Monday in June

Index ~作品もくじ~


 
【月曜日】



――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。

 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。
 梅雨の晴れ間。
 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。
 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。
 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。
 寝坊して閉門に間に合うかどうかというぎりぎりの時間だったが、体が重くて走る気力が出ない。
 もともとそんな体力もないと言ってしまえばそれまでかもしれなかったが。
 その道の途中で、今しがたようやくタスクは昨日のことを思い出した。
 できれば忘れていたいことだった。

「タスク、おはよう」

 後ろから声がした。
 タスクは不機嫌な顔で振り返った。返事はしない。
 声でそれを気にするような相手ではないとわかったからだ。
 案の定立っていたのは同級生の松木太一(マツキ タイチ)だった。
 小学校一年生からの長い付き合いである。
 タスクのこの応対は相手もわかりきったことだった。

 この男は髪の毛を切る金もないほど貧乏を自称する。
 事実かどうか知っているわけではないが髪は実際長い。
 前髪は目を覆うほど。
 後ろ髪に至っては背中まであり、首の後ろで一つに結ばれている。
 知り合って以来タイチはずっとその髪型だった。
 いつ見ても鬱陶しいが、こう蒸し暑い時には一層暑苦しく見えて余計に不快だった。
 服装も学校のあるなしに関わらず制服しか着ない。
 この季節は半そでのワイシャツに、グレーのズボン。
 いつもと同じ姿だ。

「お返事は?」

 タイチは笑顔でタスクに言う。それも毎度のことだった。

「子どもか」

「お返事」

「……」

「お返事」

「おはよう。これでいい?」

「それでいい。馬鹿馬鹿しいと思ってるだろうけど大事なことだぞ。挨拶と笑顔と身だしなみ。人間関係の基本だ」

――身だしなみはお前も問題だろ、と心の中で突っ込む。
 そう、お前『も』だ。タスクも身だしなみが決して整っている方ではない。
 生まれつき栗色の髪の毛はこれまた生まれつき巻き気味だった。
 寝癖でいつも髪の毛はひどく乱れる。
 くしをあててもドライヤーを吹き付けても、どうにも収まりが悪い。
 かといって整髪料に頼るのは何だか不良っぽくて手が出せないでいた。
 さらにタスクもタイチも私服の生徒がほとんどの学校に制服で通学する。
 タイチの場合、自称によれば他に服がないかららしい。
 しかしタスクは制服にせざるを得ない切実な理由があった。
 タスクは高校一年生男子だが身長は159.5㎝しかない。
 この国の中学一年生男子の平均より小さいくらいだ。チビなのである。
 制服でも着ていないと、誰も高校生だと思ってくれないのだ。

「……そのさ、昨日は残念だったけど元気出せよ」

――ああそうですか。

 あまつさえこの話である。
 タスクの不快感はうなぎのぼりに上がる。
 眉間を中心に目の周りに寄るしわが一層深まり、表情が物々しくなっていく。

「失敗は誰にでもある」

――余計な御世話だ。そんなことはわかっている。

「気に病むようなことじゃない。お前だけのせいでもない」

――お前に何がわかる。

「今度挽回すれば――」

「うるさい。放っておいてくれ」

 タスクはタイチの言葉を遮って言う。
 励ましてくれるくらいならいっそ知らない振りをして欲しかった。
 少なくとも今のタスクにはそれは侮辱に感じられた。
――今度なんてない。舞台は常に一度きりだ。

 そう、あの人達の、カイコや三年生達にとっての高校生最後のコンクールの舞台は。
 もう二度とないのだ。それをタスクが失敗させてしまった。
 やり直しがきく類いのものではない。タスクの胸はまたつきんと痛んだ。
 
 タイチはまだごにょごにょ言っている。
 無視していても、タスクの気分を荒立てる言葉ばかりだった。
 タスクは奥歯を噛みしめる。
 タイチは多分、善意で言っている。励まそうとしてくれている。
 そもそも遅刻寸前のタスクとこの時間に通学路で会うわけがない。
 つまり、タイチはここで待っていたのだ。タスクを励ますだけのために。
――バカじゃないのか。

「少し黙っててくれ」

 そう言うので精いっぱいだった。
 タイチはまだ何か言いた気だった。
 しかし中途半端に口を開けたまま、結局何も言わなかった。
 タスクが本当に言いたいことは、言わなければいけないことはこんな言葉では絶対ない。
 でも、タスクは言わない。言えない。

 言えない代わりに出る言葉は憎まれ口だった。
 考えを述べることが苦手なわけではない。世間話はいくらでもできる。
 でも、タスクの口は気持ちを正直に伝えてくれない。
 嬉しくても、悲しくても。楽しくても、つらくても。
 どんな時もとげとげしい言葉しか出てこない。

 一方的に励ましの言葉を連ねていたタイチから、タスクは逃げるように速足で歩いた。
 そのせいかどうか定かではないが、閉門するぎりぎりのところにタスク達は間に合った。
 門を閉めているのは保健室の教師だった。
 その男がじろじろとタスクの方を見る。きっと知っているに違いない。
 タスクのコンサートにはテレビ中継も来ていた。
 ひょっとしたら学校中が、この街中がタスクの顔を知っているのだ。
――式部北のへたくそな伴奏者として。
 タスクはうつむいたまま校門をくぐった。

『気にすることはないよ、タスク――』

 そこに聞こえた言葉はタスクの逆鱗に触れた。

「気にするなって、どういうことだよ」

 タスクはそれについに切れた。
 起きた時から消えないイライラが頂点に達して、口から溢れた。

「気にするなだって? それってどういう意味だよ!」

 後ろにいたタイチはいきなりのことにぽかんと口を開ける。
 門を閉めた教師も怪訝そうな顔をしていた。

「その程度だったってこと? 気にする必要のない程度の舞台だったって。それなら、何で伴奏なんてさせるの? 歌が下手で、ピアノくらいしか取り柄がなかったから? そんな理由でやりたくもない舞台に立たされて、こっちはいい迷惑だよ!」

 ああ、何を言ってるんだ、ボクは――。

 こんなのは八つ当たりもいいところだ。伴奏はタスク自身まんざらでもなかったのに。

「……ごめん」

 タイチが謝る。
 その言葉に、途端にタスクの怒りは冷めた。
 同時に、言いようのない罪悪感が胸に押し寄せる。

「今日のボクは機嫌が悪いんだ。そっとしておいてくれ……」

 また本心とは違う言葉が口を突く。
 今タスクが言わなければいけないのは絶対にこの言葉じゃない。

「機嫌がいいタスクなんて見たことないけどな。十年間付き合ってきて」

 タイチは笑って言う。
 タスクはこいつ、とタイチの頭を小突いた。
 タイチは避けるでもなく殴られて、へへと笑う。
 タスクはそれで何だかいつも通りになった気がした。

「でも、タスクなんであんな場所でいきなり沸騰しちゃうわけ? 怒りだすタイミングおかしいぞ」

 タイチは何の気なしにそう言った。タスクはその言葉に戸惑う。

「気にするなって言ったじゃないか」

「言ってないだろ。タスクがしゃべるなって言ったから何も言わなかっただろ。オレ偉い」

 タイチはエッヘンと言わんばかりに胸を張る。
 嘘を言っている風ではない。
 からかっているわけでもなさそうだった。
 でも確かにタスクはその声を聞いた。はっきりと聞こえた。

「幻聴でも聞こえるようになったのか?」

「うるさい。ボクは傷ついているんだ」

「おーおー可哀想に。良ければオレの胸を貸すぞ。たんとお泣き」

 胸を広げるタイチの鳩尾にタスクは手刀を繰り出す。
 タイチはうぐ、とカエルのような声を出した。
 幻聴――だったのだろうか。そうなのかもしれない。
 夢と現実の区別さえ曖昧なのだ。
 でも、あの言葉は確かにタスクの耳に届いたと思う。
 本物の声のように、外側から。

「今日はいつにも増して暴力的じゃないか。よっぽど鬱憤がたまってるんだな。性の抑圧は体に良くないぞ」

「余計な御世話だ」

 タスクはタイチの頭に手刀を繰り出す。
 タイチはひらりと身をかわした。
 そして、走り去るように玄関をくぐり抜けた。
 タスクもそれを追うようにしてようやく学校に入っていった。
 タスクが下駄箱で靴を脱いでいると校内放送が流れた。

