Wednesday in June

Index ~作品もくじ~


 
【水曜日】



 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。
 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。
 一分一秒でも無駄にはできない。
 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。
 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。

 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。
 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備していた。
 式部北の陸上部は男女混合だった。
 部員は一年から三年まで合わせても二十人に満たない小さなものだった。
 それでもこの式部市にある高校ではトップクラスの成績を残していたし、歴代の成績の中には全国大会で優勝した記録もあった。

 トンボはその中で一年の期待の星として一目を置かれていた。
 女子の短距離走では最速で、男子の記録と比較しても負けずとも劣らないほどだ。
 そして現在、陸上部でエースを務めているのは二年の桜木ヨースケだった。
 二百メートルで二十秒台を記録している。
 これは世界クラスの記録としても通用する好成績だった。
 選手としても一途な気持ちで懸命に練習に励み、後輩のいい模範となっている。
 明るく社交的で優しい性格もあり、後輩からは慕われ、先輩からは頼りにされる存在だった。

 グランドを整備する生徒の中に、トンボはヨースケを見つけ、そのそばに駆け寄った。
 まず最初に昨日のことを謝ろう。そして次に――。
 心の中で段取りを考えているうちにヨースケの方がトンボに気付き声をかけた。

「よぉ、トンボ。今日はちょっと遅かったな」

 ヨースケはいつも通りの大きな笑みを浮かべて言う。

「ぼ、ボクがやります。それより――」

 トンボはヨースケからグランドレーキを奪って昨日のことを聞こうとした。

「昨日のことか? まあ何とかなったっつーか、何とかしてもらったっつーか、大事にはならなかったみたいだな。警察も呼ばれなかったし。会長さんに感謝だな」

「どうも、すみませんでした。……でも、会長、って、蝶野会長ですか? あの人が何か?」

「何かあの人、すっげー大物らしいな。あの世界の小野宮の社長の娘なんだとか。それであの病院も会長の親のグループの傘下なんだと。そのコネでいいように取り計らってくれたみたい。おかげで助かったな。警察とか呼ばれてたら、進路に差し支えるし。大会も出られなくなるかもしれないと思ってたから、本当に俺は運がよかった」

――蝶野カイコが。事件をもみ消した? 
 トンボの脳裏に昨日の山下の言葉が過ぎる。
 蝶野カイコは式部北高校生徒連続殺害事件の容疑者の一人かもしれなくて。
 兄を殺した真犯人は、カササギビルの件を知り動き出すかもしれない、と山下は言った。
 そこに吸血ジャックに狙われている可能性のあるタスクの起こした事件のもみ消し――?
 トンボにはそれが単なる偶然とは到底思えなかった。

「トンボ? どした? 手が止まってるぞ? まーショックだろうしなぁ。俺としては坂崎と松木のその後の方が心配なんだけど。あの二人大丈夫か? 何かケンカとかしてない?」

「あ、いえ、……そんなことはありませんけど」

「そっか、よかった。友達は仲良くするのが一番だからなー」

 その様子を見てトンボは心を決める。

「あの! 先輩!」

「んー?」

 ヨースケは後ろを向いたままアキレス腱を伸ばすストレッチをしている。

「去年、この学校で起こった――殺人事件のことで、……何か知ってることは、ありませんか」

 ヨースケは今二年生、転校生という話も聞かないから、多分この学校に去年もいたはずだ。
 ならばその事件当時のことを知っているに違いない。
 ヨースケはトンボの質問を聞いてしばらく止まった。
 そして答えず、またしばらくストレッチを続けた。

「あー、そっか、篠塚アゲハって、あれ、お前の兄貴だったのか」

 ヨースケはトンボに顔を見せないままに今気付いたような調子で言う。
 トンボは小さくえ、と返した。

「知ってるんですか、兄のこと」

「知ってるも何も、六十二代生徒会は伝説だからな。学校にいた奴も、他の学校の奴も、ユミエ会長、ミツル副会長のツートップと、書記の蝶野先輩と会計のアゲハ先輩を知らない奴の方が少数派なくらいじゃないかな。そっか、――つらかったな」

「え――」

「お兄さん。それで、事件のこと知りたいのか?」

 ヨースケは振り返らない。そのまま足の運動を続ける。

「それは――」

「やめとけ」

 トンボが答えようとするのをヨースケの冷たい声が遮った。

「トンボ、お前がこの事件をどこまで知ってるか知らないけど、オレはお前と全く同じ質問をされたことがある。アゲハ先輩――お前のお兄さんに」

「兄さんが?」

「付き合ってたんだ、オレ。ヨルと」

 ヨル、とトンボは繰り返す。
 誰のことだろう、と思っていると、ヨースケは潮ヶ浜夜とフルネームで言った。
 それは確か――。

「二番目に殺された。プールで見つかった」

 トンボはヨースケの背中を見た。
 それだけで、ヨースケがその死を心から悲しんでいることがよくわかった。
 ヨースケが振り返らないのは、その顔を見られたくないからだとトンボは気付く。
 怒りか、悲しみか、とにかくいまだ生々しい感情がきっとそこには表れていて、ヨースケはそれをトンボに見せまいとしている。
 それほどまでに、まだこの事件は生きているのだ。
 トンボの中と同じく、ヨースケの中にも。

「アゲハ先輩が、殺されたヨルのこと、何か知っていることはないか、変わっていたことはないかって、しつこく聞いてきてさ。オレ、割と本気で犯人見つけてぶっ殺したいと思っててさ。そしたら、ヨルのことも忘れられるって。忘れて生きていかなきゃ、そのためには犯人に復讐しなくちゃって思ってた」

 ヨースケの声が、小さくなっていく。

「でも、アゲハ先輩が死んで、――やめた。調べてどうなる? 犯人を知って、復讐して、それで俺は何もなかった顔して平気で生きられるのかって思った。そんなことできない。だったら復讐なんてしない方がいい。そうすることでヨルを忘れてしまうなら、復讐なんてしないで、割り切れない思いを抱えたままずっと覚えている方がいい」

「先輩……すみません、変なこと聞いて」

 トンボは聞いたことを後悔していた。
 そして一刻も早く、この話を終わらせなければならないと思った。
 うかつに聞くことではなかった。聞いていいことではなかったのだ。
 それは誰よりもトンボが一番よくわかっていたことなのに。

「アゲハ先輩がそれを聞いてきて、オレはヨルが死ぬ前に預かった、ヨルの日記を渡したんだ。三日後に先輩はそれを返してくれて、それから四日で、――死んだ」

 ヨースケが振り返る。
 そこにいつものお日様のような笑顔はない。
 その顔に表情はない。色彩がない。喪に服す人の灰色の顔だった。

「お前がそれでもこの事件のことを知りたいなら、今日の放課後、禅定寺の墓地に来い。そこにヨルの墓がある。――もしかして、最初からこうなるって決まってたのかな」

――今日は、ヨルの命日だから。
 ヨースケは笑った。多分無理して。
 東の空からさす太陽が、逆光になって顔を隠している。
 それでもトンボにはその笑顔がとても悲しいものに見えた。

 ホイッスルの音がした。集合の合図だ。

「ほら、行くぞトンボ! 大会まで時間がないんだからな!」

 トンボの背中を強く叩いてヨースケは先に走り出した。
 トンボは重たいグランドレーキを引きずりながら、それを倉庫にしまって集合場所に行った。
 ヨースケは、その後、さっきのことはおくびにも出さず、いつも通りに走り込み、汗をかいていた。
 トンボは改めて、この先輩は強い人間なんだと思った。
The Sun cannot be bound The Night
»»  2013.09.02.


――悪夢を見た気がする。
 それはタイチを殺すという内容のものだった。
 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。

 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。
 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。
 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。
 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべきなのかもしれなかった。

 どちらにしても、そんな内容の妄想が止まらないのは、どうやらタスクの中にいるもう一人の存在――山下が言うところの色鬼、灰音のせいであることは間違いなく、それによってタスクに健やかな眠りが当分は訪れないことも間違いなかった。

 時計を見ると、朝の五時だった。
 六月ともなるともう昼間と言って差し支えないほど太陽は明るい。
 そして晴れの空は、夏らしい暑さを、確実にこの街にもたらしていた。

 今更眠るのも馬鹿馬鹿しいし、本来ならタスクはこれくらいの時間に起きて家族の朝食と、弁当を作るのが日課だった。
 トンボとタイチの分も一緒に作る。
 もう二日サボっている計算になるから、そろそろ再開しないといけないだろう。
 一応タイチからは山下経由で、トンボからはその姉経由で、一食二百円で月に二十食、合計で四千円のお小遣いをもらっている。
 二家合わせれば八千円と、バイトもしていないタスクにとってはちょっとした額になる。
 おいそれと休むこともできないだろう。

 タスクは冷蔵庫の中のものを適当に組み合わせて朝食と弁当を作る。
 そのうちに家族が起き出して、めいめいに朝の日課を始める。
 洗濯物を干していた母は、テーブルで弁当を盛りつけるタスクの顔をまじまじと見た。

「やっぱり、顔色よくないわ」
 
「ごめん、ここの所、眠れてなくて」

「……あんた、また無理してるんじゃないの? 今日は学校休んだら?」

 母の忠告にタスクは首を振る。

「もう事実上二日欠席なんだから。そろそろ授業にも顔を出さないと、置いて行かれちゃうから。学校行くね。ボクは、朝ごはんいらないから」

「あ、ちょっとタスク――」

 タスクは弁当を三つ持って、部屋に鞄を取りに行って制服に着替え、逃げるように家から飛び出した。

――また家にいたら、今度は家族を殺してしまうかもしれない。

 そう思うと到底家にはいられなかった。
 それに、山下の話を信じるなら、今タスクが、灰音から逃れていられるのは、学校だけだという。
 信じられるだけの根拠はなかったが、それにすがるしかないのも事実だった。
 タスクは学校にやや速足で向かう。
 くすくす、くすくすと声が聞こえた。
 タスクは胸にかけてある紫水晶の振り子を握る。
 触れるとそれは、石とは思えないほど、熱くなっていた。

――近くにいるんだ。灰音が。

 タスクは思わず立ち止まってあたりを見回す。
 電柱の陰に、ごみ箱の裏に、屋根の上に。
 電線の上に、木の茂みの中に、側溝の影に。

 くすくす、くすくすと、それは確かに存在していた。
 タスクを見ていて、笑っている人外のもの。
 タスクを生き返らせて、タイチを殺そうとする鬼が。

――もういいかい?

 それは紛れもなく鬼のセリフだった。かくれんぼで鬼が言う決まり文句。
 子どもの遊びの他愛ない言葉なのに、今のタスクにはこの上なく恐ろしく聞こえた。
 タスクはついに走り出して、ようやく学校にたどり着く。
 いつもより随分と早い時間の登校だったが、運動部は朝練をしていて、学校はそれなりに騒がしかった。
 放課後の活動が制限された今は、そうせざるを得ないのだろう。
 タスクは自分の席に座って、大きく息を吐いた。

 ただの登校に、ここまで疲れるとは――。
 こんなのが続けば、灰音が何か悪さをしなくても、疲弊したタスクがちょっとしたことで何か大それたことをしかねない、とタスクは自嘲気味に思った。
 そして、改めて自分の教室を見回した。

――視線は感じない。声も聞こえない。
 胸の水晶を触る。さっきとは打って変わって、石特有の冷たさが伝わってきた。
 つまり、ここには灰音はいない。安全なのだ。
 山下の言葉はどうやら正しいらしい。今のところは、まだ。

 しかしそれは同時に、この学校に色鬼に対する結界が張られていることを示している。
 つまり、四人の生徒が惨殺されたのが、事実だということだ。
 早田明美、潮ヶ浜夜、曽根百合子、そして、トンボのお兄さん――篠塚揚羽。

 この学校で、殺人事件が。
 そして――犯人は学生かもしれない。いや、あの、蝶野カイコかもしれない。
 山下はそう言っていた。

 タスクにとってカイコはやや特別な位置にいる先輩だった。
 クラス委員としては生徒会長であるカイコは直属の長を務める人間だったし、それよりも何よりも、カイコはタスクが所属する合唱部の部長で、指揮者だった。
 あの日曜日の舞台で、タスクが誰よりも一番恥をかかせてしまった人物。
 誰よりも一番迷惑をかけてしまった人物。

 しばらく合唱部は、練習は中止というメールがいつだか来ていた。
 起き抜けの朝は声も出にくいし、朝練をする部活でもないから当然かもしれない。
 タスクは机に体を投げ出して、腕で枕を作って顔を横に乗せた。

――カイコが犯人だったなら。タスクの中で蝶野カイコの顔が思い返される。
 カイコはいつだって余裕綽々という顔をしているのだ。
 何をやらせても常に完璧で、まるであらゆることが遊びであるかのように。
 あの日だって、悔やんだり、怒ったりはしていなかった。
 カイコは、ただ笑っていて、後ろに男がいて、首を絞められていて。
 ライターの炎に照らし出された顔が。

――ああ、あの顔は、あれはそうだ。
――死んでいる。
――殺されている。

「おーい、おい、タスク! おーきーろー! タスク!」

 目を開けると前髪に隠れた目がこちらを見ていた。
 タイチだ。どうやら無事に登校したらしい。
――なぁんだ。よかった。
 タスクはそれに安心して、またうとうとと目を閉じた。

「あーもー、二度寝とかやめてくれる? 起きろっつーの、もうすぐホームルームですよ! クラス委員さん!」

 バン、と頭を強く叩かれて、タスクはガバリと起き上がる。

――眠っていたのか。

 時計を見ると、八時半だった。少なくとも二時間近くは寝ていたことになるだろうか。
 クラスはタスクが来た時よりはるかに騒々しくなっていた。
 数人の女子がこちらを見てくすくすと笑っていた。
 タスクはその声に、恥ずかしさよりも、あの不快な声と似ていることに腹が立った。

「今日こそはお弁当作ってきてくれたんだろーなー」

 心配はそこ? とタスクが聞くとタイチは他にあんのか、と胸を張る。

「君の大好物の三食そぼろ弁当だよ。なんかさ、大丈夫、とか、心配したぞ、とか」

「心配してほしいのか、タスクは」

 タイチに問われ、タスクは改めて自問した。
 心配されたいのだろうか、ボクは――。

「オレが涙ぐんだ顔でお前が無事に学校に来ていることに感激したら満足か?」

「何もそんなことしろって言ってないだろ」

――ボクは、ただ。察してほしいだけだ。思っていても、言えないこと。
 誰にも言えない、本当の気持ちを。

 そうは思ったが、タスクは実際、何が本当の気持ちかがわからない。
 何せ今タスクの心には、タスクの心だけでなく、鬼の心が混ざりこんでいる。
 今こうやって考えていること自体が、どうして鬼に支配されていないと言えるだろうか。
 実はもう自分は既に乗っ取られていて、あたかも坂崎タスクのように考えているけれど、実際には鬼がそう錯覚させているだけなのでは――。

「……アホくさ」

「あ?」

 君のことじゃない、とタスクはタイチに言った。
 自分の支離滅裂な考えに嫌気がさしただけだ。
 鬼がタスクの振りをするのはともかく、何故そこで自分が鬼か坂崎タスクかを自問しなければならないのか。そんなもの鬼だったら考えるまでもない。
 つまり自分がどっちか、なんてことを不安に思っているのはタスク以外にはありえない。
 とりあえずタスクは、自分が自分であることに安心していい。いいはずだ。

「そーいえば、噂を聞いたぞ」

「噂?」

 タスクはさして興味も示さず、タイチの方さえむかずに頬杖をついて窓の外を見ていた。
 グラウンドを挟んで向こうにある校門を国栖が閉めているのが見えた。

「校門の前に灰色の目隠しをしてる男の子がいるんだって」

「それ、七色不思議だろ?」

「うん。そうなんだけどさ、その男の子は女神の子どもの鬼じゃなくて、昔この学校で七色不思議をやって、鬼に食べられちゃった子どもなんだって。それで、灰色の目隠しをしているのは、何でもそれをつけてると、鬼の目から逃れられるからなんだって」

 その言葉にまた、悪寒が全身を駆け抜けていく。いや、タイチの言葉のせいではない。
 その、国栖が閉める、校門の、門柱に、誰かがいる。
 青い、着物姿の男の子。栗色の収まりの悪い髪の毛の、色の白い痩せた子供。
 ちょうどタスクの小学生時代のような――。
 ――そして、目には灰色の布が、目隠しをしている。

 門柱に腕で目隠しをするようにもたれて、それはまるでかくれんぼで数を数える鬼の仕草そのもの。

――もういいかい。

 男の子の声だ。教室の喧騒も、鳥の鳴き声も、風の音も、何もしない。
 全てが灰色の石のように固まっている。目の前のタイチさえも。
 その中で、唯一色彩を持った目隠しの男の子が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 目隠しに覆われた目でこのグラウンドを挟んだ三階の、この教室のこの窓を見て。
 いや、――ボクを見て。

――見ぃつけた。

 そう言って、笑った。その笑みは、徐々に校庭の熱が産む陽炎に溶けていく。
 ぼやけていく。段々にその輪郭を失い、世界が色彩を取り戻す。

「――だからー、そんなタスクに、おまじないに灰色のスカーフを持ってきてやったぞ。これで目隠しすればばっちり! いいアイディアだろ? おい、聞いてる?」

 いつの間にかタイチが怒った顔をしていた。
 タスクは我に返って、顔を手で覆った。

「い、今――」

「あん?」

 タイチは怪訝そうな声を出す。
 それが雄弁にタイチは何も感じていないことを物語っていた。

――ボクだけに見えたんだ。ならば、今のが。あれが。
――色鬼、灰音。

「もしかして――何かいる?」

 タイチは今更のように声を潜めて聞いてきた。
 タスクはその配慮をもっと早くにしてほしかった。
 いや、同じことだったのかもしれない。
 タイチがその噂をしようがしまいが、あの鬼は、ずっと校門にいたのだろう。
 おそらく、それ以上入って来られないために。

 これもまた山下の言った通りだった。
 今の所、山下の言葉は全て当たっている。

 チャイムが鳴り、トンボがやって来た。
 短髪の少女は、肩にかけたタオルで顔を拭く仕草さえどこか爽やかで、見た目陰鬱な男二人組とは対照的だった。
 トンボはその陰気な二人に、はつらつとした声であいさつをする。
 タイチは元気よく答え、タスクはうん、と小さく言った。

「そう言えばタスク、確か蝶野先輩が、今日のお昼休み、生徒会室に来るようにって」

 トンボはタスクに近付いて、まずそう言った。
 その言葉にタスクは一気に気が重くなる。

「それより、何の話をしてたの?」

「それがさー、トンちゃん聞いてよ」

 タイチが話そうとしたとき、担任がやってきて、そのままホームルームになった。
 タイチは不満げに頬を膨らましていたが、灰色のスカーフだけタスクに渡すと、席に戻って行った。
 クラス委員のトンボとタスクはそのまま壇上に立ち進行を務める。

 鬼に見つからないように、灰色の目隠しを――。
 タイチの言葉が反芻される。タスクはさっき見つかってしまった。
 今からでも灰色の目隠しをつければ、鬼の目から逃れられるのだろうか。
――アホくさい。

「出席を確認します。青葉君――」

 タスクは間抜けな考えを振り払うように、いつもより大きな声で点呼を取った。
The Evil Gray stands school gate
»»  2013.09.02.


 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。
 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。
 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。
 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。
 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーから、校門を隠れるように覗き込む生徒の一群があった。

「なんだい、この集まりは」

「あ、篠塚さん、ほら、あの人」

 トンボが声をかけるとその中の女子の一人が指をさして校門の方を示す。
 トンボも彼女達に倣って顔だけ出して覗くと、そこには人影があった。
 心臓がドキリと鳴る。
 持てる視力の全てを持って、その人物の全容を見ようとした。
 男は校門の脇に立ってずっとこちらを見ている。

「ね、なんか怖いでしょう?」

「何が? 普通の人じゃないか?」

「普通の人ならあんな風にずっと立ってたりしないって。待ち合わせにも見えないし、やっぱり、吸血ジャックかしら」

 はぁ、とトンボは上擦った声を出す。
 
「私知らなかったんだけど、実はこの学校去年生徒が吸血ジャックに殺されてるんだって」
「あ、それ私も聞いた。でも学校側は隠ぺいしてるって」
「学生が犯人かもしれないからだって聞いたけど……」
「ほら、今放課後居残りでしょ、あれってやっぱり吸血ジャックの被害があったからみたいなんだって。確か北市街のカササギビルって所で」

――なるほど、いくら警察が対応していようと、学校側が隠していようと、人の口に戸は立てられないものだ。
 さすがに普通の生徒も、つまりここにいる女子達のような、全く関係ない生徒でも、気付き始めたのだ。
 どうやら今が、普通の状況ではないと。
 そこに不審な男が現れ、火に油が注がれて、吸血ジャックかもしれないなどという話になったのだろう。

――でも、こんな白昼堂々と……。

 トンボはもう一度壁から顔を出した。
 男は相変わらず門の脇に突っ立っている。
 今にも降って来そうな黒ずんだ鈍色の雲の下で。
 まるでトンボには男が雨を運んできているようにも見えた。

「あ、篠塚さん!」

 トンボは心を決めた。自分は生徒会の一翼を担っているのだ。
 校内に不審者がいるなら、確かめる義務がある。例えそれが――。
――吸血ジャックであろうと。

 トンボは靴を履き替え、つかつかとその不審者に近寄っていく。
 男もまたトンボに気付いたらしい。
 不審者であれば、立ち去るとか逃げるということがあってもいいはずだ。
 しかし、男はただ無表情に立ち尽くしていた。

「あの!」

「篠塚……トンボ、かな」

 男は小さいがよく通る声で呟いた。トンボは名前を当てられて少し動揺する。
 男は割ときれいな身なりをしている。遠くで見るよりだいぶ若いようだ。
 高校生、いや大学生だろうか。
 黒いシャツに黒いズボンで肩から黒い鞄をさげて――全身黒ずくめである。

 小奇麗な顔で女みたいだ。似てはいないがそのキーワードから兄を思い出してしまう。
 兄はどこか幼い印象を持っていた。
 だが、目の前の男はそういった幼さを全く感じさせない。
 目は怜悧でどこか悩ましげで、顔全体からは知的な印象を受ける。
 鋭いのだ。顔の形も、漂う雰囲気も。
 ただ立っているだけでも、ボーっとしているようには見えない。
 瞑想にふけっている、あるいは思索に没頭しているように感じられた。

 きっとこんな時期でなければ、玄関に集まった女子の群れの評価も違ったのだろう。
 連続猟奇殺人鬼のような男ではなく、突如現れた謎の美男子になっていたはずだ。
 いや、もしかしたらあの集まりはそういうものだったのかもしれない。
 あの人になら殺されてもいい、くらいのことは平気で彼女達は言うだろう。
 それほどに誰も去年のことは何も知らないのだ。特に一年生は。

「篠塚トンボはボクですけど、何か御用ですか?」

「連れが上にいる」

「連れ?」

 生徒の父兄ということだろうか。あるいは教師の兄弟か子どもか。
 上にいるという言葉は二階ということか。
 しかしいずれにしても、こんなところで待たせているのは失礼にあたるだろう。

「あの、お待ちならどうぞ中へ」

「いや、それには及ばない。もうすぐ来るだろうから。……そうだ、最近七色不思議について、新しい噂が流れていないかい?」

 男は唐突にそんなことを言い出した。

「え、ええ、確か、灰色の目隠しの男の子が校門前にいて、っていう話、ボクは今日初めて聞きましたけど……、失礼ですがお名前をうかがってもよろしいですか?」

 学校も不手際だと思う。
 不審者ならこんなふうに学校に放置しておくのは不用心だ。
 そうではなく学校の関係者の類縁なら、こんなふうに待たせておくのは失礼だろう。

「萩原充(ハギワラ ミツル)。篠塚は優秀な男だった」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 少し遅れてそれがどうやら兄のことを言っているのだと気付く。
 兄の友人だったのだろうか。
 トンボは尋ねようと思ったが尋ねる前にその名前に思い当たった。

 萩原ミツル――去年の、六十二代生徒会男子副会長だった男だ。
 そうか、兄は生徒会会計だったから、面識があるのは当然と言えば当然だ。
 六十二代生徒会は四人しか構成員がいなかった。
 それはこの時代の伝説が伝説たる所以の一つだ。
 会長神楽崎ユミエ、副会長萩原ミツル、書記蝶野カイコ、会計篠塚アゲハ。
 いや、その四人は――。

 そうだ、昨日、山下の話だ。
 確か、あの男はミツルが兄の殺害に関与しているという推測を語った。
 その人物が何故、こんなタイミングで、トンボの前に登場する。
 あまつさえその人が吸血ジャックかもしれないと噂されているなんて、出来過ぎている。

「兄は……兄が、お世話になり、なってました」

 口がうまく回らない。
 自分でもびっくりするくらい、トンボは動揺していた。

――もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。
 山下はユミエとミツルを指してそう指摘した。

「僕は何もしていない。興味深い男だったが――」

「どうして……」

 ミツルの言葉を遮ってトンボは言った。

「どうして、学校に来たんですか? これじゃあ、これじゃああなたが、あなたたち六十二代生徒会が、兄さんを殺したっていう、あの推理が、当たってることになっちゃうじゃないか! どうして、何しに来たんですか! まさか、本当に――!」

 それは間違いなくあてつけだった。
 それでもトンボにとって、山下のその推理が当たることは何よりも避けなければならないことだった。
 それが正しいとすれば、兄は三人の女子生徒を殺していた犯行に関与していたことになってしまう。
 兄はいつも楽しそうに学校に行って、自分の生徒会を誇らしげにトンボと姉に食卓で語っていた。
 その兄が、その生徒会が、恐るべき殺人集団だったはずがない。
 それを認めることは耐えがたいことだった。
 その思いが、トンボの口から零れ出す。

「――篠塚アゲハを殺したのは僕じゃない。同様に、この学校で殺された三人の女子についても、僕は潔白だ。僕だけじゃない、神楽崎も小野宮も、そして篠塚も。ただ――証明はできない」

 ミツルは表情を変えずに淡々と言った。
 そんなのあんまりだ、とトンボは思った。
 無実なら、はっきりとあの山下に言って証明してほしい。
 兄が死んで、ものを言わないことをいいことにあることないこと言いまくったあの男に。
 どうか兄の潔白を晴らしてほしかった。
 兄の無実を証明してほしかった。
 トンボは思いの丈を瞳に込めて、じっとミツルのその伏し目がちの両目を見た。

 ミツルは一度トンボから視線をはずして、学校の校舎のはるか上の方を見た。
 その時、猛烈な風が背後から吹いてきた。
 トンボは背中を強く押されるようにして、思わずミツルの方に倒れこんでしまう。
 学校の方から黄色い歓声がトンボの耳にも聞こえた。
 風はすぐ収まった。トンボは慌ててミツルから離れる。

「すす、すいません」

「いや、謝るのはこっちの方だ、連れが戻ってきた。すまない、悪戯好きな風でね。トウタ、あまり人を驚かすな」

 何を――言っている。

 ミツルの隣には誰もいない。
 いや、学校から出てきたものなどトンボ以外に誰もいない。
 今もミツルの周囲にはトンボしかいない。
 連れが戻ってきただなんて、どこにいるのか。

 ミツルの視線はなぜか、さっきからトンボの頭の上あたりをじっと見ている。
 そこに何かいるかのように。
 トンボは不気味に思って上を見上げるが、当然何もいない。

「やはり結界か……そうなると、吸血ジャックの犯行はこのことを知っていたことになるな。しかし何故この学校に結界を張った?」

「吸血ジャック? あの吸血ジャックですか? やっぱり何かあるんですか?」

 ミツルの不思議な独り言にトンボは食いついた。ミツルはトンボを見て一言呟いた。

「アゲハの死を知りたいなら、七色不思議を探すことだ」

 行こうトウタ――。

 ミツルはそう言って歩いて学校を離れて行った。
 トンボは茫然とその後ろ姿を眺める。
 昼休みが終わろうとしていた。
 トンボの頭にぽつりと冷たいしずくが当たる。
 雨が降り出したらしい。

Dragonfly meets The Angel with Pink wind
»»  2013.09.02.


 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。
 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。
 もう五分は立ち尽くしているだろうか。
 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。
 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。

 コンクールの件だろう。
 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃げ出したことでかかった迷惑。
 蝶野カイコは合唱部の部長でその舞台の指揮者だった。
――怒られるのだろう。正直なことを言えばまた逃げ出したかった。

 そんな風に悶々としているタスクの目の前のドアが、勝手に開かれた。
 タスクは驚きのあまり小さく息を呑んだ。
 立っていたのは吉沢ハヤテだった。
 いつもカイコの影のように付き従っている二年生の男子。
 常にカイコの鞄を持ち、その一歩先を行きドアの開閉までをも執事のようにこなす男。
 それだけでもごく普通の高校生のタスクからすれば十分に変人だったが、服装も一風変わっていて、今日は濃い 青い色のシャツに黒のスーツのベストとズボンを着ていた。
 髪の毛もサイドバックにし、左目を前髪で隠すという、どう考えてもコスプレのような恰好をしている。
 それだけ個性の強い恰好をしていれば、どこにいてもよく目立ちそうなものだが、その寡黙な性格のせいか、往々にして、カイコにその存在を指摘されないと、誰もが見落としてしまうほど、存在感が希薄な人間だった。

「どうぞ」

 ハヤテはほとんど口を動かさずに小さな声で言った。
 その後ろに会長席に座ってファッション雑誌を読んでいるカイコが見えた。

「なんだ、いたならばさっさと入ってくればいいのに。迷って決断を遅らせると、ずっと迷っていることがいつか気持ちよくなって、何かを選択することそのものから逃げることになってしまう。入りたまえ。坂崎タスク君」

 カイコはこの蒸し暑さに辟易したように手にしていた雑誌を机に伏せて言う。
 タスクはそれでも部屋に足を踏み入れるのを躊躇した。

「――なんだね、そんな叱られる子供のような顔をして。高校生にもなって分別のない顔をするんじゃない。私は君を叱ったりしないよ。むしろ、その逆だ」

 え、とタスクは小さく言う。
 見かねたカイコが吉沢君と呼ぶと、ハヤテがタスクの肩を押して、中に連れ込んだ。
 タスクは転びそうになってそのまま部屋の中央に躍り出る。
 後ろでハヤテがドアを閉める音がした。

 その音を聞いて、タスクの心臓が跳ね上がる。
 何も怒られることだけが怖いわけではなかった。
 蝶野カイコは――山下によればこの学校の生徒を殺した犯人かもしれない人物だった。
 そして自分は、吸血ジャックにその命を狙われているかもしれないよみがえった死体で。
 今、その容疑者とその片腕のような存在に前後を挟まれている。

 山下は学校にいれば色鬼からは逃れられると言った。
 それでタスクがすっかり安心していて気付かなかった。
 色鬼から逃れられたとしても、学校の中に吸血ジャックが、あるいはそれに見立てて生徒を殺した殺人鬼がいるかもしれないという可能性を。

「実は――君に謝っておこうと思ってね」

「え――」

 恐怖による緊張が最高潮に達していたタスクはカイコの言葉に虚を突かれた。

「先日の――日曜日の件。私は、君が極端に緊張に弱いということも知っていた。だが、あえて君を伴奏者に選び、舞台に立たせたのは、もしかしたら、君のそのあがり症を、何とかできるのではないか、なんて思いあがっていたからかもしれない。私は自分が教師にでもなった気でいたんだ。人を成長させ、指導する力があると。そんな私の高慢さが君に深く傷をつける原因になった。それをあの日、思い知ってね。ずっと君に、謝ろうと思っていたんだ」

――すまなかった。
 カイコはそう言い、タスクに向かって深々と頭を下げた。
 傲岸不遜で、いかにも唯我独尊といったカイコとは思えない、しおらしい行動だった。
 タスクは返す言葉がわからず、むやみに手を振った。

――怒らないのか? 怒っていないのだろうか、この人は。

「あの後、とにかく君のことが心配でね。電話がつながらなくてひょっとしたら早まったことにでもなってないかと思っていたんだが。月曜日にちゃんと出てきてくれて安心した。本当はその日に言おうと思っていたんだが、結局こんなに時間が経ってしまった。その後もどうにも本調子ではないようだし、もしかしたら私が思っているより、ずっと君を傷つけてしまったのではないだろうか。こんな言葉だけでは慰めにならないかもしれないが、あれは君のせいではない。もしそのことで自分を責めているなら、もう気にしなくていい。合唱部の伴奏がつらいようなら、今後は別の人に頼む。だからどうか、思いつめないでほしい」

――心配? この人が、ボクを?

