ、原始人だから、しょうがないよなぁ。お、お前らりょ、りょ、両親がいないから……だ、だ、だから、精神が、肉体の成長に、つ、つ、ついていけないんだ! だから、す、捨てられたんだよ!」

「――お前!」

 タイチが振りかぶった手を、トンボは止めた。
 タイチが振り返るより早く、タスクの襟首をつかむ。

「あっそ。勝手にすれば、自殺君」

 トンボはそう言ってタスクのほっぺたに往復びんたを叩きつけ、その胸を突き飛ばした。
 タスクの鼻から、血が滴っている。その頬を透明な液体が撫でた。
 涙――違う、雨が降ってきたのだ。
 雨はあっという間に土砂降りになった。
 トンボは鞄とヨースケからもらった日記帳を鞄にしまい、タスクに背を向けた。

「二度と近付かないで」

「あ、待ってトンちゃん――」

 タイチは叫んで、一度タスクを振り返った。

「――あばよ」

 そしてトンボの後を追う。
 一人残されたタスクは、雨音と張り合ってるのかと思うくらい、大きな声で笑い続けた。

The Angel: His saying is nothing but farewell
»»  2013.09.02.


「トンちゃん、待ってって」

 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。

「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」

 え、とタイチの顔から表情が抜けた。

「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で兄の死の真相を調べてるのに、ふざけ半分で、その上命まで狙われたら話にならない」

「トンちゃん、オレは――」

「触らないでよ!」

 手を伸ばすタイチをトンボは怒鳴って振り払う。

「馴れ馴れしくどさくさに紛れて手を取ってきて! そういうのセクハラだから! こっちはもううんざりなんだよ! 二度と声をかけないで――目の前から消えて!」

 タイチは小さくトンちゃん、と呟いて、ああそうかよ、といらだった声を出した。

「どいつもこいつも、つらくて今にも死にそうな顔してるから、下手に出て優しくしてりゃ付け上がりやがって! そうかよ、オレはずっと親切にしてるつもりだったけど、そんな風に思われてたなんて知らなかった! ごめんね、迷惑で! 安心して、もう二度と話しかけないから! じゃあね! さよなら!」

 タイチは怒鳴るように言ってトンボに背中を向けて走り去った。
 トンボはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 ヘッドライトをつけた車が隣の深い水たまりを、派手に水しぶきを上げて通り抜けた。
 トンボは服に泥水を浴びて、それでもまだそこから動けずにいた。

――これでいいんだ。これで。

 トンボにはタスクの真意がわかっていた。
 タスクは自分がタイチにもトンボにも害にしかならないことを理解していた。
 だから、あえてトンボやタイチの悪口を言って、自分との縁を切らせたのだ。
 それが一番いい方法なのだ。そうやってお互い距離を取っていた方がいい。
 タスクはタイチを殺そうとしている。
 トンボの事件は二人には無関係だ。
 ヨースケにはああ言われたが、こうなった以上、トンボが慎重になるしかない。
 でも、それでいいのだ。そうするのが現状で、一番――。

「う……く……」

 頭をよぎるのはこの二か月の三人での思い出だった。
 入学式、みんな制服姿で、似たような恰好をしていても、タイチとタスクの二人組は、明らかに周囲から浮いていた。
 タイチはその見た目で、タスクはその雰囲気で逆にトンボの目に残った。
 口をきいたのは最初のホームルームの時。
 委員会決めで、それぞれの委員の役割を先生が説明し、立候補を募った時、トンボは真っ先にクラス委員に手をあげ、周囲から拍手をもらった。
 その後なかなか決まらない男子クラス委員は結局じゃんけんで負けた人間がやることになり、それがタスクだった。
 トンボは最初、うわ、こいつかよ、と正直思った。
 タスクはおどおどとしながら、それでも、自分から手を差し出して、よろしくと言ってきたのだ。

 五月になって、トンボが風邪を引いて学校を休むと、タスクはクラス委員だからとプリントを届けに来てくれた。
 これがまた笑い話で、タスクは道に迷ってトンボの家とはまるで別の隣町に行ってしまい、あわや行方不明扱いになるところで、逆にトンボが家を出て探しに行く羽目になって。
 それで学校に行けば、タスクは何故か風邪を引いたのは普段の食生活が悪いからだと上から目線でトンボに言い、だから弁当を作ってくるので食べろと言った。
 どうせ家族とタイチの分を作っているから、あと一人くらい増えても問題ないと。

 それから、三人で弁当を突きあう仲になって、結局気がつけば、三人で固まっている。
 タイチがいつもひょうきんなことをして、タスクがそれに突っ込んで、三人で笑って。

――そう言う日々が、今日終わったのだ。
 理由がどうであれ、とにかく、明日から、三人はきっと口を交わすこともない。
 もちろん弁当をタスクが持ってきてくれることもなければ、もうタイチから熱烈なアプローチを受ける心配をする必要もない。

――清々した。……わけないか。
 この胸にある空洞は何だろう。
 トンボは自分の胸に手を当てた。心臓の拍動を感じる。
 でもここにはもう何もない。心がない。心を満たしていた明るい色がない。
 今までそこを満たしていた暖かくて優しい色。
 どこに忘れてきてしまったんだろう。なくさないように大切にしていたのに。
 兄が死んで、一度なくして。
 もう二度となくさないようにしっかり守っていたはずなのに。
 どうしてまた同じ感覚が、胸に広がるんだろう。
 何故また同じように胸の中が灰色に塗りつぶされるんだろう。

 結局トンボは、兄の死から何一つ学んでいなくて。
 そのトンボの愚かさが、またトンボ自身から大切なものを奪っていく。
 雨は止んで、カエルが鳴く道をトンボはとぼとぼと帰る。
 その合唱はさながらトンボの愚かさをあざ笑うようで。
 やるせなくてトンボは暗い夜道に頼りなく灯る街灯の下で、ついに座り込んで泣いた。

――ボクは、バカだ。兄さん、ごめんなさい。タスク、タイチ、ごめん。

「ごめん……本当にごめん」

 そんなことを言っても、兄にも、タイチにもタスクにも届かないのに。
 それでも口からはその言葉が漏れた。

 どれくらいそうして泣いていたんだろうか。
 雨に濡れたTシャツはうっすらと乾き始めていたから、かなりの時間が経っていたことは間違いなかった。
 いい加減、家に帰らなければ。
 それに、兄が巻き込まれた事件の真相は、トンボの友情の崩壊などにはこゆるぎもしないのには違いなかった。
 ヨースケからもらった日記も読まなければならない。

――一体何のために。ふとその疑問がトンボの脳裏をかすめた。
 これで、仮に真犯人が見つかって、それが逮捕されたとしても、タスクとタイチとの関係が修復できるわけではない。
 大体タスクの問題はそれとはまったく別の次元で起こっているのだし。
 だから、トンボがこの事件について調べることは、トンボに何の利益ももたらさない。

 四人も人を殺した犯罪者が逮捕されることは社会にとってはメリットがあるだろう。
 でも、それはトンボにとって親しい友人二人との関係を反故にしてまで得る価値のあるものだろうか。
 いや、トンボが事件を調べようと調べまいと、この関係の破綻はタスクの自殺にあるのだからトンボの行動は関係なかったのだろうか。
 トンボがどうしようと、いずれこの結末は回避できなかったのだろうか。
 だったらトンボは気にせず、兄の死の究明を続けるべきなのかもしれない。

――でも、だから、何のために。
 タイチやタスクは事件には無関係だったけれど、彼らが動くことでトンボも動かされていた。
 タスクの自殺から始まり、タイチの叔父が二つの事件を関連付けた。
 関係ない二人の行動は、それでも常にトンボも巻き込んで展開していた。
 これからトンボは一人で事件に立ち向かわなければならない。
 そのためにはしっかりとした動機付けが必要だった。
 でも今、トンボの胸を虚無感が満たしていて、何のやる気も出ない。

 すすり泣きながら月明かりを頼りに帰り道を歩いていたら、不意に声をかけられた。

「そんなに泣いてどうしたよ、可愛らしいお嬢さん?」

 梅雨の分厚い雲の合間から漏れる月明かりに、その人物は闇の中から浮かび上がった。
――ように見えた。

「よォ、こんばんは」

「へ――?」

――それは見た瞬間、くらりとするような女性。

 170センチ以上はありそうな長身。
 グラビアモデルのようなスタイルに露出の高い服装。
 服の上からでも分かるほど発達した筋肉に、日本人離れした掘りの深い顔つき。
 ボリュームのある唇がとても色っぽい。
 その目つきは鋭い三白眼で猛禽類を思い出させる。
 迫力のあるドレッドヘアがよく似合っていた。

 一度見れば忘れられない強烈な色気を放つ女性だ。

「こうして直接話すのは初めてだな。トンボ、篠塚トンボ」

 彼女はくわえていた煙草をポケット灰皿に捨て、そう言った。

「あ、あの……あなたは?」

 どうしてトンボの名前を知っているのだろうか。
 知り合いにこんな人はいない。いれば絶対に覚えている。
 つい呆気に取られ、泣き止んでしまった。
 それだけではない。トンボの頭にはうっすらと恐怖があった。
 この先アゲハの事件を調べていく上で、トンボの前に現れる人間はみんな怪しいのだ。
 さらにこの人はトンボのことを知っている。トンボには心当たりがないのに。
 そんな人物がこの状況で現れるとすれば、トンボは怪しまずにはいられない。

「……やめろよ、顔が怖くなってるぜ。あいにくと眼鏡のお巡りみたく身の証を立てられるような立派な手帳は持ち合わせが無くてな。でも名前くらいは聞いた事あるんじゃねェか? アタシは神楽崎ユミエ……好きに呼べばいい」

 ユミエ――そうか。この人があのユミエか。

 トンボの中で全てが繋がった。
 確かにユミエの言う通り直接会話するのは初めてだ。
 でも、トンボは彼女のことを知っている。

 神楽崎ユミエ。
 伝説の式部北高校第六十二代生徒会。『伝説』を『伝説』にした生徒会長。
 それがこの女性。そして。
――篠塚アゲハの思い人だった女性だ。
 トンボの胸にはなぜか落胆が広がっていた。
 萩原ミツルの次には、この人。これでは本当に山下の言う通りではないか。
 この事件の裏で六十二代生徒会が動いている。それはもう間違いなかった。

「あなたがユミエさん、……兄さんから聞いた通りなんですね」

 ドレッドヘアに並外れたプロポーション、鋭い顔つきと意志の強い目。
 アゲハがとても嬉しそうに話していたのをよく覚えている。
 時間が時間だし、出会いが出会いなのでまだ緊張はしている。
 しかし、少なくとも恐怖は和らいでいった。

「お前もアゲハから聞いた通りだな。男勝りで気の強い……それにアイツそっくりだ」

 ニヒルな笑みを浮かべながら、ユミエはトンボの頭を撫でる。
 大きな手のひらだった。しかし触れられた感触に一瞬トンボはひやりとした。
 初夏の人肌とは思えないほどに冷え切っていた。

 ユミエの事はアゲハからよく聞いていた。
 破天荒で型破りで、真っ直ぐな人だと。
 そのインパクトのある風貌とは裏腹に、ユミエの手は年相応の女性の白さがある。
 よく見ればとてもきれいな白い肌をしている。少し、意外に感じた。

 ユミエの手が頭から下へ降り、頬を撫でる。
 その感触が気に入ったのか、その色気たっぷりの唇を小さく舌なめずりをした。
 その仕草を見て、トンボは思い出した。
 アゲハから聞かされていたユミエのもう一つの特徴を。

「可愛いヤツだな。思わず襲いたくなっちまいそうだ」

「ちょ……ぼ、ボクにそっちの気は無いですって!」

「そりゃあ残念」

 ユミエは意外なほどあっさりと手を離す。奇妙なほどにドキドキしている。

――なんだこの人。

 トンボは思い出す。
 ユミエは――性の対象に性別を問わないのだと。
 つまり、いわゆるバイセクシュアルであり、特に女好きであるらしい。
 女子からの圧倒的な人気で生徒会長になった人だと。
 アゲハに好きな人が出来たと聞いて、それを知った時は姉と二人で頭を抱えほどだ。

「挨拶はこのくらいにして……トンボ。アタシが今日来たのは話があるからだ」

「やっぱり……あなたたちなんですか? 去年、式部北高校で起こった連続殺人事件――ボクがそれを嗅ぎまわってると厄介なことになるから。あなたたちは――六十二代生徒会は、本当は何をしてたんですか? あなたは――何者なんです?」

 ゆったりとした動作でユミエはトンボに近付く。
 迫力に気圧され、トンボは無意識のうちに後ずさりしていた。
 薄暗い月明かりの中で、ユミエの瞳が妖しく煌めく。
 ダンッとトンボの横に大きな音がした。ユミエがトンボの横の壁を蹴りつけた音だった。
 そのままユミエは顔を近付ける。
 わずかな光の中で浮き上がるユミエの表情はひどく官能的に見えた。

「アタシが何者か――教えてやろうか」

 吐息がかかる程近くで、ユミエの潜めた声がささやく。

「吸血鬼――だよ」

 ユミエはいきなりトンボの耳に舌を這わせた。
 嬲るような、貪るような乱暴な愛撫。
 意志とは関係無しにトンボの口から甘い声が漏れた。

――喰われる。

 理屈抜きにトンボはそう感じた。
 この人は――魔性だ。人間じゃない、本物の、化け物だ。
 恐怖と快楽が頭の中で溶け、理性が麻痺していく。
 トンボのがらんどうになった胸の中に耳から伝わってくる快感が染み込んでいく。
 そのままユミエの体にすべてをゆだねたくなった。

「――ボクは、信じたい!」

 あァ? とユミエがトンボの耳に這わせた舌を離す。
 耳たぶから、とろりと糸を引いて、唾液がトンボの肩にかかった。

「ボクは、兄さんを、六十二代生徒会が、去年の事件の犯人じゃないと、その潔白を証明したい! 兄さんが犯人扱いされてたまるか! 兄さんが信じていたものが犯人であってたまるか! ――教えてくださいユミエさん、あなた達は犯人なんですか?」

 誘惑に屈してはならない。だってもう、トンボは一人きりなのだから。
 気持ちを強く持って、まっすぐに進まなくてはいけないのだ。
 ユミエは探るような視線でトンボを見た。トンボはそれも受け止める。
 息が詰まりそうなほどの緊張を破ったのはユミエだった。
 やれやれ、と呟いて足を外し、煙草を取り出す。

「煙草、吸ってもいいか?」

「……どうぞ」

 トンボの姉も喫煙者だ。煙草が苦手という事は無かった。
 姉はトンボがタバコに興味を示しそうになると絶対に吸うなと言うのだが。

 ユミエはマッチを取り出し、煙草に火をつける。
 銘柄はラッキー・ストライク。マッチはポケット灰皿に捨てる。
 妙なところで律儀な人だった。

 ユミエはアゲハの上の学年だったから今は十八歳か十九歳のはず。
 それなのにひどく様になっていた。まるで洋画のワンシーンのようだ。

「やっぱりアゲハの妹だな」

「え?」

「妙なとこばっか似てるよ。その頑固なトコとかな」

 鋭い三白眼がアゲハの名前を出した時だけ違う色が混じった気がした。

「少しビビらせりゃ引っ込むかと思ったが……ナメてたよ」

「はぁ……」

「……時間、大丈夫か?」

 携帯を見ると九時を少し過ぎていた。
 携帯にはメールが届いており、件名は『ごめん!』。
 姉からの今日は遅くなるという連絡だ。こういう事は少なくない。
 帰宅する時間が書いてないから、十二時を過ぎるかもしれなかった。

「大丈夫ですけど」

「そうか。少し長くなるけれどよ、いいか?」

「え?」

「アゲハの話だ。アイツの事話してやるよ」

 ユミエは煙を吐きながらそう言ったのだった。

「さてと――どっから話したもんかな」

 そしてユミエは話を始めた。彼女が長を務めた時代の話を。
 生きていた頃のアゲハの話を。

――そうだな。アゲハはアタシが生徒会に誘ったんだよ。

 アタシが生徒会長で、ミツルの野郎は副会長で、アゲハとカイコが部下だった。
 アタシが生徒会長になってみりゃ、どいつもこいつも尻込みしやがってな。
 生徒会メンバーがゴッソリ抜けたんだ。
 あの時の生徒会は会長のアタシともう一人の変人副会長だけ。

 さすがにどうにもならねェからな。
 ヘッドハンティングでもするかって時にちょうど面白いヤツが二年にいるって聞いた。
 実際に見てみりゃ確かに面白そうなヤツだった。

 アタシは覚えちゃいなかったんだ。でもアゲハはアタシの事を最初から知ってたよ。
 なんでも中学ン時にバカに囲まれてるトコをアタシに助けられたとか言ってたな。
 いちいち覚えちゃいねェよ。殴った野郎の顔も助けた野郎の顔も。
 キリがねェからな。 

 あァ? アゲハのヤツ、ンな事言ってたのか? なんだそりゃ。
 アタシはそんな大層なモンじゃねェつーの。

 妙なヤツでな……。
 アタシが女と付き合ってるって知っててそれでもアタシの事が好きだとよ。
 いつもそう言ってたな。

 まァ、そんな次第でアゲハのヤツともう一人、カイコってヤツを引き抜いた。
 コイツらが優秀でよ、信じられるか? 
 アタシらの代の生徒会は四人だったんだぜ。
 基幹が四人って意味じゃねェ。全員上から下っ端合わせて四人だった。
 特例だよ、特例。

 あの頃、ちょうど学校の周りで変態が出るって噂が出てたんだ。
 アタシら生徒会は良くも悪くも有名だったからな、すぐに話は入ってきた。

 最初はよくいる変態だと考えた。
 ミツルの指示でアゲハとカイコが情報収集。
 見つけたクズをアタシがぶん殴って一件落着。
 そうなるはずだってな。そう驚くなよ。
 アタシらの生徒会はいっつもそんなんだったんだぜ。

 だが……死人が出た。

 早田明美。地味だが笑うと可愛いヤツだったぜ。

 ハッ……手は出してねぇよ。好きなヤツがいたらしいからな。

 見つけたのはカイコだ。アイツは真面目だったからな……いつも一番に登校してた。
 いつものように花壇を見て回ってたら、見ちまったらしい。

 そのリアクションだと知ってたか……そうだ、木に針金で吊されたアケミの左足だよ。
 学校はすぐに警察に連絡。学校は休校。
 学校の至る所に置き忘れたみてェに身体が置いてあった。

……アタシらはようやく気付いたよ。あの野郎はただのクズじゃねェ。
 糞の中でも一等腐りきったクズだってな。

 すまねェ話がそれた。
 警察は近辺で起きてた連続通り魔事件の三人目かもしれないと判断した。
 断定じゃねぇよ。このときはな。
 とんでもない大騒ぎから一月経った。

 ああ、そうだ。言う通りだ。二人目が殺された。

 今度は三年の潮ヶ浜夜。メチャクチャな殺され方だったらしい。
 見つけたのはアゲハだったよ。
 カイコを一人じゃ危ないからって二人で登校してたらしい。
 生徒で直接見たのはアゲハとカイコだけだ。朝練も中止になってたからな。

 ん? カイコとアゲハか? ああ、なんか腐れ縁とか言ってたな。
 仲は良かったぜ。あのカイコもアゲハと話す時は力が抜けてたしな。

 話を戻すぞ。生徒も大騒ぎだ。どいつもこいつも怯えてた。
 パニック起こしそうなヤツを抑えるのでアタシとミツルは手がいっぱいだった。
 それ以前にアタシらは事情聴取をいやってほど受けさせられたからな。
 カイコとアゲハは第一発見者、おまけにカイコの実家ってのはこりゃ……。
 いや何でもない。

 とにかく必要最低限のことしかできなかった。
 もちろん学校側だっててんやわんやだ。
 一番ヒステリーを起こしてたのは保護者連中だったんだがな。
 事務仕事は全部アゲハとカイコに任せてたよ。アイツらは優秀だったからな。

 知らなかったか? アイツらは優秀だった。贔屓目無しにな。
 よくもまァ、あんだけ仕事出来るもんだ。
 で、仕事ができるだけじゃなくて、正義感もあった。
 それでどうしようもないくらいに向う見ずなヤツらだったよ。
 とにかくあの二人は二人でいさせておくと妙な方向にエネルギーを注ぐんだな。
 アタシとミツルは考えてみりゃ手綱を引いてた様なもんさ。
 暴走ばっかする馬力のある二人のな。

 どうもその時にアゲハとカイコは推理をしてたらしい。
 うちの学校の連中が狙われるのは制服を目印にしてるってな。
 ここいらの高校で今時制服があるのは式部北くらいだからな。
 二人が学校に申請したら、すんなりと私服登下校の許可が下りた。
 そんで一切の目撃情報も、確固たる証拠も無いままに時間だけが過ぎた。

 警察の警備を馬鹿にするみたいに三人目が殺された。
 曽根百合子って名前の二年生だ。
 こいつは前の二件がショックで不登校になってたんだがな。その日だけ出かけてたんだ。
 一人目のアケミの四十九日でな。友達だったらしい。だから、制服着てたんだよ。

 それからしばらくして、秋が終わるころだ。アゲハが妙な動きをし始めたのは。
 すぐに問い詰めたんだが、何にも喋りやがらねェ。
 だがアゲハは何をしてたかはすぐに分かったよ。

 突然学校から電話があった。
 補導で捕まった女子が偽名を名乗って身元がわかんねェとさ。
 女子生徒に人気のあるアタシなら誰か分かるだろうって、行ってみりゃアゲハがいた。
 おかしな話だとは思ったんだ。
 偽名だろうがなんだろうが、生徒の顔見て誰だかわかんねえなんて教師はうちにいねェ。
 生徒の面通しに生徒会長が呼ばれるなんておかしいにも程がある。

 アゲハのヤツ、演劇部の女子の制服を持ち出して夜中徘徊してやがったんだ。
 アイツ、女みてェな顔と体してる上に化粧までしてやがったからな……。
 警察も教師も誰もが女だと思ってやがったよ。
 呆れて、それから腹が捩れるまで笑ったぜ、ありゃ。

 あァ、まったくだ。黙ってりゃ女と間違えるヤツも少なくなかったからな。
 けどその恰好じゃテメェも似たようなもんだろ? 
 ま、アゲハもアタシが来たらようやく観念して……。
 というよりそんなピリピリしてる時期にそんな事してりゃ目的は一つだわな。

 わかんねェか? アゲハは釣りをしてたのさ。

――囮だよ。エサはアゲハ自身で、獲物は吸血ジャック、いや、その陰に隠れてうちの生徒を殺し手やがったクズ野郎だ。

 知らなかったって? そりゃそうだ。
 とりあえずアタシが指示したって誤魔化しといたからな。
 何とかアゲハは処分されずにすんだからな、知らなくて当然だよ。
 おかげでアタシは……。そうだな、アタシはアタシでしばらく休ませてもらった。

 その様子だともう知ってるみたいだから言うが、当時一番疑われたのはアタシだ。
 アタシ達六十二代生徒会だった。
 あいつがあんな危険な真似してたのはな、ただアタシの無実を証明する、ただそれだけだったんだ。
 今のお前とおんなじだよ。

――アゲハは諦めなかった。
 アタシが目を離したすきにカイコの制服借りて囮を続けていやがったんだ。

 ようやく警察もこの事件が吸血ジャックだと判断してな。
 木枯らしが吹くクソ寒い学校に二十四時間体制で張り込んでた。
 カイコの奴は頼りたくもない親に頭を下げて生徒の送迎にバスとタクシーを用意した。

 だが。

 結局、アゲハの策は成功した。しちまった。しちまいやがったンだよ。

 皮肉にもクリスマスだったよ。
 最近じゃ珍しく雪の降るホワイトクリスマスだったんだ。
 とんだサンタクロースもいたもんだよ。
 あの野郎はアゲハの命と目玉二つ奪っていきやがった。

……あるはずの無い連絡を受けたのはカイコだ。
 不審に思ってまさかと思って学校に忍び込んで見たのはアゲハの死体だった。
 両目がくり抜かれて額に風穴開けられて殺された。

 アタシはあいつの足を圧し折ってでもアゲハを止めるべきだった。

 トンボ、本当にすまない――。

――そう言って神楽崎ユミエは篠塚トンボに深く、深く頭を下げた。

 ユミエの話はトンボにとって衝撃的な事ばかりだった。

――アゲハが囮捜査? 
 アゲハとカイコがユミエとミツルに黙って吸血ジャックを追っていた?
 他でもない、ユミエの無実を証明するために?

 話された内容を頭の中で整理しようとする。
 だがそれはトンボの情報処理能力を大きく上回っていた。

「と、とりあえず頭を上げてくださいっ」

 なんとかユミエの頭を上げさせる。
 ユミエは先程までの妖艶な雰囲気とは違い、ひどく真剣な表情をしていた。
 あの独特なニヒルな笑みも消えている。

 その瞳を見た時、ユミエが心からアゲハの死を悲しんでいるのが伝わった。
 そしてその瞳にある色が、悲しみだけで無いことにも気付いてしまった。

「トンボ。アタシはジャックとクズを絶対に、許さねェ。絶対に。絶対に」

 力強い意志。その瞳に映る色は燃え盛るような怒りと殺意だった。
 覗き込んだだけのトンボが、思わず恐怖を感じるほどの感情だ。

「ユミエさん……」

「あのクズの尻をずっと追い掛けてた。確実に前に進んでる。このままおさらばなんて冗談じゃねェ。あんな下種にいいようにされてハイそうですかなんてわけにはいかねェんだよ。だからトンボ、もう一度言うぜ。もう追い掛けるのはやめろ」

「……でも」

「『でも』じゃねェんだよ。あのクズを追い掛けるのはもうやめろ。アイツは狂ったクズだがバカじゃねェんだ。じゃねェとあんなバカやらかして捕まらねェなんて有り得ねェ。もしそうならそりゃバケモノだ。どっちにしろテメェが手出ししていい相手じゃねェんだよ。……わかるだろ」

 トンボの中で、もう関わらない方がいいというささやきが確かに聞こえた。

「アタシはテメェの覚悟が本物だと思ったから話してやったぜ。アゲハが何で死んだのかは解決したじゃねェか。これ以上テメェが首を突っ込める余地はねェんだよ。テメェの仇はアタシが果たしてやる。だからもう……やめろ」

 ユミエは恐れている。
 トンボがアゲハのように吸血ジャックを追い掛けて、アゲハのように死ぬことを。 
 それが伝わるからこそ、トンボは言葉を発せなかった。
 それは何も他人ごとではない。

――でも。
 山下が言っていたことも引っかかっていた。
 六十二代生徒会の中枢にいた神楽崎ユミエと萩原ミツル。
 山下が忠告したその翌日にその二人がトンボの前に現れた。
 さらに言うなら今日の昼休みカイコはタスクと接触している。
 事件の裏で、確実に彼らは、六十二代生徒会は動いている。
 それは何のためにだろう。ユミエが言ったようにアゲハの弔いのためだろうか。
 この近くで吸血ジャックの痕跡が見つかったという情報をカイコが二人に連絡して。
 それで二人はこの街で吸血ジャックの影を追っているのだろうか。

「山下とかいうヤツにも、もう近付くな。アイツは妙なヤツだ。ジャックのクズを追い掛けてりゃ、事件の起こる前と後、両方でうろついてやがる。そもそもアイツがこの事件について嗅ぎ回ってんのがおかしいんだよ。警察って奴はしっかり縄張りが決まってる。犬みてェにな。担当ならまだしも、あんな雑魚にそんな権限も義務もねェんだ」

 言われてトンボはゴクリと息を呑む。
 こうやってトンボに誰かに疑いを持たせようとする情報は、特に慎重に考えなければ。 

「オカルトじみた仮説を立ててんのもあのメガネだけ。そもそも専門家か関係者でもねェとあんな発想にはならねェんだよ。霊能調査室だか何だか知らねェけどな、なんであいつの手元にその色鬼に関わる魔方陣だとか情報が都合よくあるンだ? どう考えてもおかしいだろうが」

 確かに、とトンボも思う。トンボは色鬼と言う怪異の存在を山下から知った。
 トンボは別にそう言うものに詳しくはないが、そんな妖怪だか化け物は決して有名なものではないはずだ。
 それなのに山下は周到に情報を持っていた。
――あらかじめ用意してあったとすら思える。

「いいか、トンボ。吸血ジャックと色鬼が関わってる――こりゃ事実だ。どうしてアタシがそう断言できるのかは言えねェが、この二つは相互に関わりを持ってる。だがな、それを山下が知ってるはずがねェんだ。あいつは絶対にただの人間なんだからな」

 その言葉には何か含みがあった。
 まるでユミエはただの人間ではないと言わんばかりの。
 しかしユミエの言うことはもっともだった。
 昨日山下が現れたタイミングと言いその後の展開と言い、何もかもが仕組まれたようではなかったか。
 ひょっとしてフェンスを落としたのは――。

「それにあの鬱陶しい前髪のガキ。なンか妙な匂いがすんだよな……アレも得体が知れねェ。付き合うんなら用心しろ。まァ、こっちは勘みてェなもんだが」

 鬱陶しい前髪というとタイチだろう。
 だがもうその心配は無用のものになっていた。
 もう二度と、タイチやタスクとは、友達に戻れないのだから。
 
「あなた達は……兄さんを殺したのは、六十二代生徒会じゃないですよね」

 トンボがかすれるような声でそう言うと、ユミエは困ったように頭を掻く。
 ワイルドなドレッドヘアが指に合わせて蛇のようにうねる。
 それから、トンボの目の下を親指で撫でた。
 拭ったのだ。トンボの目からあふれる涙を。

「誓って言うぜ。アゲハを殺したのはアタシ達じゃない。去年学校で四人の生徒を殺した犯人は別にいる」

 ユミエの声は少しの揺らぎもなかった。
 トンボはその言葉に、胸のつかえが取れる気がした。

「ボクはユミエさんの言葉を信じます。……そして、本物の犯人を捕まえる」

 ユミエはハァ、と紫煙と共にため息をついた。
 
「クソ……本当に妙なとこばっか似やがって。しょうがねェな、絶対に危険な事には近付くな。危険かもしれねェ事にも近付くな。アタシのメアドと番号を教えとく。何かありゃ絶対にアタシを呼べ。あと、なるべく一人にはなるな。友達でも何でもいい。この際あのなよっちいチビでも構いやしねェ。とにかく行動するなら二人以上でいろ。登下校中は特にな。全員そういう時間帯で殺されてる」

 赤外線通信でユミエのメールアドレスと携帯番号を受け取る。
 ユミエのメールアドレスは何かの英文のようだった。
 意味は英語の苦手なトンボにはわからない。

「は、はい。わかりました」

――到底タスク達とはもう絶交しているとは言えなかった。

「ずいぶん長話になっちまったな。トンボ、そろそろ帰れ。明日も学校だろ?」

 話に夢中になっていたが携帯を見ればもう十時になろうとしていている。
 小一時間ぐらいはここで話していたという事だ。

「じゃあな。遠慮はいらねェから絶対に連絡しろよ」

 そういうともうユミエは背を向けて歩き出していた。
 大きく堂々とした背中が遠ざかっていく。

「あ、あの」

 どうして呼び止めたかはわからない。でも聞いておかなければならない気がした。

「吸血ジャックを見つけたら……その、ユミエさんはどうするつもりですか」

「……」

 首だけを振り向かせ、ユミエはゆっくりと答えた。

「決まってンだろ。殺してやる。骨を砕いて、四肢を引き裂いて、両目に風穴空けて晒してやる。アタシは絶対許さねェ」

 脊髄が凍るような声と視線にトンボは何も動けなかった。
 ユミエが去っていく。今度は何も声をかけなかった。かけられなかった。
 ユミエの歩調に合わせて揺れる煙草の火が夜の闇にぼんやりと浮かび上がる。
 それはまるで鬼火のようだった。
The Justice: or Green No-Life-King
»»  2013.09.02.


 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。
 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。
 最近ずっとこんな調子だ。

――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。
 それはミツルとユミエが同じことを言っている。
 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。
 あるいは信じたいだけかもしれなかったけれど、もう疑う気持ちはなかった。

 このまま寝てしまいたい気もしたが夕食は食べなければならない。
 危機はいつ訪れるともわからない。体は常に万全に動くようにしておくべきだ。
 食べられるときには食べておくべきなのだ。
 篠塚家の食事は、今はレトルトが大半だった。
 兄がいた頃は手の込んだ手作りの料理を作ってくれていたが、トンボはそれほど料理が得意ではないし、姉は仕事に忙しく料理をしている暇がない。
 それでもご飯だけは炊いているから食べるものはないわけではなく、トンボはカレーを温めてそれを食べた。

 胃が満たされると、何だか少し力がわいてきた。
 そしてトンボは、鞄の中から分厚いノートを取り出す。
 潮ヶ浜夜の日記と――兄の記録。
 兄が死の一週間前にヨースケから預かった日記。
 そして兄が死の三日前に改めてヨースケに預けた情報。
 兄は――なぜヨースケに預けたのだろう。彼が潮ヶ浜夜の恋人だったからだろうか。

 もしかしたらこれをヨースケに渡したために兄は殺されたのではないだろうか。
 そこには事件の核心に迫る推理が書かれていて、それを知ったヨースケは兄を殺した。
 そんな疑念が過ぎる。トンボは頭を振って恐ろしい妄想を振り払う。
 それならヨースケがこの記録をトンボに預けるはずがない。
 トンボはとりあえず夜の日記に手を伸ばし、中を開けた。
 
――だってこれのために、タイチともタスクとも絶交する羽目になったんだろ。

 ここでトンボが臆していたら、それこそ二人に顔向けできない。
 可愛らしい日記にぴったりの、女の子らしいまるっとした文字が躍る日記帳。
 そこには何気ない少女の日常があった。
 その一文にトンボは目を止める。

――四月十四日 明美ちゃんと百合子ちゃんとオカルト部結成! 何と交番のお巡りさんが指導してくれることに。何でも霊能調査室っていう特務機関の室長なんだとか。本物の霊能力者っぽくて、私はとてもわくわくしてます。早く七色不思議の魔術を教えてくれないかな。それは式部北高校に代々伝わるおまじないの儀式で、何でも願い事をかなえてくれるんだって。そしたら私は桜木君と……。

 背筋を走ったのは本当に冷たい汗だった。
 明美ちゃんと百合子ちゃん――それは早田明美と曽根百合子のことではないだろうか。
 そして、霊能調査室のお巡りさんと言うのは、山下以外にありえない。
 何故ここに彼が登場する。そして、七色不思議の魔術――。
 トンボは口の中が乾いていくのを感じながら、さらに読み進める。

――四月二十日 今日山下さんに七色不思議の話を教えてもらった。二人に七色不思議で何のお願いをするか聞いてみた。明美ちゃんはK.Yと付き合いたいって。私はちょっとあの人は苦手。確かにかっこいいし、明美ちゃんが好きになるのもわかるけど、隠れてタバコ吸ってるみたいだし。百合子ちゃんはみんなで仲良くできますようにって。そんなのお願いしなくても、私たちの友情は永遠なのだ。

――K.Y。かっこよくて、隠れてタバコを吸っている? 
――神楽崎ユミエ(Kagurazaki Yumie)。
さっきの出会いもあってかトンボの脳裏には真っ先にその名前が浮かんだ。

――五月六日 今日、私たちは三人で七色不思議の儀式をして、それぞれに願い事をした。明美ちゃんは明日、K.Yに告白するんだって。

 そのページはまだほとんど白いのに続きの日記が書かれていなかった。
 トンボはそれが早田明美殺害前日なのだと気付く。
 明美が告白したK.Y。その直後に、明美が殺されている――?

 ユミエは確か明美には好きな人がいたから手は出していないと言わなかったか。
 ならばこのK.Yと言うのは別人だろうか。
 K.Y――ユミエ以外にトンボの頭にはすぐに思いつく知り合いがいない。
 トンボは次のページをめくった。

――五月二十日 私たちは騙されたんだ。山下は魔術師なんかじゃない。七色不思議は願い事をかなえるおまじないなんかじゃなかった。私たちは悪魔を呼び出してしまったんだ。吸血ジャックと言う悪魔を。明美ちゃんは殺された。多分私も百合子ちゃんも殺されるだろう。冗談じゃない。相手がこっちを殺そうとするなら、私が返り討ちにしてやる。私は許さない。明美ちゃんを虫けらのように殺して、蹂躙したあいつを――K.Yを。

 またK.Y。しかもこの文脈なら、間違いなく早田明美を殺したのはこの人物だ。
 今の所、トンボにはそれがユミエを指しているようにしか見えなかった。
 他に思いつく人物がいない。
 でもユミエは自分が犯人ではないと言った。それが嘘だったとは思えない。
 それよりも――山下。
 日記を見る限りでは被害者の三人の少女はオカルト部を独自に結成していた。
 そして、山下に教えを乞うていたのは間違いない。
――いや。
 トンボは思い出す。山下は確か――。

 思い出せ――。最初に出会った時、山下はトンボに名刺を渡している。
 トンボは名刺をしまったはずの財布を慌てて探しながら、その時の山下の言葉を思い出していた。
――僕は山下と言います。
――山下勝彦巡査部長。
――ヤマシタ、カツヒコ、巡査部長。
――Yamashita Katsuhiko。

「あった――」

 トンボは財布から名刺を取り出してそれを見る。
 埼玉県警式部署式部市中央交差点前派出所 霊能調査室室長
 山下勝彦巡査部長
――イニシャルK.Y。

 山下だ。間違いない。だって他にいない。
 早田明美を殺したK.Yは間違いなく山下のことだ。
 その時、トンボの中で一連の事件が整合性のある筋の通った話としてつながった。

――山下と吸血ジャックは二人組の犯罪者だ。
 そして、これは認めがたい事実だけど、幽霊を使う。
 山下がまず犠牲となる人間を選び、口車に乗せて、この七色不思議の儀式を行わせる。
 多分これは被害者ごとに同じことを引き起こす別の内容を教えている。
 ともかくそれによって起きることは、色鬼を、儀式を行った人間に憑かせること。
 そしてその後で吸血ジャックが現れ、その人を殺していく。
 多分儀式を行った人は色鬼に憑かれた時に死んだことにされてしまうのだ。

 だから山下はあんなに色鬼のことについて詳しくよく知っていたのだ。
 だって自分がそれを呼び出す人間なんだから。当たり前だ。
――そして、ならば。
 今山下が、いや、吸血ジャックが狙っているのは――タスクだ。
 タスクは日曜日に七色不思議を行ったと言っていた。
 今タスクに色鬼が憑いているのは間違いないことだった。
 だったら吸血ジャックが殺すのはタスクだ。

――だから火曜日。タスクは導かれるようにカササギビルに行ったのではないか。
 あの時落ちてきたフェンスは、タスクの命を奪うためのものだったのではないか。
 山下が現れたのもそこだった。あの時吸血ジャックはあのビルにいて。
 そして山下はその犯行を陰から見守っていたのだ。

 いけしゃあしゃあとトンボたちの前に現れて、トンボに生徒会を疑わせたのもあの男。
 山下はユミエとミツルの出現を予測した。
 そうなるとわかっていてトンボに言ったのだ。
 どうして山下がそれを知っていたのか――山下が犯人だったなら至極当然だ。
 自分がユミエとミツルに疑われているのを知っていたから、カイコがトンボに教えたように二人に連絡をつけると予測し、二人はこの街に現れた。
 全て山下が仕組んだことだったのだ。

 トンボは携帯を取った。今すぐに、この恐るべき事実をタスクとタイチに知らせなければ――。
 トンボは電話帳からタスクとタイチのアドレス宛にメールを作り、本文を打ち込もうとして、不意に手を止めた。
 
 もう絶交したのだ。今更どの面下げて二人にこのことを言えるだろう。
 それに、もし山下が犯人なら、タイチもその犯行に関与していないと、どうして言えるだろう。
 ユミエだって怪しいと言っていたじゃないか。

 兄の日記には、もっと詳しいことが書いてあるのではないか。
 トンボはそう思い、アゲハの日記に手を取る。
 すると、そこから一枚の紙が零れ落ちた。
 トンボはそれを拾い上げて開く。

――私は明日、死ぬかもしれません。

 その一文を、トンボは三度、目で追った。これは――遺書だ。アゲハの直筆の。

――私は明日、死ぬかもしれません。できる限り安全に穏便に事を運ぶつもりです。
 カイコにも手伝ってもらうし、なんだかんだで運は強いし。
 でもやっぱり、死ぬかもしれません。それを考えるのは、とても怖いです。
 だから、すごく動揺している気持ちを落ち着かせるために、今これを書いています。
 この手紙は誰かに当てたものではありません。遺書のつもりもありません。
 でも、私が死んだとしたら、結果的にこの手紙がその代わりになるでしょう。

 まず最初に、姉と妹に、謝っておきます。ごめんなさい。
 姉さんかトンボがこれを読んでいるということは、私は死んだということです。
 ごめんなさい。私はあなた達から家族を一人奪う暴挙に出ました。
 これは勘違いかも知れないけど、私が死んだ後の二人の生活はとても心配です。
 特に食生活。インスタント食品ばっかりになっていませんか。
 トンボは菓子パンばかり食べていませんか。
 料理はやっぱり家族が作ったものを食べるのがいいです。
 最低週に一度は、手作りの料理を食べるようにしてください。
 姉さんは、仕事だけじゃなくて、誰か好きな人を作ってください。
 トンボは勉強を頑張ること。もう兄さんはいないからね。
 とにかくあなた達が二人きりになってしまったのは、私のせいです。
 でも、あまり悲しまないで、前を見て希望の道を進んでください。

 次に、生徒会の仲間にも謝っておきます。
 まずはカイコに。
 私が死んだということは、君との計画に何らかの齟齬が生じたということでしょう。
 それは、どうしようもないことかもしれないし、そうでないかもしれない。
 でも、どっちにしても、私が死んだのは私の責任で、カイコのせいではありません。
 責任を感じているなら、思いつめないでください。
 無茶な話だったことは、私が一番よく知っているし、君はずっと反対していた。
 私が無理を言って計画を実行し、その結果死ぬわけですから、自業自得です。 
 ただ、私がいなくなった後、ユミエ先輩もミツル先輩も卒業したら。
 君が生徒会の重荷を一人で担うことになるでしょう。
 重荷を押し付けるのは申し訳なく思います。ごめんなさい。
 それから、もしこれを読んでいるのが小野宮蚕なら、お願いが一つあります。
 来年、新入生として、私の妹がこの学校に入学するかもしれません。
 勉強は苦手ですが、真面目で根性のある自慢の妹です。
 どうかよくしてやってください。

 ミツル先輩は――、あえて言い残すことはありません。
 あなたがこれを読むとすれば、それは私の日記を手に入れたということでしょう。
 日記に書いてある内容を読めば、ミツル先輩は真相にたどり着くと思います。
 この高校の惨劇だけでなく、吸血ジャック事件そのものや、その背後のことも。
 できればこれは、あなたの手に渡ればいいと思います。
 他の人には割と恥ずかしいことを言っているので。
 そして、もしこれが、あなたの手に渡っているなら。
 ユミエ先輩が犯人を探しているなら、それを止めてくれませんか。
 多分それが出来るのは、あなた以外にいないと思います。
 それくらいです。でも大切なことなので。

 そして最後に、ユミエ先輩。
 生きて帰れなくてごめんなさい。全部内緒にしててごめんなさい。
 でも私は、ユミエ先輩のことが大好きです。
 それで、先輩には余計なことかもしれないけど、先輩をよく知らない人から、先輩が責められるのはやっぱり許せません。
 この事件の犯人が先輩かもしれないと疑われるのもすごく腹が立ちます。
 だから、いざと言うときに、先輩に疑いがかかるようなことはしたくありません。
 それが、秘密にした理由です。逆に迷惑かもしれません。その時はごめんなさい。
 もし私が死んで、この手紙を先輩が読んでいるなら。
 まず復讐は考えないでください。考えているならやめてください。
 ここには書けませんが、この事件の犯人は、先輩が手を下すような人間ではありません。
 それに私は、私が先輩に人殺しをさせる理由になってしまうのが一番許せません。
 もし私が先輩にとって復讐の理由になっていたら、どうか私のことを忘れてください。
 そんな大層な話ではありません。ただ私が迂闊だっただけです。
 私は先輩が常に正しいと信じています。だからあなたは人を殴っても絶対に殺さない。
 どうか、その正しさを失わないでください。
 大好きです。いつも、いつまでも。

「……」

 トンボは手紙を置く。涙が止まらなかった。
 ありありと兄がこれを書いている所が見える。言葉が声になって聞こえる。
 この手紙の向こうに、生きた兄がいる。
 これは――ユミエの手に渡るべきだ。少なくともこの手紙は。
 ここに書かれているアゲハのユミエへの思いは、ユミエに届くべきだ。

 トンボは携帯を手にし、ユミエのアドレスを開いたまま、考え込む。
 チャイムが鳴った。
 トンボはびっくりして小さく悲鳴を上げた。
 こんな夜遅くに来客があるとも思えない。

 ピンポン、ピンポン。

 チャイムは繰り返す。トンボはおかしいと思った。
 いたずらと思うほどしきりにチャイムが鳴らされる。
 いたずらでなければ、あるいはホラー映画のように。

「どなたですか!」

 トンボはドア越しに声をあげた。
 返ってくる声はない。ただ、チャイムの音だけが繰り返される。
 トンボはドアチェーンをかけ、戸棚にしまってあった木製のバットを片手に握る。

「今開けます……」

 トンボは鍵を外すと勢いよくドアを開けた。ドアチェーンがビンと突っ張る。
 開いた隙間から突風が吹きつけて、トンボは思わず目を細める。

――誰もいない?

 いや、そう思わせてドアの陰に隠れているだけかもしれない。
 トンボがチェーンを外してドアを大きく開けようとした時――。
 網戸が開く音はトンボの部屋から聞こえた。

「誰!」

 恐ろしくなり、トンボはドアを閉め、鍵をかける。
 恐る恐る廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
 バットを震える手で握り、思い切りドアを開けた。

――中には誰もいなかった。
 ただ、トンボがさっき潮ヶ浜夜の日記を読んでいた机の向かいの網戸が空いていて。
 机の上にあったはずの夜の日記がなくなっていた。
 いや、それだけではない。兄のノートもなくなっている。
 トンボは即座にカーテンを開けて窓の外を覗く。

 街灯の下に、真っ黒な男の姿があった。その手に二冊の日記を持っている。
――萩原ミツルだった。
 ミツルは一度、トンボを振り返る。その目とトンボの視線がぶつかった。

「――何なんだ、アンタ、一体何なんだよ!」

 近所のことも考えずトンボは闇に叫んだ。
 ミツルは答えずぬるりと影の中に消えて行った。

「――待てよ! 待って! それは大切な証拠だから! 持っていかないで!」

 トンボは届かないとわかっていたのに、窓から手を伸ばした。
 もうミツルはどこにもいない。

――待って。持っていかないで。

「――待って」

 ぱちりと目を開けて気付く。
自分が今ベッドの上にいて、携帯を両手で握りしめていることに。
 外が明るい。トンボは画面の時計を見る。五時四十分。当然朝だ。
 スズメが鳴いている。ではさっきのは――。

「――夢?」

 トンボは飛び起きて机を見る。日記はない。
 鞄の中を探してもどこを探しても、潮ヶ浜夜と兄の日記はなかった。
 トンボの手の中で携帯が緑色のライトを明滅させている。
 メールの着信を知らせる合図だ。
 アドレスはトンボが知らないものだったが、タイトルを見てトンボは凍りつく。
 そこにはアゲハの遺言、と書かれていた。
 開くと拍子抜けするほど短い分が一つ。

『おかえりなさい』

 ただ、文字は黒ではなく、黄緑色で書かれていた。
 文面はただそれだけ。スクロールする余地もない。
 昨日の不思議な出来事は、ミツルがノートを盗んだのは事実だろうか。
 いや――そもそもトンボはいつから夢を見ていたのだろう。
 ひょっとして何もかも夢だったのではないだろうか。
 そうだ、禅定寺での出来事なんて、まさしく夢の中のようではなかったか。
 トンボがあんまり事件のことにとらわれているから、そんな夢を見たのではないか。
 本当はヨースケに日記なんてもらわなかったのでは。
 もらってないものがここにないのは当然ではないか。

「どうなってるんだ――」

「トンちゃーん、もうそろそろ行かないとまずいんじゃない?」

 台所で姉の声がした。トンボの困惑など関係なしに日常は通常通り回転している。
 学校に行かなくてはならない。陸上部の朝練はおろそかにはできない。
 トンボはとりあえず服を着替える。
 どうなっているんだ、と思いつつも、夢だったらよかったとも思った。
 タイチとタスクと絶交したあのことが夢だったなら。
 学校に行ってみれば何もなくて、いつものようにタスクがお弁当を作ってきてくれていたら。
 そんなわけないか、と苦笑して、トンボは姉の用意した朝食を片付けた。
K.Y.
»»  2013.09.02.
【木曜日】



――今すぐあの二人と縁を切れ、坂崎タスク。

 昨日、墓場に現れた天使。
 灰色に燃える焦土と化した墓地に、あの男は神様のように天空から降り立った。
 全てが敵に見えたタスクの目に、確かに彼はその背に純白の翼をなびかせていた。
 もちろんそれはタスクの目にはそう見えただけなのだけれど。
 彼に名前を呼ばれた瞬間タスクは灰音から自分を取り戻した。
 そして理解した。彼も自分と同じ、色鬼に憑かれ、蘇った死者なのだと。

――僕は萩原ミツル。君と同じ、生と死の境で綱渡りをするもの。

 天使のささやきに、タスクは視線だけをそちらに向けた。
 天使は――ミツルは続けた。

――七色不思議は行ったものの願いを一つだけ叶えてくれる。
――明日、もう一度学校で七色不思議の儀式を行え。
――そして今度こそ、完全に儀式を遂行するんだ。
――それ以外に君が松木タイチと篠塚トンボに危害を与えない方法はない。

 ミツルはタスクの耳元でそうささやいた。
 虚ろな瞳に映ったその顔をタスクはしっかりと覚えていた。
 何の感情もない、真っ白な能面のような顔。
 人間らしさを感じさせない美しい整ったそれはやはり天使に見えた。
――この人は天使だ。多分、死の天使だ。
 風と共に天使は墓場を去った。
 そしてタスクは言われた通り、わざとトンボとタイチを怒らせて縁を切った。

 見るものが見ればタスクが演技していることはあからさまだっただろう。
 二人と視線さえまともに合わせられず、歯の根すら合わないのに二人を罵倒した。
 座り込んでいたのは足が震えてまともに立てなかったからだ。
 とんだ大根役者もいたものだ。
 しかし、トンボとタイチはこれでもうタスクとは関わらないだろう。

 これでよかったんだ、という黒い思いと、こんなはずでは、という白い思いが心のキャンバスの上でグシャグシャに混色されていく。
 気がつけば、三人の友達が楽しく弁当を食べ合っていたはずの絵が、灰色に塗りつぶされていた。
 それが今のタスクの心の中だった。

――もうお弁当も作らなくていい。二人の弁当箱はどうしようか。
 いっそ返さない方が、二人が自分に幻滅してくれるのではないかと思った。

――会長が励ましてくれたことも、結局無駄になったな。
 タスクが生き返ったのは奇跡なんかじゃない。祟りだ。この復活に意味なんてない。
 ただ、身近な人間を殺して、殺しつくすまで、この祟りは終わらない。

 きっと、まずはタイチを、その後にトンボを、そして家族を。
 最終的に知っている人間をすべて殺して、この街を灰色の炎で焼き尽すまでタスクは死ねないのだ。

「そうなんだろう? 『灰音』」

――くすくす。大当たり。大体君は、自ら命を絶った人間で、今のこの現在は、本来なら君には与えられるはずのない時間。だとしたら、君が君の死の後に起こる出来事について干渉するのはおこがましいとは思わない?

「それは蝶野会長が教えてくれた。例えそれがどういう理由で起こっていることであれ、生きているなら、ボクはその命を生きる。ボクは自殺者かもしれないけど、人殺しになるのはごめんだ」

――都合のいい論理だね。君はその人間の命の中に自分を含めてないわけだ。他人を殺せば人殺しだけど、自分を殺すのはいい。いかにも自己中心的で人間的な考えだね。人間は何故か自分だけはいつも蚊帳の外において物事を考えるんだ。……ああ、それとも、もしかして君は、自分が人間じゃない自覚があるのかい? それならその通りだよ。君は、鬼だ。死んでから動き出して、人の生き血を求めてさまよう化け物だ。ほら、ご覧、窓は君の本当の姿を映しているよ。

 灰音がくすくすと頭の中で笑い、タスクは思わず部屋の窓ガラスに映りこむ自分の姿を覗き込んでしまう。
 首は生まれて間もない赤ん坊のようにだらしなく垂れ下がり、顔面は半分つぶれている。
 右目と左目がそれぞれ別の方向を見ている。
 ぎょろりと飛び出したように開かれた右目が、ふとタスクを見た。

――もういいかい。
 窓に映る死体のタスクが言った。
 タスクは大きな声で叫んで跳ねるように起きた。
 起きてから自分がまた夢を見ていたのだと気付く。

――また夢。これで七回目か。

「もう、お兄ちゃんうるさい! こっちまで眠れなかったじゃんか!」

 弟が二段ベッドの上の段で枕を投げつけてくる。
 今のタスクにそれを投げ返す気力はなかった。
 一晩中タスクは譫言を言っては悲鳴を上げて目が覚めるのを繰り返していた。
 最初は心配そうだった弟もすっかり寝不足で機嫌が悪くなっていた。
 無言で部屋を出て、顔を洗う。鏡に映るのは、一見生きている人間に見える。
 栗色の収まりの悪い髪の毛は寝癖で乱れ、ランニング一丁の体は見るからに貧相だった。
 目にはクマが濃い。もともと目の周りはやや黒ずんでいたが、今のタスクの目ははっきりと青黒い色がついていた。
――痩せたと思うのは顔に生気がないからだろうか。
 いや、ここ数日は、出された食事が食べきれず、残す日が多い。
 おまけに眠れていないのだから、痩せない方がおかしいだろう。

――痩せるとか痩せないとか。人間みたいに。

 いつの間にか、鏡には子どもがうつっていた。
 青い着物の、栗色の髪の毛の、灰色の目隠しをした子ども――灰音だ。
 それがくすくすと鏡の裏側から笑う。

「――ボクは、人間だ」

――大嘘つき。君はもう人間じゃない。化け物だ。君はボクだ。ボクは君だ。ボクは色鬼、灰音。人間なんかじゃあないよ。ボクも――君も。

「――ボクは人間だ!」

 タスクは思わず鏡に向かってドライヤーを投げつけた。
 ガラスが割れる音がして、灰音の姿にひびが入る。

「ちょっと、タスク?」

 母親の声がして、タスクはまずいと思う。

――くすくす、くすくす。何なら殺してやろうか。その女も。

 灰音の笑う声がして、タスクは洗面所を飛び出した。
 後ろで母親が驚いた声を上げ、タスクの名前を大声で呼ぶ。
 タスクは制服に着替え、鞄を持ってそのまま学校へと向かった。

――もうそこにしか居場所がなかった。いや、もうそこにさえ居場所はないのだ。

 この世界にタスクのために許容されたスペースはもうどこにもない。
 何故ならタスクは日曜日に自殺した人間だからだ。
 すでに居場所は失われている。自分で放り投げたのだ。

 罰というなら、罰なのかもしれない。
 今、はっきりとわかる。タスクは自分の居場所がないと思っていた。
 でもそれはタスクが気付いていなかっただけで、本当はたくさんのものが、たくさんの人が、タスクのために存在していた。
 タスクの居場所をちゃんと用意してくれていたのだ。
 家族はもちろん、タイチも、トンボも、カイコも、ヨースケも。
 学校の人たちも、この街に住むあらゆる人たちも。みんなが。

 それに気付かずに、自分に与えられた唯一無二の尊いものを投げ捨てた罰。
 八つ当たりのような不満を世界にぶつけ、無いものばかりねだっていた報い。
 タスクは自分の場所を投げ捨てた。
 だからこれからタスクは自分の居場所が失われていくのを、世界から自分が疎外されていくのを体感しながら静かに死んでいく。
 そういう罰が与えられたのかもしれない。

 だとしたら、それはそれでしょうがないのかもしれない。
 それは罰を与えられるべき、相応の罪だと思う。
 しかし、そんなタスクの考えを、灰音は嗤った。

――罰だって、報いだって。おかしいったらないや! 感傷に浸って気持ちよくなってるんだね! 神様も、天も、閻魔大王も、誰も、君のことなんて見ちゃいないよ。道端にゴミが落ちてたら、誰かがそれを片付けるだろ。ボクはゴミを見つけて、ちょうど手ごろだから拾って再利用してるだけだよ。ゴミが捨てられるのはゴミが悪いことをした罰じゃない。ただ単にいらないからだよ。タスク、君はいらない人間だった。君もそう感じたからゴミのように死んだんだろう。ゴミ箱に入れられたら、元いた場所が恋しくなっちゃったかな? くすくす、くすくす。

「うるさい! お前が……もとはと言えばお前が!」

――自殺したのは君の意志だ。ボクが導いたわけでも、そそのかしたわけでもない。むしろ感謝されるべきだとさえボクは思うんだけれど。ボクが悪い、ボクのせいだと追及する現在の君の意志は、一体どうして今、そういう風に考えることができるんだろうねぇ? ボクは一応死にかけの君の命を助けて、救ってやったはずなのに。

 頭の中の声に大声で返すタスクは、街の至る所に灰色の目隠しをつけた少年の幻影を見るタスクは、誰の目にも狂人のようにしか見えなかっただろう。
 いっそ狂っていると思われて、隔離された方が幸せかもしれないと、タスクは街を走り抜けながら思った。

 そうすればタイチを殺さずに済む。
 そう思われていれば、もう誰も自分に何かを頼んだりしない。
 誰にも何も期待されずに、ただ口から憎まれ口を垂れ流すだけの存在に。
 そうなりたいとは思わない。
 でも、そうであった方がきっとタスクがこの街で野放しになっているより、ずっと害は少ないのだ。
 タスクはそう思いながら校門をくぐり、立ち止まって後ろを振り返った。
 灰色の目隠しの男の子は――色鬼、灰音は、その門前でぴたりと止まっていた。

――くすくす、ここに逃げれば安全かい? 確かにボクはここから中に入れない。それは認めるよ。でも、無駄な抵抗だよ。今日が終われば、君はいつもと同じようにまたここから家に帰る。今日が、坂崎タスクが、坂崎タスクとして存在できる最後の日になるだろう。悔いの残らないように学校生活を楽しむといい。ああ、でももう君の大切なお友達とは、縁を切ったんだったね。まあ、せいぜい君がする最後の足掻きを、ここから見物させてもらうとしよう。くすくす、くすくす――。

 やがて灰音の姿はぼやけ、灰色のアスファルトの陽炎に溶けていく。
 タスクは玄関で靴をはきかえ、まっすぐに美術室に向かった。
 黒板の裏側は棚になっていて、そこには制作に使うさまざまな教材が入っていた。
 タスクはそこから墨汁と、オレンジ色の絵具のチューブをできる限りたくさん取った。
 そして、ポケットから灰色のスカーフを出す。
 昨日タイチにもらったものだ。

 ふと、誰かに見られているような視線を感じて、タスクは後ろを振り返る。
 当然ながら誰もいない。ただ、タスクの姿を見ている目は存在した。
 教室の後ろに、ひっそりと掛かっている一枚の絵。
 題名も、作者の名前もわからない絵。白いコートを着た、女の姿。

 曰く彼女はこの学校の守り神で。
 タスクがこれから行うことは、まさしく彼女を絵の中から呼び出すための儀式だった。
 タスクは心の中で小さく祈る。
――あなたが本当にこの学校の守り神なら。
――どうかボクを助けてください。
――どうかボクに、大切な友達にこれ以上ひどいことをさせないでください。

 そしてタスクは、自分の上履きの裏に墨汁をこぼした。
Gray grins at suicide's regret
»»  2013.09.02.


