Tuesday in June

Index ~作品もくじ~


 
【火曜日】



 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。
 学校に行く気には到底なれなかった。

 当然、平日である。六月に祝日はない。
 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。
 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。
 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。

 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。
 搬送された時点で意識は取り戻していたが、付き添いの国栖が勧めたこともあり、一日精密検査を受けるために入院することになったのだ。
 レントゲンなどの検査は昨日のうちに済んでいた。
 今日はMRIや脳波測定など、タスクは一生受けることもないだろうと思っていた検査が行われる。
 それと合わせてこれまた一生受けることはないだろうと思っていたものがあった。
 カウンセラーによる精神鑑定のテストである。
 
 それは国栖が受けろと言ったものだったが、タスクは半ば自分からそれを受け入れた。
 確かに自分は精神を病んでいるのかもしれない。それもかなり深刻に。

『嫌だなぁ、ボクはそんなものじゃないよ。脳機能の障害なんかと同列視されるのは不快の極みだね』

 くすくす、くすくすと頭の中をくすぐるように笑い声がコロコロと移動する。
 それだけでタスクは気が狂いそうなほどもどかしい気持ちになる。
 今すぐに脳みそを取り出してきれいな水で洗って欲しいくらいだった。
 昨日、救急車の中でタスクの目を覚ましたのは救急隊員の呼びかけではない。
 この頭の中から聞こえる、得体のしれない何者かの笑い声だった。

 最初は聞き取れないほど小さかった声は、今は不快感を伴わなければきっと、タスクはそれが外からのものか区別できないほどはっきりと、大きなものになっていた。

『声』が笑う。
 タスクはベッドの中で思わず布団で頭を覆った。
 そんなことをしても頭の中からの声には全く無力なのに。
 それを見透かしたように声はさらに笑った。

――君は、誰だ。

『ボクは君、君はボク、ボクの名前は――』

 タスクはいつもそこから先を聞き取ることができなかった。
 それは何かに集中している時に聞こえている音が、耳には入っているけれど記憶に残らない感覚とよく似ていた。
 タスクはその言葉を聞き取っている。聞こえているのはわかる。
 でも理解できない。記憶に留めておけない。

『声』は頭の中で落胆したようにため息をついた。

『なんて掌握しにくい素体だろう。存在を同一化すればすぐに同調できると思っていたけど、まさか“認識”してもらわないとこちらとしての存在の体裁が保てないとは……。つくづく世界の乖離を思い知らされる。この世界は思う以上にずっと物質に依存しているんだ』

『声』はわけのわからないことをずっと呟き続けている。
 ただ、それはどうやら目的が達成できない不満であるようで、どうやらその目的はタスクにとって好ましくないことであることは確かなようだった。

「気が狂いそうだ……」

――いや、もうとっくに狂っているのかもしれない。 

「坂崎さん、検査ですよ。……大丈夫ですか? どこか痛いんですか?」

「……大丈夫、です」

 布団から顔を出すと、心配そうに覗き込む看護士と目があった。
 大丈夫なわけがない。自分はおかしいのだ。誰か気付いてくれ――。
 タスクは祈るような気持ちで視線にありったけの思いを込める。

「そう? 我慢しないで言ってね? 立てるかな?」

「はい……」

――視線で思いが伝われば苦労はない。
 あらゆることにおいて気持ちを正直に伝えられないことで悩むタスクが一番よくわかっていることだった。
 案の定看護士はそのままタスクにカルテを渡して検査の場所を案内するとそのまま行ってしまった。

『無理はしない方がいいよ、タスク』

 また声が頭の中を駆け巡った。タスクはその声を頭から引きずり出したくて、髪の毛をぐしゃりと掴んだ。
 もちろんそんなことをしても何の意味もないが。

『まだ見えないんだね。やっぱり相性が悪いのかなぁ』

 くすくすと笑う声に、タスクは黙れ、と頭の中で念じる。
 すると一旦は声の方は静かになる。
 それはつまりこの何者かが確かにタスクの内側に存在していることを示していた。
 念じるだけでは思いは伝わらないことは、さっきの看護士が示している。
 ならば念じることで通じるこの声は一体――。

「それを確かめるための検査なんだろ……」

 タスクは気を張るように自分の頬を両手で二度叩いた。
 そして検査室の受付に、カルテを出した。

 午後の検査が終わった時には、既に四時過ぎだった。
 結局異常も見つからなかったタスクは、このまま親が迎えに来たら帰る予定で、すでに着替えも終え、普段着を着ていた。
 相も変わらず雨は降り続いている。
 病院の中庭のアジサイは、きれいな青色をしていた。
 ぼんやりとそれを自販コーナーの前のソファに座って眺める。

 タスクは自分の経験や、幻聴に関しては医者に言うのを控えていた。
 いや、言えなかったというべきか。
 それを言うことで自分に何がされるのかを考えると怖かったのは事実だ。
 何か目に見える形ではっきりと、たとえば脳に異常が見つかるとか、あるいは心理検査で決定的な欠陥が見つかるとかすれば、言えたかもしれない。
 しかし、あいにくと言うべきか、幸いと言うべきか、そういうはっきりとした形での異常は、タスクには見られなかったのである。
 だからタスクは言えなかった。自殺のことも、『声』のことも。

「あれ? 坂崎じゃないか。どうしたんだ? どっか悪いのか?」

 そんな声に振り向いてみれば知り合いが立っていた。
 大柄なシルエット。
 短めのスポーツ刈りと、いかにも健康ですよと言わんばかりのがっしりした熱い胸板。
 小柄なタスクからするとずいぶんと背の高い、日に焼けた少年だった。
 右目の下の泣きぼくろは本人によるとトレードマークらしい。

「……桜木陽介(サクラギ ヨースケ)先輩」

「なんでフルネーム?」

「いえ、別に……何となく」

 ヨースケは式部北高校の陸上部所属の二年生である。
 タスクとは直接の交流はない。
 ただ、陸上部のトンボと、タイチと三人で一緒にいると、何故か世話を焼いてくれる。
 ファストフードなんかをおごってもらったことも一度や二度ではない。
 タスクの知り合いである。タスクが知っていて、相手もタスクのことを知っている。
 そんなことは当然なのに、どうしてだか確認するようにフルネームで呼んでしまった。
 自分は坂崎タスク、相手は桜木ヨースケ。
 タスクは確かめるようにヨースケの顔を見つめて、頭の中で何度かその名前を唱えた。

「大丈夫か、顔色悪いぞ?」

「ちょっと調子が悪くて、検査入院です」

「ああ、そう言えば昨日の救急車、坂崎が運ばれたんだって? どうせ日曜日の件が堪えてるんだろ?」

 いきなり図星をついてくる言葉に、タスクは思わずヨースケの顔を睨み付けた。
 この男もやはり――知っているのだ。
 ヨースケはといえば、別段責めるようでも嘲るようでもなかった。
 ただいつものように朗らかな春の太陽のような、明るい大きな笑みを浮かべていた。

「坂崎、もしかして、無理してない?」

「どういう……意味ですか」

 この男は――苦手だ。
 底抜けに明るくて、嫌になるくらいポジティブだ。
 人の心にもずかずかと入り込んでくる図々しさを持っている。
 正論ばかり言うし、目を背けていたいことにも強引に顔を向かせる。

「本当は、ピアノ、やりたくないんじゃないかと思って」

 タスクはその言葉に心臓を掴まれたような胸の苦しさを覚えた。

「そんなこと……」

 ありませんという言葉はついに口から出ることはなかった。

「あれぐらい気にすんな坂崎、俺は小学校の頃、運動会のリレーのアンカーで転んだ拍子にズボンとパンツが脱げてフルチンで走ったくらいだからな。しかもそのビデオを後で母さんに見せられるときの恥ずかしさと言えば、とても口で言い表せないぞ」

 ヨースケは明るい声で笑った。その声は無性にタスクの心をかき乱した。
 頭の中の『声』とは全く別の意味で、タスクの精神を踏みにじる。
 タスクの失敗は、そんな微笑ましいものと同列に語るべきことではないのだ。
 タスクにとって、そう扱われることはひどく腹立たしく思えた。

「坂崎?」

 名前を呼ばれてハッとする。
 考えれば考えるほどイライラするような気がした。
 これ以上この話題に触れられるのはよくない。

「……先輩は?」

「いや、俺は好きで……」

「いえ、なんで病院に? 練習で怪我でも?」

 タスクは半ば強引に話題を変えた。
 見たところヨースケはいつも通り、健康そのものといった様子だ。
 少なくともどこか悪いようには見えないし、トンボからそんな話を聞いた覚えもない。

「母さんの身体が弱くて、入院してるんだ」

 ヨースケは話題をそらされたことに構う様子もなく、素直に質問に答えた。
 ヨースケにしてみればこれは世間話で大した話題ではないのだ。
 それはそれで、自分のことがどうでもいいと言われているようで少し腹が立った。

「今はそのお見舞いの帰り」

「はぁ……それは、その、大変ですね」

 月並みなことを言いながら、聞かなければよかったと思った。
 ヨースケは見た目と同様に、何一つ歪んだところのない健やかな人生を送っていると思っていた。
 それだけに、親が入院しているというのは予想外で、タスクは何だか勝手に気まずい気分になった。

「最近はだいぶ落ち着いてきたからそうでも無いけどな」

 ヨースケはあっけらかんと答える。
 どうやらあまり気にしている様子はない。
 タスクはそれに少しだけ安心する。

「ヨースケぇ、おれもジュースほしい」

 突然、低い位置から声がした。
 ヨースケの少し後ろに男の子がヨースケの服の裾をぎゅっと握って立っている。
 歳は五歳くらいだろうか。背丈はヨースケの腰あたりまでしかない。
 あどけない無垢な顔立ちと、つむじのあたりの一房上を向いた髪の毛が可愛らしい。

「その子は……? 先輩の?」

 肌の色は真夏でもないのに、ほとんど焦げ茶色をしている。
 よほど外遊びが好きなのだろう。
 黄色い雨合羽に、同じ色の長靴を履いていた。
 自分が長靴など履いたのは、一体いつが最後だろう。
 もうきっとあの長靴は、タスクの足には入らない。

「ん? ああ、こいつは――知り合いの子で、ちょっとうちで面倒を見てるんだ。ジュースはまた今度な、ほら、タスクおにーちゃんだ、あいさつしな――」

「クロ……ト」

 ふいにタスクの口から言葉が漏れた。
 後から黒人(クロト)と書くのだと頭が理解する。
 ヨースケが怪訝な顔をする一方で、呼ばれた子どもは顔に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

「そうだよ! タスクおにーちゃん、こんにちは!」

「こ、こんにちは……黒人君」

「何だ? 二人は知り合いか?」

 ヨースケは意外といった表情で、タスクの方をまじまじと見ている。
 だが、タスクは驚いたなどと言ったものではない。

――知らない子どもだ。タスクに幼児の知り合いはいない。
 知らないはずだ、初めて会うはずだ。
 でもタスクは、この子どもの名前を知っていた。
 黒人なんて名前は聞いたことも見たこともない。
 それなのにわかった。直感した。一体何故――。 

「そーだよ! いつも一緒に遊んでもらったもん!」

――清流に魚が泳いでいる。裸んぼの子どもが楽しそうにそれを眺めている。
 きっとさっきまでそこで泳いでいたのだろう。
 ボクは後ろからその子に近付いてその体をふかふかの布で包む。
 甲高い笑い声が布の中で響いて、ボクはごしごしとその子の体を拭いていく。
 男の子がばあ、と布の中から顔を出した。黒人だ。そして、ボクは――。

 何だ、この記憶は――。それはタスクのものでは到底ありえない。
 タスクが知らない、経験したことのない記憶だった。
 でもその中に、黒人がはっきりと出てきている。
 黒人の笑顔、泣き顔、ふくれっ面。笑い声、泣き声、歓声、嬌声――。
 そんなものが溢れてタスクの記憶を圧迫する。

 里山の風景、薄桃色の花が咲き乱れる村、きれいな川があって、秋には森にたわわに木の実が実る、桃源の園――。

 タスクは大きくうつむいて頭を押さえた。ヨースケが怪訝そうに近づく。
 頭の中の声は、頭蓋を破るほどに大きく叫んで。
 それがタスクの中のタスクの人格を消していくようだった。

――ボクは誰だ。ボクハダレダボクハダレダボクハ――。

「ね、『ハイネ』」

 黒人が満面の笑みを浮かべて、名前を口にした。

「……ああ、そうだったね、黒人」

――灰音。

 そうだ、それがボクの名前だ。ボクは君だ。君はボクだ。ボクは、灰音。
 鴉のしもべ、十二の色の名を冠す鬼の一介――灰音。
 ボクはすっかり調子を戻して、黒人に笑いかけた。

「お、やっと笑った」

 ヨースケが言う。笑わないではいられなかった。
 それほどに誇らしく、すがすがしい気分だった。

「なんかずいぶんつらそうな顔してぜ? 『人間、笑ってる方が楽しいに決まってる!』ってな。病院の知り合いの爺さんの受け売りだけどさ、やっぱ笑った方がいいぞ」

 笑った方がいい、か。
 確かに『坂崎タスク』のように陰気を振りまいて過ごすよりはよほど周りに与える印象はいいだろう。
 人間はどうやら、しかめっ面をしている人間には警戒心を示すらしい。
 ならば笑顔はそれを解く意味でも大切なものだ。

「……ありがとうございます」

「ん? 俺、何かしたか?」

 ヨースケは不思議そうに首を傾げた。
 この男は自分が何をしたのか、『坂崎タスク』にとって何を導いたのかわかっていないだろう。
 黒人自身さえ、よくわかっていないと思う。それを考えるには黒人はあまりに幼い。
 それでもこのヨースケの出会いが、ボクの意識の構築の一助になったのは間違いない。
 おかげで――タスクを掌握することができた。

「よくわかんないけど……ま、元気が出たんならいいや。早いとこ学校来いよ、トンボが寂しがってる」

 にしし、と笑いながら「家まで競争だ!」とヨースケと黒人は帰っていった。
 どうやら黒人はあの契約者と友好的な関係を作っているようだ。
 そういうやり方は確かに意味がある。
 この世界における主体が、ボク達ではなく人間やこの世界の生き物にある以上、契約者の主体性は残しておいた方が、都合がいい面も多々あるだろう。

 でもボクはそういう悠長なことはしてられない。
 一刻も早く鬼としての本分を全うしなければならない。
 人柱を立て、その命を鴉のために捧げなければ。
 もう相手は決まっている。坂崎タスクの幼馴染、松木タイチだ。
 一日タスクの中に入って、学校には非常に強力な結界が張ってあることに気付いた。
 あの中ではボクたちは存在していられない。
 でも焦る必要はない。タスクとタイチの距離は、ごくごく近いものだ。
 殺す機会はいくらでも訪れる。
 人間の分際で世界の理の領域に足を踏み入れたならず者――あの、松木を。その子孫を。

Hospital: The Sun and Black wake up Gray in Suicide
»»  2013.09.02.


――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。

 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。
 ホームルームの進行と学級日誌の編集。
 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。
 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。

 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当を作ってきてくれているのは事実だった。
 もともとタスクは誰かに料理を振る舞うことが好きらしい。
 家でも朝食と夕食、そして弁当をいつも家族の分作っているそうだ。

 基本的に高校に給食はない。
 そんな中、万年金欠のタイチは昼食も食べずにお金を節約していた。
 その様子を心配したタスクが、タイチの分の弁当を持ってくるようになった。
 ちょうどその頃、トンボが風邪で欠席した時、タスクは家を訪ねてくれた。
 それはそれで一つ笑い話があったのだが、それ以来、タスクはトンボがいつも菓子パンばかり食べているから体調を崩すのだと、トンボにまで弁当を作ってくれるようになった。

 だからタスクがいない今日のような日は、トンボはパンを買わざるを得ない。
 タイチはそれならお金がもったいないと、何も食べないことが多かった。
 それから考えれば、昨日のことはタイチにしてみれば破格の好意だったかもしれない。
 何しろ自分ののみならず、トンボの分までパンを買ってくれていたのだから。

――お弁当だよ、トンボ。

 ふ、と耳に懐かしい声をトンボは思い出していた。
 遠足の時、お花見に行く時、必ずお弁当を作ってくれた、懐かしい兄の声。
 トンボは兄のお弁当が大好きだった。
 思えばタスクの料理はどこか、兄の料理によく似ている。
 特に卵焼きが、毎回中身にそぼろやホウレンソウを巻くところは全く一緒だった。
 もう二日、タスクの弁当を食べていない。
 トンボは日誌を閉じ、わきに置いた鞄を机の上にあげた。
 本当にタスクは、大丈夫なのだろうか。

「トーンちゃーん! あ、いた」

 そんな風に黄昏ている所に間抜けな声が響き、乱暴にドアが開けられた。
 タイチだった。

「ねえタイチ、そのトンちゃんって言うのやめてくれないか?」

「え? 何故に?」

「何かその……恥ずかしいじゃないか」

 トンボが言いにくそうに、その浅黒い肌がほんのりと染めながら言った。
 それを見たタイチは腹を抱えて笑った。

「な、何だよ! そんなに笑うところじゃないだろ!」

 トンボはただそのあだ名が、何とも子供じみていると言いたかっただけである。
 大体クラスの男子も女子も篠塚、あるいは篠塚さんと呼ぶ。
 親しい陸上部などではトンボと呼び捨てにされることも多いが、トンちゃんとちゃん付けで呼ぶのは学校ではタイチだけで、学校の外でも姉だけが使う呼び方だった。
 さすがに十五歳にもなって、ちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしいものがある。

「いや、トンちゃんかわいいなって」

「なっ」

 その言葉になおもトンボは赤面する。
 するとタイチはまた声をあげて笑う。
 どうやらトンボの顔が赤くなるということが、タイチには面白いらしい。
 いい加減腹立たしいので、タスクがいつもするようにタイチの後ろ髪を引っ張ってやる。

「痛いいたい。もうひどいなぁトンちゃん。ここはたまたまの次に大事なところなんだから優しくしてほしいよ」

「た、たまたまって……」

 さりげなく下ネタを混ぜてくるタイチに三度赤面する。
 またもやタイチは大笑いした。
 さすがに悔しくなって張り手でもくらわそうと思った時である。

「やれやれ、楽しいのは結構なんだがね」

「……あ、……会長」

 ドアの前に立つ女子は蛇の目の紋が入った扇子で優雅に口元を隠しながら、くすりとその向こう側で笑い声を漏らした。
 生徒会長の蝶野カイコだった。バカにされたようで、トンボは少し腹が立った。

「五時には完全に帰宅するよう、指示を出したはずだが。はて、率先して生徒の規範となるべきクラス委員がその禁を破っているとは。あまつさえその理由が男子生徒と談笑にふけっていたから、なんて。少々落胆させられたかな、君はもう少し、模範的な人間だと思っていたのだが、篠塚君」

 顔を背け目を伏して、芝居っ気たっぷりに扇子の後ろでカイコはため息を吐きながらトンボ達の方に歩み寄った。

「今、学級日誌を……」

 提出しに行こうとしたところです、と言おうとした先に、トンボの眼前にカイコは扇子を突きつけた。
 トンボは言うに言えずに言葉を飲み込む。

「一年五組の学級日誌、確かに私が預かった。しかし、今後は休み時間内に仕上げておきたまえ。クラス委員であれ、学級日誌を残すためであれ、居残りは禁止だ」

 カイコは扇子を降ろしてトンボから少し強引に学級日誌を取る。
 最初から渡すつもりだったのに、無理に奪われたようで、トンボは気分を害した。

「坂崎君は休みか。ああ、そうだ、篠塚君。明日彼が学校に来たら、お昼休みに生徒会室に来るように伝えておいてくれないか。話があるのでね」

「ご自分で……」

 お伝えになっては、という前にカイコはトンボの顔の前に扇子を広げた。
 二つの蛇の目が睨むようにトンボを射すくめる。

「くれぐれも、頼んだよ。では用が済んだら早々に帰りたまえ」

 囁くように言って、カイコはさっと後ろを向き、そのまま部屋を出ていく。
 背後に従っているハヤテは静かにそのドアを閉めた。

「生徒会長、蝶野カイコ。……何だか芝居がかった人だなぁ」

 その様子をぽかんと見ていたタイチが零した。
 芝居がかった、じゃなくて芝居なのだ。
 トンボは少なからず一年前のカイコを知っている。
 兄が生徒会の会計で、カイコが書記だったからだ。
 それ以前に兄とカイコは幼馴染だった。
 そして、トンボの記憶に残るカイコという女は、ああいった性格ではなかった。
 彼女は豹変した。おそらくちょうど、兄が死んだ時期から。

「いや、あの人の言う通りだ。早く帰ろう」

 一刻も早く、あの女がいる場所から離れよう。
 それだけを考えてトンボはつかつかと廊下を歩いた。
 タイチがやかましく何かを話しかけていたが、適当に返して中身までは意識しない。
 いつも兄のそばにいた蝶野カイコ。兄の隣で所在無げにおどおどしていた女。
――兄を救えたかもしれないのに、みすみす救えなかった女。
 トンボはカイコのことが嫌いだった。
 もしかしたらその嫌悪感は自分に向けられるべきものだったかもしれなかったけれど。

「トンちゃーん、もう、何ぷりぷりしてんだよ」

 トンボはぷりぷりしてないとそっけなく言って速足で道を歩く。
 雨上がりの夕焼けは怖いくらいに真っ赤だった。
 道にはあちこち水たまりができていて、いちいちトンボの進路をふさぐ。
 またいだりよけたりしているから、さっさと通り過ぎたいのにちっとも思うように進めない。
 十字路を通り過ぎようとしたときにタイチが唐突に手を握った。
 この道をまっすぐ行くと駅前に出る。
 左に曲がるとトンボの家の方に、右に曲がると例のカササギビルがある北市街に続く。

「こっちだよトンちゃん」

 トンボの手を掴んで、トンボの家とは逆歩行にタイチは曲がり角を右に曲がる。

「タスクのお見舞いだろ?」

 タイチがそう言うのを聞いてトンボは思い出した。
 今まで頭に血が上っていて、目的を忘れていた。
 トンボの鞄にはリンゴが入っている。姉が持たせたものだ。
 お見舞いにはリンゴよね、と。

 思い出してぼーっとしているうちに、タイチはトンボの手を引いて走り出していた。
 水たまりもぬかるみもお構いなしで、まっしぐらに病院に向かう。
 着いたころには二人とも靴と言わず、ズボンが泥だらけになっていた。

 受付で病室を尋ねようと思ったら、尋ねるまでもなくタスクを見つけた。
 会計前の椅子に座って、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。
 服装はパジャマや入院服ではなく、私服である。

「あれ、もう退院?」

「……松木、タイチ」

 挨拶もせずタイチはタスクに言った。
 タスクはタイチの顔をまじまじと見て、小さな声でその名を呼んだ。
 トンボは何かその様子に違和感を覚える。

「どこも、異常なかったんだろ? っていうか、本当は具合なんて悪くないんだろ」

 くすくす、くすくすとその音はどこから聞こえたものだろう。
 トンボはそれがタスクの口から、タスクが笑っているその声だと気付くのに時間がかかった。
 不思議に思うか思わないか――その刹那。
 タスクはこれまでにトンボが見たことのないひどく歪な笑みを浮かべてタイチの喉を掴み、そのまま馬乗りに床に押し倒した。
 タスクが座っていたソファが弾かれて大きな音がした。足が一本折れて傾いている。
 周りの人が一様にそちらを向いた。みんな目を丸くしている。

「タスク! 何を……」

「くくぐぐぐ! ぐげげげげ! げぎゃぎゃぎゃぎゃ! 松木、タイチ! カラスを縛る、血脈の裔! 見ててよカラス! 見ててよみんな! 松木の子どもを、ボクが殺すよ! ぐげぎゃぎゃぎゃ!」

 タスクはトンボが聞いたことのない奇妙な声を出して、訳の分からないことを叫んだ。
 その手に青筋が浮き出るほどの力を込めて、タイチの喉を握り締める、いや、握りつぶそうとしていた。
 タイチは激しく足を動かし、タスクの腕を離そうと掴む。
 タイチの口からはあぶくが出ていた。
 トンボは実際に人が泡を吹く様子など初めて見た。
 その喉からはカエルの鳴き声のような音が聞こえていた。

「タスク! やめろ! 何やってるんだ!」

 トンボは慌ててタスクを引きはがそうとする。

「やめろタスク! ――痛っ!」

 途端に、その手に鋭い痛みが走った。思わず手を引いて、噛まれたのだと気付く。

「タスク……?」

 目の前のタスクは笑いながら、その喉からタスクの声とも思えないひび割れた音を喚かせながら、タイチを絞め殺そうとしている。
 そして両手が使えないからと、止めるトンボの手に噛みついた。
 その行動は絶対に正気の人間のすることではない。
 トンボは友人の豹変に慄然とした。