 タスクには全く信じられないことだった。
 蝶野カイコという人は、他の人を頭一つも二つも飛びぬけていて、周りのことなど気にせずに、自分の進みたい道を勝手に行ってしまう人間だと思っていた。
 タスクのことなんて、少しも歯牙にかけていなくて、ただ失敗した使えない人間と落胆されたものだと思っていた。
 そして、そのことで糾弾されるのだと。

 思いもよらぬカイコからの謝罪と、タスクを気遣う優しさを見せられ、タスクはカイコに抱いていた偏見のようなイメージが少し変わった。

「あの……それで、話って」

「ああ、これを言いたかったんだ。君に一度はっきりと謝っておきたくて、ずっともやもやしていてね。昨日は病院で暴れたというし。まあそれはこっちの方で何事もなかったことにするように手配したが」

 カイコが手を打ってくれたのか。
 だから学校からも警察からも何もなかったのか。

「――もしかして、君は、何かとても大変なことに見舞われているんじゃないか? 何かとても重大なことを、誰にも言えないでいるんじゃないか?」

――ああ、この人は。

 ようやく、聞いてくれた。
 タスクはこれまで自殺の話や頭の中でする声について、いつも自分から切り出していた。
 国栖にも、山下にも、自分から言わなければならなかった。
 自分で自分がおかしいのだと言うことは、とてもつらいことだった。
 でも、この人は、気付いてくれた。タスクが今とてもつらいことを察してくれた。

「――実は……」

 そしてタスクは、日曜日の自殺から始まった、今も続く長い苦しみの胸の内をカイコに語る。
 いつの間にか外は雨が降り出していた。
 生徒会室には外の喧騒が遠く、静かな雨音だけが響く。
 カイコはずっとその話を遮らず、ただ頷きながら聞いてくれた。

「――すると、今の君は日曜日にすでに死んでいて、松木君を殺すために、その色鬼とかいう怪異によって生き返り、今なおそれに自我を奪われるかもしれないと、怯えている、ということかい?」

 カイコは右手で扇子を開いたり閉じたりを繰り返しながら言った。

「――信じてもらえないかもしれませんが、本当なんです」

 カイコは目を閉じて深く椅子にもたれかかった。
 
「にわかには、信じがたいね」

 やっぱり、そうか。自分でだって、確信を持っているわけではない。
 心のどこかでは、日曜日から今日までは全て夢で、いつものように目覚ましに起こされることを望んでいる。

「それが本当なら、私はいよいよ君に対して申し訳が立たない」

 カイコは目を開けて天井の蛍光灯を見ながら言った。
 そしてタスクを見る。タスクは小さくえ、と呟いた。

「だってそうだろう。畢竟君が悩まされている悪霊に取り憑かれたのは、自殺したからじゃないか。そしてその自殺の理由はあの日曜日の舞台にある。そこに君を立たせたのも、その結果君を追いつめてしまったのも私だ。私が君の気持ちをもっとちゃんと考えていれば、君の今の状況はなかった――違うかい?」

「あ――いえ、でも」

 タスクはずっと自分のせいではないと言ってもらうことを望んでいた。
 それなのに、カイコが今のタスクの状況をすべて自分のせいだと言うのには、何故か抵抗感があった。
 タスクはカイコのせいではない、と言いたかった。でも、言葉が出てこない。

「死んだ人間は、生き返ったりしないよ」

 不意にカイコが言う。

「死は絶対だ。生きているものは必ず死に、そして死んだものは決して生き返らない。それはこの宇宙を支配する絶対の法則だ。幽霊だろうが、妖怪だろうが、鬼だろうが、その法則を曲げることは絶対にできない」

 タスクは自分の経験していることが世迷言と言われているようで何だか嫌だった。

「だからね、もし君が本当に死んでいて、生き返ったのなら、それは奇跡なんだ。あのキリストが磔刑されて、その三日後に復活したことと同じ、いや、もしかしたらそれ以上の、考え難い、起こるはずのない、奇跡」

 奇跡? とタスクは繰り返す。
 今タスクが経験していることは、到底そんな美しい事柄には思えなかったが。

「私はね、坂崎君、死人を生き返らせようとしたことがある。君ももう聞いているかもしれないが、この学校に伝わる七色不思議の噂があるだろう? 私はそれを一度だけ試したことがある」

「それって――篠塚アゲハさんを、ですか?」

 タスクは思わず聞いた。
 カイコはそれを聞くと彼女にしてはとても珍しく驚いたような顔をした。

「アゲハのこと――知っているのかい?」

 カイコは扇子を広げて口元を隠して聞いた。
 タスクはしまったと思う。声がさっきより明らかに低くどすの利いたものになっていた。

「あ――えっと、だからその、噂で」

 タスクは適当なことを言ってごまかそうとした。

「噂?」

 カイコの目つきが鋭くなる。タスクは射すくめられて、観念した。

「昨日、タイチの叔父さんの警察の山下さんから、教えてもらったんです。病院で騒ぎを起こして、カササギビルでフェンスが落っこちてきた後、山下さんが調書を取るからって交番に連れて行って、そこで教えてもらいました。去年この学校で起こった事件のことも、色鬼のことも」

 カイコは扇子を口の前でとじ合わせ、あの人か、と呟いた。

「そこで――あなたが、あなたたち六十二代生徒会が四人の生徒を殺した犯人かもしれない、と。蝶野先輩、いや、本当は小野宮って言うそうですね。あの小野宮グループの社長の娘さんだって」

――私のことを小野宮と呼ぶな。

 突然聞こえた低い声はカイコのものだった。
 しかしカイコが本当に言ったのかと疑ってしまうほど、普段の声とはかけ離れた冷たい声だった。
 驚きのあまり目を白黒させてカイコを見るタスクに、カイコはくすりと笑いを漏らした。

「余計なことをあることないこと吹き込んでくれる。あの人は去年もそういう人だったからな。前半は全面的に否定しよう。私たちが四人の生徒を殺した犯人、これは絶対に違う。神に誓ってもいい。ただ、私が小野宮グループ総帥、小野宮蓮穣の娘であることは事実だ。ただ、父にはあともう二人息子がいるし、私は代わりの代わりの代わりくらいの扱いで、だから公立の学校にしか通わせてもらえないがね」

 自嘲気味にカイコは言う。
 そう言われれば、世界規模の資産家の娘が公立高校にいるというのも変な話だ。

「前妻との間に男児がいて、つまり、私には血の繋がらない兄が、いたというべきかな。本来ならその兄が次期総帥であり、実際彼は才能も実力も、器量もそれにふさわしい人物だった。だが、ずっと昔に消息不明になってしまった。おかげで今小野宮グループは水面下で跡取り競争に必死でね。私まで、その座につけて利益をすすろうとする有象無象がうごめいている。そういう人間にとって、去年この学校で起こった事件はどう映ったと思う? あるいは今の総帥、小野宮蓮穣をその座から引きずり降ろそうとしている人間の目には」

――それは。タスクには権力闘争とか、そういうことはいまいちよくわからなかったけれど。
 それでも権力の座にある人間の身内が殺人事件に巻き込まれていて、あまつさえその容疑者として疑われているなんて情報は、悪用されればこの上なく厄介なものだろう。

「私が小野宮ではなく、母方の旧姓を名乗っているのは、せめてそう言うことから自分なりに身を守ろうとするささやかな抵抗だ。別にそんなことをしなくても、蓮穣は私のことなど小娘としか――いや、ただの石ころか何かとしか思っていないだろうけど」

 それはともかく、とカイコは一度自身に関する話題を打ち切った。

「とにかく私は、他の生徒に比べれば圧倒的に財力や権力に恵まれた境遇にありながら、そして生徒の最善の利益を保護する生徒会の一翼を担っていながら、殺人者の凶行から誰ひとり救ってやることができなかった。たった一人の親友さえ」

 それはおそらく、アゲハのことを指しているのだろう。

「悔しくて悔しくて、自分の無力が情けなくて、私は七色不思議なんて言うおまじないにさえ縋った。でも結局、アゲハは生き返らなかったし、何も起こらなかった。だからね坂崎君、死んだ人間が生き返る、なんてことは、あり得ないんだ。もしそんなことが本当にあったなら――それにはきっと、何か深い意味がある」

「深い、意味、ですか? ――もしかして」

 それは例えば、タイチを殺すとかいうことだろうか。
 カイコはタスクの思いを先読みしたように破顔してそうじゃなくてね、と言った。

「そんな呪わしいことじゃなくてね、例えば、君はその復活が、君自身の意志によって行われた可能性を考えたことはあるかい?」

「ボクの?」

「そう、無理やりに生き返らせられたんじゃない。君は君自身の望みによって、復活したのだとしたら? 君自身が生きたいという願いによって復活したのなら――ならば君はそれに足るだけの願いがあったんじゃないだろうか」

――願い? ボクはただ、自分が消えてしまうことしか考えていなかったと思うけれど。

 そう言うとカイコはそうだなぁ、と閉じた扇子を口に当てた。

「どうして、君は消えたいと思ったんだろう」

「それはだって――、生きてるのがつらくて、何をやってもうまくいかないし、期待に応えられずに失望ばっかりされて、それがこの先もずっと続いていく、お先真っ暗な人生だから、だから、消えたいって、死体も見つからずに、思い出も残さずに、誰の記憶からも、消え去れればいいって」

「ほらね」

 カイコはピッと扇子でタスクを指して、意を得たように笑った。

「それは裏を返せば、生きるのがつらくなかったら生きたいってことじゃないか。誰かの期待に応えたいっていうことじゃないか。消えたいっていうのはそうやって誰も悲しませたくないっていう気持ち。君は、自分が思うように生きられないから辛くて消えたい――それはつまり、もっとうまく生きたいってことだ。誰も君のその生きたい気持ちに気付いてくれないから、気付かれないままに消えてしまいたいんだ。君は誰より生きたいと思っている。みんなの期待に応えたいと思っている。それが君の、本当の気持ちなんだ」

 カイコの言葉にタスクは心臓を貫かれた気がした。
 大胸筋が覆って、肋骨が厳重に張り巡らされたその奥にある、自分の心の一番敏感な部分に触られた気がした。

「だから、その気持ちを神様みたいなものが聞き届けてくれて、この宇宙を支配する因果さえ超越して、君に新しい命をくれたんじゃないかな。だとすれば、君の体に宿っている新しい命は、奇跡なんだ。君の切なる願いがもたらした条理を覆す福音」

「……でも、頭の中の鬼が」

 タスクの中で灰音はいつだってタスクを乗っ取ろうとしていて、そしてタイチを殺す機会をうかがっているのだ。

「それが試練、なんじゃないかな」

「試練?」

「君が一度死んで、生き返るという奇跡のために君が君自身の力で乗り越えなければならない試練。君が心の中の鬼に負けてタイチを殺してしまえば、その後君は吸血ジャックに殺される。でももしも、鬼に打ち勝つことができたなら――君はその新しい命で、今度こそ幸せになることができる――なんて、ちょっと夢見がち過ぎる話だったかな。忘れてくれたまえ」

 カイコは扇子を広げて、顔を隠すようにして笑った。
 隠しきれていない頬が少しだけ赤い。
 ああ、この人は、見た目よりずっと、年齢相応の少女なのだ。
 そう思ってタスクの鼓動は浮かれるように少し速くなった。

「何はともあれ、自殺が実は夢だったにせよ、実際君が生き返っているにせよ、君が今生きているという事実は動かない。だったらね、坂崎君、やることは一つだよ」

 カイコは扇子を閉じて人差し指を添えてタスクの心臓をまっすぐ指差すように伸ばして言う。

「生きたまえ。決して死のうなどとは考えず、がむしゃらでもいい、見苦しくてもいい、つらいことがあったら迷わず誰かに縋り付いて構わない。迷惑をかけることだってあるだろう。でもそんなことに構わず、君は君の命を、生き抜くんだ。それが、生きるものに等しく与えられた使命だよ」

 カイコがそう言ったところに、昼休みの終わりを告げる始業五分前の予鈴が鳴った。

「――すまん。話題がそれっぱなしだったね。とにかく私は、日曜日の件で、君に謝っておきたくて今日呼んだのだけれど。それで、君の方はどうだろう――実は秋に関東地区の合唱祭があるんだが。伴奏を――頼みたい」

――この人は、それでもまだ、ボクのことを頼ってくれるのか。

「……少し、考えさせてください」

 カイコはフッと笑った。

「そうだね、返事はいつでもいい。君の中で、何かの区切りがついて、どちらの答えでも、私の前で胸を張って言えるようになったら、その答えを聞かせてくれたまえ。今日はこれで用事は終わりだ。下がっていい」

 タスクは一礼して、生徒会室を後にした。
 何があったわけでもないのに、なんだか足取りが軽くなった気がした。
The Silkwarm: It may sound like love
»»  2013.09.02.


 放課後には雨は止んでいた。
 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。

 授業が終わり、今は四時四十五分。
 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。
 何をして時間を潰したものか。
 考えていると確かヨースケと約束をしていたことを思い出した。
 場所は禅定寺だったか。
 そこに、去年この学校で起こった事件の第二の犠牲者である潮ヶ浜夜の墓があるという。

 禅定寺はここからそう遠くない。歩いて十五分くらいだ。
 幸い雨もやんでいるし、ヨースケは放課後と言っていたから、歩いて向かえばいいだろう。

「トーンちゃーん!」

 靴を履きかえるトンボの耳に聞こえてきたのは間の抜けたタイチの声だった。
 トンボはあえてそちらを見ずに、何、とそっけなく返事をする。

「今日はーせっかく部活がなくて、タスクのお見舞いもないのでー、オレと一緒にー」

「悪いけど、この後禅定寺に行かなくちゃいけないんだ」

「え? 何故に? まさかデート? なわけないか。デートにしても禅定寺は渋すぎるし」

 トンボはタイチに本当のことを言おうか迷った。
 言えば確実にタイチはついてくるだろう。
 だが、多分ヨースケはトンボ以外の人間がついてくることを望まない気がした。
 それに、そんなにかき回していいことではないような気がする。

「――お墓詣り。悪いけど、ついてきてほしくはないんだ。なるべく一人にしてほしい」

 トンボはタイチに言う。嘘はついていない。
 本当のことも言っていないけれど。
 タイチはほっぺたを膨らましてちぇ、と言った。

「せっかくトンちゃんとデートしようと思ったのにー、もういい! オレ、タスクと一緒に超えてはいけない一線を越えちゃうから!」

「ごめんごめん。今度ちゃんと時間作るからさ。今日は見逃して」

「もう、今度っていつよ! あなたいっつもそう言って! もう知らない!」

 タイチはわざとらしく泣き出したように腕で目を拭って玄関を駆け抜けた。
 トンボは大きくため息をついた。
 あれはあれで巻き込まれない分には愉快な友達なのだけれど。

「ご愁傷様……」

 後ろからぼそぼそとした声でつぶやかれ、トンボはびっくりして振り返った。
 タスクだった。相変わらず目線は合わせず、わずかに斜め下を見ている。

「お墓詣りって、お兄さんの?」

「あ、ううん、それとは違うんだけど――ごめん、ちょっと急いでるんだ。また明日ね」

 トンボはこれ以上足止めを食らうとヨースケが帰ってしまうと思い適当に話を打ち切って、タスクに手を振って別れを告げ、玄関を出た。
 雨は止んでいたけれど、曇り空の雲は厚く、それでいて街はむしむしとうっとうしい暑さが立ち込めていた。
 少し歩くだけで服にジワリと汗が浮かぶ。不快な暑さだった。
 
 トンボが禅定寺の霊園に入ると、そこには墓参りする家族があった。
 その中にヨースケを見つける。
 では、あれは、おそらく潮ヶ浜夜の家族。
 トンボは堂々としていればいいのに、何故か影から窺うように身を隠してしまう。
 さすがに遺族と会うのは気が引けた。
 ヨースケがここに来いと言ったのは、家族と引き合わせるためだったのだろうか。
 だとしたら思いのほか人が悪いと言わざるを得ない。

 家族は墓を清め、墓を花で飾って、ろうそくを灯し、焼香をする。
 思い思いに何かを言っていたようだが、何を言っているかはわからない。
 やがて、ヨースケもその墓に線香を供え、手を合わせた。
 そして、家族が帰るのを、頭を何度も下げて見送る。
 家族の姿が見えなくなってしばらくして、ヨースケは大きな声で出てきていいぞと言った。

――気付かれていたのか。
 別にヨースケの方から呼んだのだから、負い目を感じる必要は何もないはずだった。
 それなのに、何故だかいたずらがばれて兄に叱られる前に名前を呼ばれるような気になった。

「よぉ、トンボ、悪ぃな。待たせちまったみたいで。――そっちに隠れてる二人も出てきたらどうだ! 別に今更怒らねーよ!」

 ヨースケはトンボとは逆側の墓石の列を振り返って言った。
 その影から、ひょっこりとタイチとタスクが顔を出した。

「タスク! ……それにタイチ……」

 驚いたようにタスクの名を呼び、その後に睨みつけてタイチの名を呼ぶ。
 タイチは何その差! と心外そうだが、タイチがタスクを誘ったに違いなかった。

「つけてきたのか?」

「ぶっぶー、外れー、先回りしたんですー! トンちゃんが禅定寺に行くって言ってたから、タスクを誘って走ってトンちゃんより十分前には着いてましたー!」

「タイチ!」

 トンボは怒鳴った。タイチは怯まない。
 代わりにタスクが居心地悪そうに視線を落ち着きなく動かした。

「君は、今お墓詣りしてた人達が、どういう人達だか、ヨースケ先輩がどういう立場なのか――」

「やめろトンボ」

 言ったのはヨースケだった。
 トンボが振り返ると、そこにはいつもの陽だまりのような大きな笑顔があった。

「友達は仲良くするもんだぞ。――それにヨルのことはお前が松木を怒る理由にはならない。オレは怒ってないんだから、お前が怒ることもないんだ」

 ヨースケは言って大きな手でわしわしとトンボの頭を撫でた。
 昔兄がしてくれたみたいで、なんだかトンボは懐かしくてたまらなくなった。

「よーし松木、女の子をつけ回すのはよくないけど、つけ回したくなるお前の気持ちはよーくわかるぞ! それに、お前ら、やっぱり何かあるんだろ。病院のことと言い、トンボの態度と言い、怪しすぎるぞ。この事件に関しては色々嗅ぎまわられるのは、俺としてはすごく気分悪い、だから正直に白状しろ。お前ら、何をしようとしてるんだ?」

「オレは別に――」

「ボクは、去年起こった式部北高校生徒連続殺害事件の真犯人を探しています」

 タイチの言葉を遮ってトンボは言った。
 真犯人、とヨースケは眉をひそめる。

「何でこう、アゲハ先輩と同じことを言うかねぇ、それ、お兄さんから聞いたのか? この事件、吸血ジャックが犯人じゃないって」

 いいえ、とトンボは静かに答える。

「タイチの叔父さんの警察の人から聞きました。この事件には他の吸血ジャック事件には見られない特徴があって、吸血ジャックの犯行じゃない可能性があり――そしてそうなら、四人を殺した犯人は学校関係者かもしれないと」

「で、お前は六十二代生徒会を疑ってるってわけか。でも、それで行くなら、多分その推理は間違ってる」

 ヨースケが断定的な口調で言う。
 トンボは本当ですか、と思わず声を弾ませた。
 そうでなければいいと思って疑っているから、ヨースケの言葉は嬉しかった。

「ああ、だって、オレは去年同じ語り口でアゲハ先輩にヨルのことで何か知ってることはないかってさんざん聞かれて、日記を渡してるからな。もし旧生徒会が犯人で、言っちゃ悪いがお兄さんが関与してたとしたら、そんな行動取るわけないだろ? その後にアゲハ先輩は殺されてるからカモフラージュのためだったとも考えにくい」

――それは、そうだ。
 アゲハが犯行の一部を担っていた、いやそこまでいかなくても、六十二代生徒会が犯行を重ねていることを知っていたなら、わざわざ真犯人を探してヨースケに話を聞く必要はない。ならば、やはり――。

「まあ、結論を急ぐな。仮定の話をしよう。吸血ジャック事件、いや、去年の式部北高校で起こった四つの殺人事件が、吸血ジャックに見せかけるための犯行で、それが学校関係者によるものだと仮定する。その場合犯人にとって一番都合の悪い存在ってのはどういう奴だと思う?」

 聞かれてトンボはううんと考え込んだ。
 犯人にとって一番都合が悪い、それはやっぱり推理力が豊かで、洞察力に富んでいて、些細なことからも犯人を特定する観察力を持った探偵のような人物が――。

「去年の事件を知っていて、かつその犯人を探そうとする可能性の高い人間、その中でも、教師、あるいは学生として日常的に学校に出入りする人物――つまりは、去年の事件の被害者の身内で、今この学校の一年生で、まさにその事件を調べようとしている、よーするにトンちゃんのことだよ!」

 タイチは自信満々にトンボを指さして、長い前髪の下で不敵に笑う。

「人を指さすのはよくないぞ。特にお墓ではな。まあそう言うことだ。松木の言う通り。犯人が本当に学校関係者で、まだ学内にいる人物だとしたら、一番チェックしているのは去年の被害者の身内、あるいは親しかったもので、学校に頻繁に出入りする人間、つまり、俺やトンボのことだ。そういう人間がこれ見よがしに事件を調べてますよーとかって行動し出したら、犯人はまず何をする?」

「その人物の、抹殺!」

 ぐわしと拳を握りしめてタイチがまたも自信満々に言う。
 タスクはその後ろ髪を一度引っ張った。

「いい加減にしておけ。そういう空気じゃないことに気付け」

 タスクが不快そうに言う。

「何だよもー、みんなが葬式みたいな暗い顔してるから、明るくしてやろーと思ってやってるのに! わかったよ、真面目に答えればいいんだろ! 真犯人が学校関係者で、被害者に親しかった人が、過去の事件の捜査をしていることに気付き始めたら、だろ、そんなの決まってんじゃん、何食わぬ顔して近付いて、味方の振りをして自分が疑われないように推理を誘導して間違った方向に疑いをかけるんだよ」

――味方の振りをして、間違った方向に疑いをかける……?
 トンボはタイチの言葉にぞっとする。
 それならば、今トンボは六十二代生徒会を疑っていた。
 その疑いを持たせたものこそが犯人と言うことになる。
 すなわち――山下勝彦が。

「――でも、山下さんは犯人じゃないぜ」

 トンボの考えを読んだようにタイチが言った。

「すげーなお前。松木って馬鹿だと思ってたんだけど、それ正解だ」

 ヨースケは感心したようだった。
 トンボもきっと立場さえ違えばタイチの推理に感心しただろう。
 今一つそう思えないのはその行いがどこか間抜けだからだろうか。
――それとも山下が犯人でタイチも関わっていたのでは、と疑い始めているからだろうか。

「でもトンボ、騙されんなよ。俺が言ってんのはな、これまでとこれから、とにかくお前がこの事件を調べる上で、誰かが犯人かもしれないっていう疑惑をお前に吹き込んでくる人間が――つまり、俺みたいにお前に接触してくる人間の中に犯人がいることを考えろってことだ。要するに、俺もお前に間違った推理を誘導しに現れたのかもしれないって危険を考えろ。お前はここに来るまでの間、少しでも俺を疑ったか?」

 トンボはとんでもないと首を横に振る。
 ヨースケははぁと大きなため息をついた。

「松木がどうしてついてくるって言ったのかわかってないだろ」

 それは――いつもの通りの悪ふざけだと思っていた。
 ヨースケの深刻な様子に、そんなふざけたタイチを連れて行くのははばかられた。

「もし学校内に真犯人がいるなら、いの一番に危険なのは自分だってことを少しは自覚しろ。松木はお前が心配だからついてきたんだよ。普通なら、俺を疑わなきゃいけない。兄の事件を調べて、一番初めに聞き込みをかけた人間が、偶然にも第二の殺人の被害者の恋人で、その人物から日記を渡したいから放課後お墓に来てくれ、なんて、罠以外の何物にも見えないぞ。これで俺が真犯人で、もし松木と坂崎がお前についてこなかったら、間違いなくお前は明日、学校で死体になって発見されてた」

 そう言われると、トンボはぐうの音も出ない。
 自分でも迂闊だったと思う。
 ヨースケが犯人かもしれないという可能性そのものを考えなかった。
 これではヨースケが犯人でなくても、いつか真犯人に同じような手口で殺されかねない。

「すいません……でも、それじゃあ、誰も信じられなくなります……」

「誰かを信じたいなら、犯人探しなんて今すぐやめろ」

 ヨースケはきっぱりと言った。

「俺はなトンボ、ヨルが殺された時、お前と同じように犯人を学校の仲間の中に探して、復讐してやろうって思ってた。学校にいるやつみんなが犯人かもしれないと疑ってたし、少しでも怪しかったら殺してやろうって本気で思ってた。でも、アゲハ先輩がヨルの日記を返すときに言ったんだ。『潮ヶ浜さんの復讐をするのは自由だけど、潮ヶ浜さんの名のもとに桜木君が殺人を行うなら、それは君が潮ヶ浜さんに人殺しをさせることだ』って」

――復讐って、便利な言葉だよな。ヨースケは弱弱しく呟く。

「自分が好きな人を殺されて憎む気持ちって、絶対に殺された人が殺したやつを恨む気持ちとおんなじじゃない。それなのに、復讐って言葉を使うと、俺が殺したいって気持ちを、ヨルのせいにできちゃうんだよ。ヨルが殺されたから、だから俺が犯人を殺して、ヨルの無念を晴らすんだって。それは俺が人殺しをするのはヨルのせいだって言うことで……いつの間にか俺、ヨルが好きだって言いながら人を殺すことを正当化してた。俺はヨルを、人殺しの理由にしてたんだ。それってすごく怖いことだ。だから――」

 ヨースケは真剣な顔で言っていた。
 とても悲しそうな顔だった。
 この人はきっと、潮ヶ浜夜のことが大好きだったんだろう。
 そして今、トンボのことを本当に親身に心配している。
――自分はそんな気持ちにさえ、疑いの眼差しを向けなければならないのだろうか。

 そんなことを思っているトンボの前にヨースケは二冊の日記帳を差し出した。
 一つはいかにも女の子が好みそうなパステルカラーの鍵付きの日記帳。
 もう一つはただの厚めのノートと言った感じだった。

「誰かを信じていたいなら、俺や、坂崎や、松木や、お前のお兄さん自身を信じていたいなら、今すぐ犯人探しや探偵ごっこなんてやめろ。――これは去年の四月から、ヨルが殺される日までの間の日記と、お前のお兄さん、アゲハ先輩が事件について調べた記録だ。でもオレはヨルの日記は読んだけど、アゲハ先輩のは読んでないからな。あの人が死んで、事件を調べたいなんて気はなくなっちまった。もし真相が、お前にとって受け入れがたいものだったとしても、それでもお前がお兄さんを殺した事件の犯人を知りたいと思うなら、この日記はお前に預ける。読んでいいし、お前の考えを書いてもいい。返さなくていい。なんなら燃やしても構わない。でも、ここに書いてあることは、絶対に疑いの眼差しで見なくちゃいけない。だって俺が――真犯人かもしれないんだからな」

「ヨースケ先輩……」

 冗談でもやめてください、と言うとするトンボにヨースケは手のひらを広げて制す。

「冗談じゃないぞ。本気で言ってるんだからな。俺が犯人だったら、お前を殺さなかったのは松木と坂崎っていう邪魔がついてきたから。そこで俺はその場合に備えて、お前に犯人をミスリードさせる手段として、この日記帳を渡す――そう思っとけ。この日記を受け取るんならな。確信はいつだって足元をおろそかにさせる。こいつが犯人、なんて確信はともかく、こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。その覚悟があるなら――」

「もらいます」

 トンボはヨースケの手から日記を取り、迷いなく言う。

「そして、先輩のことも信じてます。タスクも、タイチも、兄さんのことも。先輩には虫のいい話に聞こえるかもしれないけど、ボクはやっぱり親切にされれば、それを疑うより先に、信じてしまいます。いつか、騙されて、痛い目を見る、いや、本当に死にそうな目に遭うかもしれません。それでも、ボクは信じたい。兄さんと、兄さんが信じたものの潔白を」

 ヨースケはやれやれと言わんばかりにうつむいて笑って、大きな声でだってよと言った。

「純粋で危なっかしーお姫様だ! いつ誰に騙されるかわからねーぞ! お前らで守ってやりな! 二人のひよっこナイト様よ!」

 ヨースケはトンボを二人に押し付けるように背中を押して、鞄を背中に担いで後ろを向いた。

「言いたいことは言ったし、渡したいものも渡したし、釘を刺した方がいいと思ったことは一応釘を刺しといたからな。後はお前ら三人で好きにしな。俺はこの件に関してはもう何も言わないし、協力もしないからな。じゃーな」

 ヨースケはそのまま霊園を後にした。
 トンボはその姿が見えなくなると、タイチとタスクを振り返った。

「ごめん、タイチ。ボクが不用心だった。心配してついてきてくれてありがとう」
The Sun visits The Night's grave
»»  2013.09.02.