『生徒会から放送です。臨時のクラス委員集会を開きます。各クラス委員は至急生徒会室に集まってください。繰り返します――』

 タスクはついてないな、と思った。
 タイチは何だろな、ととぼけた顔をしている。

「そういうわけだから。行ってくる」

 タスクはタイチにそう言って、教室とは真逆の生徒会室へと歩いて行った。
The Suicide meets The Moratorium
»»  2013.09.02.
 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。
 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。
 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。
 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。
 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。
 
 クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。
 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。
 漢字で篠塚蜻蛉(シノヅカ トンボ)と書く。当然だが女子である。
 しかし女子にしては珍しいほどに短い刈り込んだ髪形で、体格もいい。
 見た目と名前だけで男と勘違いする人も多い。
 女の子らしく見えるのは精々、下まつ毛が長めで目がパッチリしていることくらいか。

 トンボは、性格も男勝りな部分が強い。
 今時珍しくないかもしれないが、自分のことをボクという。
 明るく一本気で、考えなしだがやることはやる性格だった。
 トンボは立候補してこの面倒なクラス委員になったツワモノだ。
 クラスでも一目置かれているし、人気者だった。
 
 生徒会室のドアを開けると部屋の中にはすでに全員が揃っているようだった。
 タスクが最後だったらしい。
 別段のんびりしていたつもりはないが、それでも何となく気まずい。
 部屋の教壇に立っているカイコの姿を見て、さらに気まずい気持ちになった。
 正直今日は顔を合わせづらい。
 タスクは少し体をかがめながら、トンボの隣の席に座った。

「これで、全員かな。諸君」

 諸君、なんて日常的に口にするのは多分タスクの人生の中でこの人だけだろう。
 上は半そでのブラウス、下は赤茶色のプリーツのスカート。
 襟もとはボタンを一番上まで詰めてリボンのタイで飾っている。
 髪の毛は艶やかに黒く、前髪は左に流し、耳元で金の蝶を模したピンで留めている。
 これが生徒会長――蝶野蚕(チョウノ カイコ)の標準的な服装だった。
 どこかの制服のように見えるが私服である。

「今日集まってもらったのはちょっとしたトラブルが原因であることを先に言っておこう。この学校の近辺で不審者が出没していると、警察から直接学校に通告があった」

 タスクはぎくりとした。
――まさか、だって、昨日のことは夢だったはず。
 だから今日自分はちゃんと家のベッドで寝ていたし。
 昨日学校でやったことは、全部夢の中の出来事のはず。
 そんなタスクの心境に構わずカイコは続ける。

「学校としてはこれに対応しないわけにはいかない。そこで今後しばらく、学校終了後、五時以降の生徒の居残りを禁止する。部活、生徒会、その他あらゆる理由での居残りを認めない。とにかく学校としては五時までに全生徒の完全下校を行う」

 カイコがそう言い切ると、教室の中はざわついた。
 当然である。
 もうすぐ夏で、野球部は甲子園予選もあるし、運動部は練習の盛りを迎える時期だった。
 異議があります、と真っ先に手を挙げたのはトンボだった。

「発言を認めよう、篠塚君」

「陸上部は来週末金曜日から大会を控えている重要な時期です。この時期に部活を行えないのは大きなハンディキャップになります。不審者の出没というだけでその対処はやりすぎではないでしょうか」

「発言はもっともだし、私もこれは特に運動部に対して大きなデメリットをもたらすものだということは重々承知している。だが、この措置は警察からの勧告に対し学校側が決めたものであり、我々としてはその決定に口をはさむ権限を持たない」

「続けて言います。学校側と生徒側の意見が対立した際にその仲裁を行うのが生徒会の役割だと、生徒会憲章にあります。だとしたら、ボクたちはここで生徒側の権利を守るために学校側と交渉するのが役割ではないでしょうか」

 トンボは食い下がらずさらに追及を続ける。
 カイコは持っていた蛇の目の紋の扇子で口元を隠しながら答えた。

「それももっともな意見だが、今回は学校側に従うことが、生徒にとって何よりも守らなければならない最善の利益を保護することにつながると確信している」

「何が出たんですか」

 トンボが問う。カイコはこれに不快そうに少し眉をひそめた。

「ただの不審者じゃないはずです。こんな対応は。一体何があったんですか。答えてください、蝶野会長」

「……」

 カイコは答えなかった。
 ただじりじりと不快感で相手を焦がすようなまなざしでトンボの目を見つめ返す。
 トンボはそれにも動じず視線をカイコからそらさなかった。

 タスクはその物々しい空気に耐えられず、携帯をいじろうと思った。
 要するにこの現状から逃避することを選んだのだ。
 ポケットに手を突っ込むと、何か携帯以外のものに手が触れた。
 タスクは不審に思ってそれを取り出す。

 タスクの手に握られていたのは銀色のライターだった。
 確かジッポーライターとかいう奴だ。
 でもどうしてこんなものがタスクのポケットに入っているのだろう。
 タスクも含めてタスクの家にタバコを吸う人間はいない。
 こんなものを拾った覚えも――。
 
 それに思い至った瞬間、タスクはヒュ、と息を飲んだ。
 そして机とイスを突き飛ばす勢いで立ち上がる。
 実際に机は前の席にぶつかった。座っていた男子がタスクを睨む。
 イスは勢い良く床に叩きつけられて、大きな音を立てた。

 教室中の視線がタスクに集まる。
 カイコも、トンボも、誰もが唖然とした顔をしていた。

「何事かね、坂崎君?」

 カイコが問う。

――どうしたんだろう。ボクは一体、どうしてしまったんだろう。
 そうだ、あの時だ。屋上から飛び降りて、その後。
『何か』を見た気がする。そして、このライターを掴んだ。

「篠塚君、すまんが坂崎君を保健室に送ってきてくれないか。顔が真っ青だ」

 トンボはキッとカイコを睨む。
 それは体よくこの空間からトンボを排除するための口実だったからだ。
 しかしそれでもトンボはそれに従った。そうする以外になかった。
 タスクはトンボに伴われて保健室に向かう。

 その間のことはタスクの記憶にはない。
 タスクの頭の中には、どうなったんだという疑問が飽和していた。

――ボクはあの後どうなったんだ。ピアノの失敗の後。
 ボクは、学校で、七色不思議の儀式を実行した。
 学校中を墨だらけの靴で歩いて。鏡にオレンジの絵具で落書きをして。
 でも途中で警報が鳴って逃げた。その後。

――誰もいないビルの屋上に上って、その後。

――飛び降りた。
 周りは真っ暗で、遠くに街の明かりが星のようで。
 風がなかったら宇宙だと思っただろう。無重力空間だと。
 内臓はふわりと浮き上がって。一瞬で一生を振り返った。
 そして、激痛が全身を襲った。その後。

 死を感じた。死ぬと思った。
 実際に――死んだ。死んだはずだ。
 後頭部から地面にぶつかって。
 その後ゆっくりと体が折れ曲がった。そして、その後。
 何かを見た。何かとても、恐ろしいものを。
 そしてこのライターを掴んだ。

――あれは確か。

――ボクは一体、どうしていた。どうなっていた。
Zippo lighter: the evidence of suicide
»»  2013.09.02.


 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。
 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。
 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。
 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。
 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。
 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の吉沢颯(ヨシザワ ハヤテ)が立っている。
 ならばカイコはこの部屋にまだいる。おそらく後ろを向いたその椅子に。
 トンボは迷いのない足取りでつかつかと机の前に向かう。
 声をかけようとしたその時、いきなり椅子が前を向いた。

「坂崎君はどうだった?」

 トンボが言うより早く、カイコが質問した。
 トンボは口まで出かかった言葉を飲み込むしかない。
 それが蝶野カイコという女の話し方だった。
 ことこういう場面では、カイコは常に相手のペースを飲む。

「国栖先生に任せました。タスクは心ここに非ずと言う感じでした。それで――」

「何が、出たか、と言うことだろう?」

 トンボが先を言う前にカイコが続けた。
 カイコは広げた扇子で口元を覆いながら試すような視線でトンボを見つめた。
 おそらく隠した口元は笑っている。トンボは少しイライラしていた。