 恐怖に動けないトンボの隣を大きな影が横切った。
 トンボはそれに見覚えがあった。
 大人にも見劣りしない長身、隆々とした逞しい胸板、日に焼けた肌、そして、右目の下の泣きぼくろ――桜木ヨースケだった。陸上部の先輩の。

 ヨースケはいつの間にかできたタイチとタスクを囲む人ごみの中にいきなり割って表れたように走り出て、トンボが止める間もなくタスクのその顔に膝蹴りをブチ込んだ。
 会計のそばで女の人の悲鳴が上がる。
 多分タスクのお母さんの声だ、とトンボはどこか冷静に思った。

「タスクのおかーさん、ごめんなさい!」

 ヨースケはそちらも見ずに大きな声で言った。
 膝蹴りにタイチの首から手が離れたすきをヨースケは見逃さず、そのままタスクの襟首を掴んで床に叩きつけた。
 受け身だってまともに取れないタスクは頭からリノリウムの床にぶつかった。

「ヨースケ先輩! どうして……!」

「よぉトンボ、なーんか嫌な予感がしたから、戻って来たんだけど案の定だったな。俺にしてみればお前がどうしてって感じだけど、とりあえず松木を頼む。『アレ』はお前達の手に負えるものじゃない」

 言われてようやく気付いて、トンボはタイチに駆け寄った。
 タイチはうっすらと涙さえ浮かべて、大きく咳き込んでいた。
 長い髪の毛の乱れ方と、その首にくっきり残る手の後が、タスクがやったことの恐ろしさを物語っていた。
 トンボはとにかくその背を擦る。

「っげほ、げっほ、ごほごほ! っかは、はぁ……」

「大丈夫? タイチ、立てる?」

 トンボはタイチのそばに膝を立ててその体を起こすのを手伝った。
 その間も、視線は床に倒されたタスクから離すことができなかった。
 タスクは膝蹴りでしたたかに鼻を打ちつけたらしく、赤いものが滴っていた。

「ぐぐぎ、ぎぎぎ……」

 床から立ち上がることのできないタスクがヨースケの方を向いて手を伸ばした。
 苦しそうにもがいて、助けを求めるように。
 眉をしかめ、口をゆがめる――その顔が、ふっと笑った。
 その瞬間、トンボはわが目を疑った。タスクの体が、ほんの一瞬だが、燃えた。
 本当に一瞬、アニメーションに一コマだけ入れられた関係ない映像のように、それでもトンボの目は確かにとらえた。タスクの体を焼く、色彩のない灰色の炎を。

 しかし、次に気付いた時には炎は消えていた。
 消えていたのは炎だけではない。タスクの鼻血もなくなっていた。
 見間違いだったのだろうか、とトンボは思った。
 あまりのことに、自分も動転している。
 それははっきりとわかっていた。自分は今、冷静では決してない。 
 そしてタスクは、呆然とした顔で床から起き上がった。

「タイチ……? 篠塚? ……桜木先輩? 何、この人だかりは……? 何でみんな、こっちを見てるの?」

 タスクはとんちんかんなことを口にした。
 今しがたタスクが行った凶行は、ここにいる全ての人間がはっきり見ている。
 しかし、当の本人は本当に覚えがないように立ち上がってトンボ達に近付いてきた。
 その方向にいた人垣はタスクから逃げるように散らばる。
 座り込んだままのタイチとトンボ、そしてその前に立ちふさがるヨースケだけが残された。

 タイチもトンボも、思わず身構える。
 ヨースケは二人をかばうように、タスクの進路をふさぐように両手を広げた。
 タスクはその様子に足を止めた。

「何で二人ともそんな目でボクを見る? 一体これは……」

 タスクの顔は徐々に状況を理解し出したのか、怯えたように目が開いていく。
 その時、人垣を割って男の看護士がストレッチャーを引いてくるのが見えた。
 体格のいい男達が三人、タスクに近寄っていく。

「ダズグ!」

 タイチがまだ濁った声で叫んだ。

「逃げろ!」

 その言葉に弾かれたように、タスクは一目散に病院の入り口へ走って逃げだした。

「あ、君! 待ちなさい!」

 看護士が叫ぶ。一方でタイチの隣にも別の看護士が近づいていた。

「追うぞ、トンちゃん!」

 タイチは立ち上がり、看護師の手を避け、トンボの手を引いてタスクの後を追いかける。
 トンボは後ろを振り返って、ぽかんとしているヨースケに言った。

「先輩! あとのことよろしくお願いします」

 逃げ出した三人を、口を開けたまま見送ったヨースケは、改めてその場にざわめく人々を見た。
 その顔は困惑や不安、恐怖に歪んでいたり、または楽しそうな表情をしていたりと様々だったが、一様にヨースケの方を向いて、説明を求めるような顔をしていることでは同じような顔だった。

「えーっとぉ……」

 ヨースケは頭をぼりぼりと掻いて困ったように笑う。とりあえずヨースケは――。

「この度はみなさん、ご迷惑をおかけして、真にすみませんでした!」

 ひたすら謝り倒すことにした。
The Evil Gray: Why do The Sun and Black defend Moratorium?
»»  2013.09.02.


 タスクはひたすらに走っていた。
 走りながら思い出していた。
『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。
 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。

 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。
 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。
 二人はタスクをどう思っただろう。
 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思われたに違いない。

――違う、あれはボクじゃない!

 誰が信じるだろう。タスクの意識が幽霊か何かに乗っ取られていただなんて。
 タスクは自分がどこにいるかなんて全く分からないまま、ただがむしゃらに走った。
 とにかく、誰もいない場所へ、誰にも見つからない所へ――。

 いつの間にかタスクは誰もいない街角に紛れていた。
 一軒家が並ぶ住宅街、家々を囲むのは灰色の塀だった。
 道路のアスファルトも灰色、電柱も、空に浮かぶ雲さえ青味がかった灰色をしていた。
 灰色に囲まれた道。その一角で足が、不意に止まる。
 そしてタスクは、ようやくそこがカササギビルの前であることに気付いた。
 住宅街は月曜日の朝に見つかった惨劇の痕跡に怯えているのか、人っ子一人いない。
 夕闇に浮かぶ大きな影はまるで墓石のようだった。

 タスクはフラフラとそのビルに近付いた。
 そしておそらく駐車場になっている一階の正面の入り口の前に立つ。
 そこはタスクが飛び降りて死んだまさにその場所のはずだった。
 血だまりが見つかったというのも、おそらくここだろう。
 しかしもう警察が後始末をしたのか、それらしい痕跡はどこにもなかった。

 タスクはその地面に跪き、手をついた。

「タスクー! はぁ、はぁ、タスク!」

 後ろから、息を切らしたタイチとトンボがやって来た。

「……死んだんだよ」

「え?」

「ここで死んだんだよ! 日曜日! ボクは、ここで、ここから飛び降りて、ここに落っこちて、死んだんだよ! 自殺したんだよっ!」

 タスクは大声で叫んだ。ダン、と地面を握りこぶしで叩き、頭をそこに打ち付ける。
 痛みが走る。こんなことをすれば、体が壊れてしまうと思った。

――いや、壊れてしまえ。壊れるべきなのだ。だってボクは、もう死んでいるんだから。

「これは何だ! どうしてボクは生きてるんだ! 頭の中の声は誰だ! お前はボクをどうしたいんだ!」

「止めなよタスク……」

 タイチは地面をたたき続けるタスクの腕を思わず掴んだ。
 タスクはそれに振り返り、タイチの顔を見ると、必死の形相で迫る。

「ああ、タイチ、さっきはごめん、あれはボクじゃないんだ、ボクの中にいる何かがボクの体を乗っ取って、でもひどいよな、怒ってるだろ、そうだタイチ、怒ってるならボクを殺してくれないか……」

「ちょ、タスク、落ち着けって……」

「落ち着け? どうして落ち着いてなんていられるか! こうしている今にも、ボクは君を、君達を、殺すかもしれないんだぞ! 早くボクを殺し――」

「止めろ、タスク」

 その声はトンボのものだった。
 しかし本物の男のように、低く、威圧するような声だった。
 タスクはトンボの顔を見上げる。
 トンボはその襟首を掴んで、無理やり立たせる。
 そして一発、タスクの頬を殴った。

「友達に、殺してなんて頼むな」

 押し殺すような声でトンボはそう言って、タスクの肩を思い切り抱きしめた。

「わかるよ、タスク。今、タスクの中で、とても恐ろしくて、でも誰にもわかってもらえない大変なことが起こってるんだろ」

 トンボの手がタスクの頭を撫でるように後ろに添えられている。

「苦しいんだろ、つらいんだろ。わかるよタスク。だって今のタスクは、普通じゃないから。思わずボクに噛みつくような、タイチの首を絞めるような、そんなタスクだったら絶対考えられないことを、させてしまう何かが、君の中にあるんだろ」

「う、……ふぐ……」

――わかるよ。
 その言葉をどれだけタスクは待ち望んでいただろう。
 言わなくては伝わらない。それは当然だがタスクには言えないことがたくさんあって。
 その言えないことを、誰かが分かってくれることをずっと待っていたのだ。

「大丈夫、わかってる。タスクにタイチやボクを殺させたりしない。友達に友達を殺させたりしない。そんなことは絶対にさせない。……だから、死ぬとか、殺して、なんて言わないでくれ。お願いだ」

「うぐ、うわああああぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁぁ……!」

 トンボに抱きしめられたまま、タスクは大声で泣いた。
 その時だった。

「危ない!」

 タイチのものでもタスクのものでもない男の声がビルの方から響き、直後に突っ立っていたタイチもろともトンボとタスクは誰かに強く突き飛ばされた。
 タスクはとっさに手をつきながら、上を見た。
 雨上がりのグロテスクなほど赤い夕焼けに、そこだけ空が欠けているかのように真っ暗なシルエットを浮かび上がらせるビル。その屋上から降ってくるフェンスを。

 幸いにしてタスクは今達突き飛ばされ、フェンスの落下方向から外れていた。
 その代わりというようにタスク達を突き飛ばした男がその下にいる。
 呆気ないほどに一瞬だった。
 次の瞬間には男の体に深々とフェンスの角が突き刺さっていた。

 男は死んでいるように見えた。
 肩甲骨の間を中心に背中に突き刺さって倒れたフェンスは心臓を、少なくとも肺を貫通しているように見えたし、何より男は呻きも動きもしなかった。

「何で、何で山下さんがここにいるんだよ……」

 その男の方へフラフラと近付いていくのはタイチだった。
 どうやらタイチはその男を知っているようだ――いや、タスクも知っている。
 タイチは彼を山下さんと呼んだ。タスクは薄暗がりに倒れるその体をあらためて見る。
 うつ伏せに付して顔は見えない。それでもその姿には確かに見覚えがあった。
 タイチは男のそばまで行くとその横に跪いてその顔に触れる。

「救急車だ……、タスク! 救急車を」

 タイチは縋るような声でタスクの方を振り返る。
 タスクは携帯を出そうとして、ポケットに手を突っ込む。
 その中に入っていた、携帯ではない冷たい金属がふとタスクの手に触れた。

「何やってるんだ、トンちゃんでもいいから、早く救急車を! まだ……まだ……!」

「ダメだタイチ。山下さんはもう……死んでる」

 タスクにはなぜかそれが間違いないことが理解できた。
 まだ助かるかもしれない――そんなことは微塵も考えられなかった。

「そんなのタスクが決めることじゃないだろ!」

「認めろタイチ! もうどんな医者でも、その人を助けられない……。わかってるんだろ」

 タスクがそういうと、タイチは叫ぶような声を張り上げた。
 タスクはその横に静かに歩み寄る。そして、ポケットからライターを取り出した。

「タスク……?」

 タイチが聞き返す間もなく、タスクはジッポーに火をつける。
 炎は何故か赤ではなく、灰色をしていた。

「医者には治せない。でも、これは。多分、この火は、このことを、無かったことにできる。これはきっと、そうやって使うものだ」

 タスクの中の、タスクのものではない知識がそう告げる。
 自分にはそれができると。死を、なかったことにできる。
 この灰色の炎は、そういうものなのだと、タスクの中の何かが教えてくれる。

 タスクはタイチが止めるより早く、その火を男の体に灯した。
 灰色の炎はあっという間に男の全身に燃え渡った。
 人体がこんなに簡単に燃えるはずがない。
 この炎が燃やしているのは体ではない。今この炎は死、そのものを焼いている。
 目の前の死を、なかったことにしている。何故かタスクはそう確信を持っていた。

 灰色の炎は勢い良く燃え上がり、そして一瞬で消えた。
 火が消えると同時に、男の体からは傷痕がなくなっていた。
 辺りに流れ出した血も、跡形もなく消えている。
 そして、男は小さく呻いて、目を、開けた。

「山下さん? 嘘……生きて……」

「――タイチ、僕は……、いや、死んだよ。死を感じた。そうでなくとも背中にフェンスが刺さったのを覚えている。僕は、今、何をされた?」

 男はタイチの手を借りて起き上がる。
 恐ろしく冷静に自分の身に起きたことを把握しているようだった。
 タイチは男にタスクがしたことを説明する。
 といっても、タイチにもトンボにも、そして多分タスク自身、自分が何をしたのか、完全には理解していなかった。
 そんな何もかもわからないタイチの説明を聞いても、男は何か理解したように頷く。

「なるほど、つまり――僕は生き返させられた、ということか。君がやったんだね、タスク君」

 タスクは、今度は取り返しのつかないことをしたかのように蒼白な顔をしていた。
 そして、消え入るほど小さな声で、はい、と微かに答える。

「助かった、というべきではないのだろうね。まあいい。なるべくしてなったことだ。タスク君、君はいつ死んだ?」

 男はタスクを責めるように詰問する。

「あの、あなたは……」

 言ったのはトンボだった。
 トンボのその問いに、タスクもタイチも、そしてその男もようやくトンボの存在を思い出したような顔をした。
 トンボは男を不審げに睨んでいた。
 青い半そでの開襟シャツに、黒いスラックス。服装のニュアンスだけならタイチに近い。
 長めの緩やかにうねる髪の毛は栗色に近く、暗い色のレンズの丸眼鏡をしていた。
 胡散臭い外見なのだ、この男は。
 タスクは小さいころから知っているからあまり違和感を覚えないが、初対面では恐ろしく怪しく見えるだろう。

「ああ、これは申し遅れましたね。僕は山下と言います。山下勝彦(ヤマシタ カツヒコ)巡査部長。式部市中央交差点派出所勤務の警察官、そして――」

 男は胸ポケットから警察手帳を広げながら、タイチの方を目で見やった。

「オレの保護者――みたいな人」

 タイチはうんざりしたように顔を手で覆って言う。

「保護者、みたいな人?」

「血縁上はタイチの母方の叔父に当たります。あなたのことはよく聞いてますよ。篠塚トンボさん」

「よ、余計なこと言わないでよ、山下さん!」

 タイチが上擦った声で叫ぶ。山下は肩をすくめてはいはい、と頷いた。

「タイチの両親は彼が小さい頃に死んでいてね。今日まで十年間、二人で生きていくにはそりゃあ並々ならぬ苦労があったわけだよ。当時僕は高校生だったし」

 山下は確か、まだ三十にもなっていないはずだった、とタスクは思い返す。
 トンボはお互いに突っつきあう山下とタイチを見ていた。
 トンボも幼くして両親を失い、姉と兄と、三人だけで生きてきたと聞いたことがある。
 もしかしたら、何かその境遇に、思うところがあったのかもしれない。

「で、何故君達がここに?」

「それよりも山下さんがここにいる方がおかしいでしょ。その格好ってことは、仕事じゃないんでしょ。手帳は持ってるけど」

 山下の問いには答えず、タイチが聞く。
 それは当然の疑問だった。現れたタイミングからして都合がよすぎる。

「趣味、ということでは納得してもらえないんだろうね」

 当たり前だっつーの、と頭の後ろで手を組んで言うタイチに山下はため息を漏らす。

「まあいい、いずれにせよこれは一つの事件、ことによれば殺人未遂かもしれない大問題だ。三人とも、ちょっとこれから交番に来ていただきます。そこでお話ししましょう。何故僕がここにいたのか――そして」

 山下は眼鏡をただした。
 沈む夕日がレンズに反射してきらりと光る。

「ここでフェンスを君達に向かって落とした犯人について」

 タスクは濃い色のついたレンズの後ろにある山下の眼光を見た。
 研いだ包丁のように鋭い輝きを浮かべる色素の薄いその目を。



「はい……はい、ええ、お願いします。そうしていただけるとこちらも助かります。ええ、お礼は必ず……はい、では」

 蝶野カイコは生徒会室のイスに深くもたれかかり、ため息をつきながら携帯を膝の上に置いた。
 それはカイコの身内の病院からの連絡だった。
 何でも式部北高校の生徒が病院で乱闘騒ぎを起こし、その当事者として桜木ヨースケという生徒を引き取っているが、ひたすら謝るばかりで話にならないという。

 その乱闘には入院していた坂崎タスクも関わっていたらしく、現在その行方が知れない。 
 とりあえずカイコはコネでその騒動は内密にしてもらうように願い出た。
 幸いにして理解のある院長の配慮によりそれは聞き入れられ、カイコはこれから病院に謝罪し、ヨースケの身柄を引き取りに向かう。

「ハヤテ」

「すでにこちらに着替えの準備ができております」

 カイコがその名を呼ぶと、その手に持ったハンガーにかかったカイコの制服一式をハヤテは示す。
 カイコはイスから立ち上がり、ハヤテの目もはばかることなく、ネクタイをほどき、ブラウスを脱いだ。
 白い肌に少し汗が浮いているのは部屋の蒸し暑さのせいか、それとも電話の内容に肝をつぶしたためだろうか。
 ハヤテは下着姿のカイコに乾いたタオルを差し出す。
 カイコは無言でそれを受け取り、手早く体を拭いた。
 その上から皺ひとつない半そでのワイシャツと灰色のブレザーを着て同じ色のプリーツのスカートを穿く。
 そして、校章が入った赤いネクタイを結ぶ。

 式部北高校の制服――一年前の惨劇以来着用の義務がなくなった呪われた衣だった。
 それでも高校生が礼装をしようと思ったら制服がある以上は制服を着ざるを得ない。
 手鏡を取り出し、髪の毛の乱れを直す。
 唇に薄くリップを塗り直し、最後にソックタッチを塗って左右のソックスを揃える。

「行くぞ」

 ハヤテは無言でカイコが脱いだ服を畳んで袋に入れ、それと自分とカイコの鞄を持ち、生徒会室のドアを開けた。
 そこにちょうど、白衣の男が通りかかる。養護教諭の国栖だった。

「おう、蝶野、お前、今帰りか? 何だその――」

「――何だその格好、何で制服なんか着てるんだ、ですか。ちょっとした雑事ですよ。生徒が少し、騒ぎを起こしたようですから。お礼参りです」

「桜木はごめんなさい以外のことを言わねーらしいぜ。よかったな、ちょうどお前さんの家の傘下の病院で。普通なら――」

 学校側にも内密にするよう院長と折り合いをつけたはずの話を、すでに国栖は知っているらしかった。
 カイコはそれでも顔色を変えずに国栖の言葉を遮る。

「――停学ものの騒動、でしょうね。病院での乱闘騒ぎ。ソファが一脚壊れたそうですから、不問に処すことはできないでしょう。でも、あいにく乱闘が起きた病院は小野学院大学付属病院で、騒ぎを起こした生徒はこの学校の生徒であり、そして蝶野カイコは現在その学校の生徒会長で、小野学院大学附属病院の所属する小野宮グループ総帥小野宮蓮穣の長女なんです。私は生徒会長として学生の権利を最大限に保護します。権力を使って事件をもみ消すことだって、必要なら躊躇しません」

 国栖はうつむいて肩を揺すって下品な笑い声をあげる。
 カイコはその様子に眉一つ動かさない。

「いやぁ、流石に――」

「――やることのスケールが違う、これだからお金持ちのお嬢様は。あなたに言われる筋合いはありませんよ国栖先生、いや、国栖栄一郎元総理のお孫さんの方が適当ですか。それより、その話はどこから?」

「ったく、いちいちこっちのセリフを先読みするお前さんのしゃべり方は気に障るぜ。なぁに、あの病院にゃ、医学部の知り合いがいるんだよ。俺は、友達は大切にするタイプだからな。――親友を見捨てたお前さんと違ってな」

 にたりと国栖が歯をむき出しにして笑う。
 その言葉を聞いた瞬間にカイコのまとう空気が変わった。

「――失礼します。急いでいるので」

 カイコは頭を一つ下げて、国栖の前を通り過ぎた。

「気ぃ付けろよ、辺りはもう暗くなってるからよぉ」

 国栖はカイコの方も見ずに大声を上げる。

「――吸血ジャックが出るぜ」

 聞こえない程の声でそう呟き、国栖もその場を去った。
Monochrome: The Fire burns up The Death
»»  2013.09.02.


 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。
 話によればそこが山下の勤務先らしい。
 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。
 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も多く、混み合っている。

 だからその派出所は、派出所という割には大きめの建物で、正面には式部市のゆるきゃらが警棒をかぶって交通安全のたすきをかけていた。
 山下が入ると、中にいた若い警察服の男性が驚いたような声をあげた。

「山さん、どうしたんですか? 今日は非番でしょう? 何か事件ですか」

「まあそんなところだね、ちょっと行き会いでばったり。調書を取るから奥を使わせてもらうよ。さあ、入って」

 山下が言いトンボ達は身の置き場に困ったようにおずおずと建物に入る。
 山下は奥へ、と指をさして示す。
 そのまま進んでいいものかと躊躇していると、タイチが先陣を切って進んだ。

「ほら、早く早く。お疲れ様です沢井さん」

「何だい、タイチ君が一緒ってことは――山さんもしかして、例の?」

 タイチが沢井と呼んだ若い警察は声を潜めて山下の耳元で言う。

「まあ、そうだろうね。大丈夫、君には迷惑かけないから。しばらく奥には誰も通さないでね」

 沢井は困ったようにため息をついて、はあいと子供のような返事をした。
 タイチの案内でトンボとタイチは派出所の奥の畳の部屋に通された。
 広さは四畳半ほど。真ん中にちゃぶ台があり、壁にテレビがかかっている。
 タイチは慣れた手つきで押入れから四つ座布団を出して、ちゃぶ台の周りに敷き、自分が一番奥の窓の前に座った。
 タスクとトンボはやはり迷うようにタイチの両脇に座る。
 そして入口に一番近い席に山下が腰を下ろした。
 いつの間に持っていたものか、その横に大きめのブリーフケースを置いた。

「では、改めて自己紹介をさせてもらおう。僕は埼玉県警式部市式部署中央交差点前派出所勤務の山下勝彦巡査部長です」

 山下は名刺入れから名刺を取り出し、タスクとトンボに差し出す。

「オレには?」

 タイチが不満そうに言うと、山下は苦笑して必要ないだろと答える。
 トンボはその名刺の肩書きに見慣れない単語を見つける。

「――霊能調査室、室長?」

 聞いたこともない部署だった。警察にそんな部署があるのだろうか。

「ん、ああ、まあ、ひとまずそれは置いておきましょう。すみませんが、一応これは先程のカササギビル――正式には小野宮建設株式会社所有のマユダマビルと言いますが、そこで起きたフェンス落下についての調書ということで記録させていただきます。失礼ですが、全員、お名前をフルネームで、生年月日、住所、職業を教えてください。それじゃあ、篠塚さんから」

「え、あ、はい、名前は篠塚蜻蛉、西暦2005年8月15日生まれ、十五歳です。住所は埼玉県式部市本郷423‐5 ラフォーレ式部202号室です。職業は、式部北高校一年生」

 山下はトンボが言うのとほとんど同じスピードで紙にトンボが言った内容を書いていく。
 そして次にタスクを指名した。

「坂崎亮、西暦2006年1月21日生まれ、同じく十五歳、埼玉県式部市小坂井382‐3 荻谷マンション805号室、職業も同じく北高一年生」

「山下さん、それオレも答えんの? 一緒に住んでるのに」

「君が答えたという事実は書類上重要なんだよ。いいから答えて」

「松木太一、西暦2005年4月10日生まれ、十六歳、埼玉県式部市上尾1874‐2 式部北高校一年生」

「式部北高校一年生、と。ありがとうございます。さて、本題に入る前に、僕が何故あの場に居合わせたのかという疑問から解消しておこう。月曜日に、カササギビルで騒動があった事件をご存知ですか?」

 山下の言葉に、タスクはピクリと身を震わせた。
 トンボはまたあの時のようにタスクがいきなり倒れるのではないかと心配になる。
 しかしタスクは机の上に置いた両手を不安げに組み直すにとどまった。