 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。

「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」

「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」

「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」

 胸を叩こうとしたタイチの腕をタスクが掴んだ。
 さすがにタスクの目の前で調子に乗りすぎたか。そう思ってタスクの方を見て――。
 そこでようやく、二人は異常に気付く。
 タスクはギュッと胸のあたりを押さえていた。おそらくそこにある紫水晶の振り子を。
 その顔はひどく歪んでいる。
 笑おうとする筋肉と、それをこらえようとする筋肉がぶつかり合っているようだった。

――鬼が来たんだ。ここは学校じゃないから。そしてタイチがいるから。
――こんな時に。

「……タイチ、トンボ、逃げろ」

 呻くようにタスクが言った瞬間、潮ヶ浜夜の墓に供えられたろうそくと線香が、墓石より高く灰色の炎を上げて燃え盛った。
 タイチは即座にタスクに掴まれた腕を振りほどき、トンボの腕をつかんで霊園の出口に向かう。その足が突然止まった。
 
「タイチ……?」

 トンボが怪訝に思って名前を呼ぶと、即座にタイチはタスクを振り返り、トンボの腰に肩を当てて、そのまま横に弾き飛ばした。
 さっきまでトンボ達がいた石畳が、灰色の炎を上げ、一瞬で燃え尽きていく。
――いや、それはどんどん燃え広がるように横に伸びて、いつの間にか霊園そのものを灰色の炎の壁が覆っていた。

「クソ、逃げ道を塞がれた……!」

 タイチが苦々しく言い、タスクとトンボの間に立ちふさがる。

「トンちゃん……短い人生だったけど、オレ幸せかもしれない。だって死ぬ前に好きな人と一緒にいられたし」

「――バカ、こんな時に!」

 叫ぶトンボの胸にタイチは顔をうずめる。そのまま地面に押し倒された。
 タイチの背中の上を、灰色の火球が通り過ぎて行った。

 それが知らない人の墓石に当たって、その墓を燃やし尽くしていく。
 墓が一瞬のうちに見る間に跡形もなくなっていくのを見て、タイチもトンボも戦慄する。

「……トンちゃん、合図したら、トンちゃんは目を閉じるんだ。その間、何が聞こえても絶対に目を開けないで。作戦がうまくいったら、きっとタスクは元のタスクに戻ってるから。そしたらさ、トンちゃんはタスクと二人で、学校で一緒にお弁当食べて、一緒に帰ったり、一緒に海に行ったりお祭りに行ったりして、それで一緒に卒業するんだ。これまで通りになる。何も変わらない、今まで通りだ。今日のことは台風みたいなものだよ。だからさ、タスクのこと怖がったり、嫌いにならないで、ずっと一緒にいてやってくれよな」

「タイチ?」

「合図は、アイ、ラブ、ユーだ。オレがユーって言ったらトンちゃんは目を閉じるんだ。大丈夫、あいつの狙いは最初からオレだよ。トンちゃんはオレといなければ危害を加えられないから」

「待ってよタイチ、君は――」

「行くよトンちゃん、アイ、ラブ……」

――やめろ、そんなの聞きたくない。
 ボクが目を閉じて、その間に君は何をするつもりだ?
 タスクが元に戻るって、どうしてその後に君が登場しない?
 ずっと一緒にいてやってくれ? そんなの君も一緒に決まってるだろ!

 タイチがユーと叫んだ。トンボは大声でやめろと叫ぶ。
 タスクは歪んだ笑い声をあげながら、タイチに向かって灰色の火を放った。
 それがタイチにぶつかる――その寸前。トンボの目の前に天使が現れた。

 トンボはわが目を疑った。
 だってその人は、本当に空から降りてきたから。
 猛烈な風をはらんで、ゆっくりと天から階段を降りるように、その男は降臨した。
――萩原ミツルは。

 突風にあおられた灰色の炎は見る間に小さくなり、やがて消えた。
 ミツルが消しているのだ――風を操って。そうトンボの直感が告げる。

「今のうちに逃げよう、トンちゃん!」

 炎の壁が無くなった隙をタイチは見逃さない。トンボの手を握って立ち上がる。

「何してるトンちゃん、立つんだよ! 立って逃げなきゃ!」

 トンボは立てなかった。いや、正確には、見惚れていた。

 まるでそれは一幅の絵画、あるいは神話の一場面の切り抜きのようだった。
 墓碑が立ち並ぶ野原に現れた鬼。その鬼の前に風と共に舞い降りる天使。
 そして天使は鬼を恐れることなく近づいて、その頬に触れる。
 鬼は天使の威光に跪いて、天使が何かを囁いた。
 風の音がうるさくて、トンボには聞こえない。
 しかしそれがタスクの耳に入ると、タスクの目に光が戻った。
 天使が祝福し、鬼が人間に戻る一幕――。
 劇的というなら、この上なく虚構めいた状況だった。
 あまりに現実的でなくて、夢を見ているのだとさえ思った。

 そして天使は――ミツルはトンボとタイチを振り返った。

「篠塚、悪いことは言わない。この二人と一緒に行動するのはやめておけ。いつかこういう目に遭って、君は命を落とす羽目になる」

 感情のないその言葉は、一種荘厳な宣託のようにもトンボには聞こえた。

「あ、アンタ、何なんだよ! 突然現れて! 助けてくれたのはありがたいけど、いきなり何を……」

 ミツルは叫ぶタイチの方を見て、その顔に手を伸ばす。
 タイチは怯んだように身をのけぞらせた。

「助けたのは篠塚であって君ではない。僕に憑いている色鬼も君を殺さないという判断を下すかどうかは、まだ躊躇っている」

「それ、どういうことだよ……」

 タイチはミツルの言葉に顔色が変わる。

「モラトリアム――君は今、色鬼灰音以外の全ての色鬼から、殺すべきかどうかを猶予されている。それは君を殺すことがこの世界と色鬼と鴉に何をもたらすかが未知数だからだ。それにさしたる影響がないことが判明すれば、色鬼達は君を殺すことを躊躇しないだろう。覚えておけ、松木タイチ。今後どう物語が展開しようと君の一族は、常に色鬼にとっても人間にとっても敵勢だということを」

「何だと……! オレの一族って、どういうことだよ! あんた、オレの親のこと――」

 噛みつくように言うタイチに構わず、ミツルは、今度はタスクを指さした。

「行かなくていいのかい。君の、大事な、大事な友達が、目を覚ます――」

 タスクはわなわなと顔を覆ってその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 タイチはそれを見て、くそ、と呟いてそのそばに駆け寄る。
 トンボはやっと我に返って、ミツルを見上げた。

「あの――、ありがとうございます」

 ミツルは何も言わずにトンボの顔に手を伸ばし、その顎に手を触れる。

「よく似ている……」

「え――」

「もう彼らには関わるな。また坂崎タスクがああなっても、僕はもう助けない。覚えておくことだ」

――行こう、トウタ。
 ミツルはまたそう言うとトンボの顔から手を離し、帰って行った。
 トンボは呆然とそれを見送り、そして座り込むタスクのそばに駆け寄った。

「大丈夫、タスク?」

 タスクはおどおどした視線でトンボとタイチを見て、それからうつむいて顔を両手で覆った。
 わなわなとその肩が震えだす。
 うう、うう、とうめき声のような音がその喉から聞こえてきた。
 また、泣いてしまうのだろうか。トンボがそう思った時だった。

――うう、ふぐ、ふふふ、ははは……。

――うめき声、違う、これは、笑い声だ。タスクは笑っている。高らかに声を上げて。
 トンボとタイチはその様子にさっと身構えた。

「ば、バーカ」

 タスクが言った。
 トンボもタイチもきょとんとする。

「だ、大丈夫だって? ま、ま、まだわからないのか、この場で誰がいちば、一番足手まといだったか!」
 
 タスクの声はがたがたと震えていた。歯の根が合っていないのだ。
 タスクは暗い瞳でトンボをあざけるような視線で睨む。

「は、はっきり言ってやるよ! じ、自分のこと、ぼ、ぼ、ボクだとか、か、かわ、かわいいと思ってんのか、きも、きも、キモいんだよ、この――おとこ女! いい年して、こ、高校生にもなって、すこ、すこ、少しは、恥じらいを持て! ば、ば、バーカ、ハハハ、ハハハハハ!」

「何だと、お前タスク! トンちゃんがどれだけ――」

 トンボがその言葉を理解して、怒りを感じるより先に、タイチがタスクを怒鳴りつけた。
 タスクはそのタイチにも、やはりバカにするような目を向けた。

「お、お、お前も、タイチも、い、いい加減にしろよ! その髪型、何なんだよ、び、貧乏キャラぶってんじゃ、ねーよ! アホみたいな振りしてるのも、ば、ばれてんだよ! バレバレなんだよ! ぶ、ぶりっ子女に、アホの振りした男に、お、お、お似合いのバカップルだな、バーカバーカ! もう近寄んな! ば、バカがうつる!」

 タイチがその横っ面を殴りつけた。
 タスクはその顔に下卑た笑みを浮かべてへらへらと笑う。

「こ、言葉で返せないと、ぼ、暴力に頼るぅ、ち、知能が低い、げげ、原始人だから、しょうがないよなぁ。お、お前らりょ、りょ、両親がいないから……だ、だ、だから、精神が、肉体の成長に、つ、つ、ついていけないんだ! だから、す、捨てられたんだよ!」

「――お前!」

 タイチが振りかぶった手を、トンボは止めた。
 タイチが振り返るより早く、タスクの襟首をつかむ。

「あっそ。勝手にすれば、自殺君」

 トンボはそう言ってタスクのほっぺたに往復びんたを叩きつけ、その胸を突き飛ばした。
 タスクの鼻から、血が滴っている。その頬を透明な液体が撫でた。
 涙――違う、雨が降ってきたのだ。
 雨はあっという間に土砂降りになった。
 トンボは鞄とヨースケからもらった日記帳を鞄にしまい、タスクに背を向けた。

「二度と近付かないで」

「あ、待ってトンちゃん――」

 タイチは叫んで、一度タスクを振り返った。

「――あばよ」

 そしてトンボの後を追う。
 一人残されたタスクは、雨音と張り合ってるのかと思うくらい、大きな声で笑い続けた。

The Angel: His saying is nothing but farewell
»»  2013.09.02.


「トンちゃん、待ってって」

 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。

「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」

 え、とタイチの顔から表情が抜けた。

「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で兄の死の真相を調べてるのに、ふざけ半分で、その上命まで狙われたら話にならない」

「トンちゃん、オレは――」

「触らないでよ!」

 手を伸ばすタイチをトンボは怒鳴って振り払う。

「馴れ馴れしくどさくさに紛れて手を取ってきて! そういうのセクハラだから! こっちはもううんざりなんだよ! 二度と声をかけないで――目の前から消えて!」

 タイチは小さくトンちゃん、と呟いて、ああそうかよ、といらだった声を出した。

「どいつもこいつも、つらくて今にも死にそうな顔してるから、下手に出て優しくしてりゃ付け上がりやがって! そうかよ、オレはずっと親切にしてるつもりだったけど、そんな風に思われてたなんて知らなかった! ごめんね、迷惑で! 安心して、もう二度と話しかけないから! じゃあね! さよなら!」

 タイチは怒鳴るように言ってトンボに背中を向けて走り去った。
 トンボはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 ヘッドライトをつけた車が隣の深い水たまりを、派手に水しぶきを上げて通り抜けた。
 トンボは服に泥水を浴びて、それでもまだそこから動けずにいた。

――これでいいんだ。これで。

 トンボにはタスクの真意がわかっていた。
 タスクは自分がタイチにもトンボにも害にしかならないことを理解していた。
 だから、あえてトンボやタイチの悪口を言って、自分との縁を切らせたのだ。
 それが一番いい方法なのだ。そうやってお互い距離を取っていた方がいい。
 タスクはタイチを殺そうとしている。
 トンボの事件は二人には無関係だ。
 ヨースケにはああ言われたが、こうなった以上、トンボが慎重になるしかない。
 でも、それでいいのだ。そうするのが現状で、一番――。

「う……く……」

 頭をよぎるのはこの二か月の三人での思い出だった。
 入学式、みんな制服姿で、似たような恰好をしていても、タイチとタスクの二人組は、明らかに周囲から浮いていた。
 タイチはその見た目で、タスクはその雰囲気で逆にトンボの目に残った。
 口をきいたのは最初のホームルームの時。
 委員会決めで、それぞれの委員の役割を先生が説明し、立候補を募った時、トンボは真っ先にクラス委員に手をあげ、周囲から拍手をもらった。
 その後なかなか決まらない男子クラス委員は結局じゃんけんで負けた人間がやることになり、それがタスクだった。
 トンボは最初、うわ、こいつかよ、と正直思った。
 タスクはおどおどとしながら、それでも、自分から手を差し出して、よろしくと言ってきたのだ。

 五月になって、トンボが風邪を引いて学校を休むと、タスクはクラス委員だからとプリントを届けに来てくれた。
 これがまた笑い話で、タスクは道に迷ってトンボの家とはまるで別の隣町に行ってしまい、あわや行方不明扱いになるところで、逆にトンボが家を出て探しに行く羽目になって。
 それで学校に行けば、タスクは何故か風邪を引いたのは普段の食生活が悪いからだと上から目線でトンボに言い、だから弁当を作ってくるので食べろと言った。
 どうせ家族とタイチの分を作っているから、あと一人くらい増えても問題ないと。

 それから、三人で弁当を突きあう仲になって、結局気がつけば、三人で固まっている。
 タイチがいつもひょうきんなことをして、タスクがそれに突っ込んで、三人で笑って。

――そう言う日々が、今日終わったのだ。
 理由がどうであれ、とにかく、明日から、三人はきっと口を交わすこともない。
 もちろん弁当をタスクが持ってきてくれることもなければ、もうタイチから熱烈なアプローチを受ける心配をする必要もない。

――清々した。……わけないか。
 この胸にある空洞は何だろう。
 トンボは自分の胸に手を当てた。心臓の拍動を感じる。
 でもここにはもう何もない。心がない。心を満たしていた明るい色がない。
 今までそこを満たしていた暖かくて優しい色。
 どこに忘れてきてしまったんだろう。なくさないように大切にしていたのに。
 兄が死んで、一度なくして。
 もう二度となくさないようにしっかり守っていたはずなのに。
 どうしてまた同じ感覚が、胸に広がるんだろう。
 何故また同じように胸の中が灰色に塗りつぶされるんだろう。

 結局トンボは、兄の死から何一つ学んでいなくて。
 そのトンボの愚かさが、またトンボ自身から大切なものを奪っていく。
 雨は止んで、カエルが鳴く道をトンボはとぼとぼと帰る。
 その合唱はさながらトンボの愚かさをあざ笑うようで。
 やるせなくてトンボは暗い夜道に頼りなく灯る街灯の下で、ついに座り込んで泣いた。

――ボクは、バカだ。兄さん、ごめんなさい。タスク、タイチ、ごめん。

「ごめん……本当にごめん」

 そんなことを言っても、兄にも、タイチにもタスクにも届かないのに。
 それでも口からはその言葉が漏れた。

 どれくらいそうして泣いていたんだろうか。
 雨に濡れたTシャツはうっすらと乾き始めていたから、かなりの時間が経っていたことは間違いなかった。
 いい加減、家に帰らなければ。
 それに、兄が巻き込まれた事件の真相は、トンボの友情の崩壊などにはこゆるぎもしないのには違いなかった。
 ヨースケからもらった日記も読まなければならない。

――一体何のために。ふとその疑問がトンボの脳裏をかすめた。
 これで、仮に真犯人が見つかって、それが逮捕されたとしても、タスクとタイチとの関係が修復できるわけではない。
 大体タスクの問題はそれとはまったく別の次元で起こっているのだし。
 だから、トンボがこの事件について調べることは、トンボに何の利益ももたらさない。

 四人も人を殺した犯罪者が逮捕されることは社会にとってはメリットがあるだろう。
 でも、それはトンボにとって親しい友人二人との関係を反故にしてまで得る価値のあるものだろうか。
 いや、トンボが事件を調べようと調べまいと、この関係の破綻はタスクの自殺にあるのだからトンボの行動は関係なかったのだろうか。
 トンボがどうしようと、いずれこの結末は回避できなかったのだろうか。
 だったらトンボは気にせず、兄の死の究明を続けるべきなのかもしれない。

――でも、だから、何のために。
 タイチやタスクは事件には無関係だったけれど、彼らが動くことでトンボも動かされていた。
 タスクの自殺から始まり、タイチの叔父が二つの事件を関連付けた。
 関係ない二人の行動は、それでも常にトンボも巻き込んで展開していた。
 これからトンボは一人で事件に立ち向かわなければならない。
 そのためにはしっかりとした動機付けが必要だった。
 でも今、トンボの胸を虚無感が満たしていて、何のやる気も出ない。

 すすり泣きながら月明かりを頼りに帰り道を歩いていたら、不意に声をかけられた。

「そんなに泣いてどうしたよ、可愛らしいお嬢さん?」

 梅雨の分厚い雲の合間から漏れる月明かりに、その人物は闇の中から浮かび上がった。
――ように見えた。

「よォ、こんばんは」

「へ――?」

――それは見た瞬間、くらりとするような女性。

 170センチ以上はありそうな長身。
 グラビアモデルのようなスタイルに露出の高い服装。
 服の上からでも分かるほど発達した筋肉に、日本人離れした掘りの深い顔つき。
 ボリュームのある唇がとても色っぽい。
 その目つきは鋭い三白眼で猛禽類を思い出させる。
 迫力のあるドレッドヘアがよく似合っていた。

 一度見れば忘れられない強烈な色気を放つ女性だ。

「こうして直接話すのは初めてだな。トンボ、篠塚トンボ」

 彼女はくわえていた煙草をポケット灰皿に捨て、そう言った。

「あ、あの……あなたは?」

 どうしてトンボの名前を知っているのだろうか。
 知り合いにこんな人はいない。いれば絶対に覚えている。
 つい呆気に取られ、泣き止んでしまった。
 それだけではない。トンボの頭にはうっすらと恐怖があった。
 この先アゲハの事件を調べていく上で、トンボの前に現れる人間はみんな怪しいのだ。
 さらにこの人はトンボのことを知っている。トンボには心当たりがないのに。
 そんな人物がこの状況で現れるとすれば、トンボは怪しまずにはいられない。

「……やめろよ、顔が怖くなってるぜ。あいにくと眼鏡のお巡りみたく身の証を立てられるような立派な手帳は持ち合わせが無くてな。でも名前くらいは聞いた事あるんじゃねェか? アタシは神楽崎ユミエ……好きに呼べばいい」

 ユミエ――そうか。この人があのユミエか。

 トンボの中で全てが繋がった。
 確かにユミエの言う通り直接会話するのは初めてだ。
 でも、トンボは彼女のことを知っている。

 神楽崎ユミエ。
 伝説の式部北高校第六十二代生徒会。『伝説』を『伝説』にした生徒会長。
 それがこの女性。そして。
――篠塚アゲハの思い人だった女性だ。
 トンボの胸にはなぜか落胆が広がっていた。
 萩原ミツルの次には、この人。これでは本当に山下の言う通りではないか。
 この事件の裏で六十二代生徒会が動いている。それはもう間違いなかった。

「あなたがユミエさん、……兄さんから聞いた通りなんですね」

 ドレッドヘアに並外れたプロポーション、鋭い顔つきと意志の強い目。
 アゲハがとても嬉しそうに話していたのをよく覚えている。
 時間が時間だし、出会いが出会いなのでまだ緊張はしている。
 しかし、少なくとも恐怖は和らいでいった。

「お前もアゲハから聞いた通りだな。男勝りで気の強い……それにアイツそっくりだ」

 ニヒルな笑みを浮かべながら、ユミエはトンボの頭を撫でる。
 大きな手のひらだった。しかし触れられた感触に一瞬トンボはひやりとした。
 初夏の人肌とは思えないほどに冷え切っていた。

 ユミエの事はアゲハからよく聞いていた。
 破天荒で型破りで、真っ直ぐな人だと。
 そのインパクトのある風貌とは裏腹に、ユミエの手は年相応の女性の白さがある。
 よく見ればとてもきれいな白い肌をしている。少し、意外に感じた。

 ユミエの手が頭から下へ降り、頬を撫でる。
 その感触が気に入ったのか、その色気たっぷりの唇を小さく舌なめずりをした。
 その仕草を見て、トンボは思い出した。
 アゲハから聞かされていたユミエのもう一つの特徴を。

「可愛いヤツだな。思わず襲いたくなっちまいそうだ」

「ちょ……ぼ、ボクにそっちの気は無いですって!」

「そりゃあ残念」

 ユミエは意外なほどあっさりと手を離す。奇妙なほどにドキドキしている。

――なんだこの人。

 トンボは思い出す。
 ユミエは――性の対象に性別を問わないのだと。
 つまり、いわゆるバイセクシュアルであり、特に女好きであるらしい。
 女子からの圧倒的な人気で生徒会長になった人だと。
 アゲハに好きな人が出来たと聞いて、それを知った時は姉と二人で頭を抱えほどだ。

「挨拶はこのくらいにして……トンボ。アタシが今日来たのは話があるからだ」

「やっぱり……あなたたちなんですか? 去年、式部北高校で起こった連続殺人事件――ボクがそれを嗅ぎまわってると厄介なことになるから。あなたたちは――六十二代生徒会は、本当は何をしてたんですか? あなたは――何者なんです?」

 ゆったりとした動作でユミエはトンボに近付く。
 迫力に気圧され、トンボは無意識のうちに後ずさりしていた。
 薄暗い月明かりの中で、ユミエの瞳が妖しく煌めく。
 ダンッとトンボの横に大きな音がした。ユミエがトンボの横の壁を蹴りつけた音だった。
 そのままユミエは顔を近付ける。
 わずかな光の中で浮き上がるユミエの表情はひどく官能的に見えた。

「アタシが何者か――教えてやろうか」

 吐息がかかる程近くで、ユミエの潜めた声がささやく。

「吸血鬼――だよ」

 ユミエはいきなりトンボの耳に舌を這わせた。
 嬲るような、貪るような乱暴な愛撫。
 意志とは関係無しにトンボの口から甘い声が漏れた。

――喰われる。

 理屈抜きにトンボはそう感じた。
 この人は――魔性だ。人間じゃない、本物の、化け物だ。
 恐怖と快楽が頭の中で溶け、理性が麻痺していく。
 トンボのがらんどうになった胸の中に耳から伝わってくる快感が染み込んでいく。
 そのままユミエの体にすべてをゆだねたくなった。

「――ボクは、信じたい!」

 あァ? とユミエがトンボの耳に這わせた舌を離す。
 耳たぶから、とろりと糸を引いて、唾液がトンボの肩にかかった。

「ボクは、兄さんを、六十二代生徒会が、去年の事件の犯人じゃないと、その潔白を証明したい! 兄さんが犯人扱いされてたまるか! 兄さんが信じていたものが犯人であってたまるか! ――教えてくださいユミエさん、あなた達は犯人なんですか?」

 誘惑に屈してはならない。だってもう、トンボは一人きりなのだから。
 気持ちを強く持って、まっすぐに進まなくてはいけないのだ。
 ユミエは探るような視線でトンボを見た。トンボはそれも受け止める。
 息が詰まりそうなほどの緊張を破ったのはユミエだった。
 やれやれ、と呟いて足を外し、煙草を取り出す。

「煙草、吸ってもいいか?」

「……どうぞ」

 トンボの姉も喫煙者だ。煙草が苦手という事は無かった。
 姉はトンボがタバコに興味を示しそうになると絶対に吸うなと言うのだが。

 ユミエはマッチを取り出し、煙草に火をつける。
 銘柄はラッキー・ストライク。マッチはポケット灰皿に捨てる。
 妙なところで律儀な人だった。

 ユミエはアゲハの上の学年だったから今は十八歳か十九歳のはず。
 それなのにひどく様になっていた。まるで洋画のワンシーンのようだ。

「やっぱりアゲハの妹だな」

「え?」

「妙なとこばっか似てるよ。その頑固なトコとかな」

 鋭い三白眼がアゲハの名前を出した時だけ違う色が混じった気がした。

「少しビビらせりゃ引っ込むかと思ったが……ナメてたよ」

「はぁ……」

「……時間、大丈夫か?」

 携帯を見ると九時を少し過ぎていた。
 携帯にはメールが届いており、件名は『ごめん!』。
 姉からの今日は遅くなるという連絡だ。こういう事は少なくない。
 帰宅する時間が書いてないから、十二時を過ぎるかもしれなかった。

「大丈夫ですけど」

「そうか。少し長くなるけれどよ、いいか?」

「え?」

「アゲハの話だ。アイツの事話してやるよ」

 ユミエは煙を吐きながらそう言ったのだった。

「さてと――どっから話したもんかな」

 そしてユミエは話を始めた。彼女が長を務めた時代の話を。
 生きていた頃のアゲハの話を。

――そうだな。アゲハはアタシが生徒会に誘ったんだよ。

 アタシが生徒会長で、ミツルの野郎は副会長で、アゲハとカイコが部下だった。
 アタシが生徒会長になってみりゃ、どいつもこいつも尻込みしやがってな。
 生徒会メンバーがゴッソリ抜けたんだ。
 あの時の生徒会は会長のアタシともう一人の変人副会長だけ。

 さすがにどうにもならねェからな。
 ヘッドハンティングでもするかって時にちょうど面白いヤツが二年にいるって聞いた。
 実際に見てみりゃ確かに面白そうなヤツだった。

 アタシは覚えちゃいなかったんだ。でもアゲハはアタシの事を最初から知ってたよ。
 なんでも中学ン時にバカに囲まれてるトコをアタシに助けられたとか言ってたな。
 いちいち覚えちゃいねェよ。殴った野郎の顔も助けた野郎の顔も。
 キリがねェからな。 

 あァ? アゲハのヤツ、ンな事言ってたのか? なんだそりゃ。
 アタシはそんな大層なモンじゃねェつーの。

 妙なヤツでな……。
 アタシが女と付き合ってるって知っててそれでもアタシの事が好きだとよ。
 いつもそう言ってたな。

 まァ、そんな次第でアゲハのヤツともう一人、カイコってヤツを引き抜いた。
 コイツらが優秀でよ、信じられるか? 
 アタシらの代の生徒会は四人だったんだぜ。
 基幹が四人って意味じゃねェ。全員上から下っ端合わせて四人だった。
 特例だよ、特例。

 あの頃、ちょうど学校の周りで変態が出るって噂が出てたんだ。
 アタシら生徒会は良くも悪くも有名だったからな、すぐに話は入ってきた。

 最初はよくいる変態だと考えた。
 ミツルの指示でアゲハとカイコが情報収集。
 見つけたクズをアタシがぶん殴って一件落着。
 そうなるはずだってな。そう驚くなよ。
 アタシらの生徒会はいっつもそんなんだったんだぜ。

 だが……死人が出た。

 早田明美。地味だが笑うと可愛いヤツだったぜ。

 ハッ……手は出してねぇよ。好きなヤツがいたらしいからな。

 見つけたのはカイコだ。アイツは真面目だったからな……いつも一番に登校してた。
 いつものように花壇を見て回ってたら、見ちまったらしい。

 そのリアクションだと知ってたか……そうだ、木に針金で吊されたアケミの左足だよ。
 学校はすぐに警察に連絡。学校は休校。
 学校の至る所に置き忘れたみてェに身体が置いてあった。

……アタシらはようやく気付いたよ。あの野郎はただのクズじゃねェ。
 糞の中でも一等腐りきったクズだってな。

 すまねェ話がそれた。
 警察は近辺で起きてた連続通り魔事件の三人目かもしれないと判断した。
 断定じゃねぇよ。このときはな。
 とんでもない大騒ぎから一月経った。

 ああ、そうだ。言う通りだ。二人目が殺された。

 今度は三年の潮ヶ浜夜。メチャクチャな殺され方だったらしい。
 見つけたのはアゲハだったよ。
 カイコを一人じゃ危ないからって二人で登校してたらしい。
 生徒で直接見たのはアゲハとカイコだけだ。朝練も中止になってたからな。

 ん? カイコとアゲハか? ああ、なんか腐れ縁とか言ってたな。
 仲は良かったぜ。あのカイコもアゲハと話す時は力が抜けてたしな。

 話を戻すぞ。生徒も大騒ぎだ。どいつもこいつも怯えてた。
 パニック起こしそうなヤツを抑えるのでアタシとミツルは手がいっぱいだった。
 それ以前にアタシらは事情聴取をいやってほど受けさせられたからな。
 カイコとアゲハは第一発見者、おまけにカイコの実家ってのはこりゃ……。
 いや何でもない。

 とにかく必要最低限のことしかできなかった。
 もちろん学校側だっててんやわんやだ。
 一番ヒステリーを起こしてたのは保護者連中だったんだがな。
 事務仕事は全部アゲハとカイコに任せてたよ。アイツらは優秀だったからな。

 知らなかったか? アイツらは優秀だった。贔屓目無しにな。
 よくもまァ、あんだけ仕事出来るもんだ。
 で、仕事ができるだけじゃなくて、正義感もあった。
 それでどうしようもないくらいに向う見ずなヤツらだったよ。
 とにかくあの二人は二人でいさせておくと妙な方向にエネルギーを注ぐんだな。
 アタシとミツルは考えてみりゃ手綱を引いてた様なもんさ。
 暴走ばっかする馬力のある二人のな。

 どうもその時にアゲハとカイコは推理をしてたらしい。
 うちの学校の連中が狙われるのは制服を目印にしてるってな。
 ここいらの高校で今時制服があるのは式部北くらいだからな。
 二人が学校に申請したら、すんなりと私服登下校の許可が下りた。
 そんで一切の目撃情報も、確固たる証拠も無いままに時間だけが過ぎた。

 警察の警備を馬鹿にするみたいに三人目が殺された。
 曽根百合子って名前の二年生だ。
 こいつは前の二件がショックで不登校になってたんだがな。その日だけ出かけてたんだ。
 一人目のアケミの四十九日でな。友達だったらしい。だから、制服着てたんだよ。

 それからしばらくして、秋が終わるころだ。アゲハが妙な動きをし始めたのは。
 すぐに問い詰めたんだが、何にも喋りやがらねェ。
 だがアゲハは何をしてたかはすぐに分かったよ。

 突然学校から電話があった。
 補導で捕まった女子が偽名を名乗って身元がわかんねェとさ。
 女子生徒に人気のあるアタシなら誰か分かるだろうって、行ってみりゃアゲハがいた。
 おかしな話だとは思ったんだ。
 偽名だろうがなんだろうが、生徒の顔見て誰だかわかんねえなんて教師はうちにいねェ。
 生徒の面通しに生徒会長が呼ばれるなんておかしいにも程がある。

 アゲハのヤツ、演劇部の女子の制服を持ち出して夜中徘徊してやがったんだ。
 アイツ、女みてェな顔と体してる上に化粧までしてやがったからな……。
 警察も教師も誰もが女だと思ってやがったよ。
 呆れて、それから腹が捩れるまで笑ったぜ、ありゃ。

 あァ、まったくだ。黙ってりゃ女と間違えるヤツも少なくなかったからな。
 けどその恰好じゃテメェも似たようなもんだろ? 
 ま、アゲハもアタシが来たらようやく観念して……。
 というよりそんなピリピリしてる時期にそんな事してりゃ目的は一つだわな。

 わかんねェか? アゲハは釣りをしてたのさ。

――囮だよ。エサはアゲハ自身で、獲物は吸血ジャック、いや、その陰に隠れてうちの生徒を殺し手やがったクズ野郎だ。

 知らなかったって? そりゃそうだ。
 とりあえずアタシが指示したって誤魔化しといたからな。
 何とかアゲハは処分されずにすんだからな、知らなくて当然だよ。
 おかげでアタシは……。そうだな、アタシはアタシでしばらく休ませてもらった。

 その様子だともう知ってるみたいだから言うが、当時一番疑われたのはアタシだ。
 アタシ達六十二代生徒会だった。
 あいつがあんな危険な真似してたのはな、ただアタシの無実を証明する、ただそれだけだったんだ。
 今のお前とおんなじだよ。

――アゲハは諦めなかった。
 アタシが目を離したすきにカイコの制服借りて囮を続けていやがったんだ。

 ようやく警察もこの事件が吸血ジャックだと判断してな。
 木枯らしが吹くクソ寒い学校に二十四時間体制で張り込んでた。
 カイコの奴は頼りたくもない親に頭を下げて生徒の送迎にバスとタクシーを用意した。

 だが。

 結局、アゲハの策は成功した。しちまった。しちまいやがったンだよ。

 皮肉にもクリスマスだったよ。
 最近じゃ珍しく雪の降るホワイトクリスマスだったんだ。
 とんだサンタクロースもいたもんだよ。
 あの野郎はアゲハの命と目玉二つ奪っていきやがった。

……あるはずの無い連絡を受けたのはカイコだ。
 不審に思ってまさかと思って学校に忍び込んで見たのはアゲハの死体だった。
 両目がくり抜かれて額に風穴開けられて殺された。

 アタシはあいつの足を圧し折ってでもアゲハを止めるべきだった。

 トンボ、本当にすまない――。

――そう言って神楽崎ユミエは篠塚トンボに深く、深く頭を下げた。

 ユミエの話はトンボにとって衝撃的な事ばかりだった。

――アゲハが囮捜査? 
 アゲハとカイコがユミエとミツルに黙って吸血ジャックを追っていた?
 他でもない、ユミエの無実を証明するために?