 その日は朝から騒がしい日だった。
 トンボが登校した時点では何事もなかったが、その後、校内放送がかかり教頭や学年主任が呼び出され、朝練が終わるころには学校全体が騒々しく落ち着きをなくしていた。
 クラス委員の臨時の集会が開かれ、トンボはそこで最初の異変を知った。

 学校には、いたるところに真っ黒な足跡が残っていた。
 墨汁で残された足跡は、美術室から始まり、全ての部屋に入念なほどに足跡があった。
 それだけではない。学校中の鏡にオレンジ色の絵具で落書きが施されていた。
 だから、まずこの日、式部北高生は一斉にそれらの汚れを落とすべく清掃活動を行った。

 トンボはトイレの鏡の落書きを落とすことになった。
 式部北高校の通常教室棟の生徒用トイレはそれぞれの階の踊り場に設けられている。
 男子トイレと女子トイレのドアの前にそれぞれ背中合わせになるように二つ、蛇口の三つ付いた流し台が並んでいる。
 そこには大きな鏡が二面、合わせ鏡のように張ってある。
 その鏡が、オレンジ色の絵具で落書きされていた。一年から三年のトイレ、全ての鏡に。
 トンボは一年生のトイレの女子用の鏡をスポンジで拭く。
 幸い水彩絵の具で描かれた落書きは水だけでも十分に落ち、それほど手間ではなかった。

 しかしトンボは、その落書きを落としながら、なんだか不思議な気持ちになった。
 落書きというより、まるで絵具で鏡に檻を張ったようだ。
 鉄格子のように鏡の上から下へ、右端から左端へと何本もオレンジ色の線が続いている。
 合わせ鏡になっている男子用の鏡にも同じように橙色の格子がはまっていた。
 手で描いたことを物語るように線はきちんとまっすぐではなかったけれど。
 そのフニャフニャした格子の隙間の鏡面が合わせ鏡になり無限に回廊を作っている。
 トンボはそれを見て自分がオレンジ色の網に捕らわれているように錯覚に陥った。
 檻ならば、何を捕えていたのだろう。格子ならば何のためにはめたのだろう。
――洗い落として、その檻を壊していいものだろうか。
 バカバカしい、とトンボは軽く頭を振った。
 どうにもここの所発想がオカルトめいている。
 間違いなく今週からのタスクの事件が発端だった。

 そのタスクは本来なら同じ清掃班としてこの場にいるはずだったが、男子の流し場を見てもその姿はない。どうやら今日は欠席らしかった。
 臨時の職員会議が開かれ、午前中の授業はほとんど自習に当てられた。
 そんな状況で大人しく自習をするわけないのが当たり前で、事実トンボの一年五組でも、女子生徒は群れて怖い怖いと噂をはじめ、男子生徒は教師の目を盗んで教師たちの動きを盗み見に行くものが後を絶たなかった。
 しかし少なくともトンボにとってこの狂騒は全く意味のないものだった。

 タイチも、学校に来るや否や、保健室に行ってしまった。
 やはり、あれはちっとも夢のことではなかったのだ。
 タスクはトンボに親がないことを嘲り、トンボはタスクの顔に往復びんたをかました。
 それでどうして明日からまた仲良くなんてできるだろう。
 タスクがわざとそうしていて、そうせざるを得ない状況だったことはわかっている。
 それでも、――やはり顔を合わせるのは何だか躊躇われた。
 だからトンボはタスクが欠席していて、タイチもいない今の教室に少し安心していた。
 きっと二人とも同じ心持なのだろう。タスクも、タイチも。

――犯人はこの学校の中に生徒だ。

 誰が言い出したのかわからないこの説は、すでに生徒の間では確定事項としてまかり通っていた。
 それは残された足跡から簡単に分かった。
 この学校の上履きは指定のローファーで、靴の裏の模様が全て同じだ。
 残された足跡はまさしく、この学校の靴の裏と一致していた。
 足跡は小さかった。女子か――あるいは小柄な男子生徒。

「ひょっとして坂崎とかじゃね?」

 ふとそんな言葉が耳に入り、トンボはそちらを振り返る。
 すぐ後ろの席で自習中だというのに教科書もノートも出さずに男子が駄弁っていた。

「あー、あり得るー、あいつ見るからにそういうことしそう」
「えー、そんな度胸はないと思うけどなぁ? オレ日曜日のテレビ見てたけど、あいつ舞台上でビビりまくりだったし」
「バーカ、そういう奴に限って――」

 その言葉を遮ってトンボは後ろの席をバンと強く叩いた。
 教室中に響いたその音に部屋は一瞬で静まり返る。

「そういう奴に限って、何?」

 トンボは威圧的な目線でその男子たちを睨みつける。
 体はトンボより一回り大きい男たちだったが、委縮したようにいや、とかその、とか答えに窮する。
 情けない男たち――それは断じてトンボがよく知る男ではなかった。
 問いただされて答えに窮すようなことを軽々しく口に出す人間ではなかった。
 兄も、――タスクも、タイチも。

「――真面目に自習しよう。保健室に行ってくる」

 トンボはそう言い残して教室を飛び出した。
 保健室に行くと、取り込み中の立札が掛けられ、中に入れないようになっていた。
 しかし、それが養護教諭、国栖のサボタージュであることはトンボにはすぐに分かった。
 こんな状況になれば保健室に来る生徒は必然的に増えるものだ。
 それを見越してあらかじめ掛けておいたのだろう。
 トンボは迷わず扉を開けようとした。

「――去年と一緒だ」

 中から聞こえた国栖の声に、トンボは思わず手を止め、聞き耳を立てた。

「去年も?」

 問う声はタイチのものだった。
 おそらくは保健委員で顔なじみということで、朝からずっとここにいたのだろう。

「ああ、確か同じような事件が起きてる。鏡の落書きと学校中の足跡、今日はもう、何も起こんねえな。見つかるのは明日だ。明日、屋上で、落書きが見つかる。こいつは、――七色不思議って奴だ」

「七色不思議?」

 ドアを挟んで保健室の内と外で、トンボとタイチは同じことを口走った。
 去年殺された三人が、潮ヶ浜夜が日記で書いていた、七色不思議の儀式。
 この学校に伝わる噂話。
 でも、それが何故――。

「聞いたことあるだろ、美術室の白いコートの女の絵が、実はこの学校の守り神だとか、普通に聞いてりゃよくある噂話なんだが、そいつを呼び出して自分のものにすると、必ず願い事が叶うっていうあの噂話だ。どうもそれをやってる奴がいるらしい」

「――必ず、願い事が叶う?」

 タイチが国栖に聞く。国栖はそういう話だったと思ったがな、と肯定した。

「だが、もしこれが七色不思議で、この学校の生徒がやってるなら――止めなきゃなんねぇ」

「迷惑だもんなぁ」

 そういう意味じゃねえよ、と国栖はタイチの言葉を否定する。

「去年、これと同じ事件があったすぐ後に、学校の生徒が殺された。どうしてだかはわかんねえが、七色不思議を行った生徒は吸血ジャックに殺される。これは多分、間違いない」

 国栖がそう言った後、タイチは何かを考え込んでいるのか、しばらく何も言わなかった。

「……明日の朝、屋上に落書きが見つかるんですね」

「これまでの例から言や、それで間違いねえな」

――屋上。
 トンボは口の中で呟いた。しかしそこは――。

「でも屋上って、鍵かかってますよね」

「そうだな、だから妙な話なんだ。去年の時も、鍵が持ち出された様子はなかったのに、屋上は荒らされてた。つまり、どうやら屋上については合鍵を持ってる奴がいる見てえだな」

「明日屋上で何か見つかるっていうことは――先生だけじゃなくて、他の先生も知ってるんですよね」

「ああ、だから教頭は屋上の鍵を厳重に保管してるし、今は屋上に見張りの先生を交代で立ててるみたいだな。さすがに夜中までは無理だから、今日は生徒を集団下校させて、六時には校舎を完全に施錠するってよ」

「……国栖先生、オレちょっと今日は早退します。先生の方から伝えてもらえませんか」

 タイチは何かを考えるようにしてから、不意にそう切り出した。

「はぁ? 面倒くせえよ、大体仮病だろそれ」

 とにかくお願いします、そう強引に言ってタイチは国栖の返事も待たずに保健室を出る。
 トンボは思わず廊下のわきに自分の身を隠す。
 別に隠れるいわれもなかったが、なんだか顔を合わせるのはまずい気がした。

 廊下に出ると、タイチは携帯を取り出して、誰かに電話をかけた。

「あ、山下さん?」

 トンボはその名前にぎくりとする。
 そうだ、昨日の夢に寄れば、潮ヶ浜夜の日記に寄れば――去年の事件の犯人は。
 もう一人の吸血ジャックは――今タイチが電話で話している男、山下なのだ。

「うん、仕事中ごめんね。ところで、確か錠破りの道具って――、うん、うん。いや、何でもないよ。今日はタスクの家で勉強会だから、帰らないから。うん、それだけ、じゃね」

――錠破りの道具?

 トンボはタイチの言ったことを繰り返す。
 それにタスクの家で勉強会って、タスクは学校にさえ来ていないのに――。
 タイチはそのまま教室に戻って鞄を持って帰っていく。
 トンボはその一連の行動をつけて、タイチが出ていくのをこっそり見ていた。


――タイチは、何かをするつもりなのだ。
 錠破りの道具。屋上の見張りは、六時にはいなくなる。
 トンボは一つ唾を飲み込むと、その窓はそのままにして生徒会室を後にした。

――間違いない。タイチは今日、学校の屋上に忍び込むつもりだ。
 でも、どうして。

 トンボはハッと思いついて、下駄箱のタスクの靴を確認する。
 そこにはタスクの靴が入っていて、上履きがなかった。
 タスクは今日学校に来ていないのに、靴があって上履きがない。
 つまりタスクは、今、この学校にいる。
 それなのに、少なくともホームルームには出席していない。
――それは一体何を意味している。

――この騒動を起こしているのは、タスクだ。
 タスクが七色不思議を行っている。
 なら、タスクはきっと今日、屋上でその儀式を終えるはずだ。
 ならば、だとしたらタイチは。

 山下が去年の事件の犯人なのは間違いない。
 そしてタイチは、その山下の所に身を寄せていて。
 タイチは、タスクを――殺すつもりなんじゃないだろうか。
 吸血ジャックの犯行として。

 そのために忍び込めるように錠破りの道具を持ち出そうとしているのでは。
 タスクが屋上に忍び込んだ後、その道具で学校に忍び込み――。
 そして、だから山下に連絡をしたのではないか。
 タスクの家で勉強会というのは隠語で、タスクを殺すという意味かもしれない。
 だったら――。

 タスクが、危ない。
 トンボは思わずタスクの携帯に電話する。しかし案の定タスクは出ない。
 連絡は取れない。ならばどうする――直接止めるしかない。

「もしもし、姉さん、うん、今日、タスクの家で、うん、もうすぐテストだから。勉強会で、今日は帰らないから。うん、じゃあ――」

 トンボは決めた。
――タスクを殺させてたまるか。ボクが、そんなことはさせない。
 学校に残り、身を隠し、タスクとタイチを、止めてみせる。
 そして去年の、山下の犯行を暴いて見せる。
 トンボは心にそう強く誓った。
The Seven Color Wonders
»»  2013.09.02.


 放課後はタスクが思うより悠長に訪れた。
 普段は授業に参加しているから何とも思わないが、ただ放課後を待つだけで、しかもその間他の生徒から身を隠していなければならないというのは、想像以上に退屈で、同時に大変なことだった。
 ともあれ、生徒は全員が帰宅し、教師も学校に鍵をかけ、電気も全て消された。
 今、学校に残っているのは、タスク以外に誰もいない――いないと思う。

 タスクは身を隠していた生徒会室の清掃用具入れを静かに開いた。
 生徒会室は毎日使うわけではないし、掃除を担当するのは一年生のクラス委員だった。
 そして、今月それはタスク達、一年五組の当番になっていた。
 カイコが何度かこの部屋で作業をしていたが、掃除ロッカーを開くことはなかったし、タスクが行った騒動の結果、朝に掃除は完了し、放課後の清掃は行われなかった。
 朝、鏡に落書きをし、靴跡を学校中に残し、数回のトイレ以外は全てロッカーの中に入って過ごしていた。
 タスクはようやく人目も気にせず、自由に動けるようになったことを噛みしめるように、一つ大きく伸びをする。

 タスクはカイコが普段から使う生徒会長の机の引き出しを引く。
 そして、その引き出しの裏にテープで張り付けられたものに触れる。
 この学校の生徒会長は教師が知らない秘密をいくつか持っている。
 その一つがこの鍵、マスターキーの存在だった。
 学校中のあらゆる鍵を一本で開けられるマスターキーは職員室に二本だけ保管されているはずだったが、実は教師が知らない三本目がある。
 それは代々生徒会長のみが知っていて、他の生徒には知られてはいけないことになっている。
 タスクがそれを知っているのは、カイコに頼み込んで閉門された後、音楽室のピアノを学校側に内緒で弾かせてもらっていたからだ。
 あの日曜日もこれで屋上の鍵を開けたのだ。
 
 だから、タスクが今日これを使うことは、カイコに対する明白な裏切りだった。
 でも、――それでも。
 もう他に、どうしようもない。そうせざるを得ないのだ。
 タスクはあきらめるように一つため息をついて、鍵を剥がした。

――ああ、また同じだ。ボクは今、誤っている。過ちを犯している。
 日曜日の舞台のように。月曜日の朝のように。火曜日の病院で。水曜日の墓地で。
 間違いばかりを繰り返している。正しくないことを行っている。
 何か言わなければいけないことがあるのに、誰に何を言えばいいのかわからない。
 過ちを犯していることはわかるのに、正しい行いはわからない。

 タスクはもう一度ため息をついた。
 それも当然かもしれない。タスクは今、生きていることそのものが大きな間違いなのだ。
 存在そのものが誤りなのに正しい行いなどできるはずもない。
 タスクは生徒会室を出て、タイチにもらった灰色のスカーフを目に巻いた。
 スカーフは薄く、足元をライトで照らせば、かろうじて前が見える。

「もういいよ!」

 タスクの大声はがらんどうの校舎に思いのほか轟いた。
 タスク自身がそれにびっくりするほどだった。
 誰かいたら即刻ばれてしまうだろう。
 それでもタスクは、大声で呼ぶ。この学校の守り神、白いコートの女神を。

 日は既に西方に沈み、大気は夜をはらんでいる。
 校舎の中は真っ暗で、手に持ったライトは光源というにはあまりに頼りない。
 さらに目を隠しおぼつかない足取りで歩くタスクは、はたから見れば幽霊のようだった。
 足音を忍ばせて、ひたひたと歩く。思い出したように鬼を大声で呼ぶ。
 そうして屋上を目指す。もはや校舎は校舎ではなくなっている。
 それは魔界だ。鬼が身をひそめ、生き血を求めてさまよっている。
 タスクはそこで呪われた儀式を行っている。

 タスクはカイコが犯人だったとは思っていないが、生徒会が犯行に関与していたという山下の説は、あながち間違ってはいないと思う。
 それはやはり、この鍵の存在が大きい。
 鍵は代々生徒会長だけが持つことを許されている。
 ならばやはり、去年の犯行は――。

――いや。別にそれは鍵の存在さえ知っていれば、生徒会長でなくてもいい。
 それは今のタスクが何より証明していることだった。
 それに、教師が知らない三本目のマスターキーを生徒会が所有しているように、実はその生徒会が知らない四本目のマスターキーがあっても驚くには値しない。
 結局状況から犯人を推理するのには限界がある。
 それにタスクはトンボと違って一年前の事件の真相を知りたいわけでもない。

 タスクはようやく屋上の前に立った。
 学校の警報は夜に一定時間以上ドアが開いていると鳴る。
 あの日はタスクが逃げ道に開けておいた扉が裏目に出た。
 同じ失敗は犯さない。タスクは静かに鍵を屋上の鍵穴にさし、回す。
 警報は――鳴らなかった。

 屋上の扉を開けて、タスクはそこで目隠しを外しポケットにしまう。
 あらためて目に映った屋上には、教室や廊下にある生きた建物らしさがなかった。
 校舎そのものは今も使用されているにもかかわらず、この屋上は死んでいる。
 別に荒れ果てているわけでもないのに、荒涼としていて寒々しい――寂しい場所だった。
 西の空が赤い。東の空は暗い。
 タスクはふと、殺された四人の生徒のことを思う。
 彼女らも――彼も、この景色を見ただろうか。昼が息を引き取るその光景を。

 タスクは屋上のさらに上、給水塔の上にのぼる。
 そして、その上にチョークで魔方陣を書いた。
 円の内側に、五芒星と七芒星を重ねて書く。
 この学校の校章の背後に同じ図があるから、多分この学校を示すものなのだろう。
 呼び出すのはこの学校の守り神なのだから、さほど不自然ということもない。

 後は――夜明けまで待つ。今日は結局待ちわびるだけの一日だった。
 タスクはそう思って薄く笑う。
 もし、白いコートの女神が本当に呼び出せたら。
 七色不思議が成功したなら。

――何を願うべきだろう。どの過ちをなくしてもらえばいいだろう。
 タスクは給水塔の上に寝転ぶ。星が見えた。そのまま少しだけ、目を瞑る。
 それだけのつもりだったのに、タスクはあっという間に眠りに落ちた。
 誰もいない屋上には、深い寝息が響いていた。
What should suicide ask goddess for
»»  2013.09.02.


 放課後、トンボは帰るふりだけして、上履きを下駄箱に戻したまま裸足で学校に残っていた。
 もちろんタイチを見張るためだ。
 見回りの教師から隠れるのはそれなりに苦労だったが、結局トンボは見つからなかった。
 七時になり、学校の校舎に完全に鍵がかけられる。
 職員会議を盗み聞きしたところによると、早朝の見回りは六時から行われるらしい。
 つまり、それまでは学校に教員は誰もいないということだ。

 しばらくすると、大声でもういいよ、という声が聞こえた。タスクの声だ。
 かくれんぼでもしているような――いや、これは七色不思議なのだ。
 きっと今タスクは灰色の目隠しをして白いコートの女神を呼び出している。
 その声は段々に上の階に移動していった。
 そして――タイチはやって来た。

 タイチは閉ざされた玄関の前に背負っていた大きなリュックサックを降ろす。
 その中から大きな工具箱を取り出した。
 トンボはそんなタイチの前に静かに立ちはだかる。

「タイチ」

 トンボは努めて冷静にタイチを呼んだ。
 タイチはさっと振り向き、トンボの姿を見てばつが悪そうな顔をした。

「何しに来た」

 トンボの問いにタイチは答えない。

「タスクを――殺しに来たんだろ。あの山下と一緒に」

「……はぁ?」

 タイチは素っ頓狂な声をあげた。

「もうわかってるんだよ。潮ヶ浜夜先輩の日記に全て書いてあった。早田明美さんを殺したのは、彼女が告白したK.Yという人物。K.Y。山下勝彦以外に誰がいる? それに彼は去年殺された三人が作ったオカルト研究部に魔術を教える先生だった。去年この学校で四人の生徒を殺したのは、山下で間違いない。そして――」

 トンボはその先を続けることを少しだけ躊躇った。しかし、言う。

「君も――その片棒を担いでたんだろ」

 タイチは口をあんぐりと開けて唖然とした顔をしている。
 自身の罪を鳴らされて動揺しているのだろうか。そのまま頭をポリポリと掻いた。

「ごめん、なんかすごい誤解を感じる。っていうかトンちゃん、何で学校にいるの?」

「君がタスクを殺すのを防ぐためだ」

「ってことは、タスクも学校にちゃんといるな」

 タイチに言われ、トンボはしまったと口の前に手をかざした。
 生来こういうやり取りは苦手だ。

「家から錠破りの道具なんて持ってきたけど、使わなくて済みそうだ。トンちゃん、ここ、開けてくれないか」

「君が犯人かもしれないと疑っているのに、開けると思う?」

「オレは潔白だ! ああ、もうしょうがないなぁ! 今ここでガラスぶち割って、警報ビービー鳴らしても構わないんだけど。っていうかぶっちゃけ本当ならそうすべきなんだけどなぁ。――トンちゃんが本当にタスクのことを心配してるなら」

「……どういう意味?」

 トンボは不服そうに聞く。

「トンちゃん、タスクを守るとか言っておきながら、どうしてタスクが今学校にいるって知ってるのに、家に帰るように説得しないわけ? オレのことを犯人と疑っていて、今日この場で殺人が起こると思ってるなら、何でその殺人現場から被害者を逃がさないの?」

「それは――」

 トンボはその先を口ごもる。問われて改めて気づく。
 確かに自分のしていることは、どこかおかしい。

「それはね、トンちゃんがタスクを利用して、お兄さんを殺した犯人を捕まえようとしているからなんだよ。トンちゃんが言うタスクを守るって、タスクが殺されそうになったら助けを呼ぶとか自分が止めるとかして、殺人の現場を押さえるってことだろ。それができればタスクは助けられるし犯人も捕まえられるしで一石二鳥だよな。でも、失敗したらそれ、タスクと自分が殺されることだって気付いてる?」

「ボ、ボクは……」

「トンちゃんのしてることはね、山下さんが火曜日にタスクに言ったこととおんなじなんだよ。タスクを利用して、過去の事件の犯人の証拠を見つけようとしている」

「違う! ボクは、ただ、タスクを守ろうとして――」

「じゃあ、何でタスクを家に帰さないんだ。家にいた方が少なくとも殺人者の脅威からは逃れられるに決まっているのに。これでタスクが殺されて、しかも犯人は捕まえられなかったら、トンちゃんは自分が犯人にされるかもしれないって気付いてる? 犯人は四人は殺してるんだよ。丸腰のトンちゃんが太刀打ちできるような相手だとは、オレには思えないんだけど」

「でも、君だってタスクを家に帰す説得をしに来たわけじゃない」

「そんなの当たり前だろ。オレはタスクを守るために家に帰って準備してたんだから。ほら、手錠も持ってきたし、武器になりそうなものだっていくつか持ってるよ。少なくともトンちゃんよりはずっと目的に沿って入念な用意があると思うけど。わかったら、ここを開けてくれない? でないと本当にガラスを割って、警報を鳴らすよ。そしたら困るのはトンちゃんだし、タスクだ」

 トンボは納得のいかない顔を浮かべつつも、結局ドアを開け、タイチを入れた。

「――昨日は、悪かったよ」

 言ったのはタイチだった。

「確かにオレも少しべたべたしすぎだったし。ついかっとなってひどいこと言っちゃった。――ごめん」

 タイチはしおらしく頭を下げる。

「いいよ。ボクもひどかったし。でもやっぱり、タイチやタスクをボクの個人的な調査に巻き込むべきじゃないと思ったんだ。それがいくらタスクのことと関わりを持っているとはいえ」

「それも矛盾してる。トンちゃん巻き込むべきじゃないとか言っておきながら、去年の事件の犯人を逮捕するのにタスクを利用しようとしてる」

 タイチはトンボの顔を指さして、ニッと笑った。
 トンボはまたばつが悪くなり、顔を掻いた。

「結局、そういうことなんだよ。タスクの事件と、トンちゃんの事件と、去年のこの学校で起きた事件は、切り離すことは出来なくて、オレたちはもう、どっぷりそれに巻き込まれてるんだ。だったらさ、最後まで一緒にいようよ。三人で、解決しよう」

「ボクは――まだ、タイチや山下さんのことを、信じてるわけじゃない」

「それでいいよ。オレは旧生徒会も、桜木先輩もそれなりに疑ってるし。トンちゃんのことだって、実は百パーセント信じてるわけじゃないよ。でも、それでいいだろ? この事件に出てくる人たちはさ、みんな灰色なんだ。シロのようにもクロのようにもみえて、どっちか判別のつかない、すごく微妙なグレーの容疑者。だったら、本物のクロはわからないかもしれないけど、せめて自分の信じる人のシロは証明したい。もし今日、この学校で何か起こったとしたら、トンちゃんの潔白は、オレが証明する」

 どうやらタイチはトンボが犯人かもしれないとは、露ほどにも思っていないようだ。
 タスクが犯人かもしれないとも、思ってないだろう。
 タスクに殺される危険性があることはわかっているだろうが、それがタスクの意志でないということを確信している。
 口では百パーセント信じていないなどと言っているが、少しでも疑いを持っているならそんな人間と二人きりで誰もいない学校にいようなどとは思わない。

「……そこまでボクやタスクを信じられる根拠は何?」

「オレが犯人だから」

 タイチは鞄をあさりながらさらりと言う。
 トンボは思わず身構えた。

「なんてね。でも、どうしてだろうな。一番は動機。まずトンちゃんとタスクには四人を殺す理由がない。トンちゃんとアゲハさんはともかく、他の三人とは、面識さえない。その上去年トンちゃんもタスクもこの学校の生徒じゃない。進路として考えてはいたかもしれないけど、だからってそこの生徒をその学校で殺すって、どう考えても変。理由にならない。動機にならない。もちろんこの事件を引き起こしている犯人は絶対いかれてるから、トンちゃんやタスクが、オレが知らないだけで、頭のねじがぶっ飛んでるかもしれないってことはあるかもしれないけど……」

「ボクはそんなんじゃない!」

「わかってる。一応言っておくと、オレもそんなんじゃないからな。あと山下さんも。あの人凄い変な人だけど、だからって人殺しするような倫理観ぶっ飛んだ人じゃないよ。トンちゃんはさ、この事件、オレ達に調べられる側面ってどの辺だと思う?」

 トンボは質問の意味を計りかねる。どの辺とはどういうことだろう。

「まず、オレ達は警察じゃないから、物的証拠を集めたり、アリバイを整理するとかっていう基本的なことはできないと思う。で、じゃあ、何をもって真犯人を捕まえ得るかって考えると、オレ達自身が囮になって、真犯人をおびき出して、殺人の現場を押さえるしかないんだ」

――囮。そうか、だからアゲハは、兄はそうせざるを得なかったのか。
 タイチの言うように、物的証拠を集めるなんてことは、一高校生には到底できることではないはずだ。
 容疑者のアリバイを探ることだって、学校関係者一人一人に聞いて回るのでは手が足りない。

「で、真犯人はどういうことをされるとおびき出されるかっていうとさ、桜木先輩が言ったように、トンちゃんみたいに、去年の事件を知っている人が、これ見よがしに事件を調べてますって動き出すのが、一番都合が悪くて、何とかしようとするに違いないんだ。トンちゃんは自覚ないかもしれないけど、今一番囮になってるのは多分トンちゃんだと思うな。それで、仮に犯人がこの状況を見てたらどうすると思う?」

「どうするって――」

「一つ、トンちゃんは火曜日に警察にあっている。二つ、トンちゃんは水曜日に被害者の日記を手に入れている。三つ、木曜日、つまり、今日、過去殺人が行われる前にあった七色不思議の儀式がタスクによって実行されている。四つ、タスクとトンちゃんはよく一緒にいる。犯人にこの状況はどう見えると思う?」

 それは――。
 トンボが事件の真相にたどり着いて、真犯人を挑発しているように見える、のだろうか。
 見えるかもしれない。

「まあ気が気でないことは確かだろうな。だとしたら、犯人は絶対にこの日に決着をつけようとすると思わない? オレは、だからトンちゃんとタスクを見張りに来たんだ。とりあえず今、タスクが学校に残っているのは間違いなくて、トンちゃんはその学校に下校指示を破って残ってるんだからな。ひとまずこの状況で殺人が起こったら、オレか、タスクか、トンちゃんの中に犯人がいないとおかしいことになる」
 
 もちろん他に残っている人が誰もいないなら、って話の上でだけど、とタイチは取り繕うように言った。
 
 そうか、トンボも立派に容疑者の一人なのだ。
 トンボは殺されたアゲハの妹だ。さらに現在その容疑者の一人と目されている蝶野カイコのもとで生徒会の末席に座っている。
 立場からすれば、タイチ同様に疑わしいのだ。
 少なくとも山下が疑わしいからタイチも犯人かもしれないという理論は、そのままトンボの立場に同じことが言える。
 アゲハは殺されたけれど、女子生徒三人を殺した容疑者に数えられていたのだから。

「……ごめん」

「ん? 何が?」

 タイチが怪訝そうに尋ねる。トンボはいや、何でもないと流した。
 疑わしいのは絶対に自分以外の誰かで、みんなトンボのことは疑ってないと思っていた。
 それはもちろん、トンボ自身が絶対に潔白であることを何より自分が自覚しているからだが、同じことをトンボが疑っている全員が思っているだろう。
 この事件に関わっている全ての人間は、同様に灰色で、他の人から見れば、トンボも絶対にシロではない。
 トンボはそのことにようやく気付いて、一方的にタイチを疑っていたことを申し訳なく思った。

――こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。

 昨日、墓地でヨースケに言われたことだ。
 言われた時に気付くべきだった。
トンボも周りからすれば、真っ白なんて思われていないということに。

「さ、タスクは屋上にいるんだな。はいトンちゃん」

 タイチはリュックサックから焼きそばパンと牛乳を取り出してトンボに差し出す。

「え?」

「タスクは一晩ここで明かすつもりだぜ。お腹すいてるだろ? まあもちろん、オレがそのパンや牛乳に、毒を盛ってないって保証もないけど」

 トンボはくすりと笑って、もう一度ごめんと謝った。
 そして、パンを食べる。確かにお中はペコペコだった。
 タイチはそんなトンボを見ながら自分もパンを食べていた。
 タイチの善意や好意は嬉しいが、トンボはやはり心のどこかでタイチを疑っている。
 疑っていながらその好意に甘んじていることに、トンボは申し訳なさを感じていた。

Everybody is just a gray suspect
»»  2013.09.02.
【金曜日】



 あの廃ビルの駐車場で。あの日。
 灰色の炎に照らし出された光景は、あの姿は――。

 女が、男に、殺されていた。
 首を絞められて、首には荒縄が巻かれて――。
 女の顔はどう見ても死体の顔だった。
 ボクはその顔に見覚えがある。

 照らし出された男の顔は殺人者の顔だった。
 ボクはその顔にも見覚えがある――。

「――ん」

 夢か。何だったか。何かとても大切な夢を見た気がする。
 でも、もう何も思い出せない。
 辺りを見回すとそこは寂しい学校の屋上だった。
 眠っていたのか――、タスクは身を起こして軽く頭を振る。
 夜は開けようとしていた。青い大気が空気を満たしている。
 もうじき東の山並みから、朝の太陽が顔を出すだろう。
 そちらを見れば、空は既に白んでいた。

 目覚めのタイミングとしてはよかったと考えるべきだろう。
 これで夜が明けきって機を逃したとなれば目も当てられない。
 タスクはポケットから灰色のスカーフを出して、もう一度目に巻いた。
 そして、大きな声でもういいよ、と呼びかける。

 異常な存在の気配は微塵も感じられない。
 今この時、この学校には、タスク以外の誰もいない。
 四人を殺した犯人も、もちろん白いコートの女神も。
 そう思うほどに、静かな朝だった。

 タスクは昨晩書いた魔法陣に、自分の影が重なるように立ち上がる。
 やがて東から、明るい日が差し、タスクの姿を赤く染める。
 タスクは、みいつけた、と小さく唱えた。

 その時、確かにぞろりとしたものが体をうごめくのをタスクは感じた。
 腹のあたりに空ろな痛みが走った。そして、小さくきゅるると鳴く。

「おなかすいた……」

 何をやっているんだろう、ボクは――。

 こんなことで、何が変わるわけでもないのに。
 それでもタスクは、とりあえずお願いをした。
――どうか、ボクに正しいことをさせてください。過ちばかりを犯すボクが、これ以上間違わないように。

 それだけ祈ると、タスクは屋上を後にし、そのままトイレに行った。
 あくびをしつつ用を足すと、それでも何日かぶりにまともに眠った気がした。
 やはり山下が言うように、この学校にいる限り、灰音は、あの鬼は手出しできないのだ。
 ならばそれにかこつけて、出来ればもう一眠りしたい、などと思いながら手を洗う。
 手を拭いて顔をあげた時、タスクは小さく悲鳴を上げた。

 タスクの後ろに、誰かが立っていた。
 誰かを確かめる間もなく、乱暴に首に縄が巻かれる。
 タスクは首の縄に爪を立てて、足をばたつかせる。
 しかし、首を絞める力は少しの油断もなく、一気にタスクの息の根を止める。

――誰だ、一体、誰が……。

 意識はあっという間に朦朧とした灰色の砂嵐の中に消えていく。
 鏡に映った顔は、タスクが夢に見た男の顔だったように見えた。
 でもそれが誰なのか理解する前に、タスクの思考は途切れていく。

――助けて、タイチ。助けて――トンボ。

 それきり、タスクの息は途絶えた。
Dragonfly, moratorium, please, help me
»»  2013.09.02.



 トンボとタイチは屋上の真下にある三年生の教室に身をひそめていた。
 ドアを閉じていても屋上の立てつけの悪い扉の開く音が聞くことができるし、隙間からタスクを覗いていても、タスクが屋上から戻る前にすぐに隠れられる部屋だった。
 ただ、トイレは流す音がタスクに聞かれるとまずいので一階の一年生のトイレを使う。
 誰もいないと存外に水を流す音はよく響くものだった。

 朝焼けが顔を見せ始めた頃、タスクは給水塔の上から降りてきた。
 そのまま屋上を出るようで、トンボ達は慌てて隠れた。
 タイチとトンボは扉の影に息をひそめる。
 まさか二人がいるとは思っていないタスクは気付きもしないでトイレに向かった。
 タスクが開けっ放しにした扉を、タイチは超える。

「ちょっとタイチ!」

「しー。タスクは多分トイレだ。その間に……」

 タイチは給水塔の上に上り、トンボに手を伸ばす。
 トンボが昇ると、懐中電灯をつけ、その足元を照らした。
 そこに描かれていたのは円の中につぶれた星が二つ。
 一つはよく見る五つの頂点がある星で、もう一つは七つの頂点がある。
 それらがお互いに反転するように、潰しあうように歪んだ図形。
 それはこの学校の校章の背後に描かれているものだった。

「つまり、これで確定的だな。今日七色不思議を行っていたのはタスクだ。なら、タスクは何を願ったと思う?」

 タイチはひざをついてその図形をしげしげと見ながらトンボに聞いた。
 タスクが願ったこと。ここまでして願わなければならないこと。

「吸血ジャックの犯人を知りたい、とか?」

「そりゃトンちゃんの願いだろ。言うのもなんだけど、オレもタスクも、去年の事件は知らなかったし、それほど興味あるわけでもない」

 タイチがそういうと、トンボは憮然とする。何だかバカにされているようで腹が立った。

「じゃあ、タイチなら、何を願うわけ?」

「家族」

 タイチの言葉には少しの迷いもなかった。
 まるで他に願うべきものなどないというようだった。
 でも、それだけに、トンボにはその気持ちがよくわかる。
 同じく両親がないトンボには。

「――静かだ」

 タイチが言う。確かに静かな朝だった。鳥の鳴き声も、カエルの鳴き声もしない。
 車の音も、犬の声も何もなく、ただ、むしむしと暑い。

「まだ、五時にもなってないし――」

「違う、そうじゃない」

 タイチの声は少し緊張している。
 タイチはそのまま給水塔から飛び降りる。
 脱兎のごとくに屋上から走り去る。

「あ、待ってタイチ!」

 トンボは慌ててその後を追う。
 タイチが、タスク、と叫ぶ声が聞こえた。
 胸がぞわぞわする。ああ、これは、あの日と同じだ。
 兄さんが死んだと聞かされて、無言で病院に向かうあの車の中と。
 霊安室に続くあの道を歩いた時と。

 ぞわぞわして、胸の中にすごく気持ち悪いものがあって、息をするたびに動き回る。
 タイチがタスクの名前を呼ぶ。
 ああ、あれは、誰かが、トイレの手洗い場の床に、倒れて――。
 タスクの足が、タスクの体が――。

 トイレには、タスクが仰向けに倒れていた。
 タイチはその胸に耳を当てる。

「心臓が止まってる。息も――してない」

 トンボはその言葉を正しくはかることができない。
 思考がまるで意味をなしていない。
 タイチはタスクの胸に手を当てる。開いた手の上にこぶしを乗せるようにして。
 そして、タスクの胸を強く押した。
 いち、に、さん、と数えながら。繰り返し、繰り返し。

 タスク、タスク、とタイチは繰り返す。
 お願いだから死なないでくれよ。頼むから目を覚ましてくれよ。
 どうか、どうか――。

 タイチが胸を押す手を止めた。

「……い、っげほ、っごほ!」

 タスクは大きく震えて咳き込んだ。

「タスク! 大丈夫か! オレ達がわかるか?」

 タスクは咳き込みながら、タイチ、トンボ、と答える。
――生きて、いるのか。
 トンボは胸を撫で下ろした。

――よかった。本当によかった。

「誰にやられた?」

 タイチは怖い顔つきで問う。

「どうして、君たちがここに? ボクは一体――」

「そんなことより、お前の首を絞めて殺そうとした奴は誰だ? 誰にやられた?」

 タスクの首には赤黒い縄の痕がくっきりと残っていた。
 誰かがタスクの首を絞めて、殺そうとした。タイチとトンボ以外の人間が。

「――そうだ、ボクは、七色不思議の儀式をやって、トイレに行って。――君たちが、助けてくれたのか?」

「お前が学校で七色不思議をやってるのはわかってたから、今日一晩中ずっと見張ってたんだ。屋上の下の三年生の教室に隠れて。で、トイレに行ったまま帰ってこないからおかしいと思って、来てみたら、お前が倒れてて――誰にやられた?」

 タイチの声は真剣だった。タスクはわからないと答える。
 するとタイチは立ち上がって、タスクに手を差し出す。

「立てるか?」

 うん、とタスクはタイチの手を借りて立ち上がる。

「犯人は、まだこの校舎内にいる。どっちに行ったかわかるか?」

「ごめん、わからない」

「どんな奴だったかは?」

「……男だったと思う。ボクより背の高い男。って、大体の人はそうか」

 タスクの背は低い。女子のトンボより低い。
 その上華奢だから、体格だけなら大半の人はタスクより大きい。

「――探そう」

 タイチが言った。

「相手もこっちを殺す機会をまだうかがっているはずだ。タスクに顔を見られたかもしれないと思っているなら、絶対に始末しようとする。行こう」

――その必要はない。

 決然とした声が後ろから響いた。
Who is the Murderer
»»  2013.09.02.


 凛然とした声に振り向くと、そこに立っていたのは蝶野カイコだった。
 蝶野カイコと、その影のように控えている吉沢ハヤテ。

「どうして……会長が、まさかっ!」

「あんた達が、タスクを!」

 タイチの疑問にトンボがさらに噛みつくように声をあげた。

「違うよ……会長じゃない、ボクの首を絞めたのは、先輩達じゃない……、多分」

 タスクが首を押さえながらそう呟くと、心配そうにタイチ達が振り向く。
 カイコも首を絞められた? と怪訝そうに聞く。

「いや、そもそも、君達はここで一体何をしていたんだ? 事と次第によっては警察の厄介にならざるを得ないぞ」

「それはこっちのセリフだ! あんた達がやっぱり犯人なんだろ! 去年この学校で四人の生徒を殺した、兄さんを殺した、そして今タスクを殺そうとした、もう一人の吸血ジャックなんだろ!」

 トンボが叫ぶように言った。カイコはタスクをしげしげと見て、それからトンボとタイチを見て、全てを察したかのように扇を開いて口元を覆った。

「なるほど、事情は大体察した。昨日の学校を荒らしまわった犯人は、坂崎君、君だね」

 カイコは射すくめるような鋭い眼光でタスクを睨んだ。
 タスクは弱弱しい返事でそれを認める。

「それで君はこの学校で一夜を明かし、七色不思議を完遂したと言ったところか。松木君と篠塚君は付添人かな。それとも心配して坂崎君を隠れて見守っていたのか。いずれにせよ、君ら三人は昨日この学校に一晩中いたわけだ。聞くまでもないと思うが、それが法に触れているということは自覚しているだろうね」

 カイコは低い声で静かに言う。するとトンボが吐き捨てるように怒鳴った。

「法に触れてる? あんた達のしたことは、殺人未遂じゃないか! いや、去年のことと合わせて言うなら、あんたは人殺しだ!」

 トンボの言葉に、カイコは不快そうに眉を顰め、タスクが押さえる首筋を見た。
 おそらくそこに浮き上がっている赤黒い縄の痕を。
 カイコはため息をついて扇子を閉じる。

「やれやれ、どうやら本当に警察に連絡しなければならない事態が発生しているようだ。だが、その前に聞いておきたいことがある。君たちは、ここで、何をしていた?」

「その前にボク達も聞いておきたいことがあります」

 カイコの言葉に静かにタスクが聞き返す。

「会長たちは、なぜ今日、今、この場に、学校にいるんですか」

 タスクの言葉に、カイコはぱちりと扇子をいじる。

「ほう? 生徒会長が仕事をしに早朝に学校に来ているのがそんなに不自然かね? 君達は知らないだろうが、この式部北高校の生徒会長というのは君達が想像もつかないほどに激務なのだ」

「ボクは理由を聞いてるんじゃありません。会長、あなたは今日、どうやってこの学校に入って来たんですか? 学校を開ける鍵は教員が所持しているはずです。マスターキーは職員室と校長室に一本ずつしかない」

 カイコはさっと扇子を開く。
 そして、君も知っているだろう、と余裕の笑みを浮かべた。

「生徒会は学校側に内密で三本目のマスターキーを持っている。君とは合唱部の伴奏の練習で学校が終わった後に音楽室を開けて一緒に練習したはずだが、忘れてしまったのかい?」

「マスターキーで入って来たんですか?」

 タスクは静かに言う。その通り、とカイコは笑って答える。

「じゃあこれは何でしょうね」

 タスクがポケットから出したものを見て、カイコの余裕の笑みにひびが入る。
 それは、生徒会長の机の引き出しの裏に隠されていた、三本目のマスターキーだった。

「ボクは昨日、閉鎖された屋上を開けるために、この鍵を使ったんです。そしてこれは今この時までずっとボクのポケットにあった。会長が学校に入るのに使えたわけがないんです。それとも、先生に頼んで開けてもらったんですか? それならその先生を呼んできてください」

 カイコは答えない。ただ、言い訳を探すように、扇子を開いたり閉じたりする。

「もう一度聞きます、会長。あなた達は、どうして、今、ここにいるんですか」

「……なるほど、どうやら今のは私が墓穴を掘ったようだ。認めよう。私達は君達と同じく、昨日一晩この学校にいた。だがそれは、七色不思議を実行するなんていう傍若無人な、とどのつまりは坂崎君、君のような生徒を私なりに守るためだ。当然この行いが学校に露見した場合、君は処罰を受けなければならない。場合によっては退学もありうる。だから私は学校側に内密に、君がこの一連の事件を起こしたことを隠さなければならない」

「学校に隠す? 糾弾するのではなくて?」

「ああ、隠すよ。私達はずっとそうしてきた。少し去年の話をしようか。神楽崎ユミエが会長で、萩原ミツルが副会長で、私が書記で、アゲハが会計だった頃の話を」

 カイコはそう言って手を横に伸ばし、バッと扇子を開いた。
You are Murderer, Silkwarm!
»»  2013.09.02.


 六十二代生徒会は、特例で設立され、特例で運営されていた生徒会だった。
 特例により構成員が四人で、何かをするには必ず特例で係を組織した。
 だからこそ何もかもが規格外で、それ故に伝説だった――。

 カイコはそう静かに語る。

「会長の神楽崎はもともと素行のいい方ではなかった。彼女は絶えず暴力沙汰の事件を起こしていたし、それが大きな犯罪と結びついたことだって一度や二度ではなかったし、私達もそれに巻き込まれた。それでも彼女が卒業でき、私が無事に進級できたのは、常に全員が、お互いを処罰されないように動いていたからだ。アリバイ作りから、被害者の説得まで。特に私とアゲハは事後処理に大忙しだった。そして同時に、私たちは神楽崎に限らず、去年、この学校を退学していく生徒を引き留めるのに必死だった。何せあんなことがあった学校だからね。多くのものが転校していったし、退学を選んだ生徒も少なくなかった」

 だからこの学校の生徒は、二年生、三年生が一年生に比べて少ないのだ――。
 カイコは吸血ジャックに生徒が殺されたために、とは言わなかった。 

「そして、問題はそれだけにとどまらなかった。私達は少しこの街で有名になりすぎた。表だって動くことはなかったが、私達のことは同じ地域の高校生の間ではあっという間に噂になり、結果的にこの高校に通う生徒がその制服を着ているというだけで差別される事態も少なからずあった。それは多くの軋轢を生み、一部の他校の生徒との間で、暴力沙汰の事件に発展することもあった。しかし、だからといってその生徒達を罰するのはあまりにも不公平だろう。悪いのは彼らではなく、状況の方であり、畢竟それを招いているのは私達だった。だから生徒会はそういう生徒も処罰されないようにその罪を隠匿するように常に措置を行っていた。制服の廃止の提言もその一つだ。それらを不正と糾弾するならばそれも結構だが、結果として彼らは今、立派に就職し、あるいは進学し、正しく生きている。救いようのない邪悪な人間は別として、あの時の歪んだ情勢の中で、間違った行動をしてしまう生徒を一方的に罰することは、私は正しくないと思ったし、それは神楽崎も、萩原も、そしてアゲハもそうだった」

――そして君も。
 カイコは続ける。

「水曜日に話を聞いて、今日、こういう事態になって、私は君が、悪戯がしたくて学校を汚して回ったのではないと確信している。君がしたことは間違っているが、それを糾弾することが正しいと私は思えない。もちろん君の悪行を訴えることもできるが、そうしたら君は私達がしていたことも暴くだろう。だから、この一件は私の裁量で不問に処す。今ならまだそれができる――、できると思ったんだが」

 カイコは目を伏して眉をしかめた。
 タスクはそこでようやく気付く。ハヤテがいなくなっている。
 そしてそこに、大声でお前らなぁ、と叫ぶ声が聞こえた。

「手遅れのようだ」

 カイコが言うと同時に、ハヤテに連れられて白衣の男が姿を現した。
 国栖だった。呆れたような困ったような顔で髪の毛を掻きむしって、お前ら、と言う。

「ハヤテ、何としても止めろと言ったはずだが」

 カイコは冷淡とも思える言い方で言う。
 ハヤテは無機質なトーンで申し訳ございませんと呟いた。

「どういうことなんだこれはよ。オレは自分でも大概のことをやってのける教師の風上にも置けねえ最低野郎だって自覚してるが、それにしてもこれは目に余るってものだぜ?」

 国栖は嫌味な笑みを浮かべながら言う。
 カイコに見つかった時は、何故か彼女が口裏を合わせてくれるのだという期待があった。
 それは状況的に、カイコが自分の首を絞めた犯人でないことを確信していたからかもしれないし、そこからカイコがタイチやトンボと同じように、タスクを守るために学校に残っていたと無意識のうちに推理していたからかもしれない。
 実際それはカイコの言葉を聞く限りでは正しかった。
 もちろんそれがカイコの策略で、彼女が去年の一連の事件の犯人であり、今回の件にかこつけて、調べまわられると厄介なことになるかもしれないから、自分の裁量でことを片付けようとしたという可能性も十分にあった。
 ただ、いずれにせよカイコは初めからタスクを罰する気はなかった。

 でも、国栖は違う。この男はタスク達の事情など全くお構いなしだ。
 タスク達の将来などは少しも考えないだろう。
 今は早朝五時。普段から何時に出勤しているかわからないが、カササギビルの一件に加えて、昨日タスクが行ったことを含めれば、早朝から見回りのための当番を学校が決めているのはむしろ当然の措置といえる。
 そして見回りに来た国栖は、案の定この騒ぎを見つけ、ハヤテがごまかそうとするもそれを突破し――。

――今、タスクと、トンボ、タイチ、そしてハヤテとカイコは保健室に集められていた。

 国栖は煙草に火をつけて、白い煙を長く吐く。
 月曜日の禁煙はいつの間にか破られていたらしい。

「黙っていられても困る。お前らは、五人揃って何をしていた?」

 誰も何も答えない。カイコとハヤテの顔には表情がなかった。
 おそらく二人は何も答えないつもりだろう。
 それは多分正解だった。
 五人で口裏を合わせて何も言わなければ、学校側としても何のしようもない。
 調べれば学校を荒らしたのはタスクだということは露見するだろうが、少なくともタイチやトンボ、そしてカイコやハヤテには累は及ばないだろう。

「これは何だ? 工具箱か? それにしては妙な道具ばっかり入ってんな。むしろこれは、ピッキングかなんかの道具じゃねえのか? これは誰んのだ?」

 タイチがまずいという顔をする。国栖は目ざとくそれを見逃さず、お前のか、と言った。

「つまり、これを使ってお前らは鍵のかかった学校に忍び込んで、一晩中なんかしてたってことか。屋上の給水塔の上に落書きがあったな、あれは七色不思議って奴だろ。お前らもしかして、あれやったのか?」

「ち、違います。あれをやったのは――」

 タスクは思わず言う。
 もうたくさんだ。もう十分だ。
 これ以上、周りの人間の迷惑になるようなことはやめにしよう。
 全て、告白して、――そして終わりにしよう。

「――坂崎君。君は黙っていたまえ」
 
 カイコは感情を押し殺した声でタスクに有無を言わせない。
 国栖はその様子をいやらしい目つきでニタニタと眺めていた。

「いやぁ? 待てよ、蝶野、お前は去年生徒会で――ははぁ、お前、ってことは、去年のこれと同じ事件も、お前が首謀者だな。よくよく見れば蝶野と、吉沢と、坂崎と、篠塚と、まあ松木は何でいるのか知らねえが、お前ら生徒会じゃねえか。去年のも生徒会が裏で動いてたんだな。肝試しのつもりか? それともこの学校に恨みでもあんのか?」

 それは間違いなくカイコに対しての侮辱だった。
 多分、この男は、カイコが首謀者でないことは確信している。
 それでありながら、わざとカイコが企てたことのようなことを言う。
 焚き付けているのだ。いやらしい男だ。
 またタバコを吸い、今度はカイコの顔に煙がかかるように吐き出す。

――カイコは答えない。だから、誰も何も言わなかった。
 根負けしたように国栖は肩をすくめる。

「全員一日停学。このことは職員会議に報告する、処罰が決まり次第追って連絡――」

 国栖の言葉の途中で、窓ガラスが割れる音がした。
 途端に警報がけたたましい音を上げて鳴り響く。

「何だぁ今度は!」

 国栖が面倒臭そうに髪をかきむしる一方で、タスクとトンボとタイチは部屋を飛び出す。

「あ、ちょっと、お前ら!」

 このタイミングで窓ガラスを割って逃げる人物は一人しかいない。
 タスク達は音のした美術室に駆け込む。
 部屋の窓のはめ殺しの窓が一枚割られている。
 そして、割られた窓ガラスの向こうに――。
 走り去る男の姿があった。あれは――。

「山下、山下勝彦! あいつが、あいつが兄さんを!」

 後を追おうとするトンボをタスクは止めた。
 振り返るとカイコとハヤテ、そして国栖が立っていた。

「警察を呼んでください国栖先生。もうこれは、刑事事件として処理せざるを得ません」

 国栖は面倒くさそうにまた頭を掻いた。
 そしてしばらくすると、パトカーがサイレンを鳴らして数台現れ、タスク達はそれに乗せられ、警察署に連れて行かれた。

 その後のことは、よく覚えていない。
 恐ろしく長い時間の尋問を受けて、ひどくがっかりしてやつれた顔の母に連れられて家に帰った。
 結局夕飯は食べずに、部屋のベッドに伏していた。
 山下が指名手配になったことを聞いた。
 トンボからはごめん、と一言だけメールが来た。
 タイチとは連絡がつかない。

 学校は臨時休校になったらしい。
 タスク達はとりあえずあの日何があったか判明するまで、処分を見送られることになったそうだ。
 タスクは今度こそ、本当に終わったのだと思った。

 生き返ったところで、何度決意したところで、いずれ避けられない破局。
 それはつまり、タスクがもうそれ以外の結末を迎えるに値しない存在ということだ。
 何をやっても結局こうなる。
 形は違えど、最終的にはあの日に死んでいればよかったと思う羽目になる。

 夜中に電話が来て、タスクはあの日曜日をなぞるように、また家を抜け出した。
 フラフラと向かう先は決まっていた。
 それが全ての始まりで、同時に終わりの場所だった。
 北市街にぽつんと立つ、一度も使われなかった高い建物――カササギビル。
 タスクはここで終わり、そしてここから始まったのだ。
 もうこれ以上、幕引きを長引かせる理由もない。
 これで終わりなのだ。本当にもう――。

「――来ると思ったよ」

 声をかけられて、振り返る間もなく、首に縄の感触。
 視界の端でその顔が月に照らされる。
 ああ、そうだ、この男だ。
 あの日、女の首を絞めていたのは。
 今日、学校で僕の首を絞めていたのは。
 この男だ、この男が――もう一人の吸血ジャックだ。

 タスクは抵抗しなかった。こうなるべきなのだ。
 自分で幕引きにできないのだから、人に幕を下ろしてもらうしかない。
 これで三度目だから、他の人よりずっと上手に死ねるだろう。

『これで幕引き? バカを言っちゃあいけない。くすくす』

Suicide only lives three times
»»  2013.09.02.
【土曜日】



 埼玉県の高校で三年生が、同じ生徒会に属する下級生四人と共に、学校で肝試しと称し、校舎に落書きをし、夜中に不法に学校に侵入したとして、器物損壊の容疑で書類送検された――。

 なお、同校は、当該生徒と話し合い、事実関係を整理したうえで、処遇を検討するとしており、今の所、問題に関わった生徒は出席停止に留まっている――。

 事件から一夜が明け、そのニュースは小さく新聞記事に載った。
 学校名や個人名は伏せられていたが、トンボ達のことには違いない。
 それはトンボにとって全く納得のいかない顛末だった。
 だってタスクは殺されていたじゃないか。
 首を絞められて倒れていて、タイチが適切に胸部圧迫をしなかったら、タスクは絶対に死んでいたに違いないのだから。
 でも、そのことは全く触れられていない。
 トンボは取り調べで何度も本当のことを言った。

 しかし、そのトンボの主張が取り上げられなかったのだから、他の四人が事実をありのままに言わなかったとしか思えない。
 あの後、トンボはタスクともタイチとも会っていないから、二人が何を言ったのかは知らない。

 山下は殺人の容疑で指名手配をされている。
 でもその殺人というのは、月曜日にカササギビルで見つかった血だまりのことらしい。
 そのことがまず納得がいかない。どこから降ってわいた話なのだろうと思う。 
 いわゆる別件逮捕ということなのだろうか。それともトンボが何も知らないだけなのか。

 美術室の窓を破って逃げていたあの後ろ姿は、絶対に山下だった。
 なぜ学校に山下がいたのか。
 それは当然タスクを殺すためだったとしか考えられない。
 事実タスクはトイレで絞殺されかかっていて、それと前後して山下は学校から逃げた。

 そうである以上、タスクを絞め殺したのは山下だ。
 他に山下が学校にいる理由はない。
 山下がタスクを殺したもう一人の吸血ジャックだというならば、去年アゲハと、三人の女子生徒を殺したというK.Yも山下ということになる。

 それは、ほとんどトンボが考えていた範疇のことだった。
 しかし、トンボはそれが妙に腑に落ちない。
 何が腑に落ちないのかを理路整然と考えられるほど、トンボは論理的なタイプではなかったが、例えばまず不自然なのがタイチの行動だった。

 山下が犯人で、タイチがそれを全く知らなかったということは十分に考えられるが、同様にタイチが犯行に何らかの関与をしていることもあり得ることだった。
 仮にタイチが山下の犯行を幇助していたとすると、今回の件は不自然を通り越してめちゃくちゃだった。
 山下がタスクを殺すことが目的で、その現場を邪魔されないために、トンボを足止めしようとタイチを学校に忍び込ませ、トンボを見張らせた。
 これはあり得る。何故トンボも始末しようと思わなかったのかということには疑問の余地があるが、タスクを殺した後で殺すつもりだったのかもしれない。
 いずれにせよ犯行現場に被害者以外の人間を近づけさせないという理由なら、見張りに共犯を立てることは意味がある。

 理解できないのは、そのタイチがタスクの死体を前に蘇生処置を取ったということだ。
 それはタイチが山下の共犯で、タスクを殺すために動いていたなら取るはずがない行動だった。
 土壇場で友情に目覚めて山下を裏切った――あり得ないことではないのかもしれないが、恐ろしく不自然だ。

 そして同様に腑に落ちないのが突然現れたカイコとハヤテだった。
 カイコの態度を見るに、あの二人が木曜日の放課後から金曜日の早朝にかけて、学校に忍び込んでいたのは間違いないように思える。
 だが、あの二人はトンボとタイチが倒れているタスクを見つけて騒ぎ出すまで、少しもいるそぶりを見せなかった。
 あの二人が学校にいて、同じようにタスクを見張っていたとする。それはいい。

 そして、騒ぎを聞きつけて何事かと思い、姿を現す。
 カイコが主張したように、カイコはタスクやトンボの進退を気にして、何が起こってもそれによってトンボ達が処断されないよう内密に工作を行い、全てをなかったことにするために潜んでいた。
 随分と都合のいい存在に見えるが、それもありだとしよう。
 実際に今回の顛末を見る限りでは、カイコは自らが事態の責任者として名乗りを上げたようだし、多分それによってトンボが被るべき罰は、ほとんどカイコが負うことになるだろう。
 行動と結果の趣旨は、一貫しているように見える。

 腑に落ちないのはカイコが、全てが終わった段階で姿を現したことだ。
 カイコは生徒の最善の利益を守るためとよく言う。生徒会はそのためにあるのだと。
 それならば、そもそもトンボ達の行いを看過するはずがないのだ。
 この危険な時期に、惨劇のあった学校で、生徒が一夜を過ごす。
 そんなことを惨劇の当事者であり、容疑者として疑われていた人間が見過ごすのはおかしい。
 止めても繰り返すだけだと思って、七色不思議を行っても何も変わらないとはっきりさせるために、あえてタスクにそれを行わせた?