「君にだけは本当のことを言っておこう。――吸血ジャックだ」

 ぴしゃりと扇子を閉じてカイコはそう言った。
 その名前にトンボは一瞬動揺する。
 それは、その名前は、吸血ジャックは――。

――連続猟奇殺人鬼、吸血ジャック。
 闇に隠れて人を襲い、殺してその死体を恐ろしく残虐な手段で『飾り付けて』見せびらかす。
 ある週刊誌がその煽り文句でこの殺人鬼を呼んだのがいつの間にか定着していた。
 確かすでに殺された人は見つかっているだけで九人。
 襲われてからくも生き延びた人はその倍はいるという。
 それだけの証言者がいながら、いまだ犯人は男性で、単独犯と言うことしかわかっておらず、正体は要として知れない都市伝説と化している犯罪者だった。
 トンボにとっては、忘れたくてもできない名前だった。

「いや、この言い方は正確ではないな。吸血ジャックの殺人なのではないか、と思われている痕跡が発見され、警察は周辺に警戒を呼び掛けていると言うべきか。本当のところはまだわかっていない。ただ、それが実際吸血ジャックだったなら、この学校は危険なのだ」

 わかるね、篠塚君――。
 カイコは静かに言って椅子から立ち上がる。
 ハヤテは無駄のない動作でその椅子をすぐに直し、自分とカイコの鞄を持った。

「カササギビル――そこで一人分の人間の致死量の血だまりだけが見つかっている。死体は見つかっていない。どのような方法でその血だまりを作ったのかもわかっていない。ただ、あまりに不審だし、何よりも去年のことがあるから、そういう判断がされた。いくら大会が近くても、居残りはダメだ。生徒会は生徒の命を何よりも優先する。――私はもうこの学校の生徒が死んだり殺されたりするところを見たくない」

 カイコはトンボの方を見ずにそう言いながら部屋を出る準備をしていた。
 そして、すれ違いざまに本当に小さく耳元で、すまない、とだけ呟いた。

「出るときは電気を消してくれたまえよ。急ぎたまえ、そろそろ一時間目の授業だ」

 カイコはトンボに背中を向けてそう言った。
 言葉が終わると同時にハヤテがドアを音もなく閉めた。

「間違っても――」

 ハヤテが閉め切る寸前でドアをぴたりと止める。
 カイコはその隙間からトンボの方を見ずに後ろを向いて続ける。

「間違っても、お兄さんのことと、去年この学校で起こっていたこと、そしてカササギビルのこと――他言してはならない。これは秘密だ、私と、君との。わかっているね」

 カイコがそれだけ言うと、ハヤテが完全にドアを閉めた。
 トンボはしばらくそのドアの方を見つめていた。
 吸血ジャックがまた出た。この近くで。
 兄を殺したあの殺人鬼が――。

 気がつくとトンボは握りこぶしを作っていた。その手の中がじんわりと汗で湿っている。
 始業五分前の予鈴が鳴った。
 トンボはそれを聞いて、慌てて荷物をまとめて生徒会室を後にした。

 タスクは、結局午前中はずっと保健室から戻ってこなかった。
 トンボは悶々としたものを抱えながら、そのままお昼休みを迎えた。

「トンちゃん、これから暇?」

 購買でパンを買おうとするトンボにタイチが声をかけてきた。
 その手にはカレーパンと焼きそばパンが握られていた。

「何?」

「タスクのお見舞い行こーよ。はい、好きな方選んでいーよ」

 じゃあ、とトンボは焼きそばパンを取る。

「珍しいな、タイチが人にパンを買うなんて」

「そう? 惚れ直した?」

 まさか、とトンボは笑った。惚れ直す以前に惚れてさえいない。
 ただ、タイチがトンボに好意を持っているのは確かなようで、ことあるごとにアプローチを受けているのは事実だった。
 初めこそ照れたりしていたが、二か月も経てばさすがに顔色一つ変えずに流せるようになるものだ。
 二人で並んでパンを食べながら廊下を歩いた。

「何だろーな、やっぱり昨日のこと気にしてんのかなー」

 タイチはカレーパンを口いっぱいに頬張りながら言う。

「昨日のこと?」

「うん、ほら、昨日、合唱部のコンクールで、タスク、伴奏やってたんだよ」

 ああ、とトンボは頷いた。
 確かそんな話をタスクに聞かされた覚えがある。
 本心か照れ隠しか、タスクがやたらと乗り気でないことを強調していたような。

「何かあったの?」

「ピアノ。上手くいかなくって。止まっちゃったんだよ。タスクにとってはきっと、すごくショックなことなんだろうな。多分それをまだ引きずってるんだと思う。昨日は終わり次第行方くらませちゃったくらいでさ、いつの間にか帰ってたみたいだけど。合唱部はそれでかなり迷惑したみたい」

 それでか、とトンボは朝のタスクの様子に納得した。
 カイコは確か合唱部の部長で、指揮者だったはずだ。
 顔を合わせづらい心境だったに違いない。
 とはいえ、それが理由で朝あんな風に唐突に具合を悪くするものだろうか。
 タイチは保健室に着くまでに食べちゃって、とトンボを急かした。
 腑に落ちないものを感じつつも、トンボはともかくパンを胃の中に詰め込んだ。

「失礼しまーす、坂崎君のお見舞いに来ましたー」

 保健室は開けた瞬間ひやりとした空気を感じるほど冷房が効いていた。

「あれ、どうしたんですか、国栖先生がタバコを吸ってないなんて。灰皿も空っぽじゃないですか。具合でも悪いんですか?」

 タイチもトンボも怪訝そうに顔を見合わせた。
 養護教諭の国栖は重症のヘビースモーカーで、校内は全て禁煙にもかかわらず、堂々と煙草を吸っていることで有名だった。
 いつものごとく、煙が霧のように充満しているかと思いきや、部屋に染みついたやに臭さ以外、たばこの残滓は全くない。

「お前な、学校は校内禁煙なんだから当たり前だろ」

「うわ、先生が自分から禁煙とか言い出すなんて。らしくないどころじゃないですよ。本当にどこか悪いんですか?」

 タイチは言いながら自分の額と国栖の額に手を当てて体温を比べる。
 国栖はそんなタイチに喧しいと渋面を作った。

 国栖は去年の四月末、養護教諭を務めていた女性教師が産休に入った折に、その代理で赴任し、その先生がそのまま寿退職してしまったので、彼もそのまま式部北高校の保健医として収まったらしい。
 口調は粗野で、態度も横柄なところがあるが、医師としての腕は確かで、ことさら性教育と称した猥談は男子から人気があったし、その辺は女子の中にも大人の魅力と称してうつつを抜かしている生徒も少なからずいる。

「お前ら、俺をおちょくりに来たんじゃねえだろ! 坂崎の見舞いなんだろ、ほらさっさと連れて帰れよこいつ。おう、坂崎、見舞いが来てるぞ、ちょっと開けるぞ」

 国栖はタスクの返事も構わずにベッドを仕切るカーテンを開けた。
 中から慌てたようにちょっと待って、と言う声が聞こえたが止める間もなくベッドの中に光が差す。
 その中を見て、トンボは慌てて後ろを向いた。

「うわうわ、ちょっと待ってって言ってるじゃないか!」

「何だぁ、坂崎、その格好は。なんかごそごそやってんなぁと思ってたら、お前、こんなところで」

 タスクは何故か全裸だった。
 ベッドの上でズボンもワイシャツも、下着さえも脱いで、その上から布団で体を隠している。
 顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。それはトンボも同様である。

「だから性の抑圧は体に悪いって言ってるのに……」

 タイチが呆れたように言うと、タスクは目に涙さえ浮かべて、違うって言ってるだろと大声で言った。
 とにかくカーテンを一度閉め、タスクが着替えるのを待った。
 数分して、タスクは顔を赤くしたままうつむいてカーテンから出てきた。

「何しに来たんだよ……」

 タスクは目線を下げたままぼそぼそと言った。

「お前なぁ、せっかく友達がお見舞いに来てやってるのに他にないわけ?」

「頼んだわけでもないよ……勝手に来たくせに」

 タスクの言葉にタイチは頭をがりがりとかいた。

「先生、こいつ大丈夫なの?」

「知らねーな。見たところ外傷はねえよ。精神的な問題なら俺は管轄外だし」

 国栖はパソコンで麻雀をやりながら興味なさそうに答えた。

「もう、ちゃんと仕事してくださいよ。タスク、お前大丈夫なら午後からは授業出ろよ」

「そうそう、松木の言う通り。つらいならさっさと帰るなり、平気ならさっさと授業行くなり、ずっと保健室にいられるのも迷惑なんだよ」

 国栖の言葉は到底保健室の先生とは思えない。
 そこが魅力だという人もいるのだが。
 タスクはその言葉に迷ったように唇を噛む。
 やがて小さな声で、先生、と国栖を呼んだ。