 話された内容を頭の中で整理しようとする。
 だがそれはトンボの情報処理能力を大きく上回っていた。

「と、とりあえず頭を上げてくださいっ」

 なんとかユミエの頭を上げさせる。
 ユミエは先程までの妖艶な雰囲気とは違い、ひどく真剣な表情をしていた。
 あの独特なニヒルな笑みも消えている。

 その瞳を見た時、ユミエが心からアゲハの死を悲しんでいるのが伝わった。
 そしてその瞳にある色が、悲しみだけで無いことにも気付いてしまった。

「トンボ。アタシはジャックとクズを絶対に、許さねェ。絶対に。絶対に」

 力強い意志。その瞳に映る色は燃え盛るような怒りと殺意だった。
 覗き込んだだけのトンボが、思わず恐怖を感じるほどの感情だ。

「ユミエさん……」

「あのクズの尻をずっと追い掛けてた。確実に前に進んでる。このままおさらばなんて冗談じゃねェ。あんな下種にいいようにされてハイそうですかなんてわけにはいかねェんだよ。だからトンボ、もう一度言うぜ。もう追い掛けるのはやめろ」

「……でも」

「『でも』じゃねェんだよ。あのクズを追い掛けるのはもうやめろ。アイツは狂ったクズだがバカじゃねェんだ。じゃねェとあんなバカやらかして捕まらねェなんて有り得ねェ。もしそうならそりゃバケモノだ。どっちにしろテメェが手出ししていい相手じゃねェんだよ。……わかるだろ」

 トンボの中で、もう関わらない方がいいというささやきが確かに聞こえた。

「アタシはテメェの覚悟が本物だと思ったから話してやったぜ。アゲハが何で死んだのかは解決したじゃねェか。これ以上テメェが首を突っ込める余地はねェんだよ。テメェの仇はアタシが果たしてやる。だからもう……やめろ」

 ユミエは恐れている。
 トンボがアゲハのように吸血ジャックを追い掛けて、アゲハのように死ぬことを。 
 それが伝わるからこそ、トンボは言葉を発せなかった。
 それは何も他人ごとではない。

――でも。
 山下が言っていたことも引っかかっていた。
 六十二代生徒会の中枢にいた神楽崎ユミエと萩原ミツル。
 山下が忠告したその翌日にその二人がトンボの前に現れた。
 さらに言うなら今日の昼休みカイコはタスクと接触している。
 事件の裏で、確実に彼らは、六十二代生徒会は動いている。
 それは何のためにだろう。ユミエが言ったようにアゲハの弔いのためだろうか。
 この近くで吸血ジャックの痕跡が見つかったという情報をカイコが二人に連絡して。
 それで二人はこの街で吸血ジャックの影を追っているのだろうか。

「山下とかいうヤツにも、もう近付くな。アイツは妙なヤツだ。ジャックのクズを追い掛けてりゃ、事件の起こる前と後、両方でうろついてやがる。そもそもアイツがこの事件について嗅ぎ回ってんのがおかしいんだよ。警察って奴はしっかり縄張りが決まってる。犬みてェにな。担当ならまだしも、あんな雑魚にそんな権限も義務もねェんだ」

 言われてトンボはゴクリと息を呑む。
 こうやってトンボに誰かに疑いを持たせようとする情報は、特に慎重に考えなければ。 

「オカルトじみた仮説を立ててんのもあのメガネだけ。そもそも専門家か関係者でもねェとあんな発想にはならねェんだよ。霊能調査室だか何だか知らねェけどな、なんであいつの手元にその色鬼に関わる魔方陣だとか情報が都合よくあるンだ? どう考えてもおかしいだろうが」

 確かに、とトンボも思う。トンボは色鬼と言う怪異の存在を山下から知った。
 トンボは別にそう言うものに詳しくはないが、そんな妖怪だか化け物は決して有名なものではないはずだ。
 それなのに山下は周到に情報を持っていた。
――あらかじめ用意してあったとすら思える。

「いいか、トンボ。吸血ジャックと色鬼が関わってる――こりゃ事実だ。どうしてアタシがそう断言できるのかは言えねェが、この二つは相互に関わりを持ってる。だがな、それを山下が知ってるはずがねェんだ。あいつは絶対にただの人間なんだからな」

 その言葉には何か含みがあった。
 まるでユミエはただの人間ではないと言わんばかりの。
 しかしユミエの言うことはもっともだった。
 昨日山下が現れたタイミングと言いその後の展開と言い、何もかもが仕組まれたようではなかったか。
 ひょっとしてフェンスを落としたのは――。

「それにあの鬱陶しい前髪のガキ。なンか妙な匂いがすんだよな……アレも得体が知れねェ。付き合うんなら用心しろ。まァ、こっちは勘みてェなもんだが」

 鬱陶しい前髪というとタイチだろう。
 だがもうその心配は無用のものになっていた。
 もう二度と、タイチやタスクとは、友達に戻れないのだから。
 
「あなた達は……兄さんを殺したのは、六十二代生徒会じゃないですよね」

 トンボがかすれるような声でそう言うと、ユミエは困ったように頭を掻く。
 ワイルドなドレッドヘアが指に合わせて蛇のようにうねる。
 それから、トンボの目の下を親指で撫でた。
 拭ったのだ。トンボの目からあふれる涙を。

「誓って言うぜ。アゲハを殺したのはアタシ達じゃない。去年学校で四人の生徒を殺した犯人は別にいる」

 ユミエの声は少しの揺らぎもなかった。
 トンボはその言葉に、胸のつかえが取れる気がした。

「ボクはユミエさんの言葉を信じます。……そして、本物の犯人を捕まえる」

 ユミエはハァ、と紫煙と共にため息をついた。
 
「クソ……本当に妙なとこばっか似やがって。しょうがねェな、絶対に危険な事には近付くな。危険かもしれねェ事にも近付くな。アタシのメアドと番号を教えとく。何かありゃ絶対にアタシを呼べ。あと、なるべく一人にはなるな。友達でも何でもいい。この際あのなよっちいチビでも構いやしねェ。とにかく行動するなら二人以上でいろ。登下校中は特にな。全員そういう時間帯で殺されてる」

 赤外線通信でユミエのメールアドレスと携帯番号を受け取る。
 ユミエのメールアドレスは何かの英文のようだった。
 意味は英語の苦手なトンボにはわからない。

「は、はい。わかりました」

――到底タスク達とはもう絶交しているとは言えなかった。

「ずいぶん長話になっちまったな。トンボ、そろそろ帰れ。明日も学校だろ?」

 話に夢中になっていたが携帯を見ればもう十時になろうとしていている。
 小一時間ぐらいはここで話していたという事だ。

「じゃあな。遠慮はいらねェから絶対に連絡しろよ」

 そういうともうユミエは背を向けて歩き出していた。
 大きく堂々とした背中が遠ざかっていく。

「あ、あの」

 どうして呼び止めたかはわからない。でも聞いておかなければならない気がした。

「吸血ジャックを見つけたら……その、ユミエさんはどうするつもりですか」

「……」

 首だけを振り向かせ、ユミエはゆっくりと答えた。

「決まってンだろ。殺してやる。骨を砕いて、四肢を引き裂いて、両目に風穴空けて晒してやる。アタシは絶対許さねェ」

 脊髄が凍るような声と視線にトンボは何も動けなかった。
 ユミエが去っていく。今度は何も声をかけなかった。かけられなかった。
 ユミエの歩調に合わせて揺れる煙草の火が夜の闇にぼんやりと浮かび上がる。
 それはまるで鬼火のようだった。
The Justice: or Green No-Life-King
»»  2013.09.02.


 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。
 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。
 最近ずっとこんな調子だ。

――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。
 それはミツルとユミエが同じことを言っている。
 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。
 あるいは信じたいだけかもしれなかったけれど、もう疑う気持ちはなかった。

 このまま寝てしまいたい気もしたが夕食は食べなければならない。
 危機はいつ訪れるともわからない。体は常に万全に動くようにしておくべきだ。
 食べられるときには食べておくべきなのだ。
 篠塚家の食事は、今はレトルトが大半だった。
 兄がいた頃は手の込んだ手作りの料理を作ってくれていたが、トンボはそれほど料理が得意ではないし、姉は仕事に忙しく料理をしている暇がない。
 それでもご飯だけは炊いているから食べるものはないわけではなく、トンボはカレーを温めてそれを食べた。

 胃が満たされると、何だか少し力がわいてきた。
 そしてトンボは、鞄の中から分厚いノートを取り出す。
 潮ヶ浜夜の日記と――兄の記録。
 兄が死の一週間前にヨースケから預かった日記。
 そして兄が死の三日前に改めてヨースケに預けた情報。
 兄は――なぜヨースケに預けたのだろう。彼が潮ヶ浜夜の恋人だったからだろうか。

 もしかしたらこれをヨースケに渡したために兄は殺されたのではないだろうか。
 そこには事件の核心に迫る推理が書かれていて、それを知ったヨースケは兄を殺した。
 そんな疑念が過ぎる。トンボは頭を振って恐ろしい妄想を振り払う。
 それならヨースケがこの記録をトンボに預けるはずがない。
 トンボはとりあえず夜の日記に手を伸ばし、中を開けた。
 
――だってこれのために、タイチともタスクとも絶交する羽目になったんだろ。

 ここでトンボが臆していたら、それこそ二人に顔向けできない。
 可愛らしい日記にぴったりの、女の子らしいまるっとした文字が躍る日記帳。
 そこには何気ない少女の日常があった。
 その一文にトンボは目を止める。

――四月十四日 明美ちゃんと百合子ちゃんとオカルト部結成! 何と交番のお巡りさんが指導してくれることに。何でも霊能調査室っていう特務機関の室長なんだとか。本物の霊能力者っぽくて、私はとてもわくわくしてます。早く七色不思議の魔術を教えてくれないかな。それは式部北高校に代々伝わるおまじないの儀式で、何でも願い事をかなえてくれるんだって。そしたら私は桜木君と……。

 背筋を走ったのは本当に冷たい汗だった。
 明美ちゃんと百合子ちゃん――それは早田明美と曽根百合子のことではないだろうか。
 そして、霊能調査室のお巡りさんと言うのは、山下以外にありえない。
 何故ここに彼が登場する。そして、七色不思議の魔術――。
 トンボは口の中が乾いていくのを感じながら、さらに読み進める。

――四月二十日 今日山下さんに七色不思議の話を教えてもらった。二人に七色不思議で何のお願いをするか聞いてみた。明美ちゃんはK.Yと付き合いたいって。私はちょっとあの人は苦手。確かにかっこいいし、明美ちゃんが好きになるのもわかるけど、隠れてタバコ吸ってるみたいだし。百合子ちゃんはみんなで仲良くできますようにって。そんなのお願いしなくても、私たちの友情は永遠なのだ。

――K.Y。かっこよくて、隠れてタバコを吸っている? 
――神楽崎ユミエ(Kagurazaki Yumie)。
さっきの出会いもあってかトンボの脳裏には真っ先にその名前が浮かんだ。

――五月六日 今日、私たちは三人で七色不思議の儀式をして、それぞれに願い事をした。明美ちゃんは明日、K.Yに告白するんだって。

 そのページはまだほとんど白いのに続きの日記が書かれていなかった。
 トンボはそれが早田明美殺害前日なのだと気付く。
 明美が告白したK.Y。その直後に、明美が殺されている――?

 ユミエは確か明美には好きな人がいたから手は出していないと言わなかったか。
 ならばこのK.Yと言うのは別人だろうか。
 K.Y――ユミエ以外にトンボの頭にはすぐに思いつく知り合いがいない。
 トンボは次のページをめくった。

――五月二十日 私たちは騙されたんだ。山下は魔術師なんかじゃない。七色不思議は願い事をかなえるおまじないなんかじゃなかった。私たちは悪魔を呼び出してしまったんだ。吸血ジャックと言う悪魔を。明美ちゃんは殺された。多分私も百合子ちゃんも殺されるだろう。冗談じゃない。相手がこっちを殺そうとするなら、私が返り討ちにしてやる。私は許さない。明美ちゃんを虫けらのように殺して、蹂躙したあいつを――K.Yを。

 またK.Y。しかもこの文脈なら、間違いなく早田明美を殺したのはこの人物だ。
 今の所、トンボにはそれがユミエを指しているようにしか見えなかった。
 他に思いつく人物がいない。
 でもユミエは自分が犯人ではないと言った。それが嘘だったとは思えない。
 それよりも――山下。
 日記を見る限りでは被害者の三人の少女はオカルト部を独自に結成していた。
 そして、山下に教えを乞うていたのは間違いない。
――いや。
 トンボは思い出す。山下は確か――。

 思い出せ――。最初に出会った時、山下はトンボに名刺を渡している。
 トンボは名刺をしまったはずの財布を慌てて探しながら、その時の山下の言葉を思い出していた。
――僕は山下と言います。
――山下勝彦巡査部長。
――ヤマシタ、カツヒコ、巡査部長。
――Yamashita Katsuhiko。

「あった――」

 トンボは財布から名刺を取り出してそれを見る。
 埼玉県警式部署式部市中央交差点前派出所 霊能調査室室長
 山下勝彦巡査部長
――イニシャルK.Y。

 山下だ。間違いない。だって他にいない。
 早田明美を殺したK.Yは間違いなく山下のことだ。
 その時、トンボの中で一連の事件が整合性のある筋の通った話としてつながった。

――山下と吸血ジャックは二人組の犯罪者だ。
 そして、これは認めがたい事実だけど、幽霊を使う。
 山下がまず犠牲となる人間を選び、口車に乗せて、この七色不思議の儀式を行わせる。
 多分これは被害者ごとに同じことを引き起こす別の内容を教えている。
 ともかくそれによって起きることは、色鬼を、儀式を行った人間に憑かせること。
 そしてその後で吸血ジャックが現れ、その人を殺していく。
 多分儀式を行った人は色鬼に憑かれた時に死んだことにされてしまうのだ。

 だから山下はあんなに色鬼のことについて詳しくよく知っていたのだ。
 だって自分がそれを呼び出す人間なんだから。当たり前だ。
――そして、ならば。
 今山下が、いや、吸血ジャックが狙っているのは――タスクだ。
 タスクは日曜日に七色不思議を行ったと言っていた。
 今タスクに色鬼が憑いているのは間違いないことだった。
 だったら吸血ジャックが殺すのはタスクだ。

――だから火曜日。タスクは導かれるようにカササギビルに行ったのではないか。
 あの時落ちてきたフェンスは、タスクの命を奪うためのものだったのではないか。
 山下が現れたのもそこだった。あの時吸血ジャックはあのビルにいて。
 そして山下はその犯行を陰から見守っていたのだ。

 いけしゃあしゃあとトンボたちの前に現れて、トンボに生徒会を疑わせたのもあの男。
 山下はユミエとミツルの出現を予測した。
 そうなるとわかっていてトンボに言ったのだ。
 どうして山下がそれを知っていたのか――山下が犯人だったなら至極当然だ。
 自分がユミエとミツルに疑われているのを知っていたから、カイコがトンボに教えたように二人に連絡をつけると予測し、二人はこの街に現れた。
 全て山下が仕組んだことだったのだ。

 トンボは携帯を取った。今すぐに、この恐るべき事実をタスクとタイチに知らせなければ――。
 トンボは電話帳からタスクとタイチのアドレス宛にメールを作り、本文を打ち込もうとして、不意に手を止めた。
 
 もう絶交したのだ。今更どの面下げて二人にこのことを言えるだろう。
 それに、もし山下が犯人なら、タイチもその犯行に関与していないと、どうして言えるだろう。
 ユミエだって怪しいと言っていたじゃないか。

 兄の日記には、もっと詳しいことが書いてあるのではないか。
 トンボはそう思い、アゲハの日記に手を取る。
 すると、そこから一枚の紙が零れ落ちた。
 トンボはそれを拾い上げて開く。

――私は明日、死ぬかもしれません。

 その一文を、トンボは三度、目で追った。これは――遺書だ。アゲハの直筆の。

――私は明日、死ぬかもしれません。できる限り安全に穏便に事を運ぶつもりです。
 カイコにも手伝ってもらうし、なんだかんだで運は強いし。
 でもやっぱり、死ぬかもしれません。それを考えるのは、とても怖いです。
 だから、すごく動揺している気持ちを落ち着かせるために、今これを書いています。
 この手紙は誰かに当てたものではありません。遺書のつもりもありません。
 でも、私が死んだとしたら、結果的にこの手紙がその代わりになるでしょう。

 まず最初に、姉と妹に、謝っておきます。ごめんなさい。
 姉さんかトンボがこれを読んでいるということは、私は死んだということです。
 ごめんなさい。私はあなた達から家族を一人奪う暴挙に出ました。
 これは勘違いかも知れないけど、私が死んだ後の二人の生活はとても心配です。
 特に食生活。インスタント食品ばっかりになっていませんか。
 トンボは菓子パンばかり食べていませんか。
 料理はやっぱり家族が作ったものを食べるのがいいです。
 最低週に一度は、手作りの料理を食べるようにしてください。
 姉さんは、仕事だけじゃなくて、誰か好きな人を作ってください。
 トンボは勉強を頑張ること。もう兄さんはいないからね。
 とにかくあなた達が二人きりになってしまったのは、私のせいです。
 でも、あまり悲しまないで、前を見て希望の道を進んでください。

 次に、生徒会の仲間にも謝っておきます。
 まずはカイコに。
 私が死んだということは、君との計画に何らかの齟齬が生じたということでしょう。
 それは、どうしようもないことかもしれないし、そうでないかもしれない。
 でも、どっちにしても、私が死んだのは私の責任で、カイコのせいではありません。
 責任を感じているなら、思いつめないでください。
 無茶な話だったことは、私が一番よく知っているし、君はずっと反対していた。
 私が無理を言って計画を実行し、その結果死ぬわけですから、自業自得です。 
 ただ、私がいなくなった後、ユミエ先輩もミツル先輩も卒業したら。
 君が生徒会の重荷を一人で担うことになるでしょう。
 重荷を押し付けるのは申し訳なく思います。ごめんなさい。
 それから、もしこれを読んでいるのが小野宮蚕なら、お願いが一つあります。
 来年、新入生として、私の妹がこの学校に入学するかもしれません。
 勉強は苦手ですが、真面目で根性のある自慢の妹です。
 どうかよくしてやってください。

 ミツル先輩は――、あえて言い残すことはありません。
 あなたがこれを読むとすれば、それは私の日記を手に入れたということでしょう。
 日記に書いてある内容を読めば、ミツル先輩は真相にたどり着くと思います。
 この高校の惨劇だけでなく、吸血ジャック事件そのものや、その背後のことも。
 できればこれは、あなたの手に渡ればいいと思います。
 他の人には割と恥ずかしいことを言っているので。
 そして、もしこれが、あなたの手に渡っているなら。
 ユミエ先輩が犯人を探しているなら、それを止めてくれませんか。
 多分それが出来るのは、あなた以外にいないと思います。
 それくらいです。でも大切なことなので。

 そして最後に、ユミエ先輩。
 生きて帰れなくてごめんなさい。全部内緒にしててごめんなさい。
 でも私は、ユミエ先輩のことが大好きです。
 それで、先輩には余計なことかもしれないけど、先輩をよく知らない人から、先輩が責められるのはやっぱり許せません。
 この事件の犯人が先輩かもしれないと疑われるのもすごく腹が立ちます。
 だから、いざと言うときに、先輩に疑いがかかるようなことはしたくありません。
 それが、秘密にした理由です。逆に迷惑かもしれません。その時はごめんなさい。
 もし私が死んで、この手紙を先輩が読んでいるなら。
 まず復讐は考えないでください。考えているならやめてください。
 ここには書けませんが、この事件の犯人は、先輩が手を下すような人間ではありません。
 それに私は、私が先輩に人殺しをさせる理由になってしまうのが一番許せません。
 もし私が先輩にとって復讐の理由になっていたら、どうか私のことを忘れてください。
 そんな大層な話ではありません。ただ私が迂闊だっただけです。
 私は先輩が常に正しいと信じています。だからあなたは人を殴っても絶対に殺さない。
 どうか、その正しさを失わないでください。
 大好きです。いつも、いつまでも。

「……」

 トンボは手紙を置く。涙が止まらなかった。
 ありありと兄がこれを書いている所が見える。言葉が声になって聞こえる。
 この手紙の向こうに、生きた兄がいる。
 これは――ユミエの手に渡るべきだ。少なくともこの手紙は。
 ここに書かれているアゲハのユミエへの思いは、ユミエに届くべきだ。

 トンボは携帯を手にし、ユミエのアドレスを開いたまま、考え込む。
 チャイムが鳴った。
 トンボはびっくりして小さく悲鳴を上げた。
 こんな夜遅くに来客があるとも思えない。

 ピンポン、ピンポン。

 チャイムは繰り返す。トンボはおかしいと思った。
 いたずらと思うほどしきりにチャイムが鳴らされる。
 いたずらでなければ、あるいはホラー映画のように。

「どなたですか!」

 トンボはドア越しに声をあげた。
 返ってくる声はない。ただ、チャイムの音だけが繰り返される。
 トンボはドアチェーンをかけ、戸棚にしまってあった木製のバットを片手に握る。

「今開けます……」

 トンボは鍵を外すと勢いよくドアを開けた。ドアチェーンがビンと突っ張る。
 開いた隙間から突風が吹きつけて、トンボは思わず目を細める。

――誰もいない?

 いや、そう思わせてドアの陰に隠れているだけかもしれない。
 トンボがチェーンを外してドアを大きく開けようとした時――。
 網戸が開く音はトンボの部屋から聞こえた。

「誰!」

 恐ろしくなり、トンボはドアを閉め、鍵をかける。
 恐る恐る廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
 バットを震える手で握り、思い切りドアを開けた。

――中には誰もいなかった。
 ただ、トンボがさっき潮ヶ浜夜の日記を読んでいた机の向かいの網戸が空いていて。
 机の上にあったはずの夜の日記がなくなっていた。
 いや、それだけではない。兄のノートもなくなっている。
 トンボは即座にカーテンを開けて窓の外を覗く。

 街灯の下に、真っ黒な男の姿があった。その手に二冊の日記を持っている。
――萩原ミツルだった。
 ミツルは一度、トンボを振り返る。その目とトンボの視線がぶつかった。

「――何なんだ、アンタ、一体何なんだよ!」

 近所のことも考えずトンボは闇に叫んだ。
 ミツルは答えずぬるりと影の中に消えて行った。

「――待てよ! 待って! それは大切な証拠だから! 持っていかないで!」

 トンボは届かないとわかっていたのに、窓から手を伸ばした。
 もうミツルはどこにもいない。

――待って。持っていかないで。

「――待って」

 ぱちりと目を開けて気付く。
自分が今ベッドの上にいて、携帯を両手で握りしめていることに。
 外が明るい。トンボは画面の時計を見る。五時四十分。当然朝だ。
 スズメが鳴いている。ではさっきのは――。

「――夢?」

 トンボは飛び起きて机を見る。日記はない。
 鞄の中を探してもどこを探しても、潮ヶ浜夜と兄の日記はなかった。
 トンボの手の中で携帯が緑色のライトを明滅させている。
 メールの着信を知らせる合図だ。
 アドレスはトンボが知らないものだったが、タイトルを見てトンボは凍りつく。
 そこにはアゲハの遺言、と書かれていた。
 開くと拍子抜けするほど短い分が一つ。

『おかえりなさい』

 ただ、文字は黒ではなく、黄緑色で書かれていた。
 文面はただそれだけ。スクロールする余地もない。
 昨日の不思議な出来事は、ミツルがノートを盗んだのは事実だろうか。
 いや――そもそもトンボはいつから夢を見ていたのだろう。
 ひょっとして何もかも夢だったのではないだろうか。
 そうだ、禅定寺での出来事なんて、まさしく夢の中のようではなかったか。
 トンボがあんまり事件のことにとらわれているから、そんな夢を見たのではないか。
 本当はヨースケに日記なんてもらわなかったのでは。
 もらってないものがここにないのは当然ではないか。

「どうなってるんだ――」

「トンちゃーん、もうそろそろ行かないとまずいんじゃない?」

 台所で姉の声がした。トンボの困惑など関係なしに日常は通常通り回転している。
 学校に行かなくてはならない。陸上部の朝練はおろそかにはできない。
 トンボはとりあえず服を着替える。
 どうなっているんだ、と思いつつも、夢だったらよかったとも思った。
 タイチとタスクと絶交したあのことが夢だったなら。
 学校に行ってみれば何もなくて、いつものようにタスクがお弁当を作ってきてくれていたら。
 そんなわけないか、と苦笑して、トンボは姉の用意した朝食を片付けた。
K.Y.
»»  2013.09.02.