「確か、ボクは、人一人分の致死量の血だまりが見つかって、それを警察は吸血ジャックの犯行と判断し、周囲に警戒を呼び掛けていると聞いています。だから、北高でも放課後の居残りが禁止になって。陸上部は大会も近いのに」

 トンボが言うと、山下はフム、と自分の顔を鉛筆の頭でつついた。

「そこまで詳細に伝わっているのですか? 一応警察内部でも、この件に関して、吸血ジャックであるという判断は曖昧なまま可能性だけ残して捜査権は既に別の機関に移行し、外部に漏らさないように通達があったはずなんですが」

「あ、いえ、この話、実は、多分、ボクだけに特別に教えてくれたんです」

「ほう、それはどなたが?」

「蝶野、カイコ……生徒会長です」

「蝶野……ああ、彼女ですか」

 山下はその名前を聞くと、何かを考えるようにし、思い出したように言った。
 蝶野、ふうん、とその名前に何かあるようにしばらく繰り返しながら紙に何かを書き込む。

「彼女が、篠塚さんに特別に、教えてくれた、ということですか?」

「はい、あの、山下さんは、蝶野会長のこと、ご存じなんですか?」

「ええ、まあ、式部北は個性的な子が多いので」

「うわあ、聞いた? トンちゃん、警察の権力を使って女の子に目ぇつけてるんだって。トンちゃんも気をつけた方がいいよ。闇に隠れていきなりがばってこともあり得るから!」

 山下の言葉にタイチは下世話な解釈をしたようだった。
 山下は気にした風もなく、話を進める。
 無視されてタイチはやや憮然としているのがおかしかった。

「生徒会長は、いつそのお話を?」

「月曜日の朝、臨時のクラス委員会議が開かれて、その会議の最中ははぐらかした言い方で、会議が終わった後に話しかけて、そのことを聞きました」

「さすがに蝶野さんは動きが速いですね。警察がカササギビルの痕跡を発見したのが月曜日の午前三時、近隣学校には朝一番で勧告を出しましたが、それでもその朝に集会を開くとは。それに、その上で独自のルートでこの事件の公表されなかった部分を把握している、――優秀、というべきですかね」

 トンボは苦笑いをしてその言葉には賛同しなかった。
 実際カイコを優秀というのはトンボには躊躇いがある。

「ところで、タスク君とタイチは、今の話は――?」

「知ってます、月曜日のお昼休みに、保健室で……」

 答えたのはタスクだった。
 声ははっきりしていたが手は硬く組まれて、顔面は少し色を失っている。

「なるほど、しかし、それなら話は早い。実は、僕が今日あそこにいたのはまさしく、あそこで発見された痕跡というのが、真実吸血ジャックによるものかを調べていたからです。この件が吸血ジャック絡みの線があるということは、今のところ内密にしておかなければいけないことなんですが、知っているなら隠す必要もない」

「えっと、お仕事で?」

「ズバリ言うなら、趣味です」

 トンボの質問に山下は即答した。
 その答えにトンボはしばらく何も考えられなかった。
 タスクもタイチも何も言わず、空気が凍ったように場は静まり返った。

「えっと、それは――」

 トンボは何とか言葉を継ごうとした。
 山下はふ、と笑う。多分優しげな笑みを浮かべたのだと思うが、かけている丸いサングラスがその顔を恐ろしく怪しげな人物に見せていた。

「僕は、吸血ジャックの正体を追っていますが、それは警察としての職務ではありません。一派出所の巡査部長程度が調べることではない。僕は個人的にこの事件の真相を知りたいと思っているのです。ですから、鑑識がいなくなって、立ち入り禁止も解除された今日になってようやく現場に立ち入ることができました。何しろ個人で動いている以上この件に関して警察という肩書は使えませんからね。そして僕がビルを見聞している最中に、君達がやってきて、僕はしばらく影からその様子を見ていました。その時、屋上からフェンスが落ちてくるのが見え、咄嗟に君達を突き飛ばした、というわけです」

 さらりと言っているが――あの時確かにこの男は死んでいた。
 少なくともトンボにはそう見えたし、タスクもそう言った。

「……でも、山下さんは、警察官なんですよね。自分で捜査なんかしなくても、よくわかりませんけど、その、調書とか、見せてもらえばいいんじゃ?」

 トンボはおずおずと言った。
 山下を疑うわけではなかったが、信じられないのも事実だった。

「それができれば苦労はないんですがね、実は吸血ジャック事件は少し前からかなり厳格な秘匿捜査対象に移行したらしく、僕は今それを調べているのがどこの部署なのかも知りませんし、警察のデータベースに吸血ジャックの捜査ファイルは存在しない扱いになっているくらいです」

 山下が肩をすくめていうのに、トンボは戸惑いを覚える。
 データベースにファイルが存在しないとはどういうことだろう。

「つまり、この事件はデータベースからアクセスできない部分にその情報を収集し、これまであったデータも全てそちらに移行させたということでしょう。事実、表向きには吸血ジャック事件は今年の三月以降起こっていないことになっていますから」

 起こっていないことになっている――? トンボは山下の言葉を繰り返した。

「それらしい犯行は――、つまり今回のカササギビルのような、それと疑われるような犯行は各地で起きています。しかし、それらは全て、表面上は吸血ジャックのものとは関係ない事件として処理される。今回も篠塚さんは特別にそれを知った経緯がありましたが、この街の多くの人は、不審者が出たのだと思っているはずです。少なくとも警察はそういう勧告しか出していない。それに、マスコミも報道していないでしょう」

 そう言えばそうだ。
 吸血ジャックと言えば、一時期は新聞の一面を飾るような大事件だったのに。

「警察の捜査が秘匿捜査に移行すると同時に、マスコミにも大規模な報道管制が敷かれているようですね。――もっともこれは、あなたのお兄さん達の事件のせいかもしれませんが」

 山下の言葉に、今度はトンボがピクリと反応した。
 トンボは短く山下の名を呼ぶ。

「――まあそんなこんなで、僕がこの事件を追うためには、身を粉にして現場に赴き、自分の手と足と五感を使って調べざるを得ないということですね。ですから、信じられないことかもしれませんが、あの場に僕がいたのは本当に偶然なんです。しかし、君達の場合はどうでしょう」

 山下の声が少し下がった。

「君達三人は、あの場所で何をしていたんですか? ひょっとして、カササギビルの一件に関して、何か心当たりがあるのではありませんか?」

 トンボは目線だけ動かしてタスクの顔を見た。
 タスクはずっとうつむいて自分の組んだ手を見ている。
 タスクは手を見たまま言った。

「――言おう」

「タスク――!」

「隠していても始まらない。正直に言えば、警察の山下さんは、ボクを逮捕するかもしれない。病院でタイチを殺そうとしたのは事実だし。でも、もしかしたら、力になってくれるかもしれない。ううん、いや、逮捕されるなら、ボクはきっとその方がいいんだ。だってまた、いつ『あいつ』に乗っ取られて、タイチを殺しそうになるかわからないんだから」

 タスクは顔をあげた。その目は怯えているけれど、しっかりした意志が宿っていた。

「ボクの話を聞いてください――」

The Magician pursues Jack the Vampire
»»  2013.09.02.


――自殺、したんです。

 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。
 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。
 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。

「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」

 ああ、と山下は頷いた。

「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」

「はい……、コンクールの失敗がショックで……、なかったことにできればいいと思って、おまじないをしに学校に忍び込んだんです」

「ほう、おまじない、ですか」

 山下は興味深そうに眼鏡をあげた。
 タスクは小さくはい、と答える。

「七色不思議っていうのが、うちの学校には昔からあって。でも、途中で学校にいるのがばれて警報が鳴って、逃げ出したんです。それで、学校に忍び込んでいたこともばれたら、もうおしまいだと思って――ビルから飛び降りました」

「それは、君の記憶違いということは考えられないのですか?」

「記憶は――間違ってないと思います。間違っているのは現実の方なんです。ボクは確かに日曜日、学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行って、途中で警報が鳴って逃げ出して、その後にカササギビルの屋上から飛び降りたはずなんです。でも、学校で行った儀式の後も、ボクが自殺したという事実そのものも、なかったことになってるんです!」

 タスクの言葉は段々に大きな声になっていく。
 トンボが落ち着いて、と小声で言うがタスクにはほとんど聞こえていなかった。

「月曜日、ボクは起きた時は寝ぼけていて、生きてることを不思議にも思わず学校に行きました。その途中で日曜日のことを思い出して、でも今生きてるんだから、全部夢だったんだろうって、そう思って学校に行ったら、朝クラス委員の臨時集会が開かれて、そこでポケットから携帯を出そうと思ったら、その中に、これが、これがあって――」

 タスクは震える手で落としそうになりながら、山下にライターを差し出した。
 山下が問うまでもなく、タスクは興奮したまま続ける。

「このライターは、ボクがカササギビルから落ちた時、そこにあったものなんです。ボクは折れた手でこれを掴んで、それで――何かを見たと思うんです。でも思い出せなくて。でも、でも、このライターはボクのでも家族のでもないんです! ボクがこれを持ってるってことは、あの夢は、日曜日の出来事は、現実だったってことだから、それじゃあボクは、今のボクは一体何なんだって思って――」

「落ち着いてください、タスク君。タイチ、水を」

 タイチは言われるままに一旦部屋から出て、盆に水差しと湯呑を四つ乗せて戻ってきた。
 そして水差しの水を湯呑に注いで、タスクの前に置く。
 タスクは無言でそれを一気にあおり、ドン、と机に置いた。
 タイチは何も言わず二杯目を注ぎ足す。タスクはそれも一気に飲み干した。
 タイチは三倍目を注いで、それからトンボと山下にも水を勧めた。
 正直トンボはタスクを追いかけてから喉が渇いていたのでありがたかった。
 タスクは三倍目を半分ほど飲むと、湯呑を置いて、息を整えて話を続けた。

「気がついたら保健室で、ボクは自分の体を確認したんです。どこかに自殺して壊れたままの部分があるんじゃないか、いや、そもそもボクは幽霊で、足がないんじゃないかとか思って。でも、どこにも異常はなかったんです。そのうちにタイチと篠塚がお見舞いに来て、保健の先生にも見てもらったんですけど、やっぱりおかしいのは記憶だけで。その時に、篠塚から、カササギビルの事件のことを聞いたんです。ビルにあった血だまりは、ボクの血なんです! あの日、あそこで誰かが死んだなら、それはボク以外にはありえないんです! ――それで、その話を聞いた後、ボクは保健室で気を失ってしまったらしくて、そのまま救急車で病院に運ばれたんです」

「その病院は?」

「小野学院大学附属病院、カササギビルの近くの」

 山下は紙に素早く書き込み、続けてくださいとタスクを促した。

「それで、ボクは検査入院ということで、一日入院しました。その日の朝から、ボクの頭の中には、何かがいるんです」

「検査で何か異常が見つかったということですか?」

 違います、とタスクは首を振る。

「違うんです。検査では何も見つからなかったんです。そういう異常じゃなくて、頭の中から声がするんです。くすくす、くすくすって、頭の中に笑い袋があって、それが転がるみたいに。それで何かボクにはわからないことを言って、最初は小さかったのに、どんどん大きくなって――それでついに、ボクはその何かに、乗っ取られてしまったんです」

「乗っ取られた?」

 これ見て、と言ったのはタイチだった。上を向いて首を見せる。
 そこにはまだ赤黒い手の跡が残っていた。

「それは?」

「タスクにやられた」

 山下の質問にタイチはこともなげに答えた。
 タスクは即座にボクじゃない、と大声で言った。

「つまり、その頭の中にいる何者かに乗っ取られて、タイチを襲ってしまった、と?」

「――そうです。それで、ボクは恐ろしくなって病院から逃げ出して、いつの間にか、またカササギビルに来ていて、ボクはここで死んだんだって、じゃあ、今生きているボクは、タイチを殺そうとしたボクは、一体何なんだろう、何になってしまったんだろうって」

「それを止めたり励ましているうちに、山下さんがいきなりやって来たわけ」

 タイチがそう結ぶと、山下は、なるほど、と言ってまた鉛筆で自分の顎を突いた。

「で、どうすんの、こいつ」

 タイチは含みを持たせた言い方でタスクを顎でしゃくる。

「話を聞く限り、どうも山下さんの領分だと思うんだけど」

 タイチはにっと笑って言う。
その目は前髪の下で、わくわくしているような色をしていた。

「ああ、そうだね。僕も、何とはなしにそんな気はしていたんだ」
 
 山下もそれに含むところがあるように目を伏せて笑い返す。
 
「山下さん、タイチ?」

「どうやらこの事件は、霊能調査室の管轄に属するようだ」

 山下がサングラスを取って言う。サングラスはそのまま胸ポケットにしまった。
 メガネの下の目は、思いのほか怜悧で、刃物のような鋭さを持っていた。

「霊能――調査室、たしか、名刺にも書いてありましたね。何なんですか?」

 聞いたのはトンボだった。タスクは名刺の文字などほとんど見ていなかった。

「警察に存在する非公認の部署です。扱うのは主に心霊による犯罪。呪いによる殺人、憑き物による騒動、神隠しによる失踪、祟りによる災害――そんなものがあるわけない、と思っている人がほとんどでしょうが、実際こうしたものによる被害はことのほか多い。しかし、これらの存在は警察がその根拠となる法によって規定されている存在ではないので、公式には認めることはできません。だから、僕のような人間が、非公認にそれらの捜査を行い、場合によってはそれを駆逐する。霊能調査室はそういう被害専門の部署として、二年前に僕が作りました」

「――え? 山下さんが作ったんですか?」

「その通り」

 トンボはぽかんと口を開けて聞く。

「待ってください、この、霊能調査室は、警察は非公認、つまり、存在を認めてないんですよね」

「そうです」

「ってことは、山下さんが、個人の、独断で、勝手に、やってるだけなんですか?」

「そう言われると返す言葉がないのがつらいところですね。ええ、仰る通り。この組織は僕が個人的に、独断で、勝手に設立し、基本的に僕一人で運営しているのが現状です。部下や仲間がいるとは言えませんね。もちろん運営費も自費で行っています。おかげでタイチにはつらい思いをさせてしまっていますが」

 タイチが貧乏という理由は――そんなところにあったのか。
 これにはタスクも開いた口がふさがらなかった。

「それでも派出所の中では認められつつあります。最近は沢井君がこちらに相談してくれたり、部長も黙認していますから――」

「やめようタスク、帰ろう」

 トンボが強い調子で言った。そして答えを待たずに立ち上がる。

「飛んだ茶番だ。タスクは深刻なのに。タイチも見損なったよ。こんな冗談みたいなことを……」

 トンボはタスクを振り返った。タスクは相変わらず座り込んでいる。

「ほらタスク、帰ろう。今君に一番必要なのは――」

「――帰るなら、帰っていいよ」

 その言葉にトンボはタスクをじっと見つめた。
 タスクはやはり、自分の組んだままの手を見て、トンボの方は見ずに言う。

「ボクは、深刻なんだ。あの頭に響く『声』をどうにかしてくれるなら、非公認のなんちゃって組織だって構わない。ボクは、山下さんに調べてもらいたい。ボクは、ここに残るよ」

「タスク……!」

「帰るならどうぞ。この雨の中をお一人で帰るなら。確かご住所は本郷でしたね。ここからは、かなり距離がありますが」

 いつの間にか外は再び本降りの雨に見舞われていた。
 山下の言うように徒歩でここから家まではかなり遠い。
 そしてトンボには今手持ちの傘がない。
 トンボはやや憮然として座布団に座った。

「インチキみたいなことをしたら、止めてもタスクを連れて帰ります」

 トンボは強く山下に言う。
 結構ですよと山下は柔らかく笑った。

「まず、タスク君に憑いている存在の正体はほぼ特定できました。色鬼(シキ)という怪異です」

「シキ……?」

 タスクは繰り返した。色の鬼と書いてシキと読みます、と山下が言う。

「タスク君、君はどうやら本当に日曜日に死んでしまったようですね」

「何を!」

 トンボが思わず声を荒らげるのをタイチが制した。

「色鬼という怪異は、同じ読みで屍の鬼と字をあてられることもあります。屍とはつまり、死体のこと。色鬼とは畢竟、死体に取り憑いてそれを生き返らせ、周囲に害をなす怪異です。その点で言えば東欧の吸血鬼、中国のキョンシー、あるいはブードゥー教におけるゾンビなどと似ていると言えます。つまり、タスク君は実際日曜日にカササギビルで投身自殺を図り、一度死んで、その後に色鬼に憑かれ、蘇った」

「そんな馬鹿な……、だってタスクは――!」

 トンボが悲壮な声を上げたが、それもやはり黙殺される。

「そもそも色鬼の怪異というのは関西の山奥に伝わる非常に地方色の強いローカルな怪異です。僕もまさか、この街で出会うとは思わなかった。それとも、これはやはり吸血ジャックとの関わりがあると考えるべきなのかな」

 山下は独り言のように顎を触っていった。吸血ジャック、とトンボが聞く。

「吸血ジャックがなぜそう呼ばれているか、その理由はご存知ですか?」

 山下がトンボの方を見ながら言った。

「それは……、確か、見つかった死体は失血多量が原因で、あの切り裂きジャックみたいに夜陰に紛れて女性を襲うから」

 もっとも女性のみが対象だったのは本当に初期だけだったけれど。

「それが一般的な解釈ですね」

「違うんですか?」

「ええ、違います。吸血鬼の特徴の一つは血を吸うこと。これは篠塚さんが言ったように、死体から血が抜かれていたという指摘の通りです。しかし、吸血鬼にはもう一つその被害者に残す大きな特徴がある。吸血鬼に血を吸われた死体は、その後で生き返り人を襲う。吸血ジャックの被害者の特徴はその死亡推定時刻が常に被害者の生存が確認された時間より前、つまり、吸血ジャックに殺される前に被害者が死んでいたというありえない検死結果を伴うことです。吸血ジャックの被害者はみんな、蘇った死体であった可能性が高い。いや、こういうこともできる。『吸血ジャックは蘇った死者を殺すためにその死者を二度と生き返らないようにしている――』」

「そんなわけない!」

 トンボは両手でちゃぶ台を強く叩きつけた。

「これもタスクが真剣だからって我慢してたけど、もう耐えられない! 吸血ジャックは変態の恐ろしい殺人鬼で、その被害者は何の罪もない善良な人だ! 吸血ジャックが殺す前から死んでいたとか、でたらめを言うのもいい加減にしてくれ! ボクは帰る!」

 トンボはものすごい剣幕で山下に吐き捨てた。

「外は雨が――」

「知るか! 知ったことか! もうこんなところにいたくない! これ以上付き合い切れない! 帰るったら帰る! さよなら!」

「あなたのお兄さんが吸血ジャックに殺された、とは言っていませんよ、篠塚さん」

 山下が張りのある声で言った。
 トンボの動きがぴたりと止まる。

「……それ、どういう意味ですか」

 聞いたのはタスクだった。

「篠塚のお兄さんが殺されたって……どういうことですか? しかも、吸血ジャック? それも、……ボクの話に、関係あるんですか?」

「僕は大いに関係していると思っていますが。篠塚さん、あなたのお兄さんを殺した本当の犯人を探しているんじゃないですか? もしかしたらその人物は、もうあなたの身近にいるかもしれませんよ」

 トンボは振り返る。その顔にはすさまじい怒気がこもっていた。
 山下はその視線を受けても全くひるんだ様子を見せない。
 むしろ周りにいるタスクやタイチの方が気まずくなるほどだった。

「どうか座って話を聞いてくれませんか。吸血ジャックの真相を追う者の一人として、同じ志を持つ、いわば僕たちは仲間のようなものです」

「ボクが知りたいのは兄さんの死の真相と、タスクを元に戻す方法だ。……あんたが言う通りなら、ボクが知りたいのは吸血ジャックの正体じゃない。勝手に仲間にしないでください」

 それも結構、と山下は肩をすくめ、ため息交じりに言う。

「どうせあと三十分もすれば終わる話です。少しご辛抱願えませんか。僕としてもこの雨の中、傘も持たせずにに女の子を帰すのは忍びない」

 トンボは荷物をどさりと落として、座布団の上にドスンと座った。
 タスクはその様子に少し怯える。

「また幽霊とかそういう話を長々とするなら、今度こそ止めても帰りますよ」

 三度目はありませんよ――。山下はサングラスをただし、その手の下で静かに笑った。

Ghost Researcher
»»  2013.09.02.


「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」

 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。

「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」

 山下は薄く笑って答える。
 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。
 トンボにはこの男の真意が測れない。

「じゃあ――」

「あの」

 続けざまに真犯人について聞こうとするトンボの耳に、小さくタスクの声が聞こえた。

「話を邪魔するようで悪いんだけど……、式部北高校で、四人の生徒が殺害されている、って……何? そんなの、聞いたことないんだけど」

 おずおずというタスクを見て、トンボはしまったと思った。
 この事件は――この話は、知らない生徒には教えないようにカイコからも再三忠告されている事件だった。
 トンボは山下の顔を伺う。

「この際ですから、やむを得ないでしょう。それにタスク君は、もうその事件の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、彼に状況を説明する分、篠塚さんには再三にわたって聞かされた話をもう一度聞いていただくことになりますが」

「それは――まあ我慢しますけど」

 トンボはやや憮然として机に乗り出した身を下げた。

「では――、まず吸血ジャックという犯罪者について、過去の事件も交えてお話ししましょう。広域連続殺人及び死体損壊遺棄事件――通称吸血ジャック事件は、今年の三月までで全国各地で三十七件の事件が報告されていました。三月以降はどうやら警察内部での対応が変化したようで、この事件自体が秘匿されてしまったことから、僕が知りえる情報は今年三月以前の警察がまとめた情報であることをまず了承ください」

 そう言えば、山下は警察のデータベースから事件にアクセスできなくなったようなことを言っていた。
 トンボはそれを思い出す。

「三月までの三十七件のうち、死亡――つまり殺人は九件。残りの二十八件は未遂に終わっています」

「未遂、ってことは、生きてるってことですか?」

 タスクの質問に、山下はその通りですと答えた。

「吸血ジャックの殺人の大胆にして残忍なところは、被害者が外に助けを求められないようにし、動けなくした上で、恐ろしく時間をかけてその命を奪う点です。まず凶器ですが、鋭く細長い刃物――小刀のようなものを使っていることが判明しています。それでまず被害者の喉、声帯をはさんで二か所を刺し抜くことで、声を出せなくします。これがまるで、吸血鬼が血を吸った跡のように見えることも、この殺人鬼にその名がついた所以の一つです」

 山下は右手の人差し指と中指で首筋を二か所押さえながら話した。
 確かにそこに穴が開いていれば、吸血鬼に血を吸われたように見えるかもしれない。

「その上で多くの被害者は太ももの大動脈叢を同じような道具でめったざしにされています。ここを貫かれれば、大抵の人は痛みで歩けませんし、そのまま放置すれば、失血多量で三十分もかからずに死に至る。逆に言えば三十分近くは意識があるということです。そして、死に瀕する被害者を前に、吸血ジャックは問いを出すらしい」

「問い?」

 聞いたのはトンボだった。

「内容はどうも全ての事件で違っているようですね。ただ、二者択一の問題で、非常に答えにくい問題ということは共通しているようです。例えば、『あなたの息子は成長して確実にあなたを殺すことをあなたは知っている。あなたはその息子を殺されることを承知で育てるか、それとも息子が小さいうちに殺すか。人殺しを出さないようにするためにはどうすればいい』というような問題が多い」

「それに外れた人を殺しているってことですか?」

「いいえ」

 トンボが聞くと、山下はそれを否定した。

「吸血ジャックは自らの問いかけに、どちらかを選んだ人間は見逃し、救急車を呼んでいます。つまり、殺された九人はその問いに答えなかった人間、ということだと思います」

「そんな――! だってそんな問題、答えられるわけない!」

 それができない人間が死ぬなんて、あまりにひどい話だ。

「ボクは――その問題、答えられない」

 静かにタスクが口を開いた。
 トンボも山下もそちらを見た。

「ボクは、自殺した人間だからわかる。ボクは、自分の生きる理由を否定した。自分が生きることに価値を見いだせない。だから、息子を育てて、自分が殺されるとしてもそれはそれでしょうがないと思える。でも、そんなボクを殺すことで、自分の息子が殺人犯という烙印を押されて生きるなら、息子がかわいそうだ。その問題の正解は――息子は他人に預けて、自分が死ぬ。そうすれば、人殺しは生まれない」