「……ボクの体、何ともありませんか? どこか折れてたり、欠けてたりしませんか? 本当にボクの体、ちゃんと元通りになってますか?」

 タイチもトンボもその言葉にタスクの方を向く。
 国栖も振り返って鋭い目つきをタスクの方に向けた。

「そりゃ、どういう意味だ? 何か体に異常が出る心当たりでもあんのか?」

「……信じてもらえないかもしれないけど、ボクは昨日、自殺したんです。ビルから飛び降りて、一度死んだはずなんです。首の骨が折れたのだって覚えてます。でも、ボクは今こうして生きてる。それが信じられなくて、裸になって体を確かめてたんです。先生、ボクはちゃんと生きてますよね?」

 タスクは真剣な様子で訴えた。その言葉に部屋は沈黙に包まれる。
 トンボは言葉の意味を計りかねた。タイチはわざとらしく大きな声で笑った。

「アーッハッハッハ! いくらショックだからって、その冗談はどうかと思うぞ、笑えないし……」

「松木」

 国栖が短くタイチを呼んだ。その声はさっきまでの軽薄で粗野なものではなかった。

「そこの衝立をここに持って来い。坂崎はここ座れ」

 国栖はパソコンをいじる手を止めて、雑然とした机からノートとペンを取り出した。
 タイチが衝立を二人の前に広げ、トンボからはその姿が見えなくなる。
 トンボはなるべく見ないよう、聞かないように隅の方にいた。
 しばらくすると二人がその向こうから出てきた。

「体に異常は見られないな。少なくとも触診では確認できない。で、何だ、その自殺か? 詳しい話を聞かせろ。何なら人払いをするが」

「あ、いえ、大丈夫です……」

 衝立から出てきたタスクは正面のテーブルの前に座った。
 対面して国栖が掛け、タイチとトンボは横に座る。

「昨日、何があった?」

「昨日は、みんな知っていると思うけど、全国高校合唱コンクールの埼玉地区予選があって、この学校の合唱部の伴奏者としてピアノを弾いていたんです。でも……」

 タスクはその先を言いよどむ。
 タイチの話では手痛い失敗をしたらしいが、それを認めて口に出すのはためらわれるようだった。
 そのことは国栖も知っているらしく、問題はその後からだろ、と促した。

「はい、ボクは多分、演奏が終わってステージを下りた後、動転してそのまま会場を抜け出して、全部なかったことになればいいと思って――学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行ったんです」

 タスクの言葉に、全員ぽかんとした顔を浮かべる。
 タイチは口を間抜けに開けていたし、トンボは何を言っているんだろうと思っていた。

「七色不思議って――お前あんなもん信じてるわけ?」

 タイチが呆れたように言う。
 トンボもその噂くらいは聞いたことがある。
 何でも美術室にある絵にこの学校の守り神みたいなものが描かれていて、それが夜な夜な抜け出しては悪戯をするとかいう話だ。
 それで確か、その守り神に願い事を叶えてもらうためにおびき出す儀式みたいなものもあって、タスクはそのことを言っているのだろう。

「具体的には、何をしたんだ?」

 いつになく、国栖は真剣な様子で聞いた。

「ボクは、学校に忍び込んで、上履きに墨汁をつけて黒い足跡を学校の廊下中につけて回って、オレンジ色の絵具で鏡に格子を嵌めるように縦横の線を引いたんです。そうすると、白いコートの女神は子ども達が悪戯をしていると思って絵から出てくるんです。そして、灰色の目隠しをして、もういいかいって叫ぶと、それが子どもの声だって思ってそっちに来るんです。そうやって女神をおびき寄せて、屋上まで行って、盗んできた鍵で屋上の扉を開けようとして、そこで警報が鳴りました。ボクは急いで逃げて、ああ、もうダメだともって――死のうとしたんです」

「死のうとした?」

「ビルから飛び降りようと思って高いビルに上って、フェンスもよじ登って、そしてボクは落ちたはずなんです。ちゃんと落ちた時の痛みも覚えてる! ボクは、死んだはずなんです!」

 タスクは声を荒らげて言った。国栖は落ち着けとタスクをなだめる。

「少なくとも俺の聞いてる範囲で、学校にそんな悪戯がされたってことは聞いてねえぞ」

「そうです。だからボクも夢だったんだって思ってたんです。コンクールのことは夢じゃないけど、その後のことは全部夢なんだって」

「夢じゃねえのか?」

 国栖がそう尋ねると、タスクはポケットからおずおずと何かを机の上に置いた。
 それは銀色のジッポーライターだった。

「ボクは死ぬ直前、飛び降りたビルの駐車場で、何か、とても怖いものを見たんです。その時、ボクは折れた手で、そこにあったこのライターに火を点けた。何を見たのか思い出せません。でもこのライターはボクのじゃない。ボクはライターなんか持ってないし、うちにタバコを吸う人もいません。これは、これがあるってことは、ボクが見たものが夢じゃないって証拠なんです」

 タスクは真剣な様子だった。
 それでも笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないかと怯えた顔をしていた。

「ねえタスク、そのビルって――」

 トンボは聞いた。何故か引っかかった。

「カササギビルだよ。ほら、北の住宅地にぽつんと立ってる……」

「それ――本当?」

「何だと?」

 タスクの答えにトンボと国栖は同時に反応した。
 おそらく同じものに思い至ったに違いない。
 タスクは二人の顔を驚いたように見比べた。

「うん、そこから飛び降りたんだよ……でも何?」

 タスクの問いに、トンボと国栖は顔を見合わせた。
 国栖は首を振って、トンボに話すよう促した。
 カイコに他言無用と言われたが、タスクの話が無関係には思えなかった。

「実は、カササギビルで、身元不明の、致死量の血だまりが発見されていて、大騒ぎになってる。朝、集会があったろ? 不審者とか言ってたけど、本当は吸血ジャックかもしれないからこんな大げさに居残り禁止とかしてるんだよ」

 タスクが行ったという自殺。それと前後して見つかったカササギビルの血だまりの後。
 関係がないわけがない――。トンボはそう思った。
 トンボがそれを言うと、不意にタスクが白目をむいた。
 かと思うとそのまま崩れるように床に倒れた。

「タスク――!」

 トンボとタイチが駆け寄るより早く、国栖がそばに座り肩に手を当て、声をかけた。

「松木ぃ! 救急車を呼べ! 篠塚は職員室から他の先生を呼んで来い!」

 言われるままにタイチもトンボも保健室を駆け出る。
 
 タスクはそのまま病院に搬送された。
 トンボは去って行く救急車を遠くから不安な心持で眺めていた。

「トンちゃん、もう授業が始まっちゃう」

 タイチが後ろからトンボの肩をたたいた。
 付き添いには国栖が行った。トンボはタスクのことが気がかりだった。

「大丈夫、タスクはああ見えてすんげぇしぶといから」

 タイチは多分、トンボを安心させるために笑って言った。
 トンボもそれが分かったから、うん、とそれに従った。
 救急車のサイレンが遠ざかっていく。
 その音は、あのクリスマスの朝に響いていたものと何一つ変わらない。
 兄が死んだあの朝も、トンボは中学校の道を走る救急車の音を聞いていた。
 あの時トンボは何一つ心配していなかった。
 
 でも本当は、何かに気付くべきだったのだ。
 その音は間違いなくトンボにとっては危険を知らせる警鐘だったのだから。
 今も、その同じ音が何かを告げている。
 きっと悪いことが起こる。それもトンボの予想をはるかに超えて。
 トンボはそんな不安を抱えたままタイチに背中を押されるように教室に戻った。
Infirmary: Moratorium and Dragonfly visit The Suicide
»»  2013.09.02.