 それは到底カイコが行ったことの危険性に釣り合っているとは思えない。
 露見すれば退学さえあり得る。その上タスクは殺されかかっている。
 だとすればカイコはあの日、タスクに七色不思議を行わせることで、何らかの利を得る立場にあったとしか思えない。
 
 考えられることはいくつかあった。
 一つはトンボとタスク以外、タイチ、カイコ、ハヤテ、そして山下は全員共犯で、タスクとトンボを抹殺するつもりだったということ。
 ただ、だとすれば何故あの夜、トンボは無事でいられたのかということに、大きな疑問が残る。
 国栖が現れたからだろうか。それにしては彼の登場まで、夜中の間中、トンボ自身には何の危害も加えられなかったのは不自然に思える。

 もう一つは、それを理由にトンボ達を式部北高校から退学させること。
 これはヨースケやタイチが言っていたことから考えるとあり得そうな選択に思えた。
 つまり、カイコは何もなかったこととして処理するというようなことを言っていたが、それは全くの逆で、カイコが現場を押さえ、トンボ達を一連の七色不思議の犯人に仕立てることで、学校からトンボ達を排除する口実にしようとしたのではないか。

 トンボは過去の事件を調査する、いわば真犯人にとっては邪魔な存在だった。
 だが殺人はリスクが大きい。
 しかしそこに、トンボ自身が、学校に通えなくなる出来事を自ら招く。
 カイコはこれ幸いとタスクやトンボを放置し、学校に忍び込ませ、罪を犯させ、その現場を押さえて学校に申告し、その非を鳴らしてトンボ達を退学に追い込む。
 実際今のトンボの処遇はそれに近かったし、過去の犯行にカイコが加担していて、それをトンボが調べて邪魔に思っていたなら、その筋書きは自然に学校からトンボを排除できる。

 しかしそれが筋書なら、国栖に事態が露見し自らが処罰される対象になってしまったことが計算外のミスだったのだと考えても、その後警察で、全ての責任を自分に負わせるようなことを主張するのはおかしい。
 今の所カイコが首謀者とされている以上、カイコ自身がそう言ったとしか思えない。

 トンボは自分の真実を訴えた。
 それが無視されて、カイコに責任が集中しているのはそういうことなのだろう。
 あるいはそれを理由に自分が学校をやめる理由を作って、トンボの追及を逃れようとでもいうのか。いや、それならそんな回りくどいことをしなくてもいいはずだ。
 大企業の娘で親に認められる理由が必要? 
 それにしても、今回の話は遠回りをし過ぎている。

 とにかく、色んな事が全然納得いかない。すっきりしない灰色の事件だ。
 あるいは、この事件の総体は、トンボが考えているよりもっと多くの人間が関わっていて、ずっと複雑なものなのだろうか。
 例えばタスクが殺されたのは、言うのは気が引けるが、何も人間とは限らない。
 タスクは今も色鬼とかいう悪霊に憑かれているのだ。
 それはこの一週間で何度かトンボの前にも現れているし、不思議な現象は体験している。

 だから、その人外の存在を考慮に入れるなら――。
 それは到底トンボの手に負えることではない。犯人探しなど全く無意味だ。

――犯人は灰色の目隠しの少年、か。

「また灰色だ」

 トンボは一人ごちて、何となくうんざりした気分になった。
 でもその結論は、山下犯人説より、旧生徒会犯人説より、ずっと上手くこの事件を説明できるように感じられた。

 トンボは傍らの携帯を見る。
 噂好きの女友達がいかにも訳知り顔で自分にだけ真相を教えてほしいという趣旨のメールが大量に送りつけられていたが、トンボはそれらを無視する。
 タイチからも、タスクからも連絡はない。今頃、どうしているのだろう。
 トンボは一応二人にメールを送ったが、それに対しての返信もない。
 もっとも、タイチにしてみれば、保護者が指名手配されているのだから当たり前か。
 タスクも殺されかかっているのだし、それどころではなく、また取り調べを受けているのかもしれなかった。

 トンボは寝転んでいたベッドから起き上がって台所に向かう。
 昨日、あんなことになって、取り調べが終わってからは、今度は姉に根掘り葉掘り事情を聞かれた。
 姉からすれば当然のことかもしれない。同じような状況で弟を失っている姉からすれば。
 だから、トンボはそのことで姉を責めようとは思わないが、おかげでそれは夜遅くまで続き、昨日寝たのは二時を回った頃だった。
 起きたのは昼過ぎで、姉はもう仕事に出かけていた。
 もとより雑誌のライターを務める姉は、いつも忙しそうに働きまわっていたし、休みが休みにならないことも多い。

 トンボは壁にかかっている時計を見る。四時を回っていた。
 朝から何も食べていない。お腹は空いている。でも食べるのが何だか億劫だった。
 それでも何か入れないわけにはいかないだろうと冷蔵庫を開けようとした時。
 電話が鳴った。

「もしもし、篠塚です」

『もしもし、あの、私、坂崎タスクの母ですが』

 電話越しに聞こえたやや憔悴した女の声に、トンボは思わず電話をそのまま切りそうになった。
 まさかタスクの母親から電話が来るとは。
 これはもしかして、責任を取れとか、謝れとかいう流れだろうか。

『昨日はどうも申し訳ありませんでした。うちの息子がお宅様のお嬢様にご迷惑をおかけしたみたいで。あ、もしかして、えっと、トンボさん?』

「あ、ああ、はい、えっと、ボク、いや、私がトンボです」

『本当にごめんなさいね。あの子最近ずっと様子がおかしくて。本当になんて言っていいか』

 どうやらトンボの思い過ごしで、タスクの母親は謝りっぱなしだった。
 電話越しでも頭を下げているのがありありと想像できる。

「い、いえ、私は別に、何ともないですけど、……それより、タスク、あ、いや、坂崎君はどうですか?」

『やっぱり、お宅にも行ってないんですね。本当にどこに行ったのかしら』

 トンボの呼吸が止まる。

『いえね、今日、朝あの子の部屋に言ったら、もぬけの殻で。玄関にも靴がなくなっていて。どこかに出かけたのは間違いないんですけど、何も言わずに出て言ったもので。あんなことの後でしょう。もしかしたらと思って、心当たりに連絡をしているんですけど……』

――タスクが。
――行方不明?

『そちらには伺っていませんのね?』

「あ、え、ええ、今日は、坂崎君は来ていませんが」

 その時玄関でチャイムが鳴った。

「あ、すみません、誰か来たみたいです。一旦切りますね。何か心当たりが思いついたらまたこちらから折り返し連絡します」

 トンボは何度も何度も別れと謝罪の言葉を繰り返して電話を置く。
 またチャイムが鳴った。
 トンボはのぞき穴から外を見る。
 そこにいたのは――山下勝彦だった。指名手配中の。

 山下は殺人容疑で指名手配されていて。
 タスクが行方不明。
 そして今、トンボの家の前にいる。

 トンボはドアの鍵がかかっているのを確認し、さらにチェーンロックをかける。
 それから自分の部屋に戻って、鞄に武器になりそうなものを詰めた。
 包丁、はこのまま入れたら危ないけど、新聞紙で包んでいる時間もない。
 バットと、携帯、財布、後は――懐中電灯くらいか。
 ドンドン、とドアを強く叩く音が響いた。
 もたもたしていたら蹴破られるかもしれない。
 トンボは自分の部屋の窓から身を乗り出す。
 この部屋は二階。幸いトンボの窓の下には今車が止まっている。

「篠塚ぁ!」

 怒鳴るような声。それから甲高いブレーキ音。
 乱暴な止まり方で、一台の乗用車がその車の前に止まる。
 中から姿を現したのは――国栖だった。

「飛び降りろ!」

 言われるまでもなく、トンボは窓から飛び降りる。背後で山下が階段を降りる音が響く。
 そしてトンボは、国栖の車に駆け込むと、国栖はアクセルを全開にふかして、山下の前を通り抜ける。

 トンボは窓から覗くように、山下の姿を見て、その姿が完全に見えなくなると、ようやく運転する国栖の方に向き直った。

「間一髪、って奴か?」

「ありがとうございます。助かりました」

「しばらく頭を下げて寝転んでろ。安全な場所に行く」

 トンボは言われた通り、後部座席に寝転んだ。
 そこにパトカーのサイレンが近づいてくる。

「俺が警察を呼んだ。必ずあの犯人を捕まえてもらうが……、一筋縄にゃいかねえかな」

 トンボは寝ころびながらルームミラーを見る。
 そこに遠ざかる山下が映っていた。
 近づくサイレンにひるむ様子もなく、淡々とこちらに向かって構える。
 トンボが初めて見る道具。それなのにどういうものかよく知っている道具。
 大口径の――猟銃。もう見える姿は点のようなのに、トンボには引き金を引く指が見えた気がした。

――トンボの頭上でガラスが割れる。続けざまにさらにもう一発、銃声が響く。
 蜘蛛の巣が張ったようなフロントガラスに風穴があいた。
 国栖は視界を遮られ、ハンドルを大きく切る。
 トンボは揺れる車体の中でただ丸くなる。 

「頭上げるんじゃねーぞ! もうすぐ振り切れるからな!」

 国栖が叫ぶ。トンボはポケットから携帯を取り出した。

――絶対に危険な事には近付くな。危険かもしれねェ事にも近付くな。アタシのメアドと番号を教えとく。なんかありゃ絶対にアタシを呼べ。

 結局こんな危険な状況になってしまった。
 だが、頼るならここをおいて他にない。
 そしてトンボが切れるカードは他にもう一枚もない。
 トンボはユミエにメールを送る。

『山下に狙われています。助けてください。今は国栖先生の車で安全なところに向かっています』
This story doesn't make sense to Dragonfly
»»  2013.09.02.


 国栖の車はあるビルの駐車場に止められた。
 明かり一つもついていない。国栖が車のヘッドライトを消したら真っ暗だ。
 ここは――カササギビルだ。
 日曜日にタスクが自殺した場所。火曜日にはフェンスが落ちて、山下が死にかけた場所。

「降りろ、篠塚」

「え、でも、ここは――」

「いいから」

 有無を言わさない国栖の様子に違和感を覚えながらも、トンボは車を降りる。

「ここで決着をつける。車のトランクを開けてくれ。中に入ってるから」

 トンボは言われた通りに車のトランクを開ける。
 しかし暗くて中に入っているものがよく見えない。

「そうだ、懐中電灯……」

 トンボは自分の鞄から入れていたライトを取り出して、それをつけてトランクを照らす。
 そして、中に入っていたものを見て、言葉を失う。
 それは、荷物としては結構な大きさを持っている。
 でも絶対にトランクなんかに入れるべきではない。
 膝を抱えた形に丸められて――。
 頭も屈めて小さくなって――。

 それは――死体だった。
 死んでいる、タスクの体だった。

 トン、と背中に手を置かれる。
 トンボは振り返ることができない。魔法にかけられたように動くことできない。
 呼吸の仕方さえ、忘れてしまったようで、胸が苦しいのに、息をうまく吸えない。

「間一髪だったな、さっきは。お前があのお巡りにつかまってたら厄介なことになる。そして今度こそ、絶体絶命って奴だな」

「あ、あなた、が……、お前、が……」

 トンボは乾いた喉から声を絞り出して、がくがくと震える歯の根を食いしばって振り返る。

「お前が――、もう一人の吸血ジャック!」

「ご名答! 大正解だぜぇ、トンボちゃんよぉ!」

 言うや否や、振り下ろされるナイフをトンボは寸でのところでかわす。
 バランスを崩して転んで、懐中電灯を落としてしまう。
 立ち上がって拾おうとするが、一歩先に国栖がそれを取る。

「まあ焦るなって。お前らが必死こいて探してた、真犯人を突き止めたんだぜ? せめてご褒美がなくっちゃあ話にならないだろ? と、言うわけでー、見事真犯人に行きついた篠塚トンボちゃんにー、去年の事件の真相を教えちゃいまーす!」

 国栖は心底馬鹿にした調子で笑う。トンボは確信する。
 間違いない、この男なら、こんな奴なら――あの事件を起こしてもおかしくない。
 四人を殺してもおかしくない、いや、――もう五人目が殺されている。

 トンボは車のトランクに入ったままのタスクを見やる。
 それを見た国栖は、ぷ、と笑いをもらした。

「安心しな。ちゃんと俺はお前も坂崎とおんなじ所に送ってやるからさ。でもまあ、とりあえずは俺の話を聞けよ。お前が一番知りたがってたことなんだからな。ま、きっかけっていやぁ、そりゃあのアケミが俺に惚れちまったってのがきっかけなんだよなぁ。いやーもてる男に生まれるのは本当につらいわ。おかげで――殺しちまった」

「そ、それじゃあ――」

 トンボの中で不明な点が線でつながる。
 あの潮ヶ浜夜の日記にあったK.Yは、山下勝彦ではなく、神楽崎ユミエでもなく――。

 国栖雄次郎(Kuzu Yujiro)。隠れてタバコを吸っているとは、そういう意味だったのか。

「教師と生徒のイケナイ関係って奴? でもアケミもありゃ、大概な女だったぜ? 俺に迫ってきて、自分で服脱いでおきながら、俺が付き合わなきゃ、俺に無理やり犯されたって学校に言うとか言ってきやがってよ。ご丁寧に口裏合わせた仲間に監視させてるとか、いい加減にしろってんだよ! 誰がお前みたいな乳臭ぇガキ相手にするかってんだ! 大人を舐めやがって! だから――殺してやったんだよ。で、その死体にぶち込んでやったよ。影でヨルとユリコが見てる前でな。――ありゃちょっと病み付きだったな」

 そう笑う国栖の顔はあまりにも醜悪で、その言葉は聞くに堪えなかった。

「ただ、やった後で人殺しはさすがにまずいなあと思ってよ。また実家に泣きつこうと思ったんだが、あ、知ってる? 俺、元総理大臣国栖栄一郎の孫。俺んちすっげー金持ちで、権力もありまくるから、昔っからやばいことは家に何とかしてもらってたんだけどよ。さすがに殺しはまずいかなーと思ったし、でも考えるの面倒くせーし、後は野となれ山となれって感じで、放置したんだよな。確かアケミが七色不思議のおまじないをやってたとか聞いたから、願掛けのつもりでお願いだけしてみたんだ。そしたら――」

 国栖は思い出し笑いをこらえられないように腹を抱えて笑う。
 この男は――狂っている。兄は、こんな奴に殺されたのか。
 それは許しがたいことに思われた。

「そしたら、そしたらぁ! 何と、次の朝行ったら、吸血ジャックの仕業になっちまってんの! ぎゃはははは! はははははは! 笑いが止まらないってこういうことだぜ! とんだ神様もいたもんだよ! ははははは! ははは、はあ――おかげで、容疑者からは容易に抜けることができた。死体を細工している時間に俺はアリバイがあったし。目撃者二人も口を割らなかったからな」

「それなら、何でそのあと三人も――、兄さんも殺した!」

 トンボは泣きそうになりながら怒鳴る。
 国栖は下卑た笑いを隠そうともしない。

「ヨルのは正当防衛じゃねえかな。あいつアケミの復讐とかしに来たんだよ。まあ軽く転がして、結局殺したけど。で、案の定朝行ってみれば、また吸血ジャックがご丁寧に飾ってくれてるわけ! 俺はもう確信したね。吸血ジャックは七色不思議で俺が呼び出した鬼の一人だって。俺は鬼に憑かれてるんだよ! それで、ユリコは不登校になった。まあそりゃ殺人者がいる学校に通う目撃者はいねえわ。で、俺は養護教諭だからよ、心配とか言って家庭訪問とかして散々脅かしてやったわけ! そのくせアケミの四十九日には律儀に制服で出席しててよ。笑えるだろ? こりゃもう、殺してくださいってことだよな? だから、殺してやった。で、三人とも仲良くみんな処女を卒業できまして、ユリコも吸血ジャックに殺されたことになりましたとさ、めでたしめでたしってな。それで終わるはずだったのによぉ」

 国栖の声が、突然曇る。
 左手で顔を覆うようにして、頭を押さえる。

「旧生徒会が、出張ってきやがった。特にお前の兄貴がすさまじく目障りだった。ヨルの奴がご丁寧に全部書いた日記を桜木に渡してたってのも予想外だった。桜木は読んだのか読んでねえのかわからなかったが、あいつはそれをアゲハに渡して、アゲハはそれから俺が犯人と特定した。それで去年のクリスマス、あいつは学校に俺を呼び出した」

 あのクリスマスの惨劇。兄が、アゲハが殺された日――。

「『自首してくれませんか』と来たもんだ。その方が、罪が軽くなるからだって。俺は思ったね、ああ、こいつ、本当にハッピーな思考回路してるって。ムカついたから膝を折って動けなくしてやった。そしたらあいつ、今学校には小野宮家の手練れがこちらを伺っていて、少しでも不審があればすぐに俺を組み伏せるとかって言いやがってよ」

 トンボはその言葉に目を見開く。
 それは、カイコがアゲハを見守っていたということだ。
 ならば、なぜアゲハは――殺された?

「さすがに俺も冷や汗ものだったけど、これがまた傑作でなぁ? アゲハは何度もカイコのことを呼んでんのに、一人も来やしねえの。それもそのはず、その時、学校にはそんな連中はいなかったんだ。アゲハがブラフをかました? カイコが裏切った? 全然違うんだよなぁ、小野宮カイコちゃんよぉ!」

――私をその名で呼ぶな。

 駐車場にその声は凛と響いた。
 その刹那、轟音を立てて一台の自動車が駐車場目がけて突っ込んできた。
 それはタイヤの焼け焦げる臭いと、強烈なブレーキ音を立てて、トンボの横に止まる。
 ドアから出てきたのは――ハヤテだった。そしてそれに導かれるようにカイコが降りる。
 運転席からは山下が、そして助手席に乗っていたのはタイチだった。

「トンちゃん! 無事だった? 怪我してない?」

 タイチはトンボの姿を見てすぐさま駆け寄ってきた。
 トンボは小さく大丈夫、と答える。しかしすぐに、その言葉に胸が詰まった。

「でも、タスクは……」

 トンボは小さく国栖の車のトランクを振り返る。
 タイチの顔は蒼白になり、そしてそのトランクの中を見ると国栖を睨んだ。

「国栖先生……いや、国栖雄次郎! 貴様!」

 国栖はタイチの言葉にやれやれと言ったように頭を掻いて、パンパンと大きく手を叩いた。

「ん~、俺達が来て大体二十分……、本当に警察ってのは無能だなぁ、足止めにもならねえや。ま、いっか……はい注目! お話の途中で割り込んできてはいけません! どこまで話したか忘れちまうだろうが。えーっと、そうそう、確かカイコがアゲハを殺してる時に来なかったって話な。実は後から知ったことだけど、お前、あの時、お父さんを説得できなかったんだってな? 本当はアゲハを守るために十人くらいはボディガードを出してもらえると思ってたのに、出来なかったんだよな? 頭下げて頼み込んでも聞いてもらえなかったんだろ? どんな気持ちだった? でもしょうがないよなぁ? お前は、その前にもうずっと親に泣きついてばっかりだったから、肝心な時に親の力に頼れなかったんだろ? 守る力はあったのに、土壇場で少しも役に立たなかったんだよな? いやぁこれだから子どもに理解のない親ってのはダメだよな。おかげでアゲハは――助からなかった」

「蝶野会長……」

 カイコはひどく悔しそうに唇をかみしめている。

「そうだよ。あの日、私は、本当なら、アゲハが国栖と立ち会うのに、私の直属の護衛数人と、国栖を包囲する予定だった。でもそれが直前で、父の、蓮穣の耳に入った。そして蓮穣は――私を幽閉して、一切の連絡手段も奪われて、もちろん護衛の派遣もさせてくれなかった。あの時私が何とかしていれば、――アゲハは助かったのに!」

「そうだなぁ、お前が見殺しにしたんだ。お前が助けてやらなかった。だからアゲハは死んだ。殺された! この俺に! 全く傑作だぜ! ははははは! ――で、俺は確かにお前も殺した、と思うんだが。どうにもこの辺のつじつまが合わねえ。小野宮、お前、殺されたはずじゃねえのか?」

 カイコが、――殺されている?
 その言葉に瞠目したのはトンボだけではない。山下も、タイチもカイコの方を見る。
 その一瞬のすきをついて、国栖はトンボの方に駆け寄る。

――しまった。虚を突かれた。

 トンボの眼前にナイフが迫る。
 トツ、と音がした。
 それは肉に刃物が刺さる音だったか。それとも血が滴り落ちたものか。
 わき腹に金属の刃物が深々と刺さっている。
 トンボを突き飛ばしたハヤテのその腹に。

「……っ!」

 ハヤテはうめき声をあげなかった。
 ただ、荒く息を吐いて、膝をつく。

「ハヤテ!」

 カイコが叫ぶと同時に山下が走る。
 タイチはトンボの肩を抱いて、地面に押し倒した。
 山下が国栖に掴み掛る寸前、パン、と乾いた音がして、ライトに赤い飛沫が映る。

「ぐ……クソ……」

 山下の鈍い声。地面に倒れ伏し、体から血を流していた。
 撃ったのは国栖ではない。トンボはようやく気付く。囲まれているのだ。
 明かりがほとんどないから気づかなかったけれど、闇の中には何かが潜んでいる。
 それは多分トンボ達には敵で、銃を持っている。

「殺したと思ったんだけどな。あの坂崎の持ってたライター、どう見ても俺のだったし。ここでお前を殺して、その時屋上からあいつ、落ちてきたんだよな。――で、気付いたら家で目が覚めて。俺のライターを坂崎が持ってた時には死ぬかと思ったけど、あいつ何にも覚えてないみたいだったし。ホント、つくづく、俺って愛されちゃってるのねもう!」

 国栖はハヤテの体からナイフを引き抜いてハヤテを蹴り飛ばす。
 そして血の付いたナイフをもてあそびながらどこともなく歩いて悠長に言う。
 月曜日にタスクが国栖に相談した時点で、こいつはタスクを殺そうと思っていたのか。
 あの時タスクが見せたライターが国栖のものだと気付いていれば――。
 タスクは、助かったかもしれない。
 トンボはもう一度トランクの方に目をやり、歯噛みする。

「まあ結局、邪魔な小野宮は生きてるし、足がつきそうなもの持ってる坂崎タスクをダシにまとめて殺そうと呼び出したわけだけど。それで、要求通り身代金と飛行機の用意できたんですかぁ?」

「貴様にそんなものを渡すいわれはない! 坂崎君も――殺した癖に!」

 カイコがハヤテをかばうようにして叫ぶ。
 こいつは――、タスクと自分を誘拐して、高跳びするつもりだったのか。

「ってことは、お金も持たずに、来たわけぇ? 学習能力ってものがないんですかぁ? まさか今回も、連れてきた手勢はこれだけなんですかぁ? いやあほんと、親に愛されてないってかわいそうだわ。実家の権力っていうのは、こういう風に使うもんなんだよ!」

 国栖がぱちんと指を鳴らす。
 それと共に、駐車場の暗がりからは、ぞろぞろと屈強な男たちが現れた。
 そして、その手には、銃が握られている。
 男たちはそのままトンボ達に近付き、あっという間にその自由を奪う。

「クソ、離せ! トンちゃん、山下さん!」

 タイチは遮二無二に抵抗しているが、全く無駄だった。
 それもこめかみに銃を突きつけられると、大人しくなる。

「ん~これで舞台の関係者は大概揃ったことになるけど、流石にこの人数が一気に死んでるのはおかしいだろうな。そ、こ、で! 大天才国栖雄二郎先生様が考えた落ちですが! 一連の吸血ジャック事件は、警察官山下勝彦が生徒会役員と共謀して行っていた売春組織とそれによる内部私刑事件だった! そして一連の事件の共謀者であり、私刑によって殺された兄、篠塚揚羽の恨みを晴らすために独自の捜査を続けていた妹の篠塚蜻蛉を目障りに感じた山下達は、同じく捜査していた松木太一、坂崎亮らと共に、トンボを殺害、しかし、彼らの行動に一抹の不安を覚えていた正義の養護教諭国栖雄次郎は、その現場に急行し、惨劇を目の当たりにする。そして乱闘の末、山下と、共謀の小野宮蚕、吉沢颯に意趣返しをするが、自身も深手を負う――どうだ? いいシナリオだろ? はい拍手!」

 もちろん拍手するものなどいない。
 国栖は一人で大笑いして、手を馬鹿みたいに叩きまくる。

「さ、そんじゃあ、お前ら、銃は使うな。絞め殺せ。長い話になったけど、これでお話は終わりだから、どうぞ、死んで」

 トンボの口を、手袋をはめた男の手が乱暴に塞ぐ。
 そして首に手を回される。
 タイチがやめろ、やめろとわめく声が聞こえる。
 山下も必死に何かを呻いている。
 カイコとハヤテは、無言のままだった。
 首が圧迫され、息がつまる。
 首の付け根で、ぼきりと骨が折れる音が聞こえた。
 案外痛みはなかった。これが死というものなら、思いのほか安らかかもしれない。
 そのままトンボは地面に倒れ伏した。
Zippo lighter: K.Y. is
»»  2013.09.02.


「うがぁ!」
「い、いてえ!」

 倒れたトンボの後ろで、トンボの首を絞めていた男が、いや、この駐車場にいた、国栖の部下たちが、一様に呻いて地に伏している。
 その手首や腕は曲がるべき方向とは逆を向いていた。折れている――いや、折られた。
 トンボは呆然としていた。自分は――生きているのか。
 一体、何が起こった?

「誰だ!」

 国栖が叫ぶ。駐車場の闇が笑い声をあげた。トンボにはそう見えた。
 駐車場自体が暗くて気付かなかったが、外を見ればもう真っ暗で、車のライト以外に光源は全くない。

「いかにも子悪党の言いそうなセリフだな。言うに事欠いて誰だ、だって? あンま笑わせんなよ。笑ってたら狙いがそれちまうかもしれねェだろ?」

 そして、ボコンと音を立てて、山下の車のボンネットがへこむ。
 その足元で光るライトに照らしだされたのは、隆々とした筋肉を持つ背の高い女。
 なびかせる黒いドレッドは、さながら蛇のようで。
 その下から猛禽のような鋭い目で国栖を睨み、笑みを浮かべる――神楽崎ユミエだった。

「ユミエさん!」

 トンボは叫ぶ。

「ようトンボ、ここまで遅くなるつもりはなかったんだけどな。アタシもあの日の真相って奴をこいつの口から聞いておきたくてな」

「ユミエ……先輩」

 それはカイコの声だった。
 トンボとユミエがそちらを見ると、そこに浮かんでいたのは子どもが泣くような顔をしている、頼りなげなカイコだった。
 トンボが普段見ているものではなく、一年前に兄の隣にいた彼女とそれは重なる。

「ごめんなさい……ごめんなさい、私、アゲハに、頼まれてたのに……アゲハを守らなくちゃ、いけなかったのに。約束、守れなくて……」

 ユミエはドンと音を立ててボンネットから飛び降り、カイコの横でうずくまる男を蹴り飛ばして、カイコの頭にその大きな手を乗せた。

「バカ野郎」

 ユミエは冷たい声で言う。カイコはその言葉にわっと泣いた。

「何でそういう時に限ってお前もアゲハも、アタシを頼らねェんだよ。そのための神楽崎ユミエだろうが。アタシはただの素行不良の乱暴生徒会長じゃねェだろう? お前もアゲハも一人きりで抱え込みやがって――バカ野郎」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 カイコは親に叱られる子供のように泣きじゃくって、ひたすらに謝罪の言葉を重ねる。
 ユミエはその頭を優しく包むように手で撫でて、笑った。
 その瞬間に一つ銃声がして、その頭が砕け散る。

「はいはい。感動のご対面は結構でーす。そういうの別に期待してないんで」

「ユミエ先輩、ユミエ先輩! うわぁあああっ!」

 カイコが絶叫し、その崩れ落ちる体を抱きとめる。
 ユミエの頭部はもう原形をとどめていない。
 そして国栖の手元には、煙を上げる拳銃が握られていた。

「ったく使えねーなこいつら。手首折られたくらいで情けないったらねえ。ま、こうなれば一人ずつ殺していくだけだけど。まあいいや、後のことはお祖父ちゃんに何とかしてもらおう。まあそれじゃあ、トンボちゃんから、死ねよ」

 その銃口がトンボに向けられる。

「やめろ、殺すなら私から殺せ!」

 カイコが泣きながらユミエを抱えて叫ぶ。

「ふーん、じゃあお前から死ねば? 別に順番に拘りとかないし」

――まあ待てよ。

 再び、闇が言う。どこともつかない全ての方向に響く声が、駐車場にこだました。
 そして、カイコの体にもたれかかっていた顔のないユミエの腕が持ち上がり、カイコの肩を借りて、自立する。
 ごぽごぽ、と音を立てて、その首に血液の塊ができ、膨らんでいく。
 ユミエの顔のない体が、しっかりとした足取りで国栖の方に向かって歩いて行く。
 その光景を誰もが呆然と眺めていた。トンボも、カイコも。国栖さえも。

――質問に答えてなかったと思ってな。誰だ、とかって聞かれたら、答えないわけにはいかねェだろ?

――アタシは。

「吸血鬼だよ」

 そして血の塊がユミエの顔の形になったかと思えば、そこには元通りのニヒルな笑みを浮かべた、傷一つないユミエの顔があった。

「ひ、ひひゃひゃひゃひゃ! こいつはいい! 本物の化け物がお出ましってこった! 死ね!」

 国栖が壊れたように笑い、銃を乱射する。
 そのすべての弾丸がユミエの体を貫いて、またユミエは血まみれになった。
 顔も、肺も、膝も、腕も、どこもかしこも撃たれているのに。
 ユミエは少しも倒れなかった。
 吹き出した血は即座に傷口に戻り、体内に残った球は押し出されるように傷口から出る。

 かきん、かきんと金属のぶつかる音が響く。
 国栖の銃の弾が切れたのだ。
 ユミエはその国栖の真正面に立っている。
 トンボにはその顔が見えない。
 でもその背中が、その纏う空気が、ユミエの怒りを如実に語っている。

「へえ、本当に死なないんだ。おっどろき~! ――あがっ!」

 ユミエは無言でその顔を横に殴る。
 国栖の口から白いものが零れ落ちた。抜け落ちた歯だ。

「足りねェな」

 ユミエは返す拳で、逆の頬を殴る。さらに歯が何本か欠けた。

「全然足りねェ。殺された四人の恨みは、アゲハの恨みは、アタシの恨みはこんなんじゃねェ」

 ユミエは国栖の襟首を掴んで宙釣りにする。

「こんな体になってしばらく立つが、アタシは、今日、初めて、自らの意志で人を殺す。テメェは死ね。クズ」

 ユミエが拳を振りかぶると、国栖は手に持っていた拳銃を地面に落とした。
 そして両手を頭の後ろで組む。
 何のまねかとユミエは拳を止める。

「はいはーい、そこまで。ストップストップ。もう抵抗しませーん。僕チン自首しまーす」

 国栖が含み笑いながら、言う。
 この期に及んで命乞いか。
 ユミエはそれに構わず、拳を振り下ろす。
 その直後に大きな銃声がした。
 吹き飛んだのは国栖の頭部ではなく、ユミエの腕だった。
 銃声を振り返ると、這いつくばった山下が、猟銃をユミエに向かって構えている。

「テメエ、山下、殺されてェか?」

 山下はひざを打たれた痛みのせいか、ぶるぶると震えながら、答えない。

「お巡り野郎は説明できないようなのでぇ、説明しまーす。俺が今自首を申告したのを警察官である山下は受理しましたー。ということは、この状況でー、山下にはー、俺を保護する義務が発生するのでーす!」

 ユミエは無言で国栖を車体に押し付ける。
 いてえ、と国栖は呻く。

「それがどうした。それでお前助かるとでも思ってんのか? テメエの脳みそは寒天か? アタシがテメエ以外には無害だとでも思ってんのか?」

「その言葉、そっくりそのままお返ししまーす。いーですかー、ここで俺を殺したらー、お前が大好きな篠塚アゲハの目をくり抜いて盗んだあの本物の吸血ジャックの手がかりもなくなるってことだぜ? いいのかねぇ殺して。アゲハの目玉、取り返したいんじゃねえのか? 俺は殺しはしたけど、アゲハをああしたのは俺じゃねえんだぜ? 吸血ジャックの正体、知りたいだろう?」

「へえ、そうかい」

「あがぁっ!」

 ユミエが国栖の膝を蹴り、骨を折った。

「ならそれを言えるように耳と口だけ残してやるよ。他はいらねえだろ。足も腕も、目も鼻も。テメエはこっちの質問を聞くための耳と、こっちの質問に答える口だけ残ってりゃいいわけだ。それがお望みなら、そうしてやるよ」

「ひ、ひへへ、な、なあ頼むよ。俺が悪かった。そ、そうだ、金、金ならやる! なんてったって元総理の孫だぜ、金だけじゃねえぞ、俺が後ろ盾すれば、何にでもなれるぜ? ほら、これはイーブンな取引なんだよ。俺の弱みをお前は握ってる! だから、命だけは、助けてくれ!」

 それはこれまでの人を散々小ばかにしていた態度からは、思えないような情けない命乞いだった。
 これが、もう一人の吸血ジャックの正体、国栖雄二郎の素顔。
 それは祖父の栄光に縋り付いて、自分一人では何もできない正真正銘人間のクズだった。

「ボクからも、お願いします。ユミエさん」

 トンボはようやく口を開く。
 ユミエは気に入らないというような目つきでトンボを見やった。

「兄さんが、篠塚アゲハが信じた旧生徒会は、絶対に集団私刑組織ではなかった。ここでユミエさんがそいつを殺したら、それは結局私刑になってしまう。兄さんはあなたに人殺しなんて絶対にさせない。あなたの手は、こんなクズの返り血に塗れてはいけないんだ。だから、やめてください」

 トンボが言うと、ユミエの顔は、少しだけ切なげな笑みを浮かべる。
 そして、国栖を地面に叩きつけた。

「アタシはずっとアゲハを殺した奴を殺してやろうと思って生きてきた。そして死んで、鬼になって、本物の化け物になっちまった。今更人間の真似事はできねェんだよ」 

 ユミエの目には少しの迷いもない。トンボの言葉ではもはや止めることはできない。
――トンボの言葉では。

「――私は、私が先輩に人殺しをさせる理由になってしまうのが一番許せません」

 トンボはアゲハが最後に残した手紙の文章を思い出して言う。
 ユミエはわずかに眼を見開いた。

「もし私が先輩にとって復讐の理由になっていたら、どうか私のことを忘れてください。そんな大層な話ではありません。ただ私が迂闊だっただけです。私は先輩が常に正しいと信じています。だからあなたは人を殴っても絶対に殺さない。どうか、その正しさを失わないでください。大好きです。いつも、いつまでも。――兄さんが最後の手紙でそう言っていたんです。お願いだから、兄さんを人殺しの理由にしないでください。兄さんのために心まで鬼にならないでください」

 ユミエはわなわなと拳を震わせて――唐突にその力を緩めた。
ポケットから煙草を取り出して火をつけ、長く紫煙を吐く。

「ほんっとに、どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。下らねェ。飛んだ茶番だ。付き合いきれねェな。アタシはアゲハの目玉を持ってる奴を探しに行く。このクズは――お前の好きにしな、トンボ」

 ユミエがそう言うと、いきなりその姿が消え、無数の蝙蝠が辺りを埋め尽くした。
 喝采のような羽ばたきが響き、それが消えるとユミエの姿はもうどこにもなかった。

「蝶野会長、警察と救急車を呼んでください。――それから、タスクの家に、連絡を」

 トンボの言葉の意を悟ったのか、カイコは静かに分かったといい、携帯を取り出した。
 トンボは国栖の車の開いたままのトランクを見る。

――え。

「タスクが、いない……」
Whenever I always love you, Justice
»»  2013.09.02.


 トランクの中に折りたたまれるように詰め込まれていたタスクの死体は。
 跡形もなく消えていた。
 トンボはライトで周辺を照らす。いなくなっているのはタスクだけではない。
 タイチもいない。それに、山下も。

 山下が立っていたところから点々と血痕が続いている。
 トンボは慌ててそれを追いかける。それは階段に点々と落ちていた。
 膝を打たれた山下は四階の踊り場で、壁にもたれかかっていた。

「篠塚さん……タスク君が、いや、色鬼灰音が――タイチを」

「どこに」

 聞くまでもなかった。屋上に決まっている。
 向かうトンボを山下が止めた。

「タスク、君は、七色不思議の、若葉色の儀式を、行っていない……」

 意味を問おうとすると、直後に上の方から雷でも落ちたかと思う轟音が鳴り響いた。
 トンボは急いで屋上に向かう。
 そして、屋上には――灰色の炎が燃え盛っていた。

「やめろタスク!」

 トンボが叫ぶと、タイチがこちらを振り向いた。
 タスクは目に灰色の目隠しをでたらめに結んでいた。
 それはまるで、あの七色不思議の噂の、灰色の目隠しの少年のようだった。
 いや、まさしく今タスクはその噂そのものなのだ。
 あれが、色鬼、灰音の姿――。

「トンちゃん!」

「危ないタイチ!」

 タイチがトンボを呼んだ隙を逃さず、灰音は灰色の炎を手から放つ。
 タイチが避けたそれはトンボの方に向かってくる。
 トンボは慌てて屋上の扉を閉め、ドアから離れる。
 炎が触れた瞬間、あっという間にそれは扉全体に燃え広がり、端から何もなかったかのように、きれいさっぱり扉は消滅していた。

 あらゆるものを焼き尽くし、消し去る炎。
 金属でも、コンクリートでも、何でも、あの炎に触れれば、跡形もなく消える。
 きっとそれは、死すらも焼き尽くして、なかったことにする。
 だからタスクは、――ああなっている。

 扉が消えると同時に、炎も消える。
 トンボは再び屋上に躍り出た。
 トンボがタイチに駆け寄ろうとすると、タイチはそれから逃げるように離れる。

「トンちゃん、オレに近付くな、あいつが狙ってるのはオレだ!」
 
 確かに灰音は絶えずタイチの方向に目を向け、トンボのことなど意に介していないようだった。
 トンボは背負っていたリュックからバットを取り出して、それを灰音目がけて投げつける。
 灰音は振り向くまでもなく、バットは灰音に触れた瞬間に灰色の炎に焼き尽くされる。

「ダメだよトンちゃん! あいつ、攻撃は何でもあの火で消しちまうんだ! タスク! いい加減、目を覚ませ!」

「タスク!」

 トンボもその名前を呼ぶ。
 攻撃はできない。なら、トンボ達にできるのは呼びかけることだけだ。

「頼む、タスク、目を覚ませ、タスクがしたかったことは、七色不思議で願ったことは、こんなことじゃなかったはずだろ!」

 ピクリと灰音の動きが止まった。
 トンボが言った言葉の何かに、反応した。

「なな、いろ……」

 しかし思い直したように、灰音はまたタイチに向かって手を構える。

「七色不思議だ!」

 タイチが叫ぶと、またその動きが止まる。
 間違いない、灰音は、七色不思議という言葉に反応している。
 トンボは思い出した。
 タスクの話によれば、タスクは全ての原因である日曜日にまず、学校に忍び込んで、七色不思議を行っているのだ。

 でもそれは失敗していて、木曜日にまた行ったけれど、完了していたのは、あの時終わっていたのは、白い女神を自分の影にとらえる、赤色まで。
――そうだ、ならばこれは、七色不思議の通りじゃないか。
 白いコートの女神を捕らわれて、鬼の子どもたちはタスクを食べにやって来たのだ。
 だとすれば――女神を帰さなければならない。
 でも、どうやって。
 確か女神を帰す儀式は、『若葉色のペンで白い紙に、「おかえりなさい」と書いて、燃やす』だったはずだ。
 トンボはそんなもの持っていない――兄さん、どうすれば。

――いや。その言葉は、その若葉色の文字は。
 木曜日の朝、トンボの携帯に届いていたメールは、アゲハの遺言という件名で。
 若葉色の文字で、「おかえりなさい」と言う七文字が。そういうことか。
 これで終わらせるために、おそらく、ミツルは――。

 ポケットには携帯が確かにトンボの手に触れる。
 メールを開くと黄緑色の文字で、確かに書かれている。
 ならばこれを、タスクの携帯に送れば。
 タスクは今携帯を持っている。
 あの制服のズボンの右側のポケットに、タスクはいつも携帯をいれている。

――其は太虚にして虚空。三千世界の因果を束ねる枢なる虚ろ。空の巣箱。

 トンボの後ろから低い声が聞こえたと思うや否や、灰音のワイシャツの胸を突き破って、紫色に光る水晶がその目隠しで覆われた顔の前に浮かび上がった。

「山下さん!」

 タイチがトンボの後ろを見て叫ぶ。
 そこには足を引きずって、階段の中腹に這いつくばり、灰音の方に手を伸ばす山下がいた。
 汗は滝のようにそのワイシャツを濡らし、血も同様に流れ出ていた。

――其は三眼にして四翼。二足にして三尾。人の七倫を失いて鬼となり、鬼の五徳を得て太虚となりし、古にして古の、神仏因果の疎にして祖。其の名は鴉。万物の空の巣。

 正八面体の水晶の六つの頂点から、紫色に光る光の縄のようなものが灰音の体に巻きついていく。

「今だ、篠塚さん!」

 トンボは大急ぎでそのメールを転送する。あて先は坂崎タスク。
 縛られたタスクは動けない。
 トンボはタスクに近付き、そのポケットからタスクの携帯を出し、それを握らせた。

「目を覚ましてタスク。――鬼は帰れ」
 
 送信ボタンを押す。程なくして、タスクの携帯が着信を知らせる。
 それと同時に、タスクの携帯が灰色の炎を上げる。

「ぎげげぎゃぎゃぎゃ、ごぎゃぎゃぎゃぎゃ!」

 鳥の首を絞めるような声をあげ、タスクはびくびくと痙攣したように震えた。
 携帯から出た灰色の炎がタスクの全身に広がる。

「トンちゃん!」

 タイチが叫んだが、トンボはタスクの体を離さなかった。
 体を撫でる炎は、熱くもなかったし痛くもなかった。
 ただ、柔らかな布が、肌をくすぐるように、優しい感触だけを残し、そして消えた。
 灰色の目隠しだけが燃え尽き、タスクの顔があらわになった。
Suicide, Welcome back. Evil, Please go home
»»  2013.09.02.

【日曜日】

 悪いとは思っている。でも許してもらおうとは考えていない。
 ごめんなさいと言う言葉は嘘くさくて。それに対する許容はもっと嘘くさい。
 どうせ本当は怒っている。憎んでいる。許さないと思っている。
 だから絶対謝らない。タスクはずっとそうしてきた。

――はぁ、はぁ、……はぁ、……。

 真夜中の誰もいない、閉鎖されたはずの学校で、タスクは派手な音を立てて絵筆を足元のバケツに放り込んだ。
 目の前の鏡にはオレンジ色の絵具で、檻のような縦横の線が引かれていた。
 これが最後だった。今や学校中の鏡という鏡にこのオレンジの落書きが施されている。

『この学校の美術室には作者不明の白いコートの女の絵がかかっている。
 彼女はこの高校の守り神で鬼の眷属らしい。
 彼女にはたくさんの子どもがいて、夜中、誰もいない学校で子ども達を遊ばせている。
 灰色の目隠しをして校門の前でかくれんぼをしている子ども。
 学校中を駆け回って鬼ごっこをする子ども。
 中には悪戯好きの子どももいる。
 鏡という鏡にオレンジ色の絵具で落書きし、教室という教室に真っ黒な足跡を残す。
 白いコートの女神はそんな子どもたちを優しく見守っている。
 でもさすがに悪戯が過ぎると怒って彼女自身が子どもを叱りに現れる』

 タスクは手に持ったライトで自分が歩いてきた道を振り返る。
 そこには真っ黒な足跡がずっと続いていた。
 上履きに墨汁をつけて学校中を走り回った。
 それはまるで泥棒でも入ったかのようだった。

『白いコートの女神は運命を操る力を持っていて、もしその姿を見ることができたなら、考えられないような幸運に恵まれる。
 最底辺の学力の生徒が、国公立大に現役で合格したり、到底釣り合わないような美女や美男との交際が叶ったりする。
 彼女はよく屋上の給水塔の上にいて、そこで学校全てを見渡している。
 そして太陽が出る頃には眠くなって絵の中に戻っていく。
 だから、夜明け前の青い大気に包まれた屋上には彼女の姿が見えることが多い。
 彼女は朝焼けを浴びて赤い影を帯びている。
 そして、美術室の黒板に若葉色のチョークでお礼を残していくらしい』

――式部北高校の七色不思議という噂話だ。
 話の中に七つの色の名前が出てくることからそう呼ばれている。
 実際この式部北高校の美術室には作者名もタイトルもない白いコートの女の絵がある。
 そして、たまに思い出したかのように、その女の姿を見たという生徒がいるという噂が流れることも珍しいことではなかった。

 しかし、生徒達に有名なこの噂とは別にもう一つ、この噂には秘密の話がある。
 それは、白いコートの女神を手に入れ、願いを叶えるための儀式の内容だった。

『深夜の誰もいない学校に忍び込んで、鏡という鏡にオレンジ色の絵具で落書きをし、廊下や教室に真っ黒な足跡を残して、女神をおびき出す。
 灰色の目隠しをして「もういいかい」と叫ぶと、女神はそれが子どもの声だと思ってそちらに向かう。
 そうやって女神を屋上の給水塔の上まで呼び出す。
 後は夜明け前、大気がコバルトブルーに染まる頃に、赤く染まる朝焼けの給水塔の上に、学校の校章の印を書き 自分の影を写しこみ、そこで「みーつけた」と叫ぶ。
 そうすると、影の中に女神を捕えることができる。
 女神を捕えたら、お願いごとを言う。願いは一週間から一か月の間に叶う。
 願いが叶ったら、白い紙に若葉色のペンや色鉛筆で『お帰りなさい』と書いて燃やす。
 そうすると女神は解放され、元の絵に戻っていく。
 願いが叶った後、叶わなくても影に捕えてから一週間以内に女神を帰さなければならない。
 そうしないと心配した彼女の子ども達の鬼が彼女を探しにやってくる。
 そして、あなたが女神を捕えていると知ったら、あなたのことを食べてしまうだろう』

 タスクは閉鎖されている屋上の扉を盗んできた鍵で開ける。
 途端に、警報が学校に鳴り響いた。
 タスクは歯噛みした。学校の警備システムが作動したのだ。
 あと少しなのに――、苛立ちと無念が募る。
 しかし、そのままその場を後にし、あらかじめ開けておいた窓から学校を出た。
 タスクが逃げた直後に警備会社のトラックが来て、学校に入っていくところだった。

――もうダメだ。おしまいだ。
 いや、とうにおしまいだったのだけれど。
 無かったことにしようと思った。今日一日の失態、失敗、全て、全部。
 オカルトに頼るなんて馬鹿げた話でも、他に方法がなかった。
 でもそれも頓挫に終わった。もう後は――死ぬしかない。

 タスクは汚れた制服のまま深夜の街を駆け抜け、ある廃ビルの屋上に上る。
 そのままフェンスを乗り越えて、明かりも灯っていない真っ暗闇の足元を見た。

――式部北高校合唱部、銅賞。

 今日は全国高校合唱大会の地区予選だった。
 坂崎亮(サカザキ タスク)は式部北高校合唱部の伴奏を務めていた。
 決して下手な歌ではなかった。
 人数は男女合わせて三十人に満たないが、完成度という意味では関東予選に勝ち残る常連校と比べても引けを取らないものだった。
――歌は。問題は伴奏、つまり、タスクの演奏の方だった。

 一言で言うなら、緊張してしまったのだ。
 タスクは過度の緊張で頭が真っ白になり、そして曲の途中で伴奏の手が止まった。
 復帰しようとしていくつか音を触っても見当違いの雑音になるばかりで、手は震え、足はペダルを踏むことさえ困難だった。

 伴奏のないまま曲は終わり、部長で指揮をしていた三年の蝶野カイコは静かに礼をした。
 タスク達一年にとっては入学して二か月の最初の舞台。
 カイコ達三年の部員にとっては、公の大会としては最後の舞台だった。
 三年の女子の先輩には、舞台を下りた袖で悔しそうに泣いているものもいた。

 誰ひとり、タスクのせいだとは言わなかった。
 それでも誰もがタスクのせいだと思っていたに違いない。

――地区予選銅賞、それでも私は諸君が最大限の努力を尽くしてくれたことを知っている。我々のコンクールはここでおしまいだが、秋には文化祭のステージがあるし、市の催しもある。おちおち落ち込んではいられないぞ。

 解散の前にホールの玄関でトロフィーを片手にカイコは笑顔で言った。
 そして、泣く部員を慰めた。

――銅賞、結構じゃないか。分けて見れば、『金と同じ』だ。私達は、金賞はとれなかった。だが、金賞と同じだけの、それにふさわしい努力をした。胸を張りたまえ、諸君。私達はこの結果に対して、一つもやましい点などない。ただ、他の部が我々より上手かっただけだ。我々は、我々にできるベストを尽くして、そして敗れた。恥じることじゃない。

――式部北高校合唱部一同っ! 礼っ!

 カイコが掛け声をかけると部員は大きな声でありがとうござました、とホールに向かって頭を下げた。
 その下げた頭の下で、坂崎のせいだ、という声が聞こえた。
 それは誰の声でもなくタスク自身の心の声だったかもしれない。
 しかしタスクはその言葉に居た堪れなくなって、弾かれたようにそこから逃げ出した。

 カイコ達三年生がどれほど頑張っていたかをタスクは知っている。
 もともと弱小だった部をどれだけ大切に守っていたかをよく理解していた。
 だから、彼らに、彼女らに申し訳なくて、この大会の結末をなかったことにしたくて、タスクは夜中の学校に忍び込んだ。

 もうとっくに頭の中は混乱状態で、まともな思考回路は残っていなかった。
 警報のように携帯電話は鳴動しっぱなしで、タスクのやっていることも法に触れていた。
 忍び込んで、鍵を盗んで、学校中を汚して回って――。

 そんなことで、失敗をなかったことになんてできるわけないのに。
 でもその時タスクはそれを信じていた。こうすれば全てなかったことにできるのだと。
 そうすれば、カイコたちの努力は報われて、自分の失敗は消えてなくなるのだと。
 七色不思議の儀式を行えば、この学校の女神が、願いを叶えてくれるのだと。

 しかしそれもまた失敗に終わった。いや、元より上手くいくはずもないことだった。
 もうタスクはどこにも行く場所がない。
 少し調べれば学校を荒らした犯人がタスクだということも露見するだろう。

 タスクが今いるのは、カササギビルという廃ビルだった。
 式部市の北の住宅地に頭一つ、うんと飛びぬけてぽつんと立っているビル。
 壁面に鵲(カササギ)と染め抜かれていることからその名で呼ばれる。
 本当の名前は誰も知らなかった。

 誰にも使われずに捨てられたビル。いまだに何の使い道もないビル。
 景観や日照を阻害していると、解体を求める署名さえあるこのビルは、今の自分にひどく似ている。
 タスクにはそう思えた。

 最後に一つ、息を吐く。
 そしてタスクは、静かにフェンスから手を離した。
 空中に踊りながら、落ちていく体。
 揺れて、回って、捻じれて――。

 地面にぶつかったタスクの体は死体というにはあまりにも無残な肉の塊になった。
 首は折れ曲がり、鼻からも耳からも血が流れる。
 視界は徐々に色彩を失い灰色に眩んでいく。
 タスクの顔は一階部の駐車場に向けられていた。
 見えなくなりつつあるタスクの目はそこに広がる光景を捕えていた。

 女の人が、首を絞められて。
――ああ、そうだ。あれは、殺されているんだ。

 関節を逆に曲げられた右手が、冷たい金属に触っているのをタスクは感じた。
 ライターだった。
 タスクは、最後の力を振り絞って、そのライターに火をつける。
 何故そんなことをしたのか。その行動に何の意味があったのか。
 それを考える思考回路は既に機能していなかった。
 
 色彩を失っていく視界の端で。
 ライターはあるはずのない灰色の炎をあげた。
 タスクはその薄明かりに照らし出された女の首を絞める男の顔を見た。
 その男の顔は――。

It's anything but apology

2013.09.02.[Edit]
【日曜日】 悪いとは思っている。でも許してもらおうとは考えていない。 ごめんなさいと言う言葉は嘘くさくて。それに対する許容はもっと嘘くさい。 どうせ本当は怒っている。憎んでいる。許さないと思っている。 だから絶対謝らない。タスクはずっとそうしてきた。――はぁ、はぁ、……はぁ、……。 真夜中の誰もいない、閉鎖されたはずの学校で、タスクは派手な音を立てて絵筆を足元のバケツに放り込んだ。 目の前の鏡にはオレン...

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【月曜日】



――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。

 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。
 梅雨の晴れ間。
 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。
 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。
 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。
 寝坊して閉門に間に合うかどうかというぎりぎりの時間だったが、体が重くて走る気力が出ない。
 もともとそんな体力もないと言ってしまえばそれまでかもしれなかったが。
 その道の途中で、今しがたようやくタスクは昨日のことを思い出した。
 できれば忘れていたいことだった。

「タスク、おはよう」

 後ろから声がした。
 タスクは不機嫌な顔で振り返った。返事はしない。
 声でそれを気にするような相手ではないとわかったからだ。
 案の定立っていたのは同級生の松木太一(マツキ タイチ)だった。
 小学校一年生からの長い付き合いである。
 タスクのこの応対は相手もわかりきったことだった。

 この男は髪の毛を切る金もないほど貧乏を自称する。
 事実かどうか知っているわけではないが髪は実際長い。
 前髪は目を覆うほど。
 後ろ髪に至っては背中まであり、首の後ろで一つに結ばれている。
 知り合って以来タイチはずっとその髪型だった。
 いつ見ても鬱陶しいが、こう蒸し暑い時には一層暑苦しく見えて余計に不快だった。
 服装も学校のあるなしに関わらず制服しか着ない。
 この季節は半そでのワイシャツに、グレーのズボン。
 いつもと同じ姿だ。

「お返事は?」

 タイチは笑顔でタスクに言う。それも毎度のことだった。

「子どもか」

「お返事」

「……」

「お返事」

「おはよう。これでいい?」

「それでいい。馬鹿馬鹿しいと思ってるだろうけど大事なことだぞ。挨拶と笑顔と身だしなみ。人間関係の基本だ」

――身だしなみはお前も問題だろ、と心の中で突っ込む。
 そう、お前『も』だ。タスクも身だしなみが決して整っている方ではない。
 生まれつき栗色の髪の毛はこれまた生まれつき巻き気味だった。
 寝癖でいつも髪の毛はひどく乱れる。
 くしをあててもドライヤーを吹き付けても、どうにも収まりが悪い。
 かといって整髪料に頼るのは何だか不良っぽくて手が出せないでいた。
 さらにタスクもタイチも私服の生徒がほとんどの学校に制服で通学する。
 タイチの場合、自称によれば他に服がないかららしい。
 しかしタスクは制服にせざるを得ない切実な理由があった。
 タスクは高校一年生男子だが身長は159.5㎝しかない。
 この国の中学一年生男子の平均より小さいくらいだ。チビなのである。
 制服でも着ていないと、誰も高校生だと思ってくれないのだ。

「……そのさ、昨日は残念だったけど元気出せよ」

――ああそうですか。

 あまつさえこの話である。
 タスクの不快感はうなぎのぼりに上がる。
 眉間を中心に目の周りに寄るしわが一層深まり、表情が物々しくなっていく。

「失敗は誰にでもある」

――余計な御世話だ。そんなことはわかっている。

「気に病むようなことじゃない。お前だけのせいでもない」

――お前に何がわかる。

「今度挽回すれば――」

「うるさい。放っておいてくれ」

 タスクはタイチの言葉を遮って言う。
 励ましてくれるくらいならいっそ知らない振りをして欲しかった。
 少なくとも今のタスクにはそれは侮辱に感じられた。
――今度なんてない。舞台は常に一度きりだ。

 そう、あの人達の、カイコや三年生達にとっての高校生最後のコンクールの舞台は。
 もう二度とないのだ。それをタスクが失敗させてしまった。
 やり直しがきく類いのものではない。タスクの胸はまたつきんと痛んだ。
 
 タイチはまだごにょごにょ言っている。
 無視していても、タスクの気分を荒立てる言葉ばかりだった。
 タスクは奥歯を噛みしめる。
 タイチは多分、善意で言っている。励まそうとしてくれている。
 そもそも遅刻寸前のタスクとこの時間に通学路で会うわけがない。
 つまり、タイチはここで待っていたのだ。タスクを励ますだけのために。
――バカじゃないのか。

「少し黙っててくれ」

 そう言うので精いっぱいだった。
 タイチはまだ何か言いた気だった。
 しかし中途半端に口を開けたまま、結局何も言わなかった。
 タスクが本当に言いたいことは、言わなければいけないことはこんな言葉では絶対ない。
 でも、タスクは言わない。言えない。

 言えない代わりに出る言葉は憎まれ口だった。
 考えを述べることが苦手なわけではない。世間話はいくらでもできる。
 でも、タスクの口は気持ちを正直に伝えてくれない。
 嬉しくても、悲しくても。楽しくても、つらくても。
 どんな時もとげとげしい言葉しか出てこない。

 一方的に励ましの言葉を連ねていたタイチから、タスクは逃げるように速足で歩いた。
 そのせいかどうか定かではないが、閉門するぎりぎりのところにタスク達は間に合った。
 門を閉めているのは保健室の教師だった。
 その男がじろじろとタスクの方を見る。きっと知っているに違いない。
 タスクのコンサートにはテレビ中継も来ていた。
 ひょっとしたら学校中が、この街中がタスクの顔を知っているのだ。
――式部北のへたくそな伴奏者として。
 タスクはうつむいたまま校門をくぐった。

『気にすることはないよ、タスク――』

 そこに聞こえた言葉はタスクの逆鱗に触れた。

「気にするなって、どういうことだよ」

 タスクはそれについに切れた。
 起きた時から消えないイライラが頂点に達して、口から溢れた。

「気にするなだって? それってどういう意味だよ!」

 後ろにいたタイチはいきなりのことにぽかんと口を開ける。
 門を閉めた教師も怪訝そうな顔をしていた。

「その程度だったってこと? 気にする必要のない程度の舞台だったって。それなら、何で伴奏なんてさせるの? 歌が下手で、ピアノくらいしか取り柄がなかったから? そんな理由でやりたくもない舞台に立たされて、こっちはいい迷惑だよ!」

 ああ、何を言ってるんだ、ボクは――。

 こんなのは八つ当たりもいいところだ。伴奏はタスク自身まんざらでもなかったのに。

「……ごめん」

 タイチが謝る。
 その言葉に、途端にタスクの怒りは冷めた。
 同時に、言いようのない罪悪感が胸に押し寄せる。

「今日のボクは機嫌が悪いんだ。そっとしておいてくれ……」

 また本心とは違う言葉が口を突く。
 今タスクが言わなければいけないのは絶対にこの言葉じゃない。

「機嫌がいいタスクなんて見たことないけどな。十年間付き合ってきて」

 タイチは笑って言う。
 タスクはこいつ、とタイチの頭を小突いた。
 タイチは避けるでもなく殴られて、へへと笑う。
 タスクはそれで何だかいつも通りになった気がした。

「でも、タスクなんであんな場所でいきなり沸騰しちゃうわけ? 怒りだすタイミングおかしいぞ」

 タイチは何の気なしにそう言った。タスクはその言葉に戸惑う。

「気にするなって言ったじゃないか」

「言ってないだろ。タスクがしゃべるなって言ったから何も言わなかっただろ。オレ偉い」

 タイチはエッヘンと言わんばかりに胸を張る。
 嘘を言っている風ではない。
 からかっているわけでもなさそうだった。
 でも確かにタスクはその声を聞いた。はっきりと聞こえた。

「幻聴でも聞こえるようになったのか?」

「うるさい。ボクは傷ついているんだ」

「おーおー可哀想に。良ければオレの胸を貸すぞ。たんとお泣き」

 胸を広げるタイチの鳩尾にタスクは手刀を繰り出す。
 タイチはうぐ、とカエルのような声を出した。
 幻聴――だったのだろうか。そうなのかもしれない。
 夢と現実の区別さえ曖昧なのだ。
 でも、あの言葉は確かにタスクの耳に届いたと思う。
 本物の声のように、外側から。

「今日はいつにも増して暴力的じゃないか。よっぽど鬱憤がたまってるんだな。性の抑圧は体に良くないぞ」

「余計な御世話だ」

 タスクはタイチの頭に手刀を繰り出す。
 タイチはひらりと身をかわした。
 そして、走り去るように玄関をくぐり抜けた。
 タスクもそれを追うようにしてようやく学校に入っていった。
 タスクが下駄箱で靴を脱いでいると校内放送が流れた。

『生徒会から放送です。臨時のクラス委員集会を開きます。各クラス委員は至急生徒会室に集まってください。繰り返します――』

 タスクはついてないな、と思った。
 タイチは何だろな、ととぼけた顔をしている。

「そういうわけだから。行ってくる」

 タスクはタイチにそう言って、教室とは真逆の生徒会室へと歩いて行った。

The Suicide meets The Moratorium

2013.09.02.[Edit]
【月曜日】1――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。 梅雨の晴れ間。 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。 寝坊...