「――正解です。タスク君」

「そして、この答えに至る人間は、もう死んでいる人間ってことでしょ?」

「タスクは死んでなんていない!」

 トンボは怒ったように言う。

「タスク君が正しい。この問いは、死んでから生き返った人間と吸血ジャックのみに理解できる問いで、吸血ジャックは生き返った死者と思われる人間を瀕死の状態にし、その上で問いを突き付けることで、生者と死者を鑑別しているものと思われます。死にかけの人間は何よりも生きたいと望む。生きたいと望む人間は必ずどちらかを選ぶ。しかしこれらの問いは絶えず自らが死ぬという選択を選んだ場合にのみ、誰かが殺人をするという結末を回避できる問い立てです。そして、生き返った死者は、自ら死ぬことを望み、吸血ジャックの問いに答えず、死を選ぶ。その後吸血ジャックは呪術めいた装飾を死体に施して去って行きます。その死体を検死してみると、死亡推定時刻には必ずその被害者が生きていたという証人や証言が出てくる。つまり――」

「吸血ジャックは、生き返った死者を、生き返らないように殺している」

 タスクが言った。
 トンボはその結論に奥歯をぎりりと噛みしめた。

「そんな、そんなことって――」

「あなたが怒ることはないのですよ篠塚さん。さっきも言ったように、この吸血ジャックはあなたのお兄さんを殺した人物とは別人なのですから」

「……わかってます。それだって、気持ちいい話じゃないでしょう」

 実際山下の説はまるで吸血ジャックがタスクのような人間を救済していると言っているように聞こえてトンボには不愉快だった。
 もちろん違うのだとわかっていても、兄もその一人に数えられているような気がして腹立たしいこともあった。

「ところで、今吸血ジャックに殺された人は九人と言いましたが、その内四人が、君たちの通う式部北高校の生徒で、去年の五月から十二月の間に、連続的に殺されたことから、その事件を別個に式部北高校生徒連続殺害事件と呼びます。女子生徒三人と、男子生徒一人、つまり、篠塚トンボさんのお兄さん、篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)さんが殺された事件です」

「ってことは、山下さんはさっきからそのトンちゃんのお兄さんを殺したのは別人だって言ってるんだから、吸血ジャックが殺したのは実際には八人ってこと?」

 それまで黙っていたタイチがひらめいたように口を開いた。

「いいえ、式部北高校生徒連続殺害事件で、四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません。いわば、もう一人の吸血ジャック、と言ったところかな」

「もう一人の吸血ジャック……?」

「しかし、吸血ジャックがこの事件に関与していないというわけではありません。どうやらこの事件は二重の犯罪である、と僕は推測しています」

「どういう……」

 トンボの疑問に山下はちゃんと一から説明します、と言ってケースから一つのファイルを取り出した。
 もうかなりボロボロに擦り切れていて、貼られた付箋もくたくたに折れ曲がっている。
 表には式部北高校生徒連続殺害事件と書かれていた。

「まず最初の事件は去年の五月に起こりました。ちょうどゴールデンウィークが明けた頃です。殺されたのは一年生の早田明美さん。彼女の死体は両手両足をバラバラにされ、君たちが通う式部北高校で全て別の木に針金で括りつけられていたようです」

「ちょっと! ……やめてください、そう言うことを言うのは」

 トンボは思わず山下を止めた。
 この事件で死んだ人間の死を詳しく聞かされるということは、つまるところが兄のそういう姿を克明に聞かされるということだ。
 それは到底トンボには耐えられない。
 山下は意外にもわかりました、とすんなりとそれを受け入れた。

「この陰惨な犯行現場と、あちこちの施された悪趣味な呪術的様式から、警察はこれが当時世間を騒がせていた一連の殺害死体損壊遺棄事件、つまり吸血ジャック事件の可能性ともう一つ、それが学校関係者による可能性で捜査を行いました。そして約一月後の六月に三年の潮ヶ浜夜さん、その二十日後に二年の曽根百合子さんが同じく陰惨な死体となって学校で発見されました。それから半年近く間を開けて、篠塚アゲハさんが、クリスマスのその日に、学校で遺体となって見つかりました」

 トンボは何も言わなかった。
 ただ、その当時のことを思い出していた。トンボはその日何も知らなかった。
 兄がずっと楽しそうに、クリスマスを心待ちにしていたことだけは覚えている。
 兄が楽しそうだから、トンボも無条件にその日はきっと何かいいことがあるに違いないと思ってうきうきしていた。
 兄はその前日、学校から帰ってこなかった。
 トンボは別に不思議に思わなかった。
 兄が生徒会の役員だということは知っていたし、どうせまた同じ役員の友達の家にでも泊まっているのだろうと思っていた。

 何も心配していなかった。心配する要素など一つもなかった。
 ただ、その日はひどく寒い日で――通学するトンボの耳にはいつもよりパトカーや救急車のサイレンが騒がしいように聞こえていた。
 あるいはそれが予兆だったのかもしれない。
 トンボの通う中学校に連絡があったのは昼で、姉が迎えに来たのはお昼休みが終わるころだった。

――そうだ、これは兄の用意した本当に大がかりなドッキリなのだ。
 トンボはこのまま姉と一緒にどこかに連れて行かれて、そこで兄がネタ晴らしをする。
 姉さんったらなんて顔をしてるんだろう。
 兄さんもこんなわざとらしくしたらバレバレなのに。
 いつ兄が出てくるんだろう、ドッキリ大成功の立札はどこに現れるんだろう、トンボは祈るように震える手足を励ましながら、おぼつかない足取りで病院に行った。
 病院に本当に霊安室があることを知ったのはこの時だった。
 姉が入り、顔色を失って出てきた。入ろうとするトンボを姉は抱きしめて止めた。
 トンボはついに、兄の、アゲハの死体に面会することは叶わなかった。
 姉がそれを許さなかったのはそれが見るに堪えない姿だったからだと今はわかる。
 最後に見た兄は、骨になっていた。
 高温で焼かれ、すすけた灰色の骨の一片に。

 それから警察に事情聴取という名の尋問を受けて、そこでトンボは断片的に兄が殺されたということと、それがどうやら巷で言う殺人鬼、吸血ジャックによるものらしいということを知った。

「それで――」

 トンボの口から出たのは、そうした兄の死にまつわる様々なとてつもない感情ではなかった。

「山下さんが、吸血ジャックが兄を殺したのではないと考える根拠は?」

「状況的なことから言えば、この事件以外の吸血ジャック事件とこの事件には異なる点が多くあります。まず最初に言ったように、死亡推定時刻と生存の証言に関する矛盾が見られないこと。これは通常の殺人事件であればむしろそれが当たり前ですが、吸血ジャック事件としてみるなら異常です。全ての被害者はどうやら殺されたその日に死んでいる。そしてもう一つ、篠塚アゲハさん以外の殺された女子生徒三人に、性的暴行の跡がありました。これが吸血ジャック事件と決定的に違うところです。吸血ジャックの被害者はそもそも女性が多いですが、その中に殺害された人も、未遂で終わった人も含め、性的暴行を加えられた被害者はこの事件の三人の少女以外に一人もいません。さらに殺害の方法も違う。この四人は絞殺されています。吸血ジャックの殺し方ではない」

「でも、死体は吸血ジャックが飾ったようだった」

 トンボの言葉をその通り、と山下は受ける。

「このことから二つの可能性が考えられます。一つは吸血ジャックの模倣犯の可能性、あるいは殺害した後でそれを吸血ジャックの犯行に見せかけ、自分を被疑者から外すための工作として死体の損壊を行った。そしてもう一つは――誰かが式部北高校の生徒を殺害した後に、本物の吸血ジャックが現れ、その死体を装飾した」

「普通は模倣犯の説を疑うよなぁ」

 タイチが頬杖をついて言う。

「山下さんは、犯人が二人、つまり誰かが殺した後に吸血ジャックが現れた、という可能性を確信してるようですが」

 タスクが聞いた。その目は疑念に満ちている。

「まず、どうして模倣犯が考えられないのか、ということから説明していきましょう。これは死体損壊の手法が吸血ジャック以外には考えられないからです」

「どうして……?」

「吸血ジャックは生き返った死者を生き返らないように殺す、と言いましたね。でも、これは正確な言い方じゃない。吸血ジャックは『色鬼が蘇らせた人間』を再び殺して、二度と生き返らないように封じる術式でその死体を損壊しているのです」

――また色鬼。

「でも、だったら余計に、北高で殺された人たちはそもそもその……色鬼に蘇らされた人じゃないんだから、それを吸血ジャックが色鬼を封じる術式で損壊するのはおかしいんじゃないですか?」

 タスクの疑問はもっとものようにトンボにも思えた。

「そこで出てくるのが――これです」

 山下が出したのは二枚の紙だった。一つには何かの魔方陣のようないくつかの大小の縁が連なり、その内側に文様のある図像。もう一つはどこかの地図――いや、トンボたちが通う式部北高校の見取り図のようだった。

「これはさる神社の曼荼羅です。太虚空巣大曼荼羅図(たいこくうそうだいまんだらず)と言います。そしてこっちは君たちが通う式部北高校の地図です」

 たいこくうそう、と呟きながらトンボは曼荼羅を見る。真ん中に大きな円があり、その周囲に小さな円が配置してある。
 小さい円の中の模様は全て違っていて、全部で十二個あり、六角形の頂点をなす位置に、左右対称に配置されていた。
 大きな円の天辺に三つの小さい円が三角形を作って接している。
 そこから左右の両肩の位置に二つずつ、両足の位置に一つずつ、そして底の部分には三つの小さな円が今度は逆三角形に並んでいた。
 真ん中の大きな円はその中の左隅にもう一つ円を内包していて、そこには中央に黒い丸があってそこを中心に螺旋を描く太い線が描かれていた。

「学校の南側三か所に、バラバラにされた早田明美さんの体がありました。左足は南東の桜の木に、右足は南西の枝垂れ桜の木に、そして彼女の本体は真南に位置する椎の木にくくりつけられていました。彼女の胸には三つ穴があけられていて、そこには折られた木の枝が三つ、生えるように突き刺さっていた――」

 山下は学校の見取り図のその死体の一部が見つかった位置にそれぞれ右足、左足、尾と書きこむ。

「そして北西のプールでは左腕の関節を全て砕かれ、首に巻きつけるようにして潮ヶ浜夜さんが見つかっています」

 さらに右肩のプールに左翼と書く。

「北東の体育館裏の壁には右腕を磔にされた曽根百合子さんが、そして北にある花壇で見つかった篠塚アゲハさんは両目が抜かれ、眉間の間を貫かれていました」

 トンボは耳を塞ぎたかった。そんな悲惨な兄の姿を、想像するのさえ嫌だったのに。
 体育館には右翼と書き、さらに学校の一番上にある花壇に目と書いた

「この魔方陣は、ずっと昔にその神社の神主が、そこに祭られる神様を『捕まえる』ための魔方陣だったと伝えられています。その神は一説によると太虚、あるいは空の巣と書いてカラス、そのまま鴉とされることもある。『鴉は三眼四翼、二足三尾にして、その身は暗く、十二の色を持つ』――四人の被害者の死体はそれぞれ、この鴉の姿を現している」

「太虚――」

 タスクが小さく繰り返した。

「色鬼とは、その鴉のしもべであり、鴉のために人柱を築く怪異と伝えられています。つまり、吸血ジャックは、式部北高校に出た四人の生徒の死体を使って、色鬼と鴉を捉えるための結界を張ったと考えられます」

「――でたらめだよ! 馬鹿馬鹿しい!」

 トンボは吐き捨てるように言い、頭をがりがりとかいた。

「一見つじつまが合っているように聞こえるけど、ボク達にしてみれば、そんなカミサマだか幽霊だかがいるって話自体がでたらめかどうかもわからない! 大体、何で吸血ジャックがそうまでして学校に結界なんて張らなくちゃいけないんだ! そんな、色鬼だとか、鴉だとか、全然うちの学校と関係――」

 トンボはそこまで言いかけてごくりと唾を飲む。対面からあるよ、と小さな声がした。
 見るとタスクが目を見開いて虚空を見つめていた。
 その曼荼羅の大きな円の中の螺旋の中心。全てを巻き込んで沈んでいく虚空を。

「式部北高校の生徒で、色鬼に取り憑かれているのは、ボクだ。じゃあ、吸血ジャックは、ボクを――」

「違うってタスク、それは全部、この人の自作自演――!」

 トンボは慌ててタスクを止めた。

「でも、山下さんの説明で全て解決する! 吸血ジャックは色鬼に憑かれてよみがえった人間を再び殺す殺人鬼! その吸血ジャックが色鬼を封じるための魔方陣を学校に張っていて、その学校の生徒であるボクが今、色鬼に取り憑かれている――他にこの状況をどう説明するっていうんだ!」

 タスクが強い調子で言う。トンボは反論できなかった。
 それが全て山下の自作自演による作り話という以外、タスクの自殺とこれまでの不可解な事件、さらにはトンボの兄の死まで含めて、一つのストーリーに収まってしまう。

「……確かに、吸血ジャックが北高で死んだ四人の死体を損壊した犯人である可能性が高い、それは、模倣犯は考えられない次元で、吸血ジャックのこれまでの犯行と合致している、それは千歩譲って納得しました。でも、ボクの質問に山下さんはまだ答えてませんね」

「――真犯人は誰か、ということでしょう」

 山下はにやりと笑う。

「早田明美殺害時から、捜査線上に浮かんでいたのは、学校内部の犯行――つまりこれが、生徒によるものではないかという疑惑でした。その結果、重要参考人として挙がったのが、式部北高校生徒会六十二代生徒会の四人、生徒会長神楽崎弓枝(カグラザキ ユミエ)、副会長萩原充(ハギワラ ミツル)、書記小野宮蚕(オノミヤ カイコ)、そして会計――篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)でした」

 トンボは言葉を失った。

――そんな、兄さんが、人殺しの犯人として疑われていた?

「生徒会長の神楽崎ですが、彼女は当時学外で暴行を振るっていて、何度か僕も彼女を補導しています。調べてみればどれもこれも彼女には非がない、というより、相手が麻薬の売人だったり、痴漢だったり、売春の仲介業者だったりと、彼女なりに正義を貫いた結果として、暴力沙汰になったという事件が多かったと思いますが、実際彼女は相手に全治一か月の重傷を負わせたという事例もあります。さらに彼女はいわゆるバイセクシュアルであり、そちらの方面では進んでいたという話もあります。もしかしたら女子生徒と痴情のもつれから殺人に発展した可能性が当初からささやかれていました」

 山下はさらに続ける。

「副会長の萩原ミツルは当時二枚目副会長として有名でした。いや、そもそもこの六十二代生徒会は美男美女ぞろいということでそれなりに学校内外では話題になっていた。アプローチしてくる女子も後を絶たなかった。また彼はオカルト関連に興味を持っていたという記録があります。ならば可能性は低いこととはいえ、吸血ジャックの犯行が色鬼封じのものだと気付いて、いや、いなかったとしてもそれらしく見せかけることができたかもしれません」

「あんたさっき、死体を損壊したのは吸血ジャック本人だって――」

 山下はトンボの発言を無視し続ける。

「書記の小野宮カイコ、今は蝶野と名乗っているようですが、彼女は日本有数の大企業、小野宮グループの総帥小野宮蓮穣の長女です。今日タスク君が行っていたという小野学院大学付属病院も小野宮グループのもの。さらに――カササギビルは小野宮グループの小野宮建設が所有していたビルです。彼女はアゲハさんが殺されたのちに名前を蝶野と改めている。大企業の娘が連続殺人のあった学校に通っていたというのはマスコミのスクープの種になるからと本人は言っていますが、それが犯行に小野宮家が関与していたことを隠すためのものだとしたら?」

 次々と不審な点を挙げていく山下。
 トンボは頭の中でありったけの否定をその疑惑にぶつける。
 兄がそんなものに加担していたわけがない。
 兄がそんなことするはずがない。

「でも、でも、兄さんは――兄さんは潔白のはずだ!」

「そう、それ故に殺されたのだとしたら」

 山下の宣告にトンボはもう返す言葉がない。

「式部北高校生徒連続殺害事件が生徒会の四人が行った集団私刑事件だったら話は簡単です。痴情のもつれから神楽崎ユミエは早田明美を殺してしまい、その犯行を潮ヶ浜夜と曽根百合子に見られた。萩原ミツルが吸血ジャックの犯行に偽装することを思いつき、小野宮カイコがその金と権力を使って偽装工作をする。そうして三人を次々に殺していく中で、篠塚アゲハは良心の呵責に耐えかねて犯行を自首しようとし、結果三人に殺害された」

「――仮定の話だ!」

 トンボは叫んだ。

「そう、仮定の話です。証拠は何もない。だからこそ、僕は今回、タスク君の事件がもしかしたら半年前のこの事件を解くカギになるのではないか、と期待しているんです」

「――期待?」

 肩で荒く息をしながらトンボは苛立ちのこもった口調で聞く。

「犯人だと疑われていた小野宮カイコは現在生徒会長としてまだあの学校に残っている。彼女が君にカササギビルの件は吸血ジャックかもしれないと言ったと言いましたね。ならば彼女は同じように連絡を取っているかもしれない。神楽崎ユミエと、萩原ミツルに。もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。この事件の犯人は本物の吸血ジャックについて何かを知っている。逮捕できればそれが聞き出せるし、いやいや、もしかしたら本物が現れる可能性も――」

「ふざけるな!」

 トンボは両手をちゃぶ台に叩きつけた。
 時間差でじいんと痛みが伝わってくる。

「タスクが、こんなに悩んで、必死な時に、あんたそのタスクを利用して――」

「こんなに繰り返しても、まだお分かりじゃないとは。いいですか、そこにいる、彼は、坂崎タスクの抜け殻です。本物は日曜日に死んでいる。そこの彼は、ただの死体だ。息もすれば言葉もしゃべるし、記憶もタスク君と共有しているが、彼はもう坂崎タスクじゃない。色鬼という怪異によってよみがえった化け物、灰音だ。化け物退治に化け物を利用することがそんなにいけないことで――っ!」

 ぱちんと音が響いた。山下の頬を叩く音だった。
 叩いたのはトンボではなかった。タイチだった。
 トンボは唖然と口を開ける。
 タイチはそのまま山下の襟首を掴んで立ちあがった。

「山下さんには世話になってるし、そのことは感謝してるけど、オレの、友達を、化け物呼ばわりするな。それは、それだけは許さない」

「はは、涙ぐましい友情だねタイチ、君は今日彼に殺されかかったんじゃなかったかな?」

「タスクがオレを殺すわけない。もしそんなことになりそうになったら、なる前に止めるのがオレの保護者としてのあんたの責任だ。あんたの仕事は幽霊の被害に困っている人を救うことだ。霊能調査室室長なんだろ」

 それはトンボがこれまで聞いたことのない、タイチの本気の怒りの声だった。
 低く、太く、威圧的な声。
 山下はそれにへらへらとした笑みを消し、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、タスク君、と呼んだ。
 タスクはハッとしたようにそちらを向く。

「君にこれからいくつかの知恵を授けよう。色鬼灰音は君の自我を乗っ取り、タイチを殺そうとしている」

「……は、はい」

 目の前で行われている会話についていけずに呆然としていたタスクは、急に話を振られて戸惑っているようだった。
 タイチは山下のその様子にひとまずは掴んでいた襟首を離す。

「色鬼――というより、大概において、この世ならざる者が人を殺すにはいくつかの段階があるものでね。それは今日君が灰音に乗っ取られてタイチを殺しそうになったことや、君自身が意志によって彼の力を利用し、僕を生き返らせたことからも明らかなように、今君と灰音は、君の肉体の主導権を綱引きし合っているようなものだ」

 要するに、と山下はケースを開ける。

「これから灰音は君の自我を乗っ取り、完全に掌握しようとして来るはずだ。おそらくこの一週間のうちに決着をつけに来るだろう。だから君は学校の外でタイチと二人っきりになる状況を避けること。これがまず第一の予防線になる」

「学校の外で、って、学校の中ではいいんですか」

 タスクは不安げに聞いた。

「不安は消えないが、大丈夫ではないかと思っている。それは、篠塚さんには聞き苦しいことかもしれないが、吸血ジャックが張った結界があるからだ。僕はこれが確実に機能しているものだと思います。もっとも、タイチかタスク君を学校に通わせないという手段が一番確実と言えばそうなんだが、正直な話、タスク君はできるだけ学校にいた方がいい。おそらくこの街で、色鬼から逃れられる場所があるとすれば、それは今のところ学校以外に考えられません。多分色鬼が出るとしても、この円からはみ出る校門より内側には入ってこれない」

「仮定の話、なんですよね」

 タスクは念を押すように聞いた。

「仮定というなら全て仮定だ。君が死んだ、というところからね。そして、最後の砦に、この振り子を君に預けておこう」

 そう言って山下はポケットから紫がかった水晶の振り子をタスクに渡した。

「これは紫水晶の振り子と言ってね、件の神社に伝わる、鴉を捕まえる際にその体を縛ったとされる数珠を模したものだ。多分、色鬼や他の災いが訪れる前兆を君に教えてくれる。これを首にかけて肌身離さず持っていること。今はそれが精いっぱいだ。君から色鬼を落とすのはもっと専門の霊能力者が必要になる。僕はこれでも素人だからね」

 そして二人には――と山下はタイチとトンボを見た。

「そこまでタスク君が大事と言っているのだから、なるべく彼の様子には気を張っていた方がいい。少しでもおかしなことがあったら、すぐに僕に知らせること。タイチはタスク君に襲われそうになったり、近くに灰色の炎が見えたりしたらすぐに逃げること。それで全部だ。今僕らにできることは」

 山下がそう結論するのを見計らったようにそっとふすまを開けて沢井の顔がのぞいた。

「すいませぇん、山さん、自分もう終業とっくに過ぎてるんスけど、その、まだかかりますかね」

「――というわけで皆さん、長々とお話に付き合っていただきましたが、今日はこれにてお開きにしたいと思います。僕が送っていくから、タイチ、二人を車に案内して、僕はここを元に戻していくから。悪かったね沢井君、今終わったところだ」

 沢井はほっとしたような顔を浮かべて、お疲れ様です、と何故か一礼した。
 タイチはいつものように間延びした返事をして、投げ渡された車のカギを受け取った。
 タスクは大切そうに振り子を握り締めている。
 トンボは――何だかひどく頭を使った気がして、何も考える気になれなかった。

 トンボが家に着くと、もう十時近くなっていた。
 メールを確認すると、姉から今日も帰れないという内容が届いていた。
 トンボはとにかく服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて汗を流した。
 それだけやると、電気もつけずに部屋のベッドに倒れこむ。

 兄を殺したのは吸血ジャックじゃない――。
 仮定の話だったけれど、聞き捨てならないことだった。
 そして。
 兄を殺したのは兄が誇りを持って所属していた旧生徒会のメンバーかもしれない――。
 トンボはそれを断固として否定する。
 そんなはずがない、と強く思った。いや、そうであってはならないと思った。

 吸血ジャックがタスクを殺しに現れるかもしれない――。
 そしてタスクは、悪霊に操られて人殺しになるかもしれない――。
 タスクのことだから、そうなる前にまた自殺してしまうのではないか、とトンボは少し心配になる。

「……そう言えば、……ヨースケ先輩はあの後どうなったんだろう」

 あの病院での騒動。大事になってなければいいのだが。
 徐々にトンボの上と下の瞼は距離を縮める。
 とにかく、明日、朝練のときに、聞いてみよう、病院のこと、去年のこと――。
 小さな部屋に小さな寝息が静かに響いた。
Who killed Butterfly?
»»  2013.09.02.