【月曜日】



――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。

 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。
 梅雨の晴れ間。
 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。
 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。
 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。
 寝坊して閉門に間に合うかどうかというぎりぎりの時間だったが、体が重くて走る気力が出ない。
 もともとそんな体力もないと言ってしまえばそれまでかもしれなかったが。
 その道の途中で、今しがたようやくタスクは昨日のことを思い出した。
 できれば忘れていたいことだった。

「タスク、おはよう」

 後ろから声がした。
 タスクは不機嫌な顔で振り返った。返事はしない。
 声でそれを気にするような相手ではないとわかったからだ。
 案の定立っていたのは同級生の松木太一(マツキ タイチ)だった。
 小学校一年生からの長い付き合いである。
 タスクのこの応対は相手もわかりきったことだった。

 この男は髪の毛を切る金もないほど貧乏を自称する。
 事実かどうか知っているわけではないが髪は実際長い。
 前髪は目を覆うほど。
 後ろ髪に至っては背中まであり、首の後ろで一つに結ばれている。
 知り合って以来タイチはずっとその髪型だった。
 いつ見ても鬱陶しいが、こう蒸し暑い時には一層暑苦しく見えて余計に不快だった。
 服装も学校のあるなしに関わらず制服しか着ない。
 この季節は半そでのワイシャツに、グレーのズボン。
 いつもと同じ姿だ。

「お返事は?」

 タイチは笑顔でタスクに言う。それも毎度のことだった。

「子どもか」

「お返事」

「……」

「お返事」

「おはよう。これでいい?」

「それでいい。馬鹿馬鹿しいと思ってるだろうけど大事なことだぞ。挨拶と笑顔と身だしなみ。人間関係の基本だ」

――身だしなみはお前も問題だろ、と心の中で突っ込む。
 そう、お前『も』だ。タスクも身だしなみが決して整っている方ではない。
 生まれつき栗色の髪の毛はこれまた生まれつき巻き気味だった。
 寝癖でいつも髪の毛はひどく乱れる。
 くしをあててもドライヤーを吹き付けても、どうにも収まりが悪い。
 かといって整髪料に頼るのは何だか不良っぽくて手が出せないでいた。
 さらにタスクもタイチも私服の生徒がほとんどの学校に制服で通学する。
 タイチの場合、自称によれば他に服がないかららしい。
 しかしタスクは制服にせざるを得ない切実な理由があった。
 タスクは高校一年生男子だが身長は159.5㎝しかない。
 この国の中学一年生男子の平均より小さいくらいだ。チビなのである。
 制服でも着ていないと、誰も高校生だと思ってくれないのだ。

「……そのさ、昨日は残念だったけど元気出せよ」

――ああそうですか。

 あまつさえこの話である。
 タスクの不快感はうなぎのぼりに上がる。
 眉間を中心に目の周りに寄るしわが一層深まり、表情が物々しくなっていく。

「失敗は誰にでもある」

――余計な御世話だ。そんなことはわかっている。

「気に病むようなことじゃない。お前だけのせいでもない」

――お前に何がわかる。

「今度挽回すれば――」

「うるさい。放っておいてくれ」

 タスクはタイチの言葉を遮って言う。
 励ましてくれるくらいならいっそ知らない振りをして欲しかった。
 少なくとも今のタスクにはそれは侮辱に感じられた。
――今度なんてない。舞台は常に一度きりだ。

 そう、あの人達の、カイコや三年生達にとっての高校生最後のコンクールの舞台は。
 もう二度とないのだ。それをタスクが失敗させてしまった。
 やり直しがきく類いのものではない。タスクの胸はまたつきんと痛んだ。
 
 タイチはまだごにょごにょ言っている。
 無視していても、タスクの気分を荒立てる言葉ばかりだった。
 タスクは奥歯を噛みしめる。
 タイチは多分、善意で言っている。励まそうとしてくれている。
 そもそも遅刻寸前のタスクとこの時間に通学路で会うわけがない。
 つまり、タイチはここで待っていたのだ。タスクを励ますだけのために。
――バカじゃないのか。

「少し黙っててくれ」

 そう言うので精いっぱいだった。
 タイチはまだ何か言いた気だった。
 しかし中途半端に口を開けたまま、結局何も言わなかった。
 タスクが本当に言いたいことは、言わなければいけないことはこんな言葉では絶対ない。
 でも、タスクは言わない。言えない。

 言えない代わりに出る言葉は憎まれ口だった。
 考えを述べることが苦手なわけではない。世間話はいくらでもできる。
 でも、タスクの口は気持ちを正直に伝えてくれない。
 嬉しくても、悲しくても。楽しくても、つらくても。
 どんな時もとげとげしい言葉しか出てこない。

 一方的に励ましの言葉を連ねていたタイチから、タスクは逃げるように速足で歩いた。
 そのせいかどうか定かではないが、閉門するぎりぎりのところにタスク達は間に合った。
 門を閉めているのは保健室の教師だった。
 その男がじろじろとタスクの方を見る。きっと知っているに違いない。
 タスクのコンサートにはテレビ中継も来ていた。
 ひょっとしたら学校中が、この街中がタスクの顔を知っているのだ。
――式部北のへたくそな伴奏者として。
 タスクはうつむいたまま校門をくぐった。

『気にすることはないよ、タスク――』

 そこに聞こえた言葉はタスクの逆鱗に触れた。

「気にするなって、どういうことだよ」

 タスクはそれについに切れた。
 起きた時から消えないイライラが頂点に達して、口から溢れた。

「気にするなだって? それってどういう意味だよ!」

 後ろにいたタイチはいきなりのことにぽかんと口を開ける。
 門を閉めた教師も怪訝そうな顔をしていた。

「その程度だったってこと? 気にする必要のない程度の舞台だったって。それなら、何で伴奏なんてさせるの? 歌が下手で、ピアノくらいしか取り柄がなかったから? そんな理由でやりたくもない舞台に立たされて、こっちはいい迷惑だよ!」

 ああ、何を言ってるんだ、ボクは――。

 こんなのは八つ当たりもいいところだ。伴奏はタスク自身まんざらでもなかったのに。

「……ごめん」

 タイチが謝る。
 その言葉に、途端にタスクの怒りは冷めた。
 同時に、言いようのない罪悪感が胸に押し寄せる。

「今日のボクは機嫌が悪いんだ。そっとしておいてくれ……」

 また本心とは違う言葉が口を突く。
 今タスクが言わなければいけないのは絶対にこの言葉じゃない。

「機嫌がいいタスクなんて見たことないけどな。十年間付き合ってきて」

 タイチは笑って言う。
 タスクはこいつ、とタイチの頭を小突いた。
 タイチは避けるでもなく殴られて、へへと笑う。
 タスクはそれで何だかいつも通りになった気がした。

「でも、タスクなんであんな場所でいきなり沸騰しちゃうわけ? 怒りだすタイミングおかしいぞ」

 タイチは何の気なしにそう言った。タスクはその言葉に戸惑う。

「気にするなって言ったじゃないか」

「言ってないだろ。タスクがしゃべるなって言ったから何も言わなかっただろ。オレ偉い」

 タイチはエッヘンと言わんばかりに胸を張る。
 嘘を言っている風ではない。
 からかっているわけでもなさそうだった。
 でも確かにタスクはその声を聞いた。はっきりと聞こえた。

「幻聴でも聞こえるようになったのか?」

「うるさい。ボクは傷ついているんだ」

「おーおー可哀想に。良ければオレの胸を貸すぞ。たんとお泣き」

 胸を広げるタイチの鳩尾にタスクは手刀を繰り出す。
 タイチはうぐ、とカエルのような声を出した。
 幻聴――だったのだろうか。そうなのかもしれない。
 夢と現実の区別さえ曖昧なのだ。
 でも、あの言葉は確かにタスクの耳に届いたと思う。
 本物の声のように、外側から。

「今日はいつにも増して暴力的じゃないか。よっぽど鬱憤がたまってるんだな。性の抑圧は体に良くないぞ」

「余計な御世話だ」

 タスクはタイチの頭に手刀を繰り出す。
 タイチはひらりと身をかわした。
 そして、走り去るように玄関をくぐり抜けた。
 タスクもそれを追うようにしてようやく学校に入っていった。
 タスクが下駄箱で靴を脱いでいると校内放送が流れた。

『生徒会から放送です。臨時のクラス委員集会を開きます。各クラス委員は至急生徒会室に集まってください。繰り返します――』

 タスクはついてないな、と思った。
 タイチは何だろな、ととぼけた顔をしている。

「そういうわけだから。行ってくる」

 タスクはタイチにそう言って、教室とは真逆の生徒会室へと歩いて行った。

The Suicide meets The Moratorium

2013.09.02.[Edit]
【月曜日】1――と言うのはどうも、夢だったらしいことだけは確実なようで。 タスクはいつもと変わらない通学路の、長々とだらしなく続いている坂道を下っていく。 梅雨の晴れ間。 まだ朝だというのに気温はとっくに二十五度を超えて、アスファルトには逃げ水が躍っている。 その暑さは平素から不機嫌なタスクを一層不機嫌にしていた。 陽炎のようにぼんやりとした記憶に頼り、朦朧としたまま体が自動的に学校に向かう。 寝坊...