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 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。
 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。
 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。
 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。
 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。
 
 クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。
 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。
 漢字で篠塚蜻蛉(シノヅカ トンボ)と書く。当然だが女子である。
 しかし女子にしては珍しいほどに短い刈り込んだ髪形で、体格もいい。
 見た目と名前だけで男と勘違いする人も多い。
 女の子らしく見えるのは精々、下まつ毛が長めで目がパッチリしていることくらいか。

 トンボは、性格も男勝りな部分が強い。
 今時珍しくないかもしれないが、自分のことをボクという。
 明るく一本気で、考えなしだがやることはやる性格だった。
 トンボは立候補してこの面倒なクラス委員になったツワモノだ。
 クラスでも一目置かれているし、人気者だった。
 
 生徒会室のドアを開けると部屋の中にはすでに全員が揃っているようだった。
 タスクが最後だったらしい。
 別段のんびりしていたつもりはないが、それでも何となく気まずい。
 部屋の教壇に立っているカイコの姿を見て、さらに気まずい気持ちになった。
 正直今日は顔を合わせづらい。
 タスクは少し体をかがめながら、トンボの隣の席に座った。

「これで、全員かな。諸君」

 諸君、なんて日常的に口にするのは多分タスクの人生の中でこの人だけだろう。
 上は半そでのブラウス、下は赤茶色のプリーツのスカート。
 襟もとはボタンを一番上まで詰めてリボンのタイで飾っている。
 髪の毛は艶やかに黒く、前髪は左に流し、耳元で金の蝶を模したピンで留めている。
 これが生徒会長――蝶野蚕(チョウノ カイコ)の標準的な服装だった。
 どこかの制服のように見えるが私服である。

「今日集まってもらったのはちょっとしたトラブルが原因であることを先に言っておこう。この学校の近辺で不審者が出没していると、警察から直接学校に通告があった」

 タスクはぎくりとした。
――まさか、だって、昨日のことは夢だったはず。
 だから今日自分はちゃんと家のベッドで寝ていたし。
 昨日学校でやったことは、全部夢の中の出来事のはず。
 そんなタスクの心境に構わずカイコは続ける。

「学校としてはこれに対応しないわけにはいかない。そこで今後しばらく、学校終了後、五時以降の生徒の居残りを禁止する。部活、生徒会、その他あらゆる理由での居残りを認めない。とにかく学校としては五時までに全生徒の完全下校を行う」

 カイコがそう言い切ると、教室の中はざわついた。
 当然である。
 もうすぐ夏で、野球部は甲子園予選もあるし、運動部は練習の盛りを迎える時期だった。
 異議があります、と真っ先に手を挙げたのはトンボだった。

「発言を認めよう、篠塚君」

「陸上部は来週末金曜日から大会を控えている重要な時期です。この時期に部活を行えないのは大きなハンディキャップになります。不審者の出没というだけでその対処はやりすぎではないでしょうか」

「発言はもっともだし、私もこれは特に運動部に対して大きなデメリットをもたらすものだということは重々承知している。だが、この措置は警察からの勧告に対し学校側が決めたものであり、我々としてはその決定に口をはさむ権限を持たない」

「続けて言います。学校側と生徒側の意見が対立した際にその仲裁を行うのが生徒会の役割だと、生徒会憲章にあります。だとしたら、ボクたちはここで生徒側の権利を守るために学校側と交渉するのが役割ではないでしょうか」

 トンボは食い下がらずさらに追及を続ける。
 カイコは持っていた蛇の目の紋の扇子で口元を隠しながら答えた。

「それももっともな意見だが、今回は学校側に従うことが、生徒にとって何よりも守らなければならない最善の利益を保護することにつながると確信している」

「何が出たんですか」

 トンボが問う。カイコはこれに不快そうに少し眉をひそめた。

「ただの不審者じゃないはずです。こんな対応は。一体何があったんですか。答えてください、蝶野会長」

「……」

 カイコは答えなかった。
 ただじりじりと不快感で相手を焦がすようなまなざしでトンボの目を見つめ返す。
 トンボはそれにも動じず視線をカイコからそらさなかった。

 タスクはその物々しい空気に耐えられず、携帯をいじろうと思った。
 要するにこの現状から逃避することを選んだのだ。
 ポケットに手を突っ込むと、何か携帯以外のものに手が触れた。
 タスクは不審に思ってそれを取り出す。

 タスクの手に握られていたのは銀色のライターだった。
 確かジッポーライターとかいう奴だ。
 でもどうしてこんなものがタスクのポケットに入っているのだろう。
 タスクも含めてタスクの家にタバコを吸う人間はいない。
 こんなものを拾った覚えも――。
 
 それに思い至った瞬間、タスクはヒュ、と息を飲んだ。
 そして机とイスを突き飛ばす勢いで立ち上がる。
 実際に机は前の席にぶつかった。座っていた男子がタスクを睨む。
 イスは勢い良く床に叩きつけられて、大きな音を立てた。

 教室中の視線がタスクに集まる。
 カイコも、トンボも、誰もが唖然とした顔をしていた。

「何事かね、坂崎君?」

 カイコが問う。

――どうしたんだろう。ボクは一体、どうしてしまったんだろう。
 そうだ、あの時だ。屋上から飛び降りて、その後。
『何か』を見た気がする。そして、このライターを掴んだ。

「篠塚君、すまんが坂崎君を保健室に送ってきてくれないか。顔が真っ青だ」

 トンボはキッとカイコを睨む。
 それは体よくこの空間からトンボを排除するための口実だったからだ。
 しかしそれでもトンボはそれに従った。そうする以外になかった。
 タスクはトンボに伴われて保健室に向かう。

 その間のことはタスクの記憶にはない。
 タスクの頭の中には、どうなったんだという疑問が飽和していた。

――ボクはあの後どうなったんだ。ピアノの失敗の後。
 ボクは、学校で、七色不思議の儀式を実行した。
 学校中を墨だらけの靴で歩いて。鏡にオレンジの絵具で落書きをして。
 でも途中で警報が鳴って逃げた。その後。

――誰もいないビルの屋上に上って、その後。

――飛び降りた。
 周りは真っ暗で、遠くに街の明かりが星のようで。
 風がなかったら宇宙だと思っただろう。無重力空間だと。
 内臓はふわりと浮き上がって。一瞬で一生を振り返った。
 そして、激痛が全身を襲った。その後。

 死を感じた。死ぬと思った。
 実際に――死んだ。死んだはずだ。
 後頭部から地面にぶつかって。
 その後ゆっくりと体が折れ曲がった。そして、その後。
 何かを見た。何かとても、恐ろしいものを。
 そしてこのライターを掴んだ。

――あれは確か。

――ボクは一体、どうしていた。どうなっていた。

Zippo lighter: the evidence of suicide

2013.09.02.[Edit]
 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。  クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。 ...

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 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。
 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。
 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。
 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。
 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。
 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の吉沢颯(ヨシザワ ハヤテ)が立っている。
 ならばカイコはこの部屋にまだいる。おそらく後ろを向いたその椅子に。
 トンボは迷いのない足取りでつかつかと机の前に向かう。
 声をかけようとしたその時、いきなり椅子が前を向いた。

「坂崎君はどうだった?」

 トンボが言うより早く、カイコが質問した。
 トンボは口まで出かかった言葉を飲み込むしかない。
 それが蝶野カイコという女の話し方だった。
 ことこういう場面では、カイコは常に相手のペースを飲む。

「国栖先生に任せました。タスクは心ここに非ずと言う感じでした。それで――」

「何が、出たか、と言うことだろう?」

 トンボが先を言う前にカイコが続けた。
 カイコは広げた扇子で口元を覆いながら試すような視線でトンボを見つめた。
 おそらく隠した口元は笑っている。トンボは少しイライラしていた。

「君にだけは本当のことを言っておこう。――吸血ジャックだ」

 ぴしゃりと扇子を閉じてカイコはそう言った。
 その名前にトンボは一瞬動揺する。
 それは、その名前は、吸血ジャックは――。

――連続猟奇殺人鬼、吸血ジャック。
 闇に隠れて人を襲い、殺してその死体を恐ろしく残虐な手段で『飾り付けて』見せびらかす。
 ある週刊誌がその煽り文句でこの殺人鬼を呼んだのがいつの間にか定着していた。
 確かすでに殺された人は見つかっているだけで九人。
 襲われてからくも生き延びた人はその倍はいるという。
 それだけの証言者がいながら、いまだ犯人は男性で、単独犯と言うことしかわかっておらず、正体は要として知れない都市伝説と化している犯罪者だった。
 トンボにとっては、忘れたくてもできない名前だった。

「いや、この言い方は正確ではないな。吸血ジャックの殺人なのではないか、と思われている痕跡が発見され、警察は周辺に警戒を呼び掛けていると言うべきか。本当のところはまだわかっていない。ただ、それが実際吸血ジャックだったなら、この学校は危険なのだ」

 わかるね、篠塚君――。
 カイコは静かに言って椅子から立ち上がる。
 ハヤテは無駄のない動作でその椅子をすぐに直し、自分とカイコの鞄を持った。

「カササギビル――そこで一人分の人間の致死量の血だまりだけが見つかっている。死体は見つかっていない。どのような方法でその血だまりを作ったのかもわかっていない。ただ、あまりに不審だし、何よりも去年のことがあるから、そういう判断がされた。いくら大会が近くても、居残りはダメだ。生徒会は生徒の命を何よりも優先する。――私はもうこの学校の生徒が死んだり殺されたりするところを見たくない」

 カイコはトンボの方を見ずにそう言いながら部屋を出る準備をしていた。
 そして、すれ違いざまに本当に小さく耳元で、すまない、とだけ呟いた。

「出るときは電気を消してくれたまえよ。急ぎたまえ、そろそろ一時間目の授業だ」

 カイコはトンボに背中を向けてそう言った。
 言葉が終わると同時にハヤテがドアを音もなく閉めた。

「間違っても――」

 ハヤテが閉め切る寸前でドアをぴたりと止める。
 カイコはその隙間からトンボの方を見ずに後ろを向いて続ける。

「間違っても、お兄さんのことと、去年この学校で起こっていたこと、そしてカササギビルのこと――他言してはならない。これは秘密だ、私と、君との。わかっているね」

 カイコがそれだけ言うと、ハヤテが完全にドアを閉めた。
 トンボはしばらくそのドアの方を見つめていた。
 吸血ジャックがまた出た。この近くで。
 兄を殺したあの殺人鬼が――。

 気がつくとトンボは握りこぶしを作っていた。その手の中がじんわりと汗で湿っている。
 始業五分前の予鈴が鳴った。
 トンボはそれを聞いて、慌てて荷物をまとめて生徒会室を後にした。

 タスクは、結局午前中はずっと保健室から戻ってこなかった。
 トンボは悶々としたものを抱えながら、そのままお昼休みを迎えた。

「トンちゃん、これから暇?」

 購買でパンを買おうとするトンボにタイチが声をかけてきた。
 その手にはカレーパンと焼きそばパンが握られていた。

「何?」

「タスクのお見舞い行こーよ。はい、好きな方選んでいーよ」

 じゃあ、とトンボは焼きそばパンを取る。

「珍しいな、タイチが人にパンを買うなんて」

「そう? 惚れ直した?」

 まさか、とトンボは笑った。惚れ直す以前に惚れてさえいない。
 ただ、タイチがトンボに好意を持っているのは確かなようで、ことあるごとにアプローチを受けているのは事実だった。
 初めこそ照れたりしていたが、二か月も経てばさすがに顔色一つ変えずに流せるようになるものだ。
 二人で並んでパンを食べながら廊下を歩いた。

「何だろーな、やっぱり昨日のこと気にしてんのかなー」

 タイチはカレーパンを口いっぱいに頬張りながら言う。

「昨日のこと?」

「うん、ほら、昨日、合唱部のコンクールで、タスク、伴奏やってたんだよ」

 ああ、とトンボは頷いた。
 確かそんな話をタスクに聞かされた覚えがある。
 本心か照れ隠しか、タスクがやたらと乗り気でないことを強調していたような。

「何かあったの?」

「ピアノ。上手くいかなくって。止まっちゃったんだよ。タスクにとってはきっと、すごくショックなことなんだろうな。多分それをまだ引きずってるんだと思う。昨日は終わり次第行方くらませちゃったくらいでさ、いつの間にか帰ってたみたいだけど。合唱部はそれでかなり迷惑したみたい」

 それでか、とトンボは朝のタスクの様子に納得した。
 カイコは確か合唱部の部長で、指揮者だったはずだ。
 顔を合わせづらい心境だったに違いない。
 とはいえ、それが理由で朝あんな風に唐突に具合を悪くするものだろうか。
 タイチは保健室に着くまでに食べちゃって、とトンボを急かした。
 腑に落ちないものを感じつつも、トンボはともかくパンを胃の中に詰め込んだ。

「失礼しまーす、坂崎君のお見舞いに来ましたー」

 保健室は開けた瞬間ひやりとした空気を感じるほど冷房が効いていた。

「あれ、どうしたんですか、国栖先生がタバコを吸ってないなんて。灰皿も空っぽじゃないですか。具合でも悪いんですか?」

 タイチもトンボも怪訝そうに顔を見合わせた。
 養護教諭の国栖は重症のヘビースモーカーで、校内は全て禁煙にもかかわらず、堂々と煙草を吸っていることで有名だった。
 いつものごとく、煙が霧のように充満しているかと思いきや、部屋に染みついたやに臭さ以外、たばこの残滓は全くない。

「お前な、学校は校内禁煙なんだから当たり前だろ」

「うわ、先生が自分から禁煙とか言い出すなんて。らしくないどころじゃないですよ。本当にどこか悪いんですか?」

 タイチは言いながら自分の額と国栖の額に手を当てて体温を比べる。
 国栖はそんなタイチに喧しいと渋面を作った。

 国栖は去年の四月末、養護教諭を務めていた女性教師が産休に入った折に、その代理で赴任し、その先生がそのまま寿退職してしまったので、彼もそのまま式部北高校の保健医として収まったらしい。
 口調は粗野で、態度も横柄なところがあるが、医師としての腕は確かで、ことさら性教育と称した猥談は男子から人気があったし、その辺は女子の中にも大人の魅力と称してうつつを抜かしている生徒も少なからずいる。

「お前ら、俺をおちょくりに来たんじゃねえだろ! 坂崎の見舞いなんだろ、ほらさっさと連れて帰れよこいつ。おう、坂崎、見舞いが来てるぞ、ちょっと開けるぞ」

 国栖はタスクの返事も構わずにベッドを仕切るカーテンを開けた。
 中から慌てたようにちょっと待って、と言う声が聞こえたが止める間もなくベッドの中に光が差す。
 その中を見て、トンボは慌てて後ろを向いた。

「うわうわ、ちょっと待ってって言ってるじゃないか!」

「何だぁ、坂崎、その格好は。なんかごそごそやってんなぁと思ってたら、お前、こんなところで」

 タスクは何故か全裸だった。
 ベッドの上でズボンもワイシャツも、下着さえも脱いで、その上から布団で体を隠している。
 顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。それはトンボも同様である。

「だから性の抑圧は体に悪いって言ってるのに……」

 タイチが呆れたように言うと、タスクは目に涙さえ浮かべて、違うって言ってるだろと大声で言った。
 とにかくカーテンを一度閉め、タスクが着替えるのを待った。
 数分して、タスクは顔を赤くしたままうつむいてカーテンから出てきた。

「何しに来たんだよ……」

 タスクは目線を下げたままぼそぼそと言った。

「お前なぁ、せっかく友達がお見舞いに来てやってるのに他にないわけ?」

「頼んだわけでもないよ……勝手に来たくせに」

 タスクの言葉にタイチは頭をがりがりとかいた。

「先生、こいつ大丈夫なの?」

「知らねーな。見たところ外傷はねえよ。精神的な問題なら俺は管轄外だし」

 国栖はパソコンで麻雀をやりながら興味なさそうに答えた。

「もう、ちゃんと仕事してくださいよ。タスク、お前大丈夫なら午後からは授業出ろよ」

「そうそう、松木の言う通り。つらいならさっさと帰るなり、平気ならさっさと授業行くなり、ずっと保健室にいられるのも迷惑なんだよ」

 国栖の言葉は到底保健室の先生とは思えない。
 そこが魅力だという人もいるのだが。
 タスクはその言葉に迷ったように唇を噛む。
 やがて小さな声で、先生、と国栖を呼んだ。

「……ボクの体、何ともありませんか? どこか折れてたり、欠けてたりしませんか? 本当にボクの体、ちゃんと元通りになってますか?」

 タイチもトンボもその言葉にタスクの方を向く。
 国栖も振り返って鋭い目つきをタスクの方に向けた。

「そりゃ、どういう意味だ? 何か体に異常が出る心当たりでもあんのか?」

「……信じてもらえないかもしれないけど、ボクは昨日、自殺したんです。ビルから飛び降りて、一度死んだはずなんです。首の骨が折れたのだって覚えてます。でも、ボクは今こうして生きてる。それが信じられなくて、裸になって体を確かめてたんです。先生、ボクはちゃんと生きてますよね?」

 タスクは真剣な様子で訴えた。その言葉に部屋は沈黙に包まれる。
 トンボは言葉の意味を計りかねた。タイチはわざとらしく大きな声で笑った。

「アーッハッハッハ! いくらショックだからって、その冗談はどうかと思うぞ、笑えないし……」

「松木」

 国栖が短くタイチを呼んだ。その声はさっきまでの軽薄で粗野なものではなかった。

「そこの衝立をここに持って来い。坂崎はここ座れ」

 国栖はパソコンをいじる手を止めて、雑然とした机からノートとペンを取り出した。
 タイチが衝立を二人の前に広げ、トンボからはその姿が見えなくなる。
 トンボはなるべく見ないよう、聞かないように隅の方にいた。
 しばらくすると二人がその向こうから出てきた。

「体に異常は見られないな。少なくとも触診では確認できない。で、何だ、その自殺か? 詳しい話を聞かせろ。何なら人払いをするが」

「あ、いえ、大丈夫です……」

 衝立から出てきたタスクは正面のテーブルの前に座った。
 対面して国栖が掛け、タイチとトンボは横に座る。

「昨日、何があった?」

「昨日は、みんな知っていると思うけど、全国高校合唱コンクールの埼玉地区予選があって、この学校の合唱部の伴奏者としてピアノを弾いていたんです。でも……」

 タスクはその先を言いよどむ。
 タイチの話では手痛い失敗をしたらしいが、それを認めて口に出すのはためらわれるようだった。
 そのことは国栖も知っているらしく、問題はその後からだろ、と促した。

「はい、ボクは多分、演奏が終わってステージを下りた後、動転してそのまま会場を抜け出して、全部なかったことになればいいと思って――学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行ったんです」

 タスクの言葉に、全員ぽかんとした顔を浮かべる。
 タイチは口を間抜けに開けていたし、トンボは何を言っているんだろうと思っていた。

「七色不思議って――お前あんなもん信じてるわけ?」

 タイチが呆れたように言う。
 トンボもその噂くらいは聞いたことがある。
 何でも美術室にある絵にこの学校の守り神みたいなものが描かれていて、それが夜な夜な抜け出しては悪戯をするとかいう話だ。
 それで確か、その守り神に願い事を叶えてもらうためにおびき出す儀式みたいなものもあって、タスクはそのことを言っているのだろう。

「具体的には、何をしたんだ?」

 いつになく、国栖は真剣な様子で聞いた。

「ボクは、学校に忍び込んで、上履きに墨汁をつけて黒い足跡を学校の廊下中につけて回って、オレンジ色の絵具で鏡に格子を嵌めるように縦横の線を引いたんです。そうすると、白いコートの女神は子ども達が悪戯をしていると思って絵から出てくるんです。そして、灰色の目隠しをして、もういいかいって叫ぶと、それが子どもの声だって思ってそっちに来るんです。そうやって女神をおびき寄せて、屋上まで行って、盗んできた鍵で屋上の扉を開けようとして、そこで警報が鳴りました。ボクは急いで逃げて、ああ、もうダメだともって――死のうとしたんです」

「死のうとした?」

「ビルから飛び降りようと思って高いビルに上って、フェンスもよじ登って、そしてボクは落ちたはずなんです。ちゃんと落ちた時の痛みも覚えてる! ボクは、死んだはずなんです!」

 タスクは声を荒らげて言った。国栖は落ち着けとタスクをなだめる。

「少なくとも俺の聞いてる範囲で、学校にそんな悪戯がされたってことは聞いてねえぞ」

「そうです。だからボクも夢だったんだって思ってたんです。コンクールのことは夢じゃないけど、その後のことは全部夢なんだって」

「夢じゃねえのか?」

 国栖がそう尋ねると、タスクはポケットからおずおずと何かを机の上に置いた。
 それは銀色のジッポーライターだった。

「ボクは死ぬ直前、飛び降りたビルの駐車場で、何か、とても怖いものを見たんです。その時、ボクは折れた手で、そこにあったこのライターに火を点けた。何を見たのか思い出せません。でもこのライターはボクのじゃない。ボクはライターなんか持ってないし、うちにタバコを吸う人もいません。これは、これがあるってことは、ボクが見たものが夢じゃないって証拠なんです」

 タスクは真剣な様子だった。
 それでも笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないかと怯えた顔をしていた。

「ねえタスク、そのビルって――」

 トンボは聞いた。何故か引っかかった。

「カササギビルだよ。ほら、北の住宅地にぽつんと立ってる……」

「それ――本当?」

「何だと?」

 タスクの答えにトンボと国栖は同時に反応した。
 おそらく同じものに思い至ったに違いない。
 タスクは二人の顔を驚いたように見比べた。

「うん、そこから飛び降りたんだよ……でも何?」

 タスクの問いに、トンボと国栖は顔を見合わせた。
 国栖は首を振って、トンボに話すよう促した。
 カイコに他言無用と言われたが、タスクの話が無関係には思えなかった。

「実は、カササギビルで、身元不明の、致死量の血だまりが発見されていて、大騒ぎになってる。朝、集会があったろ? 不審者とか言ってたけど、本当は吸血ジャックかもしれないからこんな大げさに居残り禁止とかしてるんだよ」

 タスクが行ったという自殺。それと前後して見つかったカササギビルの血だまりの後。
 関係がないわけがない――。トンボはそう思った。
 トンボがそれを言うと、不意にタスクが白目をむいた。
 かと思うとそのまま崩れるように床に倒れた。

「タスク――!」

 トンボとタイチが駆け寄るより早く、国栖がそばに座り肩に手を当て、声をかけた。

「松木ぃ! 救急車を呼べ! 篠塚は職員室から他の先生を呼んで来い!」

 言われるままにタイチもトンボも保健室を駆け出る。
 
 タスクはそのまま病院に搬送された。
 トンボは去って行く救急車を遠くから不安な心持で眺めていた。

「トンちゃん、もう授業が始まっちゃう」

 タイチが後ろからトンボの肩をたたいた。
 付き添いには国栖が行った。トンボはタスクのことが気がかりだった。

「大丈夫、タスクはああ見えてすんげぇしぶといから」

 タイチは多分、トンボを安心させるために笑って言った。
 トンボもそれが分かったから、うん、とそれに従った。
 救急車のサイレンが遠ざかっていく。
 その音は、あのクリスマスの朝に響いていたものと何一つ変わらない。
 兄が死んだあの朝も、トンボは中学校の道を走る救急車の音を聞いていた。
 あの時トンボは何一つ心配していなかった。
 
 でも本当は、何かに気付くべきだったのだ。
 その音は間違いなくトンボにとっては危険を知らせる警鐘だったのだから。
 今も、その同じ音が何かを告げている。
 きっと悪いことが起こる。それもトンボの予想をはるかに超えて。
 トンボはそんな不安を抱えたままタイチに背中を押されるように教室に戻った。

Infirmary: Moratorium and Dragonfly visit The Suicide

2013.09.02.[Edit]
3 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の...

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【火曜日】



 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。
 学校に行く気には到底なれなかった。

 当然、平日である。六月に祝日はない。
 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。
 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。
 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。

 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。
 搬送された時点で意識は取り戻していたが、付き添いの国栖が勧めたこともあり、一日精密検査を受けるために入院することになったのだ。
 レントゲンなどの検査は昨日のうちに済んでいた。
 今日はMRIや脳波測定など、タスクは一生受けることもないだろうと思っていた検査が行われる。
 それと合わせてこれまた一生受けることはないだろうと思っていたものがあった。
 カウンセラーによる精神鑑定のテストである。
 
 それは国栖が受けろと言ったものだったが、タスクは半ば自分からそれを受け入れた。
 確かに自分は精神を病んでいるのかもしれない。それもかなり深刻に。

『嫌だなぁ、ボクはそんなものじゃないよ。脳機能の障害なんかと同列視されるのは不快の極みだね』

 くすくす、くすくすと頭の中をくすぐるように笑い声がコロコロと移動する。
 それだけでタスクは気が狂いそうなほどもどかしい気持ちになる。
 今すぐに脳みそを取り出してきれいな水で洗って欲しいくらいだった。
 昨日、救急車の中でタスクの目を覚ましたのは救急隊員の呼びかけではない。
 この頭の中から聞こえる、得体のしれない何者かの笑い声だった。

 最初は聞き取れないほど小さかった声は、今は不快感を伴わなければきっと、タスクはそれが外からのものか区別できないほどはっきりと、大きなものになっていた。

『声』が笑う。
 タスクはベッドの中で思わず布団で頭を覆った。
 そんなことをしても頭の中からの声には全く無力なのに。
 それを見透かしたように声はさらに笑った。

――君は、誰だ。

『ボクは君、君はボク、ボクの名前は――』

 タスクはいつもそこから先を聞き取ることができなかった。
 それは何かに集中している時に聞こえている音が、耳には入っているけれど記憶に残らない感覚とよく似ていた。
 タスクはその言葉を聞き取っている。聞こえているのはわかる。
 でも理解できない。記憶に留めておけない。

『声』は頭の中で落胆したようにため息をついた。

『なんて掌握しにくい素体だろう。存在を同一化すればすぐに同調できると思っていたけど、まさか“認識”してもらわないとこちらとしての存在の体裁が保てないとは……。つくづく世界の乖離を思い知らされる。この世界は思う以上にずっと物質に依存しているんだ』

『声』はわけのわからないことをずっと呟き続けている。
 ただ、それはどうやら目的が達成できない不満であるようで、どうやらその目的はタスクにとって好ましくないことであることは確かなようだった。

「気が狂いそうだ……」

――いや、もうとっくに狂っているのかもしれない。 

「坂崎さん、検査ですよ。……大丈夫ですか? どこか痛いんですか?」

「……大丈夫、です」

 布団から顔を出すと、心配そうに覗き込む看護士と目があった。
 大丈夫なわけがない。自分はおかしいのだ。誰か気付いてくれ――。
 タスクは祈るような気持ちで視線にありったけの思いを込める。

「そう? 我慢しないで言ってね? 立てるかな?」

「はい……」

――視線で思いが伝われば苦労はない。
 あらゆることにおいて気持ちを正直に伝えられないことで悩むタスクが一番よくわかっていることだった。
 案の定看護士はそのままタスクにカルテを渡して検査の場所を案内するとそのまま行ってしまった。

『無理はしない方がいいよ、タスク』

 また声が頭の中を駆け巡った。タスクはその声を頭から引きずり出したくて、髪の毛をぐしゃりと掴んだ。
 もちろんそんなことをしても何の意味もないが。

『まだ見えないんだね。やっぱり相性が悪いのかなぁ』

 くすくすと笑う声に、タスクは黙れ、と頭の中で念じる。
 すると一旦は声の方は静かになる。
 それはつまりこの何者かが確かにタスクの内側に存在していることを示していた。
 念じるだけでは思いは伝わらないことは、さっきの看護士が示している。
 ならば念じることで通じるこの声は一体――。

「それを確かめるための検査なんだろ……」

 タスクは気を張るように自分の頬を両手で二度叩いた。
 そして検査室の受付に、カルテを出した。

 午後の検査が終わった時には、既に四時過ぎだった。
 結局異常も見つからなかったタスクは、このまま親が迎えに来たら帰る予定で、すでに着替えも終え、普段着を着ていた。
 相も変わらず雨は降り続いている。
 病院の中庭のアジサイは、きれいな青色をしていた。
 ぼんやりとそれを自販コーナーの前のソファに座って眺める。

 タスクは自分の経験や、幻聴に関しては医者に言うのを控えていた。
 いや、言えなかったというべきか。
 それを言うことで自分に何がされるのかを考えると怖かったのは事実だ。
 何か目に見える形ではっきりと、たとえば脳に異常が見つかるとか、あるいは心理検査で決定的な欠陥が見つかるとかすれば、言えたかもしれない。
 しかし、あいにくと言うべきか、幸いと言うべきか、そういうはっきりとした形での異常は、タスクには見られなかったのである。
 だからタスクは言えなかった。自殺のことも、『声』のことも。

「あれ? 坂崎じゃないか。どうしたんだ? どっか悪いのか?」

 そんな声に振り向いてみれば知り合いが立っていた。
 大柄なシルエット。
 短めのスポーツ刈りと、いかにも健康ですよと言わんばかりのがっしりした熱い胸板。
 小柄なタスクからするとずいぶんと背の高い、日に焼けた少年だった。
 右目の下の泣きぼくろは本人によるとトレードマークらしい。

「……桜木陽介(サクラギ ヨースケ)先輩」

「なんでフルネーム?」

「いえ、別に……何となく」

 ヨースケは式部北高校の陸上部所属の二年生である。
 タスクとは直接の交流はない。
 ただ、陸上部のトンボと、タイチと三人で一緒にいると、何故か世話を焼いてくれる。
 ファストフードなんかをおごってもらったことも一度や二度ではない。
 タスクの知り合いである。タスクが知っていて、相手もタスクのことを知っている。
 そんなことは当然なのに、どうしてだか確認するようにフルネームで呼んでしまった。
 自分は坂崎タスク、相手は桜木ヨースケ。
 タスクは確かめるようにヨースケの顔を見つめて、頭の中で何度かその名前を唱えた。

「大丈夫か、顔色悪いぞ?」

「ちょっと調子が悪くて、検査入院です」

「ああ、そう言えば昨日の救急車、坂崎が運ばれたんだって? どうせ日曜日の件が堪えてるんだろ?」

 いきなり図星をついてくる言葉に、タスクは思わずヨースケの顔を睨み付けた。
 この男もやはり――知っているのだ。
 ヨースケはといえば、別段責めるようでも嘲るようでもなかった。
 ただいつものように朗らかな春の太陽のような、明るい大きな笑みを浮かべていた。

「坂崎、もしかして、無理してない?」

「どういう……意味ですか」

 この男は――苦手だ。
 底抜けに明るくて、嫌になるくらいポジティブだ。
 人の心にもずかずかと入り込んでくる図々しさを持っている。
 正論ばかり言うし、目を背けていたいことにも強引に顔を向かせる。

「本当は、ピアノ、やりたくないんじゃないかと思って」

 タスクはその言葉に心臓を掴まれたような胸の苦しさを覚えた。

「そんなこと……」

 ありませんという言葉はついに口から出ることはなかった。

「あれぐらい気にすんな坂崎、俺は小学校の頃、運動会のリレーのアンカーで転んだ拍子にズボンとパンツが脱げてフルチンで走ったくらいだからな。しかもそのビデオを後で母さんに見せられるときの恥ずかしさと言えば、とても口で言い表せないぞ」

 ヨースケは明るい声で笑った。その声は無性にタスクの心をかき乱した。
 頭の中の『声』とは全く別の意味で、タスクの精神を踏みにじる。
 タスクの失敗は、そんな微笑ましいものと同列に語るべきことではないのだ。
 タスクにとって、そう扱われることはひどく腹立たしく思えた。

「坂崎?」

 名前を呼ばれてハッとする。
 考えれば考えるほどイライラするような気がした。
 これ以上この話題に触れられるのはよくない。

「……先輩は?」

「いや、俺は好きで……」

「いえ、なんで病院に? 練習で怪我でも?」

 タスクは半ば強引に話題を変えた。
 見たところヨースケはいつも通り、健康そのものといった様子だ。
 少なくともどこか悪いようには見えないし、トンボからそんな話を聞いた覚えもない。

「母さんの身体が弱くて、入院してるんだ」

 ヨースケは話題をそらされたことに構う様子もなく、素直に質問に答えた。
 ヨースケにしてみればこれは世間話で大した話題ではないのだ。
 それはそれで、自分のことがどうでもいいと言われているようで少し腹が立った。

「今はそのお見舞いの帰り」

「はぁ……それは、その、大変ですね」

 月並みなことを言いながら、聞かなければよかったと思った。
 ヨースケは見た目と同様に、何一つ歪んだところのない健やかな人生を送っていると思っていた。
 それだけに、親が入院しているというのは予想外で、タスクは何だか勝手に気まずい気分になった。

「最近はだいぶ落ち着いてきたからそうでも無いけどな」

 ヨースケはあっけらかんと答える。
 どうやらあまり気にしている様子はない。
 タスクはそれに少しだけ安心する。

「ヨースケぇ、おれもジュースほしい」

 突然、低い位置から声がした。
 ヨースケの少し後ろに男の子がヨースケの服の裾をぎゅっと握って立っている。
 歳は五歳くらいだろうか。背丈はヨースケの腰あたりまでしかない。
 あどけない無垢な顔立ちと、つむじのあたりの一房上を向いた髪の毛が可愛らしい。

「その子は……? 先輩の?」

 肌の色は真夏でもないのに、ほとんど焦げ茶色をしている。
 よほど外遊びが好きなのだろう。
 黄色い雨合羽に、同じ色の長靴を履いていた。
 自分が長靴など履いたのは、一体いつが最後だろう。
 もうきっとあの長靴は、タスクの足には入らない。

「ん? ああ、こいつは――知り合いの子で、ちょっとうちで面倒を見てるんだ。ジュースはまた今度な、ほら、タスクおにーちゃんだ、あいさつしな――」

「クロ……ト」

 ふいにタスクの口から言葉が漏れた。
 後から黒人(クロト)と書くのだと頭が理解する。
 ヨースケが怪訝な顔をする一方で、呼ばれた子どもは顔に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

「そうだよ! タスクおにーちゃん、こんにちは!」

「こ、こんにちは……黒人君」

「何だ? 二人は知り合いか?」

 ヨースケは意外といった表情で、タスクの方をまじまじと見ている。
 だが、タスクは驚いたなどと言ったものではない。

――知らない子どもだ。タスクに幼児の知り合いはいない。
 知らないはずだ、初めて会うはずだ。
 でもタスクは、この子どもの名前を知っていた。
 黒人なんて名前は聞いたことも見たこともない。
 それなのにわかった。直感した。一体何故――。 

「そーだよ! いつも一緒に遊んでもらったもん!」

――清流に魚が泳いでいる。裸んぼの子どもが楽しそうにそれを眺めている。
 きっとさっきまでそこで泳いでいたのだろう。
 ボクは後ろからその子に近付いてその体をふかふかの布で包む。
 甲高い笑い声が布の中で響いて、ボクはごしごしとその子の体を拭いていく。
 男の子がばあ、と布の中から顔を出した。黒人だ。そして、ボクは――。

 何だ、この記憶は――。それはタスクのものでは到底ありえない。
 タスクが知らない、経験したことのない記憶だった。
 でもその中に、黒人がはっきりと出てきている。
 黒人の笑顔、泣き顔、ふくれっ面。笑い声、泣き声、歓声、嬌声――。
 そんなものが溢れてタスクの記憶を圧迫する。

 里山の風景、薄桃色の花が咲き乱れる村、きれいな川があって、秋には森にたわわに木の実が実る、桃源の園――。

 タスクは大きくうつむいて頭を押さえた。ヨースケが怪訝そうに近づく。
 頭の中の声は、頭蓋を破るほどに大きく叫んで。
 それがタスクの中のタスクの人格を消していくようだった。

――ボクは誰だ。ボクハダレダボクハダレダボクハ――。

「ね、『ハイネ』」

 黒人が満面の笑みを浮かべて、名前を口にした。

「……ああ、そうだったね、黒人」

――灰音。

 そうだ、それがボクの名前だ。ボクは君だ。君はボクだ。ボクは、灰音。
 鴉のしもべ、十二の色の名を冠す鬼の一介――灰音。
 ボクはすっかり調子を戻して、黒人に笑いかけた。

「お、やっと笑った」

 ヨースケが言う。笑わないではいられなかった。
 それほどに誇らしく、すがすがしい気分だった。

「なんかずいぶんつらそうな顔してぜ? 『人間、笑ってる方が楽しいに決まってる!』ってな。病院の知り合いの爺さんの受け売りだけどさ、やっぱ笑った方がいいぞ」

 笑った方がいい、か。
 確かに『坂崎タスク』のように陰気を振りまいて過ごすよりはよほど周りに与える印象はいいだろう。
 人間はどうやら、しかめっ面をしている人間には警戒心を示すらしい。
 ならば笑顔はそれを解く意味でも大切なものだ。

「……ありがとうございます」

「ん? 俺、何かしたか?」

 ヨースケは不思議そうに首を傾げた。
 この男は自分が何をしたのか、『坂崎タスク』にとって何を導いたのかわかっていないだろう。
 黒人自身さえ、よくわかっていないと思う。それを考えるには黒人はあまりに幼い。
 それでもこのヨースケの出会いが、ボクの意識の構築の一助になったのは間違いない。
 おかげで――タスクを掌握することができた。

「よくわかんないけど……ま、元気が出たんならいいや。早いとこ学校来いよ、トンボが寂しがってる」

 にしし、と笑いながら「家まで競争だ!」とヨースケと黒人は帰っていった。
 どうやら黒人はあの契約者と友好的な関係を作っているようだ。
 そういうやり方は確かに意味がある。
 この世界における主体が、ボク達ではなく人間やこの世界の生き物にある以上、契約者の主体性は残しておいた方が、都合がいい面も多々あるだろう。

 でもボクはそういう悠長なことはしてられない。
 一刻も早く鬼としての本分を全うしなければならない。
 人柱を立て、その命を鴉のために捧げなければ。
 もう相手は決まっている。坂崎タスクの幼馴染、松木タイチだ。
 一日タスクの中に入って、学校には非常に強力な結界が張ってあることに気付いた。
 あの中ではボクたちは存在していられない。
 でも焦る必要はない。タスクとタイチの距離は、ごくごく近いものだ。
 殺す機会はいくらでも訪れる。
 人間の分際で世界の理の領域に足を踏み入れたならず者――あの、松木を。その子孫を。

Hospital: The Sun and Black wake up Gray in Suicide

2013.09.02.[Edit]
【火曜日】1 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。 学校に行く気には到底なれなかった。 当然、平日である。六月に祝日はない。 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。 搬送...

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――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。

 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。
 ホームルームの進行と学級日誌の編集。
 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。
 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。

 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当を作ってきてくれているのは事実だった。
 もともとタスクは誰かに料理を振る舞うことが好きらしい。
 家でも朝食と夕食、そして弁当をいつも家族の分作っているそうだ。

 基本的に高校に給食はない。
 そんな中、万年金欠のタイチは昼食も食べずにお金を節約していた。
 その様子を心配したタスクが、タイチの分の弁当を持ってくるようになった。
 ちょうどその頃、トンボが風邪で欠席した時、タスクは家を訪ねてくれた。
 それはそれで一つ笑い話があったのだが、それ以来、タスクはトンボがいつも菓子パンばかり食べているから体調を崩すのだと、トンボにまで弁当を作ってくれるようになった。

 だからタスクがいない今日のような日は、トンボはパンを買わざるを得ない。
 タイチはそれならお金がもったいないと、何も食べないことが多かった。
 それから考えれば、昨日のことはタイチにしてみれば破格の好意だったかもしれない。
 何しろ自分ののみならず、トンボの分までパンを買ってくれていたのだから。

――お弁当だよ、トンボ。

 ふ、と耳に懐かしい声をトンボは思い出していた。
 遠足の時、お花見に行く時、必ずお弁当を作ってくれた、懐かしい兄の声。
 トンボは兄のお弁当が大好きだった。
 思えばタスクの料理はどこか、兄の料理によく似ている。
 特に卵焼きが、毎回中身にそぼろやホウレンソウを巻くところは全く一緒だった。
 もう二日、タスクの弁当を食べていない。
 トンボは日誌を閉じ、わきに置いた鞄を机の上にあげた。
 本当にタスクは、大丈夫なのだろうか。

「トーンちゃーん! あ、いた」

 そんな風に黄昏ている所に間抜けな声が響き、乱暴にドアが開けられた。
 タイチだった。

「ねえタイチ、そのトンちゃんって言うのやめてくれないか?」

「え? 何故に?」

「何かその……恥ずかしいじゃないか」

 トンボが言いにくそうに、その浅黒い肌がほんのりと染めながら言った。
 それを見たタイチは腹を抱えて笑った。

「な、何だよ! そんなに笑うところじゃないだろ!」

 トンボはただそのあだ名が、何とも子供じみていると言いたかっただけである。
 大体クラスの男子も女子も篠塚、あるいは篠塚さんと呼ぶ。
 親しい陸上部などではトンボと呼び捨てにされることも多いが、トンちゃんとちゃん付けで呼ぶのは学校ではタイチだけで、学校の外でも姉だけが使う呼び方だった。
 さすがに十五歳にもなって、ちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしいものがある。

「いや、トンちゃんかわいいなって」

「なっ」

 その言葉になおもトンボは赤面する。
 するとタイチはまた声をあげて笑う。
 どうやらトンボの顔が赤くなるということが、タイチには面白いらしい。
 いい加減腹立たしいので、タスクがいつもするようにタイチの後ろ髪を引っ張ってやる。

「痛いいたい。もうひどいなぁトンちゃん。ここはたまたまの次に大事なところなんだから優しくしてほしいよ」

「た、たまたまって……」

 さりげなく下ネタを混ぜてくるタイチに三度赤面する。
 またもやタイチは大笑いした。
 さすがに悔しくなって張り手でもくらわそうと思った時である。

「やれやれ、楽しいのは結構なんだがね」

「……あ、……会長」

 ドアの前に立つ女子は蛇の目の紋が入った扇子で優雅に口元を隠しながら、くすりとその向こう側で笑い声を漏らした。
 生徒会長の蝶野カイコだった。バカにされたようで、トンボは少し腹が立った。

「五時には完全に帰宅するよう、指示を出したはずだが。はて、率先して生徒の規範となるべきクラス委員がその禁を破っているとは。あまつさえその理由が男子生徒と談笑にふけっていたから、なんて。少々落胆させられたかな、君はもう少し、模範的な人間だと思っていたのだが、篠塚君」

 顔を背け目を伏して、芝居っ気たっぷりに扇子の後ろでカイコはため息を吐きながらトンボ達の方に歩み寄った。

「今、学級日誌を……」

 提出しに行こうとしたところです、と言おうとした先に、トンボの眼前にカイコは扇子を突きつけた。
 トンボは言うに言えずに言葉を飲み込む。

「一年五組の学級日誌、確かに私が預かった。しかし、今後は休み時間内に仕上げておきたまえ。クラス委員であれ、学級日誌を残すためであれ、居残りは禁止だ」

 カイコは扇子を降ろしてトンボから少し強引に学級日誌を取る。
 最初から渡すつもりだったのに、無理に奪われたようで、トンボは気分を害した。

「坂崎君は休みか。ああ、そうだ、篠塚君。明日彼が学校に来たら、お昼休みに生徒会室に来るように伝えておいてくれないか。話があるのでね」

「ご自分で……」

 お伝えになっては、という前にカイコはトンボの顔の前に扇子を広げた。
 二つの蛇の目が睨むようにトンボを射すくめる。

「くれぐれも、頼んだよ。では用が済んだら早々に帰りたまえ」

 囁くように言って、カイコはさっと後ろを向き、そのまま部屋を出ていく。
 背後に従っているハヤテは静かにそのドアを閉めた。

「生徒会長、蝶野カイコ。……何だか芝居がかった人だなぁ」

 その様子をぽかんと見ていたタイチが零した。
 芝居がかった、じゃなくて芝居なのだ。
 トンボは少なからず一年前のカイコを知っている。
 兄が生徒会の会計で、カイコが書記だったからだ。
 それ以前に兄とカイコは幼馴染だった。
 そして、トンボの記憶に残るカイコという女は、ああいった性格ではなかった。
 彼女は豹変した。おそらくちょうど、兄が死んだ時期から。

「いや、あの人の言う通りだ。早く帰ろう」

 一刻も早く、あの女がいる場所から離れよう。
 それだけを考えてトンボはつかつかと廊下を歩いた。
 タイチがやかましく何かを話しかけていたが、適当に返して中身までは意識しない。
 いつも兄のそばにいた蝶野カイコ。兄の隣で所在無げにおどおどしていた女。
――兄を救えたかもしれないのに、みすみす救えなかった女。
 トンボはカイコのことが嫌いだった。
 もしかしたらその嫌悪感は自分に向けられるべきものだったかもしれなかったけれど。

「トンちゃーん、もう、何ぷりぷりしてんだよ」

 トンボはぷりぷりしてないとそっけなく言って速足で道を歩く。
 雨上がりの夕焼けは怖いくらいに真っ赤だった。
 道にはあちこち水たまりができていて、いちいちトンボの進路をふさぐ。
 またいだりよけたりしているから、さっさと通り過ぎたいのにちっとも思うように進めない。
 十字路を通り過ぎようとしたときにタイチが唐突に手を握った。
 この道をまっすぐ行くと駅前に出る。
 左に曲がるとトンボの家の方に、右に曲がると例のカササギビルがある北市街に続く。

「こっちだよトンちゃん」

 トンボの手を掴んで、トンボの家とは逆歩行にタイチは曲がり角を右に曲がる。

「タスクのお見舞いだろ?」

 タイチがそう言うのを聞いてトンボは思い出した。
 今まで頭に血が上っていて、目的を忘れていた。
 トンボの鞄にはリンゴが入っている。姉が持たせたものだ。
 お見舞いにはリンゴよね、と。

 思い出してぼーっとしているうちに、タイチはトンボの手を引いて走り出していた。
 水たまりもぬかるみもお構いなしで、まっしぐらに病院に向かう。
 着いたころには二人とも靴と言わず、ズボンが泥だらけになっていた。

 受付で病室を尋ねようと思ったら、尋ねるまでもなくタスクを見つけた。
 会計前の椅子に座って、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。
 服装はパジャマや入院服ではなく、私服である。

「あれ、もう退院?」

「……松木、タイチ」

 挨拶もせずタイチはタスクに言った。
 タスクはタイチの顔をまじまじと見て、小さな声でその名を呼んだ。
 トンボは何かその様子に違和感を覚える。

「どこも、異常なかったんだろ? っていうか、本当は具合なんて悪くないんだろ」

 くすくす、くすくすとその音はどこから聞こえたものだろう。
 トンボはそれがタスクの口から、タスクが笑っているその声だと気付くのに時間がかかった。
 不思議に思うか思わないか――その刹那。
 タスクはこれまでにトンボが見たことのないひどく歪な笑みを浮かべてタイチの喉を掴み、そのまま馬乗りに床に押し倒した。
 タスクが座っていたソファが弾かれて大きな音がした。足が一本折れて傾いている。
 周りの人が一様にそちらを向いた。みんな目を丸くしている。

「タスク! 何を……」

「くくぐぐぐ! ぐげげげげ! げぎゃぎゃぎゃぎゃ! 松木、タイチ! カラスを縛る、血脈の裔! 見ててよカラス! 見ててよみんな! 松木の子どもを、ボクが殺すよ! ぐげぎゃぎゃぎゃ!」

 タスクはトンボが聞いたことのない奇妙な声を出して、訳の分からないことを叫んだ。
 その手に青筋が浮き出るほどの力を込めて、タイチの喉を握り締める、いや、握りつぶそうとしていた。
 タイチは激しく足を動かし、タスクの腕を離そうと掴む。
 タイチの口からはあぶくが出ていた。
 トンボは実際に人が泡を吹く様子など初めて見た。
 その喉からはカエルの鳴き声のような音が聞こえていた。

「タスク! やめろ! 何やってるんだ!」

 トンボは慌ててタスクを引きはがそうとする。

「やめろタスク! ――痛っ!」

 途端に、その手に鋭い痛みが走った。思わず手を引いて、噛まれたのだと気付く。

「タスク……?」

 目の前のタスクは笑いながら、その喉からタスクの声とも思えないひび割れた音を喚かせながら、タイチを絞め殺そうとしている。
 そして両手が使えないからと、止めるトンボの手に噛みついた。
 その行動は絶対に正気の人間のすることではない。
 トンボは友人の豹変に慄然とした。

 恐怖に動けないトンボの隣を大きな影が横切った。
 トンボはそれに見覚えがあった。
 大人にも見劣りしない長身、隆々とした逞しい胸板、日に焼けた肌、そして、右目の下の泣きぼくろ――桜木ヨースケだった。陸上部の先輩の。

 ヨースケはいつの間にかできたタイチとタスクを囲む人ごみの中にいきなり割って表れたように走り出て、トンボが止める間もなくタスクのその顔に膝蹴りをブチ込んだ。
 会計のそばで女の人の悲鳴が上がる。
 多分タスクのお母さんの声だ、とトンボはどこか冷静に思った。

「タスクのおかーさん、ごめんなさい!」

 ヨースケはそちらも見ずに大きな声で言った。
 膝蹴りにタイチの首から手が離れたすきをヨースケは見逃さず、そのままタスクの襟首を掴んで床に叩きつけた。
 受け身だってまともに取れないタスクは頭からリノリウムの床にぶつかった。

「ヨースケ先輩! どうして……!」

「よぉトンボ、なーんか嫌な予感がしたから、戻って来たんだけど案の定だったな。俺にしてみればお前がどうしてって感じだけど、とりあえず松木を頼む。『アレ』はお前達の手に負えるものじゃない」

 言われてようやく気付いて、トンボはタイチに駆け寄った。
 タイチはうっすらと涙さえ浮かべて、大きく咳き込んでいた。
 長い髪の毛の乱れ方と、その首にくっきり残る手の後が、タスクがやったことの恐ろしさを物語っていた。
 トンボはとにかくその背を擦る。

「っげほ、げっほ、ごほごほ! っかは、はぁ……」

「大丈夫? タイチ、立てる?」

 トンボはタイチのそばに膝を立ててその体を起こすのを手伝った。
 その間も、視線は床に倒されたタスクから離すことができなかった。
 タスクは膝蹴りでしたたかに鼻を打ちつけたらしく、赤いものが滴っていた。

「ぐぐぎ、ぎぎぎ……」

 床から立ち上がることのできないタスクがヨースケの方を向いて手を伸ばした。
 苦しそうにもがいて、助けを求めるように。
 眉をしかめ、口をゆがめる――その顔が、ふっと笑った。
 その瞬間、トンボはわが目を疑った。タスクの体が、ほんの一瞬だが、燃えた。
 本当に一瞬、アニメーションに一コマだけ入れられた関係ない映像のように、それでもトンボの目は確かにとらえた。タスクの体を焼く、色彩のない灰色の炎を。

 しかし、次に気付いた時には炎は消えていた。
 消えていたのは炎だけではない。タスクの鼻血もなくなっていた。
 見間違いだったのだろうか、とトンボは思った。
 あまりのことに、自分も動転している。
 それははっきりとわかっていた。自分は今、冷静では決してない。 
 そしてタスクは、呆然とした顔で床から起き上がった。

「タイチ……? 篠塚? ……桜木先輩? 何、この人だかりは……? 何でみんな、こっちを見てるの?」

 タスクはとんちんかんなことを口にした。
 今しがたタスクが行った凶行は、ここにいる全ての人間がはっきり見ている。
 しかし、当の本人は本当に覚えがないように立ち上がってトンボ達に近付いてきた。
 その方向にいた人垣はタスクから逃げるように散らばる。
 座り込んだままのタイチとトンボ、そしてその前に立ちふさがるヨースケだけが残された。

 タイチもトンボも、思わず身構える。
 ヨースケは二人をかばうように、タスクの進路をふさぐように両手を広げた。
 タスクはその様子に足を止めた。

「何で二人ともそんな目でボクを見る? 一体これは……」

 タスクの顔は徐々に状況を理解し出したのか、怯えたように目が開いていく。
 その時、人垣を割って男の看護士がストレッチャーを引いてくるのが見えた。
 体格のいい男達が三人、タスクに近寄っていく。

「ダズグ!」

 タイチがまだ濁った声で叫んだ。

「逃げろ!」

 その言葉に弾かれたように、タスクは一目散に病院の入り口へ走って逃げだした。

「あ、君! 待ちなさい!」

 看護士が叫ぶ。一方でタイチの隣にも別の看護士が近づいていた。

「追うぞ、トンちゃん!」

 タイチは立ち上がり、看護師の手を避け、トンボの手を引いてタスクの後を追いかける。
 トンボは後ろを振り返って、ぽかんとしているヨースケに言った。

「先輩! あとのことよろしくお願いします」

 逃げ出した三人を、口を開けたまま見送ったヨースケは、改めてその場にざわめく人々を見た。
 その顔は困惑や不安、恐怖に歪んでいたり、または楽しそうな表情をしていたりと様々だったが、一様にヨースケの方を向いて、説明を求めるような顔をしていることでは同じような顔だった。

「えーっとぉ……」

 ヨースケは頭をぼりぼりと掻いて困ったように笑う。とりあえずヨースケは――。

「この度はみなさん、ご迷惑をおかけして、真にすみませんでした!」

 ひたすら謝り倒すことにした。

The Evil Gray: Why do The Sun and Black defend Moratorium?

2013.09.02.[Edit]
2――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。 ホームルームの進行と学級日誌の編集。 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当...

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 タスクはひたすらに走っていた。
 走りながら思い出していた。
『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。
 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。

 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。
 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。
 二人はタスクをどう思っただろう。
 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思われたに違いない。

――違う、あれはボクじゃない!