【火曜日】



 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。
 学校に行く気には到底なれなかった。

 当然、平日である。六月に祝日はない。
 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。
 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。
 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。

 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。
 搬送された時点で意識は取り戻していたが、付き添いの国栖が勧めたこともあり、一日精密検査を受けるために入院することになったのだ。
 レントゲンなどの検査は昨日のうちに済んでいた。
 今日はMRIや脳波測定など、タスクは一生受けることもないだろうと思っていた検査が行われる。
 それと合わせてこれまた一生受けることはないだろうと思っていたものがあった。
 カウンセラーによる精神鑑定のテストである。
 
 それは国栖が受けろと言ったものだったが、タスクは半ば自分からそれを受け入れた。
 確かに自分は精神を病んでいるのかもしれない。それもかなり深刻に。

『嫌だなぁ、ボクはそんなものじゃないよ。脳機能の障害なんかと同列視されるのは不快の極みだね』

 くすくす、くすくすと頭の中をくすぐるように笑い声がコロコロと移動する。
 それだけでタスクは気が狂いそうなほどもどかしい気持ちになる。
 今すぐに脳みそを取り出してきれいな水で洗って欲しいくらいだった。
 昨日、救急車の中でタスクの目を覚ましたのは救急隊員の呼びかけではない。
 この頭の中から聞こえる、得体のしれない何者かの笑い声だった。

 最初は聞き取れないほど小さかった声は、今は不快感を伴わなければきっと、タスクはそれが外からのものか区別できないほどはっきりと、大きなものになっていた。

『声』が笑う。
 タスクはベッドの中で思わず布団で頭を覆った。
 そんなことをしても頭の中からの声には全く無力なのに。
 それを見透かしたように声はさらに笑った。

――君は、誰だ。

『ボクは君、君はボク、ボクの名前は――』

 タスクはいつもそこから先を聞き取ることができなかった。
 それは何かに集中している時に聞こえている音が、耳には入っているけれど記憶に残らない感覚とよく似ていた。
 タスクはその言葉を聞き取っている。聞こえているのはわかる。
 でも理解できない。記憶に留めておけない。

『声』は頭の中で落胆したようにため息をついた。

『なんて掌握しにくい素体だろう。存在を同一化すればすぐに同調できると思っていたけど、まさか“認識”してもらわないとこちらとしての存在の体裁が保てないとは……。つくづく世界の乖離を思い知らされる。この世界は思う以上にずっと物質に依存しているんだ』

『声』はわけのわからないことをずっと呟き続けている。
 ただ、それはどうやら目的が達成できない不満であるようで、どうやらその目的はタスクにとって好ましくないことであることは確かなようだった。

「気が狂いそうだ……」

――いや、もうとっくに狂っているのかもしれない。 

「坂崎さん、検査ですよ。……大丈夫ですか? どこか痛いんですか?」

「……大丈夫、です」

 布団から顔を出すと、心配そうに覗き込む看護士と目があった。
 大丈夫なわけがない。自分はおかしいのだ。誰か気付いてくれ――。
 タスクは祈るような気持ちで視線にありったけの思いを込める。

「そう? 我慢しないで言ってね? 立てるかな?」

「はい……」

――視線で思いが伝われば苦労はない。
 あらゆることにおいて気持ちを正直に伝えられないことで悩むタスクが一番よくわかっていることだった。
 案の定看護士はそのままタスクにカルテを渡して検査の場所を案内するとそのまま行ってしまった。

『無理はしない方がいいよ、タスク』

 また声が頭の中を駆け巡った。タスクはその声を頭から引きずり出したくて、髪の毛をぐしゃりと掴んだ。
 もちろんそんなことをしても何の意味もないが。

『まだ見えないんだね。やっぱり相性が悪いのかなぁ』

 くすくすと笑う声に、タスクは黙れ、と頭の中で念じる。
 すると一旦は声の方は静かになる。
 それはつまりこの何者かが確かにタスクの内側に存在していることを示していた。
 念じるだけでは思いは伝わらないことは、さっきの看護士が示している。
 ならば念じることで通じるこの声は一体――。

「それを確かめるための検査なんだろ……」

 タスクは気を張るように自分の頬を両手で二度叩いた。
 そして検査室の受付に、カルテを出した。

 午後の検査が終わった時には、既に四時過ぎだった。
 結局異常も見つからなかったタスクは、このまま親が迎えに来たら帰る予定で、すでに着替えも終え、普段着を着ていた。
 相も変わらず雨は降り続いている。
 病院の中庭のアジサイは、きれいな青色をしていた。
 ぼんやりとそれを自販コーナーの前のソファに座って眺める。

 タスクは自分の経験や、幻聴に関しては医者に言うのを控えていた。
 いや、言えなかったというべきか。
 それを言うことで自分に何がされるのかを考えると怖かったのは事実だ。
 何か目に見える形ではっきりと、たとえば脳に異常が見つかるとか、あるいは心理検査で決定的な欠陥が見つかるとかすれば、言えたかもしれない。
 しかし、あいにくと言うべきか、幸いと言うべきか、そういうはっきりとした形での異常は、タスクには見られなかったのである。
 だからタスクは言えなかった。自殺のことも、『声』のことも。

「あれ? 坂崎じゃないか。どうしたんだ? どっか悪いのか?」

 そんな声に振り向いてみれば知り合いが立っていた。
 大柄なシルエット。
 短めのスポーツ刈りと、いかにも健康ですよと言わんばかりのがっしりした熱い胸板。
 小柄なタスクからするとずいぶんと背の高い、日に焼けた少年だった。
 右目の下の泣きぼくろは本人によるとトレードマークらしい。

「……桜木陽介(サクラギ ヨースケ)先輩」

「なんでフルネーム?」

「いえ、別に……何となく」

 ヨースケは式部北高校の陸上部所属の二年生である。
 タスクとは直接の交流はない。
 ただ、陸上部のトンボと、タイチと三人で一緒にいると、何故か世話を焼いてくれる。
 ファストフードなんかをおごってもらったことも一度や二度ではない。
 タスクの知り合いである。タスクが知っていて、相手もタスクのことを知っている。
 そんなことは当然なのに、どうしてだか確認するようにフルネームで呼んでしまった。
 自分は坂崎タスク、相手は桜木ヨースケ。
 タスクは確かめるようにヨースケの顔を見つめて、頭の中で何度かその名前を唱えた。

「大丈夫か、顔色悪いぞ?」

「ちょっと調子が悪くて、検査入院です」

「ああ、そう言えば昨日の救急車、坂崎が運ばれたんだって? どうせ日曜日の件が堪えてるんだろ?」

 いきなり図星をついてくる言葉に、タスクは思わずヨースケの顔を睨み付けた。
 この男もやはり――知っているのだ。
 ヨースケはといえば、別段責めるようでも嘲るようでもなかった。
 ただいつものように朗らかな春の太陽のような、明るい大きな笑みを浮かべていた。

「坂崎、もしかして、無理してない?」

「どういう……意味ですか」

 この男は――苦手だ。
 底抜けに明るくて、嫌になるくらいポジティブだ。
 人の心にもずかずかと入り込んでくる図々しさを持っている。
 正論ばかり言うし、目を背けていたいことにも強引に顔を向かせる。

「本当は、ピアノ、やりたくないんじゃないかと思って」

 タスクはその言葉に心臓を掴まれたような胸の苦しさを覚えた。

「そんなこと……」

 ありませんという言葉はついに口から出ることはなかった。

「あれぐらい気にすんな坂崎、俺は小学校の頃、運動会のリレーのアンカーで転んだ拍子にズボンとパンツが脱げてフルチンで走ったくらいだからな。しかもそのビデオを後で母さんに見せられるときの恥ずかしさと言えば、とても口で言い表せないぞ」

 ヨースケは明るい声で笑った。その声は無性にタスクの心をかき乱した。
 頭の中の『声』とは全く別の意味で、タスクの精神を踏みにじる。
 タスクの失敗は、そんな微笑ましいものと同列に語るべきことではないのだ。
 タスクにとって、そう扱われることはひどく腹立たしく思えた。

「坂崎?」

 名前を呼ばれてハッとする。
 考えれば考えるほどイライラするような気がした。
 これ以上この話題に触れられるのはよくない。

「……先輩は?」

「いや、俺は好きで……」

「いえ、なんで病院に? 練習で怪我でも?」

 タスクは半ば強引に話題を変えた。
 見たところヨースケはいつも通り、健康そのものといった様子だ。
 少なくともどこか悪いようには見えないし、トンボからそんな話を聞いた覚えもない。

「母さんの身体が弱くて、入院してるんだ」

 ヨースケは話題をそらされたことに構う様子もなく、素直に質問に答えた。
 ヨースケにしてみればこれは世間話で大した話題ではないのだ。
 それはそれで、自分のことがどうでもいいと言われているようで少し腹が立った。

「今はそのお見舞いの帰り」

「はぁ……それは、その、大変ですね」

 月並みなことを言いながら、聞かなければよかったと思った。
 ヨースケは見た目と同様に、何一つ歪んだところのない健やかな人生を送っていると思っていた。
 それだけに、親が入院しているというのは予想外で、タスクは何だか勝手に気まずい気分になった。

「最近はだいぶ落ち着いてきたからそうでも無いけどな」

 ヨースケはあっけらかんと答える。
 どうやらあまり気にしている様子はない。
 タスクはそれに少しだけ安心する。

「ヨースケぇ、おれもジュースほしい」

 突然、低い位置から声がした。
 ヨースケの少し後ろに男の子がヨースケの服の裾をぎゅっと握って立っている。
 歳は五歳くらいだろうか。背丈はヨースケの腰あたりまでしかない。
 あどけない無垢な顔立ちと、つむじのあたりの一房上を向いた髪の毛が可愛らしい。

「その子は……? 先輩の?」

 肌の色は真夏でもないのに、ほとんど焦げ茶色をしている。
 よほど外遊びが好きなのだろう。
 黄色い雨合羽に、同じ色の長靴を履いていた。
 自分が長靴など履いたのは、一体いつが最後だろう。
 もうきっとあの長靴は、タスクの足には入らない。

「ん? ああ、こいつは――知り合いの子で、ちょっとうちで面倒を見てるんだ。ジュースはまた今度な、ほら、タスクおにーちゃんだ、あいさつしな――」

「クロ……ト」

 ふいにタスクの口から言葉が漏れた。
 後から黒人(クロト)と書くのだと頭が理解する。
 ヨースケが怪訝な顔をする一方で、呼ばれた子どもは顔に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

「そうだよ! タスクおにーちゃん、こんにちは!」

「こ、こんにちは……黒人君」

「何だ? 二人は知り合いか?」

 ヨースケは意外といった表情で、タスクの方をまじまじと見ている。
 だが、タスクは驚いたなどと言ったものではない。

――知らない子どもだ。タスクに幼児の知り合いはいない。
 知らないはずだ、初めて会うはずだ。
 でもタスクは、この子どもの名前を知っていた。
 黒人なんて名前は聞いたことも見たこともない。
 それなのにわかった。直感した。一体何故――。 

「そーだよ! いつも一緒に遊んでもらったもん!」

――清流に魚が泳いでいる。裸んぼの子どもが楽しそうにそれを眺めている。
 きっとさっきまでそこで泳いでいたのだろう。
 ボクは後ろからその子に近付いてその体をふかふかの布で包む。
 甲高い笑い声が布の中で響いて、ボクはごしごしとその子の体を拭いていく。
 男の子がばあ、と布の中から顔を出した。黒人だ。そして、ボクは――。

 何だ、この記憶は――。それはタスクのものでは到底ありえない。
 タスクが知らない、経験したことのない記憶だった。
 でもその中に、黒人がはっきりと出てきている。
 黒人の笑顔、泣き顔、ふくれっ面。笑い声、泣き声、歓声、嬌声――。
 そんなものが溢れてタスクの記憶を圧迫する。

 里山の風景、薄桃色の花が咲き乱れる村、きれいな川があって、秋には森にたわわに木の実が実る、桃源の園――。

 タスクは大きくうつむいて頭を押さえた。ヨースケが怪訝そうに近づく。
 頭の中の声は、頭蓋を破るほどに大きく叫んで。
 それがタスクの中のタスクの人格を消していくようだった。

――ボクは誰だ。ボクハダレダボクハダレダボクハ――。

「ね、『ハイネ』」

 黒人が満面の笑みを浮かべて、名前を口にした。

「……ああ、そうだったね、黒人」

――灰音。

 そうだ、それがボクの名前だ。ボクは君だ。君はボクだ。ボクは、灰音。
 鴉のしもべ、十二の色の名を冠す鬼の一介――灰音。
 ボクはすっかり調子を戻して、黒人に笑いかけた。

「お、やっと笑った」

 ヨースケが言う。笑わないではいられなかった。
 それほどに誇らしく、すがすがしい気分だった。

「なんかずいぶんつらそうな顔してぜ? 『人間、笑ってる方が楽しいに決まってる!』ってな。病院の知り合いの爺さんの受け売りだけどさ、やっぱ笑った方がいいぞ」

 笑った方がいい、か。
 確かに『坂崎タスク』のように陰気を振りまいて過ごすよりはよほど周りに与える印象はいいだろう。
 人間はどうやら、しかめっ面をしている人間には警戒心を示すらしい。
 ならば笑顔はそれを解く意味でも大切なものだ。

「……ありがとうございます」

「ん? 俺、何かしたか?」

 ヨースケは不思議そうに首を傾げた。
 この男は自分が何をしたのか、『坂崎タスク』にとって何を導いたのかわかっていないだろう。
 黒人自身さえ、よくわかっていないと思う。それを考えるには黒人はあまりに幼い。
 それでもこのヨースケの出会いが、ボクの意識の構築の一助になったのは間違いない。
 おかげで――タスクを掌握することができた。

「よくわかんないけど……ま、元気が出たんならいいや。早いとこ学校来いよ、トンボが寂しがってる」

 にしし、と笑いながら「家まで競争だ!」とヨースケと黒人は帰っていった。
 どうやら黒人はあの契約者と友好的な関係を作っているようだ。
 そういうやり方は確かに意味がある。
 この世界における主体が、ボク達ではなく人間やこの世界の生き物にある以上、契約者の主体性は残しておいた方が、都合がいい面も多々あるだろう。

 でもボクはそういう悠長なことはしてられない。
 一刻も早く鬼としての本分を全うしなければならない。
 人柱を立て、その命を鴉のために捧げなければ。
 もう相手は決まっている。坂崎タスクの幼馴染、松木タイチだ。
 一日タスクの中に入って、学校には非常に強力な結界が張ってあることに気付いた。
 あの中ではボクたちは存在していられない。
 でも焦る必要はない。タスクとタイチの距離は、ごくごく近いものだ。
 殺す機会はいくらでも訪れる。
 人間の分際で世界の理の領域に足を踏み入れたならず者――あの、松木を。その子孫を。

Hospital: The Sun and Black wake up Gray in Suicide

2013.09.02.[Edit]
【火曜日】1 翌日、目を覚ましても、タスクは布団にくるまって丸くなっていた。 学校に行く気には到底なれなかった。 当然、平日である。六月に祝日はない。 昨日から続く雨は今もタスクがいる部屋の窓をたたいている。 部屋といっても個室ではない。それどころか自宅でさえ無かった。 タスクが繭のように転がっているのは、病院の真っ白なベッドの上だった。 タスクは昨日、学校で倒れ、救急車で病院に搬送された。 搬送...

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――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。

 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。
 ホームルームの進行と学級日誌の編集。
 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。
 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。

 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当を作ってきてくれているのは事実だった。
 もともとタスクは誰かに料理を振る舞うことが好きらしい。
 家でも朝食と夕食、そして弁当をいつも家族の分作っているそうだ。

 基本的に高校に給食はない。
 そんな中、万年金欠のタイチは昼食も食べずにお金を節約していた。
 その様子を心配したタスクが、タイチの分の弁当を持ってくるようになった。
 ちょうどその頃、トンボが風邪で欠席した時、タスクは家を訪ねてくれた。
 それはそれで一つ笑い話があったのだが、それ以来、タスクはトンボがいつも菓子パンばかり食べているから体調を崩すのだと、トンボにまで弁当を作ってくれるようになった。

 だからタスクがいない今日のような日は、トンボはパンを買わざるを得ない。
 タイチはそれならお金がもったいないと、何も食べないことが多かった。
 それから考えれば、昨日のことはタイチにしてみれば破格の好意だったかもしれない。
 何しろ自分ののみならず、トンボの分までパンを買ってくれていたのだから。

――お弁当だよ、トンボ。

 ふ、と耳に懐かしい声をトンボは思い出していた。
 遠足の時、お花見に行く時、必ずお弁当を作ってくれた、懐かしい兄の声。
 トンボは兄のお弁当が大好きだった。
 思えばタスクの料理はどこか、兄の料理によく似ている。
 特に卵焼きが、毎回中身にそぼろやホウレンソウを巻くところは全く一緒だった。
 もう二日、タスクの弁当を食べていない。
 トンボは日誌を閉じ、わきに置いた鞄を机の上にあげた。
 本当にタスクは、大丈夫なのだろうか。

「トーンちゃーん! あ、いた」

 そんな風に黄昏ている所に間抜けな声が響き、乱暴にドアが開けられた。
 タイチだった。

「ねえタイチ、そのトンちゃんって言うのやめてくれないか?」

「え? 何故に?」

「何かその……恥ずかしいじゃないか」

 トンボが言いにくそうに、その浅黒い肌がほんのりと染めながら言った。
 それを見たタイチは腹を抱えて笑った。

「な、何だよ! そんなに笑うところじゃないだろ!」

 トンボはただそのあだ名が、何とも子供じみていると言いたかっただけである。
 大体クラスの男子も女子も篠塚、あるいは篠塚さんと呼ぶ。
 親しい陸上部などではトンボと呼び捨てにされることも多いが、トンちゃんとちゃん付けで呼ぶのは学校ではタイチだけで、学校の外でも姉だけが使う呼び方だった。
 さすがに十五歳にもなって、ちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしいものがある。

「いや、トンちゃんかわいいなって」

「なっ」

 その言葉になおもトンボは赤面する。
 するとタイチはまた声をあげて笑う。
 どうやらトンボの顔が赤くなるということが、タイチには面白いらしい。
 いい加減腹立たしいので、タスクがいつもするようにタイチの後ろ髪を引っ張ってやる。

「痛いいたい。もうひどいなぁトンちゃん。ここはたまたまの次に大事なところなんだから優しくしてほしいよ」

「た、たまたまって……」

 さりげなく下ネタを混ぜてくるタイチに三度赤面する。
 またもやタイチは大笑いした。
 さすがに悔しくなって張り手でもくらわそうと思った時である。

「やれやれ、楽しいのは結構なんだがね」

「……あ、……会長」

 ドアの前に立つ女子は蛇の目の紋が入った扇子で優雅に口元を隠しながら、くすりとその向こう側で笑い声を漏らした。
 生徒会長の蝶野カイコだった。バカにされたようで、トンボは少し腹が立った。

「五時には完全に帰宅するよう、指示を出したはずだが。はて、率先して生徒の規範となるべきクラス委員がその禁を破っているとは。あまつさえその理由が男子生徒と談笑にふけっていたから、なんて。少々落胆させられたかな、君はもう少し、模範的な人間だと思っていたのだが、篠塚君」

 顔を背け目を伏して、芝居っ気たっぷりに扇子の後ろでカイコはため息を吐きながらトンボ達の方に歩み寄った。

「今、学級日誌を……」

 提出しに行こうとしたところです、と言おうとした先に、トンボの眼前にカイコは扇子を突きつけた。
 トンボは言うに言えずに言葉を飲み込む。

「一年五組の学級日誌、確かに私が預かった。しかし、今後は休み時間内に仕上げておきたまえ。クラス委員であれ、学級日誌を残すためであれ、居残りは禁止だ」

 カイコは扇子を降ろしてトンボから少し強引に学級日誌を取る。
 最初から渡すつもりだったのに、無理に奪われたようで、トンボは気分を害した。

「坂崎君は休みか。ああ、そうだ、篠塚君。明日彼が学校に来たら、お昼休みに生徒会室に来るように伝えておいてくれないか。話があるのでね」

「ご自分で……」

 お伝えになっては、という前にカイコはトンボの顔の前に扇子を広げた。
 二つの蛇の目が睨むようにトンボを射すくめる。

「くれぐれも、頼んだよ。では用が済んだら早々に帰りたまえ」

 囁くように言って、カイコはさっと後ろを向き、そのまま部屋を出ていく。
 背後に従っているハヤテは静かにそのドアを閉めた。

「生徒会長、蝶野カイコ。……何だか芝居がかった人だなぁ」

 その様子をぽかんと見ていたタイチが零した。
 芝居がかった、じゃなくて芝居なのだ。
 トンボは少なからず一年前のカイコを知っている。
 兄が生徒会の会計で、カイコが書記だったからだ。
 それ以前に兄とカイコは幼馴染だった。
 そして、トンボの記憶に残るカイコという女は、ああいった性格ではなかった。
 彼女は豹変した。おそらくちょうど、兄が死んだ時期から。

「いや、あの人の言う通りだ。早く帰ろう」

 一刻も早く、あの女がいる場所から離れよう。
 それだけを考えてトンボはつかつかと廊下を歩いた。
 タイチがやかましく何かを話しかけていたが、適当に返して中身までは意識しない。
 いつも兄のそばにいた蝶野カイコ。兄の隣で所在無げにおどおどしていた女。
――兄を救えたかもしれないのに、みすみす救えなかった女。
 トンボはカイコのことが嫌いだった。
 もしかしたらその嫌悪感は自分に向けられるべきものだったかもしれなかったけれど。

「トンちゃーん、もう、何ぷりぷりしてんだよ」

 トンボはぷりぷりしてないとそっけなく言って速足で道を歩く。
 雨上がりの夕焼けは怖いくらいに真っ赤だった。
 道にはあちこち水たまりができていて、いちいちトンボの進路をふさぐ。
 またいだりよけたりしているから、さっさと通り過ぎたいのにちっとも思うように進めない。
 十字路を通り過ぎようとしたときにタイチが唐突に手を握った。
 この道をまっすぐ行くと駅前に出る。
 左に曲がるとトンボの家の方に、右に曲がると例のカササギビルがある北市街に続く。

「こっちだよトンちゃん」

 トンボの手を掴んで、トンボの家とは逆歩行にタイチは曲がり角を右に曲がる。

「タスクのお見舞いだろ?」

 タイチがそう言うのを聞いてトンボは思い出した。
 今まで頭に血が上っていて、目的を忘れていた。
 トンボの鞄にはリンゴが入っている。姉が持たせたものだ。
 お見舞いにはリンゴよね、と。

 思い出してぼーっとしているうちに、タイチはトンボの手を引いて走り出していた。
 水たまりもぬかるみもお構いなしで、まっしぐらに病院に向かう。
 着いたころには二人とも靴と言わず、ズボンが泥だらけになっていた。

 受付で病室を尋ねようと思ったら、尋ねるまでもなくタスクを見つけた。
 会計前の椅子に座って、紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。
 服装はパジャマや入院服ではなく、私服である。

「あれ、もう退院?」

「……松木、タイチ」

 挨拶もせずタイチはタスクに言った。
 タスクはタイチの顔をまじまじと見て、小さな声でその名を呼んだ。
 トンボは何かその様子に違和感を覚える。

「どこも、異常なかったんだろ? っていうか、本当は具合なんて悪くないんだろ」

 くすくす、くすくすとその音はどこから聞こえたものだろう。
 トンボはそれがタスクの口から、タスクが笑っているその声だと気付くのに時間がかかった。
 不思議に思うか思わないか――その刹那。
 タスクはこれまでにトンボが見たことのないひどく歪な笑みを浮かべてタイチの喉を掴み、そのまま馬乗りに床に押し倒した。
 タスクが座っていたソファが弾かれて大きな音がした。足が一本折れて傾いている。
 周りの人が一様にそちらを向いた。みんな目を丸くしている。

「タスク! 何を……」

「くくぐぐぐ! ぐげげげげ! げぎゃぎゃぎゃぎゃ! 松木、タイチ! カラスを縛る、血脈の裔! 見ててよカラス! 見ててよみんな! 松木の子どもを、ボクが殺すよ! ぐげぎゃぎゃぎゃ!」

 タスクはトンボが聞いたことのない奇妙な声を出して、訳の分からないことを叫んだ。
 その手に青筋が浮き出るほどの力を込めて、タイチの喉を握り締める、いや、握りつぶそうとしていた。
 タイチは激しく足を動かし、タスクの腕を離そうと掴む。
 タイチの口からはあぶくが出ていた。
 トンボは実際に人が泡を吹く様子など初めて見た。
 その喉からはカエルの鳴き声のような音が聞こえていた。

「タスク! やめろ! 何やってるんだ!」

 トンボは慌ててタスクを引きはがそうとする。

「やめろタスク! ――痛っ!」

 途端に、その手に鋭い痛みが走った。思わず手を引いて、噛まれたのだと気付く。

「タスク……?」

 目の前のタスクは笑いながら、その喉からタスクの声とも思えないひび割れた音を喚かせながら、タイチを絞め殺そうとしている。
 そして両手が使えないからと、止めるトンボの手に噛みついた。
 その行動は絶対に正気の人間のすることではない。
 トンボは友人の豹変に慄然とした。

 恐怖に動けないトンボの隣を大きな影が横切った。
 トンボはそれに見覚えがあった。
 大人にも見劣りしない長身、隆々とした逞しい胸板、日に焼けた肌、そして、右目の下の泣きぼくろ――桜木ヨースケだった。陸上部の先輩の。

 ヨースケはいつの間にかできたタイチとタスクを囲む人ごみの中にいきなり割って表れたように走り出て、トンボが止める間もなくタスクのその顔に膝蹴りをブチ込んだ。
 会計のそばで女の人の悲鳴が上がる。
 多分タスクのお母さんの声だ、とトンボはどこか冷静に思った。

「タスクのおかーさん、ごめんなさい!」

 ヨースケはそちらも見ずに大きな声で言った。
 膝蹴りにタイチの首から手が離れたすきをヨースケは見逃さず、そのままタスクの襟首を掴んで床に叩きつけた。
 受け身だってまともに取れないタスクは頭からリノリウムの床にぶつかった。