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 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。
 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。
 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。
 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。
 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。
 
 クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。
 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。
 漢字で篠塚蜻蛉(シノヅカ トンボ)と書く。当然だが女子である。
 しかし女子にしては珍しいほどに短い刈り込んだ髪形で、体格もいい。
 見た目と名前だけで男と勘違いする人も多い。
 女の子らしく見えるのは精々、下まつ毛が長めで目がパッチリしていることくらいか。

 トンボは、性格も男勝りな部分が強い。
 今時珍しくないかもしれないが、自分のことをボクという。
 明るく一本気で、考えなしだがやることはやる性格だった。
 トンボは立候補してこの面倒なクラス委員になったツワモノだ。
 クラスでも一目置かれているし、人気者だった。
 
 生徒会室のドアを開けると部屋の中にはすでに全員が揃っているようだった。
 タスクが最後だったらしい。
 別段のんびりしていたつもりはないが、それでも何となく気まずい。
 部屋の教壇に立っているカイコの姿を見て、さらに気まずい気持ちになった。
 正直今日は顔を合わせづらい。
 タスクは少し体をかがめながら、トンボの隣の席に座った。

「これで、全員かな。諸君」

 諸君、なんて日常的に口にするのは多分タスクの人生の中でこの人だけだろう。
 上は半そでのブラウス、下は赤茶色のプリーツのスカート。
 襟もとはボタンを一番上まで詰めてリボンのタイで飾っている。
 髪の毛は艶やかに黒く、前髪は左に流し、耳元で金の蝶を模したピンで留めている。
 これが生徒会長――蝶野蚕(チョウノ カイコ)の標準的な服装だった。
 どこかの制服のように見えるが私服である。

「今日集まってもらったのはちょっとしたトラブルが原因であることを先に言っておこう。この学校の近辺で不審者が出没していると、警察から直接学校に通告があった」

 タスクはぎくりとした。
――まさか、だって、昨日のことは夢だったはず。
 だから今日自分はちゃんと家のベッドで寝ていたし。
 昨日学校でやったことは、全部夢の中の出来事のはず。
 そんなタスクの心境に構わずカイコは続ける。

「学校としてはこれに対応しないわけにはいかない。そこで今後しばらく、学校終了後、五時以降の生徒の居残りを禁止する。部活、生徒会、その他あらゆる理由での居残りを認めない。とにかく学校としては五時までに全生徒の完全下校を行う」

 カイコがそう言い切ると、教室の中はざわついた。
 当然である。
 もうすぐ夏で、野球部は甲子園予選もあるし、運動部は練習の盛りを迎える時期だった。
 異議があります、と真っ先に手を挙げたのはトンボだった。

「発言を認めよう、篠塚君」

「陸上部は来週末金曜日から大会を控えている重要な時期です。この時期に部活を行えないのは大きなハンディキャップになります。不審者の出没というだけでその対処はやりすぎではないでしょうか」

「発言はもっともだし、私もこれは特に運動部に対して大きなデメリットをもたらすものだということは重々承知している。だが、この措置は警察からの勧告に対し学校側が決めたものであり、我々としてはその決定に口をはさむ権限を持たない」

「続けて言います。学校側と生徒側の意見が対立した際にその仲裁を行うのが生徒会の役割だと、生徒会憲章にあります。だとしたら、ボクたちはここで生徒側の権利を守るために学校側と交渉するのが役割ではないでしょうか」

 トンボは食い下がらずさらに追及を続ける。
 カイコは持っていた蛇の目の紋の扇子で口元を隠しながら答えた。

「それももっともな意見だが、今回は学校側に従うことが、生徒にとって何よりも守らなければならない最善の利益を保護することにつながると確信している」

「何が出たんですか」

 トンボが問う。カイコはこれに不快そうに少し眉をひそめた。

「ただの不審者じゃないはずです。こんな対応は。一体何があったんですか。答えてください、蝶野会長」

「……」

 カイコは答えなかった。
 ただじりじりと不快感で相手を焦がすようなまなざしでトンボの目を見つめ返す。
 トンボはそれにも動じず視線をカイコからそらさなかった。

 タスクはその物々しい空気に耐えられず、携帯をいじろうと思った。
 要するにこの現状から逃避することを選んだのだ。
 ポケットに手を突っ込むと、何か携帯以外のものに手が触れた。
 タスクは不審に思ってそれを取り出す。

 タスクの手に握られていたのは銀色のライターだった。
 確かジッポーライターとかいう奴だ。
 でもどうしてこんなものがタスクのポケットに入っているのだろう。
 タスクも含めてタスクの家にタバコを吸う人間はいない。
 こんなものを拾った覚えも――。
 
 それに思い至った瞬間、タスクはヒュ、と息を飲んだ。
 そして机とイスを突き飛ばす勢いで立ち上がる。
 実際に机は前の席にぶつかった。座っていた男子がタスクを睨む。
 イスは勢い良く床に叩きつけられて、大きな音を立てた。

 教室中の視線がタスクに集まる。
 カイコも、トンボも、誰もが唖然とした顔をしていた。

「何事かね、坂崎君?」

 カイコが問う。

――どうしたんだろう。ボクは一体、どうしてしまったんだろう。
 そうだ、あの時だ。屋上から飛び降りて、その後。
『何か』を見た気がする。そして、このライターを掴んだ。

「篠塚君、すまんが坂崎君を保健室に送ってきてくれないか。顔が真っ青だ」

 トンボはキッとカイコを睨む。
 それは体よくこの空間からトンボを排除するための口実だったからだ。
 しかしそれでもトンボはそれに従った。そうする以外になかった。
 タスクはトンボに伴われて保健室に向かう。

 その間のことはタスクの記憶にはない。
 タスクの頭の中には、どうなったんだという疑問が飽和していた。

――ボクはあの後どうなったんだ。ピアノの失敗の後。
 ボクは、学校で、七色不思議の儀式を実行した。
 学校中を墨だらけの靴で歩いて。鏡にオレンジの絵具で落書きをして。
 でも途中で警報が鳴って逃げた。その後。

――誰もいないビルの屋上に上って、その後。

――飛び降りた。
 周りは真っ暗で、遠くに街の明かりが星のようで。
 風がなかったら宇宙だと思っただろう。無重力空間だと。
 内臓はふわりと浮き上がって。一瞬で一生を振り返った。
 そして、激痛が全身を襲った。その後。

 死を感じた。死ぬと思った。
 実際に――死んだ。死んだはずだ。
 後頭部から地面にぶつかって。
 その後ゆっくりと体が折れ曲がった。そして、その後。
 何かを見た。何かとても、恐ろしいものを。
 そしてこのライターを掴んだ。

――あれは確か。

――ボクは一体、どうしていた。どうなっていた。

Zippo lighter: the evidence of suicide

2013.09.02.[Edit]
 式部北高校の生徒会は十二の委員会からなる。 任期は前期と後期、半年ずつで、クラスの全員が一年のうちに何かしらの委員を務める。 しかし、クラスを統括するクラス委員だけは任期が一年ある。 そしてタスクは、その一番面倒なクラス委員だった。 入学初日のじゃんけんに負けた結果がこれである。  クラス委員は男女各一人ずつ選考するのが決まりだった。 もう一人の女子クラス委員はトンボという変わった名前だった。 ...