【水曜日】



 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。
 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。
 一分一秒でも無駄にはできない。
 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。
 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。

 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。
 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備していた。
 式部北の陸上部は男女混合だった。
 部員は一年から三年まで合わせても二十人に満たない小さなものだった。
 それでもこの式部市にある高校ではトップクラスの成績を残していたし、歴代の成績の中には全国大会で優勝した記録もあった。

 トンボはその中で一年の期待の星として一目を置かれていた。
 女子の短距離走では最速で、男子の記録と比較しても負けずとも劣らないほどだ。
 そして現在、陸上部でエースを務めているのは二年の桜木ヨースケだった。
 二百メートルで二十秒台を記録している。
 これは世界クラスの記録としても通用する好成績だった。
 選手としても一途な気持ちで懸命に練習に励み、後輩のいい模範となっている。
 明るく社交的で優しい性格もあり、後輩からは慕われ、先輩からは頼りにされる存在だった。

 グランドを整備する生徒の中に、トンボはヨースケを見つけ、そのそばに駆け寄った。
 まず最初に昨日のことを謝ろう。そして次に――。
 心の中で段取りを考えているうちにヨースケの方がトンボに気付き声をかけた。

「よぉ、トンボ。今日はちょっと遅かったな」

 ヨースケはいつも通りの大きな笑みを浮かべて言う。

「ぼ、ボクがやります。それより――」

 トンボはヨースケからグランドレーキを奪って昨日のことを聞こうとした。

「昨日のことか? まあ何とかなったっつーか、何とかしてもらったっつーか、大事にはならなかったみたいだな。警察も呼ばれなかったし。会長さんに感謝だな」

「どうも、すみませんでした。……でも、会長、って、蝶野会長ですか? あの人が何か?」

「何かあの人、すっげー大物らしいな。あの世界の小野宮の社長の娘なんだとか。それであの病院も会長の親のグループの傘下なんだと。そのコネでいいように取り計らってくれたみたい。おかげで助かったな。警察とか呼ばれてたら、進路に差し支えるし。大会も出られなくなるかもしれないと思ってたから、本当に俺は運がよかった」

――蝶野カイコが。事件をもみ消した? 
 トンボの脳裏に昨日の山下の言葉が過ぎる。
 蝶野カイコは式部北高校生徒連続殺害事件の容疑者の一人かもしれなくて。
 兄を殺した真犯人は、カササギビルの件を知り動き出すかもしれない、と山下は言った。
 そこに吸血ジャックに狙われている可能性のあるタスクの起こした事件のもみ消し――?
 トンボにはそれが単なる偶然とは到底思えなかった。

「トンボ? どした? 手が止まってるぞ? まーショックだろうしなぁ。俺としては坂崎と松木のその後の方が心配なんだけど。あの二人大丈夫か? 何かケンカとかしてない?」

「あ、いえ、……そんなことはありませんけど」

「そっか、よかった。友達は仲良くするのが一番だからなー」

 その様子を見てトンボは心を決める。

「あの! 先輩!」

「んー?」

 ヨースケは後ろを向いたままアキレス腱を伸ばすストレッチをしている。

「去年、この学校で起こった――殺人事件のことで、……何か知ってることは、ありませんか」

 ヨースケは今二年生、転校生という話も聞かないから、多分この学校に去年もいたはずだ。
 ならばその事件当時のことを知っているに違いない。
 ヨースケはトンボの質問を聞いてしばらく止まった。
 そして答えず、またしばらくストレッチを続けた。

「あー、そっか、篠塚アゲハって、あれ、お前の兄貴だったのか」

 ヨースケはトンボに顔を見せないままに今気付いたような調子で言う。
 トンボは小さくえ、と返した。

「知ってるんですか、兄のこと」

「知ってるも何も、六十二代生徒会は伝説だからな。学校にいた奴も、他の学校の奴も、ユミエ会長、ミツル副会長のツートップと、書記の蝶野先輩と会計のアゲハ先輩を知らない奴の方が少数派なくらいじゃないかな。そっか、――つらかったな」

「え――」

「お兄さん。それで、事件のこと知りたいのか?」

 ヨースケは振り返らない。そのまま足の運動を続ける。

「それは――」

「やめとけ」

 トンボが答えようとするのをヨースケの冷たい声が遮った。

「トンボ、お前がこの事件をどこまで知ってるか知らないけど、オレはお前と全く同じ質問をされたことがある。アゲハ先輩――お前のお兄さんに」

「兄さんが?」

「付き合ってたんだ、オレ。ヨルと」

 ヨル、とトンボは繰り返す。
 誰のことだろう、と思っていると、ヨースケは潮ヶ浜夜とフルネームで言った。
 それは確か――。

「二番目に殺された。プールで見つかった」

 トンボはヨースケの背中を見た。
 それだけで、ヨースケがその死を心から悲しんでいることがよくわかった。
 ヨースケが振り返らないのは、その顔を見られたくないからだとトンボは気付く。
 怒りか、悲しみか、とにかくいまだ生々しい感情がきっとそこには表れていて、ヨースケはそれをトンボに見せまいとしている。
 それほどまでに、まだこの事件は生きているのだ。
 トンボの中と同じく、ヨースケの中にも。

「アゲハ先輩が、殺されたヨルのこと、何か知っていることはないか、変わっていたことはないかって、しつこく聞いてきてさ。オレ、割と本気で犯人見つけてぶっ殺したいと思っててさ。そしたら、ヨルのことも忘れられるって。忘れて生きていかなきゃ、そのためには犯人に復讐しなくちゃって思ってた」

 ヨースケの声が、小さくなっていく。

「でも、アゲハ先輩が死んで、――やめた。調べてどうなる? 犯人を知って、復讐して、それで俺は何もなかった顔して平気で生きられるのかって思った。そんなことできない。だったら復讐なんてしない方がいい。そうすることでヨルを忘れてしまうなら、復讐なんてしないで、割り切れない思いを抱えたままずっと覚えている方がいい」

「先輩……すみません、変なこと聞いて」

 トンボは聞いたことを後悔していた。
 そして一刻も早く、この話を終わらせなければならないと思った。
 うかつに聞くことではなかった。聞いていいことではなかったのだ。
 それは誰よりもトンボが一番よくわかっていたことなのに。

「アゲハ先輩がそれを聞いてきて、オレはヨルが死ぬ前に預かった、ヨルの日記を渡したんだ。三日後に先輩はそれを返してくれて、それから四日で、――死んだ」

 ヨースケが振り返る。
 そこにいつものお日様のような笑顔はない。
 その顔に表情はない。色彩がない。喪に服す人の灰色の顔だった。

「お前がそれでもこの事件のことを知りたいなら、今日の放課後、禅定寺の墓地に来い。そこにヨルの墓がある。――もしかして、最初からこうなるって決まってたのかな」

――今日は、ヨルの命日だから。
 ヨースケは笑った。多分無理して。
 東の空からさす太陽が、逆光になって顔を隠している。
 それでもトンボにはその笑顔がとても悲しいものに見えた。

 ホイッスルの音がした。集合の合図だ。

「ほら、行くぞトンボ! 大会まで時間がないんだからな!」

 トンボの背中を強く叩いてヨースケは先に走り出した。
 トンボは重たいグランドレーキを引きずりながら、それを倉庫にしまって集合場所に行った。
 ヨースケは、その後、さっきのことはおくびにも出さず、いつも通りに走り込み、汗をかいていた。
 トンボは改めて、この先輩は強い人間なんだと思った。

The Sun cannot be bound The Night

2013.09.02.[Edit]
【水曜日】1 翌日、トンボは朝一で学校に向かった。 大会は来週の金曜日、放課後の部活が禁じられている以上練習できる時間は限られている。 一分一秒でも無駄にはできない。 幸いにも今日は晴れていた。陸上部にとって一番の天敵は雨。 大会が近いのに毎日のようにグラウンドを水浸しにされたのではたまらない。 トンボは服を体操着に着替えてグラウンドに向かう。 そこにはもう数人の陸上部員がいて、グラウンドを整備し...

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――悪夢を見た気がする。
 それはタイチを殺すという内容のものだった。
 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。

 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。
 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。
 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。
 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべきなのかもしれなかった。

 どちらにしても、そんな内容の妄想が止まらないのは、どうやらタスクの中にいるもう一人の存在――山下が言うところの色鬼、灰音のせいであることは間違いなく、それによってタスクに健やかな眠りが当分は訪れないことも間違いなかった。

 時計を見ると、朝の五時だった。
 六月ともなるともう昼間と言って差し支えないほど太陽は明るい。
 そして晴れの空は、夏らしい暑さを、確実にこの街にもたらしていた。

 今更眠るのも馬鹿馬鹿しいし、本来ならタスクはこれくらいの時間に起きて家族の朝食と、弁当を作るのが日課だった。
 トンボとタイチの分も一緒に作る。
 もう二日サボっている計算になるから、そろそろ再開しないといけないだろう。
 一応タイチからは山下経由で、トンボからはその姉経由で、一食二百円で月に二十食、合計で四千円のお小遣いをもらっている。
 二家合わせれば八千円と、バイトもしていないタスクにとってはちょっとした額になる。
 おいそれと休むこともできないだろう。

 タスクは冷蔵庫の中のものを適当に組み合わせて朝食と弁当を作る。
 そのうちに家族が起き出して、めいめいに朝の日課を始める。
 洗濯物を干していた母は、テーブルで弁当を盛りつけるタスクの顔をまじまじと見た。

「やっぱり、顔色よくないわ」
 
「ごめん、ここの所、眠れてなくて」

「……あんた、また無理してるんじゃないの? 今日は学校休んだら?」

 母の忠告にタスクは首を振る。

「もう事実上二日欠席なんだから。そろそろ授業にも顔を出さないと、置いて行かれちゃうから。学校行くね。ボクは、朝ごはんいらないから」

「あ、ちょっとタスク――」

 タスクは弁当を三つ持って、部屋に鞄を取りに行って制服に着替え、逃げるように家から飛び出した。

――また家にいたら、今度は家族を殺してしまうかもしれない。

 そう思うと到底家にはいられなかった。
 それに、山下の話を信じるなら、今タスクが、灰音から逃れていられるのは、学校だけだという。
 信じられるだけの根拠はなかったが、それにすがるしかないのも事実だった。
 タスクは学校にやや速足で向かう。
 くすくす、くすくすと声が聞こえた。
 タスクは胸にかけてある紫水晶の振り子を握る。
 触れるとそれは、石とは思えないほど、熱くなっていた。

――近くにいるんだ。灰音が。

 タスクは思わず立ち止まってあたりを見回す。
 電柱の陰に、ごみ箱の裏に、屋根の上に。
 電線の上に、木の茂みの中に、側溝の影に。

 くすくす、くすくすと、それは確かに存在していた。
 タスクを見ていて、笑っている人外のもの。
 タスクを生き返らせて、タイチを殺そうとする鬼が。

――もういいかい?

 それは紛れもなく鬼のセリフだった。かくれんぼで鬼が言う決まり文句。
 子どもの遊びの他愛ない言葉なのに、今のタスクにはこの上なく恐ろしく聞こえた。
 タスクはついに走り出して、ようやく学校にたどり着く。
 いつもより随分と早い時間の登校だったが、運動部は朝練をしていて、学校はそれなりに騒がしかった。
 放課後の活動が制限された今は、そうせざるを得ないのだろう。
 タスクは自分の席に座って、大きく息を吐いた。

 ただの登校に、ここまで疲れるとは――。
 こんなのが続けば、灰音が何か悪さをしなくても、疲弊したタスクがちょっとしたことで何か大それたことをしかねない、とタスクは自嘲気味に思った。
 そして、改めて自分の教室を見回した。

――視線は感じない。声も聞こえない。
 胸の水晶を触る。さっきとは打って変わって、石特有の冷たさが伝わってきた。
 つまり、ここには灰音はいない。安全なのだ。
 山下の言葉はどうやら正しいらしい。今のところは、まだ。

 しかしそれは同時に、この学校に色鬼に対する結界が張られていることを示している。
 つまり、四人の生徒が惨殺されたのが、事実だということだ。
 早田明美、潮ヶ浜夜、曽根百合子、そして、トンボのお兄さん――篠塚揚羽。

 この学校で、殺人事件が。
 そして――犯人は学生かもしれない。いや、あの、蝶野カイコかもしれない。
 山下はそう言っていた。

 タスクにとってカイコはやや特別な位置にいる先輩だった。
 クラス委員としては生徒会長であるカイコは直属の長を務める人間だったし、それよりも何よりも、カイコはタスクが所属する合唱部の部長で、指揮者だった。
 あの日曜日の舞台で、タスクが誰よりも一番恥をかかせてしまった人物。
 誰よりも一番迷惑をかけてしまった人物。

 しばらく合唱部は、練習は中止というメールがいつだか来ていた。
 起き抜けの朝は声も出にくいし、朝練をする部活でもないから当然かもしれない。
 タスクは机に体を投げ出して、腕で枕を作って顔を横に乗せた。

――カイコが犯人だったなら。タスクの中で蝶野カイコの顔が思い返される。
 カイコはいつだって余裕綽々という顔をしているのだ。
 何をやらせても常に完璧で、まるであらゆることが遊びであるかのように。
 あの日だって、悔やんだり、怒ったりはしていなかった。
 カイコは、ただ笑っていて、後ろに男がいて、首を絞められていて。
 ライターの炎に照らし出された顔が。

――ああ、あの顔は、あれはそうだ。
――死んでいる。
――殺されている。

「おーい、おい、タスク! おーきーろー! タスク!」

 目を開けると前髪に隠れた目がこちらを見ていた。
 タイチだ。どうやら無事に登校したらしい。
――なぁんだ。よかった。
 タスクはそれに安心して、またうとうとと目を閉じた。

「あーもー、二度寝とかやめてくれる? 起きろっつーの、もうすぐホームルームですよ! クラス委員さん!」

 バン、と頭を強く叩かれて、タスクはガバリと起き上がる。

――眠っていたのか。

 時計を見ると、八時半だった。少なくとも二時間近くは寝ていたことになるだろうか。
 クラスはタスクが来た時よりはるかに騒々しくなっていた。
 数人の女子がこちらを見てくすくすと笑っていた。
 タスクはその声に、恥ずかしさよりも、あの不快な声と似ていることに腹が立った。

「今日こそはお弁当作ってきてくれたんだろーなー」

 心配はそこ? とタスクが聞くとタイチは他にあんのか、と胸を張る。

「君の大好物の三食そぼろ弁当だよ。なんかさ、大丈夫、とか、心配したぞ、とか」

「心配してほしいのか、タスクは」

 タイチに問われ、タスクは改めて自問した。
 心配されたいのだろうか、ボクは――。

「オレが涙ぐんだ顔でお前が無事に学校に来ていることに感激したら満足か?」

「何もそんなことしろって言ってないだろ」

――ボクは、ただ。察してほしいだけだ。思っていても、言えないこと。
 誰にも言えない、本当の気持ちを。

 そうは思ったが、タスクは実際、何が本当の気持ちかがわからない。
 何せ今タスクの心には、タスクの心だけでなく、鬼の心が混ざりこんでいる。
 今こうやって考えていること自体が、どうして鬼に支配されていないと言えるだろうか。
 実はもう自分は既に乗っ取られていて、あたかも坂崎タスクのように考えているけれど、実際には鬼がそう錯覚させているだけなのでは――。

「……アホくさ」

「あ?」

 君のことじゃない、とタスクはタイチに言った。
 自分の支離滅裂な考えに嫌気がさしただけだ。
 鬼がタスクの振りをするのはともかく、何故そこで自分が鬼か坂崎タスクかを自問しなければならないのか。そんなもの鬼だったら考えるまでもない。
 つまり自分がどっちか、なんてことを不安に思っているのはタスク以外にはありえない。
 とりあえずタスクは、自分が自分であることに安心していい。いいはずだ。

「そーいえば、噂を聞いたぞ」

「噂?」

 タスクはさして興味も示さず、タイチの方さえむかずに頬杖をついて窓の外を見ていた。
 グラウンドを挟んで向こうにある校門を国栖が閉めているのが見えた。

「校門の前に灰色の目隠しをしてる男の子がいるんだって」

「それ、七色不思議だろ?」

「うん。そうなんだけどさ、その男の子は女神の子どもの鬼じゃなくて、昔この学校で七色不思議をやって、鬼に食べられちゃった子どもなんだって。それで、灰色の目隠しをしているのは、何でもそれをつけてると、鬼の目から逃れられるからなんだって」

 その言葉にまた、悪寒が全身を駆け抜けていく。いや、タイチの言葉のせいではない。
 その、国栖が閉める、校門の、門柱に、誰かがいる。
 青い、着物姿の男の子。栗色の収まりの悪い髪の毛の、色の白い痩せた子供。
 ちょうどタスクの小学生時代のような――。
 ――そして、目には灰色の布が、目隠しをしている。

 門柱に腕で目隠しをするようにもたれて、それはまるでかくれんぼで数を数える鬼の仕草そのもの。

――もういいかい。

 男の子の声だ。教室の喧騒も、鳥の鳴き声も、風の音も、何もしない。
 全てが灰色の石のように固まっている。目の前のタイチさえも。
 その中で、唯一色彩を持った目隠しの男の子が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 目隠しに覆われた目でこのグラウンドを挟んだ三階の、この教室のこの窓を見て。
 いや、――ボクを見て。

――見ぃつけた。

 そう言って、笑った。その笑みは、徐々に校庭の熱が産む陽炎に溶けていく。
 ぼやけていく。段々にその輪郭を失い、世界が色彩を取り戻す。

「――だからー、そんなタスクに、おまじないに灰色のスカーフを持ってきてやったぞ。これで目隠しすればばっちり! いいアイディアだろ? おい、聞いてる?」

 いつの間にかタイチが怒った顔をしていた。
 タスクは我に返って、顔を手で覆った。

「い、今――」

「あん?」

 タイチは怪訝そうな声を出す。
 それが雄弁にタイチは何も感じていないことを物語っていた。

――ボクだけに見えたんだ。ならば、今のが。あれが。
――色鬼、灰音。

「もしかして――何かいる?」

 タイチは今更のように声を潜めて聞いてきた。
 タスクはその配慮をもっと早くにしてほしかった。
 いや、同じことだったのかもしれない。
 タイチがその噂をしようがしまいが、あの鬼は、ずっと校門にいたのだろう。
 おそらく、それ以上入って来られないために。

 これもまた山下の言った通りだった。
 今の所、山下の言葉は全て当たっている。

 チャイムが鳴り、トンボがやって来た。
 短髪の少女は、肩にかけたタオルで顔を拭く仕草さえどこか爽やかで、見た目陰鬱な男二人組とは対照的だった。
 トンボはその陰気な二人に、はつらつとした声であいさつをする。
 タイチは元気よく答え、タスクはうん、と小さく言った。

「そう言えばタスク、確か蝶野先輩が、今日のお昼休み、生徒会室に来るようにって」

 トンボはタスクに近付いて、まずそう言った。
 その言葉にタスクは一気に気が重くなる。

「それより、何の話をしてたの?」

「それがさー、トンちゃん聞いてよ」

 タイチが話そうとしたとき、担任がやってきて、そのままホームルームになった。
 タイチは不満げに頬を膨らましていたが、灰色のスカーフだけタスクに渡すと、席に戻って行った。
 クラス委員のトンボとタスクはそのまま壇上に立ち進行を務める。

 鬼に見つからないように、灰色の目隠しを――。
 タイチの言葉が反芻される。タスクはさっき見つかってしまった。
 今からでも灰色の目隠しをつければ、鬼の目から逃れられるのだろうか。
――アホくさい。

「出席を確認します。青葉君――」

 タスクは間抜けな考えを振り払うように、いつもより大きな声で点呼を取った。

The Evil Gray stands school gate

2013.09.02.[Edit]
2――悪夢を見た気がする。 それはタイチを殺すという内容のものだった。 気がする、というのは、夢かどうかがあいまいだったからだ。 タスクは目を閉じてベッドに横になっていた。 でもそれは多分眠っていたのではない。意識は常に瞼の裏側にはっきりとしてあった。 そして、そのはっきりした意識のうちに、タスクはタイチを殺す光景を幻視していた。 だからそれは、夢というよりは、そういう悪い妄想をしていた、というべき...

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 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。
 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。
 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。
 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。
 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーから、校門を隠れるように覗き込む生徒の一群があった。

「なんだい、この集まりは」

「あ、篠塚さん、ほら、あの人」

 トンボが声をかけるとその中の女子の一人が指をさして校門の方を示す。
 トンボも彼女達に倣って顔だけ出して覗くと、そこには人影があった。
 心臓がドキリと鳴る。
 持てる視力の全てを持って、その人物の全容を見ようとした。
 男は校門の脇に立ってずっとこちらを見ている。

「ね、なんか怖いでしょう?」

「何が? 普通の人じゃないか?」

「普通の人ならあんな風にずっと立ってたりしないって。待ち合わせにも見えないし、やっぱり、吸血ジャックかしら」

 はぁ、とトンボは上擦った声を出す。
 
「私知らなかったんだけど、実はこの学校去年生徒が吸血ジャックに殺されてるんだって」
「あ、それ私も聞いた。でも学校側は隠ぺいしてるって」
「学生が犯人かもしれないからだって聞いたけど……」
「ほら、今放課後居残りでしょ、あれってやっぱり吸血ジャックの被害があったからみたいなんだって。確か北市街のカササギビルって所で」

――なるほど、いくら警察が対応していようと、学校側が隠していようと、人の口に戸は立てられないものだ。
 さすがに普通の生徒も、つまりここにいる女子達のような、全く関係ない生徒でも、気付き始めたのだ。
 どうやら今が、普通の状況ではないと。
 そこに不審な男が現れ、火に油が注がれて、吸血ジャックかもしれないなどという話になったのだろう。

――でも、こんな白昼堂々と……。

 トンボはもう一度壁から顔を出した。
 男は相変わらず門の脇に突っ立っている。
 今にも降って来そうな黒ずんだ鈍色の雲の下で。
 まるでトンボには男が雨を運んできているようにも見えた。

「あ、篠塚さん!」

 トンボは心を決めた。自分は生徒会の一翼を担っているのだ。
 校内に不審者がいるなら、確かめる義務がある。例えそれが――。
――吸血ジャックであろうと。

 トンボは靴を履き替え、つかつかとその不審者に近寄っていく。
 男もまたトンボに気付いたらしい。
 不審者であれば、立ち去るとか逃げるということがあってもいいはずだ。
 しかし、男はただ無表情に立ち尽くしていた。

「あの!」

「篠塚……トンボ、かな」

 男は小さいがよく通る声で呟いた。トンボは名前を当てられて少し動揺する。
 男は割ときれいな身なりをしている。遠くで見るよりだいぶ若いようだ。
 高校生、いや大学生だろうか。
 黒いシャツに黒いズボンで肩から黒い鞄をさげて――全身黒ずくめである。

 小奇麗な顔で女みたいだ。似てはいないがそのキーワードから兄を思い出してしまう。
 兄はどこか幼い印象を持っていた。
 だが、目の前の男はそういった幼さを全く感じさせない。
 目は怜悧でどこか悩ましげで、顔全体からは知的な印象を受ける。
 鋭いのだ。顔の形も、漂う雰囲気も。
 ただ立っているだけでも、ボーっとしているようには見えない。
 瞑想にふけっている、あるいは思索に没頭しているように感じられた。

 きっとこんな時期でなければ、玄関に集まった女子の群れの評価も違ったのだろう。
 連続猟奇殺人鬼のような男ではなく、突如現れた謎の美男子になっていたはずだ。
 いや、もしかしたらあの集まりはそういうものだったのかもしれない。
 あの人になら殺されてもいい、くらいのことは平気で彼女達は言うだろう。
 それほどに誰も去年のことは何も知らないのだ。特に一年生は。

「篠塚トンボはボクですけど、何か御用ですか?」

「連れが上にいる」

「連れ?」

 生徒の父兄ということだろうか。あるいは教師の兄弟か子どもか。
 上にいるという言葉は二階ということか。
 しかしいずれにしても、こんなところで待たせているのは失礼にあたるだろう。

「あの、お待ちならどうぞ中へ」

「いや、それには及ばない。もうすぐ来るだろうから。……そうだ、最近七色不思議について、新しい噂が流れていないかい?」

 男は唐突にそんなことを言い出した。

「え、ええ、確か、灰色の目隠しの男の子が校門前にいて、っていう話、ボクは今日初めて聞きましたけど……、失礼ですがお名前をうかがってもよろしいですか?」

 学校も不手際だと思う。
 不審者ならこんなふうに学校に放置しておくのは不用心だ。
 そうではなく学校の関係者の類縁なら、こんなふうに待たせておくのは失礼だろう。

「萩原充(ハギワラ ミツル)。篠塚は優秀な男だった」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。
 少し遅れてそれがどうやら兄のことを言っているのだと気付く。
 兄の友人だったのだろうか。
 トンボは尋ねようと思ったが尋ねる前にその名前に思い当たった。

 萩原ミツル――去年の、六十二代生徒会男子副会長だった男だ。
 そうか、兄は生徒会会計だったから、面識があるのは当然と言えば当然だ。
 六十二代生徒会は四人しか構成員がいなかった。
 それはこの時代の伝説が伝説たる所以の一つだ。
 会長神楽崎ユミエ、副会長萩原ミツル、書記蝶野カイコ、会計篠塚アゲハ。
 いや、その四人は――。

 そうだ、昨日、山下の話だ。
 確か、あの男はミツルが兄の殺害に関与しているという推測を語った。
 その人物が何故、こんなタイミングで、トンボの前に登場する。
 あまつさえその人が吸血ジャックかもしれないと噂されているなんて、出来過ぎている。

「兄は……兄が、お世話になり、なってました」

 口がうまく回らない。
 自分でもびっくりするくらい、トンボは動揺していた。

――もし、今後数日の間に、その二人がこの近辺に現れたとしたら、やはり旧生徒会は事件に何らかの関与をしている可能性が高い。
 山下はユミエとミツルを指してそう指摘した。

「僕は何もしていない。興味深い男だったが――」

「どうして……」

 ミツルの言葉を遮ってトンボは言った。

「どうして、学校に来たんですか? これじゃあ、これじゃああなたが、あなたたち六十二代生徒会が、兄さんを殺したっていう、あの推理が、当たってることになっちゃうじゃないか! どうして、何しに来たんですか! まさか、本当に――!」

 それは間違いなくあてつけだった。
 それでもトンボにとって、山下のその推理が当たることは何よりも避けなければならないことだった。
 それが正しいとすれば、兄は三人の女子生徒を殺していた犯行に関与していたことになってしまう。
 兄はいつも楽しそうに学校に行って、自分の生徒会を誇らしげにトンボと姉に食卓で語っていた。
 その兄が、その生徒会が、恐るべき殺人集団だったはずがない。
 それを認めることは耐えがたいことだった。
 その思いが、トンボの口から零れ出す。

「――篠塚アゲハを殺したのは僕じゃない。同様に、この学校で殺された三人の女子についても、僕は潔白だ。僕だけじゃない、神楽崎も小野宮も、そして篠塚も。ただ――証明はできない」

 ミツルは表情を変えずに淡々と言った。
 そんなのあんまりだ、とトンボは思った。
 無実なら、はっきりとあの山下に言って証明してほしい。
 兄が死んで、ものを言わないことをいいことにあることないこと言いまくったあの男に。
 どうか兄の潔白を晴らしてほしかった。
 兄の無実を証明してほしかった。
 トンボは思いの丈を瞳に込めて、じっとミツルのその伏し目がちの両目を見た。

 ミツルは一度トンボから視線をはずして、学校の校舎のはるか上の方を見た。
 その時、猛烈な風が背後から吹いてきた。
 トンボは背中を強く押されるようにして、思わずミツルの方に倒れこんでしまう。
 学校の方から黄色い歓声がトンボの耳にも聞こえた。
 風はすぐ収まった。トンボは慌ててミツルから離れる。

「すす、すいません」

「いや、謝るのはこっちの方だ、連れが戻ってきた。すまない、悪戯好きな風でね。トウタ、あまり人を驚かすな」

 何を――言っている。

 ミツルの隣には誰もいない。
 いや、学校から出てきたものなどトンボ以外に誰もいない。
 今もミツルの周囲にはトンボしかいない。
 連れが戻ってきただなんて、どこにいるのか。

 ミツルの視線はなぜか、さっきからトンボの頭の上あたりをじっと見ている。
 そこに何かいるかのように。
 トンボは不気味に思って上を見上げるが、当然何もいない。

「やはり結界か……そうなると、吸血ジャックの犯行はこのことを知っていたことになるな。しかし何故この学校に結界を張った?」

「吸血ジャック? あの吸血ジャックですか? やっぱり何かあるんですか?」

 ミツルの不思議な独り言にトンボは食いついた。ミツルはトンボを見て一言呟いた。

「アゲハの死を知りたいなら、七色不思議を探すことだ」

 行こうトウタ――。

 ミツルはそう言って歩いて学校を離れて行った。
 トンボは茫然とその後ろ姿を眺める。
 昼休みが終わろうとしていた。
 トンボの頭にぽつりと冷たいしずくが当たる。
 雨が降り出したらしい。

Dragonfly meets The Angel with Pink wind

2013.09.02.[Edit]
3 トンボが玄関に人だかりを見つけたのはお昼休みのことだった。 今日はタスクが久しぶりに弁当を作ってくれたので一緒に食べようかとも思ったが、そのタスクがカイコに呼ばれていたので、結局トンボは陸上部の部室で、一人で食べようと思った。 時間が許せば、少しでも練習したいというのもある。 ただ、空はそれには心もとない、ひどくどんよりとした空模様になっていた。 部室棟を目指して、玄関を通った時、そのロビーか...

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 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。
 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。
 もう五分は立ち尽くしているだろうか。
 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。
 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。

 コンクールの件だろう。
 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃げ出したことでかかった迷惑。
 蝶野カイコは合唱部の部長でその舞台の指揮者だった。
――怒られるのだろう。正直なことを言えばまた逃げ出したかった。

 そんな風に悶々としているタスクの目の前のドアが、勝手に開かれた。
 タスクは驚きのあまり小さく息を呑んだ。
 立っていたのは吉沢ハヤテだった。
 いつもカイコの影のように付き従っている二年生の男子。
 常にカイコの鞄を持ち、その一歩先を行きドアの開閉までをも執事のようにこなす男。
 それだけでもごく普通の高校生のタスクからすれば十分に変人だったが、服装も一風変わっていて、今日は濃い 青い色のシャツに黒のスーツのベストとズボンを着ていた。
 髪の毛もサイドバックにし、左目を前髪で隠すという、どう考えてもコスプレのような恰好をしている。
 それだけ個性の強い恰好をしていれば、どこにいてもよく目立ちそうなものだが、その寡黙な性格のせいか、往々にして、カイコにその存在を指摘されないと、誰もが見落としてしまうほど、存在感が希薄な人間だった。

「どうぞ」

 ハヤテはほとんど口を動かさずに小さな声で言った。
 その後ろに会長席に座ってファッション雑誌を読んでいるカイコが見えた。

「なんだ、いたならばさっさと入ってくればいいのに。迷って決断を遅らせると、ずっと迷っていることがいつか気持ちよくなって、何かを選択することそのものから逃げることになってしまう。入りたまえ。坂崎タスク君」

 カイコはこの蒸し暑さに辟易したように手にしていた雑誌を机に伏せて言う。
 タスクはそれでも部屋に足を踏み入れるのを躊躇した。

「――なんだね、そんな叱られる子供のような顔をして。高校生にもなって分別のない顔をするんじゃない。私は君を叱ったりしないよ。むしろ、その逆だ」

 え、とタスクは小さく言う。
 見かねたカイコが吉沢君と呼ぶと、ハヤテがタスクの肩を押して、中に連れ込んだ。
 タスクは転びそうになってそのまま部屋の中央に躍り出る。
 後ろでハヤテがドアを閉める音がした。

 その音を聞いて、タスクの心臓が跳ね上がる。
 何も怒られることだけが怖いわけではなかった。
 蝶野カイコは――山下によればこの学校の生徒を殺した犯人かもしれない人物だった。
 そして自分は、吸血ジャックにその命を狙われているかもしれないよみがえった死体で。
 今、その容疑者とその片腕のような存在に前後を挟まれている。

 山下は学校にいれば色鬼からは逃れられると言った。
 それでタスクがすっかり安心していて気付かなかった。
 色鬼から逃れられたとしても、学校の中に吸血ジャックが、あるいはそれに見立てて生徒を殺した殺人鬼がいるかもしれないという可能性を。

「実は――君に謝っておこうと思ってね」

「え――」

 恐怖による緊張が最高潮に達していたタスクはカイコの言葉に虚を突かれた。

「先日の――日曜日の件。私は、君が極端に緊張に弱いということも知っていた。だが、あえて君を伴奏者に選び、舞台に立たせたのは、もしかしたら、君のそのあがり症を、何とかできるのではないか、なんて思いあがっていたからかもしれない。私は自分が教師にでもなった気でいたんだ。人を成長させ、指導する力があると。そんな私の高慢さが君に深く傷をつける原因になった。それをあの日、思い知ってね。ずっと君に、謝ろうと思っていたんだ」

――すまなかった。
 カイコはそう言い、タスクに向かって深々と頭を下げた。
 傲岸不遜で、いかにも唯我独尊といったカイコとは思えない、しおらしい行動だった。
 タスクは返す言葉がわからず、むやみに手を振った。

――怒らないのか? 怒っていないのだろうか、この人は。

「あの後、とにかく君のことが心配でね。電話がつながらなくてひょっとしたら早まったことにでもなってないかと思っていたんだが。月曜日にちゃんと出てきてくれて安心した。本当はその日に言おうと思っていたんだが、結局こんなに時間が経ってしまった。その後もどうにも本調子ではないようだし、もしかしたら私が思っているより、ずっと君を傷つけてしまったのではないだろうか。こんな言葉だけでは慰めにならないかもしれないが、あれは君のせいではない。もしそのことで自分を責めているなら、もう気にしなくていい。合唱部の伴奏がつらいようなら、今後は別の人に頼む。だからどうか、思いつめないでほしい」

――心配? この人が、ボクを?