「ヨースケ先輩! どうして……!」

「よぉトンボ、なーんか嫌な予感がしたから、戻って来たんだけど案の定だったな。俺にしてみればお前がどうしてって感じだけど、とりあえず松木を頼む。『アレ』はお前達の手に負えるものじゃない」

 言われてようやく気付いて、トンボはタイチに駆け寄った。
 タイチはうっすらと涙さえ浮かべて、大きく咳き込んでいた。
 長い髪の毛の乱れ方と、その首にくっきり残る手の後が、タスクがやったことの恐ろしさを物語っていた。
 トンボはとにかくその背を擦る。

「っげほ、げっほ、ごほごほ! っかは、はぁ……」

「大丈夫? タイチ、立てる?」

 トンボはタイチのそばに膝を立ててその体を起こすのを手伝った。
 その間も、視線は床に倒されたタスクから離すことができなかった。
 タスクは膝蹴りでしたたかに鼻を打ちつけたらしく、赤いものが滴っていた。

「ぐぐぎ、ぎぎぎ……」

 床から立ち上がることのできないタスクがヨースケの方を向いて手を伸ばした。
 苦しそうにもがいて、助けを求めるように。
 眉をしかめ、口をゆがめる――その顔が、ふっと笑った。
 その瞬間、トンボはわが目を疑った。タスクの体が、ほんの一瞬だが、燃えた。
 本当に一瞬、アニメーションに一コマだけ入れられた関係ない映像のように、それでもトンボの目は確かにとらえた。タスクの体を焼く、色彩のない灰色の炎を。

 しかし、次に気付いた時には炎は消えていた。
 消えていたのは炎だけではない。タスクの鼻血もなくなっていた。
 見間違いだったのだろうか、とトンボは思った。
 あまりのことに、自分も動転している。
 それははっきりとわかっていた。自分は今、冷静では決してない。 
 そしてタスクは、呆然とした顔で床から起き上がった。

「タイチ……? 篠塚? ……桜木先輩? 何、この人だかりは……? 何でみんな、こっちを見てるの?」

 タスクはとんちんかんなことを口にした。
 今しがたタスクが行った凶行は、ここにいる全ての人間がはっきり見ている。
 しかし、当の本人は本当に覚えがないように立ち上がってトンボ達に近付いてきた。
 その方向にいた人垣はタスクから逃げるように散らばる。
 座り込んだままのタイチとトンボ、そしてその前に立ちふさがるヨースケだけが残された。

 タイチもトンボも、思わず身構える。
 ヨースケは二人をかばうように、タスクの進路をふさぐように両手を広げた。
 タスクはその様子に足を止めた。

「何で二人ともそんな目でボクを見る? 一体これは……」

 タスクの顔は徐々に状況を理解し出したのか、怯えたように目が開いていく。
 その時、人垣を割って男の看護士がストレッチャーを引いてくるのが見えた。
 体格のいい男達が三人、タスクに近寄っていく。

「ダズグ!」

 タイチがまだ濁った声で叫んだ。

「逃げろ!」

 その言葉に弾かれたように、タスクは一目散に病院の入り口へ走って逃げだした。

「あ、君! 待ちなさい!」

 看護士が叫ぶ。一方でタイチの隣にも別の看護士が近づいていた。

「追うぞ、トンちゃん!」

 タイチは立ち上がり、看護師の手を避け、トンボの手を引いてタスクの後を追いかける。
 トンボは後ろを振り返って、ぽかんとしているヨースケに言った。

「先輩! あとのことよろしくお願いします」

 逃げ出した三人を、口を開けたまま見送ったヨースケは、改めてその場にざわめく人々を見た。
 その顔は困惑や不安、恐怖に歪んでいたり、または楽しそうな表情をしていたりと様々だったが、一様にヨースケの方を向いて、説明を求めるような顔をしていることでは同じような顔だった。

「えーっとぉ……」

 ヨースケは頭をぼりぼりと掻いて困ったように笑う。とりあえずヨースケは――。

「この度はみなさん、ご迷惑をおかけして、真にすみませんでした!」

 ひたすら謝り倒すことにした。

The Evil Gray: Why do The Sun and Black defend Moratorium?

2013.09.02.[Edit]
2――今日は坂崎君が休みで、一人でクラス委員の仕事をやらなくてはならないから大変です。お弁当もいつも坂崎君が作ってきてくれるので、それが食べられないのは残念です。 トンボはクラスに一人残り学級日誌を書いていた。 ホームルームの進行と学級日誌の編集。 クラス委員の日常的な仕事はその二つに集約される。 書いたものを一読し、トンボは弁当のくだりを消しゴムで消した。 タスクがトンボと、そしてタイチの分の弁当...

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 タスクはひたすらに走っていた。
 走りながら思い出していた。
『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。
 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。

 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。
 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。
 二人はタスクをどう思っただろう。
 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思われたに違いない。

――違う、あれはボクじゃない!

 誰が信じるだろう。タスクの意識が幽霊か何かに乗っ取られていただなんて。
 タスクは自分がどこにいるかなんて全く分からないまま、ただがむしゃらに走った。
 とにかく、誰もいない場所へ、誰にも見つからない所へ――。

 いつの間にかタスクは誰もいない街角に紛れていた。
 一軒家が並ぶ住宅街、家々を囲むのは灰色の塀だった。
 道路のアスファルトも灰色、電柱も、空に浮かぶ雲さえ青味がかった灰色をしていた。
 灰色に囲まれた道。その一角で足が、不意に止まる。
 そしてタスクは、ようやくそこがカササギビルの前であることに気付いた。
 住宅街は月曜日の朝に見つかった惨劇の痕跡に怯えているのか、人っ子一人いない。
 夕闇に浮かぶ大きな影はまるで墓石のようだった。

 タスクはフラフラとそのビルに近付いた。
 そしておそらく駐車場になっている一階の正面の入り口の前に立つ。
 そこはタスクが飛び降りて死んだまさにその場所のはずだった。
 血だまりが見つかったというのも、おそらくここだろう。
 しかしもう警察が後始末をしたのか、それらしい痕跡はどこにもなかった。

 タスクはその地面に跪き、手をついた。

「タスクー! はぁ、はぁ、タスク!」

 後ろから、息を切らしたタイチとトンボがやって来た。

「……死んだんだよ」

「え?」

「ここで死んだんだよ! 日曜日! ボクは、ここで、ここから飛び降りて、ここに落っこちて、死んだんだよ! 自殺したんだよっ!」

 タスクは大声で叫んだ。ダン、と地面を握りこぶしで叩き、頭をそこに打ち付ける。
 痛みが走る。こんなことをすれば、体が壊れてしまうと思った。

――いや、壊れてしまえ。壊れるべきなのだ。だってボクは、もう死んでいるんだから。

「これは何だ! どうしてボクは生きてるんだ! 頭の中の声は誰だ! お前はボクをどうしたいんだ!」

「止めなよタスク……」

 タイチは地面をたたき続けるタスクの腕を思わず掴んだ。
 タスクはそれに振り返り、タイチの顔を見ると、必死の形相で迫る。

「ああ、タイチ、さっきはごめん、あれはボクじゃないんだ、ボクの中にいる何かがボクの体を乗っ取って、でもひどいよな、怒ってるだろ、そうだタイチ、怒ってるならボクを殺してくれないか……」

「ちょ、タスク、落ち着けって……」

「落ち着け? どうして落ち着いてなんていられるか! こうしている今にも、ボクは君を、君達を、殺すかもしれないんだぞ! 早くボクを殺し――」

「止めろ、タスク」

 その声はトンボのものだった。
 しかし本物の男のように、低く、威圧するような声だった。
 タスクはトンボの顔を見上げる。
 トンボはその襟首を掴んで、無理やり立たせる。
 そして一発、タスクの頬を殴った。

「友達に、殺してなんて頼むな」

 押し殺すような声でトンボはそう言って、タスクの肩を思い切り抱きしめた。

「わかるよ、タスク。今、タスクの中で、とても恐ろしくて、でも誰にもわかってもらえない大変なことが起こってるんだろ」

 トンボの手がタスクの頭を撫でるように後ろに添えられている。

「苦しいんだろ、つらいんだろ。わかるよタスク。だって今のタスクは、普通じゃないから。思わずボクに噛みつくような、タイチの首を絞めるような、そんなタスクだったら絶対考えられないことを、させてしまう何かが、君の中にあるんだろ」

「う、……ふぐ……」

――わかるよ。
 その言葉をどれだけタスクは待ち望んでいただろう。
 言わなくては伝わらない。それは当然だがタスクには言えないことがたくさんあって。
 その言えないことを、誰かが分かってくれることをずっと待っていたのだ。

「大丈夫、わかってる。タスクにタイチやボクを殺させたりしない。友達に友達を殺させたりしない。そんなことは絶対にさせない。……だから、死ぬとか、殺して、なんて言わないでくれ。お願いだ」

「うぐ、うわああああぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁぁ……!」

 トンボに抱きしめられたまま、タスクは大声で泣いた。
 その時だった。

「危ない!」

 タイチのものでもタスクのものでもない男の声がビルの方から響き、直後に突っ立っていたタイチもろともトンボとタスクは誰かに強く突き飛ばされた。
 タスクはとっさに手をつきながら、上を見た。
 雨上がりのグロテスクなほど赤い夕焼けに、そこだけ空が欠けているかのように真っ暗なシルエットを浮かび上がらせるビル。その屋上から降ってくるフェンスを。

 幸いにしてタスクは今達突き飛ばされ、フェンスの落下方向から外れていた。
 その代わりというようにタスク達を突き飛ばした男がその下にいる。
 呆気ないほどに一瞬だった。
 次の瞬間には男の体に深々とフェンスの角が突き刺さっていた。

 男は死んでいるように見えた。
 肩甲骨の間を中心に背中に突き刺さって倒れたフェンスは心臓を、少なくとも肺を貫通しているように見えたし、何より男は呻きも動きもしなかった。

「何で、何で山下さんがここにいるんだよ……」

 その男の方へフラフラと近付いていくのはタイチだった。
 どうやらタイチはその男を知っているようだ――いや、タスクも知っている。
 タイチは彼を山下さんと呼んだ。タスクは薄暗がりに倒れるその体をあらためて見る。
 うつ伏せに付して顔は見えない。それでもその姿には確かに見覚えがあった。
 タイチは男のそばまで行くとその横に跪いてその顔に触れる。

「救急車だ……、タスク! 救急車を」

 タイチは縋るような声でタスクの方を振り返る。
 タスクは携帯を出そうとして、ポケットに手を突っ込む。
 その中に入っていた、携帯ではない冷たい金属がふとタスクの手に触れた。

「何やってるんだ、トンちゃんでもいいから、早く救急車を! まだ……まだ……!」

「ダメだタイチ。山下さんはもう……死んでる」

 タスクにはなぜかそれが間違いないことが理解できた。
 まだ助かるかもしれない――そんなことは微塵も考えられなかった。

「そんなのタスクが決めることじゃないだろ!」

「認めろタイチ! もうどんな医者でも、その人を助けられない……。わかってるんだろ」

 タスクがそういうと、タイチは叫ぶような声を張り上げた。
 タスクはその横に静かに歩み寄る。そして、ポケットからライターを取り出した。

「タスク……?」

 タイチが聞き返す間もなく、タスクはジッポーに火をつける。
 炎は何故か赤ではなく、灰色をしていた。

「医者には治せない。でも、これは。多分、この火は、このことを、無かったことにできる。これはきっと、そうやって使うものだ」

 タスクの中の、タスクのものではない知識がそう告げる。
 自分にはそれができると。死を、なかったことにできる。
 この灰色の炎は、そういうものなのだと、タスクの中の何かが教えてくれる。

 タスクはタイチが止めるより早く、その火を男の体に灯した。
 灰色の炎はあっという間に男の全身に燃え渡った。
 人体がこんなに簡単に燃えるはずがない。
 この炎が燃やしているのは体ではない。今この炎は死、そのものを焼いている。
 目の前の死を、なかったことにしている。何故かタスクはそう確信を持っていた。

 灰色の炎は勢い良く燃え上がり、そして一瞬で消えた。
 火が消えると同時に、男の体からは傷痕がなくなっていた。
 辺りに流れ出した血も、跡形もなく消えている。
 そして、男は小さく呻いて、目を、開けた。

「山下さん? 嘘……生きて……」

「――タイチ、僕は……、いや、死んだよ。死を感じた。そうでなくとも背中にフェンスが刺さったのを覚えている。僕は、今、何をされた?」

 男はタイチの手を借りて起き上がる。
 恐ろしく冷静に自分の身に起きたことを把握しているようだった。
 タイチは男にタスクがしたことを説明する。
 といっても、タイチにもトンボにも、そして多分タスク自身、自分が何をしたのか、完全には理解していなかった。
 そんな何もかもわからないタイチの説明を聞いても、男は何か理解したように頷く。

「なるほど、つまり――僕は生き返させられた、ということか。君がやったんだね、タスク君」

 タスクは、今度は取り返しのつかないことをしたかのように蒼白な顔をしていた。
 そして、消え入るほど小さな声で、はい、と微かに答える。

「助かった、というべきではないのだろうね。まあいい。なるべくしてなったことだ。タスク君、君はいつ死んだ?」

 男はタスクを責めるように詰問する。

「あの、あなたは……」

 言ったのはトンボだった。
 トンボのその問いに、タスクもタイチも、そしてその男もようやくトンボの存在を思い出したような顔をした。
 トンボは男を不審げに睨んでいた。
 青い半そでの開襟シャツに、黒いスラックス。服装のニュアンスだけならタイチに近い。
 長めの緩やかにうねる髪の毛は栗色に近く、暗い色のレンズの丸眼鏡をしていた。
 胡散臭い外見なのだ、この男は。
 タスクは小さいころから知っているからあまり違和感を覚えないが、初対面では恐ろしく怪しく見えるだろう。

「ああ、これは申し遅れましたね。僕は山下と言います。山下勝彦(ヤマシタ カツヒコ)巡査部長。式部市中央交差点派出所勤務の警察官、そして――」

 男は胸ポケットから警察手帳を広げながら、タイチの方を目で見やった。

「オレの保護者――みたいな人」

 タイチはうんざりしたように顔を手で覆って言う。

「保護者、みたいな人?」

「血縁上はタイチの母方の叔父に当たります。あなたのことはよく聞いてますよ。篠塚トンボさん」

「よ、余計なこと言わないでよ、山下さん!」

 タイチが上擦った声で叫ぶ。山下は肩をすくめてはいはい、と頷いた。

「タイチの両親は彼が小さい頃に死んでいてね。今日まで十年間、二人で生きていくにはそりゃあ並々ならぬ苦労があったわけだよ。当時僕は高校生だったし」

 山下は確か、まだ三十にもなっていないはずだった、とタスクは思い返す。
 トンボはお互いに突っつきあう山下とタイチを見ていた。
 トンボも幼くして両親を失い、姉と兄と、三人だけで生きてきたと聞いたことがある。
 もしかしたら、何かその境遇に、思うところがあったのかもしれない。

「で、何故君達がここに?」

「それよりも山下さんがここにいる方がおかしいでしょ。その格好ってことは、仕事じゃないんでしょ。手帳は持ってるけど」

 山下の問いには答えず、タイチが聞く。
 それは当然の疑問だった。現れたタイミングからして都合がよすぎる。

「趣味、ということでは納得してもらえないんだろうね」

 当たり前だっつーの、と頭の後ろで手を組んで言うタイチに山下はため息を漏らす。

「まあいい、いずれにせよこれは一つの事件、ことによれば殺人未遂かもしれない大問題だ。三人とも、ちょっとこれから交番に来ていただきます。そこでお話ししましょう。何故僕がここにいたのか――そして」

 山下は眼鏡をただした。
 沈む夕日がレンズに反射してきらりと光る。

「ここでフェンスを君達に向かって落とした犯人について」

 タスクは濃い色のついたレンズの後ろにある山下の眼光を見た。
 研いだ包丁のように鋭い輝きを浮かべる色素の薄いその目を。



「はい……はい、ええ、お願いします。そうしていただけるとこちらも助かります。ええ、お礼は必ず……はい、では」

 蝶野カイコは生徒会室のイスに深くもたれかかり、ため息をつきながら携帯を膝の上に置いた。
 それはカイコの身内の病院からの連絡だった。
 何でも式部北高校の生徒が病院で乱闘騒ぎを起こし、その当事者として桜木ヨースケという生徒を引き取っているが、ひたすら謝るばかりで話にならないという。

 その乱闘には入院していた坂崎タスクも関わっていたらしく、現在その行方が知れない。 
 とりあえずカイコはコネでその騒動は内密にしてもらうように願い出た。
 幸いにして理解のある院長の配慮によりそれは聞き入れられ、カイコはこれから病院に謝罪し、ヨースケの身柄を引き取りに向かう。

「ハヤテ」

「すでにこちらに着替えの準備ができております」

 カイコがその名を呼ぶと、その手に持ったハンガーにかかったカイコの制服一式をハヤテは示す。
 カイコはイスから立ち上がり、ハヤテの目もはばかることなく、ネクタイをほどき、ブラウスを脱いだ。
 白い肌に少し汗が浮いているのは部屋の蒸し暑さのせいか、それとも電話の内容に肝をつぶしたためだろうか。
 ハヤテは下着姿のカイコに乾いたタオルを差し出す。
 カイコは無言でそれを受け取り、手早く体を拭いた。
 その上から皺ひとつない半そでのワイシャツと灰色のブレザーを着て同じ色のプリーツのスカートを穿く。
 そして、校章が入った赤いネクタイを結ぶ。

 式部北高校の制服――一年前の惨劇以来着用の義務がなくなった呪われた衣だった。
 それでも高校生が礼装をしようと思ったら制服がある以上は制服を着ざるを得ない。
 手鏡を取り出し、髪の毛の乱れを直す。
 唇に薄くリップを塗り直し、最後にソックタッチを塗って左右のソックスを揃える。

「行くぞ」

 ハヤテは無言でカイコが脱いだ服を畳んで袋に入れ、それと自分とカイコの鞄を持ち、生徒会室のドアを開けた。
 そこにちょうど、白衣の男が通りかかる。養護教諭の国栖だった。

「おう、蝶野、お前、今帰りか? 何だその――」

「――何だその格好、何で制服なんか着てるんだ、ですか。ちょっとした雑事ですよ。生徒が少し、騒ぎを起こしたようですから。お礼参りです」

「桜木はごめんなさい以外のことを言わねーらしいぜ。よかったな、ちょうどお前さんの家の傘下の病院で。普通なら――」

 学校側にも内密にするよう院長と折り合いをつけたはずの話を、すでに国栖は知っているらしかった。
 カイコはそれでも顔色を変えずに国栖の言葉を遮る。

「――停学ものの騒動、でしょうね。病院での乱闘騒ぎ。ソファが一脚壊れたそうですから、不問に処すことはできないでしょう。でも、あいにく乱闘が起きた病院は小野学院大学付属病院で、騒ぎを起こした生徒はこの学校の生徒であり、そして蝶野カイコは現在その学校の生徒会長で、小野学院大学附属病院の所属する小野宮グループ総帥小野宮蓮穣の長女なんです。私は生徒会長として学生の権利を最大限に保護します。権力を使って事件をもみ消すことだって、必要なら躊躇しません」

 国栖はうつむいて肩を揺すって下品な笑い声をあげる。
 カイコはその様子に眉一つ動かさない。

「いやぁ、流石に――」

「――やることのスケールが違う、これだからお金持ちのお嬢様は。あなたに言われる筋合いはありませんよ国栖先生、いや、国栖栄一郎元総理のお孫さんの方が適当ですか。それより、その話はどこから?」

「ったく、いちいちこっちのセリフを先読みするお前さんのしゃべり方は気に障るぜ。なぁに、あの病院にゃ、医学部の知り合いがいるんだよ。俺は、友達は大切にするタイプだからな。――親友を見捨てたお前さんと違ってな」

 にたりと国栖が歯をむき出しにして笑う。
 その言葉を聞いた瞬間にカイコのまとう空気が変わった。

「――失礼します。急いでいるので」

 カイコは頭を一つ下げて、国栖の前を通り過ぎた。

「気ぃ付けろよ、辺りはもう暗くなってるからよぉ」

 国栖はカイコの方も見ずに大声を上げる。

「――吸血ジャックが出るぜ」

 聞こえない程の声でそう呟き、国栖もその場を去った。

Monochrome: The Fire burns up The Death

2013.09.02.[Edit]
3 タスクはひたすらに走っていた。 走りながら思い出していた。『あいつ』に意識を乗っ取られていた間のことを。 ヨースケが連れていたあの子どもが何かを言った瞬間に、タスクの意識は『あいつ』に乗っ取られた。 あの声の主だ。頭の中で笑い声だけを残していく、『あいつ』。 そしてタスクは、タイチを殺しかけた。トンボの手に噛みついた。 二人はタスクをどう思っただろう。 嫌われた。きっと恐ろしい凶暴な人間だと思...

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 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。
 話によればそこが山下の勤務先らしい。
 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。
 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も多く、混み合っている。

 だからその派出所は、派出所という割には大きめの建物で、正面には式部市のゆるきゃらが警棒をかぶって交通安全のたすきをかけていた。
 山下が入ると、中にいた若い警察服の男性が驚いたような声をあげた。

「山さん、どうしたんですか? 今日は非番でしょう? 何か事件ですか」

「まあそんなところだね、ちょっと行き会いでばったり。調書を取るから奥を使わせてもらうよ。さあ、入って」

 山下が言いトンボ達は身の置き場に困ったようにおずおずと建物に入る。
 山下は奥へ、と指をさして示す。
 そのまま進んでいいものかと躊躇していると、タイチが先陣を切って進んだ。

「ほら、早く早く。お疲れ様です沢井さん」

「何だい、タイチ君が一緒ってことは――山さんもしかして、例の?」

 タイチが沢井と呼んだ若い警察は声を潜めて山下の耳元で言う。

「まあ、そうだろうね。大丈夫、君には迷惑かけないから。しばらく奥には誰も通さないでね」

 沢井は困ったようにため息をついて、はあいと子供のような返事をした。
 タイチの案内でトンボとタイチは派出所の奥の畳の部屋に通された。
 広さは四畳半ほど。真ん中にちゃぶ台があり、壁にテレビがかかっている。
 タイチは慣れた手つきで押入れから四つ座布団を出して、ちゃぶ台の周りに敷き、自分が一番奥の窓の前に座った。
 タスクとトンボはやはり迷うようにタイチの両脇に座る。
 そして入口に一番近い席に山下が腰を下ろした。
 いつの間に持っていたものか、その横に大きめのブリーフケースを置いた。

「では、改めて自己紹介をさせてもらおう。僕は埼玉県警式部市式部署中央交差点前派出所勤務の山下勝彦巡査部長です」

 山下は名刺入れから名刺を取り出し、タスクとトンボに差し出す。

「オレには?」

 タイチが不満そうに言うと、山下は苦笑して必要ないだろと答える。
 トンボはその名刺の肩書きに見慣れない単語を見つける。

「――霊能調査室、室長?」

 聞いたこともない部署だった。警察にそんな部署があるのだろうか。

「ん、ああ、まあ、ひとまずそれは置いておきましょう。すみませんが、一応これは先程のカササギビル――正式には小野宮建設株式会社所有のマユダマビルと言いますが、そこで起きたフェンス落下についての調書ということで記録させていただきます。失礼ですが、全員、お名前をフルネームで、生年月日、住所、職業を教えてください。それじゃあ、篠塚さんから」

「え、あ、はい、名前は篠塚蜻蛉、西暦2005年8月15日生まれ、十五歳です。住所は埼玉県式部市本郷423‐5 ラフォーレ式部202号室です。職業は、式部北高校一年生」

 山下はトンボが言うのとほとんど同じスピードで紙にトンボが言った内容を書いていく。
 そして次にタスクを指名した。

「坂崎亮、西暦2006年1月21日生まれ、同じく十五歳、埼玉県式部市小坂井382‐3 荻谷マンション805号室、職業も同じく北高一年生」

「山下さん、それオレも答えんの? 一緒に住んでるのに」

「君が答えたという事実は書類上重要なんだよ。いいから答えて」

「松木太一、西暦2005年4月10日生まれ、十六歳、埼玉県式部市上尾1874‐2 式部北高校一年生」

「式部北高校一年生、と。ありがとうございます。さて、本題に入る前に、僕が何故あの場に居合わせたのかという疑問から解消しておこう。月曜日に、カササギビルで騒動があった事件をご存知ですか?」

 山下の言葉に、タスクはピクリと身を震わせた。
 トンボはまたあの時のようにタスクがいきなり倒れるのではないかと心配になる。
 しかしタスクは机の上に置いた両手を不安げに組み直すにとどまった。