 誰が信じるだろう。タスクの意識が幽霊か何かに乗っ取られていただなんて。
 タスクは自分がどこにいるかなんて全く分からないまま、ただがむしゃらに走った。
 とにかく、誰もいない場所へ、誰にも見つからない所へ――。

 いつの間にかタスクは誰もいない街角に紛れていた。
 一軒家が並ぶ住宅街、家々を囲むのは灰色の塀だった。
 道路のアスファルトも灰色、電柱も、空に浮かぶ雲さえ青味がかった灰色をしていた。
 灰色に囲まれた道。その一角で足が、不意に止まる。
 そしてタスクは、ようやくそこがカササギビルの前であることに気付いた。
 住宅街は月曜日の朝に見つかった惨劇の痕跡に怯えているのか、人っ子一人いない。
 夕闇に浮かぶ大きな影はまるで墓石のようだった。

 タスクはフラフラとそのビルに近付いた。
 そしておそらく駐車場になっている一階の正面の入り口の前に立つ。
 そこはタスクが飛び降りて死んだまさにその場所のはずだった。
 血だまりが見つかったというのも、おそらくここだろう。
 しかしもう警察が後始末をしたのか、それらしい痕跡はどこにもなかった。

 タスクはその地面に跪き、手をついた。

「タスクー! はぁ、はぁ、タスク!」

 後ろから、息を切らしたタイチとトンボがやって来た。

「……死んだんだよ」

「え?」

「ここで死んだんだよ! 日曜日! ボクは、ここで、ここから飛び降りて、ここに落っこちて、死んだんだよ! 自殺したんだよっ!」

 タスクは大声で叫んだ。ダン、と地面を握りこぶしで叩き、頭をそこに打ち付ける。
 痛みが走る。こんなことをすれば、体が壊れてしまうと思った。

――いや、壊れてしまえ。壊れるべきなのだ。だってボクは、もう死んでいるんだから。

「これは何だ! どうしてボクは生きてるんだ! 頭の中の声は誰だ! お前はボクをどうしたいんだ!」

「止めなよタスク……」

 タイチは地面をたたき続けるタスクの腕を思わず掴んだ。
 タスクはそれに振り返り、タイチの顔を見ると、必死の形相で迫る。

「ああ、タイチ、さっきはごめん、あれはボクじゃないんだ、ボクの中にいる何かがボクの体を乗っ取って、でもひどいよな、怒ってるだろ、そうだタイチ、怒ってるならボクを殺してくれないか……」

「ちょ、タスク、落ち着けって……」

「落ち着け? どうして落ち着いてなんていられるか! こうしている今にも、ボクは君を、君達を、殺すかもしれないんだぞ! 早くボクを殺し――」

「止めろ、タスク」

 その声はトンボのものだった。
 しかし本物の男のように、低く、威圧するような声だった。
 タスクはトンボの顔を見上げる。
 トンボはその襟首を掴んで、無理やり立たせる。
 そして一発、タスクの頬を殴った。

「友達に、殺してなんて頼むな」

 押し殺すような声でトンボはそう言って、タスクの肩を思い切り抱きしめた。

「わかるよ、タスク。今、タスクの中で、とても恐ろしくて、でも誰にもわかってもらえない大変なことが起こってるんだろ」

 トンボの手がタスクの頭を撫でるように後ろに添えられている。

「苦しいんだろ、つらいんだろ。わかるよタスク。だって今のタスクは、普通じゃないから。思わずボクに噛みつくような、タイチの首を絞めるような、そんなタスクだったら絶対考えられないことを、させてしまう何かが、君の中にあるんだろ」

「う、……ふぐ……」

――わかるよ。
 その言葉をどれだけタスクは待ち望んでいただろう。
 言わなくては伝わらない。それは当然だがタスクには言えないことがたくさんあって。
 その言えないことを、誰かが分かってくれることをずっと待っていたのだ。

「大丈夫、わかってる。タスクにタイチやボクを殺させたりしない。友達に友達を殺させたりしない。そんなことは絶対にさせない。……だから、死ぬとか、殺して、なんて言わないでくれ。お願いだ」

「うぐ、うわああああぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁぁ……!」

 トンボに抱きしめられたまま、タスクは大声で泣いた。
 その時だった。

「危ない!」

 タイチのものでもタスクのものでもない男の声がビルの方から響き、直後に突っ立っていたタイチもろともトンボとタスクは誰かに強く突き飛ばされた。
 タスクはとっさに手をつきながら、上を見た。
 雨上がりのグロテスクなほど赤い夕焼けに、そこだけ空が欠けているかのように真っ暗なシルエットを浮かび上がらせるビル。その屋上から降ってくるフェンスを。

 幸いにしてタスクは今達突き飛ばされ、フェンスの落下方向から外れていた。
 その代わりというようにタスク達を突き飛ばした男がその下にいる。
 呆気ないほどに一瞬だった。
 次の瞬間には男の体に深々とフェンスの角が突き刺さっていた。

 男は死んでいるように見えた。
 肩甲骨の間を中心に背中に突き刺さって倒れたフェンスは心臓を、少なくとも肺を貫通しているように見えたし、何より男は呻きも動きもしなかった。

「何で、何で山下さんがここにいるんだよ……」

 その男の方へフラフラと近付いていくのはタイチだった。
 どうやらタイチはその男を知っているようだ――いや、タスクも知っている。
 タイチは彼を山下さんと呼んだ。タスクは薄暗がりに倒れるその体をあらためて見る。
 うつ伏せに付して顔は見えない。それでもその姿には確かに見覚えがあった。
 タイチは男のそばまで行くとその横に跪いてその顔に触れる。

「救急車だ……、タスク! 救急車を」

 タイチは縋るような声でタスクの方を振り返る。
 タスクは携帯を出そうとして、ポケットに手を突っ込む。
 その中に入っていた、携帯ではない冷たい金属がふとタスクの手に触れた。

「何やってるんだ、トンちゃんでもいいから、早く救急車を! まだ……まだ……!」

「ダメだタイチ。山下さんはもう……死んでる」

 タスクにはなぜかそれが間違いないことが理解できた。
 まだ助かるかもしれない――そんなことは微塵も考えられなかった。

「そんなのタスクが決めることじゃないだろ!」

「認めろタイチ! もうどんな医者でも、その人を助けられない……。わかってるんだろ」

 タスクがそういうと、タイチは叫ぶような声を張り上げた。
 タスクはその横に静かに歩み寄る。そして、ポケットからライターを取り出した。

「タスク……?」

 タイチが聞き返す間もなく、タスクはジッポーに火をつける。
 炎は何故か赤ではなく、灰色をしていた。

「医者には治せない。でも、これは。多分、この火は、このことを、無かったことにできる。これはきっと、そうやって使うものだ」

 タスクの中の、タスクのものではない知識がそう告げる。
 自分にはそれができると。死を、なかったことにできる。
 この灰色の炎は、そういうものなのだと、タスクの中の何かが教えてくれる。

 タスクはタイチが止めるより早く、その火を男の体に灯した。
 灰色の炎はあっという間に男の全身に燃え渡った。
 人体がこんなに簡単に燃えるはずがない。
 この炎が燃やしているのは体ではない。今この炎は死、そのものを焼いている。
 目の前の死を、なかったことにしている。何故かタスクはそう確信を持っていた。

 灰色の炎は勢い良く燃え上がり、そして一瞬で消えた。
 火が消えると同時に、男の体からは傷痕がなくなっていた。
 辺りに流れ出した血も、跡形もなく消えている。
 そして、男は小さく呻いて、目を、開けた。

「山下さん? 嘘……生きて……」

「――タイチ、僕は……、いや、死んだよ。死を感じた。そうでなくとも背中にフェンスが刺さったのを覚えている。僕は、今、何をされた?」

 男はタイチの手を借りて起き上がる。
 恐ろしく冷静に自分の身に起きたことを把握しているようだった。
 タイチは男にタスクがしたことを説明する。
 といっても、タイチにもトンボにも、そして多分タスク自身、自分が何をしたのか、完全には理解していなかった。
 そんな何もかもわからないタイチの説明を聞いても、男は何か理解したように頷く。

「なるほど、つまり――僕は生き返させられた、ということか。君がやったんだね、タスク君」

 タスクは、今度は取り返しのつかないことをしたかのように蒼白な顔をしていた。
 そして、消え入るほど小さな声で、はい、と微かに答える。

「助かった、というべきではないのだろうね。まあいい。なるべくしてなったことだ。タスク君、君はいつ死んだ?」

 男はタスクを責めるように詰問する。

「あの、あなたは……」

 言ったのはトンボだった。
 トンボのその問いに、タスクもタイチも、そしてその男もようやくトンボの存在を思い出したような顔をした。
 トンボは男を不審げに睨んでいた。
 青い半そでの開襟シャツに、黒いスラックス。服装のニュアンスだけならタイチに近い。
 長めの緩やかにうねる髪の毛は栗色に近く、暗い色のレンズの丸眼鏡をしていた。
 胡散臭い外見なのだ、この男は。
 タスクは小さいころから知っているからあまり違和感を覚えないが、初対面では恐ろしく怪しく見えるだろう。

「ああ、これは申し遅れましたね。僕は山下と言います。山下勝彦(ヤマシタ カツヒコ)巡査部長。式部市中央交差点派出所勤務の警察官、そして――」

 男は胸ポケットから警察手帳を広げながら、タイチの方を目で見やった。

「オレの保護者――みたいな人」

 タイチはうんざりしたように顔を手で覆って言う。

「保護者、みたいな人?」

「血縁上はタイチの母方の叔父に当たります。あなたのことはよく聞いてますよ。篠塚トンボさん」

「よ、余計なこと言わないでよ、山下さん!」

 タイチが上擦った声で叫ぶ。山下は肩をすくめてはいはい、と頷いた。

「タイチの両親は彼が小さい頃に死んでいてね。今日まで十年間、二人で生きていくにはそりゃあ並々ならぬ苦労があったわけだよ。当時僕は高校生だったし」

 山下は確か、まだ三十にもなっていないはずだった、とタスクは思い返す。
 トンボはお互いに突っつきあう山下とタイチを見ていた。
 トンボも幼くして両親を失い、姉と兄と、三人だけで生きてきたと聞いたことがある。
 もしかしたら、何かその境遇に、思うところがあったのかもしれない。

「で、何故君達がここに?」

「それよりも山下さんがここにいる方がおかしいでしょ。その格好ってことは、仕事じゃないんでしょ。手帳は持ってるけど」

 山下の問いには答えず、タイチが聞く。
 それは当然の疑問だった。現れたタイミングからして都合がよすぎる。

「趣味、ということでは納得してもらえないんだろうね」

 当たり前だっつーの、と頭の後ろで手を組んで言うタイチに山下はため息を漏らす。

「まあいい、いずれにせよこれは一つの事件、ことによれば殺人未遂かもしれない大問題だ。三人とも、ちょっとこれから交番に来ていただきます。そこでお話ししましょう。何故僕がここにいたのか――そして」

 山下は眼鏡をただした。
 沈む夕日がレンズに反射してきらりと光る。

「ここでフェンスを君達に向かって落とした犯人について」

 タスクは濃い色のついたレンズの後ろにある山下の眼光を見た。
 研いだ包丁のように鋭い輝きを浮かべる色素の薄いその目を。



「はい……はい、ええ、お願いします。そうしていただけるとこちらも助かります。ええ、お礼は必ず……はい、では」

 蝶野カイコは生徒会室のイスに深くもたれかかり、ため息をつきながら携帯を膝の上に置いた。
 それはカイコの身内の病院からの連絡だった。
 何でも式部北高校の生徒が病院で乱闘騒ぎを起こし、その当事者として桜木ヨースケという生徒を引き取っているが、ひたすら謝るばかりで話にならないという。

 その乱闘には入院していた坂崎タスクも関わっていたらしく、現在その行方が知れない。 
 とりあえずカイコはコネでその騒動は内密にしてもらうように願い出た。
 幸いにして理解のある院長の配慮によりそれは聞き入れられ、カイコはこれから病院に謝罪し、ヨースケの身柄を引き取りに向かう。

「ハヤテ」

「すでにこちらに着替えの準備ができております」

 カイコがその名を呼ぶと、その手に持ったハンガーにかかったカイコの制服一式をハヤテは示す。
 カイコはイスから立ち上がり、ハヤテの目もはばかることなく、ネクタイをほどき、ブラウスを脱いだ。
 白い肌に少し汗が浮いているのは部屋の蒸し暑さのせいか、それとも電話の内容に肝をつぶしたためだろうか。
 ハヤテは下着姿のカイコに乾いたタオルを差し出す。
 カイコは無言でそれを受け取り、手早く体を拭いた。
 その上から皺ひとつない半そでのワイシャツと灰色のブレザーを着て同じ色のプリーツのスカートを穿く。
 そして、校章が入った赤いネクタイを結ぶ。

 式部北高校の制服――一年前の惨劇以来着用の義務がなくなった呪われた衣だった。
 それでも高校生が礼装をしようと思ったら制服がある以上は制服を着ざるを得ない。
 手鏡を取り出し、髪の毛の乱れを直す。
 唇に薄くリップを塗り直し、最後にソックタッチを塗って左右のソックスを揃える。

「行くぞ」

 ハヤテは無言でカイコが脱いだ服を畳んで袋に入れ、それと自分とカイコの鞄を持ち、生徒会室のドアを開けた。
 そこにちょうど、白衣の男が通りかかる。養護教諭の国栖だった。

「おう、蝶野、お前、今帰りか? 何だその――」

「――何だその格好、何で制服なんか着てるんだ、ですか。ちょっとした雑事ですよ。生徒が少し、騒ぎを起こしたようですから。お礼参りです」

「桜木はごめんなさい以外のことを言わねーらしいぜ。よかったな、ちょうどお前さんの家の傘下の病院で。普通なら――」

 学校側にも内密にするよう院長と折り合いをつけたはずの話を、すでに国栖は知っているらしかった。
 カイコはそれでも顔色を変えずに国栖の言葉を遮る。

「――停学ものの騒動、でしょうね。病院での乱闘騒ぎ。ソファが一脚壊れたそうですから、不問に処すことはできないでしょう。でも、あいにく乱闘が起きた病院は小野学院大学付属病院で、騒ぎを起こした生徒はこの学校の生徒であり、そして蝶野カイコは現在その学校の生徒会長で、小野学院大学附属病院の所属する小野宮グループ総帥小野宮蓮穣の長女なんです。私は生徒会長として学生の権利を最大限に保護します。権力を使って事件をもみ消すことだって、必要なら躊躇しません」

 国栖はうつむいて肩を揺すって下品な笑い声をあげる。
 カイコはその様子に眉一つ動かさない。

「いやぁ、流石に――」

「――やることのスケールが違う、これだからお金持ちのお嬢様は。あなたに言われる筋合いはありませんよ国栖先生、いや、国栖栄一郎元総理のお孫さんの方が適当ですか。それより、その話はどこから?」

「ったく、いちいちこっちのセリフを先読みするお前さんのしゃべり方は気に障るぜ。なぁに、あの病院にゃ、医学部の知り合いがいるんだよ。俺は、友達は大切にするタイプだからな。――親友を見捨てたお前さんと違ってな」

 にたりと国栖が歯をむき出しにして笑う。
 その言葉を聞いた瞬間にカイコのまとう空気が変わった。

「――失礼します。急いでいるので」

 カイコは頭を一つ下げて、国栖の前を通り過ぎた。

「気ぃ付けろよ、辺りはもう暗くなってるからよぉ」

 国栖はカイコの方も見ずに大声を上げる。

「――吸血ジャックが出るぜ」

 聞こえない程の声でそう呟き、国栖もその場を去った。

Monochrome: The Fire burns up The Death

2013.09.02.[Edit]
3 タスクはひたすらに走っていた。 走りながら思い出していた。『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。 二人はタスクをどう思っただろう。 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思...

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 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。
 話によればそこが山下の勤務先らしい。
 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。
 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も多く、混み合っている。

 だからその派出所は、派出所という割には大きめの建物で、正面には式部市のゆるきゃらが警棒をかぶって交通安全のたすきをかけていた。
 山下が入ると、中にいた若い警察服の男性が驚いたような声をあげた。

「山さん、どうしたんですか? 今日は非番でしょう? 何か事件ですか」

「まあそんなところだね、ちょっと行き会いでばったり。調書を取るから奥を使わせてもらうよ。さあ、入って」

 山下が言いトンボ達は身の置き場に困ったようにおずおずと建物に入る。
 山下は奥へ、と指をさして示す。
 そのまま進んでいいものかと躊躇していると、タイチが先陣を切って進んだ。

「ほら、早く早く。お疲れ様です沢井さん」

「何だい、タイチ君が一緒ってことは――山さんもしかして、例の?」

 タイチが沢井と呼んだ若い警察は声を潜めて山下の耳元で言う。

「まあ、そうだろうね。大丈夫、君には迷惑かけないから。しばらく奥には誰も通さないでね」

 沢井は困ったようにため息をついて、はあいと子供のような返事をした。
 タイチの案内でトンボとタイチは派出所の奥の畳の部屋に通された。
 広さは四畳半ほど。真ん中にちゃぶ台があり、壁にテレビがかかっている。
 タイチは慣れた手つきで押入れから四つ座布団を出して、ちゃぶ台の周りに敷き、自分が一番奥の窓の前に座った。
 タスクとトンボはやはり迷うようにタイチの両脇に座る。
 そして入口に一番近い席に山下が腰を下ろした。
 いつの間に持っていたものか、その横に大きめのブリーフケースを置いた。

「では、改めて自己紹介をさせてもらおう。僕は埼玉県警式部市式部署中央交差点前派出所勤務の山下勝彦巡査部長です」

 山下は名刺入れから名刺を取り出し、タスクとトンボに差し出す。

「オレには?」

 タイチが不満そうに言うと、山下は苦笑して必要ないだろと答える。
 トンボはその名刺の肩書きに見慣れない単語を見つける。

「――霊能調査室、室長?」

 聞いたこともない部署だった。警察にそんな部署があるのだろうか。

「ん、ああ、まあ、ひとまずそれは置いておきましょう。すみませんが、一応これは先程のカササギビル――正式には小野宮建設株式会社所有のマユダマビルと言いますが、そこで起きたフェンス落下についての調書ということで記録させていただきます。失礼ですが、全員、お名前をフルネームで、生年月日、住所、職業を教えてください。それじゃあ、篠塚さんから」

「え、あ、はい、名前は篠塚蜻蛉、西暦2005年8月15日生まれ、十五歳です。住所は埼玉県式部市本郷423‐5 ラフォーレ式部202号室です。職業は、式部北高校一年生」

 山下はトンボが言うのとほとんど同じスピードで紙にトンボが言った内容を書いていく。
 そして次にタスクを指名した。

「坂崎亮、西暦2006年1月21日生まれ、同じく十五歳、埼玉県式部市小坂井382‐3 荻谷マンション805号室、職業も同じく北高一年生」

「山下さん、それオレも答えんの? 一緒に住んでるのに」

「君が答えたという事実は書類上重要なんだよ。いいから答えて」

「松木太一、西暦2005年4月10日生まれ、十六歳、埼玉県式部市上尾1874‐2 式部北高校一年生」

「式部北高校一年生、と。ありがとうございます。さて、本題に入る前に、僕が何故あの場に居合わせたのかという疑問から解消しておこう。月曜日に、カササギビルで騒動があった事件をご存知ですか?」

 山下の言葉に、タスクはピクリと身を震わせた。
 トンボはまたあの時のようにタスクがいきなり倒れるのではないかと心配になる。
 しかしタスクは机の上に置いた両手を不安げに組み直すにとどまった。

「確か、ボクは、人一人分の致死量の血だまりが見つかって、それを警察は吸血ジャックの犯行と判断し、周囲に警戒を呼び掛けていると聞いています。だから、北高でも放課後の居残りが禁止になって。陸上部は大会も近いのに」

 トンボが言うと、山下はフム、と自分の顔を鉛筆の頭でつついた。

「そこまで詳細に伝わっているのですか? 一応警察内部でも、この件に関して、吸血ジャックであるという判断は曖昧なまま可能性だけ残して捜査権は既に別の機関に移行し、外部に漏らさないように通達があったはずなんですが」

「あ、いえ、この話、実は、多分、ボクだけに特別に教えてくれたんです」

「ほう、それはどなたが?」

「蝶野、カイコ……生徒会長です」

「蝶野……ああ、彼女ですか」

 山下はその名前を聞くと、何かを考えるようにし、思い出したように言った。
 蝶野、ふうん、とその名前に何かあるようにしばらく繰り返しながら紙に何かを書き込む。

「彼女が、篠塚さんに特別に、教えてくれた、ということですか?」

「はい、あの、山下さんは、蝶野会長のこと、ご存じなんですか?」

「ええ、まあ、式部北は個性的な子が多いので」

「うわあ、聞いた? トンちゃん、警察の権力を使って女の子に目ぇつけてるんだって。トンちゃんも気をつけた方がいいよ。闇に隠れていきなりがばってこともあり得るから!」

 山下の言葉にタイチは下世話な解釈をしたようだった。
 山下は気にした風もなく、話を進める。
 無視されてタイチはやや憮然としているのがおかしかった。

「生徒会長は、いつそのお話を?」

「月曜日の朝、臨時のクラス委員会議が開かれて、その会議の最中ははぐらかした言い方で、会議が終わった後に話しかけて、そのことを聞きました」

「さすがに蝶野さんは動きが速いですね。警察がカササギビルの痕跡を発見したのが月曜日の午前三時、近隣学校には朝一番で勧告を出しましたが、それでもその朝に集会を開くとは。それに、その上で独自のルートでこの事件の公表されなかった部分を把握している、――優秀、というべきですかね」

 トンボは苦笑いをしてその言葉には賛同しなかった。
 実際カイコを優秀というのはトンボには躊躇いがある。

「ところで、タスク君とタイチは、今の話は――?」

「知ってます、月曜日のお昼休みに、保健室で……」

 答えたのはタスクだった。
 声ははっきりしていたが手は硬く組まれて、顔面は少し色を失っている。

「なるほど、しかし、それなら話は早い。実は、僕が今日あそこにいたのはまさしく、あそこで発見された痕跡というのが、真実吸血ジャックによるものかを調べていたからです。この件が吸血ジャック絡みの線があるということは、今のところ内密にしておかなければいけないことなんですが、知っているなら隠す必要もない」

「えっと、お仕事で?」

「ズバリ言うなら、趣味です」

 トンボの質問に山下は即答した。
 その答えにトンボはしばらく何も考えられなかった。
 タスクもタイチも何も言わず、空気が凍ったように場は静まり返った。

「えっと、それは――」

 トンボは何とか言葉を継ごうとした。
 山下はふ、と笑う。多分優しげな笑みを浮かべたのだと思うが、かけている丸いサングラスがその顔を恐ろしく怪しげな人物に見せていた。

「僕は、吸血ジャックの正体を追っていますが、それは警察としての職務ではありません。一派出所の巡査部長程度が調べることではない。僕は個人的にこの事件の真相を知りたいと思っているのです。ですから、鑑識がいなくなって、立ち入り禁止も解除された今日になってようやく現場に立ち入ることができました。何しろ個人で動いている以上この件に関して警察という肩書は使えませんからね。そして僕がビルを見聞している最中に、君達がやってきて、僕はしばらく影からその様子を見ていました。その時、屋上からフェンスが落ちてくるのが見え、咄嗟に君達を突き飛ばした、というわけです」

 さらりと言っているが――あの時確かにこの男は死んでいた。
 少なくともトンボにはそう見えたし、タスクもそう言った。

「……でも、山下さんは、警察官なんですよね。自分で捜査なんかしなくても、よくわかりませんけど、その、調書とか、見せてもらえばいいんじゃ?」

 トンボはおずおずと言った。
 山下を疑うわけではなかったが、信じられないのも事実だった。

「それができれば苦労はないんですがね、実は吸血ジャック事件は少し前からかなり厳格な秘匿捜査対象に移行したらしく、僕は今それを調べているのがどこの部署なのかも知りませんし、警察のデータベースに吸血ジャックの捜査ファイルは存在しない扱いになっているくらいです」

 山下が肩をすくめていうのに、トンボは戸惑いを覚える。
 データベースにファイルが存在しないとはどういうことだろう。

「つまり、この事件はデータベースからアクセスできない部分にその情報を収集し、これまであったデータも全てそちらに移行させたということでしょう。事実、表向きには吸血ジャック事件は今年の三月以降起こっていないことになっていますから」

 起こっていないことになっている――? トンボは山下の言葉を繰り返した。

「それらしい犯行は――、つまり今回のカササギビルのような、それと疑われるような犯行は各地で起きています。しかし、それらは全て、表面上は吸血ジャックのものとは関係ない事件として処理される。今回も篠塚さんは特別にそれを知った経緯がありましたが、この街の多くの人は、不審者が出たのだと思っているはずです。少なくとも警察はそういう勧告しか出していない。それに、マスコミも報道していないでしょう」

 そう言えばそうだ。
 吸血ジャックと言えば、一時期は新聞の一面を飾るような大事件だったのに。

「警察の捜査が秘匿捜査に移行すると同時に、マスコミにも大規模な報道管制が敷かれているようですね。――もっともこれは、あなたのお兄さん達の事件のせいかもしれませんが」

 山下の言葉に、今度はトンボがピクリと反応した。
 トンボは短く山下の名を呼ぶ。

「――まあそんなこんなで、僕がこの事件を追うためには、身を粉にして現場に赴き、自分の手と足と五感を使って調べざるを得ないということですね。ですから、信じられないことかもしれませんが、あの場に僕がいたのは本当に偶然なんです。しかし、君達の場合はどうでしょう」

 山下の声が少し下がった。

「君達三人は、あの場所で何をしていたんですか? ひょっとして、カササギビルの一件に関して、何か心当たりがあるのではありませんか?」

 トンボは目線だけ動かしてタスクの顔を見た。
 タスクはずっとうつむいて自分の組んだ手を見ている。
 タスクは手を見たまま言った。

「――言おう」

「タスク――!」

「隠していても始まらない。正直に言えば、警察の山下さんは、ボクを逮捕するかもしれない。病院でタイチを殺そうとしたのは事実だし。でも、もしかしたら、力になってくれるかもしれない。ううん、いや、逮捕されるなら、ボクはきっとその方がいいんだ。だってまた、いつ『あいつ』に乗っ取られて、タイチを殺しそうになるかわからないんだから」

 タスクは顔をあげた。その目は怯えているけれど、しっかりした意志が宿っていた。

「ボクの話を聞いてください――」

The Magician pursues Jack the Vampire

2013.09.02.[Edit]
4 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。 話によればそこが山下の勤務先らしい。 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も...

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――自殺、したんです。

 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。
 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。
 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。

「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」

 ああ、と山下は頷いた。

「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」

「はい……、コンクールの失敗がショックで……、なかったことにできればいいと思って、おまじないをしに学校に忍び込んだんです」

「ほう、おまじない、ですか」

 山下は興味深そうに眼鏡をあげた。
 タスクは小さくはい、と答える。

「七色不思議っていうのが、うちの学校には昔からあって。でも、途中で学校にいるのがばれて警報が鳴って、逃げ出したんです。それで、学校に忍び込んでいたこともばれたら、もうおしまいだと思って――ビルから飛び降りました」

「それは、君の記憶違いということは考えられないのですか?」

「記憶は――間違ってないと思います。間違っているのは現実の方なんです。ボクは確かに日曜日、学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行って、途中で警報が鳴って逃げ出して、その後にカササギビルの屋上から飛び降りたはずなんです。でも、学校で行った儀式の後も、ボクが自殺したという事実そのものも、なかったことになってるんです!」

 タスクの言葉は段々に大きな声になっていく。
 トンボが落ち着いて、と小声で言うがタスクにはほとんど聞こえていなかった。

「月曜日、ボクは起きた時は寝ぼけていて、生きてることを不思議にも思わず学校に行きました。その途中で日曜日のことを思い出して、でも今生きてるんだから、全部夢だったんだろうって、そう思って学校に行ったら、朝クラス委員の臨時集会が開かれて、そこでポケットから携帯を出そうと思ったら、その中に、これが、これがあって――」

 タスクは震える手で落としそうになりながら、山下にライターを差し出した。
 山下が問うまでもなく、タスクは興奮したまま続ける。

「このライターは、ボクがカササギビルから落ちた時、そこにあったものなんです。ボクは折れた手でこれを掴んで、それで――何かを見たと思うんです。でも思い出せなくて。でも、でも、このライターはボクのでも家族のでもないんです! ボクがこれを持ってるってことは、あの夢は、日曜日の出来事は、現実だったってことだから、それじゃあボクは、今のボクは一体何なんだって思って――」

「落ち着いてください、タスク君。タイチ、水を」

 タイチは言われるままに一旦部屋から出て、盆に水差しと湯呑を四つ乗せて戻ってきた。
 そして水差しの水を湯呑に注いで、タスクの前に置く。
 タスクは無言でそれを一気にあおり、ドン、と机に置いた。
 タイチは何も言わず二杯目を注ぎ足す。タスクはそれも一気に飲み干した。
 タイチは三倍目を注いで、それからトンボと山下にも水を勧めた。
 正直トンボはタスクを追いかけてから喉が渇いていたのでありがたかった。
 タスクは三倍目を半分ほど飲むと、湯呑を置いて、息を整えて話を続けた。

「気がついたら保健室で、ボクは自分の体を確認したんです。どこかに自殺して壊れたままの部分があるんじゃないか、いや、そもそもボクは幽霊で、足がないんじゃないかとか思って。でも、どこにも異常はなかったんです。そのうちにタイチと篠塚がお見舞いに来て、保健の先生にも見てもらったんですけど、やっぱりおかしいのは記憶だけで。その時に、篠塚から、カササギビルの事件のことを聞いたんです。ビルにあった血だまりは、ボクの血なんです! あの日、あそこで誰かが死んだなら、それはボク以外にはありえないんです! ――それで、その話を聞いた後、ボクは保健室で気を失ってしまったらしくて、そのまま救急車で病院に運ばれたんです」

「その病院は?」

「小野学院大学附属病院、カササギビルの近くの」

 山下は紙に素早く書き込み、続けてくださいとタスクを促した。

「それで、ボクは検査入院ということで、一日入院しました。その日の朝から、ボクの頭の中には、何かがいるんです」

「検査で何か異常が見つかったということですか?」

 違います、とタスクは首を振る。

「違うんです。検査では何も見つからなかったんです。そういう異常じゃなくて、頭の中から声がするんです。くすくす、くすくすって、頭の中に笑い袋があって、それが転がるみたいに。それで何かボクにはわからないことを言って、最初は小さかったのに、どんどん大きくなって――それでついに、ボクはその何かに、乗っ取られてしまったんです」

「乗っ取られた?」

 これ見て、と言ったのはタイチだった。上を向いて首を見せる。
 そこにはまだ赤黒い手の跡が残っていた。

「それは?」

「タスクにやられた」

 山下の質問にタイチはこともなげに答えた。
 タスクは即座にボクじゃない、と大声で言った。

「つまり、その頭の中にいる何者かに乗っ取られて、タイチを襲ってしまった、と?」

「――そうです。それで、ボクは恐ろしくなって病院から逃げ出して、いつの間にか、またカササギビルに来ていて、ボクはここで死んだんだって、じゃあ、今生きているボクは、タイチを殺そうとしたボクは、一体何なんだろう、何になってしまったんだろうって」

「それを止めたり励ましているうちに、山下さんがいきなりやって来たわけ」

 タイチがそう結ぶと、山下は、なるほど、と言ってまた鉛筆で自分の顎を突いた。

「で、どうすんの、こいつ」

 タイチは含みを持たせた言い方でタスクを顎でしゃくる。

「話を聞く限り、どうも山下さんの領分だと思うんだけど」

 タイチはにっと笑って言う。
その目は前髪の下で、わくわくしているような色をしていた。

「ああ、そうだね。僕も、何とはなしにそんな気はしていたんだ」
 
 山下もそれに含むところがあるように目を伏せて笑い返す。
 
「山下さん、タイチ?」

「どうやらこの事件は、霊能調査室の管轄に属するようだ」

 山下がサングラスを取って言う。サングラスはそのまま胸ポケットにしまった。
 メガネの下の目は、思いのほか怜悧で、刃物のような鋭さを持っていた。

「霊能――調査室、たしか、名刺にも書いてありましたね。何なんですか?」

 聞いたのはトンボだった。タスクは名刺の文字などほとんど見ていなかった。

「警察に存在する非公認の部署です。扱うのは主に心霊による犯罪。呪いによる殺人、憑き物による騒動、神隠しによる失踪、祟りによる災害――そんなものがあるわけない、と思っている人がほとんどでしょうが、実際こうしたものによる被害はことのほか多い。しかし、これらの存在は警察がその根拠となる法によって規定されている存在ではないので、公式には認めることはできません。だから、僕のような人間が、非公認にそれらの捜査を行い、場合によってはそれを駆逐する。霊能調査室はそういう被害専門の部署として、二年前に僕が作りました」

「――え? 山下さんが作ったんですか?」

「その通り」

 トンボはぽかんと口を開けて聞く。

「待ってください、この、霊能調査室は、警察は非公認、つまり、存在を認めてないんですよね」

「そうです」

「ってことは、山下さんが、個人の、独断で、勝手に、やってるだけなんですか?」

「そう言われると返す言葉がないのがつらいところですね。ええ、仰る通り。この組織は僕が個人的に、独断で、勝手に設立し、基本的に僕一人で運営しているのが現状です。部下や仲間がいるとは言えませんね。もちろん運営費も自費で行っています。おかげでタイチにはつらい思いをさせてしまっていますが」

 タイチが貧乏という理由は――そんなところにあったのか。
 これにはタスクも開いた口がふさがらなかった。

「それでも派出所の中では認められつつあります。最近は沢井君がこちらに相談してくれたり、部長も黙認していますから――」

「やめようタスク、帰ろう」

 トンボが強い調子で言った。そして答えを待たずに立ち上がる。

「飛んだ茶番だ。タスクは深刻なのに。タイチも見損なったよ。こんな冗談みたいなことを……」

 トンボはタスクを振り返った。タスクは相変わらず座り込んでいる。

「ほらタスク、帰ろう。今君に一番必要なのは――」

「――帰るなら、帰っていいよ」

 その言葉にトンボはタスクをじっと見つめた。
 タスクはやはり、自分の組んだままの手を見て、トンボの方は見ずに言う。

「ボクは、深刻なんだ。あの頭に響く『声』をどうにかしてくれるなら、非公認のなんちゃって組織だって構わない。ボクは、山下さんに調べてもらいたい。ボクは、ここに残るよ」

「タスク……!」

「帰るならどうぞ。この雨の中をお一人で帰るなら。確かご住所は本郷でしたね。ここからは、かなり距離がありますが」

 いつの間にか外は再び本降りの雨に見舞われていた。
 山下の言うように徒歩でここから家まではかなり遠い。
 そしてトンボには今手持ちの傘がない。
 トンボはやや憮然として座布団に座った。

「インチキみたいなことをしたら、止めてもタスクを連れて帰ります」

 トンボは強く山下に言う。
 結構ですよと山下は柔らかく笑った。

「まず、タスク君に憑いている存在の正体はほぼ特定できました。色鬼(シキ)という怪異です」

「シキ……?」

 タスクは繰り返した。色の鬼と書いてシキと読みます、と山下が言う。

「タスク君、君はどうやら本当に日曜日に死んでしまったようですね」

「何を!」

 トンボが思わず声を荒らげるのをタイチが制した。

「色鬼という怪異は、同じ読みで屍の鬼と字をあてられることもあります。屍とはつまり、死体のこと。色鬼とは畢竟、死体に取り憑いてそれを生き返らせ、周囲に害をなす怪異です。その点で言えば東欧の吸血鬼、中国のキョンシー、あるいはブードゥー教におけるゾンビなどと似ていると言えます。つまり、タスク君は実際日曜日にカササギビルで投身自殺を図り、一度死んで、その後に色鬼に憑かれ、蘇った」

「そんな馬鹿な……、だってタスクは――!」

 トンボが悲壮な声を上げたが、それもやはり黙殺される。

「そもそも色鬼の怪異というのは関西の山奥に伝わる非常に地方色の強いローカルな怪異です。僕もまさか、この街で出会うとは思わなかった。それとも、これはやはり吸血ジャックとの関わりがあると考えるべきなのかな」

 山下は独り言のように顎を触っていった。吸血ジャック、とトンボが聞く。

「吸血ジャックがなぜそう呼ばれているか、その理由はご存知ですか?」

 山下がトンボの方を見ながら言った。

「それは……、確か、見つかった死体は失血多量が原因で、あの切り裂きジャックみたいに夜陰に紛れて女性を襲うから」

 もっとも女性のみが対象だったのは本当に初期だけだったけれど。

「それが一般的な解釈ですね」

「違うんですか?」

「ええ、違います。吸血鬼の特徴の一つは血を吸うこと。これは篠塚さんが言ったように、死体から血が抜かれていたという指摘の通りです。しかし、吸血鬼にはもう一つその被害者に残す大きな特徴がある。吸血鬼に血を吸われた死体は、その後で生き返り人を襲う。吸血ジャックの被害者の特徴はその死亡推定時刻が常に被害者の生存が確認された時間より前、つまり、吸血ジャックに殺される前に被害者が死んでいたというありえない検死結果を伴うことです。吸血ジャックの被害者はみんな、蘇った死体であった可能性が高い。いや、こういうこともできる。『吸血ジャックは蘇った死者を殺すためにその死者を二度と生き返らないようにしている――』」

「そんなわけない!」

 トンボは両手でちゃぶ台を強く叩きつけた。

「これもタスクが真剣だからって我慢してたけど、もう耐えられない! 吸血ジャックは変態の恐ろしい殺人鬼で、その被害者は何の罪もない善良な人だ! 吸血ジャックが殺す前から死んでいたとか、でたらめを言うのもいい加減にしてくれ! ボクは帰る!」

 トンボはものすごい剣幕で山下に吐き捨てた。

「外は雨が――」

「知るか! 知ったことか! もうこんなところにいたくない! これ以上付き合い切れない! 帰るったら帰る! さよなら!」

「あなたのお兄さんが吸血ジャックに殺された、とは言っていませんよ、篠塚さん」

 山下が張りのある声で言った。
 トンボの動きがぴたりと止まる。

「……それ、どういう意味ですか」

 聞いたのはタスクだった。

「篠塚のお兄さんが殺されたって……どういうことですか? しかも、吸血ジャック? それも、……ボクの話に、関係あるんですか?」

「僕は大いに関係していると思っていますが。篠塚さん、あなたのお兄さんを殺した本当の犯人を探しているんじゃないですか? もしかしたらその人物は、もうあなたの身近にいるかもしれませんよ」

 トンボは振り返る。その顔にはすさまじい怒気がこもっていた。
 山下はその視線を受けても全くひるんだ様子を見せない。
 むしろ周りにいるタスクやタイチの方が気まずくなるほどだった。

「どうか座って話を聞いてくれませんか。吸血ジャックの真相を追う者の一人として、同じ志を持つ、いわば僕たちは仲間のようなものです」

「ボクが知りたいのは兄さんの死の真相と、タスクを元に戻す方法だ。……あんたが言う通りなら、ボクが知りたいのは吸血ジャックの正体じゃない。勝手に仲間にしないでください」

 それも結構、と山下は肩をすくめ、ため息交じりに言う。

「どうせあと三十分もすれば終わる話です。少しご辛抱願えませんか。僕としてもこの雨の中、傘も持たせずにに女の子を帰すのは忍びない」

 トンボは荷物をどさりと落として、座布団の上にドスンと座った。
 タスクはその様子に少し怯える。

「また幽霊とかそういう話を長々とするなら、今度こそ止めても帰りますよ」

 三度目はありませんよ――。山下はサングラスをただし、その手の下で静かに笑った。

Ghost Researcher

2013.09.02.[Edit]
5――自殺、したんです。 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」 ああ、と山下は頷いた。「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」「はい……、コンクールの失敗がショックで...

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「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」

 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。

「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」

 山下は薄く笑って答える。
 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。
 トンボにはこの男の真意が測れない。

「じゃあ――」

「あの」

 続けざまに真犯人について聞こうとするトンボの耳に、小さくタスクの声が聞こえた。

「話を邪魔するようで悪いんだけど……、式部北高校で、四人の生徒が殺害されている、って……何? そんなの、聞いたことないんだけど」

 おずおずというタスクを見て、トンボはしまったと思った。
 この事件は――この話は、知らない生徒には教えないようにカイコからも再三忠告されている事件だった。
 トンボは山下の顔を伺う。

「この際ですから、やむを得ないでしょう。それにタスク君は、もうその事件の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、彼に状況を説明する分、篠塚さんには再三にわたって聞かされた話をもう一度聞いていただくことになりますが」

「それは――まあ我慢しますけど」

 トンボはやや憮然として机に乗り出した身を下げた。

「では――、まず吸血ジャックという犯罪者について、過去の事件も交えてお話ししましょう。広域連続殺人及び死体損壊遺棄事件――通称吸血ジャック事件は、今年の三月までで全国各地で三十七件の事件が報告されていました。三月以降はどうやら警察内部での対応が変化したようで、この事件自体が秘匿されてしまったことから、僕が知りえる情報は今年三月以前の警察がまとめた情報であることをまず了承ください」

 そう言えば、山下は警察のデータベースから事件にアクセスできなくなったようなことを言っていた。
 トンボはそれを思い出す。

「三月までの三十七件のうち、死亡――つまり殺人は九件。残りの二十八件は未遂に終わっています」

「未遂、ってことは、生きてるってことですか?」

 タスクの質問に、山下はその通りですと答えた。

「吸血ジャックの殺人の大胆にして残忍なところは、被害者が外に助けを求められないようにし、動けなくした上で、恐ろしく時間をかけてその命を奪う点です。まず凶器ですが、鋭く細長い刃物――小刀のようなものを使っていることが判明しています。それでまず被害者の喉、声帯をはさんで二か所を刺し抜くことで、声を出せなくします。これがまるで、吸血鬼が血を吸った跡のように見えることも、この殺人鬼にその名がついた所以の一つです」

 山下は右手の人差し指と中指で首筋を二か所押さえながら話した。
 確かにそこに穴が開いていれば、吸血鬼に血を吸われたように見えるかもしれない。

「その上で多くの被害者は太ももの大動脈叢を同じような道具でめったざしにされています。ここを貫かれれば、大抵の人は痛みで歩けませんし、そのまま放置すれば、失血多量で三十分もかからずに死に至る。逆に言えば三十分近くは意識があるということです。そして、死に瀕する被害者を前に、吸血ジャックは問いを出すらしい」

「問い?」

 聞いたのはトンボだった。

「内容はどうも全ての事件で違っているようですね。ただ、二者択一の問題で、非常に答えにくい問題ということは共通しているようです。例えば、『あなたの息子は成長して確実にあなたを殺すことをあなたは知っている。あなたはその息子を殺されることを承知で育てるか、それとも息子が小さいうちに殺すか。人殺しを出さないようにするためにはどうすればいい』というような問題が多い」

「それに外れた人を殺しているってことですか?」

「いいえ」

 トンボが聞くと、山下はそれを否定した。

「吸血ジャックは自らの問いかけに、どちらかを選んだ人間は見逃し、救急車を呼んでいます。つまり、殺された九人はその問いに答えなかった人間、ということだと思います」

「そんな――! だってそんな問題、答えられるわけない!」

 それができない人間が死ぬなんて、あまりにひどい話だ。

「ボクは――その問題、答えられない」

 静かにタスクが口を開いた。
 トンボも山下もそちらを見た。

「ボクは、自殺した人間だからわかる。ボクは、自分の生きる理由を否定した。自分が生きることに価値を見いだせない。だから、息子を育てて、自分が殺されるとしてもそれはそれでしょうがないと思える。でも、そんなボクを殺すことで、自分の息子が殺人犯という烙印を押されて生きるなら、息子がかわいそうだ。その問題の正解は――息子は他人に預けて、自分が死ぬ。そうすれば、人殺しは生まれない」

「――正解です。タスク君」

「そして、この答えに至る人間は、もう死んでいる人間ってことでしょ?」

「タスクは死んでなんていない!」

 トンボは怒ったように言う。

「タスク君が正しい。この問いは、死んでから生き返った人間と吸血ジャックのみに理解できる問いで、吸血ジャックは生き返った死者と思われる人間を瀕死の状態にし、その上で問いを突き付けることで、生者と死者を鑑別しているものと思われます。死にかけの人間は何よりも生きたいと望む。生きたいと望む人間は必ずどちらかを選ぶ。しかしこれらの問いは絶えず自らが死ぬという選択を選んだ場合にのみ、誰かが殺人をするという結末を回避できる問い立てです。そして、生き返った死者は、自ら死ぬことを望み、吸血ジャックの問いに答えず、死を選ぶ。その後吸血ジャックは呪術めいた装飾を死体に施して去って行きます。その死体を検死してみると、死亡推定時刻には必ずその被害者が生きていたという証人や証言が出てくる。つまり――」

「吸血ジャックは、生き返った死者を、生き返らないように殺している」

 タスクが言った。
 トンボはその結論に奥歯をぎりりと噛みしめた。

「そんな、そんなことって――」

「あなたが怒ることはないのですよ篠塚さん。さっきも言ったように、この吸血ジャックはあなたのお兄さんを殺した人物とは別人なのですから」

「……わかってます。それだって、気持ちいい話じゃないでしょう」

 実際山下の説はまるで吸血ジャックがタスクのような人間を救済していると言っているように聞こえてトンボには不愉快だった。
 もちろん違うのだとわかっていても、兄もその一人に数えられているような気がして腹立たしいこともあった。

「ところで、今吸血ジャックに殺された人は九人と言いましたが、その内四人が、君たちの通う式部北高校の生徒で、去年の五月から十二月の間に、連続的に殺されたことから、その事件を別個に式部北高校生徒連続殺害事件と呼びます。女子生徒三人と、男子生徒一人、つまり、篠塚トンボさんのお兄さん、篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)さんが殺された事件です」

「ってことは、山下さんはさっきからそのトンちゃんのお兄さんを殺したのは別人だって言ってるんだから、吸血ジャックが殺したのは実際には八人ってこと?」

 それまで黙っていたタイチがひらめいたように口を開いた。

「いいえ、式部北高校生徒連続殺害事件で、四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません。いわば、もう一人の吸血ジャック、と言ったところかな」

「もう一人の吸血ジャック……?」

「しかし、吸血ジャックがこの事件に関与していないというわけではありません。どうやらこの事件は二重の犯罪である、と僕は推測しています」

「どういう……」

 トンボの疑問に山下はちゃんと一から説明します、と言ってケースから一つのファイルを取り出した。
 もうかなりボロボロに擦り切れていて、貼られた付箋もくたくたに折れ曲がっている。
 表には式部北高校生徒連続殺害事件と書かれていた。

「まず最初の事件は去年の五月に起こりました。ちょうどゴールデンウィークが明けた頃です。殺されたのは一年生の早田明美さん。彼女の死体は両手両足をバラバラにされ、君たちが通う式部北高校で全て別の木に針金で括りつけられていたようです」

「ちょっと! ……やめてください、そう言うことを言うのは」

 トンボは思わず山下を止めた。
 この事件で死んだ人間の死を詳しく聞かされるということは、つまるところが兄のそういう姿を克明に聞かされるということだ。
 それは到底トンボには耐えられない。
 山下は意外にもわかりました、とすんなりとそれを受け入れた。

「この陰惨な犯行現場と、あちこちの施された悪趣味な呪術的様式から、警察はこれが当時世間を騒がせていた一連の殺害死体損壊遺棄事件、つまり吸血ジャック事件の可能性ともう一つ、それが学校関係者による可能性で捜査を行いました。そして約一月後の六月に三年の潮ヶ浜夜さん、その二十日後に二年の曽根百合子さんが同じく陰惨な死体となって学校で発見されました。それから半年近く間を開けて、篠塚アゲハさんが、クリスマスのその日に、学校で遺体となって見つかりました」

 トンボは何も言わなかった。
 ただ、その当時のことを思い出していた。トンボはその日何も知らなかった。
 兄がずっと楽しそうに、クリスマスを心待ちにしていたことだけは覚えている。
 兄が楽しそうだから、トンボも無条件にその日はきっと何かいいことがあるに違いないと思ってうきうきしていた。
 兄はその前日、学校から帰ってこなかった。
 トンボは別に不思議に思わなかった。
 兄が生徒会の役員だということは知っていたし、どうせまた同じ役員の友達の家にでも泊まっているのだろうと思っていた。

 何も心配していなかった。心配する要素など一つもなかった。
 ただ、その日はひどく寒い日で――通学するトンボの耳にはいつもよりパトカーや救急車のサイレンが騒がしいように聞こえていた。
 あるいはそれが予兆だったのかもしれない。
 トンボの通う中学校に連絡があったのは昼で、姉が迎えに来たのはお昼休みが終わるころだった。

――そうだ、これは兄の用意した本当に大がかりなドッキリなのだ。
 トンボはこのまま姉と一緒にどこかに連れて行かれて、そこで兄がネタ晴らしをする。
 姉さんったらなんて顔をしてるんだろう。
 兄さんもこんなわざとらしくしたらバレバレなのに。
 いつ兄が出てくるんだろう、ドッキリ大成功の立札はどこに現れるんだろう、トンボは祈るように震える手足を励ましながら、おぼつかない足取りで病院に行った。
 病院に本当に霊安室があることを知ったのはこの時だった。
 姉が入り、顔色を失って出てきた。入ろうとするトンボを姉は抱きしめて止めた。
 トンボはついに、兄の、アゲハの死体に面会することは叶わなかった。
 姉がそれを許さなかったのはそれが見るに堪えない姿だったからだと今はわかる。
 最後に見た兄は、骨になっていた。
 高温で焼かれ、すすけた灰色の骨の一片に。

 それから警察に事情聴取という名の尋問を受けて、そこでトンボは断片的に兄が殺されたということと、それがどうやら巷で言う殺人鬼、吸血ジャックによるものらしいということを知った。

「それで――」

 トンボの口から出たのは、そうした兄の死にまつわる様々なとてつもない感情ではなかった。

「山下さんが、吸血ジャックが兄を殺したのではないと考える根拠は?」

「状況的なことから言えば、この事件以外の吸血ジャック事件とこの事件には異なる点が多くあります。まず最初に言ったように、死亡推定時刻と生存の証言に関する矛盾が見られないこと。これは通常の殺人事件であればむしろそれが当たり前ですが、吸血ジャック事件としてみるなら異常です。全ての被害者はどうやら殺されたその日に死んでいる。そしてもう一つ、篠塚アゲハさん以外の殺された女子生徒三人に、性的暴行の跡がありました。これが吸血ジャック事件と決定的に違うところです。吸血ジャックの被害者はそもそも女性が多いですが、その中に殺害された人も、未遂で終わった人も含め、性的暴行を加えられた被害者はこの事件の三人の少女以外に一人もいません。さらに殺害の方法も違う。この四人は絞殺されています。吸血ジャックの殺し方ではない」

「でも、死体は吸血ジャックが飾ったようだった」

 トンボの言葉をその通り、と山下は受ける。

「このことから二つの可能性が考えられます。一つは吸血ジャックの模倣犯の可能性、あるいは殺害した後でそれを吸血ジャックの犯行に見せかけ、自分を被疑者から外すための工作として死体の損壊を行った。そしてもう一つは――誰かが式部北高校の生徒を殺害した後に、本物の吸血ジャックが現れ、その死体を装飾した」

「普通は模倣犯の説を疑うよなぁ」

 タイチが頬杖をついて言う。

「山下さんは、犯人が二人、つまり誰かが殺した後に吸血ジャックが現れた、という可能性を確信してるようですが」

 タスクが聞いた。その目は疑念に満ちている。

「まず、どうして模倣犯が考えられないのか、ということから説明していきましょう。これは死体損壊の手法が吸血ジャック以外には考えられないからです」

「どうして……?」

「吸血ジャックは生き返った死者を生き返らないように殺す、と言いましたね。でも、これは正確な言い方じゃない。吸血ジャックは『色鬼が蘇らせた人間』を再び殺して、二度と生き返らないように封じる術式でその死体を損壊しているのです」

――また色鬼。

「でも、だったら余計に、北高で殺された人たちはそもそもその……色鬼に蘇らされた人じゃないんだから、それを吸血ジャックが色鬼を封じる術式で損壊するのはおかしいんじゃないですか?」

 タスクの疑問はもっとものようにトンボにも思えた。

「そこで出てくるのが――これです」

 山下が出したのは二枚の紙だった。一つには何かの魔方陣のようないくつかの大小の縁が連なり、その内側に文様のある図像。もう一つはどこかの地図――いや、トンボたちが通う式部北高校の見取り図のようだった。

「これはさる神社の曼荼羅です。太虚空巣大曼荼羅図(たいこくうそうだいまんだらず)と言います。そしてこっちは君たちが通う式部北高校の地図です」

 たいこくうそう、と呟きながらトンボは曼荼羅を見る。真ん中に大きな円があり、その周囲に小さな円が配置してある。
 小さい円の中の模様は全て違っていて、全部で十二個あり、六角形の頂点をなす位置に、左右対称に配置されていた。
 大きな円の天辺に三つの小さい円が三角形を作って接している。
 そこから左右の両肩の位置に二つずつ、両足の位置に一つずつ、そして底の部分には三つの小さな円が今度は逆三角形に並んでいた。
 真ん中の大きな円はその中の左隅にもう一つ円を内包していて、そこには中央に黒い丸があってそこを中心に螺旋を描く太い線が描かれていた。

「学校の南側三か所に、バラバラにされた早田明美さんの体がありました。左足は南東の桜の木に、右足は南西の枝垂れ桜の木に、そして彼女の本体は真南に位置する椎の木にくくりつけられていました。彼女の胸には三つ穴があけられていて、そこには折られた木の枝が三つ、生えるように突き刺さっていた――」

 山下は学校の見取り図のその死体の一部が見つかった位置にそれぞれ右足、左足、尾と書きこむ。

「そして北西のプールでは左腕の関節を全て砕かれ、首に巻きつけるようにして潮ヶ浜夜さんが見つかっています」

 さらに右肩のプールに左翼と書く。

「北東の体育館裏の壁には右腕を磔にされた曽根百合子さんが、そして北にある花壇で見つかった篠塚アゲハさんは両目が抜かれ、眉間の間を貫かれていました」

 トンボは耳を塞ぎたかった。そんな悲惨な兄の姿を、想像するのさえ嫌だったのに。
 体育館には右翼と書き、さらに学校の一番上にある花壇に目と書いた

「この魔方陣は、ずっと昔にその神社の神主が、そこに祭られる神様を『捕まえる』ための魔方陣だったと伝えられています。その神は一説によると太虚、あるいは空の巣と書いてカラス、そのまま鴉とされることもある。『鴉は三眼四翼、二足三尾にして、その身は暗く、十二の色を持つ』――四人の被害者の死体はそれぞれ、この鴉の姿を現している」

「太虚――」

 タスクが小さく繰り返した。

「色鬼とは、その鴉のしもべであり、鴉のために人柱を築く怪異と伝えられています。つまり、吸血ジャックは、式部北高校に出た四人の生徒の死体を使って、色鬼と鴉を捉えるための結界を張ったと考えられます」

「――でたらめだよ! 馬鹿馬鹿しい!」

 トンボは吐き捨てるように言い、頭をがりがりとかいた。

「一見つじつまが合っているように聞こえるけど、ボク達にしてみれば、そんなカミサマだか幽霊だかがいるって話自体がでたらめかどうかもわからない! 大体、何で吸血ジャックがそうまでして学校に結界なんて張らなくちゃいけないんだ! そんな、色鬼だとか、鴉だとか、全然うちの学校と関係――」

 トンボはそこまで言いかけてごくりと唾を飲む。対面からあるよ、と小さな声がした。
 見るとタスクが目を見開いて虚空を見つめていた。
 その曼荼羅の大きな円の中の螺旋の中心。全てを巻き込んで沈んでいく虚空を。

「式部北高校の生徒で、色鬼に取り憑かれているのは、ボクだ。じゃあ、吸血ジャックは、ボクを――」

「違うってタスク、それは全部、この人の自作自演――!」

 トンボは慌ててタスクを止めた。

「でも、山下さんの説明で全て解決する! 吸血ジャックは色鬼に憑かれてよみがえった人間を再び殺す殺人鬼! その吸血ジャックが色鬼を封じるための魔方陣を学校に張っていて、その学校の生徒であるボクが今、色鬼に取り憑かれている――他にこの状況をどう説明するっていうんだ!」

 タスクが強い調子で言う。トンボは反論できなかった。
 それが全て山下の自作自演による作り話という以外、タスクの自殺とこれまでの不可解な事件、さらにはトンボの兄の死まで含めて、一つのストーリーに収まってしまう。

「……確かに、吸血ジャックが北高で死んだ四人の死体を損壊した犯人である可能性が高い、それは、模倣犯は考えられない次元で、吸血ジャックのこれまでの犯行と合致している、それは千歩譲って納得しました。でも、ボクの質問に山下さんはまだ答えてませんね」

「――真犯人は誰か、ということでしょう」

 山下はにやりと笑う。

「早田明美殺害時から、捜査線上に浮かんでいたのは、学校内部の犯行――つまりこれが、生徒によるものではないかという疑惑でした。その結果、重要参考人として挙がったのが、式部北高校生徒会六十二代生徒会の四人、生徒会長神楽崎弓枝(カグラザキ ユミエ)、副会長萩原充(ハギワラ ミツル)、書記小野宮蚕(オノミヤ カイコ)、そして会計――篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)でした」

 トンボは言葉を失った。

――そんな、兄さんが、人殺しの犯人として疑われていた?