 タスクには全く信じられないことだった。
 蝶野カイコという人は、他の人を頭一つも二つも飛びぬけていて、周りのことなど気にせずに、自分の進みたい道を勝手に行ってしまう人間だと思っていた。
 タスクのことなんて、少しも歯牙にかけていなくて、ただ失敗した使えない人間と落胆されたものだと思っていた。
 そして、そのことで糾弾されるのだと。

 思いもよらぬカイコからの謝罪と、タスクを気遣う優しさを見せられ、タスクはカイコに抱いていた偏見のようなイメージが少し変わった。

「あの……それで、話って」

「ああ、これを言いたかったんだ。君に一度はっきりと謝っておきたくて、ずっともやもやしていてね。昨日は病院で暴れたというし。まあそれはこっちの方で何事もなかったことにするように手配したが」

 カイコが手を打ってくれたのか。
 だから学校からも警察からも何もなかったのか。

「――もしかして、君は、何かとても大変なことに見舞われているんじゃないか? 何かとても重大なことを、誰にも言えないでいるんじゃないか?」

――ああ、この人は。

 ようやく、聞いてくれた。
 タスクはこれまで自殺の話や頭の中でする声について、いつも自分から切り出していた。
 国栖にも、山下にも、自分から言わなければならなかった。
 自分で自分がおかしいのだと言うことは、とてもつらいことだった。
 でも、この人は、気付いてくれた。タスクが今とてもつらいことを察してくれた。

「――実は……」

 そしてタスクは、日曜日の自殺から始まった、今も続く長い苦しみの胸の内をカイコに語る。
 いつの間にか外は雨が降り出していた。
 生徒会室には外の喧騒が遠く、静かな雨音だけが響く。
 カイコはずっとその話を遮らず、ただ頷きながら聞いてくれた。

「――すると、今の君は日曜日にすでに死んでいて、松木君を殺すために、その色鬼とかいう怪異によって生き返り、今なおそれに自我を奪われるかもしれないと、怯えている、ということかい?」

 カイコは右手で扇子を開いたり閉じたりを繰り返しながら言った。

「――信じてもらえないかもしれませんが、本当なんです」

 カイコは目を閉じて深く椅子にもたれかかった。
 
「にわかには、信じがたいね」

 やっぱり、そうか。自分でだって、確信を持っているわけではない。
 心のどこかでは、日曜日から今日までは全て夢で、いつものように目覚ましに起こされることを望んでいる。

「それが本当なら、私はいよいよ君に対して申し訳が立たない」

 カイコは目を開けて天井の蛍光灯を見ながら言った。
 そしてタスクを見る。タスクは小さくえ、と呟いた。

「だってそうだろう。畢竟君が悩まされている悪霊に取り憑かれたのは、自殺したからじゃないか。そしてその自殺の理由はあの日曜日の舞台にある。そこに君を立たせたのも、その結果君を追いつめてしまったのも私だ。私が君の気持ちをもっとちゃんと考えていれば、君の今の状況はなかった――違うかい?」

「あ――いえ、でも」

 タスクはずっと自分のせいではないと言ってもらうことを望んでいた。
 それなのに、カイコが今のタスクの状況をすべて自分のせいだと言うのには、何故か抵抗感があった。
 タスクはカイコのせいではない、と言いたかった。でも、言葉が出てこない。

「死んだ人間は、生き返ったりしないよ」

 不意にカイコが言う。

「死は絶対だ。生きているものは必ず死に、そして死んだものは決して生き返らない。それはこの宇宙を支配する絶対の法則だ。幽霊だろうが、妖怪だろうが、鬼だろうが、その法則を曲げることは絶対にできない」

 タスクは自分の経験していることが世迷言と言われているようで何だか嫌だった。

「だからね、もし君が本当に死んでいて、生き返ったのなら、それは奇跡なんだ。あのキリストが磔刑されて、その三日後に復活したことと同じ、いや、もしかしたらそれ以上の、考え難い、起こるはずのない、奇跡」

 奇跡? とタスクは繰り返す。
 今タスクが経験していることは、到底そんな美しい事柄には思えなかったが。

「私はね、坂崎君、死人を生き返らせようとしたことがある。君ももう聞いているかもしれないが、この学校に伝わる七色不思議の噂があるだろう? 私はそれを一度だけ試したことがある」

「それって――篠塚アゲハさんを、ですか?」

 タスクは思わず聞いた。
 カイコはそれを聞くと彼女にしてはとても珍しく驚いたような顔をした。

「アゲハのこと――知っているのかい?」

 カイコは扇子を広げて口元を隠して聞いた。
 タスクはしまったと思う。声がさっきより明らかに低くどすの利いたものになっていた。

「あ――えっと、だからその、噂で」

 タスクは適当なことを言ってごまかそうとした。

「噂?」

 カイコの目つきが鋭くなる。タスクは射すくめられて、観念した。

「昨日、タイチの叔父さんの警察の山下さんから、教えてもらったんです。病院で騒ぎを起こして、カササギビルでフェンスが落っこちてきた後、山下さんが調書を取るからって交番に連れて行って、そこで教えてもらいました。去年この学校で起こった事件のことも、色鬼のことも」

 カイコは扇子を口の前でとじ合わせ、あの人か、と呟いた。

「そこで――あなたが、あなたたち六十二代生徒会が四人の生徒を殺した犯人かもしれない、と。蝶野先輩、いや、本当は小野宮って言うそうですね。あの小野宮グループの社長の娘さんだって」

――私のことを小野宮と呼ぶな。

 突然聞こえた低い声はカイコのものだった。
 しかしカイコが本当に言ったのかと疑ってしまうほど、普段の声とはかけ離れた冷たい声だった。
 驚きのあまり目を白黒させてカイコを見るタスクに、カイコはくすりと笑いを漏らした。

「余計なことをあることないこと吹き込んでくれる。あの人は去年もそういう人だったからな。前半は全面的に否定しよう。私たちが四人の生徒を殺した犯人、これは絶対に違う。神に誓ってもいい。ただ、私が小野宮グループ総帥、小野宮蓮穣の娘であることは事実だ。ただ、父にはあともう二人息子がいるし、私は代わりの代わりの代わりくらいの扱いで、だから公立の学校にしか通わせてもらえないがね」

 自嘲気味にカイコは言う。
 そう言われれば、世界規模の資産家の娘が公立高校にいるというのも変な話だ。

「前妻との間に男児がいて、つまり、私には血の繋がらない兄が、いたというべきかな。本来ならその兄が次期総帥であり、実際彼は才能も実力も、器量もそれにふさわしい人物だった。だが、ずっと昔に消息不明になってしまった。おかげで今小野宮グループは水面下で跡取り競争に必死でね。私まで、その座につけて利益をすすろうとする有象無象がうごめいている。そういう人間にとって、去年この学校で起こった事件はどう映ったと思う? あるいは今の総帥、小野宮蓮穣をその座から引きずり降ろそうとしている人間の目には」

――それは。タスクには権力闘争とか、そういうことはいまいちよくわからなかったけれど。
 それでも権力の座にある人間の身内が殺人事件に巻き込まれていて、あまつさえその容疑者として疑われているなんて情報は、悪用されればこの上なく厄介なものだろう。

「私が小野宮ではなく、母方の旧姓を名乗っているのは、せめてそう言うことから自分なりに身を守ろうとするささやかな抵抗だ。別にそんなことをしなくても、蓮穣は私のことなど小娘としか――いや、ただの石ころか何かとしか思っていないだろうけど」

 それはともかく、とカイコは一度自身に関する話題を打ち切った。

「とにかく私は、他の生徒に比べれば圧倒的に財力や権力に恵まれた境遇にありながら、そして生徒の最善の利益を保護する生徒会の一翼を担っていながら、殺人者の凶行から誰ひとり救ってやることができなかった。たった一人の親友さえ」

 それはおそらく、アゲハのことを指しているのだろう。

「悔しくて悔しくて、自分の無力が情けなくて、私は七色不思議なんて言うおまじないにさえ縋った。でも結局、アゲハは生き返らなかったし、何も起こらなかった。だからね坂崎君、死んだ人間が生き返る、なんてことは、あり得ないんだ。もしそんなことが本当にあったなら――それにはきっと、何か深い意味がある」

「深い、意味、ですか? ――もしかして」

 それは例えば、タイチを殺すとかいうことだろうか。
 カイコはタスクの思いを先読みしたように破顔してそうじゃなくてね、と言った。

「そんな呪わしいことじゃなくてね、例えば、君はその復活が、君自身の意志によって行われた可能性を考えたことはあるかい?」

「ボクの?」

「そう、無理やりに生き返らせられたんじゃない。君は君自身の望みによって、復活したのだとしたら? 君自身が生きたいという願いによって復活したのなら――ならば君はそれに足るだけの願いがあったんじゃないだろうか」

――願い? ボクはただ、自分が消えてしまうことしか考えていなかったと思うけれど。

 そう言うとカイコはそうだなぁ、と閉じた扇子を口に当てた。

「どうして、君は消えたいと思ったんだろう」

「それはだって――、生きてるのがつらくて、何をやってもうまくいかないし、期待に応えられずに失望ばっかりされて、それがこの先もずっと続いていく、お先真っ暗な人生だから、だから、消えたいって、死体も見つからずに、思い出も残さずに、誰の記憶からも、消え去れればいいって」

「ほらね」

 カイコはピッと扇子でタスクを指して、意を得たように笑った。

「それは裏を返せば、生きるのがつらくなかったら生きたいってことじゃないか。誰かの期待に応えたいっていうことじゃないか。消えたいっていうのはそうやって誰も悲しませたくないっていう気持ち。君は、自分が思うように生きられないから辛くて消えたい――それはつまり、もっとうまく生きたいってことだ。誰も君のその生きたい気持ちに気付いてくれないから、気付かれないままに消えてしまいたいんだ。君は誰より生きたいと思っている。みんなの期待に応えたいと思っている。それが君の、本当の気持ちなんだ」

 カイコの言葉にタスクは心臓を貫かれた気がした。
 大胸筋が覆って、肋骨が厳重に張り巡らされたその奥にある、自分の心の一番敏感な部分に触られた気がした。

「だから、その気持ちを神様みたいなものが聞き届けてくれて、この宇宙を支配する因果さえ超越して、君に新しい命をくれたんじゃないかな。だとすれば、君の体に宿っている新しい命は、奇跡なんだ。君の切なる願いがもたらした条理を覆す福音」

「……でも、頭の中の鬼が」

 タスクの中で灰音はいつだってタスクを乗っ取ろうとしていて、そしてタイチを殺す機会をうかがっているのだ。

「それが試練、なんじゃないかな」

「試練?」

「君が一度死んで、生き返るという奇跡のために君が君自身の力で乗り越えなければならない試練。君が心の中の鬼に負けてタイチを殺してしまえば、その後君は吸血ジャックに殺される。でももしも、鬼に打ち勝つことができたなら――君はその新しい命で、今度こそ幸せになることができる――なんて、ちょっと夢見がち過ぎる話だったかな。忘れてくれたまえ」

 カイコは扇子を広げて、顔を隠すようにして笑った。
 隠しきれていない頬が少しだけ赤い。
 ああ、この人は、見た目よりずっと、年齢相応の少女なのだ。
 そう思ってタスクの鼓動は浮かれるように少し速くなった。

「何はともあれ、自殺が実は夢だったにせよ、実際君が生き返っているにせよ、君が今生きているという事実は動かない。だったらね、坂崎君、やることは一つだよ」

 カイコは扇子を閉じて人差し指を添えてタスクの心臓をまっすぐ指差すように伸ばして言う。

「生きたまえ。決して死のうなどとは考えず、がむしゃらでもいい、見苦しくてもいい、つらいことがあったら迷わず誰かに縋り付いて構わない。迷惑をかけることだってあるだろう。でもそんなことに構わず、君は君の命を、生き抜くんだ。それが、生きるものに等しく与えられた使命だよ」

 カイコがそう言ったところに、昼休みの終わりを告げる始業五分前の予鈴が鳴った。

「――すまん。話題がそれっぱなしだったね。とにかく私は、日曜日の件で、君に謝っておきたくて今日呼んだのだけれど。それで、君の方はどうだろう――実は秋に関東地区の合唱祭があるんだが。伴奏を――頼みたい」

――この人は、それでもまだ、ボクのことを頼ってくれるのか。

「……少し、考えさせてください」

 カイコはフッと笑った。

「そうだね、返事はいつでもいい。君の中で、何かの区切りがついて、どちらの答えでも、私の前で胸を張って言えるようになったら、その答えを聞かせてくれたまえ。今日はこれで用事は終わりだ。下がっていい」

 タスクは一礼して、生徒会室を後にした。
 何があったわけでもないのに、なんだか足取りが軽くなった気がした。

The Silkwarm: It may sound like love

2013.09.02.[Edit]
4 朝には晴れていた空も、今しも降り出しそうな空模様で、それはまるで今のタスクの心境を空が写し取っているようだった。 お昼休み、タスクは生徒会室のドアの前でまだそこを開けようかどうしようか迷っていた。 もう五分は立ち尽くしているだろうか。 タスクはカイコに呼び出しを食らっていた。 タスクにはその理由の心当たりは一つしかない。 コンクールの件だろう。 合唱部の舞台で、タスクが行った失敗と、その後に逃...

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 放課後には雨は止んでいた。
 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。

 授業が終わり、今は四時四十五分。
 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。
 何をして時間を潰したものか。
 考えていると確かヨースケと約束をしていたことを思い出した。
 場所は禅定寺だったか。
 そこに、去年この学校で起こった事件の第二の犠牲者である潮ヶ浜夜の墓があるという。

 禅定寺はここからそう遠くない。歩いて十五分くらいだ。
 幸い雨もやんでいるし、ヨースケは放課後と言っていたから、歩いて向かえばいいだろう。

「トーンちゃーん!」

 靴を履きかえるトンボの耳に聞こえてきたのは間の抜けたタイチの声だった。
 トンボはあえてそちらを見ずに、何、とそっけなく返事をする。

「今日はーせっかく部活がなくて、タスクのお見舞いもないのでー、オレと一緒にー」

「悪いけど、この後禅定寺に行かなくちゃいけないんだ」

「え? 何故に? まさかデート? なわけないか。デートにしても禅定寺は渋すぎるし」

 トンボはタイチに本当のことを言おうか迷った。
 言えば確実にタイチはついてくるだろう。
 だが、多分ヨースケはトンボ以外の人間がついてくることを望まない気がした。
 それに、そんなにかき回していいことではないような気がする。

「――お墓詣り。悪いけど、ついてきてほしくはないんだ。なるべく一人にしてほしい」

 トンボはタイチに言う。嘘はついていない。
 本当のことも言っていないけれど。
 タイチはほっぺたを膨らましてちぇ、と言った。

「せっかくトンちゃんとデートしようと思ったのにー、もういい! オレ、タスクと一緒に超えてはいけない一線を越えちゃうから!」

「ごめんごめん。今度ちゃんと時間作るからさ。今日は見逃して」

「もう、今度っていつよ! あなたいっつもそう言って! もう知らない!」

 タイチはわざとらしく泣き出したように腕で目を拭って玄関を駆け抜けた。
 トンボは大きくため息をついた。
 あれはあれで巻き込まれない分には愉快な友達なのだけれど。

「ご愁傷様……」

 後ろからぼそぼそとした声でつぶやかれ、トンボはびっくりして振り返った。
 タスクだった。相変わらず目線は合わせず、わずかに斜め下を見ている。

「お墓詣りって、お兄さんの?」

「あ、ううん、それとは違うんだけど――ごめん、ちょっと急いでるんだ。また明日ね」

 トンボはこれ以上足止めを食らうとヨースケが帰ってしまうと思い適当に話を打ち切って、タスクに手を振って別れを告げ、玄関を出た。
 雨は止んでいたけれど、曇り空の雲は厚く、それでいて街はむしむしとうっとうしい暑さが立ち込めていた。
 少し歩くだけで服にジワリと汗が浮かぶ。不快な暑さだった。
 
 トンボが禅定寺の霊園に入ると、そこには墓参りする家族があった。
 その中にヨースケを見つける。
 では、あれは、おそらく潮ヶ浜夜の家族。
 トンボは堂々としていればいいのに、何故か影から窺うように身を隠してしまう。
 さすがに遺族と会うのは気が引けた。
 ヨースケがここに来いと言ったのは、家族と引き合わせるためだったのだろうか。
 だとしたら思いのほか人が悪いと言わざるを得ない。

 家族は墓を清め、墓を花で飾って、ろうそくを灯し、焼香をする。
 思い思いに何かを言っていたようだが、何を言っているかはわからない。
 やがて、ヨースケもその墓に線香を供え、手を合わせた。
 そして、家族が帰るのを、頭を何度も下げて見送る。
 家族の姿が見えなくなってしばらくして、ヨースケは大きな声で出てきていいぞと言った。

――気付かれていたのか。
 別にヨースケの方から呼んだのだから、負い目を感じる必要は何もないはずだった。
 それなのに、何故だかいたずらがばれて兄に叱られる前に名前を呼ばれるような気になった。

「よぉ、トンボ、悪ぃな。待たせちまったみたいで。――そっちに隠れてる二人も出てきたらどうだ! 別に今更怒らねーよ!」

 ヨースケはトンボとは逆側の墓石の列を振り返って言った。
 その影から、ひょっこりとタイチとタスクが顔を出した。

「タスク! ……それにタイチ……」

 驚いたようにタスクの名を呼び、その後に睨みつけてタイチの名を呼ぶ。
 タイチは何その差! と心外そうだが、タイチがタスクを誘ったに違いなかった。

「つけてきたのか?」

「ぶっぶー、外れー、先回りしたんですー! トンちゃんが禅定寺に行くって言ってたから、タスクを誘って走ってトンちゃんより十分前には着いてましたー!」

「タイチ!」

 トンボは怒鳴った。タイチは怯まない。
 代わりにタスクが居心地悪そうに視線を落ち着きなく動かした。

「君は、今お墓詣りしてた人達が、どういう人達だか、ヨースケ先輩がどういう立場なのか――」

「やめろトンボ」

 言ったのはヨースケだった。
 トンボが振り返ると、そこにはいつもの陽だまりのような大きな笑顔があった。

「友達は仲良くするもんだぞ。――それにヨルのことはお前が松木を怒る理由にはならない。オレは怒ってないんだから、お前が怒ることもないんだ」

 ヨースケは言って大きな手でわしわしとトンボの頭を撫でた。
 昔兄がしてくれたみたいで、なんだかトンボは懐かしくてたまらなくなった。

「よーし松木、女の子をつけ回すのはよくないけど、つけ回したくなるお前の気持ちはよーくわかるぞ! それに、お前ら、やっぱり何かあるんだろ。病院のことと言い、トンボの態度と言い、怪しすぎるぞ。この事件に関しては色々嗅ぎまわられるのは、俺としてはすごく気分悪い、だから正直に白状しろ。お前ら、何をしようとしてるんだ?」

「オレは別に――」

「ボクは、去年起こった式部北高校生徒連続殺害事件の真犯人を探しています」

 タイチの言葉を遮ってトンボは言った。
 真犯人、とヨースケは眉をひそめる。

「何でこう、アゲハ先輩と同じことを言うかねぇ、それ、お兄さんから聞いたのか? この事件、吸血ジャックが犯人じゃないって」

 いいえ、とトンボは静かに答える。

「タイチの叔父さんの警察の人から聞きました。この事件には他の吸血ジャック事件には見られない特徴があって、吸血ジャックの犯行じゃない可能性があり――そしてそうなら、四人を殺した犯人は学校関係者かもしれないと」

「で、お前は六十二代生徒会を疑ってるってわけか。でも、それで行くなら、多分その推理は間違ってる」

 ヨースケが断定的な口調で言う。
 トンボは本当ですか、と思わず声を弾ませた。
 そうでなければいいと思って疑っているから、ヨースケの言葉は嬉しかった。

「ああ、だって、オレは去年同じ語り口でアゲハ先輩にヨルのことで何か知ってることはないかってさんざん聞かれて、日記を渡してるからな。もし旧生徒会が犯人で、言っちゃ悪いがお兄さんが関与してたとしたら、そんな行動取るわけないだろ? その後にアゲハ先輩は殺されてるからカモフラージュのためだったとも考えにくい」

――それは、そうだ。
 アゲハが犯行の一部を担っていた、いやそこまでいかなくても、六十二代生徒会が犯行を重ねていることを知っていたなら、わざわざ真犯人を探してヨースケに話を聞く必要はない。ならば、やはり――。

「まあ、結論を急ぐな。仮定の話をしよう。吸血ジャック事件、いや、去年の式部北高校で起こった四つの殺人事件が、吸血ジャックに見せかけるための犯行で、それが学校関係者によるものだと仮定する。その場合犯人にとって一番都合の悪い存在ってのはどういう奴だと思う?」

 聞かれてトンボはううんと考え込んだ。
 犯人にとって一番都合が悪い、それはやっぱり推理力が豊かで、洞察力に富んでいて、些細なことからも犯人を特定する観察力を持った探偵のような人物が――。

「去年の事件を知っていて、かつその犯人を探そうとする可能性の高い人間、その中でも、教師、あるいは学生として日常的に学校に出入りする人物――つまりは、去年の事件の被害者の身内で、今この学校の一年生で、まさにその事件を調べようとしている、よーするにトンちゃんのことだよ!」

 タイチは自信満々にトンボを指さして、長い前髪の下で不敵に笑う。

「人を指さすのはよくないぞ。特にお墓ではな。まあそう言うことだ。松木の言う通り。犯人が本当に学校関係者で、まだ学内にいる人物だとしたら、一番チェックしているのは去年の被害者の身内、あるいは親しかったもので、学校に頻繁に出入りする人間、つまり、俺やトンボのことだ。そういう人間がこれ見よがしに事件を調べてますよーとかって行動し出したら、犯人はまず何をする?」

「その人物の、抹殺!」

 ぐわしと拳を握りしめてタイチがまたも自信満々に言う。
 タスクはその後ろ髪を一度引っ張った。

「いい加減にしておけ。そういう空気じゃないことに気付け」

 タスクが不快そうに言う。

「何だよもー、みんなが葬式みたいな暗い顔してるから、明るくしてやろーと思ってやってるのに! わかったよ、真面目に答えればいいんだろ! 真犯人が学校関係者で、被害者に親しかった人が、過去の事件の捜査をしていることに気付き始めたら、だろ、そんなの決まってんじゃん、何食わぬ顔して近付いて、味方の振りをして自分が疑われないように推理を誘導して間違った方向に疑いをかけるんだよ」

――味方の振りをして、間違った方向に疑いをかける……?
 トンボはタイチの言葉にぞっとする。
 それならば、今トンボは六十二代生徒会を疑っていた。
 その疑いを持たせたものこそが犯人と言うことになる。
 すなわち――山下勝彦が。

「――でも、山下さんは犯人じゃないぜ」

 トンボの考えを読んだようにタイチが言った。

「すげーなお前。松木って馬鹿だと思ってたんだけど、それ正解だ」

 ヨースケは感心したようだった。
 トンボもきっと立場さえ違えばタイチの推理に感心しただろう。
 今一つそう思えないのはその行いがどこか間抜けだからだろうか。
――それとも山下が犯人でタイチも関わっていたのでは、と疑い始めているからだろうか。

「でもトンボ、騙されんなよ。俺が言ってんのはな、これまでとこれから、とにかくお前がこの事件を調べる上で、誰かが犯人かもしれないっていう疑惑をお前に吹き込んでくる人間が――つまり、俺みたいにお前に接触してくる人間の中に犯人がいることを考えろってことだ。要するに、俺もお前に間違った推理を誘導しに現れたのかもしれないって危険を考えろ。お前はここに来るまでの間、少しでも俺を疑ったか?」

 トンボはとんでもないと首を横に振る。
 ヨースケははぁと大きなため息をついた。

「松木がどうしてついてくるって言ったのかわかってないだろ」

 それは――いつもの通りの悪ふざけだと思っていた。
 ヨースケの深刻な様子に、そんなふざけたタイチを連れて行くのははばかられた。

「もし学校内に真犯人がいるなら、いの一番に危険なのは自分だってことを少しは自覚しろ。松木はお前が心配だからついてきたんだよ。普通なら、俺を疑わなきゃいけない。兄の事件を調べて、一番初めに聞き込みをかけた人間が、偶然にも第二の殺人の被害者の恋人で、その人物から日記を渡したいから放課後お墓に来てくれ、なんて、罠以外の何物にも見えないぞ。これで俺が真犯人で、もし松木と坂崎がお前についてこなかったら、間違いなくお前は明日、学校で死体になって発見されてた」

 そう言われると、トンボはぐうの音も出ない。
 自分でも迂闊だったと思う。
 ヨースケが犯人かもしれないという可能性そのものを考えなかった。
 これではヨースケが犯人でなくても、いつか真犯人に同じような手口で殺されかねない。

「すいません……でも、それじゃあ、誰も信じられなくなります……」

「誰かを信じたいなら、犯人探しなんて今すぐやめろ」

 ヨースケはきっぱりと言った。

「俺はなトンボ、ヨルが殺された時、お前と同じように犯人を学校の仲間の中に探して、復讐してやろうって思ってた。学校にいるやつみんなが犯人かもしれないと疑ってたし、少しでも怪しかったら殺してやろうって本気で思ってた。でも、アゲハ先輩がヨルの日記を返すときに言ったんだ。『潮ヶ浜さんの復讐をするのは自由だけど、潮ヶ浜さんの名のもとに桜木君が殺人を行うなら、それは君が潮ヶ浜さんに人殺しをさせることだ』って」

――復讐って、便利な言葉だよな。ヨースケは弱弱しく呟く。

「自分が好きな人を殺されて憎む気持ちって、絶対に殺された人が殺したやつを恨む気持ちとおんなじじゃない。それなのに、復讐って言葉を使うと、俺が殺したいって気持ちを、ヨルのせいにできちゃうんだよ。ヨルが殺されたから、だから俺が犯人を殺して、ヨルの無念を晴らすんだって。それは俺が人殺しをするのはヨルのせいだって言うことで……いつの間にか俺、ヨルが好きだって言いながら人を殺すことを正当化してた。俺はヨルを、人殺しの理由にしてたんだ。それってすごく怖いことだ。だから――」

 ヨースケは真剣な顔で言っていた。
 とても悲しそうな顔だった。
 この人はきっと、潮ヶ浜夜のことが大好きだったんだろう。
 そして今、トンボのことを本当に親身に心配している。
――自分はそんな気持ちにさえ、疑いの眼差しを向けなければならないのだろうか。

 そんなことを思っているトンボの前にヨースケは二冊の日記帳を差し出した。
 一つはいかにも女の子が好みそうなパステルカラーの鍵付きの日記帳。
 もう一つはただの厚めのノートと言った感じだった。

「誰かを信じていたいなら、俺や、坂崎や、松木や、お前のお兄さん自身を信じていたいなら、今すぐ犯人探しや探偵ごっこなんてやめろ。――これは去年の四月から、ヨルが殺される日までの間の日記と、お前のお兄さん、アゲハ先輩が事件について調べた記録だ。でもオレはヨルの日記は読んだけど、アゲハ先輩のは読んでないからな。あの人が死んで、事件を調べたいなんて気はなくなっちまった。もし真相が、お前にとって受け入れがたいものだったとしても、それでもお前がお兄さんを殺した事件の犯人を知りたいと思うなら、この日記はお前に預ける。読んでいいし、お前の考えを書いてもいい。返さなくていい。なんなら燃やしても構わない。でも、ここに書いてあることは、絶対に疑いの眼差しで見なくちゃいけない。だって俺が――真犯人かもしれないんだからな」

「ヨースケ先輩……」

 冗談でもやめてください、と言うとするトンボにヨースケは手のひらを広げて制す。

「冗談じゃないぞ。本気で言ってるんだからな。俺が犯人だったら、お前を殺さなかったのは松木と坂崎っていう邪魔がついてきたから。そこで俺はその場合に備えて、お前に犯人をミスリードさせる手段として、この日記帳を渡す――そう思っとけ。この日記を受け取るんならな。確信はいつだって足元をおろそかにさせる。こいつが犯人、なんて確信はともかく、こいつは絶対安全、真っ白なんて確信は、この先絶対にできないと思え。その覚悟があるなら――」

「もらいます」

 トンボはヨースケの手から日記を取り、迷いなく言う。

「そして、先輩のことも信じてます。タスクも、タイチも、兄さんのことも。先輩には虫のいい話に聞こえるかもしれないけど、ボクはやっぱり親切にされれば、それを疑うより先に、信じてしまいます。いつか、騙されて、痛い目を見る、いや、本当に死にそうな目に遭うかもしれません。それでも、ボクは信じたい。兄さんと、兄さんが信じたものの潔白を」

 ヨースケはやれやれと言わんばかりにうつむいて笑って、大きな声でだってよと言った。

「純粋で危なっかしーお姫様だ! いつ誰に騙されるかわからねーぞ! お前らで守ってやりな! 二人のひよっこナイト様よ!」

 ヨースケはトンボを二人に押し付けるように背中を押して、鞄を背中に担いで後ろを向いた。

「言いたいことは言ったし、渡したいものも渡したし、釘を刺した方がいいと思ったことは一応釘を刺しといたからな。後はお前ら三人で好きにしな。俺はこの件に関してはもう何も言わないし、協力もしないからな。じゃーな」

 ヨースケはそのまま霊園を後にした。
 トンボはその姿が見えなくなると、タイチとタスクを振り返った。

「ごめん、タイチ。ボクが不用心だった。心配してついてきてくれてありがとう」

The Sun visits The Night's grave

2013.09.02.[Edit]
5 放課後には雨は止んでいた。 トンボは言われた通り学級日誌は休み時間中に書き上げ、『今日の出来事』を軽く埋めるとそれを職員室に提出し、そのまま部活に行こうとして、玄関で下校を呼び掛けている教師の声でそうだった、と思い出した。 授業が終わり、今は四時四十五分。 部活がないとすると、トンボは自分が丸々八時までやることがないという事実に、今更のように少し衝撃を受けた。 何をして時間を潰したものか。 考...

