O・Z

Index ~作品もくじ~


 

 この町の名をクレタと言ったが、その名が失われて、久しい年月が経った。
 別に住民がいなくなったわけでも、国が亡びたわけでもない。
 確かに住んでいるものは尽く病にかかり住民は半分まで減ったこともあったが。
 住民が知らないだけで、国などはとっくに亡び去っているのかもしれなかったが。

 とにかくこの町は大陸の東の果てにぽつんと存在していて。
 住民の大半が病にかかったところで都の人間が救援に来ることもなければ、同じように都に大異変があったとしても、町自体には何の知らせも来ない。
 この町は、そういう町だった。辺境の辺境。田舎のさらに田舎だった。

 何しろ町には何もなかった。
 あるものといえば、小さな食堂が一つ、問診に回らなければいけない小さな診療所が一つ、さびれた宿屋が一つあるだけだった。
 町の周りは一度迷い込めば二度とは出られない樹海が広がっている。
 中央都市、エメラルドの都へ続く道は金色のタイルで舗装されていたが、都へ出かけると言って帰って来たものは一人もいなかった。
 それが都にたどり着いてあまりに便利なので、帰ってくるのが嫌になってしまったのか、それともこの道が都ではなく、死へと続いているからなのかは誰にもわからなかった。

 祭りもなければ面白いことなど何一つなかった。
 仕事もなかったし、食べ物だって豊富にあるわけではなかった。
 この町に住まうものは、どこにも行けない。行きたい場所があるわけでもない。
 この町に住まうものは、ここでしか生きられない。生きたい場所があるわけでもない。
 たまに行商がやってきて、宿を借りて荷を売るけれど、町の外の様子がわかるわけではなかった。
 とにかくこの町の人間はあらゆることに興味がなくて、ただ日が昇ったら目を覚まして働き、日が沈めば家に帰って酒を飲んで寝る、その単調な繰り返しを何の疑問も持つことなく、続けるだけだった。
 親から子へ、子から孫へ、変わることなく、営々と受け継がれていた生き方。
 町の人間はそれが実はほんの五十年前からいきなりそうなってしまったと知ったらどうなるだろう。

 かつて――そう、ほんの五十年前まで。
 この世界を科学と言う技術が席巻していた。
 それは今のこの町の暮らしが哀れで馬鹿馬鹿しくなるほどに、万能で、発達していたという。
 鉄の塊が空を飛び、あらゆる病を治す薬を生み出す。
 一つで世界を終わらせることができる爆弾があり、一匹で全生物を根絶やしにできる細菌を生み出す。
 そして、人の命は永遠に続き、死んだ人間さえ蘇らせたという。

 それは、えらい違いだ。
 水を井戸から汲んで、水瓶に移し、それぞれの家においておかなければならないこの町とは。
 夜になればろうそくが無ければ、暗くて足元さえおぼつかないこの町とは。
 冬に暖を取るために、絶えず薪を割らなくてはならないこの町とは、まるで違う。

 五十年前のある日――科学に支えられた文明は突如滅びたのだ、と本を読む限りでは思うしかない。
 この町で本が読めるのは限られた人間だけだったが、とにかく五十年前の本と、それ以降の本では歴史が継続していない。
 それはまるで世界自体が違うものになってしまったかのようだ。
 科学についての記述は、五十年以前の本にしか書かれていなくて、それ以降の本は、必ずこの世界を支配している理は魔法という因果に支えられていると書かれている。

――魔法は人間の信じる力を源に発現する奇跡で、科学は疑うことを根本にする学問だ。
 かつてこの世界には科学が蔓延していた。人々はあらゆる物事を疑いに疑いぬいて、ついには生死さえも絶対ではなくしてしまった。
 何一つ信じるものがなくなって、人々は信じられるものを求めた。
 そして五十年前――世界の向こう側から、『唯一絶対に信じられるもの』がやってきた。魔法という奇跡とともに。
 人々は疑うことを、科学することをやめ、盲信することを、魔法にすがることを始めた。
 今はもう、なぜ自分たちが魔法にすがっていたのか、すがっているのか、その理由さえ忘れてしまった。