「生徒会長の神楽崎ですが、彼女は当時学外で暴行を振るっていて、何度か僕も彼女を補導しています。調べてみればどれもこれも彼女には非がない、というより、相手が麻薬の売人だったり、痴漢だったり、売春の仲介業者だったりと、彼女なりに正義を貫いた結果として、暴力沙汰になったという事件が多かったと思いますが、実際彼女は相手に全治一か月の重傷を負わせたという事例もあります。さらに彼女はいわゆるバイセクシュアルであり、そちらの方面では進んでいたという話もあります。もしかしたら女子生徒と痴情のもつれから殺人に発展した可能性が当初からささやかれていました」

 山下はさらに続ける。

「副会長の萩原ミツルは当時二枚目副会長として有名でした。いや、そもそもこの六十二代生徒会は美男美女ぞろいということでそれなりに学校内外では話題になっていた。アプローチしてくる女子も後を絶たなかった。また彼はオカルト関連に興味を持っていたという記録があります。ならば可能性は低いこととはいえ、吸血ジャックの犯行が色鬼封じのものだと気付いて、いや、いなかったとしてもそれらしく見せかけることができたかもしれません」

「あんたさっき、死体を損壊したのは吸血ジャック本人だって――」

 山下はトンボの発言を無視し続ける。

「書記の小野宮カイコ、今は蝶野と名乗っているようですが、彼女は日本有数の大企業、小野宮グループの総帥小野宮蓮穣の長女です。今日タスク君が行っていたという小野学院大学付属病院も小野宮グループのもの。さらに――カササギビルは小野宮グループの小野宮建設が所有していたビルです。彼女はアゲハさんが殺されたのちに名前を蝶野と改めている。大企業の娘が連続殺人のあった学校に通っていたというのはマスコミのスクープの種になるからと本人は言っていますが、それが犯行に小野宮家が関与していたことを隠すためのものだとしたら?」

 次々と不審な点を挙げていく山下。
 トンボは頭の中でありったけの否定をその疑惑にぶつける。
 兄がそんなものに加担していたわけがない。
 兄がそんなことするはずがない。

「でも、でも、兄さんは――兄さんは潔白のはずだ!」

「そう、それ故に殺されたのだとしたら」

 山下の宣告にトンボはもう返す言葉がない。

「式部北高校生徒連続殺害事件が生徒会の四人が行った集団私刑事件だったら話は簡単です。痴情のもつれから神楽崎ユミエは早田明美を殺してしまい、その犯行を潮ヶ浜夜と曽根百合子に見られた。萩原ミツルが吸血ジャックの犯行に偽装することを思いつき、小野宮カイコがその金と権力を使って偽装工作をする。そうして三人を次々に殺していく中で、篠塚アゲハは良心の呵責に耐えかねて犯行を自首しようとし、結果三人に殺害された」

「――仮定の話だ!」

 トンボは叫んだ。

「そう、仮定の話です。証拠は何もない。だからこそ、僕は今回、タスク君の事件がもしかしたら半年前のこの事件を解くカギになるのではないか、と期待しているんです」

「――期待?」

 肩で荒く息をしながらトンボは苛立ちのこもった口調で聞く。

「犯人だと疑われていた小野宮カイコは現在生徒会長としてまだあの学校に残っている。彼女が君にカササギビルの件は吸血ジャックかもしれないと言ったと言いましたね。ならば彼女は同じように連絡を取っているかもしれない。神楽崎ユミエと、萩原ミツルに。もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。この事件の犯人は本物の吸血ジャックについて何かを知っている。逮捕できればそれが聞き出せるし、いやいや、もしかしたら本物が現れる可能性も――」

「ふざけるな!」

 トンボは両手をちゃぶ台に叩きつけた。
 時間差でじいんと痛みが伝わってくる。

「タスクが、こんなに悩んで、必死な時に、あんたそのタスクを利用して――」

「こんなに繰り返しても、まだお分かりじゃないとは。いいですか、そこにいる、彼は、坂崎タスクの抜け殻です。本物は日曜日に死んでいる。そこの彼は、ただの死体だ。息もすれば言葉もしゃべるし、記憶もタスク君と共有しているが、彼はもう坂崎タスクじゃない。色鬼という怪異によってよみがえった化け物、灰音だ。化け物退治に化け物を利用することがそんなにいけないことで――っ!」

 ぱちんと音が響いた。山下の頬を叩く音だった。
 叩いたのはトンボではなかった。タイチだった。
 トンボは唖然と口を開ける。
 タイチはそのまま山下の襟首を掴んで立ちあがった。

「山下さんには世話になってるし、そのことは感謝してるけど、オレの、友達を、化け物呼ばわりするな。それは、それだけは許さない」

「はは、涙ぐましい友情だねタイチ、君は今日彼に殺されかかったんじゃなかったかな?」

「タスクがオレを殺すわけない。もしそんなことになりそうになったら、なる前に止めるのがオレの保護者としてのあんたの責任だ。あんたの仕事は幽霊の被害に困っている人を救うことだ。霊能調査室室長なんだろ」

 それはトンボがこれまで聞いたことのない、タイチの本気の怒りの声だった。
 低く、太く、威圧的な声。
 山下はそれにへらへらとした笑みを消し、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、タスク君、と呼んだ。
 タスクはハッとしたようにそちらを向く。

「君にこれからいくつかの知恵を授けよう。色鬼灰音は君の自我を乗っ取り、タイチを殺そうとしている」

「……は、はい」

 目の前で行われている会話についていけずに呆然としていたタスクは、急に話を振られて戸惑っているようだった。
 タイチは山下のその様子にひとまずは掴んでいた襟首を離す。

「色鬼――というより、大概において、この世ならざる者が人を殺すにはいくつかの段階があるものでね。それは今日君が灰音に乗っ取られてタイチを殺しそうになったことや、君自身が意志によって彼の力を利用し、僕を生き返らせたことからも明らかなように、今君と灰音は、君の肉体の主導権を綱引きし合っているようなものだ」

 要するに、と山下はケースを開ける。

「これから灰音は君の自我を乗っ取り、完全に掌握しようとして来るはずだ。おそらくこの一週間のうちに決着をつけに来るだろう。だから君は学校の外でタイチと二人っきりになる状況を避けること。これがまず第一の予防線になる」

「学校の外で、って、学校の中ではいいんですか」

 タスクは不安げに聞いた。

「不安は消えないが、大丈夫ではないかと思っている。それは、篠塚さんには聞き苦しいことかもしれないが、吸血ジャックが張った結界があるからだ。僕はこれが確実に機能しているものだと思います。もっとも、タイチかタスク君を学校に通わせないという手段が一番確実と言えばそうなんだが、正直な話、タスク君はできるだけ学校にいた方がいい。おそらくこの街で、色鬼から逃れられる場所があるとすれば、それは今のところ学校以外に考えられません。多分色鬼が出るとしても、この円からはみ出る校門より内側には入ってこれない」

「仮定の話、なんですよね」

 タスクは念を押すように聞いた。

「仮定というなら全て仮定だ。君が死んだ、というところからね。そして、最後の砦に、この振り子を君に預けておこう」

 そう言って山下はポケットから紫がかった水晶の振り子をタスクに渡した。

「これは紫水晶の振り子と言ってね、件の神社に伝わる、鴉を捕まえる際にその体を縛ったとされる数珠を模したものだ。多分、色鬼や他の災いが訪れる前兆を君に教えてくれる。これを首にかけて肌身離さず持っていること。今はそれが精いっぱいだ。君から色鬼を落とすのはもっと専門の霊能力者が必要になる。僕はこれでも素人だからね」

 そして二人には――と山下はタイチとトンボを見た。

「そこまでタスク君が大事と言っているのだから、なるべく彼の様子には気を張っていた方がいい。少しでもおかしなことがあったら、すぐに僕に知らせること。タイチはタスク君に襲われそうになったり、近くに灰色の炎が見えたりしたらすぐに逃げること。それで全部だ。今僕らにできることは」

 山下がそう結論するのを見計らったようにそっとふすまを開けて沢井の顔がのぞいた。

「すいませぇん、山さん、自分もう終業とっくに過ぎてるんスけど、その、まだかかりますかね」

「――というわけで皆さん、長々とお話に付き合っていただきましたが、今日はこれにてお開きにしたいと思います。僕が送っていくから、タイチ、二人を車に案内して、僕はここを元に戻していくから。悪かったね沢井君、今終わったところだ」

 沢井はほっとしたような顔を浮かべて、お疲れ様です、と何故か一礼した。
 タイチはいつものように間延びした返事をして、投げ渡された車のカギを受け取った。
 タスクは大切そうに振り子を握り締めている。
 トンボは――何だかひどく頭を使った気がして、何も考える気になれなかった。

 トンボが家に着くと、もう十時近くなっていた。
 メールを確認すると、姉から今日も帰れないという内容が届いていた。
 トンボはとにかく服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて汗を流した。
 それだけやると、電気もつけずに部屋のベッドに倒れこむ。

 兄を殺したのは吸血ジャックじゃない――。
 仮定の話だったけれど、聞き捨てならないことだった。
 そして。
 兄を殺したのは兄が誇りを持って所属していた旧生徒会のメンバーかもしれない――。
 トンボはそれを断固として否定する。
 そんなはずがない、と強く思った。いや、そうであってはならないと思った。

 吸血ジャックがタスクを殺しに現れるかもしれない――。
 そしてタスクは、悪霊に操られて人殺しになるかもしれない――。
 タスクのことだから、そうなる前にまた自殺してしまうのではないか、とトンボは少し心配になる。

「……そう言えば、……ヨースケ先輩はあの後どうなったんだろう」

 あの病院での騒動。大事になってなければいいのだが。
 徐々にトンボの上と下の瞼は距離を縮める。
 とにかく、明日、朝練のときに、聞いてみよう、病院のこと、去年のこと――。
 小さな部屋に小さな寝息が静かに響いた。

Who killed Butterfly?

2013.09.02.[Edit]
6「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」 山下は薄く笑って答える。 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。 トンボにはこの男の真意が測れない。「じゃあ――」「あの」 続けざまに真犯人について聞こうと...

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【水曜日】



 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。
 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。
 一分一秒でも無駄にはできない。
 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。
 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。

 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。
 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備していた。
 式部北の陸上部は男女混合だった。
 部員は一年から三年まで合わせても二十人に満たない小さなものだった。
 それでもこの式部市にある高校ではトップクラスの成績を残していたし、歴代の成績の中には全国大会で優勝した記録もあった。

 トンボはその中で一年の期待の星として一目を置かれていた。
 女子の短距離走では最速で、男子の記録と比較しても負けずとも劣らないほどだ。
 そして現在、陸上部でエースを務めているのは二年の桜木ヨースケだった。
 二百メートルで二十秒台を記録している。
 これは世界クラスの記録としても通用する好成績だった。
 選手としても一途な気持ちで懸命に練習に励み、後輩のいい模範となっている。
 明るく社交的で優しい性格もあり、後輩からは慕われ、先輩からは頼りにされる存在だった。

 グランドを整備する生徒の中に、トンボはヨースケを見つけ、そのそばに駆け寄った。
 まず最初に昨日のことを謝ろう。そして次に――。
 心の中で段取りを考えているうちにヨースケの方がトンボに気付き声をかけた。

「よぉ、トンボ。今日はちょっと遅かったな」

 ヨースケはいつも通りの大きな笑みを浮かべて言う。

「ぼ、ボクがやります。それより――」

 トンボはヨースケからグランドレーキを奪って昨日のことを聞こうとした。

「昨日のことか? まあ何とかなったっつーか、何とかしてもらったっつーか、大事にはならなかったみたいだな。警察も呼ばれなかったし。会長さんに感謝だな」

「どうも、すみませんでした。……でも、会長、って、蝶野会長ですか? あの人が何か?」

「何かあの人、すっげー大物らしいな。あの世界の小野宮の社長の娘なんだとか。それであの病院も会長の親のグループの傘下なんだと。そのコネでいいように取り計らってくれたみたい。おかげで助かったな。警察とか呼ばれてたら、進路に差し支えるし。大会も出られなくなるかもしれないと思ってたから、本当に俺は運がよかった」

――蝶野カイコが。事件をもみ消した? 
 トンボの脳裏に昨日の山下の言葉が過ぎる。
 蝶野カイコは式部北高校生徒連続殺害事件の容疑者の一人かもしれなくて。
 兄を殺した真犯人は、カササギビルの件を知り動き出すかもしれない、と山下は言った。
 そこに吸血ジャックに狙われている可能性のあるタスクの起こした事件のもみ消し――?
 トンボにはそれが単なる偶然とは到底思えなかった。

「トンボ? どした? 手が止まってるぞ? まーショックだろうしなぁ。俺としては坂崎と松木のその後の方が心配なんだけど。あの二人大丈夫か? 何かケンカとかしてない?」

「あ、いえ、……そんなことはありませんけど」

「そっか、よかった。友達は仲良くするのが一番だからなー」

 その様子を見てトンボは心を決める。

「あの! 先輩!」

「んー?」

 ヨースケは後ろを向いたままアキレス腱を伸ばすストレッチをしている。

「去年、この学校で起こった――殺人事件のことで、……何か知ってることは、ありませんか」

 ヨースケは今二年生、転校生という話も聞かないから、多分この学校に去年もいたはずだ。
 ならばその事件当時のことを知っているに違いない。
 ヨースケはトンボの質問を聞いてしばらく止まった。
 そして答えず、またしばらくストレッチを続けた。

「あー、そっか、篠塚アゲハって、あれ、お前の兄貴だったのか」

 ヨースケはトンボに顔を見せないままに今気付いたような調子で言う。
 トンボは小さくえ、と返した。

「知ってるんですか、兄のこと」

「知ってるも何も、六十二代生徒会は伝説だからな。学校にいた奴も、他の学校の奴も、ユミエ会長、ミツル副会長のツートップと、書記の蝶野先輩と会計のアゲハ先輩を知らない奴の方が少数派なくらいじゃないかな。そっか、――つらかったな」

「え――」

「お兄さん。それで、事件のこと知りたいのか?」

 ヨースケは振り返らない。そのまま足の運動を続ける。

「それは――」

「やめとけ」

 トンボが答えようとするのをヨースケの冷たい声が遮った。

「トンボ、お前がこの事件をどこまで知ってるか知らないけど、オレはお前と全く同じ質問をされたことがある。アゲハ先輩――お前のお兄さんに」

「兄さんが?」

「付き合ってたんだ、オレ。ヨルと」

 ヨル、とトンボは繰り返す。
 誰のことだろう、と思っていると、ヨースケは潮ヶ浜夜とフルネームで言った。
 それは確か――。

「二番目に殺された。プールで見つかった」

 トンボはヨースケの背中を見た。
 それだけで、ヨースケがその死を心から悲しんでいることがよくわかった。
 ヨースケが振り返らないのは、その顔を見られたくないからだとトンボは気付く。
 怒りか、悲しみか、とにかくいまだ生々しい感情がきっとそこには表れていて、ヨースケはそれをトンボに見せまいとしている。
 それほどまでに、まだこの事件は生きているのだ。
 トンボの中と同じく、ヨースケの中にも。

「アゲハ先輩が、殺されたヨルのこと、何か知っていることはないか、変わっていたことはないかって、しつこく聞いてきてさ。オレ、割と本気で犯人見つけてぶっ殺したいと思っててさ。そしたら、ヨルのことも忘れられるって。忘れて生きていかなきゃ、そのためには犯人に復讐しなくちゃって思ってた」

 ヨースケの声が、小さくなっていく。

「でも、アゲハ先輩が死んで、――やめた。調べてどうなる? 犯人を知って、復讐して、それで俺は何もなかった顔して平気で生きられるのかって思った。そんなことできない。だったら復讐なんてしない方がいい。そうすることでヨルを忘れてしまうなら、復讐なんてしないで、割り切れない思いを抱えたままずっと覚えている方がいい」

「先輩……すみません、変なこと聞いて」

 トンボは聞いたことを後悔していた。
 そして一刻も早く、この話を終わらせなければならないと思った。
 うかつに聞くことではなかった。聞いていいことではなかったのだ。
 それは誰よりもトンボが一番よくわかっていたことなのに。

「アゲハ先輩がそれを聞いてきて、オレはヨルが死ぬ前に預かった、ヨルの日記を渡したんだ。三日後に先輩はそれを返してくれて、それから四日で、――死んだ」

 ヨースケが振り返る。
 そこにいつものお日様のような笑顔はない。
 その顔に表情はない。色彩がない。喪に服す人の灰色の顔だった。

「お前がそれでもこの事件のことを知りたいなら、今日の放課後、禅定寺の墓地に来い。そこにヨルの墓がある。――もしかして、最初からこうなるって決まってたのかな」

――今日は、ヨルの命日だから。
 ヨースケは笑った。多分無理して。
 東の空からさす太陽が、逆光になって顔を隠している。
 それでもトンボにはその笑顔がとても悲しいものに見えた。

 ホイッスルの音がした。集合の合図だ。

「ほら、行くぞトンボ! 大会まで時間がないんだからな!」

 トンボの背中を強く叩いてヨースケは先に走り出した。
 トンボは重たいグランドレーキを引きずりながら、それを倉庫にしまって集合場所に行った。
 ヨースケは、その後、さっきのことはおくびにも出さず、いつも通りに走り込み、汗をかいていた。
 トンボは改めて、この先輩は強い人間なんだと思った。

The Sun cannot be bound The Night

2013.09.02.[Edit]
【水曜日】1 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。 一分一秒でも無駄にはできない。 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備し...

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――悪夢を見た気がする。
 それはタイチを殺すという内容のものだった。
 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。

 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。
 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。
 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。
 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべきなのかもしれなかった。

 どちらにしても、そんな内容の妄想が止まらないのは、どうやらタスクの中にいるもう一人の存在――山下が言うところの色鬼、灰音のせいであることは間違いなく、それによってタスクに健やかな眠りが当分は訪れないことも間違いなかった。

 時計を見ると、朝の五時だった。
 六月ともなるともう昼間と言って差し支えないほど太陽は明るい。
 そして晴れの空は、夏らしい暑さを、確実にこの街にもたらしていた。

 今更眠るのも馬鹿馬鹿しいし、本来ならタスクはこれくらいの時間に起きて家族の朝食と、弁当を作るのが日課だった。
 トンボとタイチの分も一緒に作る。
 もう二日サボっている計算になるから、そろそろ再開しないといけないだろう。
 一応タイチからは山下経由で、トンボからはその姉経由で、一食二百円で月に二十食、合計で四千円のお小遣いをもらっている。
 二家合わせれば八千円と、バイトもしていないタスクにとってはちょっとした額になる。
 おいそれと休むこともできないだろう。

 タスクは冷蔵庫の中のものを適当に組み合わせて朝食と弁当を作る。
 そのうちに家族が起き出して、めいめいに朝の日課を始める。
 洗濯物を干していた母は、テーブルで弁当を盛りつけるタスクの顔をまじまじと見た。

「やっぱり、顔色よくないわ」
 
「ごめん、ここの所、眠れてなくて」

「……あんた、また無理してるんじゃないの? 今日は学校休んだら?」

 母の忠告にタスクは首を振る。

「もう事実上二日欠席なんだから。そろそろ授業にも顔を出さないと、置いて行かれちゃうから。学校行くね。ボクは、朝ごはんいらないから」

「あ、ちょっとタスク――」

 タスクは弁当を三つ持って、部屋に鞄を取りに行って制服に着替え、逃げるように家から飛び出した。

――また家にいたら、今度は家族を殺してしまうかもしれない。

 そう思うと到底家にはいられなかった。
 それに、山下の話を信じるなら、今タスクが、灰音から逃れていられるのは、学校だけだという。
 信じられるだけの根拠はなかったが、それにすがるしかないのも事実だった。
 タスクは学校にやや速足で向かう。
 くすくす、くすくすと声が聞こえた。
 タスクは胸にかけてある紫水晶の振り子を握る。
 触れるとそれは、石とは思えないほど、熱くなっていた。

――近くにいるんだ。灰音が。

 タスクは思わず立ち止まってあたりを見回す。
 電柱の陰に、ごみ箱の裏に、屋根の上に。
 電線の上に、木の茂みの中に、側溝の影に。

 くすくす、くすくすと、それは確かに存在していた。
 タスクを見ていて、笑っている人外のもの。
 タスクを生き返らせて、タイチを殺そうとする鬼が。

――もういいかい?

 それは紛れもなく鬼のセリフだった。かくれんぼで鬼が言う決まり文句。
 子どもの遊びの他愛ない言葉なのに、今のタスクにはこの上なく恐ろしく聞こえた。
 タスクはついに走り出して、ようやく学校にたどり着く。
 いつもより随分と早い時間の登校だったが、運動部は朝練をしていて、学校はそれなりに騒がしかった。
 放課後の活動が制限された今は、そうせざるを得ないのだろう。
 タスクは自分の席に座って、大きく息を吐いた。

 ただの登校に、ここまで疲れるとは――。
 こんなのが続けば、灰音が何か悪さをしなくても、疲弊したタスクがちょっとしたことで何か大それたことをしかねない、とタスクは自嘲気味に思った。
 そして、改めて自分の教室を見回した。

――視線は感じない。声も聞こえない。
 胸の水晶を触る。さっきとは打って変わって、石特有の冷たさが伝わってきた。
 つまり、ここには灰音はいない。安全なのだ。
 山下の言葉はどうやら正しいらしい。今のところは、まだ。

 しかしそれは同時に、この学校に色鬼に対する結界が張られていることを示している。
 つまり、四人の生徒が惨殺されたのが、事実だということだ。
 早田明美、潮ヶ浜夜、曽根百合子、そして、トンボのお兄さん――篠塚揚羽。

 この学校で、殺人事件が。
 そして――犯人は学生かもしれない。いや、あの、蝶野カイコかもしれない。
 山下はそう言っていた。

 タスクにとってカイコはやや特別な位置にいる先輩だった。
 クラス委員としては生徒会長であるカイコは直属の長を務める人間だったし、それよりも何よりも、カイコはタスクが所属する合唱部の部長で、指揮者だった。
 あの日曜日の舞台で、タスクが誰よりも一番恥をかかせてしまった人物。
 誰よりも一番迷惑をかけてしまった人物。

 しばらく合唱部は、練習は中止というメールがいつだか来ていた。
 起き抜けの朝は声も出にくいし、朝練をする部活でもないから当然かもしれない。
 タスクは机に体を投げ出して、腕で枕を作って顔を横に乗せた。

――カイコが犯人だったなら。タスクの中で蝶野カイコの顔が思い返される。
 カイコはいつだって余裕綽々という顔をしているのだ。
 何をやらせても常に完璧で、まるであらゆることが遊びであるかのように。
 あの日だって、悔やんだり、怒ったりはしていなかった。
 カイコは、ただ笑っていて、後ろに男がいて、首を絞められていて。
 ライターの炎に照らし出された顔が。

――ああ、あの顔は、あれはそうだ。
――死んでいる。
――殺されている。

「おーい、おい、タスク! おーきーろー! タスク!」

 目を開けると前髪に隠れた目がこちらを見ていた。
 タイチだ。どうやら無事に登校したらしい。
――なぁんだ。よかった。
 タスクはそれに安心して、またうとうとと目を閉じた。

「あーもー、二度寝とかやめてくれる? 起きろっつーの、もうすぐホームルームですよ! クラス委員さん!」

 バン、と頭を強く叩かれて、タスクはガバリと起き上がる。

――眠っていたのか。

 時計を見ると、八時半だった。少なくとも二時間近くは寝ていたことになるだろうか。
 クラスはタスクが来た時よりはるかに騒々しくなっていた。
 数人の女子がこちらを見てくすくすと笑っていた。
 タスクはその声に、恥ずかしさよりも、あの不快な声と似ていることに腹が立った。

「今日こそはお弁当作ってきてくれたんだろーなー」

 心配はそこ? とタスクが聞くとタイチは他にあんのか、と胸を張る。

「君の大好物の三食そぼろ弁当だよ。なんかさ、大丈夫、とか、心配したぞ、とか」

「心配してほしいのか、タスクは」

 タイチに問われ、タスクは改めて自問した。
 心配されたいのだろうか、ボクは――。

「オレが涙ぐんだ顔でお前が無事に学校に来ていることに感激したら満足か?」

「何もそんなことしろって言ってないだろ」

――ボクは、ただ。察してほしいだけだ。思っていても、言えないこと。
 誰にも言えない、本当の気持ちを。

 そうは思ったが、タスクは実際、何が本当の気持ちかがわからない。
 何せ今タスクの心には、タスクの心だけでなく、鬼の心が混ざりこんでいる。
 今こうやって考えていること自体が、どうして鬼に支配されていないと言えるだろうか。
 実はもう自分は既に乗っ取られていて、あたかも坂崎タスクのように考えているけれど、実際には鬼がそう錯覚させているだけなのでは――。

「……アホくさ」

「あ?」

 君のことじゃない、とタスクはタイチに言った。
 自分の支離滅裂な考えに嫌気がさしただけだ。
 鬼がタスクの振りをするのはともかく、何故そこで自分が鬼か坂崎タスクかを自問しなければならないのか。そんなもの鬼だったら考えるまでもない。
 つまり自分がどっちか、なんてことを不安に思っているのはタスク以外にはありえない。
 とりあえずタスクは、自分が自分であることに安心していい。いいはずだ。

「そーいえば、噂を聞いたぞ」

「噂?」

 タスクはさして興味も示さず、タイチの方さえむかずに頬杖をついて窓の外を見ていた。
 グラウンドを挟んで向こうにある校門を国栖が閉めているのが見えた。

「校門の前に灰色の目隠しをしてる男の子がいるんだって」

「それ、七色不思議だろ?」

「うん。そうなんだけどさ、その男の子は女神の子どもの鬼じゃなくて、昔この学校で七色不思議をやって、鬼に食べられちゃった子どもなんだって。それで、灰色の目隠しをしているのは、何でもそれをつけてると、鬼の目から逃れられるからなんだって」

 その言葉にまた、悪寒が全身を駆け抜けていく。いや、タイチの言葉のせいではない。
 その、国栖が閉める、校門の、門柱に、誰かがいる。
 青い、着物姿の男の子。栗色の収まりの悪い髪の毛の、色の白い痩せた子供。
 ちょうどタスクの小学生時代のような――。
 ――そして、目には灰色の布が、目隠しをしている。

 門柱に腕で目隠しをするようにもたれて、それはまるでかくれんぼで数を数える鬼の仕草そのもの。

――もういいかい。

 男の子の声だ。教室の喧騒も、鳥の鳴き声も、風の音も、何もしない。
 全てが灰色の石のように固まっている。目の前のタイチさえも。
 その中で、唯一色彩を持った目隠しの男の子が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 目隠しに覆われた目でこのグラウンドを挟んだ三階の、この教室のこの窓を見て。
 いや、――ボクを見て。

――見ぃつけた。

 そう言って、笑った。その笑みは、徐々に校庭の熱が産む陽炎に溶けていく。
 ぼやけていく。段々にその輪郭を失い、世界が色彩を取り戻す。

「――だからー、そんなタスクに、おまじないに灰色のスカーフを持ってきてやったぞ。これで目隠しすればばっちり! いいアイディアだろ? おい、聞いてる?」

 いつの間にかタイチが怒った顔をしていた。
 タスクは我に返って、顔を手で覆った。

「い、今――」

「あん?」

 タイチは怪訝そうな声を出す。
 それが雄弁にタイチは何も感じていないことを物語っていた。

――ボクだけに見えたんだ。ならば、今のが。あれが。
――色鬼、灰音。

「もしかして――何かいる?」

 タイチは今更のように声を潜めて聞いてきた。
 タスクはその配慮をもっと早くにしてほしかった。
 いや、同じことだったのかもしれない。
 タイチがその噂をしようがしまいが、あの鬼は、ずっと校門にいたのだろう。
 おそらく、それ以上入って来られないために。

 これもまた山下の言った通りだった。
 今の所、山下の言葉は全て当たっている。

 チャイムが鳴り、トンボがやって来た。
 短髪の少女は、肩にかけたタオルで顔を拭く仕草さえどこか爽やかで、見た目陰鬱な男二人組とは対照的だった。
 トンボはその陰気な二人に、はつらつとした声であいさつをする。
 タイチは元気よく答え、タスクはうん、と小さく言った。

「そう言えばタスク、確か蝶野先輩が、今日のお昼休み、生徒会室に来るようにって」

 トンボはタスクに近付いて、まずそう言った。
 その言葉にタスクは一気に気が重くなる。

「それより、何の話をしてたの?」

「それがさー、トンちゃん聞いてよ」

 タイチが話そうとしたとき、担任がやってきて、そのままホームルームになった。
 タイチは不満げに頬を膨らましていたが、灰色のスカーフだけタスクに渡すと、席に戻って行った。
 クラス委員のトンボとタスクはそのまま壇上に立ち進行を務める。

 鬼に見つからないように、灰色の目隠しを――。
 タイチの言葉が反芻される。タスクはさっき見つかってしまった。
 今からでも灰色の目隠しをつければ、鬼の目から逃れられるのだろうか。
――アホくさい。

「出席を確認します。青葉君――」

 タスクは間抜けな考えを振り払うように、いつもより大きな声で点呼を取った。

The Evil Gray stands school gate

2013.09.02.[Edit]
2――悪夢を見た気がする。 それはタイチを殺すという内容のものだった。 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべき...

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 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。
 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。
 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。
 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。
 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーから、校門を隠れるように覗き込む生徒の一群があった。

「なんだい、この集まりは」

「あ、篠塚さん、ほら、あの人」

 トンボが声をかけるとその中の女子の一人が指をさして校門の方を示す。
 トンボも彼女達に倣って顔だけ出して覗くと、そこには人影があった。
 心臓がドキリと鳴る。
 持てる視力の全てを持って、その人物の全容を見ようとした。
 男は校門の脇に立ってずっとこちらを見ている。

「ね、なんか怖いでしょう?」

「何が? 普通の人じゃないか?」

「普通の人ならあんな風にずっと立ってたりしないって。待ち合わせにも見えないし、やっぱり、吸血ジャックかしら」

 はぁ、とトンボは上擦った声を出す。
 
「私知らなかったんだけど、実はこの学校去年生徒が吸血ジャックに殺されてるんだって」
「あ、それ私も聞いた。でも学校側は隠ぺいしてるって」
「学生が犯人かもしれないからだって聞いたけど……」
「ほら、今放課後居残りでしょ、あれってやっぱり吸血ジャックの被害があったからみたいなんだって。確か北市街のカササギビルって所で」

――なるほど、いくら警察が対応していようと、学校側が隠していようと、人の口に戸は立てられないものだ。
 さすがに普通の生徒も、つまりここにいる女子達のような、全く関係ない生徒でも、気付き始めたのだ。
 どうやら今が、普通の状況ではないと。
 そこに不審な男が現れ、火に油が注がれて、吸血ジャックかもしれないなどという話になったのだろう。

――でも、こんな白昼堂々と……。

 トンボはもう一度壁から顔を出した。
 男は相変わらず門の脇に突っ立っている。
 今にも降って来そうな黒ずんだ鈍色の雲の下で。
 まるでトンボには男が雨を運んできているようにも見えた。

「あ、篠塚さん!」

 トンボは心を決めた。自分は生徒会の一翼を担っているのだ。
 校内に不審者がいるなら、確かめる義務がある。例えそれが――。
――吸血ジャックであろうと。

 トンボは靴を履き替え、つかつかとその不審者に近寄っていく。
 男もまたトンボに気付いたらしい。
 不審者であれば、立ち去るとか逃げるということがあってもいいはずだ。
 しかし、男はただ無表情に立ち尽くしていた。

「あの!」

「篠塚……トンボ、かな」

 男は小さいがよく通る声で呟いた。トンボは名前を当てられて少し動揺する。
 男は割ときれいな身なりをしている。遠くで見るよりだいぶ若いようだ。
 高校生、いや大学生だろうか。
 黒いシャツに黒いズボンで肩から黒い鞄をさげて――全身黒ずくめである。

 小奇麗な顔で女みたいだ。似てはいないがそのキーワードから兄を思い出してしまう。
 兄はどこか幼い印象を持っていた。
 だが、目の前の男はそういった幼さを全く感じさせない。
 目は怜悧でどこか悩ましげで、顔全体からは知的な印象を受ける。
 鋭いのだ。顔の形も、漂う雰囲気も。
 ただ立っているだけでも、ボーっとしているようには見えない。
 瞑想にふけっている、あるいは思索に没頭しているように感じられた。

 きっとこんな時期でなければ、玄関に集まった女子の群れの評価も違ったのだろう。
 連続猟奇殺人鬼のような男ではなく、突如現れた謎の美男子になっていたはずだ。
 いや、もしかしたらあの集まりはそういうものだったのかもしれない。
 あの人になら殺されてもいい、くらいのことは平気で彼女達は言うだろう。
 それほどに誰も去年のことは何も知らないのだ。特に一年生は。

「篠塚トンボはボクですけど、何か御用ですか?」

「連れが上にいる」

「連れ?」

 生徒の父兄ということだろうか。あるいは教師の兄弟か子どもか。
 上にいるという言葉は二階ということか。
 しかしいずれにしても、こんなところで待たせているのは失礼にあたるだろう。

「あの、お待ちならどうぞ中へ」

「いや、それには及ばない。もうすぐ来るだろうから。……そうだ、最近七色不思議について、新しい噂が流れていないかい?」

 男は唐突にそんなことを言い出した。

「え、ええ、確か、灰色の目隠しの男の子が校門前にいて、っていう話、ボクは今日初めて聞きましたけど……、失礼ですがお名前をうかがってもよろしいですか?」

 学校も不手際だと思う。
 不審者ならこんなふうに学校に放置しておくのは不用心だ。
 そうではなく学校の関係者の類縁なら、こんなふうに待たせておくのは失礼だろう。

「萩原充(ハギワラ ミツル)。篠塚は優秀な男だった」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 少し遅れてそれがどうやら兄のことを言っているのだと気付く。
 兄の友人だったのだろうか。
 トンボは尋ねようと思ったが尋ねる前にその名前に思い当たった。

 萩原ミツル――去年の、六十二代生徒会男子副会長だった男だ。
 そうか、兄は生徒会会計だったから、面識があるのは当然と言えば当然だ。
 六十二代生徒会は四人しか構成員がいなかった。
 それはこの時代の伝説が伝説たる所以の一つだ。
 会長神楽崎ユミエ、副会長萩原ミツル、書記蝶野カイコ、会計篠塚アゲハ。
 いや、その四人は――。

 そうだ、昨日、山下の話だ。
 確か、あの男はミツルが兄の殺害に関与しているという推測を語った。
 その人物が何故、こんなタイミングで、トンボの前に登場する。
 あまつさえその人が吸血ジャックかもしれないと噂されているなんて、出来過ぎている。

「兄は……兄が、お世話になり、なってました」

 口がうまく回らない。
 自分でもびっくりするくらい、トンボは動揺していた。

――もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。
 山下はユミエとミツルを指してそう指摘した。

「僕は何もしていない。興味深い男だったが――」

「どうして……」

 ミツルの言葉を遮ってトンボは言った。

「どうして、学校に来たんですか? これじゃあ、これじゃああなたが、あなたたち六十二代生徒会が、兄さんを殺したっていう、あの推理が、当たってることになっちゃうじゃないか! どうして、何しに来たんですか! まさか、本当に――!」

 それは間違いなくあてつけだった。
 それでもトンボにとって、山下のその推理が当たることは何よりも避けなければならないことだった。
 それが正しいとすれば、兄は三人の女子生徒を殺していた犯行に関与していたことになってしまう。
 兄はいつも楽しそうに学校に行って、自分の生徒会を誇らしげにトンボと姉に食卓で語っていた。
 その兄が、その生徒会が、恐るべき殺人集団だったはずがない。
 それを認めることは耐えがたいことだった。
 その思いが、トンボの口から零れ出す。

「――篠塚アゲハを殺したのは僕じゃない。同様に、この学校で殺された三人の女子についても、僕は潔白だ。僕だけじゃない、神楽崎も小野宮も、そして篠塚も。ただ――証明はできない」

 ミツルは表情を変えずに淡々と言った。
 そんなのあんまりだ、とトンボは思った。
 無実なら、はっきりとあの山下に言って証明してほしい。
 兄が死んで、ものを言わないことをいいことにあることないこと言いまくったあの男に。
 どうか兄の潔白を晴らしてほしかった。
 兄の無実を証明してほしかった。
 トンボは思いの丈を瞳に込めて、じっとミツルのその伏し目がちの両目を見た。

 ミツルは一度トンボから視線をはずして、学校の校舎のはるか上の方を見た。
 その時、猛烈な風が背後から吹いてきた。
 トンボは背中を強く押されるようにして、思わずミツルの方に倒れこんでしまう。
 学校の方から黄色い歓声がトンボの耳にも聞こえた。
 風はすぐ収まった。トンボは慌ててミツルから離れる。

「すす、すいません」

「いや、謝るのはこっちの方だ、連れが戻ってきた。すまない、悪戯好きな風でね。トウタ、あまり人を驚かすな」

 何を――言っている。

 ミツルの隣には誰もいない。
 いや、学校から出てきたものなどトンボ以外に誰もいない。
 今もミツルの周囲にはトンボしかいない。
 連れが戻ってきただなんて、どこにいるのか。

 ミツルの視線はなぜか、さっきからトンボの頭の上あたりをじっと見ている。
 そこに何かいるかのように。
 トンボは不気味に思って上を見上げるが、当然何もいない。

「やはり結界か……そうなると、吸血ジャックの犯行はこのことを知っていたことになるな。しかし何故この学校に結界を張った?」

「吸血ジャック? あの吸血ジャックですか? やっぱり何かあるんですか?」

 ミツルの不思議な独り言にトンボは食いついた。ミツルはトンボを見て一言呟いた。

「アゲハの死を知りたいなら、七色不思議を探すことだ」

 行こうトウタ――。

 ミツルはそう言って歩いて学校を離れて行った。
 トンボは茫然とその後ろ姿を眺める。
 昼休みが終わろうとしていた。
 トンボの頭にぽつりと冷たいしずくが当たる。
 雨が降り出したらしい。

Dragonfly meets The Angel with Pink wind

2013.09.02.[Edit]
3 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーか...

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 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。
 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。
 もう五分は立ち尽くしているだろうか。
 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。
 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。

 コンクールの件だろう。
 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃げ出したことでかかった迷惑。
 蝶野カイコは合唱部の部長でその舞台の指揮者だった。
――怒られるのだろう。正直なことを言えばまた逃げ出したかった。

 そんな風に悶々としているタスクの目の前のドアが、勝手に開かれた。
 タスクは驚きのあまり小さく息を呑んだ。
 立っていたのは吉沢ハヤテだった。
 いつもカイコの影のように付き従っている二年生の男子。
 常にカイコの鞄を持ち、その一歩先を行きドアの開閉までをも執事のようにこなす男。
 それだけでもごく普通の高校生のタスクからすれば十分に変人だったが、服装も一風変わっていて、今日は濃い 青い色のシャツに黒のスーツのベストとズボンを着ていた。
 髪の毛もサイドバックにし、左目を前髪で隠すという、どう考えてもコスプレのような恰好をしている。
 それだけ個性の強い恰好をしていれば、どこにいてもよく目立ちそうなものだが、その寡黙な性格のせいか、往々にして、カイコにその存在を指摘されないと、誰もが見落としてしまうほど、存在感が希薄な人間だった。

「どうぞ」

 ハヤテはほとんど口を動かさずに小さな声で言った。
 その後ろに会長席に座ってファッション雑誌を読んでいるカイコが見えた。

「なんだ、いたならばさっさと入ってくればいいのに。迷って決断を遅らせると、ずっと迷っていることがいつか気持ちよくなって、何かを選択することそのものから逃げることになってしまう。入りたまえ。坂崎タスク君」

 カイコはこの蒸し暑さに辟易したように手にしていた雑誌を机に伏せて言う。
 タスクはそれでも部屋に足を踏み入れるのを躊躇した。

「――なんだね、そんな叱られる子供のような顔をして。高校生にもなって分別のない顔をするんじゃない。私は君を叱ったりしないよ。むしろ、その逆だ」

 え、とタスクは小さく言う。
 見かねたカイコが吉沢君と呼ぶと、ハヤテがタスクの肩を押して、中に連れ込んだ。
 タスクは転びそうになってそのまま部屋の中央に躍り出る。
 後ろでハヤテがドアを閉める音がした。

 その音を聞いて、タスクの心臓が跳ね上がる。
 何も怒られることだけが怖いわけではなかった。
 蝶野カイコは――山下によればこの学校の生徒を殺した犯人かもしれない人物だった。
 そして自分は、吸血ジャックにその命を狙われているかもしれないよみがえった死体で。
 今、その容疑者とその片腕のような存在に前後を挟まれている。

 山下は学校にいれば色鬼からは逃れられると言った。
 それでタスクがすっかり安心していて気付かなかった。
 色鬼から逃れられたとしても、学校の中に吸血ジャックが、あるいはそれに見立てて生徒を殺した殺人鬼がいるかもしれないという可能性を。

「実は――君に謝っておこうと思ってね」

「え――」

 恐怖による緊張が最高潮に達していたタスクはカイコの言葉に虚を突かれた。

「先日の――日曜日の件。私は、君が極端に緊張に弱いということも知っていた。だが、あえて君を伴奏者に選び、舞台に立たせたのは、もしかしたら、君のそのあがり症を、何とかできるのではないか、なんて思いあがっていたからかもしれない。私は自分が教師にでもなった気でいたんだ。人を成長させ、指導する力があると。そんな私の高慢さが君に深く傷をつける原因になった。それをあの日、思い知ってね。ずっと君に、謝ろうと思っていたんだ」

――すまなかった。
 カイコはそう言い、タスクに向かって深々と頭を下げた。
 傲岸不遜で、いかにも唯我独尊といったカイコとは思えない、しおらしい行動だった。
 タスクは返す言葉がわからず、むやみに手を振った。

――怒らないのか? 怒っていないのだろうか、この人は。

「あの後、とにかく君のことが心配でね。電話がつながらなくてひょっとしたら早まったことにでもなってないかと思っていたんだが。月曜日にちゃんと出てきてくれて安心した。本当はその日に言おうと思っていたんだが、結局こんなに時間が経ってしまった。その後もどうにも本調子ではないようだし、もしかしたら私が思っているより、ずっと君を傷つけてしまったのではないだろうか。こんな言葉だけでは慰めにならないかもしれないが、あれは君のせいではない。もしそのことで自分を責めているなら、もう気にしなくていい。合唱部の伴奏がつらいようなら、今後は別の人に頼む。だからどうか、思いつめないでほしい」

――心配? この人が、ボクを?

 タスクには全く信じられないことだった。
 蝶野カイコという人は、他の人を頭一つも二つも飛びぬけていて、周りのことなど気にせずに、自分の進みたい道を勝手に行ってしまう人間だと思っていた。
 タスクのことなんて、少しも歯牙にかけていなくて、ただ失敗した使えない人間と落胆されたものだと思っていた。
 そして、そのことで糾弾されるのだと。

 思いもよらぬカイコからの謝罪と、タスクを気遣う優しさを見せられ、タスクはカイコに抱いていた偏見のようなイメージが少し変わった。

「あの……それで、話って」

「ああ、これを言いたかったんだ。君に一度はっきりと謝っておきたくて、ずっともやもやしていてね。昨日は病院で暴れたというし。まあそれはこっちの方で何事もなかったことにするように手配したが」

 カイコが手を打ってくれたのか。
 だから学校からも警察からも何もなかったのか。

「――もしかして、君は、何かとても大変なことに見舞われているんじゃないか? 何かとても重大なことを、誰にも言えないでいるんじゃないか?」

――ああ、この人は。

 ようやく、聞いてくれた。
 タスクはこれまで自殺の話や頭の中でする声について、いつも自分から切り出していた。
 国栖にも、山下にも、自分から言わなければならなかった。
 自分で自分がおかしいのだと言うことは、とてもつらいことだった。
 でも、この人は、気付いてくれた。タスクが今とてもつらいことを察してくれた。

「――実は……」

 そしてタスクは、日曜日の自殺から始まった、今も続く長い苦しみの胸の内をカイコに語る。
 いつの間にか外は雨が降り出していた。
 生徒会室には外の喧騒が遠く、静かな雨音だけが響く。
 カイコはずっとその話を遮らず、ただ頷きながら聞いてくれた。

「――すると、今の君は日曜日にすでに死んでいて、松木君を殺すために、その色鬼とかいう怪異によって生き返り、今なおそれに自我を奪われるかもしれないと、怯えている、ということかい?」

 カイコは右手で扇子を開いたり閉じたりを繰り返しながら言った。

「――信じてもらえないかもしれませんが、本当なんです」

 カイコは目を閉じて深く椅子にもたれかかった。
 
「にわかには、信じがたいね」

 やっぱり、そうか。自分でだって、確信を持っているわけではない。
 心のどこかでは、日曜日から今日までは全て夢で、いつものように目覚ましに起こされることを望んでいる。

「それが本当なら、私はいよいよ君に対して申し訳が立たない」

 カイコは目を開けて天井の蛍光灯を見ながら言った。
 そしてタスクを見る。タスクは小さくえ、と呟いた。

「だってそうだろう。畢竟君が悩まされている悪霊に取り憑かれたのは、自殺したからじゃないか。そしてその自殺の理由はあの日曜日の舞台にある。そこに君を立たせたのも、その結果君を追いつめてしまったのも私だ。私が君の気持ちをもっとちゃんと考えていれば、君の今の状況はなかった――違うかい?」

「あ――いえ、でも」

 タスクはずっと自分のせいではないと言ってもらうことを望んでいた。
 それなのに、カイコが今のタスクの状況をすべて自分のせいだと言うのには、何故か抵抗感があった。
 タスクはカイコのせいではない、と言いたかった。でも、言葉が出てこない。

「死んだ人間は、生き返ったりしないよ」

 不意にカイコが言う。

「死は絶対だ。生きているものは必ず死に、そして死んだものは決して生き返らない。それはこの宇宙を支配する絶対の法則だ。幽霊だろうが、妖怪だろうが、鬼だろうが、その法則を曲げることは絶対にできない」

 タスクは自分の経験していることが世迷言と言われているようで何だか嫌だった。

「だからね、もし君が本当に死んでいて、生き返ったのなら、それは奇跡なんだ。あのキリストが磔刑されて、その三日後に復活したことと同じ、いや、もしかしたらそれ以上の、考え難い、起こるはずのない、奇跡」

 奇跡? とタスクは繰り返す。
 今タスクが経験していることは、到底そんな美しい事柄には思えなかったが。

「私はね、坂崎君、死人を生き返らせようとしたことがある。君ももう聞いているかもしれないが、この学校に伝わる七色不思議の噂があるだろう? 私はそれを一度だけ試したことがある」

「それって――篠塚アゲハさんを、ですか?」

 タスクは思わず聞いた。
 カイコはそれを聞くと彼女にしてはとても珍しく驚いたような顔をした。

「アゲハのこと――知っているのかい?」

 カイコは扇子を広げて口元を隠して聞いた。
 タスクはしまったと思う。声がさっきより明らかに低くどすの利いたものになっていた。

「あ――えっと、だからその、噂で」

 タスクは適当なことを言ってごまかそうとした。

「噂?」

 カイコの目つきが鋭くなる。タスクは射すくめられて、観念した。

「昨日、タイチの叔父さんの警察の山下さんから、教えてもらったんです。病院で騒ぎを起こして、カササギビルでフェンスが落っこちてきた後、山下さんが調書を取るからって交番に連れて行って、そこで教えてもらいました。去年この学校で起こった事件のことも、色鬼のことも」

 カイコは扇子を口の前でとじ合わせ、あの人か、と呟いた。

「そこで――あなたが、あなたたち六十二代生徒会が四人の生徒を殺した犯人かもしれない、と。蝶野先輩、いや、本当は小野宮って言うそうですね。あの小野宮グループの社長の娘さんだって」

――私のことを小野宮と呼ぶな。

 突然聞こえた低い声はカイコのものだった。
 しかしカイコが本当に言ったのかと疑ってしまうほど、普段の声とはかけ離れた冷たい声だった。
 驚きのあまり目を白黒させてカイコを見るタスクに、カイコはくすりと笑いを漏らした。

「余計なことをあることないこと吹き込んでくれる。あの人は去年もそういう人だったからな。前半は全面的に否定しよう。私たちが四人の生徒を殺した犯人、これは絶対に違う。神に誓ってもいい。ただ、私が小野宮グループ総帥、小野宮蓮穣の娘であることは事実だ。ただ、父にはあともう二人息子がいるし、私は代わりの代わりの代わりくらいの扱いで、だから公立の学校にしか通わせてもらえないがね」

 自嘲気味にカイコは言う。
 そう言われれば、世界規模の資産家の娘が公立高校にいるというのも変な話だ。

「前妻との間に男児がいて、つまり、私には血の繋がらない兄が、いたというべきかな。本来ならその兄が次期総帥であり、実際彼は才能も実力も、器量もそれにふさわしい人物だった。だが、ずっと昔に消息不明になってしまった。おかげで今小野宮グループは水面下で跡取り競争に必死でね。私まで、その座につけて利益をすすろうとする有象無象がうごめいている。そういう人間にとって、去年この学校で起こった事件はどう映ったと思う? あるいは今の総帥、小野宮蓮穣をその座から引きずり降ろそうとしている人間の目には」

――それは。タスクには権力闘争とか、そういうことはいまいちよくわからなかったけれど。
 それでも権力の座にある人間の身内が殺人事件に巻き込まれていて、あまつさえその容疑者として疑われているなんて情報は、悪用されればこの上なく厄介なものだろう。

「私が小野宮ではなく、母方の旧姓を名乗っているのは、せめてそう言うことから自分なりに身を守ろうとするささやかな抵抗だ。別にそんなことをしなくても、蓮穣は私のことなど小娘としか――いや、ただの石ころか何かとしか思っていないだろうけど」

 それはともかく、とカイコは一度自身に関する話題を打ち切った。

「とにかく私は、他の生徒に比べれば圧倒的に財力や権力に恵まれた境遇にありながら、そして生徒の最善の利益を保護する生徒会の一翼を担っていながら、殺人者の凶行から誰ひとり救ってやることができなかった。たった一人の親友さえ」

 それはおそらく、アゲハのことを指しているのだろう。

「悔しくて悔しくて、自分の無力が情けなくて、私は七色不思議なんて言うおまじないにさえ縋った。でも結局、アゲハは生き返らなかったし、何も起こらなかった。だからね坂崎君、死んだ人間が生き返る、なんてことは、あり得ないんだ。もしそんなことが本当にあったなら――それにはきっと、何か深い意味がある」

「深い、意味、ですか? ――もしかして」

 それは例えば、タイチを殺すとかいうことだろうか。
 カイコはタスクの思いを先読みしたように破顔してそうじゃなくてね、と言った。

「そんな呪わしいことじゃなくてね、例えば、君はその復活が、君自身の意志によって行われた可能性を考えたことはあるかい?」

「ボクの?」

「そう、無理やりに生き返らせられたんじゃない。君は君自身の望みによって、復活したのだとしたら? 君自身が生きたいという願いによって復活したのなら――ならば君はそれに足るだけの願いがあったんじゃないだろうか」

――願い? ボクはただ、自分が消えてしまうことしか考えていなかったと思うけれど。

 そう言うとカイコはそうだなぁ、と閉じた扇子を口に当てた。

「どうして、君は消えたいと思ったんだろう」

「それはだって――、生きてるのがつらくて、何をやってもうまくいかないし、期待に応えられずに失望ばっかりされて、それがこの先もずっと続いていく、お先真っ暗な人生だから、だから、消えたいって、死体も見つからずに、思い出も残さずに、誰の記憶からも、消え去れればいいって」

「ほらね」

 カイコはピッと扇子でタスクを指して、意を得たように笑った。

「それは裏を返せば、生きるのがつらくなかったら生きたいってことじゃないか。誰かの期待に応えたいっていうことじゃないか。消えたいっていうのはそうやって誰も悲しませたくないっていう気持ち。君は、自分が思うように生きられないから辛くて消えたい――それはつまり、もっとうまく生きたいってことだ。誰も君のその生きたい気持ちに気付いてくれないから、気付かれないままに消えてしまいたいんだ。君は誰より生きたいと思っている。みんなの期待に応えたいと思っている。それが君の、本当の気持ちなんだ」

 カイコの言葉にタスクは心臓を貫かれた気がした。
 大胸筋が覆って、肋骨が厳重に張り巡らされたその奥にある、自分の心の一番敏感な部分に触られた気がした。

「だから、その気持ちを神様みたいなものが聞き届けてくれて、この宇宙を支配する因果さえ超越して、君に新しい命をくれたんじゃないかな。だとすれば、君の体に宿っている新しい命は、奇跡なんだ。君の切なる願いがもたらした条理を覆す福音」

「……でも、頭の中の鬼が」

 タスクの中で灰音はいつだってタスクを乗っ取ろうとしていて、そしてタイチを殺す機会をうかがっているのだ。

「それが試練、なんじゃないかな」

「試練?」

「君が一度死んで、生き返るという奇跡のために君が君自身の力で乗り越えなければならない試練。君が心の中の鬼に負けてタイチを殺してしまえば、その後君は吸血ジャックに殺される。でももしも、鬼に打ち勝つことができたなら――君はその新しい命で、今度こそ幸せになることができる――なんて、ちょっと夢見がち過ぎる話だったかな。忘れてくれたまえ」

 カイコは扇子を広げて、顔を隠すようにして笑った。
 隠しきれていない頬が少しだけ赤い。
 ああ、この人は、見た目よりずっと、年齢相応の少女なのだ。
 そう思ってタスクの鼓動は浮かれるように少し速くなった。

「何はともあれ、自殺が実は夢だったにせよ、実際君が生き返っているにせよ、君が今生きているという事実は動かない。だったらね、坂崎君、やることは一つだよ」

 カイコは扇子を閉じて人差し指を添えてタスクの心臓をまっすぐ指差すように伸ばして言う。

「生きたまえ。決して死のうなどとは考えず、がむしゃらでもいい、見苦しくてもいい、つらいことがあったら迷わず誰かに縋り付いて構わない。迷惑をかけることだってあるだろう。でもそんなことに構わず、君は君の命を、生き抜くんだ。それが、生きるものに等しく与えられた使命だよ」

 カイコがそう言ったところに、昼休みの終わりを告げる始業五分前の予鈴が鳴った。

「――すまん。話題がそれっぱなしだったね。とにかく私は、日曜日の件で、君に謝っておきたくて今日呼んだのだけれど。それで、君の方はどうだろう――実は秋に関東地区の合唱祭があるんだが。伴奏を――頼みたい」

――この人は、それでもまだ、ボクのことを頼ってくれるのか。

「……少し、考えさせてください」

 カイコはフッと笑った。

「そうだね、返事はいつでもいい。君の中で、何かの区切りがついて、どちらの答えでも、私の前で胸を張って言えるようになったら、その答えを聞かせてくれたまえ。今日はこれで用事は終わりだ。下がっていい」

 タスクは一礼して、生徒会室を後にした。
 何があったわけでもないのに、なんだか足取りが軽くなった気がした。

The Silkwarm: It may sound like love

2013.09.02.[Edit]
4 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。 もう五分は立ち尽くしているだろうか。 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。 コンクールの件だろう。 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃...

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 放課後には雨は止んでいた。
 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。

 授業が終わり、今は四時四十五分。
 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。
 何をして時間を潰したものか。
 考えていると確かヨースケと約束をしていたことを思い出した。
 場所は禅定寺だったか。
 そこに、去年この学校で起こった事件の第二の犠牲者である潮ヶ浜夜の墓があるという。

 禅定寺はここからそう遠くない。歩いて十五分くらいだ。
 幸い雨もやんでいるし、ヨースケは放課後と言っていたから、歩いて向かえばいいだろう。

「トーンちゃーん!」

 靴を履きかえるトンボの耳に聞こえてきたのは間の抜けたタイチの声だった。
 トンボはあえてそちらを見ずに、何、とそっけなく返事をする。

「今日はーせっかく部活がなくて、タスクのお見舞いもないのでー、オレと一緒にー」

「悪いけど、この後禅定寺に行かなくちゃいけないんだ」

「え? 何故に? まさかデート? なわけないか。デートにしても禅定寺は渋すぎるし」

 トンボはタイチに本当のことを言おうか迷った。
 言えば確実にタイチはついてくるだろう。
 だが、多分ヨースケはトンボ以外の人間がついてくることを望まない気がした。
 それに、そんなにかき回していいことではないような気がする。

「――お墓詣り。悪いけど、ついてきてほしくはないんだ。なるべく一人にしてほしい」

 トンボはタイチに言う。嘘はついていない。
 本当のことも言っていないけれど。
 タイチはほっぺたを膨らましてちぇ、と言った。

「せっかくトンちゃんとデートしようと思ったのにー、もういい! オレ、タスクと一緒に超えてはいけない一線を越えちゃうから!」

「ごめんごめん。今度ちゃんと時間作るからさ。今日は見逃して」

「もう、今度っていつよ! あなたいっつもそう言って! もう知らない!」

 タイチはわざとらしく泣き出したように腕で目を拭って玄関を駆け抜けた。
 トンボは大きくため息をついた。
 あれはあれで巻き込まれない分には愉快な友達なのだけれど。

「ご愁傷様……」

 後ろからぼそぼそとした声でつぶやかれ、トンボはびっくりして振り返った。
 タスクだった。相変わらず目線は合わせず、わずかに斜め下を見ている。

「お墓詣りって、お兄さんの?」

「あ、ううん、それとは違うんだけど――ごめん、ちょっと急いでるんだ。また明日ね」

 トンボはこれ以上足止めを食らうとヨースケが帰ってしまうと思い適当に話を打ち切って、タスクに手を振って別れを告げ、玄関を出た。
 雨は止んでいたけれど、曇り空の雲は厚く、それでいて街はむしむしとうっとうしい暑さが立ち込めていた。
 少し歩くだけで服にジワリと汗が浮かぶ。不快な暑さだった。
 
 トンボが禅定寺の霊園に入ると、そこには墓参りする家族があった。
 その中にヨースケを見つける。
 では、あれは、おそらく潮ヶ浜夜の家族。
 トンボは堂々としていればいいのに、何故か影から窺うように身を隠してしまう。
 さすがに遺族と会うのは気が引けた。
 ヨースケがここに来いと言ったのは、家族と引き合わせるためだったのだろうか。
 だとしたら思いのほか人が悪いと言わざるを得ない。

 家族は墓を清め、墓を花で飾って、ろうそくを灯し、焼香をする。
 思い思いに何かを言っていたようだが、何を言っているかはわからない。
 やがて、ヨースケもその墓に線香を供え、手を合わせた。
 そして、家族が帰るのを、頭を何度も下げて見送る。
 家族の姿が見えなくなってしばらくして、ヨースケは大きな声で出てきていいぞと言った。

――気付かれていたのか。
 別にヨースケの方から呼んだのだから、負い目を感じる必要は何もないはずだった。
 それなのに、何故だかいたずらがばれて兄に叱られる前に名前を呼ばれるような気になった。

「よぉ、トンボ、悪ぃな。待たせちまったみたいで。――そっちに隠れてる二人も出てきたらどうだ! 別に今更怒らねーよ!」

 ヨースケはトンボとは逆側の墓石の列を振り返って言った。
 その影から、ひょっこりとタイチとタスクが顔を出した。

「タスク! ……それにタイチ……」

 驚いたようにタスクの名を呼び、その後に睨みつけてタイチの名を呼ぶ。
 タイチは何その差! と心外そうだが、タイチがタスクを誘ったに違いなかった。

「つけてきたのか?」

「ぶっぶー、外れー、先回りしたんですー! トンちゃんが禅定寺に行くって言ってたから、タスクを誘って走ってトンちゃんより十分前には着いてましたー!」

「タイチ!」

 トンボは怒鳴った。タイチは怯まない。
 代わりにタスクが居心地悪そうに視線を落ち着きなく動かした。

「君は、今お墓詣りしてた人達が、どういう人達だか、ヨースケ先輩がどういう立場なのか――」

「やめろトンボ」

 言ったのはヨースケだった。
 トンボが振り返ると、そこにはいつもの陽だまりのような大きな笑顔があった。

「友達は仲良くするもんだぞ。――それにヨルのことはお前が松木を怒る理由にはならない。オレは怒ってないんだから、お前が怒ることもないんだ」

 ヨースケは言って大きな手でわしわしとトンボの頭を撫でた。
 昔兄がしてくれたみたいで、なんだかトンボは懐かしくてたまらなくなった。

「よーし松木、女の子をつけ回すのはよくないけど、つけ回したくなるお前の気持ちはよーくわかるぞ! それに、お前ら、やっぱり何かあるんだろ。病院のことと言い、トンボの態度と言い、怪しすぎるぞ。この事件に関しては色々嗅ぎまわられるのは、俺としてはすごく気分悪い、だから正直に白状しろ。お前ら、何をしようとしてるんだ?」

「オレは別に――」

「ボクは、去年起こった式部北高校生徒連続殺害事件の真犯人を探しています」

 タイチの言葉を遮ってトンボは言った。
 真犯人、とヨースケは眉をひそめる。

「何でこう、アゲハ先輩と同じことを言うかねぇ、それ、お兄さんから聞いたのか? この事件、吸血ジャックが犯人じゃないって」

 いいえ、とトンボは静かに答える。

「タイチの叔父さんの警察の人から聞きました。この事件には他の吸血ジャック事件には見られない特徴があって、吸血ジャックの犯行じゃない可能性があり――そしてそうなら、四人を殺した犯人は学校関係者かもしれないと」

「で、お前は六十二代生徒会を疑ってるってわけか。でも、それで行くなら、多分その推理は間違ってる」

 ヨースケが断定的な口調で言う。
 トンボは本当ですか、と思わず声を弾ませた。
 そうでなければいいと思って疑っているから、ヨースケの言葉は嬉しかった。

「ああ、だって、オレは去年同じ語り口でアゲハ先輩にヨルのことで何か知ってることはないかってさんざん聞かれて、日記を渡してるからな。もし旧生徒会が犯人で、言っちゃ悪いがお兄さんが関与してたとしたら、そんな行動取るわけないだろ? その後にアゲハ先輩は殺されてるからカモフラージュのためだったとも考えにくい」

――それは、そうだ。
 アゲハが犯行の一部を担っていた、いやそこまでいかなくても、六十二代生徒会が犯行を重ねていることを知っていたなら、わざわざ真犯人を探してヨースケに話を聞く必要はない。ならば、やはり――。

「まあ、結論を急ぐな。仮定の話をしよう。吸血ジャック事件、いや、去年の式部北高校で起こった四つの殺人事件が、吸血ジャックに見せかけるための犯行で、それが学校関係者によるものだと仮定する。その場合犯人にとって一番都合の悪い存在ってのはどういう奴だと思う?」

 聞かれてトンボはううんと考え込んだ。
 犯人にとって一番都合が悪い、それはやっぱり推理力が豊かで、洞察力に富んでいて、些細なことからも犯人を特定する観察力を持った探偵のような人物が――。

「去年の事件を知っていて、かつその犯人を探そうとする可能性の高い人間、その中でも、教師、あるいは学生として日常的に学校に出入りする人物――つまりは、去年の事件の被害者の身内で、今この学校の一年生で、まさにその事件を調べようとしている、よーするにトンちゃんのことだよ!」

 タイチは自信満々にトンボを指さして、長い前髪の下で不敵に笑う。

「人を指さすのはよくないぞ。特にお墓ではな。まあそう言うことだ。松木の言う通り。犯人が本当に学校関係者で、まだ学内にいる人物だとしたら、一番チェックしているのは去年の被害者の身内、あるいは親しかったもので、学校に頻繁に出入りする人間、つまり、俺やトンボのことだ。そういう人間がこれ見よがしに事件を調べてますよーとかって行動し出したら、犯人はまず何をする?」

「その人物の、抹殺!」

 ぐわしと拳を握りしめてタイチがまたも自信満々に言う。
 タスクはその後ろ髪を一度引っ張った。

「いい加減にしておけ。そういう空気じゃないことに気付け」

 タスクが不快そうに言う。

「何だよもー、みんなが葬式みたいな暗い顔してるから、明るくしてやろーと思ってやってるのに! わかったよ、真面目に答えればいいんだろ! 真犯人が学校関係者で、被害者に親しかった人が、過去の事件の捜査をしていることに気付き始めたら、だろ、そんなの決まってんじゃん、何食わぬ顔して近付いて、味方の振りをして自分が疑われないように推理を誘導して間違った方向に疑いをかけるんだよ」

――味方の振りをして、間違った方向に疑いをかける……?
 トンボはタイチの言葉にぞっとする。
 それならば、今トンボは六十二代生徒会を疑っていた。
 その疑いを持たせたものこそが犯人と言うことになる。
 すなわち――山下勝彦が。

「――でも、山下さんは犯人じゃないぜ」

 トンボの考えを読んだようにタイチが言った。

「すげーなお前。松木って馬鹿だと思ってたんだけど、それ正解だ」

 ヨースケは感心したようだった。
 トンボもきっと立場さえ違えばタイチの推理に感心しただろう。
 今一つそう思えないのはその行いがどこか間抜けだからだろうか。
――それとも山下が犯人でタイチも関わっていたのでは、と疑い始めているからだろうか。

「でもトンボ、騙されんなよ。俺が言ってんのはな、これまでとこれから、とにかくお前がこの事件を調べる上で、誰かが犯人かもしれないっていう疑惑をお前に吹き込んでくる人間が――つまり、俺みたいにお前に接触してくる人間の中に犯人がいることを考えろってことだ。要するに、俺もお前に間違った推理を誘導しに現れたのかもしれないって危険を考えろ。お前はここに来るまでの間、少しでも俺を疑ったか?」

 トンボはとんでもないと首を横に振る。
 ヨースケははぁと大きなため息をついた。

「松木がどうしてついてくるって言ったのかわかってないだろ」

 それは――いつもの通りの悪ふざけだと思っていた。
 ヨースケの深刻な様子に、そんなふざけたタイチを連れて行くのははばかられた。

「もし学校内に真犯人がいるなら、いの一番に危険なのは自分だってことを少しは自覚しろ。松木はお前が心配だからついてきたんだよ。普通なら、俺を疑わなきゃいけない。兄の事件を調べて、一番初めに聞き込みをかけた人間が、偶然にも第二の殺人の被害者の恋人で、その人物から日記を渡したいから放課後お墓に来てくれ、なんて、罠以外の何物にも見えないぞ。これで俺が真犯人で、もし松木と坂崎がお前についてこなかったら、間違いなくお前は明日、学校で死体になって発見されてた」

 そう言われると、トンボはぐうの音も出ない。
 自分でも迂闊だったと思う。
 ヨースケが犯人かもしれないという可能性そのものを考えなかった。
 これではヨースケが犯人でなくても、いつか真犯人に同じような手口で殺されかねない。

「すいません……でも、それじゃあ、誰も信じられなくなります……」

「誰かを信じたいなら、犯人探しなんて今すぐやめろ」

 ヨースケはきっぱりと言った。

「俺はなトンボ、ヨルが殺された時、お前と同じように犯人を学校の仲間の中に探して、復讐してやろうって思ってた。学校にいるやつみんなが犯人かもしれないと疑ってたし、少しでも怪しかったら殺してやろうって本気で思ってた。でも、アゲハ先輩がヨルの日記を返すときに言ったんだ。『潮ヶ浜さんの復讐をするのは自由だけど、潮ヶ浜さんの名のもとに桜木君が殺人を行うなら、それは君が潮ヶ浜さんに人殺しをさせることだ』って」

――復讐って、便利な言葉だよな。ヨースケは弱弱しく呟く。

「自分が好きな人を殺されて憎む気持ちって、絶対に殺された人が殺したやつを恨む気持ちとおんなじじゃない。それなのに、復讐って言葉を使うと、俺が殺したいって気持ちを、ヨルのせいにできちゃうんだよ。ヨルが殺されたから、だから俺が犯人を殺して、ヨルの無念を晴らすんだって。それは俺が人殺しをするのはヨルのせいだって言うことで……いつの間にか俺、ヨルが好きだって言いながら人を殺すことを正当化してた。俺はヨルを、人殺しの理由にしてたんだ。それってすごく怖いことだ。だから――」

 ヨースケは真剣な顔で言っていた。
 とても悲しそうな顔だった。
 この人はきっと、潮ヶ浜夜のことが大好きだったんだろう。
 そして今、トンボのことを本当に親身に心配している。
――自分はそんな気持ちにさえ、疑いの眼差しを向けなければならないのだろうか。

 そんなことを思っているトンボの前にヨースケは二冊の日記帳を差し出した。
 一つはいかにも女の子が好みそうなパステルカラーの鍵付きの日記帳。
 もう一つはただの厚めのノートと言った感じだった。

「誰かを信じていたいなら、俺や、坂崎や、松木や、お前のお兄さん自身を信じていたいなら、今すぐ犯人探しや探偵ごっこなんてやめろ。――これは去年の四月から、ヨルが殺される日までの間の日記と、お前のお兄さん、アゲハ先輩が事件について調べた記録だ。でもオレはヨルの日記は読んだけど、アゲハ先輩のは読んでないからな。あの人が死んで、事件を調べたいなんて気はなくなっちまった。もし真相が、お前にとって受け入れがたいものだったとしても、それでもお前がお兄さんを殺した事件の犯人を知りたいと思うなら、この日記はお前に預ける。読んでいいし、お前の考えを書いてもいい。返さなくていい。なんなら燃やしても構わない。でも、ここに書いてあることは、絶対に疑いの眼差しで見なくちゃいけない。だって俺が――真犯人かもしれないんだからな」

「ヨースケ先輩……」

 冗談でもやめてください、と言うとするトンボにヨースケは手のひらを広げて制す。

「冗談じゃないぞ。本気で言ってるんだからな。俺が犯人だったら、お前を殺さなかったのは松木と坂崎っていう邪魔がついてきたから。そこで俺はその場合に備えて、お前に犯人をミスリードさせる手段として、この日記帳を渡す――そう思っとけ。この日記を受け取るんならな。確信はいつだって足元をおろそかにさせる。こいつが犯人、なんて確信はともかく、こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。その覚悟があるなら――」

「もらいます」

 トンボはヨースケの手から日記を取り、迷いなく言う。

「そして、先輩のことも信じてます。タスクも、タイチも、兄さんのことも。先輩には虫のいい話に聞こえるかもしれないけど、ボクはやっぱり親切にされれば、それを疑うより先に、信じてしまいます。いつか、騙されて、痛い目を見る、いや、本当に死にそうな目に遭うかもしれません。それでも、ボクは信じたい。兄さんと、兄さんが信じたものの潔白を」

 ヨースケはやれやれと言わんばかりにうつむいて笑って、大きな声でだってよと言った。

「純粋で危なっかしーお姫様だ! いつ誰に騙されるかわからねーぞ! お前らで守ってやりな! 二人のひよっこナイト様よ!」

 ヨースケはトンボを二人に押し付けるように背中を押して、鞄を背中に担いで後ろを向いた。

「言いたいことは言ったし、渡したいものも渡したし、釘を刺した方がいいと思ったことは一応釘を刺しといたからな。後はお前ら三人で好きにしな。俺はこの件に関してはもう何も言わないし、協力もしないからな。じゃーな」

 ヨースケはそのまま霊園を後にした。
 トンボはその姿が見えなくなると、タイチとタスクを振り返った。

「ごめん、タイチ。ボクが不用心だった。心配してついてきてくれてありがとう」

The Sun visits The Night's grave

2013.09.02.[Edit]
5 放課後には雨は止んでいた。 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。 授業が終わり、今は四時四十五分。 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。 何をして時間を潰したものか。 考...