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 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。

「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」

「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」

「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」

 胸を叩こうとしたタイチの腕をタスクが掴んだ。
 さすがにタスクの目の前で調子に乗りすぎたか。そう思ってタスクの方を見て――。
 そこでようやく、二人は異常に気付く。
 タスクはギュッと胸のあたりを押さえていた。おそらくそこにある紫水晶の振り子を。
 その顔はひどく歪んでいる。
 笑おうとする筋肉と、それをこらえようとする筋肉がぶつかり合っているようだった。

――鬼が来たんだ。ここは学校じゃないから。そしてタイチがいるから。
――こんな時に。

「……タイチ、トンボ、逃げろ」

 呻くようにタスクが言った瞬間、潮ヶ浜夜の墓に供えられたろうそくと線香が、墓石より高く灰色の炎を上げて燃え盛った。
 タイチは即座にタスクに掴まれた腕を振りほどき、トンボの腕をつかんで霊園の出口に向かう。その足が突然止まった。
 
「タイチ……?」

 トンボが怪訝に思って名前を呼ぶと、即座にタイチはタスクを振り返り、トンボの腰に肩を当てて、そのまま横に弾き飛ばした。
 さっきまでトンボ達がいた石畳が、灰色の炎を上げ、一瞬で燃え尽きていく。
――いや、それはどんどん燃え広がるように横に伸びて、いつの間にか霊園そのものを灰色の炎の壁が覆っていた。

「クソ、逃げ道を塞がれた……!」

 タイチが苦々しく言い、タスクとトンボの間に立ちふさがる。

「トンちゃん……短い人生だったけど、オレ幸せかもしれない。だって死ぬ前に好きな人と一緒にいられたし」

「――バカ、こんな時に!」

 叫ぶトンボの胸にタイチは顔をうずめる。そのまま地面に押し倒された。
 タイチの背中の上を、灰色の火球が通り過ぎて行った。

 それが知らない人の墓石に当たって、その墓を燃やし尽くしていく。
 墓が一瞬のうちに見る間に跡形もなくなっていくのを見て、タイチもトンボも戦慄する。

「……トンちゃん、合図したら、トンちゃんは目を閉じるんだ。その間、何が聞こえても絶対に目を開けないで。作戦がうまくいったら、きっとタスクは元のタスクに戻ってるから。そしたらさ、トンちゃんはタスクと二人で、学校で一緒にお弁当食べて、一緒に帰ったり、一緒に海に行ったりお祭りに行ったりして、それで一緒に卒業するんだ。これまで通りになる。何も変わらない、今まで通りだ。今日のことは台風みたいなものだよ。だからさ、タスクのこと怖がったり、嫌いにならないで、ずっと一緒にいてやってくれよな」

「タイチ?」

「合図は、アイ、ラブ、ユーだ。オレがユーって言ったらトンちゃんは目を閉じるんだ。大丈夫、あいつの狙いは最初からオレだよ。トンちゃんはオレといなければ危害を加えられないから」

「待ってよタイチ、君は――」

「行くよトンちゃん、アイ、ラブ……」

――やめろ、そんなの聞きたくない。
 ボクが目を閉じて、その間に君は何をするつもりだ?
 タスクが元に戻るって、どうしてその後に君が登場しない?
 ずっと一緒にいてやってくれ? そんなの君も一緒に決まってるだろ!

 タイチがユーと叫んだ。トンボは大声でやめろと叫ぶ。
 タスクは歪んだ笑い声をあげながら、タイチに向かって灰色の火を放った。
 それがタイチにぶつかる――その寸前。トンボの目の前に天使が現れた。

 トンボはわが目を疑った。
 だってその人は、本当に空から降りてきたから。
 猛烈な風をはらんで、ゆっくりと天から階段を降りるように、その男は降臨した。
――萩原ミツルは。

 突風にあおられた灰色の炎は見る間に小さくなり、やがて消えた。
 ミツルが消しているのだ――風を操って。そうトンボの直感が告げる。

「今のうちに逃げよう、トンちゃん!」

 炎の壁が無くなった隙をタイチは見逃さない。トンボの手を握って立ち上がる。

「何してるトンちゃん、立つんだよ! 立って逃げなきゃ!」

 トンボは立てなかった。いや、正確には、見惚れていた。

 まるでそれは一幅の絵画、あるいは神話の一場面の切り抜きのようだった。
 墓碑が立ち並ぶ野原に現れた鬼。その鬼の前に風と共に舞い降りる天使。
 そして天使は鬼を恐れることなく近づいて、その頬に触れる。
 鬼は天使の威光に跪いて、天使が何かを囁いた。
 風の音がうるさくて、トンボには聞こえない。
 しかしそれがタスクの耳に入ると、タスクの目に光が戻った。
 天使が祝福し、鬼が人間に戻る一幕――。
 劇的というなら、この上なく虚構めいた状況だった。
 あまりに現実的でなくて、夢を見ているのだとさえ思った。

 そして天使は――ミツルはトンボとタイチを振り返った。

「篠塚、悪いことは言わない。この二人と一緒に行動するのはやめておけ。いつかこういう目に遭って、君は命を落とす羽目になる」

 感情のないその言葉は、一種荘厳な宣託のようにもトンボには聞こえた。

「あ、アンタ、何なんだよ! 突然現れて! 助けてくれたのはありがたいけど、いきなり何を……」

 ミツルは叫ぶタイチの方を見て、その顔に手を伸ばす。
 タイチは怯んだように身をのけぞらせた。

「助けたのは篠塚であって君ではない。僕に憑いている色鬼も君を殺さないという判断を下すかどうかは、まだ躊躇っている」

「それ、どういうことだよ……」

 タイチはミツルの言葉に顔色が変わる。

「モラトリアム――君は今、色鬼灰音以外の全ての色鬼から、殺すべきかどうかを猶予されている。それは君を殺すことがこの世界と色鬼と鴉に何をもたらすかが未知数だからだ。それにさしたる影響がないことが判明すれば、色鬼達は君を殺すことを躊躇しないだろう。覚えておけ、松木タイチ。今後どう物語が展開しようと君の一族は、常に色鬼にとっても人間にとっても敵勢だということを」

「何だと……! オレの一族って、どういうことだよ! あんた、オレの親のこと――」

 噛みつくように言うタイチに構わず、ミツルは、今度はタスクを指さした。

「行かなくていいのかい。君の、大事な、大事な友達が、目を覚ます――」

 タスクはわなわなと顔を覆ってその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 タイチはそれを見て、くそ、と呟いてそのそばに駆け寄る。
 トンボはやっと我に返って、ミツルを見上げた。

「あの――、ありがとうございます」

 ミツルは何も言わずにトンボの顔に手を伸ばし、その顎に手を触れる。

「よく似ている……」

「え――」

「もう彼らには関わるな。また坂崎タスクがああなっても、僕はもう助けない。覚えておくことだ」

――行こう、トウタ。
 ミツルはまたそう言うとトンボの顔から手を離し、帰って行った。
 トンボは呆然とそれを見送り、そして座り込むタスクのそばに駆け寄った。

「大丈夫、タスク?」

 タスクはおどおどした視線でトンボとタイチを見て、それからうつむいて顔を両手で覆った。
 わなわなとその肩が震えだす。
 うう、うう、とうめき声のような音がその喉から聞こえてきた。
 また、泣いてしまうのだろうか。トンボがそう思った時だった。

――うう、ふぐ、ふふふ、ははは……。

――うめき声、違う、これは、笑い声だ。タスクは笑っている。高らかに声を上げて。
 トンボとタイチはその様子にさっと身構えた。

「ば、バーカ」

 タスクが言った。
 トンボもタイチもきょとんとする。

「だ、大丈夫だって? ま、ま、まだわからないのか、この場で誰がいちば、一番足手まといだったか!」
 
 タスクの声はがたがたと震えていた。歯の根が合っていないのだ。
 タスクは暗い瞳でトンボをあざけるような視線で睨む。

「は、はっきり言ってやるよ! じ、自分のこと、ぼ、ぼ、ボクだとか、か、かわ、かわいいと思ってんのか、きも、きも、キモいんだよ、この――おとこ女! いい年して、こ、高校生にもなって、すこ、すこ、少しは、恥じらいを持て! ば、ば、バーカ、ハハハ、ハハハハハ!」

「何だと、お前タスク! トンちゃんがどれだけ――」

 トンボがその言葉を理解して、怒りを感じるより先に、タイチがタスクを怒鳴りつけた。
 タスクはそのタイチにも、やはりバカにするような目を向けた。

「お、お、お前も、タイチも、い、いい加減にしろよ! その髪型、何なんだよ、び、貧乏キャラぶってんじゃ、ねーよ! アホみたいな振りしてるのも、ば、ばれてんだよ! バレバレなんだよ! ぶ、ぶりっ子女に、アホの振りした男に、お、お、お似合いのバカップルだな、バーカバーカ! もう近寄んな! ば、バカがうつる!」

 タイチがその横っ面を殴りつけた。
 タスクはその顔に下卑た笑みを浮かべてへらへらと笑う。

「こ、言葉で返せないと、ぼ、暴力に頼るぅ、ち、知能が低い、げげ、原始人だから、しょうがないよなぁ。お、お前らりょ、りょ、両親がいないから……だ、だ、だから、精神が、肉体の成長に、つ、つ、ついていけないんだ! だから、す、捨てられたんだよ!」

「――お前!」

 タイチが振りかぶった手を、トンボは止めた。
 タイチが振り返るより早く、タスクの襟首をつかむ。

「あっそ。勝手にすれば、自殺君」

 トンボはそう言ってタスクのほっぺたに往復びんたを叩きつけ、その胸を突き飛ばした。
 タスクの鼻から、血が滴っている。その頬を透明な液体が撫でた。
 涙――違う、雨が降ってきたのだ。
 雨はあっという間に土砂降りになった。
 トンボは鞄とヨースケからもらった日記帳を鞄にしまい、タスクに背を向けた。

「二度と近付かないで」

「あ、待ってトンちゃん――」

 タイチは叫んで、一度タスクを振り返った。

「――あばよ」

 そしてトンボの後を追う。
 一人残されたタスクは、雨音と張り合ってるのかと思うくらい、大きな声で笑い続けた。

The Angel: His saying is nothing but farewell

2013.09.02.[Edit]
6 タイチにお礼を言うとタイチは頭の後ろで手を組んで恥ずかしそうに体を横に曲げた。「やだなートンちゃん、感謝してるならチューしてもいいんだよ! タスクなら気にしなくていいからさ!」「タスクも、ありがとう。やっぱりボク、二人がいないと、全然だめだ。こんなんじゃそのうち本当に真犯人の罠にかかっちゃう。だから――」「まーかせなさい! この松木タイチが側にいるからには、大船に乗ったつもりで――」 胸を叩こうと...

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「トンちゃん、待ってって」

 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。

「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」

 え、とタイチの顔から表情が抜けた。

「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で兄の死の真相を調べてるのに、ふざけ半分で、その上命まで狙われたら話にならない」

「トンちゃん、オレは――」

「触らないでよ!」

 手を伸ばすタイチをトンボは怒鳴って振り払う。

「馴れ馴れしくどさくさに紛れて手を取ってきて! そういうのセクハラだから! こっちはもううんざりなんだよ! 二度と声をかけないで――目の前から消えて!」

 タイチは小さくトンちゃん、と呟いて、ああそうかよ、といらだった声を出した。

「どいつもこいつも、つらくて今にも死にそうな顔してるから、下手に出て優しくしてりゃ付け上がりやがって! そうかよ、オレはずっと親切にしてるつもりだったけど、そんな風に思われてたなんて知らなかった! ごめんね、迷惑で! 安心して、もう二度と話しかけないから! じゃあね! さよなら!」

 タイチは怒鳴るように言ってトンボに背中を向けて走り去った。
 トンボはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 ヘッドライトをつけた車が隣の深い水たまりを、派手に水しぶきを上げて通り抜けた。
 トンボは服に泥水を浴びて、それでもまだそこから動けずにいた。

――これでいいんだ。これで。

 トンボにはタスクの真意がわかっていた。
 タスクは自分がタイチにもトンボにも害にしかならないことを理解していた。
 だから、あえてトンボやタイチの悪口を言って、自分との縁を切らせたのだ。
 それが一番いい方法なのだ。そうやってお互い距離を取っていた方がいい。
 タスクはタイチを殺そうとしている。
 トンボの事件は二人には無関係だ。
 ヨースケにはああ言われたが、こうなった以上、トンボが慎重になるしかない。
 でも、それでいいのだ。そうするのが現状で、一番――。

「う……く……」

 頭をよぎるのはこの二か月の三人での思い出だった。
 入学式、みんな制服姿で、似たような恰好をしていても、タイチとタスクの二人組は、明らかに周囲から浮いていた。
 タイチはその見た目で、タスクはその雰囲気で逆にトンボの目に残った。
 口をきいたのは最初のホームルームの時。
 委員会決めで、それぞれの委員の役割を先生が説明し、立候補を募った時、トンボは真っ先にクラス委員に手をあげ、周囲から拍手をもらった。
 その後なかなか決まらない男子クラス委員は結局じゃんけんで負けた人間がやることになり、それがタスクだった。
 トンボは最初、うわ、こいつかよ、と正直思った。
 タスクはおどおどとしながら、それでも、自分から手を差し出して、よろしくと言ってきたのだ。

 五月になって、トンボが風邪を引いて学校を休むと、タスクはクラス委員だからとプリントを届けに来てくれた。
 これがまた笑い話で、タスクは道に迷ってトンボの家とはまるで別の隣町に行ってしまい、あわや行方不明扱いになるところで、逆にトンボが家を出て探しに行く羽目になって。
 それで学校に行けば、タスクは何故か風邪を引いたのは普段の食生活が悪いからだと上から目線でトンボに言い、だから弁当を作ってくるので食べろと言った。
 どうせ家族とタイチの分を作っているから、あと一人くらい増えても問題ないと。

 それから、三人で弁当を突きあう仲になって、結局気がつけば、三人で固まっている。
 タイチがいつもひょうきんなことをして、タスクがそれに突っ込んで、三人で笑って。

――そう言う日々が、今日終わったのだ。
 理由がどうであれ、とにかく、明日から、三人はきっと口を交わすこともない。
 もちろん弁当をタスクが持ってきてくれることもなければ、もうタイチから熱烈なアプローチを受ける心配をする必要もない。

――清々した。……わけないか。
 この胸にある空洞は何だろう。
 トンボは自分の胸に手を当てた。心臓の拍動を感じる。
 でもここにはもう何もない。心がない。心を満たしていた明るい色がない。
 今までそこを満たしていた暖かくて優しい色。
 どこに忘れてきてしまったんだろう。なくさないように大切にしていたのに。
 兄が死んで、一度なくして。
 もう二度となくさないようにしっかり守っていたはずなのに。
 どうしてまた同じ感覚が、胸に広がるんだろう。
 何故また同じように胸の中が灰色に塗りつぶされるんだろう。

 結局トンボは、兄の死から何一つ学んでいなくて。
 そのトンボの愚かさが、またトンボ自身から大切なものを奪っていく。
 雨は止んで、カエルが鳴く道をトンボはとぼとぼと帰る。
 その合唱はさながらトンボの愚かさをあざ笑うようで。
 やるせなくてトンボは暗い夜道に頼りなく灯る街灯の下で、ついに座り込んで泣いた。

――ボクは、バカだ。兄さん、ごめんなさい。タスク、タイチ、ごめん。

「ごめん……本当にごめん」

 そんなことを言っても、兄にも、タイチにもタスクにも届かないのに。
 それでも口からはその言葉が漏れた。

 どれくらいそうして泣いていたんだろうか。
 雨に濡れたTシャツはうっすらと乾き始めていたから、かなりの時間が経っていたことは間違いなかった。
 いい加減、家に帰らなければ。
 それに、兄が巻き込まれた事件の真相は、トンボの友情の崩壊などにはこゆるぎもしないのには違いなかった。
 ヨースケからもらった日記も読まなければならない。

――一体何のために。ふとその疑問がトンボの脳裏をかすめた。
 これで、仮に真犯人が見つかって、それが逮捕されたとしても、タスクとタイチとの関係が修復できるわけではない。
 大体タスクの問題はそれとはまったく別の次元で起こっているのだし。
 だから、トンボがこの事件について調べることは、トンボに何の利益ももたらさない。

 四人も人を殺した犯罪者が逮捕されることは社会にとってはメリットがあるだろう。
 でも、それはトンボにとって親しい友人二人との関係を反故にしてまで得る価値のあるものだろうか。
 いや、トンボが事件を調べようと調べまいと、この関係の破綻はタスクの自殺にあるのだからトンボの行動は関係なかったのだろうか。
 トンボがどうしようと、いずれこの結末は回避できなかったのだろうか。
 だったらトンボは気にせず、兄の死の究明を続けるべきなのかもしれない。

――でも、だから、何のために。
 タイチやタスクは事件には無関係だったけれど、彼らが動くことでトンボも動かされていた。
 タスクの自殺から始まり、タイチの叔父が二つの事件を関連付けた。
 関係ない二人の行動は、それでも常にトンボも巻き込んで展開していた。
 これからトンボは一人で事件に立ち向かわなければならない。
 そのためにはしっかりとした動機付けが必要だった。
 でも今、トンボの胸を虚無感が満たしていて、何のやる気も出ない。

 すすり泣きながら月明かりを頼りに帰り道を歩いていたら、不意に声をかけられた。

「そんなに泣いてどうしたよ、可愛らしいお嬢さん?」

 梅雨の分厚い雲の合間から漏れる月明かりに、その人物は闇の中から浮かび上がった。
――ように見えた。

「よォ、こんばんは」

「へ――?」

――それは見た瞬間、くらりとするような女性。

 170センチ以上はありそうな長身。
 グラビアモデルのようなスタイルに露出の高い服装。
 服の上からでも分かるほど発達した筋肉に、日本人離れした掘りの深い顔つき。
 ボリュームのある唇がとても色っぽい。
 その目つきは鋭い三白眼で猛禽類を思い出させる。
 迫力のあるドレッドヘアがよく似合っていた。

 一度見れば忘れられない強烈な色気を放つ女性だ。

「こうして直接話すのは初めてだな。トンボ、篠塚トンボ」

 彼女はくわえていた煙草をポケット灰皿に捨て、そう言った。

「あ、あの……あなたは?」

 どうしてトンボの名前を知っているのだろうか。
 知り合いにこんな人はいない。いれば絶対に覚えている。
 つい呆気に取られ、泣き止んでしまった。
 それだけではない。トンボの頭にはうっすらと恐怖があった。
 この先アゲハの事件を調べていく上で、トンボの前に現れる人間はみんな怪しいのだ。
 さらにこの人はトンボのことを知っている。トンボには心当たりがないのに。
 そんな人物がこの状況で現れるとすれば、トンボは怪しまずにはいられない。

「……やめろよ、顔が怖くなってるぜ。あいにくと眼鏡のお巡りみたく身の証を立てられるような立派な手帳は持ち合わせが無くてな。でも名前くらいは聞いた事あるんじゃねェか? アタシは神楽崎ユミエ……好きに呼べばいい」

 ユミエ――そうか。この人があのユミエか。

 トンボの中で全てが繋がった。
 確かにユミエの言う通り直接会話するのは初めてだ。
 でも、トンボは彼女のことを知っている。

 神楽崎ユミエ。
 伝説の式部北高校第六十二代生徒会。『伝説』を『伝説』にした生徒会長。
 それがこの女性。そして。
――篠塚アゲハの思い人だった女性だ。
 トンボの胸にはなぜか落胆が広がっていた。
 萩原ミツルの次には、この人。これでは本当に山下の言う通りではないか。
 この事件の裏で六十二代生徒会が動いている。それはもう間違いなかった。

「あなたがユミエさん、……兄さんから聞いた通りなんですね」

 ドレッドヘアに並外れたプロポーション、鋭い顔つきと意志の強い目。
 アゲハがとても嬉しそうに話していたのをよく覚えている。
 時間が時間だし、出会いが出会いなのでまだ緊張はしている。
 しかし、少なくとも恐怖は和らいでいった。

「お前もアゲハから聞いた通りだな。男勝りで気の強い……それにアイツそっくりだ」

 ニヒルな笑みを浮かべながら、ユミエはトンボの頭を撫でる。
 大きな手のひらだった。しかし触れられた感触に一瞬トンボはひやりとした。
 初夏の人肌とは思えないほどに冷え切っていた。

 ユミエの事はアゲハからよく聞いていた。
 破天荒で型破りで、真っ直ぐな人だと。
 そのインパクトのある風貌とは裏腹に、ユミエの手は年相応の女性の白さがある。
 よく見ればとてもきれいな白い肌をしている。少し、意外に感じた。

 ユミエの手が頭から下へ降り、頬を撫でる。
 その感触が気に入ったのか、その色気たっぷりの唇を小さく舌なめずりをした。
 その仕草を見て、トンボは思い出した。
 アゲハから聞かされていたユミエのもう一つの特徴を。

「可愛いヤツだな。思わず襲いたくなっちまいそうだ」

「ちょ……ぼ、ボクにそっちの気は無いですって!」

「そりゃあ残念」

 ユミエは意外なほどあっさりと手を離す。奇妙なほどにドキドキしている。

――なんだこの人。

 トンボは思い出す。
 ユミエは――性の対象に性別を問わないのだと。
 つまり、いわゆるバイセクシュアルであり、特に女好きであるらしい。
 女子からの圧倒的な人気で生徒会長になった人だと。
 アゲハに好きな人が出来たと聞いて、それを知った時は姉と二人で頭を抱えほどだ。

「挨拶はこのくらいにして……トンボ。アタシが今日来たのは話があるからだ」

「やっぱり……あなたたちなんですか? 去年、式部北高校で起こった連続殺人事件――ボクがそれを嗅ぎまわってると厄介なことになるから。あなたたちは――六十二代生徒会は、本当は何をしてたんですか? あなたは――何者なんです?」

 ゆったりとした動作でユミエはトンボに近付く。
 迫力に気圧され、トンボは無意識のうちに後ずさりしていた。
 薄暗い月明かりの中で、ユミエの瞳が妖しく煌めく。
 ダンッとトンボの横に大きな音がした。ユミエがトンボの横の壁を蹴りつけた音だった。
 そのままユミエは顔を近付ける。
 わずかな光の中で浮き上がるユミエの表情はひどく官能的に見えた。

「アタシが何者か――教えてやろうか」

 吐息がかかる程近くで、ユミエの潜めた声がささやく。

「吸血鬼――だよ」

 ユミエはいきなりトンボの耳に舌を這わせた。
 嬲るような、貪るような乱暴な愛撫。
 意志とは関係無しにトンボの口から甘い声が漏れた。

――喰われる。

 理屈抜きにトンボはそう感じた。
 この人は――魔性だ。人間じゃない、本物の、化け物だ。
 恐怖と快楽が頭の中で溶け、理性が麻痺していく。
 トンボのがらんどうになった胸の中に耳から伝わってくる快感が染み込んでいく。
 そのままユミエの体にすべてをゆだねたくなった。

「――ボクは、信じたい!」

 あァ? とユミエがトンボの耳に這わせた舌を離す。
 耳たぶから、とろりと糸を引いて、唾液がトンボの肩にかかった。

「ボクは、兄さんを、六十二代生徒会が、去年の事件の犯人じゃないと、その潔白を証明したい! 兄さんが犯人扱いされてたまるか! 兄さんが信じていたものが犯人であってたまるか! ――教えてくださいユミエさん、あなた達は犯人なんですか?」

 誘惑に屈してはならない。だってもう、トンボは一人きりなのだから。
 気持ちを強く持って、まっすぐに進まなくてはいけないのだ。
 ユミエは探るような視線でトンボを見た。トンボはそれも受け止める。
 息が詰まりそうなほどの緊張を破ったのはユミエだった。
 やれやれ、と呟いて足を外し、煙草を取り出す。

「煙草、吸ってもいいか?」

「……どうぞ」

 トンボの姉も喫煙者だ。煙草が苦手という事は無かった。
 姉はトンボがタバコに興味を示しそうになると絶対に吸うなと言うのだが。

 ユミエはマッチを取り出し、煙草に火をつける。
 銘柄はラッキー・ストライク。マッチはポケット灰皿に捨てる。
 妙なところで律儀な人だった。

 ユミエはアゲハの上の学年だったから今は十八歳か十九歳のはず。
 それなのにひどく様になっていた。まるで洋画のワンシーンのようだ。

「やっぱりアゲハの妹だな」

「え?」

「妙なとこばっか似てるよ。その頑固なトコとかな」

 鋭い三白眼がアゲハの名前を出した時だけ違う色が混じった気がした。

「少しビビらせりゃ引っ込むかと思ったが……ナメてたよ」

「はぁ……」

「……時間、大丈夫か?」

 携帯を見ると九時を少し過ぎていた。
 携帯にはメールが届いており、件名は『ごめん!』。
 姉からの今日は遅くなるという連絡だ。こういう事は少なくない。
 帰宅する時間が書いてないから、十二時を過ぎるかもしれなかった。

「大丈夫ですけど」

「そうか。少し長くなるけれどよ、いいか?」

「え?」

「アゲハの話だ。アイツの事話してやるよ」

 ユミエは煙を吐きながらそう言ったのだった。

「さてと――どっから話したもんかな」

 そしてユミエは話を始めた。彼女が長を務めた時代の話を。
 生きていた頃のアゲハの話を。

――そうだな。アゲハはアタシが生徒会に誘ったんだよ。

 アタシが生徒会長で、ミツルの野郎は副会長で、アゲハとカイコが部下だった。
 アタシが生徒会長になってみりゃ、どいつもこいつも尻込みしやがってな。
 生徒会メンバーがゴッソリ抜けたんだ。
 あの時の生徒会は会長のアタシともう一人の変人副会長だけ。

 さすがにどうにもならねェからな。
 ヘッドハンティングでもするかって時にちょうど面白いヤツが二年にいるって聞いた。
 実際に見てみりゃ確かに面白そうなヤツだった。

 アタシは覚えちゃいなかったんだ。でもアゲハはアタシの事を最初から知ってたよ。
 なんでも中学ン時にバカに囲まれてるトコをアタシに助けられたとか言ってたな。
 いちいち覚えちゃいねェよ。殴った野郎の顔も助けた野郎の顔も。
 キリがねェからな。 

 あァ? アゲハのヤツ、ンな事言ってたのか? なんだそりゃ。
 アタシはそんな大層なモンじゃねェつーの。

 妙なヤツでな……。
 アタシが女と付き合ってるって知っててそれでもアタシの事が好きだとよ。
 いつもそう言ってたな。

 まァ、そんな次第でアゲハのヤツともう一人、カイコってヤツを引き抜いた。
 コイツらが優秀でよ、信じられるか? 
 アタシらの代の生徒会は四人だったんだぜ。
 基幹が四人って意味じゃねェ。全員上から下っ端合わせて四人だった。
 特例だよ、特例。

 あの頃、ちょうど学校の周りで変態が出るって噂が出てたんだ。
 アタシら生徒会は良くも悪くも有名だったからな、すぐに話は入ってきた。

 最初はよくいる変態だと考えた。
 ミツルの指示でアゲハとカイコが情報収集。
 見つけたクズをアタシがぶん殴って一件落着。
 そうなるはずだってな。そう驚くなよ。
 アタシらの生徒会はいっつもそんなんだったんだぜ。

 だが……死人が出た。

 早田明美。地味だが笑うと可愛いヤツだったぜ。

 ハッ……手は出してねぇよ。好きなヤツがいたらしいからな。

 見つけたのはカイコだ。アイツは真面目だったからな……いつも一番に登校してた。
 いつものように花壇を見て回ってたら、見ちまったらしい。

 そのリアクションだと知ってたか……そうだ、木に針金で吊されたアケミの左足だよ。
 学校はすぐに警察に連絡。学校は休校。
 学校の至る所に置き忘れたみてェに身体が置いてあった。

……アタシらはようやく気付いたよ。あの野郎はただのクズじゃねェ。
 糞の中でも一等腐りきったクズだってな。

 すまねェ話がそれた。
 警察は近辺で起きてた連続通り魔事件の三人目かもしれないと判断した。
 断定じゃねぇよ。このときはな。
 とんでもない大騒ぎから一月経った。

 ああ、そうだ。言う通りだ。二人目が殺された。

 今度は三年の潮ヶ浜夜。メチャクチャな殺され方だったらしい。
 見つけたのはアゲハだったよ。
 カイコを一人じゃ危ないからって二人で登校してたらしい。
 生徒で直接見たのはアゲハとカイコだけだ。朝練も中止になってたからな。

 ん? カイコとアゲハか? ああ、なんか腐れ縁とか言ってたな。
 仲は良かったぜ。あのカイコもアゲハと話す時は力が抜けてたしな。

 話を戻すぞ。生徒も大騒ぎだ。どいつもこいつも怯えてた。
 パニック起こしそうなヤツを抑えるのでアタシとミツルは手がいっぱいだった。
 それ以前にアタシらは事情聴取をいやってほど受けさせられたからな。
 カイコとアゲハは第一発見者、おまけにカイコの実家ってのはこりゃ……。
 いや何でもない。