「確か、ボクは、人一人分の致死量の血だまりが見つかって、それを警察は吸血ジャックの犯行と判断し、周囲に警戒を呼び掛けていると聞いています。だから、北高でも放課後の居残りが禁止になって。陸上部は大会も近いのに」

 トンボが言うと、山下はフム、と自分の顔を鉛筆の頭でつついた。

「そこまで詳細に伝わっているのですか? 一応警察内部でも、この件に関して、吸血ジャックであるという判断は曖昧なまま可能性だけ残して捜査権は既に別の機関に移行し、外部に漏らさないように通達があったはずなんですが」

「あ、いえ、この話、実は、多分、ボクだけに特別に教えてくれたんです」

「ほう、それはどなたが?」

「蝶野、カイコ……生徒会長です」

「蝶野……ああ、彼女ですか」

 山下はその名前を聞くと、何かを考えるようにし、思い出したように言った。
 蝶野、ふうん、とその名前に何かあるようにしばらく繰り返しながら紙に何かを書き込む。

「彼女が、篠塚さんに特別に、教えてくれた、ということですか?」

「はい、あの、山下さんは、蝶野会長のこと、ご存じなんですか?」

「ええ、まあ、式部北は個性的な子が多いので」

「うわあ、聞いた? トンちゃん、警察の権力を使って女の子に目ぇつけてるんだって。トンちゃんも気をつけた方がいいよ。闇に隠れていきなりがばってこともあり得るから!」

 山下の言葉にタイチは下世話な解釈をしたようだった。
 山下は気にした風もなく、話を進める。
 無視されてタイチはやや憮然としているのがおかしかった。

「生徒会長は、いつそのお話を?」

「月曜日の朝、臨時のクラス委員会議が開かれて、その会議の最中ははぐらかした言い方で、会議が終わった後に話しかけて、そのことを聞きました」

「さすがに蝶野さんは動きが速いですね。警察がカササギビルの痕跡を発見したのが月曜日の午前三時、近隣学校には朝一番で勧告を出しましたが、それでもその朝に集会を開くとは。それに、その上で独自のルートでこの事件の公表されなかった部分を把握している、――優秀、というべきですかね」

 トンボは苦笑いをしてその言葉には賛同しなかった。
 実際カイコを優秀というのはトンボには躊躇いがある。

「ところで、タスク君とタイチは、今の話は――?」

「知ってます、月曜日のお昼休みに、保健室で……」

 答えたのはタスクだった。
 声ははっきりしていたが手は硬く組まれて、顔面は少し色を失っている。

「なるほど、しかし、それなら話は早い。実は、僕が今日あそこにいたのはまさしく、あそこで発見された痕跡というのが、真実吸血ジャックによるものかを調べていたからです。この件が吸血ジャック絡みの線があるということは、今のところ内密にしておかなければいけないことなんですが、知っているなら隠す必要もない」

「えっと、お仕事で?」

「ズバリ言うなら、趣味です」

 トンボの質問に山下は即答した。
 その答えにトンボはしばらく何も考えられなかった。
 タスクもタイチも何も言わず、空気が凍ったように場は静まり返った。

「えっと、それは――」

 トンボは何とか言葉を継ごうとした。
 山下はふ、と笑う。多分優しげな笑みを浮かべたのだと思うが、かけている丸いサングラスがその顔を恐ろしく怪しげな人物に見せていた。

「僕は、吸血ジャックの正体を追っていますが、それは警察としての職務ではありません。一派出所の巡査部長程度が調べることではない。僕は個人的にこの事件の真相を知りたいと思っているのです。ですから、鑑識がいなくなって、立ち入り禁止も解除された今日になってようやく現場に立ち入ることができました。何しろ個人で動いている以上この件に関して警察という肩書は使えませんからね。そして僕がビルを見聞している最中に、君達がやってきて、僕はしばらく影からその様子を見ていました。その時、屋上からフェンスが落ちてくるのが見え、咄嗟に君達を突き飛ばした、というわけです」

 さらりと言っているが――あの時確かにこの男は死んでいた。
 少なくともトンボにはそう見えたし、タスクもそう言った。

「……でも、山下さんは、警察官なんですよね。自分で捜査なんかしなくても、よくわかりませんけど、その、調書とか、見せてもらえばいいんじゃ?」

 トンボはおずおずと言った。
 山下を疑うわけではなかったが、信じられないのも事実だった。

「それができれば苦労はないんですがね、実は吸血ジャック事件は少し前からかなり厳格な秘匿捜査対象に移行したらしく、僕は今それを調べているのがどこの部署なのかも知りませんし、警察のデータベースに吸血ジャックの捜査ファイルは存在しない扱いになっているくらいです」

 山下が肩をすくめていうのに、トンボは戸惑いを覚える。
 データベースにファイルが存在しないとはどういうことだろう。

「つまり、この事件はデータベースからアクセスできない部分にその情報を収集し、これまであったデータも全てそちらに移行させたということでしょう。事実、表向きには吸血ジャック事件は今年の三月以降起こっていないことになっていますから」

 起こっていないことになっている――? トンボは山下の言葉を繰り返した。

「それらしい犯行は――、つまり今回のカササギビルのような、それと疑われるような犯行は各地で起きています。しかし、それらは全て、表面上は吸血ジャックのものとは関係ない事件として処理される。今回も篠塚さんは特別にそれを知った経緯がありましたが、この街の多くの人は、不審者が出たのだと思っているはずです。少なくとも警察はそういう勧告しか出していない。それに、マスコミも報道していないでしょう」

 そう言えばそうだ。
 吸血ジャックと言えば、一時期は新聞の一面を飾るような大事件だったのに。

「警察の捜査が秘匿捜査に移行すると同時に、マスコミにも大規模な報道管制が敷かれているようですね。――もっともこれは、あなたのお兄さん達の事件のせいかもしれませんが」

 山下の言葉に、今度はトンボがピクリと反応した。
 トンボは短く山下の名を呼ぶ。

「――まあそんなこんなで、僕がこの事件を追うためには、身を粉にして現場に赴き、自分の手と足と五感を使って調べざるを得ないということですね。ですから、信じられないことかもしれませんが、あの場に僕がいたのは本当に偶然なんです。しかし、君達の場合はどうでしょう」

 山下の声が少し下がった。

「君達三人は、あの場所で何をしていたんですか? ひょっとして、カササギビルの一件に関して、何か心当たりがあるのではありませんか?」

 トンボは目線だけ動かしてタスクの顔を見た。
 タスクはずっとうつむいて自分の組んだ手を見ている。
 タスクは手を見たまま言った。

「――言おう」

「タスク――!」

「隠していても始まらない。正直に言えば、警察の山下さんは、ボクを逮捕するかもしれない。病院でタイチを殺そうとしたのは事実だし。でも、もしかしたら、力になってくれるかもしれない。ううん、いや、逮捕されるなら、ボクはきっとその方がいいんだ。だってまた、いつ『あいつ』に乗っ取られて、タイチを殺しそうになるかわからないんだから」

 タスクは顔をあげた。その目は怯えているけれど、しっかりした意志が宿っていた。

「ボクの話を聞いてください――」

The Magician pursues Jack the Vampire

2013.09.02.[Edit]
4 山下はカササギビルの駐車場に車を乗り入れていたようで、そこに停めていた七人乗りのワゴンにトンボ達を乗せて、そのまま式部中央交差点前の派出所に向かった。 話によればそこが山下の勤務先らしい。 中央交差点は式部市の交通の要で、交差点をまっすぐ行った先にある駅は東京に向かう路線があり、そのすぐ横には大型の総合ショッピングモールがあった。 周りに広がるのが田畑のみの学校とは打って変わって、人通りも車も...

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――自殺、したんです。

 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。
 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。
 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。

「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」

 ああ、と山下は頷いた。

「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」

「はい……、コンクールの失敗がショックで……、なかったことにできればいいと思って、おまじないをしに学校に忍び込んだんです」

「ほう、おまじない、ですか」

 山下は興味深そうに眼鏡をあげた。
 タスクは小さくはい、と答える。

「七色不思議っていうのが、うちの学校には昔からあって。でも、途中で学校にいるのがばれて警報が鳴って、逃げ出したんです。それで、学校に忍び込んでいたこともばれたら、もうおしまいだと思って――ビルから飛び降りました」

「それは、君の記憶違いということは考えられないのですか?」

「記憶は――間違ってないと思います。間違っているのは現実の方なんです。ボクは確かに日曜日、学校に忍び込んで、七色不思議の儀式を行って、途中で警報が鳴って逃げ出して、その後にカササギビルの屋上から飛び降りたはずなんです。でも、学校で行った儀式の後も、ボクが自殺したという事実そのものも、なかったことになってるんです!」

 タスクの言葉は段々に大きな声になっていく。
 トンボが落ち着いて、と小声で言うがタスクにはほとんど聞こえていなかった。

「月曜日、ボクは起きた時は寝ぼけていて、生きてることを不思議にも思わず学校に行きました。その途中で日曜日のことを思い出して、でも今生きてるんだから、全部夢だったんだろうって、そう思って学校に行ったら、朝クラス委員の臨時集会が開かれて、そこでポケットから携帯を出そうと思ったら、その中に、これが、これがあって――」

 タスクは震える手で落としそうになりながら、山下にライターを差し出した。
 山下が問うまでもなく、タスクは興奮したまま続ける。

「このライターは、ボクがカササギビルから落ちた時、そこにあったものなんです。ボクは折れた手でこれを掴んで、それで――何かを見たと思うんです。でも思い出せなくて。でも、でも、このライターはボクのでも家族のでもないんです! ボクがこれを持ってるってことは、あの夢は、日曜日の出来事は、現実だったってことだから、それじゃあボクは、今のボクは一体何なんだって思って――」

「落ち着いてください、タスク君。タイチ、水を」

 タイチは言われるままに一旦部屋から出て、盆に水差しと湯呑を四つ乗せて戻ってきた。
 そして水差しの水を湯呑に注いで、タスクの前に置く。
 タスクは無言でそれを一気にあおり、ドン、と机に置いた。
 タイチは何も言わず二杯目を注ぎ足す。タスクはそれも一気に飲み干した。
 タイチは三倍目を注いで、それからトンボと山下にも水を勧めた。
 正直トンボはタスクを追いかけてから喉が渇いていたのでありがたかった。
 タスクは三倍目を半分ほど飲むと、湯呑を置いて、息を整えて話を続けた。

「気がついたら保健室で、ボクは自分の体を確認したんです。どこかに自殺して壊れたままの部分があるんじゃないか、いや、そもそもボクは幽霊で、足がないんじゃないかとか思って。でも、どこにも異常はなかったんです。そのうちにタイチと篠塚がお見舞いに来て、保健の先生にも見てもらったんですけど、やっぱりおかしいのは記憶だけで。その時に、篠塚から、カササギビルの事件のことを聞いたんです。ビルにあった血だまりは、ボクの血なんです! あの日、あそこで誰かが死んだなら、それはボク以外にはありえないんです! ――それで、その話を聞いた後、ボクは保健室で気を失ってしまったらしくて、そのまま救急車で病院に運ばれたんです」

「その病院は?」

「小野学院大学附属病院、カササギビルの近くの」

 山下は紙に素早く書き込み、続けてくださいとタスクを促した。

「それで、ボクは検査入院ということで、一日入院しました。その日の朝から、ボクの頭の中には、何かがいるんです」

「検査で何か異常が見つかったということですか?」

 違います、とタスクは首を振る。

「違うんです。検査では何も見つからなかったんです。そういう異常じゃなくて、頭の中から声がするんです。くすくす、くすくすって、頭の中に笑い袋があって、それが転がるみたいに。それで何かボクにはわからないことを言って、最初は小さかったのに、どんどん大きくなって――それでついに、ボクはその何かに、乗っ取られてしまったんです」

「乗っ取られた?」

 これ見て、と言ったのはタイチだった。上を向いて首を見せる。
 そこにはまだ赤黒い手の跡が残っていた。

「それは?」

「タスクにやられた」

 山下の質問にタイチはこともなげに答えた。
 タスクは即座にボクじゃない、と大声で言った。

「つまり、その頭の中にいる何者かに乗っ取られて、タイチを襲ってしまった、と?」

「――そうです。それで、ボクは恐ろしくなって病院から逃げ出して、いつの間にか、またカササギビルに来ていて、ボクはここで死んだんだって、じゃあ、今生きているボクは、タイチを殺そうとしたボクは、一体何なんだろう、何になってしまったんだろうって」

「それを止めたり励ましているうちに、山下さんがいきなりやって来たわけ」

 タイチがそう結ぶと、山下は、なるほど、と言ってまた鉛筆で自分の顎を突いた。

「で、どうすんの、こいつ」

 タイチは含みを持たせた言い方でタスクを顎でしゃくる。

「話を聞く限り、どうも山下さんの領分だと思うんだけど」

 タイチはにっと笑って言う。
その目は前髪の下で、わくわくしているような色をしていた。

「ああ、そうだね。僕も、何とはなしにそんな気はしていたんだ」
 
 山下もそれに含むところがあるように目を伏せて笑い返す。
 
「山下さん、タイチ?」

「どうやらこの事件は、霊能調査室の管轄に属するようだ」

 山下がサングラスを取って言う。サングラスはそのまま胸ポケットにしまった。
 メガネの下の目は、思いのほか怜悧で、刃物のような鋭さを持っていた。

「霊能――調査室、たしか、名刺にも書いてありましたね。何なんですか?」

 聞いたのはトンボだった。タスクは名刺の文字などほとんど見ていなかった。

「警察に存在する非公認の部署です。扱うのは主に心霊による犯罪。呪いによる殺人、憑き物による騒動、神隠しによる失踪、祟りによる災害――そんなものがあるわけない、と思っている人がほとんどでしょうが、実際こうしたものによる被害はことのほか多い。しかし、これらの存在は警察がその根拠となる法によって規定されている存在ではないので、公式には認めることはできません。だから、僕のような人間が、非公認にそれらの捜査を行い、場合によってはそれを駆逐する。霊能調査室はそういう被害専門の部署として、二年前に僕が作りました」

「――え? 山下さんが作ったんですか?」

「その通り」

 トンボはぽかんと口を開けて聞く。

「待ってください、この、霊能調査室は、警察は非公認、つまり、存在を認めてないんですよね」

「そうです」

「ってことは、山下さんが、個人の、独断で、勝手に、やってるだけなんですか?」

「そう言われると返す言葉がないのがつらいところですね。ええ、仰る通り。この組織は僕が個人的に、独断で、勝手に設立し、基本的に僕一人で運営しているのが現状です。部下や仲間がいるとは言えませんね。もちろん運営費も自費で行っています。おかげでタイチにはつらい思いをさせてしまっていますが」

 タイチが貧乏という理由は――そんなところにあったのか。
 これにはタスクも開いた口がふさがらなかった。

「それでも派出所の中では認められつつあります。最近は沢井君がこちらに相談してくれたり、部長も黙認していますから――」

「やめようタスク、帰ろう」

 トンボが強い調子で言った。そして答えを待たずに立ち上がる。

「飛んだ茶番だ。タスクは深刻なのに。タイチも見損なったよ。こんな冗談みたいなことを……」

 トンボはタスクを振り返った。タスクは相変わらず座り込んでいる。

「ほらタスク、帰ろう。今君に一番必要なのは――」

「――帰るなら、帰っていいよ」

 その言葉にトンボはタスクをじっと見つめた。
 タスクはやはり、自分の組んだままの手を見て、トンボの方は見ずに言う。

「ボクは、深刻なんだ。あの頭に響く『声』をどうにかしてくれるなら、非公認のなんちゃって組織だって構わない。ボクは、山下さんに調べてもらいたい。ボクは、ここに残るよ」

「タスク……!」

「帰るならどうぞ。この雨の中をお一人で帰るなら。確かご住所は本郷でしたね。ここからは、かなり距離がありますが」

 いつの間にか外は再び本降りの雨に見舞われていた。
 山下の言うように徒歩でここから家まではかなり遠い。
 そしてトンボには今手持ちの傘がない。
 トンボはやや憮然として座布団に座った。

「インチキみたいなことをしたら、止めてもタスクを連れて帰ります」

 トンボは強く山下に言う。
 結構ですよと山下は柔らかく笑った。

「まず、タスク君に憑いている存在の正体はほぼ特定できました。色鬼(シキ)という怪異です」

「シキ……?」

 タスクは繰り返した。色の鬼と書いてシキと読みます、と山下が言う。

「タスク君、君はどうやら本当に日曜日に死んでしまったようですね」

「何を!」

 トンボが思わず声を荒らげるのをタイチが制した。

「色鬼という怪異は、同じ読みで屍の鬼と字をあてられることもあります。屍とはつまり、死体のこと。色鬼とは畢竟、死体に取り憑いてそれを生き返らせ、周囲に害をなす怪異です。その点で言えば東欧の吸血鬼、中国のキョンシー、あるいはブードゥー教におけるゾンビなどと似ていると言えます。つまり、タスク君は実際日曜日にカササギビルで投身自殺を図り、一度死んで、その後に色鬼に憑かれ、蘇った」

「そんな馬鹿な……、だってタスクは――!」

 トンボが悲壮な声を上げたが、それもやはり黙殺される。

「そもそも色鬼の怪異というのは関西の山奥に伝わる非常に地方色の強いローカルな怪異です。僕もまさか、この街で出会うとは思わなかった。それとも、これはやはり吸血ジャックとの関わりがあると考えるべきなのかな」

 山下は独り言のように顎を触っていった。吸血ジャック、とトンボが聞く。

「吸血ジャックがなぜそう呼ばれているか、その理由はご存知ですか?」

 山下がトンボの方を見ながら言った。

「それは……、確か、見つかった死体は失血多量が原因で、あの切り裂きジャックみたいに夜陰に紛れて女性を襲うから」

 もっとも女性のみが対象だったのは本当に初期だけだったけれど。

「それが一般的な解釈ですね」

「違うんですか?」

「ええ、違います。吸血鬼の特徴の一つは血を吸うこと。これは篠塚さんが言ったように、死体から血が抜かれていたという指摘の通りです。しかし、吸血鬼にはもう一つその被害者に残す大きな特徴がある。吸血鬼に血を吸われた死体は、その後で生き返り人を襲う。吸血ジャックの被害者の特徴はその死亡推定時刻が常に被害者の生存が確認された時間より前、つまり、吸血ジャックに殺される前に被害者が死んでいたというありえない検死結果を伴うことです。吸血ジャックの被害者はみんな、蘇った死体であった可能性が高い。いや、こういうこともできる。『吸血ジャックは蘇った死者を殺すためにその死者を二度と生き返らないようにしている――』」

「そんなわけない!」

 トンボは両手でちゃぶ台を強く叩きつけた。

「これもタスクが真剣だからって我慢してたけど、もう耐えられない! 吸血ジャックは変態の恐ろしい殺人鬼で、その被害者は何の罪もない善良な人だ! 吸血ジャックが殺す前から死んでいたとか、でたらめを言うのもいい加減にしてくれ! ボクは帰る!」

 トンボはものすごい剣幕で山下に吐き捨てた。

「外は雨が――」

「知るか! 知ったことか! もうこんなところにいたくない! これ以上付き合い切れない! 帰るったら帰る! さよなら!」

「あなたのお兄さんが吸血ジャックに殺された、とは言っていませんよ、篠塚さん」

 山下が張りのある声で言った。
 トンボの動きがぴたりと止まる。

「……それ、どういう意味ですか」

 聞いたのはタスクだった。

「篠塚のお兄さんが殺されたって……どういうことですか? しかも、吸血ジャック? それも、……ボクの話に、関係あるんですか?」

「僕は大いに関係していると思っていますが。篠塚さん、あなたのお兄さんを殺した本当の犯人を探しているんじゃないですか? もしかしたらその人物は、もうあなたの身近にいるかもしれませんよ」

 トンボは振り返る。その顔にはすさまじい怒気がこもっていた。
 山下はその視線を受けても全くひるんだ様子を見せない。
 むしろ周りにいるタスクやタイチの方が気まずくなるほどだった。

「どうか座って話を聞いてくれませんか。吸血ジャックの真相を追う者の一人として、同じ志を持つ、いわば僕たちは仲間のようなものです」

「ボクが知りたいのは兄さんの死の真相と、タスクを元に戻す方法だ。……あんたが言う通りなら、ボクが知りたいのは吸血ジャックの正体じゃない。勝手に仲間にしないでください」

 それも結構、と山下は肩をすくめ、ため息交じりに言う。

「どうせあと三十分もすれば終わる話です。少しご辛抱願えませんか。僕としてもこの雨の中、傘も持たせずにに女の子を帰すのは忍びない」

 トンボは荷物をどさりと落として、座布団の上にドスンと座った。
 タスクはその様子に少し怯える。

「また幽霊とかそういう話を長々とするなら、今度こそ止めても帰りますよ」

 三度目はありませんよ――。山下はサングラスをただし、その手の下で静かに笑った。

Ghost Researcher

2013.09.02.[Edit]
5――自殺、したんです。 タスクはそう切り出した。自殺、と山下はおうむ返しに言う。 タスクははい、と頷いて、言葉を探すように組んだ手を組み直した。 壁にかけられた時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。「日曜日に、全国高校合唱コンクールの地区予選があって、ボクは、合唱部の伴奏者で――」 ああ、と山下は頷いた。「あの日、にですか? 君が、自殺を? カササギビルで?」「はい……、コンクールの失敗がショックで...