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 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。

「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」

「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」

「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」

 胸を叩こうとしたタイチの腕をタスクが掴んだ。
 さすがにタスクの目の前で調子に乗りすぎたか。そう思ってタスクの方を見て――。
 そこでようやく、二人は異常に気付く。
 タスクはギュッと胸のあたりを押さえていた。おそらくそこにある紫水晶の振り子を。
 その顔はひどく歪んでいる。
 笑おうとする筋肉と、それをこらえようとする筋肉がぶつかり合っているようだった。

――鬼が来たんだ。ここは学校じゃないから。そしてタイチがいるから。
――こんな時に。

「……タイチ、トンボ、逃げろ」

 呻くようにタスクが言った瞬間、潮ヶ浜夜の墓に供えられたろうそくと線香が、墓石より高く灰色の炎を上げて燃え盛った。
 タイチは即座にタスクに掴まれた腕を振りほどき、トンボの腕をつかんで霊園の出口に向かう。その足が突然止まった。
 
「タイチ……?」

 トンボが怪訝に思って名前を呼ぶと、即座にタイチはタスクを振り返り、トンボの腰に肩を当てて、そのまま横に弾き飛ばした。
 さっきまでトンボ達がいた石畳が、灰色の炎を上げ、一瞬で燃え尽きていく。
――いや、それはどんどん燃え広がるように横に伸びて、いつの間にか霊園そのものを灰色の炎の壁が覆っていた。

「クソ、逃げ道を塞がれた……!」

 タイチが苦々しく言い、タスクとトンボの間に立ちふさがる。

「トンちゃん……短い人生だったけど、オレ幸せかもしれない。だって死ぬ前に好きな人と一緒にいられたし」

「――バカ、こんな時に!」

 叫ぶトンボの胸にタイチは顔をうずめる。そのまま地面に押し倒された。
 タイチの背中の上を、灰色の火球が通り過ぎて行った。

 それが知らない人の墓石に当たって、その墓を燃やし尽くしていく。
 墓が一瞬のうちに見る間に跡形もなくなっていくのを見て、タイチもトンボも戦慄する。

「……トンちゃん、合図したら、トンちゃんは目を閉じるんだ。その間、何が聞こえても絶対に目を開けないで。作戦がうまくいったら、きっとタスクは元のタスクに戻ってるから。そしたらさ、トンちゃんはタスクと二人で、学校で一緒にお弁当食べて、一緒に帰ったり、一緒に海に行ったりお祭りに行ったりして、それで一緒に卒業するんだ。これまで通りになる。何も変わらない、今まで通りだ。今日のことは台風みたいなものだよ。だからさ、タスクのこと怖がったり、嫌いにならないで、ずっと一緒にいてやってくれよな」

「タイチ?」

「合図は、アイ、ラブ、ユーだ。オレがユーって言ったらトンちゃんは目を閉じるんだ。大丈夫、あいつの狙いは最初からオレだよ。トンちゃんはオレといなければ危害を加えられないから」

「待ってよタイチ、君は――」

「行くよトンちゃん、アイ、ラブ……」

――やめろ、そんなの聞きたくない。
 ボクが目を閉じて、その間に君は何をするつもりだ?
 タスクが元に戻るって、どうしてその後に君が登場しない?
 ずっと一緒にいてやってくれ? そんなの君も一緒に決まってるだろ!

 タイチがユーと叫んだ。トンボは大声でやめろと叫ぶ。
 タスクは歪んだ笑い声をあげながら、タイチに向かって灰色の火を放った。
 それがタイチにぶつかる――その寸前。トンボの目の前に天使が現れた。

 トンボはわが目を疑った。
 だってその人は、本当に空から降りてきたから。
 猛烈な風をはらんで、ゆっくりと天から階段を降りるように、その男は降臨した。
――萩原ミツルは。

 突風にあおられた灰色の炎は見る間に小さくなり、やがて消えた。
 ミツルが消しているのだ――風を操って。そうトンボの直感が告げる。

「今のうちに逃げよう、トンちゃん!」

 炎の壁が無くなった隙をタイチは見逃さない。トンボの手を握って立ち上がる。

「何してるトンちゃん、立つんだよ! 立って逃げなきゃ!」

 トンボは立てなかった。いや、正確には、見惚れていた。

 まるでそれは一幅の絵画、あるいは神話の一場面の切り抜きのようだった。
 墓碑が立ち並ぶ野原に現れた鬼。その鬼の前に風と共に舞い降りる天使。
 そして天使は鬼を恐れることなく近づいて、その頬に触れる。
 鬼は天使の威光に跪いて、天使が何かを囁いた。
 風の音がうるさくて、トンボには聞こえない。
 しかしそれがタスクの耳に入ると、タスクの目に光が戻った。
 天使が祝福し、鬼が人間に戻る一幕――。
 劇的というなら、この上なく虚構めいた状況だった。
 あまりに現実的でなくて、夢を見ているのだとさえ思った。

 そして天使は――ミツルはトンボとタイチを振り返った。

「篠塚、悪いことは言わない。この二人と一緒に行動するのはやめておけ。いつかこういう目に遭って、君は命を落とす羽目になる」

 感情のないその言葉は、一種荘厳な宣託のようにもトンボには聞こえた。

「あ、アンタ、何なんだよ! 突然現れて! 助けてくれたのはありがたいけど、いきなり何を……」

 ミツルは叫ぶタイチの方を見て、その顔に手を伸ばす。
 タイチは怯んだように身をのけぞらせた。

「助けたのは篠塚であって君ではない。僕に憑いている色鬼も君を殺さないという判断を下すかどうかは、まだ躊躇っている」

「それ、どういうことだよ……」

 タイチはミツルの言葉に顔色が変わる。

「モラトリアム――君は今、色鬼灰音以外の全ての色鬼から、殺すべきかどうかを猶予されている。それは君を殺すことがこの世界と色鬼と鴉に何をもたらすかが未知数だからだ。それにさしたる影響がないことが判明すれば、色鬼達は君を殺すことを躊躇しないだろう。覚えておけ、松木タイチ。今後どう物語が展開しようと君の一族は、常に色鬼にとっても人間にとっても敵勢だということを」

「何だと……! オレの一族って、どういうことだよ! あんた、オレの親のこと――」

 噛みつくように言うタイチに構わず、ミツルは、今度はタスクを指さした。

「行かなくていいのかい。君の、大事な、大事な友達が、目を覚ます――」

 タスクはわなわなと顔を覆ってその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 タイチはそれを見て、くそ、と呟いてそのそばに駆け寄る。
 トンボはやっと我に返って、ミツルを見上げた。

「あの――、ありがとうございます」

 ミツルは何も言わずにトンボの顔に手を伸ばし、その顎に手を触れる。

「よく似ている……」

「え――」

「もう彼らには関わるな。また坂崎タスクがああなっても、僕はもう助けない。覚えておくことだ」

――行こう、トウタ。
 ミツルはまたそう言うとトンボの顔から手を離し、帰って行った。
 トンボは呆然とそれを見送り、そして座り込むタスクのそばに駆け寄った。

「大丈夫、タスク?」

 タスクはおどおどした視線でトンボとタイチを見て、それからうつむいて顔を両手で覆った。
 わなわなとその肩が震えだす。
 うう、うう、とうめき声のような音がその喉から聞こえてきた。
 また、泣いてしまうのだろうか。トンボがそう思った時だった。

――うう、ふぐ、ふふふ、ははは……。

――うめき声、違う、これは、笑い声だ。タスクは笑っている。高らかに声を上げて。
 トンボとタイチはその様子にさっと身構えた。

「ば、バーカ」

 タスクが言った。
 トンボもタイチもきょとんとする。

「だ、大丈夫だって? ま、ま、まだわからないのか、この場で誰がいちば、一番足手まといだったか!」
 
 タスクの声はがたがたと震えていた。歯の根が合っていないのだ。
 タスクは暗い瞳でトンボをあざけるような視線で睨む。

「は、はっきり言ってやるよ! じ、自分のこと、ぼ、ぼ、ボクだとか、か、かわ、かわいいと思ってんのか、きも、きも、キモいんだよ、この――おとこ女! いい年して、こ、高校生にもなって、すこ、すこ、少しは、恥じらいを持て! ば、ば、バーカ、ハハハ、ハハハハハ!」

「何だと、お前タスク! トンちゃんがどれだけ――」

 トンボがその言葉を理解して、怒りを感じるより先に、タイチがタスクを怒鳴りつけた。
 タスクはそのタイチにも、やはりバカにするような目を向けた。

「お、お、お前も、タイチも、い、いい加減にしろよ! その髪型、何なんだよ、び、貧乏キャラぶってんじゃ、ねーよ! アホみたいな振りしてるのも、ば、ばれてんだよ! バレバレなんだよ! ぶ、ぶりっ子女に、アホの振りした男に、お、お、お似合いのバカップルだな、バーカバーカ! もう近寄んな! ば、バカがうつる!」

 タイチがその横っ面を殴りつけた。
 タスクはその顔に下卑た笑みを浮かべてへらへらと笑う。

「こ、言葉で返せないと、ぼ、暴力に頼るぅ、ち、知能が低い、げげ、原始人だから、しょうがないよなぁ。お、お前らりょ、りょ、両親がいないから……だ、だ、だから、精神が、肉体の成長に、つ、つ、ついていけないんだ! だから、す、捨てられたんだよ!」

「――お前!」

 タイチが振りかぶった手を、トンボは止めた。
 タイチが振り返るより早く、タスクの襟首をつかむ。

「あっそ。勝手にすれば、自殺君」

 トンボはそう言ってタスクのほっぺたに往復びんたを叩きつけ、その胸を突き飛ばした。
 タスクの鼻から、血が滴っている。その頬を透明な液体が撫でた。
 涙――違う、雨が降ってきたのだ。
 雨はあっという間に土砂降りになった。
 トンボは鞄とヨースケからもらった日記帳を鞄にしまい、タスクに背を向けた。

「二度と近付かないで」

「あ、待ってトンちゃん――」

 タイチは叫んで、一度タスクを振り返った。

「――あばよ」

 そしてトンボの後を追う。
 一人残されたタスクは、雨音と張り合ってるのかと思うくらい、大きな声で笑い続けた。

The Angel: His saying is nothing but farewell

2013.09.02.[Edit]
6 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」 胸を叩こうと...

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「トンちゃん、待ってって」

 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。

「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」

 え、とタイチの顔から表情が抜けた。

「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で兄の死の真相を調べてるのに、ふざけ半分で、その上命まで狙われたら話にならない」

「トンちゃん、オレは――」

「触らないでよ!」

 手を伸ばすタイチをトンボは怒鳴って振り払う。

「馴れ馴れしくどさくさに紛れて手を取ってきて! そういうのセクハラだから! こっちはもううんざりなんだよ! 二度と声をかけないで――目の前から消えて!」

 タイチは小さくトンちゃん、と呟いて、ああそうかよ、といらだった声を出した。

「どいつもこいつも、つらくて今にも死にそうな顔してるから、下手に出て優しくしてりゃ付け上がりやがって! そうかよ、オレはずっと親切にしてるつもりだったけど、そんな風に思われてたなんて知らなかった! ごめんね、迷惑で! 安心して、もう二度と話しかけないから! じゃあね! さよなら!」

 タイチは怒鳴るように言ってトンボに背中を向けて走り去った。
 トンボはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 ヘッドライトをつけた車が隣の深い水たまりを、派手に水しぶきを上げて通り抜けた。
 トンボは服に泥水を浴びて、それでもまだそこから動けずにいた。

――これでいいんだ。これで。

 トンボにはタスクの真意がわかっていた。
 タスクは自分がタイチにもトンボにも害にしかならないことを理解していた。
 だから、あえてトンボやタイチの悪口を言って、自分との縁を切らせたのだ。
 それが一番いい方法なのだ。そうやってお互い距離を取っていた方がいい。
 タスクはタイチを殺そうとしている。
 トンボの事件は二人には無関係だ。
 ヨースケにはああ言われたが、こうなった以上、トンボが慎重になるしかない。
 でも、それでいいのだ。そうするのが現状で、一番――。

「う……く……」

 頭をよぎるのはこの二か月の三人での思い出だった。
 入学式、みんな制服姿で、似たような恰好をしていても、タイチとタスクの二人組は、明らかに周囲から浮いていた。
 タイチはその見た目で、タスクはその雰囲気で逆にトンボの目に残った。
 口をきいたのは最初のホームルームの時。
 委員会決めで、それぞれの委員の役割を先生が説明し、立候補を募った時、トンボは真っ先にクラス委員に手をあげ、周囲から拍手をもらった。
 その後なかなか決まらない男子クラス委員は結局じゃんけんで負けた人間がやることになり、それがタスクだった。
 トンボは最初、うわ、こいつかよ、と正直思った。
 タスクはおどおどとしながら、それでも、自分から手を差し出して、よろしくと言ってきたのだ。

 五月になって、トンボが風邪を引いて学校を休むと、タスクはクラス委員だからとプリントを届けに来てくれた。
 これがまた笑い話で、タスクは道に迷ってトンボの家とはまるで別の隣町に行ってしまい、あわや行方不明扱いになるところで、逆にトンボが家を出て探しに行く羽目になって。
 それで学校に行けば、タスクは何故か風邪を引いたのは普段の食生活が悪いからだと上から目線でトンボに言い、だから弁当を作ってくるので食べろと言った。
 どうせ家族とタイチの分を作っているから、あと一人くらい増えても問題ないと。

 それから、三人で弁当を突きあう仲になって、結局気がつけば、三人で固まっている。
 タイチがいつもひょうきんなことをして、タスクがそれに突っ込んで、三人で笑って。

――そう言う日々が、今日終わったのだ。
 理由がどうであれ、とにかく、明日から、三人はきっと口を交わすこともない。
 もちろん弁当をタスクが持ってきてくれることもなければ、もうタイチから熱烈なアプローチを受ける心配をする必要もない。

――清々した。……わけないか。
 この胸にある空洞は何だろう。
 トンボは自分の胸に手を当てた。心臓の拍動を感じる。
 でもここにはもう何もない。心がない。心を満たしていた明るい色がない。
 今までそこを満たしていた暖かくて優しい色。
 どこに忘れてきてしまったんだろう。なくさないように大切にしていたのに。
 兄が死んで、一度なくして。
 もう二度となくさないようにしっかり守っていたはずなのに。
 どうしてまた同じ感覚が、胸に広がるんだろう。
 何故また同じように胸の中が灰色に塗りつぶされるんだろう。

 結局トンボは、兄の死から何一つ学んでいなくて。
 そのトンボの愚かさが、またトンボ自身から大切なものを奪っていく。
 雨は止んで、カエルが鳴く道をトンボはとぼとぼと帰る。
 その合唱はさながらトンボの愚かさをあざ笑うようで。
 やるせなくてトンボは暗い夜道に頼りなく灯る街灯の下で、ついに座り込んで泣いた。

――ボクは、バカだ。兄さん、ごめんなさい。タスク、タイチ、ごめん。

「ごめん……本当にごめん」

 そんなことを言っても、兄にも、タイチにもタスクにも届かないのに。
 それでも口からはその言葉が漏れた。

 どれくらいそうして泣いていたんだろうか。
 雨に濡れたTシャツはうっすらと乾き始めていたから、かなりの時間が経っていたことは間違いなかった。
 いい加減、家に帰らなければ。
 それに、兄が巻き込まれた事件の真相は、トンボの友情の崩壊などにはこゆるぎもしないのには違いなかった。
 ヨースケからもらった日記も読まなければならない。

――一体何のために。ふとその疑問がトンボの脳裏をかすめた。
 これで、仮に真犯人が見つかって、それが逮捕されたとしても、タスクとタイチとの関係が修復できるわけではない。
 大体タスクの問題はそれとはまったく別の次元で起こっているのだし。
 だから、トンボがこの事件について調べることは、トンボに何の利益ももたらさない。

 四人も人を殺した犯罪者が逮捕されることは社会にとってはメリットがあるだろう。
 でも、それはトンボにとって親しい友人二人との関係を反故にしてまで得る価値のあるものだろうか。
 いや、トンボが事件を調べようと調べまいと、この関係の破綻はタスクの自殺にあるのだからトンボの行動は関係なかったのだろうか。
 トンボがどうしようと、いずれこの結末は回避できなかったのだろうか。
 だったらトンボは気にせず、兄の死の究明を続けるべきなのかもしれない。

――でも、だから、何のために。
 タイチやタスクは事件には無関係だったけれど、彼らが動くことでトンボも動かされていた。
 タスクの自殺から始まり、タイチの叔父が二つの事件を関連付けた。
 関係ない二人の行動は、それでも常にトンボも巻き込んで展開していた。
 これからトンボは一人で事件に立ち向かわなければならない。
 そのためにはしっかりとした動機付けが必要だった。
 でも今、トンボの胸を虚無感が満たしていて、何のやる気も出ない。

 すすり泣きながら月明かりを頼りに帰り道を歩いていたら、不意に声をかけられた。

「そんなに泣いてどうしたよ、可愛らしいお嬢さん?」

 梅雨の分厚い雲の合間から漏れる月明かりに、その人物は闇の中から浮かび上がった。
――ように見えた。

「よォ、こんばんは」

「へ――?」

――それは見た瞬間、くらりとするような女性。

 170センチ以上はありそうな長身。
 グラビアモデルのようなスタイルに露出の高い服装。
 服の上からでも分かるほど発達した筋肉に、日本人離れした掘りの深い顔つき。
 ボリュームのある唇がとても色っぽい。
 その目つきは鋭い三白眼で猛禽類を思い出させる。
 迫力のあるドレッドヘアがよく似合っていた。

 一度見れば忘れられない強烈な色気を放つ女性だ。

「こうして直接話すのは初めてだな。トンボ、篠塚トンボ」

 彼女はくわえていた煙草をポケット灰皿に捨て、そう言った。

「あ、あの……あなたは?」

 どうしてトンボの名前を知っているのだろうか。
 知り合いにこんな人はいない。いれば絶対に覚えている。
 つい呆気に取られ、泣き止んでしまった。
 それだけではない。トンボの頭にはうっすらと恐怖があった。
 この先アゲハの事件を調べていく上で、トンボの前に現れる人間はみんな怪しいのだ。
 さらにこの人はトンボのことを知っている。トンボには心当たりがないのに。
 そんな人物がこの状況で現れるとすれば、トンボは怪しまずにはいられない。

「……やめろよ、顔が怖くなってるぜ。あいにくと眼鏡のお巡りみたく身の証を立てられるような立派な手帳は持ち合わせが無くてな。でも名前くらいは聞いた事あるんじゃねェか? アタシは神楽崎ユミエ……好きに呼べばいい」

 ユミエ――そうか。この人があのユミエか。

 トンボの中で全てが繋がった。
 確かにユミエの言う通り直接会話するのは初めてだ。
 でも、トンボは彼女のことを知っている。

 神楽崎ユミエ。
 伝説の式部北高校第六十二代生徒会。『伝説』を『伝説』にした生徒会長。
 それがこの女性。そして。
――篠塚アゲハの思い人だった女性だ。
 トンボの胸にはなぜか落胆が広がっていた。
 萩原ミツルの次には、この人。これでは本当に山下の言う通りではないか。
 この事件の裏で六十二代生徒会が動いている。それはもう間違いなかった。

「あなたがユミエさん、……兄さんから聞いた通りなんですね」

 ドレッドヘアに並外れたプロポーション、鋭い顔つきと意志の強い目。
 アゲハがとても嬉しそうに話していたのをよく覚えている。
 時間が時間だし、出会いが出会いなのでまだ緊張はしている。
 しかし、少なくとも恐怖は和らいでいった。

「お前もアゲハから聞いた通りだな。男勝りで気の強い……それにアイツそっくりだ」

 ニヒルな笑みを浮かべながら、ユミエはトンボの頭を撫でる。
 大きな手のひらだった。しかし触れられた感触に一瞬トンボはひやりとした。
 初夏の人肌とは思えないほどに冷え切っていた。

 ユミエの事はアゲハからよく聞いていた。
 破天荒で型破りで、真っ直ぐな人だと。
 そのインパクトのある風貌とは裏腹に、ユミエの手は年相応の女性の白さがある。
 よく見ればとてもきれいな白い肌をしている。少し、意外に感じた。

 ユミエの手が頭から下へ降り、頬を撫でる。
 その感触が気に入ったのか、その色気たっぷりの唇を小さく舌なめずりをした。
 その仕草を見て、トンボは思い出した。
 アゲハから聞かされていたユミエのもう一つの特徴を。

「可愛いヤツだな。思わず襲いたくなっちまいそうだ」

「ちょ……ぼ、ボクにそっちの気は無いですって!」

「そりゃあ残念」

 ユミエは意外なほどあっさりと手を離す。奇妙なほどにドキドキしている。

――なんだこの人。

 トンボは思い出す。
 ユミエは――性の対象に性別を問わないのだと。
 つまり、いわゆるバイセクシュアルであり、特に女好きであるらしい。
 女子からの圧倒的な人気で生徒会長になった人だと。
 アゲハに好きな人が出来たと聞いて、それを知った時は姉と二人で頭を抱えほどだ。

「挨拶はこのくらいにして……トンボ。アタシが今日来たのは話があるからだ」

「やっぱり……あなたたちなんですか? 去年、式部北高校で起こった連続殺人事件――ボクがそれを嗅ぎまわってると厄介なことになるから。あなたたちは――六十二代生徒会は、本当は何をしてたんですか? あなたは――何者なんです?」

 ゆったりとした動作でユミエはトンボに近付く。
 迫力に気圧され、トンボは無意識のうちに後ずさりしていた。
 薄暗い月明かりの中で、ユミエの瞳が妖しく煌めく。
 ダンッとトンボの横に大きな音がした。ユミエがトンボの横の壁を蹴りつけた音だった。
 そのままユミエは顔を近付ける。
 わずかな光の中で浮き上がるユミエの表情はひどく官能的に見えた。

「アタシが何者か――教えてやろうか」

 吐息がかかる程近くで、ユミエの潜めた声がささやく。

「吸血鬼――だよ」

 ユミエはいきなりトンボの耳に舌を這わせた。
 嬲るような、貪るような乱暴な愛撫。
 意志とは関係無しにトンボの口から甘い声が漏れた。

――喰われる。

 理屈抜きにトンボはそう感じた。
 この人は――魔性だ。人間じゃない、本物の、化け物だ。
 恐怖と快楽が頭の中で溶け、理性が麻痺していく。
 トンボのがらんどうになった胸の中に耳から伝わってくる快感が染み込んでいく。
 そのままユミエの体にすべてをゆだねたくなった。

「――ボクは、信じたい!」

 あァ? とユミエがトンボの耳に這わせた舌を離す。
 耳たぶから、とろりと糸を引いて、唾液がトンボの肩にかかった。

「ボクは、兄さんを、六十二代生徒会が、去年の事件の犯人じゃないと、その潔白を証明したい! 兄さんが犯人扱いされてたまるか! 兄さんが信じていたものが犯人であってたまるか! ――教えてくださいユミエさん、あなた達は犯人なんですか?」

 誘惑に屈してはならない。だってもう、トンボは一人きりなのだから。
 気持ちを強く持って、まっすぐに進まなくてはいけないのだ。
 ユミエは探るような視線でトンボを見た。トンボはそれも受け止める。
 息が詰まりそうなほどの緊張を破ったのはユミエだった。
 やれやれ、と呟いて足を外し、煙草を取り出す。

「煙草、吸ってもいいか?」

「……どうぞ」

 トンボの姉も喫煙者だ。煙草が苦手という事は無かった。
 姉はトンボがタバコに興味を示しそうになると絶対に吸うなと言うのだが。

 ユミエはマッチを取り出し、煙草に火をつける。
 銘柄はラッキー・ストライク。マッチはポケット灰皿に捨てる。
 妙なところで律儀な人だった。

 ユミエはアゲハの上の学年だったから今は十八歳か十九歳のはず。
 それなのにひどく様になっていた。まるで洋画のワンシーンのようだ。

「やっぱりアゲハの妹だな」

「え?」

「妙なとこばっか似てるよ。その頑固なトコとかな」

 鋭い三白眼がアゲハの名前を出した時だけ違う色が混じった気がした。

「少しビビらせりゃ引っ込むかと思ったが……ナメてたよ」

「はぁ……」

「……時間、大丈夫か?」

 携帯を見ると九時を少し過ぎていた。
 携帯にはメールが届いており、件名は『ごめん!』。
 姉からの今日は遅くなるという連絡だ。こういう事は少なくない。
 帰宅する時間が書いてないから、十二時を過ぎるかもしれなかった。

「大丈夫ですけど」

「そうか。少し長くなるけれどよ、いいか?」

「え?」

「アゲハの話だ。アイツの事話してやるよ」

 ユミエは煙を吐きながらそう言ったのだった。

「さてと――どっから話したもんかな」

 そしてユミエは話を始めた。彼女が長を務めた時代の話を。
 生きていた頃のアゲハの話を。

――そうだな。アゲハはアタシが生徒会に誘ったんだよ。

 アタシが生徒会長で、ミツルの野郎は副会長で、アゲハとカイコが部下だった。
 アタシが生徒会長になってみりゃ、どいつもこいつも尻込みしやがってな。
 生徒会メンバーがゴッソリ抜けたんだ。
 あの時の生徒会は会長のアタシともう一人の変人副会長だけ。

 さすがにどうにもならねェからな。
 ヘッドハンティングでもするかって時にちょうど面白いヤツが二年にいるって聞いた。
 実際に見てみりゃ確かに面白そうなヤツだった。

 アタシは覚えちゃいなかったんだ。でもアゲハはアタシの事を最初から知ってたよ。
 なんでも中学ン時にバカに囲まれてるトコをアタシに助けられたとか言ってたな。
 いちいち覚えちゃいねェよ。殴った野郎の顔も助けた野郎の顔も。
 キリがねェからな。 

 あァ? アゲハのヤツ、ンな事言ってたのか? なんだそりゃ。
 アタシはそんな大層なモンじゃねェつーの。

 妙なヤツでな……。
 アタシが女と付き合ってるって知っててそれでもアタシの事が好きだとよ。
 いつもそう言ってたな。

 まァ、そんな次第でアゲハのヤツともう一人、カイコってヤツを引き抜いた。
 コイツらが優秀でよ、信じられるか? 
 アタシらの代の生徒会は四人だったんだぜ。
 基幹が四人って意味じゃねェ。全員上から下っ端合わせて四人だった。
 特例だよ、特例。

 あの頃、ちょうど学校の周りで変態が出るって噂が出てたんだ。
 アタシら生徒会は良くも悪くも有名だったからな、すぐに話は入ってきた。

 最初はよくいる変態だと考えた。
 ミツルの指示でアゲハとカイコが情報収集。
 見つけたクズをアタシがぶん殴って一件落着。
 そうなるはずだってな。そう驚くなよ。
 アタシらの生徒会はいっつもそんなんだったんだぜ。

 だが……死人が出た。

 早田明美。地味だが笑うと可愛いヤツだったぜ。

 ハッ……手は出してねぇよ。好きなヤツがいたらしいからな。

 見つけたのはカイコだ。アイツは真面目だったからな……いつも一番に登校してた。
 いつものように花壇を見て回ってたら、見ちまったらしい。

 そのリアクションだと知ってたか……そうだ、木に針金で吊されたアケミの左足だよ。
 学校はすぐに警察に連絡。学校は休校。
 学校の至る所に置き忘れたみてェに身体が置いてあった。

……アタシらはようやく気付いたよ。あの野郎はただのクズじゃねェ。
 糞の中でも一等腐りきったクズだってな。

 すまねェ話がそれた。
 警察は近辺で起きてた連続通り魔事件の三人目かもしれないと判断した。
 断定じゃねぇよ。このときはな。
 とんでもない大騒ぎから一月経った。

 ああ、そうだ。言う通りだ。二人目が殺された。

 今度は三年の潮ヶ浜夜。メチャクチャな殺され方だったらしい。
 見つけたのはアゲハだったよ。
 カイコを一人じゃ危ないからって二人で登校してたらしい。
 生徒で直接見たのはアゲハとカイコだけだ。朝練も中止になってたからな。

 ん? カイコとアゲハか? ああ、なんか腐れ縁とか言ってたな。
 仲は良かったぜ。あのカイコもアゲハと話す時は力が抜けてたしな。

 話を戻すぞ。生徒も大騒ぎだ。どいつもこいつも怯えてた。
 パニック起こしそうなヤツを抑えるのでアタシとミツルは手がいっぱいだった。
 それ以前にアタシらは事情聴取をいやってほど受けさせられたからな。
 カイコとアゲハは第一発見者、おまけにカイコの実家ってのはこりゃ……。
 いや何でもない。

 とにかく必要最低限のことしかできなかった。
 もちろん学校側だっててんやわんやだ。
 一番ヒステリーを起こしてたのは保護者連中だったんだがな。
 事務仕事は全部アゲハとカイコに任せてたよ。アイツらは優秀だったからな。

 知らなかったか? アイツらは優秀だった。贔屓目無しにな。
 よくもまァ、あんだけ仕事出来るもんだ。
 で、仕事ができるだけじゃなくて、正義感もあった。
 それでどうしようもないくらいに向う見ずなヤツらだったよ。
 とにかくあの二人は二人でいさせておくと妙な方向にエネルギーを注ぐんだな。
 アタシとミツルは考えてみりゃ手綱を引いてた様なもんさ。
 暴走ばっかする馬力のある二人のな。

 どうもその時にアゲハとカイコは推理をしてたらしい。
 うちの学校の連中が狙われるのは制服を目印にしてるってな。
 ここいらの高校で今時制服があるのは式部北くらいだからな。
 二人が学校に申請したら、すんなりと私服登下校の許可が下りた。
 そんで一切の目撃情報も、確固たる証拠も無いままに時間だけが過ぎた。

 警察の警備を馬鹿にするみたいに三人目が殺された。
 曽根百合子って名前の二年生だ。
 こいつは前の二件がショックで不登校になってたんだがな。その日だけ出かけてたんだ。
 一人目のアケミの四十九日でな。友達だったらしい。だから、制服着てたんだよ。

 それからしばらくして、秋が終わるころだ。アゲハが妙な動きをし始めたのは。
 すぐに問い詰めたんだが、何にも喋りやがらねェ。
 だがアゲハは何をしてたかはすぐに分かったよ。

 突然学校から電話があった。
 補導で捕まった女子が偽名を名乗って身元がわかんねェとさ。
 女子生徒に人気のあるアタシなら誰か分かるだろうって、行ってみりゃアゲハがいた。
 おかしな話だとは思ったんだ。
 偽名だろうがなんだろうが、生徒の顔見て誰だかわかんねえなんて教師はうちにいねェ。
 生徒の面通しに生徒会長が呼ばれるなんておかしいにも程がある。

 アゲハのヤツ、演劇部の女子の制服を持ち出して夜中徘徊してやがったんだ。
 アイツ、女みてェな顔と体してる上に化粧までしてやがったからな……。
 警察も教師も誰もが女だと思ってやがったよ。
 呆れて、それから腹が捩れるまで笑ったぜ、ありゃ。

 あァ、まったくだ。黙ってりゃ女と間違えるヤツも少なくなかったからな。
 けどその恰好じゃテメェも似たようなもんだろ? 
 ま、アゲハもアタシが来たらようやく観念して……。
 というよりそんなピリピリしてる時期にそんな事してりゃ目的は一つだわな。

 わかんねェか? アゲハは釣りをしてたのさ。

――囮だよ。エサはアゲハ自身で、獲物は吸血ジャック、いや、その陰に隠れてうちの生徒を殺し手やがったクズ野郎だ。

 知らなかったって? そりゃそうだ。
 とりあえずアタシが指示したって誤魔化しといたからな。
 何とかアゲハは処分されずにすんだからな、知らなくて当然だよ。
 おかげでアタシは……。そうだな、アタシはアタシでしばらく休ませてもらった。

 その様子だともう知ってるみたいだから言うが、当時一番疑われたのはアタシだ。
 アタシ達六十二代生徒会だった。
 あいつがあんな危険な真似してたのはな、ただアタシの無実を証明する、ただそれだけだったんだ。
 今のお前とおんなじだよ。

――アゲハは諦めなかった。
 アタシが目を離したすきにカイコの制服借りて囮を続けていやがったんだ。

 ようやく警察もこの事件が吸血ジャックだと判断してな。
 木枯らしが吹くクソ寒い学校に二十四時間体制で張り込んでた。
 カイコの奴は頼りたくもない親に頭を下げて生徒の送迎にバスとタクシーを用意した。

 だが。

 結局、アゲハの策は成功した。しちまった。しちまいやがったンだよ。

 皮肉にもクリスマスだったよ。
 最近じゃ珍しく雪の降るホワイトクリスマスだったんだ。
 とんだサンタクロースもいたもんだよ。
 あの野郎はアゲハの命と目玉二つ奪っていきやがった。

……あるはずの無い連絡を受けたのはカイコだ。
 不審に思ってまさかと思って学校に忍び込んで見たのはアゲハの死体だった。
 両目がくり抜かれて額に風穴開けられて殺された。

 アタシはあいつの足を圧し折ってでもアゲハを止めるべきだった。

 トンボ、本当にすまない――。

――そう言って神楽崎ユミエは篠塚トンボに深く、深く頭を下げた。

 ユミエの話はトンボにとって衝撃的な事ばかりだった。

――アゲハが囮捜査? 
 アゲハとカイコがユミエとミツルに黙って吸血ジャックを追っていた?
 他でもない、ユミエの無実を証明するために?

 話された内容を頭の中で整理しようとする。
 だがそれはトンボの情報処理能力を大きく上回っていた。

「と、とりあえず頭を上げてくださいっ」

 なんとかユミエの頭を上げさせる。
 ユミエは先程までの妖艶な雰囲気とは違い、ひどく真剣な表情をしていた。
 あの独特なニヒルな笑みも消えている。

 その瞳を見た時、ユミエが心からアゲハの死を悲しんでいるのが伝わった。
 そしてその瞳にある色が、悲しみだけで無いことにも気付いてしまった。

「トンボ。アタシはジャックとクズを絶対に、許さねェ。絶対に。絶対に」

 力強い意志。その瞳に映る色は燃え盛るような怒りと殺意だった。
 覗き込んだだけのトンボが、思わず恐怖を感じるほどの感情だ。

「ユミエさん……」

「あのクズの尻をずっと追い掛けてた。確実に前に進んでる。このままおさらばなんて冗談じゃねェ。あんな下種にいいようにされてハイそうですかなんてわけにはいかねェんだよ。だからトンボ、もう一度言うぜ。もう追い掛けるのはやめろ」

「……でも」

「『でも』じゃねェんだよ。あのクズを追い掛けるのはもうやめろ。アイツは狂ったクズだがバカじゃねェんだ。じゃねェとあんなバカやらかして捕まらねェなんて有り得ねェ。もしそうならそりゃバケモノだ。どっちにしろテメェが手出ししていい相手じゃねェんだよ。……わかるだろ」

 トンボの中で、もう関わらない方がいいというささやきが確かに聞こえた。

「アタシはテメェの覚悟が本物だと思ったから話してやったぜ。アゲハが何で死んだのかは解決したじゃねェか。これ以上テメェが首を突っ込める余地はねェんだよ。テメェの仇はアタシが果たしてやる。だからもう……やめろ」

 ユミエは恐れている。
 トンボがアゲハのように吸血ジャックを追い掛けて、アゲハのように死ぬことを。 
 それが伝わるからこそ、トンボは言葉を発せなかった。
 それは何も他人ごとではない。

――でも。
 山下が言っていたことも引っかかっていた。
 六十二代生徒会の中枢にいた神楽崎ユミエと萩原ミツル。
 山下が忠告したその翌日にその二人がトンボの前に現れた。
 さらに言うなら今日の昼休みカイコはタスクと接触している。
 事件の裏で、確実に彼らは、六十二代生徒会は動いている。
 それは何のためにだろう。ユミエが言ったようにアゲハの弔いのためだろうか。
 この近くで吸血ジャックの痕跡が見つかったという情報をカイコが二人に連絡して。
 それで二人はこの街で吸血ジャックの影を追っているのだろうか。

「山下とかいうヤツにも、もう近付くな。アイツは妙なヤツだ。ジャックのクズを追い掛けてりゃ、事件の起こる前と後、両方でうろついてやがる。そもそもアイツがこの事件について嗅ぎ回ってんのがおかしいんだよ。警察って奴はしっかり縄張りが決まってる。犬みてェにな。担当ならまだしも、あんな雑魚にそんな権限も義務もねェんだ」

 言われてトンボはゴクリと息を呑む。
 こうやってトンボに誰かに疑いを持たせようとする情報は、特に慎重に考えなければ。 

「オカルトじみた仮説を立ててんのもあのメガネだけ。そもそも専門家か関係者でもねェとあんな発想にはならねェんだよ。霊能調査室だか何だか知らねェけどな、なんであいつの手元にその色鬼に関わる魔方陣だとか情報が都合よくあるンだ? どう考えてもおかしいだろうが」

 確かに、とトンボも思う。トンボは色鬼と言う怪異の存在を山下から知った。
 トンボは別にそう言うものに詳しくはないが、そんな妖怪だか化け物は決して有名なものではないはずだ。
 それなのに山下は周到に情報を持っていた。
――あらかじめ用意してあったとすら思える。

「いいか、トンボ。吸血ジャックと色鬼が関わってる――こりゃ事実だ。どうしてアタシがそう断言できるのかは言えねェが、この二つは相互に関わりを持ってる。だがな、それを山下が知ってるはずがねェんだ。あいつは絶対にただの人間なんだからな」

 その言葉には何か含みがあった。
 まるでユミエはただの人間ではないと言わんばかりの。
 しかしユミエの言うことはもっともだった。
 昨日山下が現れたタイミングと言いその後の展開と言い、何もかもが仕組まれたようではなかったか。
 ひょっとしてフェンスを落としたのは――。

「それにあの鬱陶しい前髪のガキ。なンか妙な匂いがすんだよな……アレも得体が知れねェ。付き合うんなら用心しろ。まァ、こっちは勘みてェなもんだが」

 鬱陶しい前髪というとタイチだろう。
 だがもうその心配は無用のものになっていた。
 もう二度と、タイチやタスクとは、友達に戻れないのだから。
 
「あなた達は……兄さんを殺したのは、六十二代生徒会じゃないですよね」

 トンボがかすれるような声でそう言うと、ユミエは困ったように頭を掻く。
 ワイルドなドレッドヘアが指に合わせて蛇のようにうねる。
 それから、トンボの目の下を親指で撫でた。
 拭ったのだ。トンボの目からあふれる涙を。

「誓って言うぜ。アゲハを殺したのはアタシ達じゃない。去年学校で四人の生徒を殺した犯人は別にいる」

 ユミエの声は少しの揺らぎもなかった。
 トンボはその言葉に、胸のつかえが取れる気がした。

「ボクはユミエさんの言葉を信じます。……そして、本物の犯人を捕まえる」

 ユミエはハァ、と紫煙と共にため息をついた。
 
「クソ……本当に妙なとこばっか似やがって。しょうがねェな、絶対に危険な事には近付くな。危険かもしれねェ事にも近付くな。アタシのメアドと番号を教えとく。何かありゃ絶対にアタシを呼べ。あと、なるべく一人にはなるな。友達でも何でもいい。この際あのなよっちいチビでも構いやしねェ。とにかく行動するなら二人以上でいろ。登下校中は特にな。全員そういう時間帯で殺されてる」

 赤外線通信でユミエのメールアドレスと携帯番号を受け取る。
 ユミエのメールアドレスは何かの英文のようだった。
 意味は英語の苦手なトンボにはわからない。

「は、はい。わかりました」

――到底タスク達とはもう絶交しているとは言えなかった。

「ずいぶん長話になっちまったな。トンボ、そろそろ帰れ。明日も学校だろ?」

 話に夢中になっていたが携帯を見ればもう十時になろうとしていている。
 小一時間ぐらいはここで話していたという事だ。

「じゃあな。遠慮はいらねェから絶対に連絡しろよ」

 そういうともうユミエは背を向けて歩き出していた。
 大きく堂々とした背中が遠ざかっていく。

「あ、あの」

 どうして呼び止めたかはわからない。でも聞いておかなければならない気がした。

「吸血ジャックを見つけたら……その、ユミエさんはどうするつもりですか」

「……」

 首だけを振り向かせ、ユミエはゆっくりと答えた。

「決まってンだろ。殺してやる。骨を砕いて、四肢を引き裂いて、両目に風穴空けて晒してやる。アタシは絶対許さねェ」

 脊髄が凍るような声と視線にトンボは何も動けなかった。
 ユミエが去っていく。今度は何も声をかけなかった。かけられなかった。
 ユミエの歩調に合わせて揺れる煙草の火が夜の闇にぼんやりと浮かび上がる。
 それはまるで鬼火のようだった。

The Justice: or Green No-Life-King

2013.09.02.[Edit]
7「トンちゃん、待ってって」 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」 え、とタイチの顔から表情が抜けた。「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で...

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 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。
 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。
 最近ずっとこんな調子だ。

――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。
 それはミツルとユミエが同じことを言っている。
 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。
 あるいは信じたいだけかもしれなかったけれど、もう疑う気持ちはなかった。

 このまま寝てしまいたい気もしたが夕食は食べなければならない。
 危機はいつ訪れるともわからない。体は常に万全に動くようにしておくべきだ。
 食べられるときには食べておくべきなのだ。
 篠塚家の食事は、今はレトルトが大半だった。
 兄がいた頃は手の込んだ手作りの料理を作ってくれていたが、トンボはそれほど料理が得意ではないし、姉は仕事に忙しく料理をしている暇がない。
 それでもご飯だけは炊いているから食べるものはないわけではなく、トンボはカレーを温めてそれを食べた。

 胃が満たされると、何だか少し力がわいてきた。
 そしてトンボは、鞄の中から分厚いノートを取り出す。
 潮ヶ浜夜の日記と――兄の記録。
 兄が死の一週間前にヨースケから預かった日記。
 そして兄が死の三日前に改めてヨースケに預けた情報。
 兄は――なぜヨースケに預けたのだろう。彼が潮ヶ浜夜の恋人だったからだろうか。

 もしかしたらこれをヨースケに渡したために兄は殺されたのではないだろうか。
 そこには事件の核心に迫る推理が書かれていて、それを知ったヨースケは兄を殺した。
 そんな疑念が過ぎる。トンボは頭を振って恐ろしい妄想を振り払う。
 それならヨースケがこの記録をトンボに預けるはずがない。
 トンボはとりあえず夜の日記に手を伸ばし、中を開けた。
 
――だってこれのために、タイチともタスクとも絶交する羽目になったんだろ。

 ここでトンボが臆していたら、それこそ二人に顔向けできない。
 可愛らしい日記にぴったりの、女の子らしいまるっとした文字が躍る日記帳。
 そこには何気ない少女の日常があった。
 その一文にトンボは目を止める。

――四月十四日 明美ちゃんと百合子ちゃんとオカルト部結成! 何と交番のお巡りさんが指導してくれることに。何でも霊能調査室っていう特務機関の室長なんだとか。本物の霊能力者っぽくて、私はとてもわくわくしてます。早く七色不思議の魔術を教えてくれないかな。それは式部北高校に代々伝わるおまじないの儀式で、何でも願い事をかなえてくれるんだって。そしたら私は桜木君と……。

 背筋を走ったのは本当に冷たい汗だった。
 明美ちゃんと百合子ちゃん――それは早田明美と曽根百合子のことではないだろうか。
 そして、霊能調査室のお巡りさんと言うのは、山下以外にありえない。
 何故ここに彼が登場する。そして、七色不思議の魔術――。
 トンボは口の中が乾いていくのを感じながら、さらに読み進める。

――四月二十日 今日山下さんに七色不思議の話を教えてもらった。二人に七色不思議で何のお願いをするか聞いてみた。明美ちゃんはK.Yと付き合いたいって。私はちょっとあの人は苦手。確かにかっこいいし、明美ちゃんが好きになるのもわかるけど、隠れてタバコ吸ってるみたいだし。百合子ちゃんはみんなで仲良くできますようにって。そんなのお願いしなくても、私たちの友情は永遠なのだ。

――K.Y。かっこよくて、隠れてタバコを吸っている? 
――神楽崎ユミエ(Kagurazaki Yumie)。
さっきの出会いもあってかトンボの脳裏には真っ先にその名前が浮かんだ。

――五月六日 今日、私たちは三人で七色不思議の儀式をして、それぞれに願い事をした。明美ちゃんは明日、K.Yに告白するんだって。

 そのページはまだほとんど白いのに続きの日記が書かれていなかった。
 トンボはそれが早田明美殺害前日なのだと気付く。
 明美が告白したK.Y。その直後に、明美が殺されている――?

 ユミエは確か明美には好きな人がいたから手は出していないと言わなかったか。
 ならばこのK.Yと言うのは別人だろうか。
 K.Y――ユミエ以外にトンボの頭にはすぐに思いつく知り合いがいない。
 トンボは次のページをめくった。

――五月二十日 私たちは騙されたんだ。山下は魔術師なんかじゃない。七色不思議は願い事をかなえるおまじないなんかじゃなかった。私たちは悪魔を呼び出してしまったんだ。吸血ジャックと言う悪魔を。明美ちゃんは殺された。多分私も百合子ちゃんも殺されるだろう。冗談じゃない。相手がこっちを殺そうとするなら、私が返り討ちにしてやる。私は許さない。明美ちゃんを虫けらのように殺して、蹂躙したあいつを――K.Yを。

 またK.Y。しかもこの文脈なら、間違いなく早田明美を殺したのはこの人物だ。
 今の所、トンボにはそれがユミエを指しているようにしか見えなかった。
 他に思いつく人物がいない。
 でもユミエは自分が犯人ではないと言った。それが嘘だったとは思えない。
 それよりも――山下。
 日記を見る限りでは被害者の三人の少女はオカルト部を独自に結成していた。
 そして、山下に教えを乞うていたのは間違いない。
――いや。
 トンボは思い出す。山下は確か――。

 思い出せ――。最初に出会った時、山下はトンボに名刺を渡している。
 トンボは名刺をしまったはずの財布を慌てて探しながら、その時の山下の言葉を思い出していた。
――僕は山下と言います。
――山下勝彦巡査部長。
――ヤマシタ、カツヒコ、巡査部長。
――Yamashita Katsuhiko。

「あった――」

 トンボは財布から名刺を取り出してそれを見る。
 埼玉県警式部署式部市中央交差点前派出所 霊能調査室室長
 山下勝彦巡査部長
――イニシャルK.Y。

 山下だ。間違いない。だって他にいない。
 早田明美を殺したK.Yは間違いなく山下のことだ。
 その時、トンボの中で一連の事件が整合性のある筋の通った話としてつながった。

――山下と吸血ジャックは二人組の犯罪者だ。
 そして、これは認めがたい事実だけど、幽霊を使う。
 山下がまず犠牲となる人間を選び、口車に乗せて、この七色不思議の儀式を行わせる。
 多分これは被害者ごとに同じことを引き起こす別の内容を教えている。
 ともかくそれによって起きることは、色鬼を、儀式を行った人間に憑かせること。
 そしてその後で吸血ジャックが現れ、その人を殺していく。
 多分儀式を行った人は色鬼に憑かれた時に死んだことにされてしまうのだ。

 だから山下はあんなに色鬼のことについて詳しくよく知っていたのだ。
 だって自分がそれを呼び出す人間なんだから。当たり前だ。
――そして、ならば。
 今山下が、いや、吸血ジャックが狙っているのは――タスクだ。
 タスクは日曜日に七色不思議を行ったと言っていた。
 今タスクに色鬼が憑いているのは間違いないことだった。
 だったら吸血ジャックが殺すのはタスクだ。

――だから火曜日。タスクは導かれるようにカササギビルに行ったのではないか。
 あの時落ちてきたフェンスは、タスクの命を奪うためのものだったのではないか。
 山下が現れたのもそこだった。あの時吸血ジャックはあのビルにいて。
 そして山下はその犯行を陰から見守っていたのだ。

 いけしゃあしゃあとトンボたちの前に現れて、トンボに生徒会を疑わせたのもあの男。
 山下はユミエとミツルの出現を予測した。
 そうなるとわかっていてトンボに言ったのだ。
 どうして山下がそれを知っていたのか――山下が犯人だったなら至極当然だ。
 自分がユミエとミツルに疑われているのを知っていたから、カイコがトンボに教えたように二人に連絡をつけると予測し、二人はこの街に現れた。
 全て山下が仕組んだことだったのだ。

 トンボは携帯を取った。今すぐに、この恐るべき事実をタスクとタイチに知らせなければ――。
 トンボは電話帳からタスクとタイチのアドレス宛にメールを作り、本文を打ち込もうとして、不意に手を止めた。
 
 もう絶交したのだ。今更どの面下げて二人にこのことを言えるだろう。
 それに、もし山下が犯人なら、タイチもその犯行に関与していないと、どうして言えるだろう。
 ユミエだって怪しいと言っていたじゃないか。

 兄の日記には、もっと詳しいことが書いてあるのではないか。
 トンボはそう思い、アゲハの日記に手を取る。
 すると、そこから一枚の紙が零れ落ちた。
 トンボはそれを拾い上げて開く。

――私は明日、死ぬかもしれません。

 その一文を、トンボは三度、目で追った。これは――遺書だ。アゲハの直筆の。

――私は明日、死ぬかもしれません。できる限り安全に穏便に事を運ぶつもりです。
 カイコにも手伝ってもらうし、なんだかんだで運は強いし。
 でもやっぱり、死ぬかもしれません。それを考えるのは、とても怖いです。
 だから、すごく動揺している気持ちを落ち着かせるために、今これを書いています。
 この手紙は誰かに当てたものではありません。遺書のつもりもありません。
 でも、私が死んだとしたら、結果的にこの手紙がその代わりになるでしょう。

 まず最初に、姉と妹に、謝っておきます。ごめんなさい。
 姉さんかトンボがこれを読んでいるということは、私は死んだということです。
 ごめんなさい。私はあなた達から家族を一人奪う暴挙に出ました。
 これは勘違いかも知れないけど、私が死んだ後の二人の生活はとても心配です。
 特に食生活。インスタント食品ばっかりになっていませんか。
 トンボは菓子パンばかり食べていませんか。
 料理はやっぱり家族が作ったものを食べるのがいいです。
 最低週に一度は、手作りの料理を食べるようにしてください。
 姉さんは、仕事だけじゃなくて、誰か好きな人を作ってください。
 トンボは勉強を頑張ること。もう兄さんはいないからね。
 とにかくあなた達が二人きりになってしまったのは、私のせいです。
 でも、あまり悲しまないで、前を見て希望の道を進んでください。

 次に、生徒会の仲間にも謝っておきます。
 まずはカイコに。
 私が死んだということは、君との計画に何らかの齟齬が生じたということでしょう。
 それは、どうしようもないことかもしれないし、そうでないかもしれない。
 でも、どっちにしても、私が死んだのは私の責任で、カイコのせいではありません。
 責任を感じているなら、思いつめないでください。
 無茶な話だったことは、私が一番よく知っているし、君はずっと反対していた。
 私が無理を言って計画を実行し、その結果死ぬわけですから、自業自得です。 
 ただ、私がいなくなった後、ユミエ先輩もミツル先輩も卒業したら。
 君が生徒会の重荷を一人で担うことになるでしょう。
 重荷を押し付けるのは申し訳なく思います。ごめんなさい。
 それから、もしこれを読んでいるのが小野宮蚕なら、お願いが一つあります。
 来年、新入生として、私の妹がこの学校に入学するかもしれません。
 勉強は苦手ですが、真面目で根性のある自慢の妹です。
 どうかよくしてやってください。

 ミツル先輩は――、あえて言い残すことはありません。
 あなたがこれを読むとすれば、それは私の日記を手に入れたということでしょう。
 日記に書いてある内容を読めば、ミツル先輩は真相にたどり着くと思います。
 この高校の惨劇だけでなく、吸血ジャック事件そのものや、その背後のことも。
 できればこれは、あなたの手に渡ればいいと思います。
 他の人には割と恥ずかしいことを言っているので。
 そして、もしこれが、あなたの手に渡っているなら。
 ユミエ先輩が犯人を探しているなら、それを止めてくれませんか。
 多分それが出来るのは、あなた以外にいないと思います。
 それくらいです。でも大切なことなので。

 そして最後に、ユミエ先輩。
 生きて帰れなくてごめんなさい。全部内緒にしててごめんなさい。
 でも私は、ユミエ先輩のことが大好きです。
 それで、先輩には余計なことかもしれないけど、先輩をよく知らない人から、先輩が責められるのはやっぱり許せません。
 この事件の犯人が先輩かもしれないと疑われるのもすごく腹が立ちます。
 だから、いざと言うときに、先輩に疑いがかかるようなことはしたくありません。
 それが、秘密にした理由です。逆に迷惑かもしれません。その時はごめんなさい。
 もし私が死んで、この手紙を先輩が読んでいるなら。
 まず復讐は考えないでください。考えているならやめてください。
 ここには書けませんが、この事件の犯人は、先輩が手を下すような人間ではありません。
 それに私は、私が先輩に人殺しをさせる理由になってしまうのが一番許せません。
 もし私が先輩にとって復讐の理由になっていたら、どうか私のことを忘れてください。
 そんな大層な話ではありません。ただ私が迂闊だっただけです。
 私は先輩が常に正しいと信じています。だからあなたは人を殴っても絶対に殺さない。
 どうか、その正しさを失わないでください。
 大好きです。いつも、いつまでも。

「……」

 トンボは手紙を置く。涙が止まらなかった。
 ありありと兄がこれを書いている所が見える。言葉が声になって聞こえる。
 この手紙の向こうに、生きた兄がいる。
 これは――ユミエの手に渡るべきだ。少なくともこの手紙は。
 ここに書かれているアゲハのユミエへの思いは、ユミエに届くべきだ。

 トンボは携帯を手にし、ユミエのアドレスを開いたまま、考え込む。
 チャイムが鳴った。
 トンボはびっくりして小さく悲鳴を上げた。
 こんな夜遅くに来客があるとも思えない。

 ピンポン、ピンポン。

 チャイムは繰り返す。トンボはおかしいと思った。
 いたずらと思うほどしきりにチャイムが鳴らされる。
 いたずらでなければ、あるいはホラー映画のように。

「どなたですか!」

 トンボはドア越しに声をあげた。
 返ってくる声はない。ただ、チャイムの音だけが繰り返される。
 トンボはドアチェーンをかけ、戸棚にしまってあった木製のバットを片手に握る。

「今開けます……」

 トンボは鍵を外すと勢いよくドアを開けた。ドアチェーンがビンと突っ張る。
 開いた隙間から突風が吹きつけて、トンボは思わず目を細める。

――誰もいない?