 とにかく必要最低限のことしかできなかった。
 もちろん学校側だっててんやわんやだ。
 一番ヒステリーを起こしてたのは保護者連中だったんだがな。
 事務仕事は全部アゲハとカイコに任せてたよ。アイツらは優秀だったからな。

 知らなかったか? アイツらは優秀だった。贔屓目無しにな。
 よくもまァ、あんだけ仕事出来るもんだ。
 で、仕事ができるだけじゃなくて、正義感もあった。
 それでどうしようもないくらいに向う見ずなヤツらだったよ。
 とにかくあの二人は二人でいさせておくと妙な方向にエネルギーを注ぐんだな。
 アタシとミツルは考えてみりゃ手綱を引いてた様なもんさ。
 暴走ばっかする馬力のある二人のな。

 どうもその時にアゲハとカイコは推理をしてたらしい。
 うちの学校の連中が狙われるのは制服を目印にしてるってな。
 ここいらの高校で今時制服があるのは式部北くらいだからな。
 二人が学校に申請したら、すんなりと私服登下校の許可が下りた。
 そんで一切の目撃情報も、確固たる証拠も無いままに時間だけが過ぎた。

 警察の警備を馬鹿にするみたいに三人目が殺された。
 曽根百合子って名前の二年生だ。
 こいつは前の二件がショックで不登校になってたんだがな。その日だけ出かけてたんだ。
 一人目のアケミの四十九日でな。友達だったらしい。だから、制服着てたんだよ。

 それからしばらくして、秋が終わるころだ。アゲハが妙な動きをし始めたのは。
 すぐに問い詰めたんだが、何にも喋りやがらねェ。
 だがアゲハは何をしてたかはすぐに分かったよ。

 突然学校から電話があった。
 補導で捕まった女子が偽名を名乗って身元がわかんねェとさ。
 女子生徒に人気のあるアタシなら誰か分かるだろうって、行ってみりゃアゲハがいた。
 おかしな話だとは思ったんだ。
 偽名だろうがなんだろうが、生徒の顔見て誰だかわかんねえなんて教師はうちにいねェ。
 生徒の面通しに生徒会長が呼ばれるなんておかしいにも程がある。

 アゲハのヤツ、演劇部の女子の制服を持ち出して夜中徘徊してやがったんだ。
 アイツ、女みてェな顔と体してる上に化粧までしてやがったからな……。
 警察も教師も誰もが女だと思ってやがったよ。
 呆れて、それから腹が捩れるまで笑ったぜ、ありゃ。

 あァ、まったくだ。黙ってりゃ女と間違えるヤツも少なくなかったからな。
 けどその恰好じゃテメェも似たようなもんだろ? 
 ま、アゲハもアタシが来たらようやく観念して……。
 というよりそんなピリピリしてる時期にそんな事してりゃ目的は一つだわな。

 わかんねェか? アゲハは釣りをしてたのさ。

――囮だよ。エサはアゲハ自身で、獲物は吸血ジャック、いや、その陰に隠れてうちの生徒を殺し手やがったクズ野郎だ。

 知らなかったって? そりゃそうだ。
 とりあえずアタシが指示したって誤魔化しといたからな。
 何とかアゲハは処分されずにすんだからな、知らなくて当然だよ。
 おかげでアタシは……。そうだな、アタシはアタシでしばらく休ませてもらった。

 その様子だともう知ってるみたいだから言うが、当時一番疑われたのはアタシだ。
 アタシ達六十二代生徒会だった。
 あいつがあんな危険な真似してたのはな、ただアタシの無実を証明する、ただそれだけだったんだ。
 今のお前とおんなじだよ。

――アゲハは諦めなかった。
 アタシが目を離したすきにカイコの制服借りて囮を続けていやがったんだ。

 ようやく警察もこの事件が吸血ジャックだと判断してな。
 木枯らしが吹くクソ寒い学校に二十四時間体制で張り込んでた。
 カイコの奴は頼りたくもない親に頭を下げて生徒の送迎にバスとタクシーを用意した。

 だが。

 結局、アゲハの策は成功した。しちまった。しちまいやがったンだよ。

 皮肉にもクリスマスだったよ。
 最近じゃ珍しく雪の降るホワイトクリスマスだったんだ。
 とんだサンタクロースもいたもんだよ。
 あの野郎はアゲハの命と目玉二つ奪っていきやがった。

……あるはずの無い連絡を受けたのはカイコだ。
 不審に思ってまさかと思って学校に忍び込んで見たのはアゲハの死体だった。
 両目がくり抜かれて額に風穴開けられて殺された。

 アタシはあいつの足を圧し折ってでもアゲハを止めるべきだった。

 トンボ、本当にすまない――。

――そう言って神楽崎ユミエは篠塚トンボに深く、深く頭を下げた。

 ユミエの話はトンボにとって衝撃的な事ばかりだった。

――アゲハが囮捜査? 
 アゲハとカイコがユミエとミツルに黙って吸血ジャックを追っていた?
 他でもない、ユミエの無実を証明するために?

 話された内容を頭の中で整理しようとする。
 だがそれはトンボの情報処理能力を大きく上回っていた。

「と、とりあえず頭を上げてくださいっ」

 なんとかユミエの頭を上げさせる。
 ユミエは先程までの妖艶な雰囲気とは違い、ひどく真剣な表情をしていた。
 あの独特なニヒルな笑みも消えている。

 その瞳を見た時、ユミエが心からアゲハの死を悲しんでいるのが伝わった。
 そしてその瞳にある色が、悲しみだけで無いことにも気付いてしまった。

「トンボ。アタシはジャックとクズを絶対に、許さねェ。絶対に。絶対に」

 力強い意志。その瞳に映る色は燃え盛るような怒りと殺意だった。
 覗き込んだだけのトンボが、思わず恐怖を感じるほどの感情だ。

「ユミエさん……」

「あのクズの尻をずっと追い掛けてた。確実に前に進んでる。このままおさらばなんて冗談じゃねェ。あんな下種にいいようにされてハイそうですかなんてわけにはいかねェんだよ。だからトンボ、もう一度言うぜ。もう追い掛けるのはやめろ」

「……でも」

「『でも』じゃねェんだよ。あのクズを追い掛けるのはもうやめろ。アイツは狂ったクズだがバカじゃねェんだ。じゃねェとあんなバカやらかして捕まらねェなんて有り得ねェ。もしそうならそりゃバケモノだ。どっちにしろテメェが手出ししていい相手じゃねェんだよ。……わかるだろ」

 トンボの中で、もう関わらない方がいいというささやきが確かに聞こえた。

「アタシはテメェの覚悟が本物だと思ったから話してやったぜ。アゲハが何で死んだのかは解決したじゃねェか。これ以上テメェが首を突っ込める余地はねェんだよ。テメェの仇はアタシが果たしてやる。だからもう……やめろ」

 ユミエは恐れている。
 トンボがアゲハのように吸血ジャックを追い掛けて、アゲハのように死ぬことを。 
 それが伝わるからこそ、トンボは言葉を発せなかった。
 それは何も他人ごとではない。

――でも。
 山下が言っていたことも引っかかっていた。
 六十二代生徒会の中枢にいた神楽崎ユミエと萩原ミツル。
 山下が忠告したその翌日にその二人がトンボの前に現れた。
 さらに言うなら今日の昼休みカイコはタスクと接触している。
 事件の裏で、確実に彼らは、六十二代生徒会は動いている。
 それは何のためにだろう。ユミエが言ったようにアゲハの弔いのためだろうか。
 この近くで吸血ジャックの痕跡が見つかったという情報をカイコが二人に連絡して。
 それで二人はこの街で吸血ジャックの影を追っているのだろうか。

「山下とかいうヤツにも、もう近付くな。アイツは妙なヤツだ。ジャックのクズを追い掛けてりゃ、事件の起こる前と後、両方でうろついてやがる。そもそもアイツがこの事件について嗅ぎ回ってんのがおかしいんだよ。警察って奴はしっかり縄張りが決まってる。犬みてェにな。担当ならまだしも、あんな雑魚にそんな権限も義務もねェんだ」

 言われてトンボはゴクリと息を呑む。
 こうやってトンボに誰かに疑いを持たせようとする情報は、特に慎重に考えなければ。 

「オカルトじみた仮説を立ててんのもあのメガネだけ。そもそも専門家か関係者でもねェとあんな発想にはならねェんだよ。霊能調査室だか何だか知らねェけどな、なんであいつの手元にその色鬼に関わる魔方陣だとか情報が都合よくあるンだ? どう考えてもおかしいだろうが」

 確かに、とトンボも思う。トンボは色鬼と言う怪異の存在を山下から知った。
 トンボは別にそう言うものに詳しくはないが、そんな妖怪だか化け物は決して有名なものではないはずだ。
 それなのに山下は周到に情報を持っていた。
――あらかじめ用意してあったとすら思える。

「いいか、トンボ。吸血ジャックと色鬼が関わってる――こりゃ事実だ。どうしてアタシがそう断言できるのかは言えねェが、この二つは相互に関わりを持ってる。だがな、それを山下が知ってるはずがねェんだ。あいつは絶対にただの人間なんだからな」

 その言葉には何か含みがあった。
 まるでユミエはただの人間ではないと言わんばかりの。
 しかしユミエの言うことはもっともだった。
 昨日山下が現れたタイミングと言いその後の展開と言い、何もかもが仕組まれたようではなかったか。
 ひょっとしてフェンスを落としたのは――。

「それにあの鬱陶しい前髪のガキ。なンか妙な匂いがすんだよな……アレも得体が知れねェ。付き合うんなら用心しろ。まァ、こっちは勘みてェなもんだが」

 鬱陶しい前髪というとタイチだろう。
 だがもうその心配は無用のものになっていた。
 もう二度と、タイチやタスクとは、友達に戻れないのだから。
 
「あなた達は……兄さんを殺したのは、六十二代生徒会じゃないですよね」

 トンボがかすれるような声でそう言うと、ユミエは困ったように頭を掻く。
 ワイルドなドレッドヘアが指に合わせて蛇のようにうねる。
 それから、トンボの目の下を親指で撫でた。
 拭ったのだ。トンボの目からあふれる涙を。

「誓って言うぜ。アゲハを殺したのはアタシ達じゃない。去年学校で四人の生徒を殺した犯人は別にいる」

 ユミエの声は少しの揺らぎもなかった。
 トンボはその言葉に、胸のつかえが取れる気がした。

「ボクはユミエさんの言葉を信じます。……そして、本物の犯人を捕まえる」

 ユミエはハァ、と紫煙と共にため息をついた。
 
「クソ……本当に妙なとこばっか似やがって。しょうがねェな、絶対に危険な事には近付くな。危険かもしれねェ事にも近付くな。アタシのメアドと番号を教えとく。何かありゃ絶対にアタシを呼べ。あと、なるべく一人にはなるな。友達でも何でもいい。この際あのなよっちいチビでも構いやしねェ。とにかく行動するなら二人以上でいろ。登下校中は特にな。全員そういう時間帯で殺されてる」

 赤外線通信でユミエのメールアドレスと携帯番号を受け取る。
 ユミエのメールアドレスは何かの英文のようだった。
 意味は英語の苦手なトンボにはわからない。

「は、はい。わかりました」

――到底タスク達とはもう絶交しているとは言えなかった。

「ずいぶん長話になっちまったな。トンボ、そろそろ帰れ。明日も学校だろ?」

 話に夢中になっていたが携帯を見ればもう十時になろうとしていている。
 小一時間ぐらいはここで話していたという事だ。

「じゃあな。遠慮はいらねェから絶対に連絡しろよ」

 そういうともうユミエは背を向けて歩き出していた。
 大きく堂々とした背中が遠ざかっていく。

「あ、あの」

 どうして呼び止めたかはわからない。でも聞いておかなければならない気がした。

「吸血ジャックを見つけたら……その、ユミエさんはどうするつもりですか」

「……」

 首だけを振り向かせ、ユミエはゆっくりと答えた。

「決まってンだろ。殺してやる。骨を砕いて、四肢を引き裂いて、両目に風穴空けて晒してやる。アタシは絶対許さねェ」

 脊髄が凍るような声と視線にトンボは何も動けなかった。
 ユミエが去っていく。今度は何も声をかけなかった。かけられなかった。
 ユミエの歩調に合わせて揺れる煙草の火が夜の闇にぼんやりと浮かび上がる。
 それはまるで鬼火のようだった。

The Justice: or Green No-Life-King

2013.09.02.[Edit]
7「トンちゃん、待ってって」 禅定寺霊園から十分に離れたことを確認してトンボは後ろからついてきたタイチを振り返った。「まだ追いかけてきたの? 家逆方向だろ。さっさと帰れよ」 え、とタイチの顔から表情が抜けた。「まだわかんない? 君たちといると、関係ないボクまで、訳の分からないものに命を狙われる羽目になる。オカルトごっこならあの変な叔父さんと二人でやってれば? ボクにもう関わらないで。こっちは本気で...

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 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。
 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。
 最近ずっとこんな調子だ。

――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。
 それはミツルとユミエが同じことを言っている。
 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。
 あるいは信じたいだけかもしれなかったけれど、もう疑う気持ちはなかった。

 このまま寝てしまいたい気もしたが夕食は食べなければならない。
 危機はいつ訪れるともわからない。体は常に万全に動くようにしておくべきだ。
 食べられるときには食べておくべきなのだ。
 篠塚家の食事は、今はレトルトが大半だった。
 兄がいた頃は手の込んだ手作りの料理を作ってくれていたが、トンボはそれほど料理が得意ではないし、姉は仕事に忙しく料理をしている暇がない。
 それでもご飯だけは炊いているから食べるものはないわけではなく、トンボはカレーを温めてそれを食べた。

 胃が満たされると、何だか少し力がわいてきた。
 そしてトンボは、鞄の中から分厚いノートを取り出す。
 潮ヶ浜夜の日記と――兄の記録。
 兄が死の一週間前にヨースケから預かった日記。
 そして兄が死の三日前に改めてヨースケに預けた情報。
 兄は――なぜヨースケに預けたのだろう。彼が潮ヶ浜夜の恋人だったからだろうか。

 もしかしたらこれをヨースケに渡したために兄は殺されたのではないだろうか。
 そこには事件の核心に迫る推理が書かれていて、それを知ったヨースケは兄を殺した。
 そんな疑念が過ぎる。トンボは頭を振って恐ろしい妄想を振り払う。
 それならヨースケがこの記録をトンボに預けるはずがない。
 トンボはとりあえず夜の日記に手を伸ばし、中を開けた。
 
――だってこれのために、タイチともタスクとも絶交する羽目になったんだろ。

 ここでトンボが臆していたら、それこそ二人に顔向けできない。
 可愛らしい日記にぴったりの、女の子らしいまるっとした文字が躍る日記帳。
 そこには何気ない少女の日常があった。
 その一文にトンボは目を止める。

――四月十四日 明美ちゃんと百合子ちゃんとオカルト部結成! 何と交番のお巡りさんが指導してくれることに。何でも霊能調査室っていう特務機関の室長なんだとか。本物の霊能力者っぽくて、私はとてもわくわくしてます。早く七色不思議の魔術を教えてくれないかな。それは式部北高校に代々伝わるおまじないの儀式で、何でも願い事をかなえてくれるんだって。そしたら私は桜木君と……。

 背筋を走ったのは本当に冷たい汗だった。
 明美ちゃんと百合子ちゃん――それは早田明美と曽根百合子のことではないだろうか。
 そして、霊能調査室のお巡りさんと言うのは、山下以外にありえない。
 何故ここに彼が登場する。そして、七色不思議の魔術――。
 トンボは口の中が乾いていくのを感じながら、さらに読み進める。

――四月二十日 今日山下さんに七色不思議の話を教えてもらった。二人に七色不思議で何のお願いをするか聞いてみた。明美ちゃんはK.Yと付き合いたいって。私はちょっとあの人は苦手。確かにかっこいいし、明美ちゃんが好きになるのもわかるけど、隠れてタバコ吸ってるみたいだし。百合子ちゃんはみんなで仲良くできますようにって。そんなのお願いしなくても、私たちの友情は永遠なのだ。

――K.Y。かっこよくて、隠れてタバコを吸っている? 
――神楽崎ユミエ(Kagurazaki Yumie)。
さっきの出会いもあってかトンボの脳裏には真っ先にその名前が浮かんだ。

――五月六日 今日、私たちは三人で七色不思議の儀式をして、それぞれに願い事をした。明美ちゃんは明日、K.Yに告白するんだって。

 そのページはまだほとんど白いのに続きの日記が書かれていなかった。
 トンボはそれが早田明美殺害前日なのだと気付く。
 明美が告白したK.Y。その直後に、明美が殺されている――?

 ユミエは確か明美には好きな人がいたから手は出していないと言わなかったか。
 ならばこのK.Yと言うのは別人だろうか。
 K.Y――ユミエ以外にトンボの頭にはすぐに思いつく知り合いがいない。
 トンボは次のページをめくった。

――五月二十日 私たちは騙されたんだ。山下は魔術師なんかじゃない。七色不思議は願い事をかなえるおまじないなんかじゃなかった。私たちは悪魔を呼び出してしまったんだ。吸血ジャックと言う悪魔を。明美ちゃんは殺された。多分私も百合子ちゃんも殺されるだろう。冗談じゃない。相手がこっちを殺そうとするなら、私が返り討ちにしてやる。私は許さない。明美ちゃんを虫けらのように殺して、蹂躙したあいつを――K.Yを。

 またK.Y。しかもこの文脈なら、間違いなく早田明美を殺したのはこの人物だ。
 今の所、トンボにはそれがユミエを指しているようにしか見えなかった。
 他に思いつく人物がいない。
 でもユミエは自分が犯人ではないと言った。それが嘘だったとは思えない。
 それよりも――山下。
 日記を見る限りでは被害者の三人の少女はオカルト部を独自に結成していた。
 そして、山下に教えを乞うていたのは間違いない。
――いや。
 トンボは思い出す。山下は確か――。

 思い出せ――。最初に出会った時、山下はトンボに名刺を渡している。
 トンボは名刺をしまったはずの財布を慌てて探しながら、その時の山下の言葉を思い出していた。
――僕は山下と言います。
――山下勝彦巡査部長。
――ヤマシタ、カツヒコ、巡査部長。
――Yamashita Katsuhiko。

「あった――」

 トンボは財布から名刺を取り出してそれを見る。
 埼玉県警式部署式部市中央交差点前派出所 霊能調査室室長
 山下勝彦巡査部長
――イニシャルK.Y。

 山下だ。間違いない。だって他にいない。
 早田明美を殺したK.Yは間違いなく山下のことだ。
 その時、トンボの中で一連の事件が整合性のある筋の通った話としてつながった。

――山下と吸血ジャックは二人組の犯罪者だ。
 そして、これは認めがたい事実だけど、幽霊を使う。
 山下がまず犠牲となる人間を選び、口車に乗せて、この七色不思議の儀式を行わせる。
 多分これは被害者ごとに同じことを引き起こす別の内容を教えている。
 ともかくそれによって起きることは、色鬼を、儀式を行った人間に憑かせること。
 そしてその後で吸血ジャックが現れ、その人を殺していく。
 多分儀式を行った人は色鬼に憑かれた時に死んだことにされてしまうのだ。

 だから山下はあんなに色鬼のことについて詳しくよく知っていたのだ。
 だって自分がそれを呼び出す人間なんだから。当たり前だ。
――そして、ならば。
 今山下が、いや、吸血ジャックが狙っているのは――タスクだ。
 タスクは日曜日に七色不思議を行ったと言っていた。
 今タスクに色鬼が憑いているのは間違いないことだった。
 だったら吸血ジャックが殺すのはタスクだ。

――だから火曜日。タスクは導かれるようにカササギビルに行ったのではないか。
 あの時落ちてきたフェンスは、タスクの命を奪うためのものだったのではないか。
 山下が現れたのもそこだった。あの時吸血ジャックはあのビルにいて。
 そして山下はその犯行を陰から見守っていたのだ。

 いけしゃあしゃあとトンボたちの前に現れて、トンボに生徒会を疑わせたのもあの男。
 山下はユミエとミツルの出現を予測した。
 そうなるとわかっていてトンボに言ったのだ。
 どうして山下がそれを知っていたのか――山下が犯人だったなら至極当然だ。
 自分がユミエとミツルに疑われているのを知っていたから、カイコがトンボに教えたように二人に連絡をつけると予測し、二人はこの街に現れた。
 全て山下が仕組んだことだったのだ。

 トンボは携帯を取った。今すぐに、この恐るべき事実をタスクとタイチに知らせなければ――。
 トンボは電話帳からタスクとタイチのアドレス宛にメールを作り、本文を打ち込もうとして、不意に手を止めた。
 
 もう絶交したのだ。今更どの面下げて二人にこのことを言えるだろう。
 それに、もし山下が犯人なら、タイチもその犯行に関与していないと、どうして言えるだろう。
 ユミエだって怪しいと言っていたじゃないか。

 兄の日記には、もっと詳しいことが書いてあるのではないか。
 トンボはそう思い、アゲハの日記に手を取る。
 すると、そこから一枚の紙が零れ落ちた。
 トンボはそれを拾い上げて開く。

――私は明日、死ぬかもしれません。

 その一文を、トンボは三度、目で追った。これは――遺書だ。アゲハの直筆の。

――私は明日、死ぬかもしれません。できる限り安全に穏便に事を運ぶつもりです。
 カイコにも手伝ってもらうし、なんだかんだで運は強いし。
 でもやっぱり、死ぬかもしれません。それを考えるのは、とても怖いです。
 だから、すごく動揺している気持ちを落ち着かせるために、今これを書いています。
 この手紙は誰かに当てたものではありません。遺書のつもりもありません。
 でも、私が死んだとしたら、結果的にこの手紙がその代わりになるでしょう。

 まず最初に、姉と妹に、謝っておきます。ごめんなさい。
 姉さんかトンボがこれを読んでいるということは、私は死んだということです。
 ごめんなさい。私はあなた達から家族を一人奪う暴挙に出ました。
 これは勘違いかも知れないけど、私が死んだ後の二人の生活はとても心配です。
 特に食生活。インスタント食品ばっかりになっていませんか。
 トンボは菓子パンばかり食べていませんか。
 料理はやっぱり家族が作ったものを食べるのがいいです。
 最低週に一度は、手作りの料理を食べるようにしてください。
 姉さんは、仕事だけじゃなくて、誰か好きな人を作ってください。
 トンボは勉強を頑張ること。もう兄さんはいないからね。
 とにかくあなた達が二人きりになってしまったのは、私のせいです。
 でも、あまり悲しまないで、前を見て希望の道を進んでください。

 次に、生徒会の仲間にも謝っておきます。
 まずはカイコに。
 私が死んだということは、君との計画に何らかの齟齬が生じたということでしょう。
 それは、どうしようもないことかもしれないし、そうでないかもしれない。
 でも、どっちにしても、私が死んだのは私の責任で、カイコのせいではありません。
 責任を感じているなら、思いつめないでください。
 無茶な話だったことは、私が一番よく知っているし、君はずっと反対していた。
 私が無理を言って計画を実行し、その結果死ぬわけですから、自業自得です。 
 ただ、私がいなくなった後、ユミエ先輩もミツル先輩も卒業したら。
 君が生徒会の重荷を一人で担うことになるでしょう。
 重荷を押し付けるのは申し訳なく思います。ごめんなさい。
 それから、もしこれを読んでいるのが小野宮蚕なら、お願いが一つあります。
 来年、新入生として、私の妹がこの学校に入学するかもしれません。
 勉強は苦手ですが、真面目で根性のある自慢の妹です。
 どうかよくしてやってください。

 ミツル先輩は――、あえて言い残すことはありません。
 あなたがこれを読むとすれば、それは私の日記を手に入れたということでしょう。
 日記に書いてある内容を読めば、ミツル先輩は真相にたどり着くと思います。
 この高校の惨劇だけでなく、吸血ジャック事件そのものや、その背後のことも。
 できればこれは、あなたの手に渡ればいいと思います。
 他の人には割と恥ずかしいことを言っているので。
 そして、もしこれが、あなたの手に渡っているなら。
 ユミエ先輩が犯人を探しているなら、それを止めてくれませんか。
 多分それが出来るのは、あなた以外にいないと思います。
 それくらいです。でも大切なことなので。

 そして最後に、ユミエ先輩。
 生きて帰れなくてごめんなさい。全部内緒にしててごめんなさい。
 でも私は、ユミエ先輩のことが大好きです。
 それで、先輩には余計なことかもしれないけど、先輩をよく知らない人から、先輩が責められるのはやっぱり許せません。
 この事件の犯人が先輩かもしれないと疑われるのもすごく腹が立ちます。
 だから、いざと言うときに、先輩に疑いがかかるようなことはしたくありません。
 それが、秘密にした理由です。逆に迷惑かもしれません。その時はごめんなさい。
 もし私が死んで、この手紙を先輩が読んでいるなら。
 まず復讐は考えないでください。考えているならやめてください。
 ここには書けませんが、この事件の犯人は、先輩が手を下すような人間ではありません。
 それに私は、私が先輩に人殺しをさせる理由になってしまうのが一番許せません。
 もし私が先輩にとって復讐の理由になっていたら、どうか私のことを忘れてください。
 そんな大層な話ではありません。ただ私が迂闊だっただけです。
 私は先輩が常に正しいと信じています。だからあなたは人を殴っても絶対に殺さない。
 どうか、その正しさを失わないでください。
 大好きです。いつも、いつまでも。

「……」

 トンボは手紙を置く。涙が止まらなかった。
 ありありと兄がこれを書いている所が見える。言葉が声になって聞こえる。
 この手紙の向こうに、生きた兄がいる。
 これは――ユミエの手に渡るべきだ。少なくともこの手紙は。
 ここに書かれているアゲハのユミエへの思いは、ユミエに届くべきだ。

 トンボは携帯を手にし、ユミエのアドレスを開いたまま、考え込む。
 チャイムが鳴った。
 トンボはびっくりして小さく悲鳴を上げた。
 こんな夜遅くに来客があるとも思えない。

 ピンポン、ピンポン。

 チャイムは繰り返す。トンボはおかしいと思った。
 いたずらと思うほどしきりにチャイムが鳴らされる。
 いたずらでなければ、あるいはホラー映画のように。

「どなたですか!」

 トンボはドア越しに声をあげた。
 返ってくる声はない。ただ、チャイムの音だけが繰り返される。
 トンボはドアチェーンをかけ、戸棚にしまってあった木製のバットを片手に握る。

「今開けます……」

 トンボは鍵を外すと勢いよくドアを開けた。ドアチェーンがビンと突っ張る。
 開いた隙間から突風が吹きつけて、トンボは思わず目を細める。

――誰もいない?

 いや、そう思わせてドアの陰に隠れているだけかもしれない。
 トンボがチェーンを外してドアを大きく開けようとした時――。
 網戸が開く音はトンボの部屋から聞こえた。

「誰!」

 恐ろしくなり、トンボはドアを閉め、鍵をかける。
 恐る恐る廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
 バットを震える手で握り、思い切りドアを開けた。

――中には誰もいなかった。
 ただ、トンボがさっき潮ヶ浜夜の日記を読んでいた机の向かいの網戸が空いていて。
 机の上にあったはずの夜の日記がなくなっていた。
 いや、それだけではない。兄のノートもなくなっている。
 トンボは即座にカーテンを開けて窓の外を覗く。

 街灯の下に、真っ黒な男の姿があった。その手に二冊の日記を持っている。
――萩原ミツルだった。
 ミツルは一度、トンボを振り返る。その目とトンボの視線がぶつかった。

「――何なんだ、アンタ、一体何なんだよ!」

 近所のことも考えずトンボは闇に叫んだ。
 ミツルは答えずぬるりと影の中に消えて行った。

「――待てよ! 待って! それは大切な証拠だから! 持っていかないで!」

 トンボは届かないとわかっていたのに、窓から手を伸ばした。
 もうミツルはどこにもいない。

――待って。持っていかないで。

「――待って」

 ぱちりと目を開けて気付く。
自分が今ベッドの上にいて、携帯を両手で握りしめていることに。
 外が明るい。トンボは画面の時計を見る。五時四十分。当然朝だ。
 スズメが鳴いている。ではさっきのは――。

「――夢?」

 トンボは飛び起きて机を見る。日記はない。
 鞄の中を探してもどこを探しても、潮ヶ浜夜と兄の日記はなかった。
 トンボの手の中で携帯が緑色のライトを明滅させている。
 メールの着信を知らせる合図だ。
 アドレスはトンボが知らないものだったが、タイトルを見てトンボは凍りつく。
 そこにはアゲハの遺言、と書かれていた。
 開くと拍子抜けするほど短い分が一つ。

『おかえりなさい』

 ただ、文字は黒ではなく、黄緑色で書かれていた。
 文面はただそれだけ。スクロールする余地もない。
 昨日の不思議な出来事は、ミツルがノートを盗んだのは事実だろうか。
 いや――そもそもトンボはいつから夢を見ていたのだろう。
 ひょっとして何もかも夢だったのではないだろうか。
 そうだ、禅定寺での出来事なんて、まさしく夢の中のようではなかったか。
 トンボがあんまり事件のことにとらわれているから、そんな夢を見たのではないか。
 本当はヨースケに日記なんてもらわなかったのでは。
 もらってないものがここにないのは当然ではないか。

「どうなってるんだ――」

「トンちゃーん、もうそろそろ行かないとまずいんじゃない?」

 台所で姉の声がした。トンボの困惑など関係なしに日常は通常通り回転している。
 学校に行かなくてはならない。陸上部の朝練はおろそかにはできない。
 トンボはとりあえず服を着替える。
 どうなっているんだ、と思いつつも、夢だったらよかったとも思った。
 タイチとタスクと絶交したあのことが夢だったなら。
 学校に行ってみれば何もなくて、いつものようにタスクがお弁当を作ってきてくれていたら。
 そんなわけないか、と苦笑して、トンボは姉の用意した朝食を片付けた。

K.Y.

2013.09.02.[Edit]
8 トンボは家に帰ってとりあえず泥だらけの服を盥につけてシャワーを浴びながら大きな汚れを手洗いした。 風呂から出ると何だかようやく帰って来られた気がして、リビングのソファに倒れこんだ。 最近ずっとこんな調子だ。――兄さんは、六十二代生徒会は犯人じゃない。 それはミツルとユミエが同じことを言っている。 容疑者の証言と言う意味では信用できないが、トンボはそれを信じていい気がした。 あるいは信じたいだけか...

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