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「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」

 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。

「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」

 山下は薄く笑って答える。
 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。
 トンボにはこの男の真意が測れない。

「じゃあ――」

「あの」

 続けざまに真犯人について聞こうとするトンボの耳に、小さくタスクの声が聞こえた。

「話を邪魔するようで悪いんだけど……、式部北高校で、四人の生徒が殺害されている、って……何? そんなの、聞いたことないんだけど」

 おずおずというタスクを見て、トンボはしまったと思った。
 この事件は――この話は、知らない生徒には教えないようにカイコからも再三忠告されている事件だった。
 トンボは山下の顔を伺う。

「この際ですから、やむを得ないでしょう。それにタスク君は、もうその事件の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、彼に状況を説明する分、篠塚さんには再三にわたって聞かされた話をもう一度聞いていただくことになりますが」

「それは――まあ我慢しますけど」

 トンボはやや憮然として机に乗り出した身を下げた。

「では――、まず吸血ジャックという犯罪者について、過去の事件も交えてお話ししましょう。広域連続殺人及び死体損壊遺棄事件――通称吸血ジャック事件は、今年の三月までで全国各地で三十七件の事件が報告されていました。三月以降はどうやら警察内部での対応が変化したようで、この事件自体が秘匿されてしまったことから、僕が知りえる情報は今年三月以前の警察がまとめた情報であることをまず了承ください」

 そう言えば、山下は警察のデータベースから事件にアクセスできなくなったようなことを言っていた。
 トンボはそれを思い出す。

「三月までの三十七件のうち、死亡――つまり殺人は九件。残りの二十八件は未遂に終わっています」

「未遂、ってことは、生きてるってことですか?」

 タスクの質問に、山下はその通りですと答えた。

「吸血ジャックの殺人の大胆にして残忍なところは、被害者が外に助けを求められないようにし、動けなくした上で、恐ろしく時間をかけてその命を奪う点です。まず凶器ですが、鋭く細長い刃物――小刀のようなものを使っていることが判明しています。それでまず被害者の喉、声帯をはさんで二か所を刺し抜くことで、声を出せなくします。これがまるで、吸血鬼が血を吸った跡のように見えることも、この殺人鬼にその名がついた所以の一つです」

 山下は右手の人差し指と中指で首筋を二か所押さえながら話した。
 確かにそこに穴が開いていれば、吸血鬼に血を吸われたように見えるかもしれない。

「その上で多くの被害者は太ももの大動脈叢を同じような道具でめったざしにされています。ここを貫かれれば、大抵の人は痛みで歩けませんし、そのまま放置すれば、失血多量で三十分もかからずに死に至る。逆に言えば三十分近くは意識があるということです。そして、死に瀕する被害者を前に、吸血ジャックは問いを出すらしい」

「問い?」

 聞いたのはトンボだった。

「内容はどうも全ての事件で違っているようですね。ただ、二者択一の問題で、非常に答えにくい問題ということは共通しているようです。例えば、『あなたの息子は成長して確実にあなたを殺すことをあなたは知っている。あなたはその息子を殺されることを承知で育てるか、それとも息子が小さいうちに殺すか。人殺しを出さないようにするためにはどうすればいい』というような問題が多い」

「それに外れた人を殺しているってことですか?」

「いいえ」

 トンボが聞くと、山下はそれを否定した。

「吸血ジャックは自らの問いかけに、どちらかを選んだ人間は見逃し、救急車を呼んでいます。つまり、殺された九人はその問いに答えなかった人間、ということだと思います」

「そんな――! だってそんな問題、答えられるわけない!」

 それができない人間が死ぬなんて、あまりにひどい話だ。

「ボクは――その問題、答えられない」

 静かにタスクが口を開いた。
 トンボも山下もそちらを見た。

「ボクは、自殺した人間だからわかる。ボクは、自分の生きる理由を否定した。自分が生きることに価値を見いだせない。だから、息子を育てて、自分が殺されるとしてもそれはそれでしょうがないと思える。でも、そんなボクを殺すことで、自分の息子が殺人犯という烙印を押されて生きるなら、息子がかわいそうだ。その問題の正解は――息子は他人に預けて、自分が死ぬ。そうすれば、人殺しは生まれない」

「――正解です。タスク君」

「そして、この答えに至る人間は、もう死んでいる人間ってことでしょ?」

「タスクは死んでなんていない!」

 トンボは怒ったように言う。

「タスク君が正しい。この問いは、死んでから生き返った人間と吸血ジャックのみに理解できる問いで、吸血ジャックは生き返った死者と思われる人間を瀕死の状態にし、その上で問いを突き付けることで、生者と死者を鑑別しているものと思われます。死にかけの人間は何よりも生きたいと望む。生きたいと望む人間は必ずどちらかを選ぶ。しかしこれらの問いは絶えず自らが死ぬという選択を選んだ場合にのみ、誰かが殺人をするという結末を回避できる問い立てです。そして、生き返った死者は、自ら死ぬことを望み、吸血ジャックの問いに答えず、死を選ぶ。その後吸血ジャックは呪術めいた装飾を死体に施して去って行きます。その死体を検死してみると、死亡推定時刻には必ずその被害者が生きていたという証人や証言が出てくる。つまり――」

「吸血ジャックは、生き返った死者を、生き返らないように殺している」

 タスクが言った。
 トンボはその結論に奥歯をぎりりと噛みしめた。

「そんな、そんなことって――」

「あなたが怒ることはないのですよ篠塚さん。さっきも言ったように、この吸血ジャックはあなたのお兄さんを殺した人物とは別人なのですから」

「……わかってます。それだって、気持ちいい話じゃないでしょう」

 実際山下の説はまるで吸血ジャックがタスクのような人間を救済していると言っているように聞こえてトンボには不愉快だった。
 もちろん違うのだとわかっていても、兄もその一人に数えられているような気がして腹立たしいこともあった。

「ところで、今吸血ジャックに殺された人は九人と言いましたが、その内四人が、君たちの通う式部北高校の生徒で、去年の五月から十二月の間に、連続的に殺されたことから、その事件を別個に式部北高校生徒連続殺害事件と呼びます。女子生徒三人と、男子生徒一人、つまり、篠塚トンボさんのお兄さん、篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)さんが殺された事件です」

「ってことは、山下さんはさっきからそのトンちゃんのお兄さんを殺したのは別人だって言ってるんだから、吸血ジャックが殺したのは実際には八人ってこと?」

 それまで黙っていたタイチがひらめいたように口を開いた。

「いいえ、式部北高校生徒連続殺害事件で、四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません。いわば、もう一人の吸血ジャック、と言ったところかな」

「もう一人の吸血ジャック……?」

「しかし、吸血ジャックがこの事件に関与していないというわけではありません。どうやらこの事件は二重の犯罪である、と僕は推測しています」

「どういう……」

 トンボの疑問に山下はちゃんと一から説明します、と言ってケースから一つのファイルを取り出した。
 もうかなりボロボロに擦り切れていて、貼られた付箋もくたくたに折れ曲がっている。
 表には式部北高校生徒連続殺害事件と書かれていた。

「まず最初の事件は去年の五月に起こりました。ちょうどゴールデンウィークが明けた頃です。殺されたのは一年生の早田明美さん。彼女の死体は両手両足をバラバラにされ、君たちが通う式部北高校で全て別の木に針金で括りつけられていたようです」

「ちょっと! ……やめてください、そう言うことを言うのは」

 トンボは思わず山下を止めた。
 この事件で死んだ人間の死を詳しく聞かされるということは、つまるところが兄のそういう姿を克明に聞かされるということだ。
 それは到底トンボには耐えられない。
 山下は意外にもわかりました、とすんなりとそれを受け入れた。

「この陰惨な犯行現場と、あちこちの施された悪趣味な呪術的様式から、警察はこれが当時世間を騒がせていた一連の殺害死体損壊遺棄事件、つまり吸血ジャック事件の可能性ともう一つ、それが学校関係者による可能性で捜査を行いました。そして約一月後の六月に三年の潮ヶ浜夜さん、その二十日後に二年の曽根百合子さんが同じく陰惨な死体となって学校で発見されました。それから半年近く間を開けて、篠塚アゲハさんが、クリスマスのその日に、学校で遺体となって見つかりました」

 トンボは何も言わなかった。
 ただ、その当時のことを思い出していた。トンボはその日何も知らなかった。
 兄がずっと楽しそうに、クリスマスを心待ちにしていたことだけは覚えている。
 兄が楽しそうだから、トンボも無条件にその日はきっと何かいいことがあるに違いないと思ってうきうきしていた。
 兄はその前日、学校から帰ってこなかった。
 トンボは別に不思議に思わなかった。
 兄が生徒会の役員だということは知っていたし、どうせまた同じ役員の友達の家にでも泊まっているのだろうと思っていた。

 何も心配していなかった。心配する要素など一つもなかった。
 ただ、その日はひどく寒い日で――通学するトンボの耳にはいつもよりパトカーや救急車のサイレンが騒がしいように聞こえていた。
 あるいはそれが予兆だったのかもしれない。
 トンボの通う中学校に連絡があったのは昼で、姉が迎えに来たのはお昼休みが終わるころだった。

――そうだ、これは兄の用意した本当に大がかりなドッキリなのだ。
 トンボはこのまま姉と一緒にどこかに連れて行かれて、そこで兄がネタ晴らしをする。
 姉さんったらなんて顔をしてるんだろう。
 兄さんもこんなわざとらしくしたらバレバレなのに。
 いつ兄が出てくるんだろう、ドッキリ大成功の立札はどこに現れるんだろう、トンボは祈るように震える手足を励ましながら、おぼつかない足取りで病院に行った。
 病院に本当に霊安室があることを知ったのはこの時だった。
 姉が入り、顔色を失って出てきた。入ろうとするトンボを姉は抱きしめて止めた。
 トンボはついに、兄の、アゲハの死体に面会することは叶わなかった。
 姉がそれを許さなかったのはそれが見るに堪えない姿だったからだと今はわかる。
 最後に見た兄は、骨になっていた。
 高温で焼かれ、すすけた灰色の骨の一片に。

 それから警察に事情聴取という名の尋問を受けて、そこでトンボは断片的に兄が殺されたということと、それがどうやら巷で言う殺人鬼、吸血ジャックによるものらしいということを知った。

「それで――」

 トンボの口から出たのは、そうした兄の死にまつわる様々なとてつもない感情ではなかった。

「山下さんが、吸血ジャックが兄を殺したのではないと考える根拠は?」

「状況的なことから言えば、この事件以外の吸血ジャック事件とこの事件には異なる点が多くあります。まず最初に言ったように、死亡推定時刻と生存の証言に関する矛盾が見られないこと。これは通常の殺人事件であればむしろそれが当たり前ですが、吸血ジャック事件としてみるなら異常です。全ての被害者はどうやら殺されたその日に死んでいる。そしてもう一つ、篠塚アゲハさん以外の殺された女子生徒三人に、性的暴行の跡がありました。これが吸血ジャック事件と決定的に違うところです。吸血ジャックの被害者はそもそも女性が多いですが、その中に殺害された人も、未遂で終わった人も含め、性的暴行を加えられた被害者はこの事件の三人の少女以外に一人もいません。さらに殺害の方法も違う。この四人は絞殺されています。吸血ジャックの殺し方ではない」

「でも、死体は吸血ジャックが飾ったようだった」

 トンボの言葉をその通り、と山下は受ける。

「このことから二つの可能性が考えられます。一つは吸血ジャックの模倣犯の可能性、あるいは殺害した後でそれを吸血ジャックの犯行に見せかけ、自分を被疑者から外すための工作として死体の損壊を行った。そしてもう一つは――誰かが式部北高校の生徒を殺害した後に、本物の吸血ジャックが現れ、その死体を装飾した」

「普通は模倣犯の説を疑うよなぁ」

 タイチが頬杖をついて言う。

「山下さんは、犯人が二人、つまり誰かが殺した後に吸血ジャックが現れた、という可能性を確信してるようですが」

 タスクが聞いた。その目は疑念に満ちている。

「まず、どうして模倣犯が考えられないのか、ということから説明していきましょう。これは死体損壊の手法が吸血ジャック以外には考えられないからです」

「どうして……?」

「吸血ジャックは生き返った死者を生き返らないように殺す、と言いましたね。でも、これは正確な言い方じゃない。吸血ジャックは『色鬼が蘇らせた人間』を再び殺して、二度と生き返らないように封じる術式でその死体を損壊しているのです」

――また色鬼。

「でも、だったら余計に、北高で殺された人たちはそもそもその……色鬼に蘇らされた人じゃないんだから、それを吸血ジャックが色鬼を封じる術式で損壊するのはおかしいんじゃないですか?」

 タスクの疑問はもっとものようにトンボにも思えた。

「そこで出てくるのが――これです」

 山下が出したのは二枚の紙だった。一つには何かの魔方陣のようないくつかの大小の縁が連なり、その内側に文様のある図像。もう一つはどこかの地図――いや、トンボたちが通う式部北高校の見取り図のようだった。

「これはさる神社の曼荼羅です。太虚空巣大曼荼羅図(たいこくうそうだいまんだらず)と言います。そしてこっちは君たちが通う式部北高校の地図です」

 たいこくうそう、と呟きながらトンボは曼荼羅を見る。真ん中に大きな円があり、その周囲に小さな円が配置してある。
 小さい円の中の模様は全て違っていて、全部で十二個あり、六角形の頂点をなす位置に、左右対称に配置されていた。
 大きな円の天辺に三つの小さい円が三角形を作って接している。
 そこから左右の両肩の位置に二つずつ、両足の位置に一つずつ、そして底の部分には三つの小さな円が今度は逆三角形に並んでいた。
 真ん中の大きな円はその中の左隅にもう一つ円を内包していて、そこには中央に黒い丸があってそこを中心に螺旋を描く太い線が描かれていた。

「学校の南側三か所に、バラバラにされた早田明美さんの体がありました。左足は南東の桜の木に、右足は南西の枝垂れ桜の木に、そして彼女の本体は真南に位置する椎の木にくくりつけられていました。彼女の胸には三つ穴があけられていて、そこには折られた木の枝が三つ、生えるように突き刺さっていた――」

 山下は学校の見取り図のその死体の一部が見つかった位置にそれぞれ右足、左足、尾と書きこむ。

「そして北西のプールでは左腕の関節を全て砕かれ、首に巻きつけるようにして潮ヶ浜夜さんが見つかっています」

 さらに右肩のプールに左翼と書く。

「北東の体育館裏の壁には右腕を磔にされた曽根百合子さんが、そして北にある花壇で見つかった篠塚アゲハさんは両目が抜かれ、眉間の間を貫かれていました」

 トンボは耳を塞ぎたかった。そんな悲惨な兄の姿を、想像するのさえ嫌だったのに。
 体育館には右翼と書き、さらに学校の一番上にある花壇に目と書いた

「この魔方陣は、ずっと昔にその神社の神主が、そこに祭られる神様を『捕まえる』ための魔方陣だったと伝えられています。その神は一説によると太虚、あるいは空の巣と書いてカラス、そのまま鴉とされることもある。『鴉は三眼四翼、二足三尾にして、その身は暗く、十二の色を持つ』――四人の被害者の死体はそれぞれ、この鴉の姿を現している」

「太虚――」

 タスクが小さく繰り返した。

「色鬼とは、その鴉のしもべであり、鴉のために人柱を築く怪異と伝えられています。つまり、吸血ジャックは、式部北高校に出た四人の生徒の死体を使って、色鬼と鴉を捉えるための結界を張ったと考えられます」

「――でたらめだよ! 馬鹿馬鹿しい!」

 トンボは吐き捨てるように言い、頭をがりがりとかいた。

「一見つじつまが合っているように聞こえるけど、ボク達にしてみれば、そんなカミサマだか幽霊だかがいるって話自体がでたらめかどうかもわからない! 大体、何で吸血ジャックがそうまでして学校に結界なんて張らなくちゃいけないんだ! そんな、色鬼だとか、鴉だとか、全然うちの学校と関係――」

 トンボはそこまで言いかけてごくりと唾を飲む。対面からあるよ、と小さな声がした。
 見るとタスクが目を見開いて虚空を見つめていた。
 その曼荼羅の大きな円の中の螺旋の中心。全てを巻き込んで沈んでいく虚空を。

「式部北高校の生徒で、色鬼に取り憑かれているのは、ボクだ。じゃあ、吸血ジャックは、ボクを――」

「違うってタスク、それは全部、この人の自作自演――!」

 トンボは慌ててタスクを止めた。

「でも、山下さんの説明で全て解決する! 吸血ジャックは色鬼に憑かれてよみがえった人間を再び殺す殺人鬼! その吸血ジャックが色鬼を封じるための魔方陣を学校に張っていて、その学校の生徒であるボクが今、色鬼に取り憑かれている――他にこの状況をどう説明するっていうんだ!」

 タスクが強い調子で言う。トンボは反論できなかった。
 それが全て山下の自作自演による作り話という以外、タスクの自殺とこれまでの不可解な事件、さらにはトンボの兄の死まで含めて、一つのストーリーに収まってしまう。

「……確かに、吸血ジャックが北高で死んだ四人の死体を損壊した犯人である可能性が高い、それは、模倣犯は考えられない次元で、吸血ジャックのこれまでの犯行と合致している、それは千歩譲って納得しました。でも、ボクの質問に山下さんはまだ答えてませんね」

「――真犯人は誰か、ということでしょう」

 山下はにやりと笑う。

「早田明美殺害時から、捜査線上に浮かんでいたのは、学校内部の犯行――つまりこれが、生徒によるものではないかという疑惑でした。その結果、重要参考人として挙がったのが、式部北高校生徒会六十二代生徒会の四人、生徒会長神楽崎弓枝(カグラザキ ユミエ)、副会長萩原充(ハギワラ ミツル)、書記小野宮蚕(オノミヤ カイコ)、そして会計――篠塚揚羽(シノヅカ アゲハ)でした」

 トンボは言葉を失った。

――そんな、兄さんが、人殺しの犯人として疑われていた?

「生徒会長の神楽崎ですが、彼女は当時学外で暴行を振るっていて、何度か僕も彼女を補導しています。調べてみればどれもこれも彼女には非がない、というより、相手が麻薬の売人だったり、痴漢だったり、売春の仲介業者だったりと、彼女なりに正義を貫いた結果として、暴力沙汰になったという事件が多かったと思いますが、実際彼女は相手に全治一か月の重傷を負わせたという事例もあります。さらに彼女はいわゆるバイセクシュアルであり、そちらの方面では進んでいたという話もあります。もしかしたら女子生徒と痴情のもつれから殺人に発展した可能性が当初からささやかれていました」

 山下はさらに続ける。

「副会長の萩原ミツルは当時二枚目副会長として有名でした。いや、そもそもこの六十二代生徒会は美男美女ぞろいということでそれなりに学校内外では話題になっていた。アプローチしてくる女子も後を絶たなかった。また彼はオカルト関連に興味を持っていたという記録があります。ならば可能性は低いこととはいえ、吸血ジャックの犯行が色鬼封じのものだと気付いて、いや、いなかったとしてもそれらしく見せかけることができたかもしれません」

「あんたさっき、死体を損壊したのは吸血ジャック本人だって――」

 山下はトンボの発言を無視し続ける。

「書記の小野宮カイコ、今は蝶野と名乗っているようですが、彼女は日本有数の大企業、小野宮グループの総帥小野宮蓮穣の長女です。今日タスク君が行っていたという小野学院大学付属病院も小野宮グループのもの。さらに――カササギビルは小野宮グループの小野宮建設が所有していたビルです。彼女はアゲハさんが殺されたのちに名前を蝶野と改めている。大企業の娘が連続殺人のあった学校に通っていたというのはマスコミのスクープの種になるからと本人は言っていますが、それが犯行に小野宮家が関与していたことを隠すためのものだとしたら?」

 次々と不審な点を挙げていく山下。
 トンボは頭の中でありったけの否定をその疑惑にぶつける。
 兄がそんなものに加担していたわけがない。
 兄がそんなことするはずがない。

「でも、でも、兄さんは――兄さんは潔白のはずだ!」

「そう、それ故に殺されたのだとしたら」

 山下の宣告にトンボはもう返す言葉がない。

「式部北高校生徒連続殺害事件が生徒会の四人が行った集団私刑事件だったら話は簡単です。痴情のもつれから神楽崎ユミエは早田明美を殺してしまい、その犯行を潮ヶ浜夜と曽根百合子に見られた。萩原ミツルが吸血ジャックの犯行に偽装することを思いつき、小野宮カイコがその金と権力を使って偽装工作をする。そうして三人を次々に殺していく中で、篠塚アゲハは良心の呵責に耐えかねて犯行を自首しようとし、結果三人に殺害された」

「――仮定の話だ!」

 トンボは叫んだ。

「そう、仮定の話です。証拠は何もない。だからこそ、僕は今回、タスク君の事件がもしかしたら半年前のこの事件を解くカギになるのではないか、と期待しているんです」

「――期待?」

 肩で荒く息をしながらトンボは苛立ちのこもった口調で聞く。

「犯人だと疑われていた小野宮カイコは現在生徒会長としてまだあの学校に残っている。彼女が君にカササギビルの件は吸血ジャックかもしれないと言ったと言いましたね。ならば彼女は同じように連絡を取っているかもしれない。神楽崎ユミエと、萩原ミツルに。もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。この事件の犯人は本物の吸血ジャックについて何かを知っている。逮捕できればそれが聞き出せるし、いやいや、もしかしたら本物が現れる可能性も――」

「ふざけるな!」

 トンボは両手をちゃぶ台に叩きつけた。
 時間差でじいんと痛みが伝わってくる。

「タスクが、こんなに悩んで、必死な時に、あんたそのタスクを利用して――」

「こんなに繰り返しても、まだお分かりじゃないとは。いいですか、そこにいる、彼は、坂崎タスクの抜け殻です。本物は日曜日に死んでいる。そこの彼は、ただの死体だ。息もすれば言葉もしゃべるし、記憶もタスク君と共有しているが、彼はもう坂崎タスクじゃない。色鬼という怪異によってよみがえった化け物、灰音だ。化け物退治に化け物を利用することがそんなにいけないことで――っ!」

 ぱちんと音が響いた。山下の頬を叩く音だった。
 叩いたのはトンボではなかった。タイチだった。
 トンボは唖然と口を開ける。
 タイチはそのまま山下の襟首を掴んで立ちあがった。

「山下さんには世話になってるし、そのことは感謝してるけど、オレの、友達を、化け物呼ばわりするな。それは、それだけは許さない」

「はは、涙ぐましい友情だねタイチ、君は今日彼に殺されかかったんじゃなかったかな?」

「タスクがオレを殺すわけない。もしそんなことになりそうになったら、なる前に止めるのがオレの保護者としてのあんたの責任だ。あんたの仕事は幽霊の被害に困っている人を救うことだ。霊能調査室室長なんだろ」

 それはトンボがこれまで聞いたことのない、タイチの本気の怒りの声だった。
 低く、太く、威圧的な声。
 山下はそれにへらへらとした笑みを消し、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、タスク君、と呼んだ。
 タスクはハッとしたようにそちらを向く。

「君にこれからいくつかの知恵を授けよう。色鬼灰音は君の自我を乗っ取り、タイチを殺そうとしている」

「……は、はい」

 目の前で行われている会話についていけずに呆然としていたタスクは、急に話を振られて戸惑っているようだった。
 タイチは山下のその様子にひとまずは掴んでいた襟首を離す。

「色鬼――というより、大概において、この世ならざる者が人を殺すにはいくつかの段階があるものでね。それは今日君が灰音に乗っ取られてタイチを殺しそうになったことや、君自身が意志によって彼の力を利用し、僕を生き返らせたことからも明らかなように、今君と灰音は、君の肉体の主導権を綱引きし合っているようなものだ」

 要するに、と山下はケースを開ける。

「これから灰音は君の自我を乗っ取り、完全に掌握しようとして来るはずだ。おそらくこの一週間のうちに決着をつけに来るだろう。だから君は学校の外でタイチと二人っきりになる状況を避けること。これがまず第一の予防線になる」

「学校の外で、って、学校の中ではいいんですか」

 タスクは不安げに聞いた。

「不安は消えないが、大丈夫ではないかと思っている。それは、篠塚さんには聞き苦しいことかもしれないが、吸血ジャックが張った結界があるからだ。僕はこれが確実に機能しているものだと思います。もっとも、タイチかタスク君を学校に通わせないという手段が一番確実と言えばそうなんだが、正直な話、タスク君はできるだけ学校にいた方がいい。おそらくこの街で、色鬼から逃れられる場所があるとすれば、それは今のところ学校以外に考えられません。多分色鬼が出るとしても、この円からはみ出る校門より内側には入ってこれない」

「仮定の話、なんですよね」

 タスクは念を押すように聞いた。

「仮定というなら全て仮定だ。君が死んだ、というところからね。そして、最後の砦に、この振り子を君に預けておこう」

 そう言って山下はポケットから紫がかった水晶の振り子をタスクに渡した。

「これは紫水晶の振り子と言ってね、件の神社に伝わる、鴉を捕まえる際にその体を縛ったとされる数珠を模したものだ。多分、色鬼や他の災いが訪れる前兆を君に教えてくれる。これを首にかけて肌身離さず持っていること。今はそれが精いっぱいだ。君から色鬼を落とすのはもっと専門の霊能力者が必要になる。僕はこれでも素人だからね」

 そして二人には――と山下はタイチとトンボを見た。

「そこまでタスク君が大事と言っているのだから、なるべく彼の様子には気を張っていた方がいい。少しでもおかしなことがあったら、すぐに僕に知らせること。タイチはタスク君に襲われそうになったり、近くに灰色の炎が見えたりしたらすぐに逃げること。それで全部だ。今僕らにできることは」

 山下がそう結論するのを見計らったようにそっとふすまを開けて沢井の顔がのぞいた。

「すいませぇん、山さん、自分もう終業とっくに過ぎてるんスけど、その、まだかかりますかね」

「――というわけで皆さん、長々とお話に付き合っていただきましたが、今日はこれにてお開きにしたいと思います。僕が送っていくから、タイチ、二人を車に案内して、僕はここを元に戻していくから。悪かったね沢井君、今終わったところだ」

 沢井はほっとしたような顔を浮かべて、お疲れ様です、と何故か一礼した。
 タイチはいつものように間延びした返事をして、投げ渡された車のカギを受け取った。
 タスクは大切そうに振り子を握り締めている。
 トンボは――何だかひどく頭を使った気がして、何も考える気になれなかった。

 トンボが家に着くと、もう十時近くなっていた。
 メールを確認すると、姉から今日も帰れないという内容が届いていた。
 トンボはとにかく服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて汗を流した。
 それだけやると、電気もつけずに部屋のベッドに倒れこむ。

 兄を殺したのは吸血ジャックじゃない――。
 仮定の話だったけれど、聞き捨てならないことだった。
 そして。
 兄を殺したのは兄が誇りを持って所属していた旧生徒会のメンバーかもしれない――。
 トンボはそれを断固として否定する。
 そんなはずがない、と強く思った。いや、そうであってはならないと思った。

 吸血ジャックがタスクを殺しに現れるかもしれない――。
 そしてタスクは、悪霊に操られて人殺しになるかもしれない――。
 タスクのことだから、そうなる前にまた自殺してしまうのではないか、とトンボは少し心配になる。

「……そう言えば、……ヨースケ先輩はあの後どうなったんだろう」

 あの病院での騒動。大事になってなければいいのだが。
 徐々にトンボの上と下の瞼は距離を縮める。
 とにかく、明日、朝練のときに、聞いてみよう、病院のこと、去年のこと――。
 小さな部屋に小さな寝息が静かに響いた。

Who killed Butterfly?

2013.09.02.[Edit]
6「単刀直入に聞きます。兄を殺した犯人は、吸血ジャックじゃないんですね」 トンボはちゃぶ台に手を乗せて山下に詰め寄る。「――はい。あなたのお兄さんを殺したのは、いいえ、式部北高校で四人の生徒を殺害したのは吸血ジャックではありません」 山下は薄く笑って答える。 それは嘘を言っているともとれる飄々とした様子だった。 トンボにはこの男の真意が測れない。「じゃあ――」「あの」 続けざまに真犯人について聞こうと...

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