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 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。
 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。
 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。
 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。
 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。
 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の吉沢颯(ヨシザワ ハヤテ)が立っている。
 ならばカイコはこの部屋にまだいる。おそらく後ろを向いたその椅子に。
 トンボは迷いのない足取りでつかつかと机の前に向かう。
 声をかけようとしたその時、いきなり椅子が前を向いた。

「坂崎君はどうだった?」

 トンボが言うより早く、カイコが質問した。
 トンボは口まで出かかった言葉を飲み込むしかない。
 それが蝶野カイコという女の話し方だった。
 ことこういう場面では、カイコは常に相手のペースを飲む。

「国栖先生に任せました。タスクは心ここに非ずと言う感じでした。それで――」

「何が、出たか、と言うことだろう?」

 トンボが先を言う前にカイコが続けた。
 カイコは広げた扇子で口元を覆いながら試すような視線でトンボを見つめた。
 おそらく隠した口元は笑っている。トンボは少しイライラしていた。

「君にだけは本当のことを言っておこう。――吸血ジャックだ」

 ぴしゃりと扇子を閉じてカイコはそう言った。
 その名前にトンボは一瞬動揺する。
 それは、その名前は、吸血ジャックは――。

――連続猟奇殺人鬼、吸血ジャック。
 闇に隠れて人を襲い、殺してその死体を恐ろしく残虐な手段で『飾り付けて』見せびらかす。
 ある週刊誌がその煽り文句でこの殺人鬼を呼んだのがいつの間にか定着していた。
 確かすでに殺された人は見つかっているだけで九人。
 襲われてからくも生き延びた人はその倍はいるという。
 それだけの証言者がいながら、いまだ犯人は男性で、単独犯と言うことしかわかっておらず、正体は要として知れない都市伝説と化している犯罪者だった。
 トンボにとっては、忘れたくてもできない名前だった。

「いや、この言い方は正確ではないな。吸血ジャックの殺人なのではないか、と思われている痕跡が発見され、警察は周辺に警戒を呼び掛けていると言うべきか。本当のところはまだわかっていない。ただ、それが実際吸血ジャックだったなら、この学校は危険なのだ」

 わかるね、篠塚君――。
 カイコは静かに言って椅子から立ち上がる。
 ハヤテは無駄のない動作でその椅子をすぐに直し、自分とカイコの鞄を持った。

「カササギビル――そこで一人分の人間の致死量の血だまりだけが見つかっている。死体は見つかっていない。どのような方法でその血だまりを作ったのかもわかっていない。ただ、あまりに不審だし、何よりも去年のことがあるから、そういう判断がされた。いくら大会が近くても、居残りはダメだ。生徒会は生徒の命を何よりも優先する。――私はもうこの学校の生徒が死んだり殺されたりするところを見たくない」

 カイコはトンボの方を見ずにそう言いながら部屋を出る準備をしていた。
 そして、すれ違いざまに本当に小さく耳元で、すまない、とだけ呟いた。

「出るときは電気を消してくれたまえよ。急ぎたまえ、そろそろ一時間目の授業だ」

 カイコはトンボに背中を向けてそう言った。
 言葉が終わると同時にハヤテがドアを音もなく閉めた。

「間違っても――」

 ハヤテが閉め切る寸前でドアをぴたりと止める。
 カイコはその隙間からトンボの方を見ずに後ろを向いて続ける。

「間違っても、お兄さんのことと、去年この学校で起こっていたこと、そしてカササギビルのこと――他言してはならない。これは秘密だ、私と、君との。わかっているね」

 カイコがそれだけ言うと、ハヤテが完全にドアを閉めた。
 トンボはしばらくそのドアの方を見つめていた。
 吸血ジャックがまた出た。この近くで。
 兄を殺したあの殺人鬼が――。

 気がつくとトンボは握りこぶしを作っていた。その手の中がじんわりと汗で湿っている。
 始業五分前の予鈴が鳴った。
 トンボはそれを聞いて、慌てて荷物をまとめて生徒会室を後にした。

 タスクは、結局午前中はずっと保健室から戻ってこなかった。
 トンボは悶々としたものを抱えながら、そのままお昼休みを迎えた。

「トンちゃん、これから暇?」

 購買でパンを買おうとするトンボにタイチが声をかけてきた。
 その手にはカレーパンと焼きそばパンが握られていた。

「何?」

「タスクのお見舞い行こーよ。はい、好きな方選んでいーよ」

 じゃあ、とトンボは焼きそばパンを取る。

「珍しいな、タイチが人にパンを買うなんて」

「そう? 惚れ直した?」

 まさか、とトンボは笑った。惚れ直す以前に惚れてさえいない。
 ただ、タイチがトンボに好意を持っているのは確かなようで、ことあるごとにアプローチを受けているのは事実だった。
 初めこそ照れたりしていたが、二か月も経てばさすがに顔色一つ変えずに流せるようになるものだ。
 二人で並んでパンを食べながら廊下を歩いた。

「何だろーな、やっぱり昨日のこと気にしてんのかなー」

 タイチはカレーパンを口いっぱいに頬張りながら言う。

「昨日のこと?」

「うん、ほら、昨日、合唱部のコンクールで、タスク、伴奏やってたんだよ」

 ああ、とトンボは頷いた。
 確かそんな話をタスクに聞かされた覚えがある。
 本心か照れ隠しか、タスクがやたらと乗り気でないことを強調していたような。

「何かあったの?」

「ピアノ。上手くいかなくって。止まっちゃったんだよ。タスクにとってはきっと、すごくショックなことなんだろうな。多分それをまだ引きずってるんだと思う。昨日は終わり次第行方くらませちゃったくらいでさ、いつの間にか帰ってたみたいだけど。合唱部はそれでかなり迷惑したみたい」

 それでか、とトンボは朝のタスクの様子に納得した。
 カイコは確か合唱部の部長で、指揮者だったはずだ。
 顔を合わせづらい心境だったに違いない。
 とはいえ、それが理由で朝あんな風に唐突に具合を悪くするものだろうか。
 タイチは保健室に着くまでに食べちゃって、とトンボを急かした。
 腑に落ちないものを感じつつも、トンボはともかくパンを胃の中に詰め込んだ。

「失礼しまーす、坂崎君のお見舞いに来ましたー」

 保健室は開けた瞬間ひやりとした空気を感じるほど冷房が効いていた。

「あれ、どうしたんですか、国栖先生がタバコを吸ってないなんて。灰皿も空っぽじゃないですか。具合でも悪いんですか?」

 タイチもトンボも怪訝そうに顔を見合わせた。
 養護教諭の国栖は重症のヘビースモーカーで、校内は全て禁煙にもかかわらず、堂々と煙草を吸っていることで有名だった。
 いつものごとく、煙が霧のように充満しているかと思いきや、部屋に染みついたやに臭さ以外、たばこの残滓は全くない。

「お前な、学校は校内禁煙なんだから当たり前だろ」

「うわ、先生が自分から禁煙とか言い出すなんて。らしくないどころじゃないですよ。本当にどこか悪いんですか?」

 タイチは言いながら自分の額と国栖の額に手を当てて体温を比べる。
 国栖はそんなタイチに喧しいと渋面を作った。

 国栖は去年の四月末、養護教諭を務めていた女性教師が産休に入った折に、その代理で赴任し、その先生がそのまま寿退職してしまったので、彼もそのまま式部北高校の保健医として収まったらしい。
 口調は粗野で、態度も横柄なところがあるが、医師としての腕は確かで、ことさら性教育と称した猥談は男子から人気があったし、その辺は女子の中にも大人の魅力と称してうつつを抜かしている生徒も少なからずいる。

「お前ら、俺をおちょくりに来たんじゃねえだろ! 坂崎の見舞いなんだろ、ほらさっさと連れて帰れよこいつ。おう、坂崎、見舞いが来てるぞ、ちょっと開けるぞ」

 国栖はタスクの返事も構わずにベッドを仕切るカーテンを開けた。
 中から慌てたようにちょっと待って、と言う声が聞こえたが止める間もなくベッドの中に光が差す。
 その中を見て、トンボは慌てて後ろを向いた。

「うわうわ、ちょっと待ってって言ってるじゃないか!」

「何だぁ、坂崎、その格好は。なんかごそごそやってんなぁと思ってたら、お前、こんなところで」

 タスクは何故か全裸だった。
 ベッドの上でズボンもワイシャツも、下着さえも脱いで、その上から布団で体を隠している。
 顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。それはトンボも同様である。

「だから性の抑圧は体に悪いって言ってるのに……」

 タイチが呆れたように言うと、タスクは目に涙さえ浮かべて、違うって言ってるだろと大声で言った。
 とにかくカーテンを一度閉め、タスクが着替えるのを待った。
 数分して、タスクは顔を赤くしたままうつむいてカーテンから出てきた。

「何しに来たんだよ……」

 タスクは目線を下げたままぼそぼそと言った。

「お前なぁ、せっかく友達がお見舞いに来てやってるのに他にないわけ?」

「頼んだわけでもないよ……勝手に来たくせに」

 タスクの言葉にタイチは頭をがりがりとかいた。

「先生、こいつ大丈夫なの?」

「知らねーな。見たところ外傷はねえよ。精神的な問題なら俺は管轄外だし」

 国栖はパソコンで麻雀をやりながら興味なさそうに答えた。

「もう、ちゃんと仕事してくださいよ。タスク、お前大丈夫なら午後からは授業出ろよ」

「そうそう、松木の言う通り。つらいならさっさと帰るなり、平気ならさっさと授業行くなり、ずっと保健室にいられるのも迷惑なんだよ」

 国栖の言葉は到底保健室の先生とは思えない。
 そこが魅力だという人もいるのだが。
 タスクはその言葉に迷ったように唇を噛む。
 やがて小さな声で、先生、と国栖を呼んだ。