 いや、そう思わせてドアの陰に隠れているだけかもしれない。
 トンボがチェーンを外してドアを大きく開けようとした時――。
 網戸が開く音はトンボの部屋から聞こえた。

「誰!」

 恐ろしくなり、トンボはドアを閉め、鍵をかける。
 恐る恐る廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
 バットを震える手で握り、思い切りドアを開けた。

――中には誰もいなかった。
 ただ、トンボがさっき潮ヶ浜夜の日記を読んでいた机の向かいの網戸が空いていて。
 机の上にあったはずの夜の日記がなくなっていた。
 いや、それだけではない。兄のノートもなくなっている。
 トンボは即座にカーテンを開けて窓の外を覗く。

 街灯の下に、真っ黒な男の姿があった。その手に二冊の日記を持っている。
――萩原ミツルだった。
 ミツルは一度、トンボを振り返る。その目とトンボの視線がぶつかった。

「――何なんだ、アンタ、一体何なんだよ!」

 近所のことも考えずトンボは闇に叫んだ。
 ミツルは答えずぬるりと影の中に消えて行った。

「――待てよ! 待って! それは大切な証拠だから! 持っていかないで!」

 トンボは届かないとわかっていたのに、窓から手を伸ばした。
 もうミツルはどこにもいない。

――待って。持っていかないで。

「――待って」

 ぱちりと目を開けて気付く。
自分が今ベッドの上にいて、携帯を両手で握りしめていることに。
 外が明るい。トンボは画面の時計を見る。五時四十分。当然朝だ。
 スズメが鳴いている。ではさっきのは――。

「――夢?」

 トンボは飛び起きて机を見る。日記はない。
 鞄の中を探してもどこを探しても、潮ヶ浜夜と兄の日記はなかった。
 トンボの手の中で携帯が緑色のライトを明滅させている。
 メールの着信を知らせる合図だ。
 アドレスはトンボが知らないものだったが、タイトルを見てトンボは凍りつく。
 そこにはアゲハの遺言、と書かれていた。
 開くと拍子抜けするほど短い分が一つ。

『おかえりなさい』

 ただ、文字は黒ではなく、黄緑色で書かれていた。
 文面はただそれだけ。スクロールする余地もない。
 昨日の不思議な出来事は、ミツルがノートを盗んだのは事実だろうか。
 いや――そもそもトンボはいつから夢を見ていたのだろう。
 ひょっとして何もかも夢だったのではないだろうか。
 そうだ、禅定寺での出来事なんて、まさしく夢の中のようではなかったか。
 トンボがあんまり事件のことにとらわれているから、そんな夢を見たのではないか。
 本当はヨースケに日記なんてもらわなかったのでは。
 もらってないものがここにないのは当然ではないか。

「どうなってるんだ――」

「トンちゃーん、もうそろそろ行かないとまずいんじゃない?」

 台所で姉の声がした。トンボの困惑など関係なしに日常は通常通り回転している。
 学校に行かなくてはならない。陸上部の朝練はおろそかにはできない。
 トンボはとりあえず服を着替える。
 どうなっているんだ、と思いつつも、夢だったらよかったとも思った。
 タイチとタスクと絶交したあのことが夢だったなら。
 学校に行ってみれば何もなくて、いつものようにタスクがお弁当を作ってきてくれていたら。
 そんなわけないか、と苦笑して、トンボは姉の用意した朝食を片付けた。

K.Y.

2013.09.02.[Edit]
8 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。 最近ずっとこんな調子だ。――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。 それはミツルとユミエが同じことを言っている。 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。 あるいは信じたいだけか...

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【木曜日】



――今すぐあの二人と縁を切れ、坂崎タスク。

 昨日、墓場に現れた天使。
 灰色に燃える焦土と化した墓地に、あの男は神様のように天空から降り立った。
 全てが敵に見えたタスクの目に、確かに彼はその背に純白の翼をなびかせていた。
 もちろんそれはタスクの目にはそう見えただけなのだけれど。
 彼に名前を呼ばれた瞬間タスクは灰音から自分を取り戻した。
 そして理解した。彼も自分と同じ、色鬼に憑かれ、蘇った死者なのだと。

――僕は萩原ミツル。君と同じ、生と死の境で綱渡りをするもの。

 天使のささやきに、タスクは視線だけをそちらに向けた。
 天使は――ミツルは続けた。

――七色不思議は行ったものの願いを一つだけ叶えてくれる。
――明日、もう一度学校で七色不思議の儀式を行え。
――そして今度こそ、完全に儀式を遂行するんだ。
――それ以外に君が松木タイチと篠塚トンボに危害を与えない方法はない。

 ミツルはタスクの耳元でそうささやいた。
 虚ろな瞳に映ったその顔をタスクはしっかりと覚えていた。
 何の感情もない、真っ白な能面のような顔。
 人間らしさを感じさせない美しい整ったそれはやはり天使に見えた。
――この人は天使だ。多分、死の天使だ。
 風と共に天使は墓場を去った。
 そしてタスクは言われた通り、わざとトンボとタイチを怒らせて縁を切った。

 見るものが見ればタスクが演技していることはあからさまだっただろう。
 二人と視線さえまともに合わせられず、歯の根すら合わないのに二人を罵倒した。
 座り込んでいたのは足が震えてまともに立てなかったからだ。
 とんだ大根役者もいたものだ。
 しかし、トンボとタイチはこれでもうタスクとは関わらないだろう。

 これでよかったんだ、という黒い思いと、こんなはずでは、という白い思いが心のキャンバスの上でグシャグシャに混色されていく。
 気がつけば、三人の友達が楽しく弁当を食べ合っていたはずの絵が、灰色に塗りつぶされていた。
 それが今のタスクの心の中だった。

――もうお弁当も作らなくていい。二人の弁当箱はどうしようか。
 いっそ返さない方が、二人が自分に幻滅してくれるのではないかと思った。

――会長が励ましてくれたことも、結局無駄になったな。
 タスクが生き返ったのは奇跡なんかじゃない。祟りだ。この復活に意味なんてない。
 ただ、身近な人間を殺して、殺しつくすまで、この祟りは終わらない。

 きっと、まずはタイチを、その後にトンボを、そして家族を。
 最終的に知っている人間をすべて殺して、この街を灰色の炎で焼き尽すまでタスクは死ねないのだ。

「そうなんだろう? 『灰音』」

――くすくす。大当たり。大体君は、自ら命を絶った人間で、今のこの現在は、本来なら君には与えられるはずのない時間。だとしたら、君が君の死の後に起こる出来事について干渉するのはおこがましいとは思わない?

「それは蝶野会長が教えてくれた。例えそれがどういう理由で起こっていることであれ、生きているなら、ボクはその命を生きる。ボクは自殺者かもしれないけど、人殺しになるのはごめんだ」

――都合のいい論理だね。君はその人間の命の中に自分を含めてないわけだ。他人を殺せば人殺しだけど、自分を殺すのはいい。いかにも自己中心的で人間的な考えだね。人間は何故か自分だけはいつも蚊帳の外において物事を考えるんだ。……ああ、それとも、もしかして君は、自分が人間じゃない自覚があるのかい? それならその通りだよ。君は、鬼だ。死んでから動き出して、人の生き血を求めてさまよう化け物だ。ほら、ご覧、窓は君の本当の姿を映しているよ。

 灰音がくすくすと頭の中で笑い、タスクは思わず部屋の窓ガラスに映りこむ自分の姿を覗き込んでしまう。
 首は生まれて間もない赤ん坊のようにだらしなく垂れ下がり、顔面は半分つぶれている。
 右目と左目がそれぞれ別の方向を見ている。
 ぎょろりと飛び出したように開かれた右目が、ふとタスクを見た。

――もういいかい。
 窓に映る死体のタスクが言った。
 タスクは大きな声で叫んで跳ねるように起きた。
 起きてから自分がまた夢を見ていたのだと気付く。

――また夢。これで七回目か。

「もう、お兄ちゃんうるさい! こっちまで眠れなかったじゃんか!」

 弟が二段ベッドの上の段で枕を投げつけてくる。
 今のタスクにそれを投げ返す気力はなかった。
 一晩中タスクは譫言を言っては悲鳴を上げて目が覚めるのを繰り返していた。
 最初は心配そうだった弟もすっかり寝不足で機嫌が悪くなっていた。
 無言で部屋を出て、顔を洗う。鏡に映るのは、一見生きている人間に見える。
 栗色の収まりの悪い髪の毛は寝癖で乱れ、ランニング一丁の体は見るからに貧相だった。
 目にはクマが濃い。もともと目の周りはやや黒ずんでいたが、今のタスクの目ははっきりと青黒い色がついていた。
――痩せたと思うのは顔に生気がないからだろうか。
 いや、ここ数日は、出された食事が食べきれず、残す日が多い。
 おまけに眠れていないのだから、痩せない方がおかしいだろう。

――痩せるとか痩せないとか。人間みたいに。

 いつの間にか、鏡には子どもがうつっていた。
 青い着物の、栗色の髪の毛の、灰色の目隠しをした子ども――灰音だ。
 それがくすくすと鏡の裏側から笑う。

「――ボクは、人間だ」

――大嘘つき。君はもう人間じゃない。化け物だ。君はボクだ。ボクは君だ。ボクは色鬼、灰音。人間なんかじゃあないよ。ボクも――君も。

「――ボクは人間だ!」

 タスクは思わず鏡に向かってドライヤーを投げつけた。
 ガラスが割れる音がして、灰音の姿にひびが入る。

「ちょっと、タスク?」

 母親の声がして、タスクはまずいと思う。

――くすくす、くすくす。何なら殺してやろうか。その女も。

 灰音の笑う声がして、タスクは洗面所を飛び出した。
 後ろで母親が驚いた声を上げ、タスクの名前を大声で呼ぶ。
 タスクは制服に着替え、鞄を持ってそのまま学校へと向かった。

――もうそこにしか居場所がなかった。いや、もうそこにさえ居場所はないのだ。

 この世界にタスクのために許容されたスペースはもうどこにもない。
 何故ならタスクは日曜日に自殺した人間だからだ。
 すでに居場所は失われている。自分で放り投げたのだ。

 罰というなら、罰なのかもしれない。
 今、はっきりとわかる。タスクは自分の居場所がないと思っていた。
 でもそれはタスクが気付いていなかっただけで、本当はたくさんのものが、たくさんの人が、タスクのために存在していた。
 タスクの居場所をちゃんと用意してくれていたのだ。
 家族はもちろん、タイチも、トンボも、カイコも、ヨースケも。
 学校の人たちも、この街に住むあらゆる人たちも。みんなが。

 それに気付かずに、自分に与えられた唯一無二の尊いものを投げ捨てた罰。
 八つ当たりのような不満を世界にぶつけ、無いものばかりねだっていた報い。
 タスクは自分の場所を投げ捨てた。
 だからこれからタスクは自分の居場所が失われていくのを、世界から自分が疎外されていくのを体感しながら静かに死んでいく。
 そういう罰が与えられたのかもしれない。

 だとしたら、それはそれでしょうがないのかもしれない。
 それは罰を与えられるべき、相応の罪だと思う。
 しかし、そんなタスクの考えを、灰音は嗤った。

――罰だって、報いだって。おかしいったらないや! 感傷に浸って気持ちよくなってるんだね! 神様も、天も、閻魔大王も、誰も、君のことなんて見ちゃいないよ。道端にゴミが落ちてたら、誰かがそれを片付けるだろ。ボクはゴミを見つけて、ちょうど手ごろだから拾って再利用してるだけだよ。ゴミが捨てられるのはゴミが悪いことをした罰じゃない。ただ単にいらないからだよ。タスク、君はいらない人間だった。君もそう感じたからゴミのように死んだんだろう。ゴミ箱に入れられたら、元いた場所が恋しくなっちゃったかな? くすくす、くすくす。

「うるさい! お前が……もとはと言えばお前が!」

――自殺したのは君の意志だ。ボクが導いたわけでも、そそのかしたわけでもない。むしろ感謝されるべきだとさえボクは思うんだけれど。ボクが悪い、ボクのせいだと追及する現在の君の意志は、一体どうして今、そういう風に考えることができるんだろうねぇ? ボクは一応死にかけの君の命を助けて、救ってやったはずなのに。

 頭の中の声に大声で返すタスクは、街の至る所に灰色の目隠しをつけた少年の幻影を見るタスクは、誰の目にも狂人のようにしか見えなかっただろう。
 いっそ狂っていると思われて、隔離された方が幸せかもしれないと、タスクは街を走り抜けながら思った。

 そうすればタイチを殺さずに済む。
 そう思われていれば、もう誰も自分に何かを頼んだりしない。
 誰にも何も期待されずに、ただ口から憎まれ口を垂れ流すだけの存在に。
 そうなりたいとは思わない。
 でも、そうであった方がきっとタスクがこの街で野放しになっているより、ずっと害は少ないのだ。
 タスクはそう思いながら校門をくぐり、立ち止まって後ろを振り返った。
 灰色の目隠しの男の子は――色鬼、灰音は、その門前でぴたりと止まっていた。

――くすくす、ここに逃げれば安全かい? 確かにボクはここから中に入れない。それは認めるよ。でも、無駄な抵抗だよ。今日が終われば、君はいつもと同じようにまたここから家に帰る。今日が、坂崎タスクが、坂崎タスクとして存在できる最後の日になるだろう。悔いの残らないように学校生活を楽しむといい。ああ、でももう君の大切なお友達とは、縁を切ったんだったね。まあ、せいぜい君がする最後の足掻きを、ここから見物させてもらうとしよう。くすくす、くすくす――。

 やがて灰音の姿はぼやけ、灰色のアスファルトの陽炎に溶けていく。
 タスクは玄関で靴をはきかえ、まっすぐに美術室に向かった。
 黒板の裏側は棚になっていて、そこには制作に使うさまざまな教材が入っていた。
 タスクはそこから墨汁と、オレンジ色の絵具のチューブをできる限りたくさん取った。
 そして、ポケットから灰色のスカーフを出す。
 昨日タイチにもらったものだ。

 ふと、誰かに見られているような視線を感じて、タスクは後ろを振り返る。
 当然ながら誰もいない。ただ、タスクの姿を見ている目は存在した。
 教室の後ろに、ひっそりと掛かっている一枚の絵。
 題名も、作者の名前もわからない絵。白いコートを着た、女の姿。

 曰く彼女はこの学校の守り神で。
 タスクがこれから行うことは、まさしく彼女を絵の中から呼び出すための儀式だった。
 タスクは心の中で小さく祈る。
――あなたが本当にこの学校の守り神なら。
――どうかボクを助けてください。
――どうかボクに、大切な友達にこれ以上ひどいことをさせないでください。

 そしてタスクは、自分の上履きの裏に墨汁をこぼした。

Gray grins at suicide's regret

2013.09.02.[Edit]
【木曜日】1――今すぐあの二人と縁を切れ、坂崎タスク。 昨日、墓場に現れた天使。 灰色に燃える焦土と化した墓地に、あの男は神様のように天空から降り立った。 全てが敵に見えたタスクの目に、確かに彼はその背に純白の翼をなびかせていた。 もちろんそれはタスクの目にはそう見えただけなのだけれど。 彼に名前を呼ばれた瞬間タスクは灰音から自分を取り戻した。 そして理解した。彼も自分と同じ、色鬼に憑かれ、蘇った死...

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 その日は朝から騒がしい日だった。
 トンボが登校した時点では何事もなかったが、その後、校内放送がかかり教頭や学年主任が呼び出され、朝練が終わるころには学校全体が騒々しく落ち着きをなくしていた。
 クラス委員の臨時の集会が開かれ、トンボはそこで最初の異変を知った。

 学校には、いたるところに真っ黒な足跡が残っていた。
 墨汁で残された足跡は、美術室から始まり、全ての部屋に入念なほどに足跡があった。
 それだけではない。学校中の鏡にオレンジ色の絵具で落書きが施されていた。
 だから、まずこの日、式部北高生は一斉にそれらの汚れを落とすべく清掃活動を行った。

 トンボはトイレの鏡の落書きを落とすことになった。
 式部北高校の通常教室棟の生徒用トイレはそれぞれの階の踊り場に設けられている。
 男子トイレと女子トイレのドアの前にそれぞれ背中合わせになるように二つ、蛇口の三つ付いた流し台が並んでいる。
 そこには大きな鏡が二面、合わせ鏡のように張ってある。
 その鏡が、オレンジ色の絵具で落書きされていた。一年から三年のトイレ、全ての鏡に。
 トンボは一年生のトイレの女子用の鏡をスポンジで拭く。
 幸い水彩絵の具で描かれた落書きは水だけでも十分に落ち、それほど手間ではなかった。

 しかしトンボは、その落書きを落としながら、なんだか不思議な気持ちになった。
 落書きというより、まるで絵具で鏡に檻を張ったようだ。
 鉄格子のように鏡の上から下へ、右端から左端へと何本もオレンジ色の線が続いている。
 合わせ鏡になっている男子用の鏡にも同じように橙色の格子がはまっていた。
 手で描いたことを物語るように線はきちんとまっすぐではなかったけれど。
 そのフニャフニャした格子の隙間の鏡面が合わせ鏡になり無限に回廊を作っている。
 トンボはそれを見て自分がオレンジ色の網に捕らわれているように錯覚に陥った。
 檻ならば、何を捕えていたのだろう。格子ならば何のためにはめたのだろう。
――洗い落として、その檻を壊していいものだろうか。
 バカバカしい、とトンボは軽く頭を振った。
 どうにもここの所発想がオカルトめいている。
 間違いなく今週からのタスクの事件が発端だった。

 そのタスクは本来なら同じ清掃班としてこの場にいるはずだったが、男子の流し場を見てもその姿はない。どうやら今日は欠席らしかった。
 臨時の職員会議が開かれ、午前中の授業はほとんど自習に当てられた。
 そんな状況で大人しく自習をするわけないのが当たり前で、事実トンボの一年五組でも、女子生徒は群れて怖い怖いと噂をはじめ、男子生徒は教師の目を盗んで教師たちの動きを盗み見に行くものが後を絶たなかった。
 しかし少なくともトンボにとってこの狂騒は全く意味のないものだった。

 タイチも、学校に来るや否や、保健室に行ってしまった。
 やはり、あれはちっとも夢のことではなかったのだ。
 タスクはトンボに親がないことを嘲り、トンボはタスクの顔に往復びんたをかました。
 それでどうして明日からまた仲良くなんてできるだろう。
 タスクがわざとそうしていて、そうせざるを得ない状況だったことはわかっている。
 それでも、――やはり顔を合わせるのは何だか躊躇われた。
 だからトンボはタスクが欠席していて、タイチもいない今の教室に少し安心していた。
 きっと二人とも同じ心持なのだろう。タスクも、タイチも。

――犯人はこの学校の中に生徒だ。

 誰が言い出したのかわからないこの説は、すでに生徒の間では確定事項としてまかり通っていた。
 それは残された足跡から簡単に分かった。
 この学校の上履きは指定のローファーで、靴の裏の模様が全て同じだ。
 残された足跡はまさしく、この学校の靴の裏と一致していた。
 足跡は小さかった。女子か――あるいは小柄な男子生徒。

「ひょっとして坂崎とかじゃね?」

 ふとそんな言葉が耳に入り、トンボはそちらを振り返る。
 すぐ後ろの席で自習中だというのに教科書もノートも出さずに男子が駄弁っていた。

「あー、あり得るー、あいつ見るからにそういうことしそう」
「えー、そんな度胸はないと思うけどなぁ? オレ日曜日のテレビ見てたけど、あいつ舞台上でビビりまくりだったし」
「バーカ、そういう奴に限って――」

 その言葉を遮ってトンボは後ろの席をバンと強く叩いた。
 教室中に響いたその音に部屋は一瞬で静まり返る。

「そういう奴に限って、何?」

 トンボは威圧的な目線でその男子たちを睨みつける。
 体はトンボより一回り大きい男たちだったが、委縮したようにいや、とかその、とか答えに窮する。
 情けない男たち――それは断じてトンボがよく知る男ではなかった。
 問いただされて答えに窮すようなことを軽々しく口に出す人間ではなかった。
 兄も、――タスクも、タイチも。

「――真面目に自習しよう。保健室に行ってくる」

 トンボはそう言い残して教室を飛び出した。
 保健室に行くと、取り込み中の立札が掛けられ、中に入れないようになっていた。
 しかし、それが養護教諭、国栖のサボタージュであることはトンボにはすぐに分かった。
 こんな状況になれば保健室に来る生徒は必然的に増えるものだ。
 それを見越してあらかじめ掛けておいたのだろう。
 トンボは迷わず扉を開けようとした。

「――去年と一緒だ」

 中から聞こえた国栖の声に、トンボは思わず手を止め、聞き耳を立てた。

「去年も?」

 問う声はタイチのものだった。
 おそらくは保健委員で顔なじみということで、朝からずっとここにいたのだろう。

「ああ、確か同じような事件が起きてる。鏡の落書きと学校中の足跡、今日はもう、何も起こんねえな。見つかるのは明日だ。明日、屋上で、落書きが見つかる。こいつは、――七色不思議って奴だ」

「七色不思議?」

 ドアを挟んで保健室の内と外で、トンボとタイチは同じことを口走った。
 去年殺された三人が、潮ヶ浜夜が日記で書いていた、七色不思議の儀式。
 この学校に伝わる噂話。
 でも、それが何故――。

「聞いたことあるだろ、美術室の白いコートの女の絵が、実はこの学校の守り神だとか、普通に聞いてりゃよくある噂話なんだが、そいつを呼び出して自分のものにすると、必ず願い事が叶うっていうあの噂話だ。どうもそれをやってる奴がいるらしい」

「――必ず、願い事が叶う?」

 タイチが国栖に聞く。国栖はそういう話だったと思ったがな、と肯定した。

「だが、もしこれが七色不思議で、この学校の生徒がやってるなら――止めなきゃなんねぇ」

「迷惑だもんなぁ」

 そういう意味じゃねえよ、と国栖はタイチの言葉を否定する。

「去年、これと同じ事件があったすぐ後に、学校の生徒が殺された。どうしてだかはわかんねえが、七色不思議を行った生徒は吸血ジャックに殺される。これは多分、間違いない」

 国栖がそう言った後、タイチは何かを考え込んでいるのか、しばらく何も言わなかった。

「……明日の朝、屋上に落書きが見つかるんですね」

「これまでの例から言や、それで間違いねえな」

――屋上。
 トンボは口の中で呟いた。しかしそこは――。

「でも屋上って、鍵かかってますよね」

「そうだな、だから妙な話なんだ。去年の時も、鍵が持ち出された様子はなかったのに、屋上は荒らされてた。つまり、どうやら屋上については合鍵を持ってる奴がいる見てえだな」

「明日屋上で何か見つかるっていうことは――先生だけじゃなくて、他の先生も知ってるんですよね」

「ああ、だから教頭は屋上の鍵を厳重に保管してるし、今は屋上に見張りの先生を交代で立ててるみたいだな。さすがに夜中までは無理だから、今日は生徒を集団下校させて、六時には校舎を完全に施錠するってよ」

「……国栖先生、オレちょっと今日は早退します。先生の方から伝えてもらえませんか」

 タイチは何かを考えるようにしてから、不意にそう切り出した。

「はぁ? 面倒くせえよ、大体仮病だろそれ」

 とにかくお願いします、そう強引に言ってタイチは国栖の返事も待たずに保健室を出る。
 トンボは思わず廊下のわきに自分の身を隠す。
 別に隠れるいわれもなかったが、なんだか顔を合わせるのはまずい気がした。

 廊下に出ると、タイチは携帯を取り出して、誰かに電話をかけた。

「あ、山下さん?」

 トンボはその名前にぎくりとする。
 そうだ、昨日の夢に寄れば、潮ヶ浜夜の日記に寄れば――去年の事件の犯人は。
 もう一人の吸血ジャックは――今タイチが電話で話している男、山下なのだ。

「うん、仕事中ごめんね。ところで、確か錠破りの道具って――、うん、うん。いや、何でもないよ。今日はタスクの家で勉強会だから、帰らないから。うん、それだけ、じゃね」

――錠破りの道具?

 トンボはタイチの言ったことを繰り返す。
 それにタスクの家で勉強会って、タスクは学校にさえ来ていないのに――。
 タイチはそのまま教室に戻って鞄を持って帰っていく。
 トンボはその一連の行動をつけて、タイチが出ていくのをこっそり見ていた。


――タイチは、何かをするつもりなのだ。
 錠破りの道具。屋上の見張りは、六時にはいなくなる。
 トンボは一つ唾を飲み込むと、その窓はそのままにして生徒会室を後にした。

――間違いない。タイチは今日、学校の屋上に忍び込むつもりだ。
 でも、どうして。

 トンボはハッと思いついて、下駄箱のタスクの靴を確認する。
 そこにはタスクの靴が入っていて、上履きがなかった。
 タスクは今日学校に来ていないのに、靴があって上履きがない。
 つまりタスクは、今、この学校にいる。
 それなのに、少なくともホームルームには出席していない。
――それは一体何を意味している。

――この騒動を起こしているのは、タスクだ。
 タスクが七色不思議を行っている。
 なら、タスクはきっと今日、屋上でその儀式を終えるはずだ。
 ならば、だとしたらタイチは。

 山下が去年の事件の犯人なのは間違いない。
 そしてタイチは、その山下の所に身を寄せていて。
 タイチは、タスクを――殺すつもりなんじゃないだろうか。
 吸血ジャックの犯行として。

 そのために忍び込めるように錠破りの道具を持ち出そうとしているのでは。
 タスクが屋上に忍び込んだ後、その道具で学校に忍び込み――。
 そして、だから山下に連絡をしたのではないか。
 タスクの家で勉強会というのは隠語で、タスクを殺すという意味かもしれない。
 だったら――。

 タスクが、危ない。
 トンボは思わずタスクの携帯に電話する。しかし案の定タスクは出ない。
 連絡は取れない。ならばどうする――直接止めるしかない。

「もしもし、姉さん、うん、今日、タスクの家で、うん、もうすぐテストだから。勉強会で、今日は帰らないから。うん、じゃあ――」

 トンボは決めた。
――タスクを殺させてたまるか。ボクが、そんなことはさせない。
 学校に残り、身を隠し、タスクとタイチを、止めてみせる。
 そして去年の、山下の犯行を暴いて見せる。
 トンボは心にそう強く誓った。

The Seven Color Wonders

2013.09.02.[Edit]
2 その日は朝から騒がしい日だった。 トンボが登校した時点では何事もなかったが、その後、校内放送がかかり教頭や学年主任が呼び出され、朝練が終わるころには学校全体が騒々しく落ち着きをなくしていた。 クラス委員の臨時の集会が開かれ、トンボはそこで最初の異変を知った。 学校には、いたるところに真っ黒な足跡が残っていた。 墨汁で残された足跡は、美術室から始まり、全ての部屋に入念なほどに足跡があった。 それ...

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 放課後はタスクが思うより悠長に訪れた。
 普段は授業に参加しているから何とも思わないが、ただ放課後を待つだけで、しかもその間他の生徒から身を隠していなければならないというのは、想像以上に退屈で、同時に大変なことだった。
 ともあれ、生徒は全員が帰宅し、教師も学校に鍵をかけ、電気も全て消された。
 今、学校に残っているのは、タスク以外に誰もいない――いないと思う。

 タスクは身を隠していた生徒会室の清掃用具入れを静かに開いた。
 生徒会室は毎日使うわけではないし、掃除を担当するのは一年生のクラス委員だった。
 そして、今月それはタスク達、一年五組の当番になっていた。
 カイコが何度かこの部屋で作業をしていたが、掃除ロッカーを開くことはなかったし、タスクが行った騒動の結果、朝に掃除は完了し、放課後の清掃は行われなかった。
 朝、鏡に落書きをし、靴跡を学校中に残し、数回のトイレ以外は全てロッカーの中に入って過ごしていた。
 タスクはようやく人目も気にせず、自由に動けるようになったことを噛みしめるように、一つ大きく伸びをする。

 タスクはカイコが普段から使う生徒会長の机の引き出しを引く。
 そして、その引き出しの裏にテープで張り付けられたものに触れる。
 この学校の生徒会長は教師が知らない秘密をいくつか持っている。
 その一つがこの鍵、マスターキーの存在だった。
 学校中のあらゆる鍵を一本で開けられるマスターキーは職員室に二本だけ保管されているはずだったが、実は教師が知らない三本目がある。
 それは代々生徒会長のみが知っていて、他の生徒には知られてはいけないことになっている。
 タスクがそれを知っているのは、カイコに頼み込んで閉門された後、音楽室のピアノを学校側に内緒で弾かせてもらっていたからだ。
 あの日曜日もこれで屋上の鍵を開けたのだ。
 
 だから、タスクが今日これを使うことは、カイコに対する明白な裏切りだった。
 でも、――それでも。
 もう他に、どうしようもない。そうせざるを得ないのだ。
 タスクはあきらめるように一つため息をついて、鍵を剥がした。

――ああ、また同じだ。ボクは今、誤っている。過ちを犯している。
 日曜日の舞台のように。月曜日の朝のように。火曜日の病院で。水曜日の墓地で。
 間違いばかりを繰り返している。正しくないことを行っている。
 何か言わなければいけないことがあるのに、誰に何を言えばいいのかわからない。
 過ちを犯していることはわかるのに、正しい行いはわからない。

 タスクはもう一度ため息をついた。
 それも当然かもしれない。タスクは今、生きていることそのものが大きな間違いなのだ。
 存在そのものが誤りなのに正しい行いなどできるはずもない。
 タスクは生徒会室を出て、タイチにもらった灰色のスカーフを目に巻いた。
 スカーフは薄く、足元をライトで照らせば、かろうじて前が見える。

「もういいよ!」

 タスクの大声はがらんどうの校舎に思いのほか轟いた。
 タスク自身がそれにびっくりするほどだった。
 誰かいたら即刻ばれてしまうだろう。
 それでもタスクは、大声で呼ぶ。この学校の守り神、白いコートの女神を。

 日は既に西方に沈み、大気は夜をはらんでいる。
 校舎の中は真っ暗で、手に持ったライトは光源というにはあまりに頼りない。
 さらに目を隠しおぼつかない足取りで歩くタスクは、はたから見れば幽霊のようだった。
 足音を忍ばせて、ひたひたと歩く。思い出したように鬼を大声で呼ぶ。
 そうして屋上を目指す。もはや校舎は校舎ではなくなっている。
 それは魔界だ。鬼が身をひそめ、生き血を求めてさまよっている。
 タスクはそこで呪われた儀式を行っている。

 タスクはカイコが犯人だったとは思っていないが、生徒会が犯行に関与していたという山下の説は、あながち間違ってはいないと思う。
 それはやはり、この鍵の存在が大きい。
 鍵は代々生徒会長だけが持つことを許されている。
 ならばやはり、去年の犯行は――。

――いや。別にそれは鍵の存在さえ知っていれば、生徒会長でなくてもいい。
 それは今のタスクが何より証明していることだった。
 それに、教師が知らない三本目のマスターキーを生徒会が所有しているように、実はその生徒会が知らない四本目のマスターキーがあっても驚くには値しない。
 結局状況から犯人を推理するのには限界がある。
 それにタスクはトンボと違って一年前の事件の真相を知りたいわけでもない。

 タスクはようやく屋上の前に立った。
 学校の警報は夜に一定時間以上ドアが開いていると鳴る。
 あの日はタスクが逃げ道に開けておいた扉が裏目に出た。
 同じ失敗は犯さない。タスクは静かに鍵を屋上の鍵穴にさし、回す。
 警報は――鳴らなかった。

 屋上の扉を開けて、タスクはそこで目隠しを外しポケットにしまう。
 あらためて目に映った屋上には、教室や廊下にある生きた建物らしさがなかった。
 校舎そのものは今も使用されているにもかかわらず、この屋上は死んでいる。
 別に荒れ果てているわけでもないのに、荒涼としていて寒々しい――寂しい場所だった。
 西の空が赤い。東の空は暗い。
 タスクはふと、殺された四人の生徒のことを思う。
 彼女らも――彼も、この景色を見ただろうか。昼が息を引き取るその光景を。

 タスクは屋上のさらに上、給水塔の上にのぼる。
 そして、その上にチョークで魔方陣を書いた。
 円の内側に、五芒星と七芒星を重ねて書く。
 この学校の校章の背後に同じ図があるから、多分この学校を示すものなのだろう。
 呼び出すのはこの学校の守り神なのだから、さほど不自然ということもない。

 後は――夜明けまで待つ。今日は結局待ちわびるだけの一日だった。
 タスクはそう思って薄く笑う。
 もし、白いコートの女神が本当に呼び出せたら。
 七色不思議が成功したなら。

――何を願うべきだろう。どの過ちをなくしてもらえばいいだろう。
 タスクは給水塔の上に寝転ぶ。星が見えた。そのまま少しだけ、目を瞑る。
 それだけのつもりだったのに、タスクはあっという間に眠りに落ちた。
 誰もいない屋上には、深い寝息が響いていた。

What should suicide ask goddess for

2013.09.02.[Edit]
3 放課後はタスクが思うより悠長に訪れた。 普段は授業に参加しているから何とも思わないが、ただ放課後を待つだけで、しかもその間他の生徒から身を隠していなければならないというのは、想像以上に退屈で、同時に大変なことだった。 ともあれ、生徒は全員が帰宅し、教師も学校に鍵をかけ、電気も全て消された。 今、学校に残っているのは、タスク以外に誰もいない――いないと思う。 タスクは身を隠していた生徒会室の清掃用...

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 放課後、トンボは帰るふりだけして、上履きを下駄箱に戻したまま裸足で学校に残っていた。
 もちろんタイチを見張るためだ。
 見回りの教師から隠れるのはそれなりに苦労だったが、結局トンボは見つからなかった。
 七時になり、学校の校舎に完全に鍵がかけられる。
 職員会議を盗み聞きしたところによると、早朝の見回りは六時から行われるらしい。
 つまり、それまでは学校に教員は誰もいないということだ。

 しばらくすると、大声でもういいよ、という声が聞こえた。タスクの声だ。
 かくれんぼでもしているような――いや、これは七色不思議なのだ。
 きっと今タスクは灰色の目隠しをして白いコートの女神を呼び出している。
 その声は段々に上の階に移動していった。
 そして――タイチはやって来た。

 タイチは閉ざされた玄関の前に背負っていた大きなリュックサックを降ろす。
 その中から大きな工具箱を取り出した。
 トンボはそんなタイチの前に静かに立ちはだかる。

「タイチ」

 トンボは努めて冷静にタイチを呼んだ。
 タイチはさっと振り向き、トンボの姿を見てばつが悪そうな顔をした。

「何しに来た」

 トンボの問いにタイチは答えない。

「タスクを――殺しに来たんだろ。あの山下と一緒に」

「……はぁ?」

 タイチは素っ頓狂な声をあげた。

「もうわかってるんだよ。潮ヶ浜夜先輩の日記に全て書いてあった。早田明美さんを殺したのは、彼女が告白したK.Yという人物。K.Y。山下勝彦以外に誰がいる? それに彼は去年殺された三人が作ったオカルト研究部に魔術を教える先生だった。去年この学校で四人の生徒を殺したのは、山下で間違いない。そして――」

 トンボはその先を続けることを少しだけ躊躇った。しかし、言う。

「君も――その片棒を担いでたんだろ」

 タイチは口をあんぐりと開けて唖然とした顔をしている。
 自身の罪を鳴らされて動揺しているのだろうか。そのまま頭をポリポリと掻いた。

「ごめん、なんかすごい誤解を感じる。っていうかトンちゃん、何で学校にいるの?」

「君がタスクを殺すのを防ぐためだ」

「ってことは、タスクも学校にちゃんといるな」

 タイチに言われ、トンボはしまったと口の前に手をかざした。
 生来こういうやり取りは苦手だ。

「家から錠破りの道具なんて持ってきたけど、使わなくて済みそうだ。トンちゃん、ここ、開けてくれないか」

「君が犯人かもしれないと疑っているのに、開けると思う?」

「オレは潔白だ! ああ、もうしょうがないなぁ! 今ここでガラスぶち割って、警報ビービー鳴らしても構わないんだけど。っていうかぶっちゃけ本当ならそうすべきなんだけどなぁ。――トンちゃんが本当にタスクのことを心配してるなら」

「……どういう意味?」

 トンボは不服そうに聞く。

「トンちゃん、タスクを守るとか言っておきながら、どうしてタスクが今学校にいるって知ってるのに、家に帰るように説得しないわけ? オレのことを犯人と疑っていて、今日この場で殺人が起こると思ってるなら、何でその殺人現場から被害者を逃がさないの?」

「それは――」

 トンボはその先を口ごもる。問われて改めて気づく。
 確かに自分のしていることは、どこかおかしい。

「それはね、トンちゃんがタスクを利用して、お兄さんを殺した犯人を捕まえようとしているからなんだよ。トンちゃんが言うタスクを守るって、タスクが殺されそうになったら助けを呼ぶとか自分が止めるとかして、殺人の現場を押さえるってことだろ。それができればタスクは助けられるし犯人も捕まえられるしで一石二鳥だよな。でも、失敗したらそれ、タスクと自分が殺されることだって気付いてる?」

「ボ、ボクは……」

「トンちゃんのしてることはね、山下さんが火曜日にタスクに言ったこととおんなじなんだよ。タスクを利用して、過去の事件の犯人の証拠を見つけようとしている」

「違う! ボクは、ただ、タスクを守ろうとして――」

「じゃあ、何でタスクを家に帰さないんだ。家にいた方が少なくとも殺人者の脅威からは逃れられるに決まっているのに。これでタスクが殺されて、しかも犯人は捕まえられなかったら、トンちゃんは自分が犯人にされるかもしれないって気付いてる? 犯人は四人は殺してるんだよ。丸腰のトンちゃんが太刀打ちできるような相手だとは、オレには思えないんだけど」

「でも、君だってタスクを家に帰す説得をしに来たわけじゃない」

「そんなの当たり前だろ。オレはタスクを守るために家に帰って準備してたんだから。ほら、手錠も持ってきたし、武器になりそうなものだっていくつか持ってるよ。少なくともトンちゃんよりはずっと目的に沿って入念な用意があると思うけど。わかったら、ここを開けてくれない? でないと本当にガラスを割って、警報を鳴らすよ。そしたら困るのはトンちゃんだし、タスクだ」

 トンボは納得のいかない顔を浮かべつつも、結局ドアを開け、タイチを入れた。

「――昨日は、悪かったよ」

 言ったのはタイチだった。

「確かにオレも少しべたべたしすぎだったし。ついかっとなってひどいこと言っちゃった。――ごめん」

 タイチはしおらしく頭を下げる。

「いいよ。ボクもひどかったし。でもやっぱり、タイチやタスクをボクの個人的な調査に巻き込むべきじゃないと思ったんだ。それがいくらタスクのことと関わりを持っているとはいえ」

「それも矛盾してる。トンちゃん巻き込むべきじゃないとか言っておきながら、去年の事件の犯人を逮捕するのにタスクを利用しようとしてる」

 タイチはトンボの顔を指さして、ニッと笑った。
 トンボはまたばつが悪くなり、顔を掻いた。

「結局、そういうことなんだよ。タスクの事件と、トンちゃんの事件と、去年のこの学校で起きた事件は、切り離すことは出来なくて、オレたちはもう、どっぷりそれに巻き込まれてるんだ。だったらさ、最後まで一緒にいようよ。三人で、解決しよう」

「ボクは――まだ、タイチや山下さんのことを、信じてるわけじゃない」

「それでいいよ。オレは旧生徒会も、桜木先輩もそれなりに疑ってるし。トンちゃんのことだって、実は百パーセント信じてるわけじゃないよ。でも、それでいいだろ? この事件に出てくる人たちはさ、みんな灰色なんだ。シロのようにもクロのようにもみえて、どっちか判別のつかない、すごく微妙なグレーの容疑者。だったら、本物のクロはわからないかもしれないけど、せめて自分の信じる人のシロは証明したい。もし今日、この学校で何か起こったとしたら、トンちゃんの潔白は、オレが証明する」

 どうやらタイチはトンボが犯人かもしれないとは、露ほどにも思っていないようだ。
 タスクが犯人かもしれないとも、思ってないだろう。
 タスクに殺される危険性があることはわかっているだろうが、それがタスクの意志でないということを確信している。
 口では百パーセント信じていないなどと言っているが、少しでも疑いを持っているならそんな人間と二人きりで誰もいない学校にいようなどとは思わない。

「……そこまでボクやタスクを信じられる根拠は何?」

「オレが犯人だから」

 タイチは鞄をあさりながらさらりと言う。
 トンボは思わず身構えた。

「なんてね。でも、どうしてだろうな。一番は動機。まずトンちゃんとタスクには四人を殺す理由がない。トンちゃんとアゲハさんはともかく、他の三人とは、面識さえない。その上去年トンちゃんもタスクもこの学校の生徒じゃない。進路として考えてはいたかもしれないけど、だからってそこの生徒をその学校で殺すって、どう考えても変。理由にならない。動機にならない。もちろんこの事件を引き起こしている犯人は絶対いかれてるから、トンちゃんやタスクが、オレが知らないだけで、頭のねじがぶっ飛んでるかもしれないってことはあるかもしれないけど……」

「ボクはそんなんじゃない!」

「わかってる。一応言っておくと、オレもそんなんじゃないからな。あと山下さんも。あの人凄い変な人だけど、だからって人殺しするような倫理観ぶっ飛んだ人じゃないよ。トンちゃんはさ、この事件、オレ達に調べられる側面ってどの辺だと思う?」

 トンボは質問の意味を計りかねる。どの辺とはどういうことだろう。

「まず、オレ達は警察じゃないから、物的証拠を集めたり、アリバイを整理するとかっていう基本的なことはできないと思う。で、じゃあ、何をもって真犯人を捕まえ得るかって考えると、オレ達自身が囮になって、真犯人をおびき出して、殺人の現場を押さえるしかないんだ」

――囮。そうか、だからアゲハは、兄はそうせざるを得なかったのか。
 タイチの言うように、物的証拠を集めるなんてことは、一高校生には到底できることではないはずだ。
 容疑者のアリバイを探ることだって、学校関係者一人一人に聞いて回るのでは手が足りない。

「で、真犯人はどういうことをされるとおびき出されるかっていうとさ、桜木先輩が言ったように、トンちゃんみたいに、去年の事件を知っている人が、これ見よがしに事件を調べてますって動き出すのが、一番都合が悪くて、何とかしようとするに違いないんだ。トンちゃんは自覚ないかもしれないけど、今一番囮になってるのは多分トンちゃんだと思うな。それで、仮に犯人がこの状況を見てたらどうすると思う?」

「どうするって――」

「一つ、トンちゃんは火曜日に警察にあっている。二つ、トンちゃんは水曜日に被害者の日記を手に入れている。三つ、木曜日、つまり、今日、過去殺人が行われる前にあった七色不思議の儀式がタスクによって実行されている。四つ、タスクとトンちゃんはよく一緒にいる。犯人にこの状況はどう見えると思う?」

 それは――。
 トンボが事件の真相にたどり着いて、真犯人を挑発しているように見える、のだろうか。
 見えるかもしれない。

「まあ気が気でないことは確かだろうな。だとしたら、犯人は絶対にこの日に決着をつけようとすると思わない? オレは、だからトンちゃんとタスクを見張りに来たんだ。とりあえず今、タスクが学校に残っているのは間違いなくて、トンちゃんはその学校に下校指示を破って残ってるんだからな。ひとまずこの状況で殺人が起こったら、オレか、タスクか、トンちゃんの中に犯人がいないとおかしいことになる」
 
 もちろん他に残っている人が誰もいないなら、って話の上でだけど、とタイチは取り繕うように言った。
 
 そうか、トンボも立派に容疑者の一人なのだ。
 トンボは殺されたアゲハの妹だ。さらに現在その容疑者の一人と目されている蝶野カイコのもとで生徒会の末席に座っている。
 立場からすれば、タイチ同様に疑わしいのだ。
 少なくとも山下が疑わしいからタイチも犯人かもしれないという理論は、そのままトンボの立場に同じことが言える。
 アゲハは殺されたけれど、女子生徒三人を殺した容疑者に数えられていたのだから。

「……ごめん」

「ん? 何が?」

 タイチが怪訝そうに尋ねる。トンボはいや、何でもないと流した。
 疑わしいのは絶対に自分以外の誰かで、みんなトンボのことは疑ってないと思っていた。
 それはもちろん、トンボ自身が絶対に潔白であることを何より自分が自覚しているからだが、同じことをトンボが疑っている全員が思っているだろう。
 この事件に関わっている全ての人間は、同様に灰色で、他の人から見れば、トンボも絶対にシロではない。
 トンボはそのことにようやく気付いて、一方的にタイチを疑っていたことを申し訳なく思った。

――こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。

 昨日、墓地でヨースケに言われたことだ。
 言われた時に気付くべきだった。
トンボも周りからすれば、真っ白なんて思われていないということに。

「さ、タスクは屋上にいるんだな。はいトンちゃん」

 タイチはリュックサックから焼きそばパンと牛乳を取り出してトンボに差し出す。

「え?」

「タスクは一晩ここで明かすつもりだぜ。お腹すいてるだろ? まあもちろん、オレがそのパンや牛乳に、毒を盛ってないって保証もないけど」

 トンボはくすりと笑って、もう一度ごめんと謝った。
 そして、パンを食べる。確かにお中はペコペコだった。
 タイチはそんなトンボを見ながら自分もパンを食べていた。
 タイチの善意や好意は嬉しいが、トンボはやはり心のどこかでタイチを疑っている。
 疑っていながらその好意に甘んじていることに、トンボは申し訳なさを感じていた。

Everybody is just a gray suspect

2013.09.02.[Edit]
4 放課後、トンボは帰るふりだけして、上履きを下駄箱に戻したまま裸足で学校に残っていた。 もちろんタイチを見張るためだ。 見回りの教師から隠れるのはそれなりに苦労だったが、結局トンボは見つからなかった。 七時になり、学校の校舎に完全に鍵がかけられる。 職員会議を盗み聞きしたところによると、早朝の見回りは六時から行われるらしい。 つまり、それまでは学校に教員は誰もいないということだ。 しばらくすると...

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【金曜日】



 あの廃ビルの駐車場で。あの日。
 灰色の炎に照らし出された光景は、あの姿は――。

 女が、男に、殺されていた。
 首を絞められて、首には荒縄が巻かれて――。
 女の顔はどう見ても死体の顔だった。
 ボクはその顔に見覚えがある。

 照らし出された男の顔は殺人者の顔だった。
 ボクはその顔にも見覚えがある――。

「――ん」

 夢か。何だったか。何かとても大切な夢を見た気がする。
 でも、もう何も思い出せない。
 辺りを見回すとそこは寂しい学校の屋上だった。
 眠っていたのか――、タスクは身を起こして軽く頭を振る。
 夜は開けようとしていた。青い大気が空気を満たしている。
 もうじき東の山並みから、朝の太陽が顔を出すだろう。
 そちらを見れば、空は既に白んでいた。

 目覚めのタイミングとしてはよかったと考えるべきだろう。
 これで夜が明けきって機を逃したとなれば目も当てられない。
 タスクはポケットから灰色のスカーフを出して、もう一度目に巻いた。
 そして、大きな声でもういいよ、と呼びかける。

 異常な存在の気配は微塵も感じられない。
 今この時、この学校には、タスク以外の誰もいない。
 四人を殺した犯人も、もちろん白いコートの女神も。
 そう思うほどに、静かな朝だった。

 タスクは昨晩書いた魔法陣に、自分の影が重なるように立ち上がる。
 やがて東から、明るい日が差し、タスクの姿を赤く染める。
 タスクは、みいつけた、と小さく唱えた。

 その時、確かにぞろりとしたものが体をうごめくのをタスクは感じた。
 腹のあたりに空ろな痛みが走った。そして、小さくきゅるると鳴く。

「おなかすいた……」

 何をやっているんだろう、ボクは――。

 こんなことで、何が変わるわけでもないのに。
 それでもタスクは、とりあえずお願いをした。
――どうか、ボクに正しいことをさせてください。過ちばかりを犯すボクが、これ以上間違わないように。

 それだけ祈ると、タスクは屋上を後にし、そのままトイレに行った。
 あくびをしつつ用を足すと、それでも何日かぶりにまともに眠った気がした。
 やはり山下が言うように、この学校にいる限り、灰音は、あの鬼は手出しできないのだ。
 ならばそれにかこつけて、出来ればもう一眠りしたい、などと思いながら手を洗う。
 手を拭いて顔をあげた時、タスクは小さく悲鳴を上げた。

 タスクの後ろに、誰かが立っていた。
 誰かを確かめる間もなく、乱暴に首に縄が巻かれる。
 タスクは首の縄に爪を立てて、足をばたつかせる。
 しかし、首を絞める力は少しの油断もなく、一気にタスクの息の根を止める。

――誰だ、一体、誰が……。

 意識はあっという間に朦朧とした灰色の砂嵐の中に消えていく。
 鏡に映った顔は、タスクが夢に見た男の顔だったように見えた。
 でもそれが誰なのか理解する前に、タスクの思考は途切れていく。

――助けて、タイチ。助けて――トンボ。

 それきり、タスクの息は途絶えた。

Dragonfly, moratorium, please, help me

2013.09.02.[Edit]
【金曜日】1 あの廃ビルの駐車場で。あの日。 灰色の炎に照らし出された光景は、あの姿は――。 女が、男に、殺されていた。 首を絞められて、首には荒縄が巻かれて――。 女の顔はどう見ても死体の顔だった。 ボクはその顔に見覚えがある。 照らし出された男の顔は殺人者の顔だった。 ボクはその顔にも見覚えがある――。「――ん」 夢か。何だったか。何かとても大切な夢を見た気がする。 でも、もう何も思い出せない。 辺り...

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 トンボとタイチは屋上の真下にある三年生の教室に身をひそめていた。
 ドアを閉じていても屋上の立てつけの悪い扉の開く音が聞くことができるし、隙間からタスクを覗いていても、タスクが屋上から戻る前にすぐに隠れられる部屋だった。
 ただ、トイレは流す音がタスクに聞かれるとまずいので一階の一年生のトイレを使う。
 誰もいないと存外に水を流す音はよく響くものだった。

 朝焼けが顔を見せ始めた頃、タスクは給水塔の上から降りてきた。
 そのまま屋上を出るようで、トンボ達は慌てて隠れた。
 タイチとトンボは扉の影に息をひそめる。
 まさか二人がいるとは思っていないタスクは気付きもしないでトイレに向かった。
 タスクが開けっ放しにした扉を、タイチは超える。

「ちょっとタイチ!」

「しー。タスクは多分トイレだ。その間に……」

 タイチは給水塔の上に上り、トンボに手を伸ばす。
 トンボが昇ると、懐中電灯をつけ、その足元を照らした。
 そこに描かれていたのは円の中につぶれた星が二つ。
 一つはよく見る五つの頂点がある星で、もう一つは七つの頂点がある。
 それらがお互いに反転するように、潰しあうように歪んだ図形。
 それはこの学校の校章の背後に描かれているものだった。

「つまり、これで確定的だな。今日七色不思議を行っていたのはタスクだ。なら、タスクは何を願ったと思う?」

 タイチはひざをついてその図形をしげしげと見ながらトンボに聞いた。
 タスクが願ったこと。ここまでして願わなければならないこと。

「吸血ジャックの犯人を知りたい、とか?」

「そりゃトンちゃんの願いだろ。言うのもなんだけど、オレもタスクも、去年の事件は知らなかったし、それほど興味あるわけでもない」

 タイチがそういうと、トンボは憮然とする。何だかバカにされているようで腹が立った。

「じゃあ、タイチなら、何を願うわけ?」

「家族」

 タイチの言葉には少しの迷いもなかった。
 まるで他に願うべきものなどないというようだった。
 でも、それだけに、トンボにはその気持ちがよくわかる。
 同じく両親がないトンボには。

「――静かだ」

 タイチが言う。確かに静かな朝だった。鳥の鳴き声も、カエルの鳴き声もしない。
 車の音も、犬の声も何もなく、ただ、むしむしと暑い。

「まだ、五時にもなってないし――」

「違う、そうじゃない」

 タイチの声は少し緊張している。
 タイチはそのまま給水塔から飛び降りる。
 脱兎のごとくに屋上から走り去る。

「あ、待ってタイチ!」

 トンボは慌ててその後を追う。
 タイチが、タスク、と叫ぶ声が聞こえた。
 胸がぞわぞわする。ああ、これは、あの日と同じだ。
 兄さんが死んだと聞かされて、無言で病院に向かうあの車の中と。
 霊安室に続くあの道を歩いた時と。

 ぞわぞわして、胸の中にすごく気持ち悪いものがあって、息をするたびに動き回る。
 タイチがタスクの名前を呼ぶ。
 ああ、あれは、誰かが、トイレの手洗い場の床に、倒れて――。
 タスクの足が、タスクの体が――。

 トイレには、タスクが仰向けに倒れていた。
 タイチはその胸に耳を当てる。

「心臓が止まってる。息も――してない」

 トンボはその言葉を正しくはかることができない。
 思考がまるで意味をなしていない。
 タイチはタスクの胸に手を当てる。開いた手の上にこぶしを乗せるようにして。
 そして、タスクの胸を強く押した。
 いち、に、さん、と数えながら。繰り返し、繰り返し。

 タスク、タスク、とタイチは繰り返す。
 お願いだから死なないでくれよ。頼むから目を覚ましてくれよ。
 どうか、どうか――。

 タイチが胸を押す手を止めた。

「……い、っげほ、っごほ!」

 タスクは大きく震えて咳き込んだ。

「タスク! 大丈夫か! オレ達がわかるか?」

 タスクは咳き込みながら、タイチ、トンボ、と答える。
――生きて、いるのか。
 トンボは胸を撫で下ろした。

――よかった。本当によかった。

「誰にやられた?」

 タイチは怖い顔つきで問う。

「どうして、君たちがここに? ボクは一体――」

「そんなことより、お前の首を絞めて殺そうとした奴は誰だ? 誰にやられた?」

 タスクの首には赤黒い縄の痕がくっきりと残っていた。
 誰かがタスクの首を絞めて、殺そうとした。タイチとトンボ以外の人間が。

「――そうだ、ボクは、七色不思議の儀式をやって、トイレに行って。――君たちが、助けてくれたのか?」

「お前が学校で七色不思議をやってるのはわかってたから、今日一晩中ずっと見張ってたんだ。屋上の下の三年生の教室に隠れて。で、トイレに行ったまま帰ってこないからおかしいと思って、来てみたら、お前が倒れてて――誰にやられた?」

 タイチの声は真剣だった。タスクはわからないと答える。
 するとタイチは立ち上がって、タスクに手を差し出す。

「立てるか?」

 うん、とタスクはタイチの手を借りて立ち上がる。

「犯人は、まだこの校舎内にいる。どっちに行ったかわかるか?」

「ごめん、わからない」

「どんな奴だったかは?」

「……男だったと思う。ボクより背の高い男。って、大体の人はそうか」

 タスクの背は低い。女子のトンボより低い。
 その上華奢だから、体格だけなら大半の人はタスクより大きい。

「――探そう」

 タイチが言った。

「相手もこっちを殺す機会をまだうかがっているはずだ。タスクに顔を見られたかもしれないと思っているなら、絶対に始末しようとする。行こう」

――その必要はない。

 決然とした声が後ろから響いた。

Who is the Murderer

2013.09.02.[Edit]
2 トンボとタイチは屋上の真下にある三年生の教室に身をひそめていた。 ドアを閉じていても屋上の立てつけの悪い扉の開く音が聞くことができるし、隙間からタスクを覗いていても、タスクが屋上から戻る前にすぐに隠れられる部屋だった。 ただ、トイレは流す音がタスクに聞かれるとまずいので一階の一年生のトイレを使う。 誰もいないと存外に水を流す音はよく響くものだった。 朝焼けが顔を見せ始めた頃、タスクは給水塔の上...

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