「……ボクの体、何ともありませんか? どこか折れてたり、欠けてたりしませんか? 本当にボクの体、ちゃんと元通りになってますか?」

 タイチもトンボもその言葉にタスクの方を向く。
 国栖も振り返って鋭い目つきをタスクの方に向けた。

「そりゃ、どういう意味だ? 何か体に異常が出る心当たりでもあんのか?」

「……信じてもらえないかもしれないけど、ボクは昨日、自殺したんです。ビルから飛び降りて、一度死んだはずなんです。首の骨が折れたのだって覚えてます。でも、ボクは今こうして生きてる。それが信じられなくて、裸になって体を確かめてたんです。先生、ボクはちゃんと生きてますよね?」

 タスクは真剣な様子で訴えた。その言葉に部屋は沈黙に包まれる。
 トンボは言葉の意味を計りかねた。タイチはわざとらしく大きな声で笑った。

「アーッハッハッハ! いくらショックだからって、その冗談はどうかと思うぞ、笑えないし……」

「松木」

 国栖が短くタイチを呼んだ。その声はさっきまでの軽薄で粗野なものではなかった。

「そこの衝立をここに持って来い。坂崎はここ座れ」

 国栖はパソコンをいじる手を止めて、雑然とした机からノートとペンを取り出した。
 タイチが衝立を二人の前に広げ、トンボからはその姿が見えなくなる。
 トンボはなるべく見ないよう、聞かないように隅の方にいた。
 しばらくすると二人がその向こうから出てきた。

「体に異常は見られないな。少なくとも触診では確認できない。で、何だ、その自殺か? 詳しい話を聞かせろ。何なら人払いをするが」

「あ、いえ、大丈夫です……」

 衝立から出てきたタスクは正面のテーブルの前に座った。
 対面して国栖が掛け、タイチとトンボは横に座る。

「昨日、何があった?」

「昨日は、みんな知っていると思うけど、全国高校合唱コンクールの埼玉地区予選があって、この学校の合唱部の伴奏者としてピアノを弾いていたんです。でも……」

 タスクはその先を言いよどむ。
 タイチの話では手痛い失敗をしたらしいが、それを認めて口に出すのはためらわれるようだった。
 そのことは国栖も知っているらしく、問題はその後からだろ、と促した。

「はい、ボクは多分、演奏が終わってステージを下りた後、動転してそのまま会場を抜け出して、全部なかったことになればいいと思って――学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行ったんです」

 タスクの言葉に、全員ぽかんとした顔を浮かべる。
 タイチは口を間抜けに開けていたし、トンボは何を言っているんだろうと思っていた。

「七色不思議って――お前あんなもん信じてるわけ?」

 タイチが呆れたように言う。
 トンボもその噂くらいは聞いたことがある。
 何でも美術室にある絵にこの学校の守り神みたいなものが描かれていて、それが夜な夜な抜け出しては悪戯をするとかいう話だ。
 それで確か、その守り神に願い事を叶えてもらうためにおびき出す儀式みたいなものもあって、タスクはそのことを言っているのだろう。

「具体的には、何をしたんだ?」

 いつになく、国栖は真剣な様子で聞いた。

「ボクは、学校に忍び込んで、上履きに墨汁をつけて黒い足跡を学校の廊下中につけて回って、オレンジ色の絵具で鏡に格子を嵌めるように縦横の線を引いたんです。そうすると、白いコートの女神は子ども達が悪戯をしていると思って絵から出てくるんです。そして、灰色の目隠しをして、もういいかいって叫ぶと、それが子どもの声だって思ってそっちに来るんです。そうやって女神をおびき寄せて、屋上まで行って、盗んできた鍵で屋上の扉を開けようとして、そこで警報が鳴りました。ボクは急いで逃げて、ああ、もうダメだともって――死のうとしたんです」

「死のうとした?」

「ビルから飛び降りようと思って高いビルに上って、フェンスもよじ登って、そしてボクは落ちたはずなんです。ちゃんと落ちた時の痛みも覚えてる! ボクは、死んだはずなんです!」

 タスクは声を荒らげて言った。国栖は落ち着けとタスクをなだめる。

「少なくとも俺の聞いてる範囲で、学校にそんな悪戯がされたってことは聞いてねえぞ」

「そうです。だからボクも夢だったんだって思ってたんです。コンクールのことは夢じゃないけど、その後のことは全部夢なんだって」

「夢じゃねえのか?」

 国栖がそう尋ねると、タスクはポケットからおずおずと何かを机の上に置いた。
 それは銀色のジッポーライターだった。

「ボクは死ぬ直前、飛び降りたビルの駐車場で、何か、とても怖いものを見たんです。その時、ボクは折れた手で、そこにあったこのライターに火を点けた。何を見たのか思い出せません。でもこのライターはボクのじゃない。ボクはライターなんか持ってないし、うちにタバコを吸う人もいません。これは、これがあるってことは、ボクが見たものが夢じゃないって証拠なんです」

 タスクは真剣な様子だった。
 それでも笑われるんじゃないか、バカにされるんじゃないかと怯えた顔をしていた。

「ねえタスク、そのビルって――」

 トンボは聞いた。何故か引っかかった。

「カササギビルだよ。ほら、北の住宅地にぽつんと立ってる……」

「それ――本当?」

「何だと?」

 タスクの答えにトンボと国栖は同時に反応した。
 おそらく同じものに思い至ったに違いない。
 タスクは二人の顔を驚いたように見比べた。

「うん、そこから飛び降りたんだよ……でも何?」

 タスクの問いに、トンボと国栖は顔を見合わせた。
 国栖は首を振って、トンボに話すよう促した。
 カイコに他言無用と言われたが、タスクの話が無関係には思えなかった。

「実は、カササギビルで、身元不明の、致死量の血だまりが発見されていて、大騒ぎになってる。朝、集会があったろ? 不審者とか言ってたけど、本当は吸血ジャックかもしれないからこんな大げさに居残り禁止とかしてるんだよ」

 タスクが行ったという自殺。それと前後して見つかったカササギビルの血だまりの後。
 関係がないわけがない――。トンボはそう思った。
 トンボがそれを言うと、不意にタスクが白目をむいた。
 かと思うとそのまま崩れるように床に倒れた。

「タスク――!」

 トンボとタイチが駆け寄るより早く、国栖がそばに座り肩に手を当て、声をかけた。

「松木ぃ! 救急車を呼べ! 篠塚は職員室から他の先生を呼んで来い!」

 言われるままにタイチもトンボも保健室を駆け出る。
 
 タスクはそのまま病院に搬送された。
 トンボは去って行く救急車を遠くから不安な心持で眺めていた。

「トンちゃん、もう授業が始まっちゃう」

 タイチが後ろからトンボの肩をたたいた。
 付き添いには国栖が行った。トンボはタスクのことが気がかりだった。

「大丈夫、タスクはああ見えてすんげぇしぶといから」

 タイチは多分、トンボを安心させるために笑って言った。
 トンボもそれが分かったから、うん、とそれに従った。
 救急車のサイレンが遠ざかっていく。
 その音は、あのクリスマスの朝に響いていたものと何一つ変わらない。
 兄が死んだあの朝も、トンボは中学校の道を走る救急車の音を聞いていた。
 あの時トンボは何一つ心配していなかった。
 
 でも本当は、何かに気付くべきだったのだ。
 その音は間違いなくトンボにとっては危険を知らせる警鐘だったのだから。
 今も、その同じ音が何かを告げている。
 きっと悪いことが起こる。それもトンボの予想をはるかに超えて。
 トンボはそんな不安を抱えたままタイチに背中を押されるように教室に戻った。

Infirmary: Moratorium and Dragonfly visit The Suicide

2013.09.02.[Edit]
3 トンボはタスクを養護教諭の国栖雄二郎(クズ ユウジロウ)に任せ、保健室を後にした。 時刻はもうホームルームが終わるという頃だった。 無駄だろうと思いつつもトンボは生徒会室を目指す。 ドアを開けると案の定、会議はすでに終わっていて、クラス委員は一人もいない。 黒檀の立派な生徒会長の机の革張りの椅子も後ろを向いている。ただ無人ではなかった。 その前にカイコの影のようにいつも付き従っている二年の書記の...

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