 実際大きな町には幾人もの魔法使いがいるらしかった。
 あのエメラルドの都に住むという偉大なる魔法使い、オズを筆頭に、たくさんの魔法使いがいて、この世界を支配しているという。
 その記述も本を見る限りでは五十年前のある日を境に唐突にそういうことになったみたいに感じられた。
 でも、この町はそんなこととは全く関係なかった。魔法使いもいなければ、訪れたこともない。

 今、この世界を支配する唯一の法理は、魔法だという。
 魔法は選ばれた人間が、選ばれた教育を与えられて初めて使えるようになるものだ。
 当然この町に魔法を使える人間はいないし、おそらくこれから先も使えるようにならないだろう。
 それに比べて科学は、科学によって生み出されたものは、誰の手の中にあっても同じく作用するという。
 科学は、五十年前に滅び去った。――それはつまり、この町の文明も滅び去ったということだ。
 空白を埋めるべき魔法は、その福音をこの地にもたらさなかった。

 万能の、科学。
 夢のようだ。おとぎ話のようだ。
 到底今の町を見る限りでは考えられない。
 町には弱い五十を超える老人はそれでも十数人はいる。
 しかし彼らはそんなことがあったことなど、まるで知らないように過ごしている。
 彼らも、彼らの親も、額に汗して土を耕す生き方が当然だったような顔をしている。

――僕は。

――ある日、突然気付いたのだ。この世界のありようが、本当の姿ではないことに。
 それは、考え難い偶然が織りなす奇跡の真実かもしれなかったし、あるいは僕が好きな女の子に振られてふて腐れてそう思うだけの、単なる妄想に過ぎないのかもしれない。

 でも、とにかく僕は――この町を出たい。この世界の本当の姿を知りたい。
 五十年前に突如世界がその姿を変えたというなら、どうしてそうなったのかを知りたい。
 この町の外に続く唯一の道。金のタイルが敷き詰められた石畳。
 
 旅には何が必要だろう。お金、力、知恵? 違うと思う。
 人が旅立つのに一番必要なのは理由だ。
 どこを目指すのか。どうして旅に出たいのか。何のための旅なのか。

――僕は明日、この町を出る。金色の道を通って、中央都市を目指す。
 世界の中心に栄えるという――エメラルドの都。
 僕はそこに行かなければならない。だって僕は気付いてしまったのだから。

(3045年4月30日 アベル・アイアナックスの日記)
嘘つきの町の樵の日記
»»  2013.10.04.
3050年5月21日 朝

――殺したい。

 カインはそう思っていた。他ならぬ自分の弟、アベルを。

 だからその日は、朝からずっと雨降りだった。
 殺意の黒い雲が空を覆って、心に血の雨を降らせていた。
 幸せとか平穏をもたらす光など一点もなく、ただただ殺戮の夢を見せる激しい雨が降っていた。少なくとも、カインの心の中では。
 カインの世界ではカインの心が曇っていれば日は影っているし、晴々している気分ならば雨の日でも晴れなのだ。
 実際の空模様は雨など降ってはいないし、太陽はちゃんと空にあった。
 それでもカインの耳には雨音が止まない。殺したいという憎悪の声が、ザアザアと降りしきっている。

 カインとアベルは樵の兄弟だった。
 両親は既になく、町はずれの森の小屋に二人で住んでいる。
 今日も二人は斧を担ぎ森に出る。森の木を倒すことが二人の仕事だ。
 実際町は昔森だった、と今は亡き両親に聞いたことがある。
 カインとアベルの祖父たちが木を倒し、そこに町を作った。切った木は適当に倒しておくが、いつの間にかなくなっていることが多い。
 薪の需要は多いので町の人間の誰かが持っていくのだろうと考えているが、運んでいるところを見たことはない。いつも気がつくとなくなっている。
 そういうことは全てアベルに任せている。だからカインは、自分が木を倒すことでどうしてお金がもらえるのか、その仕組みも知らなかった。
 アベルはその木の行方を知っているようだったがカインは興味がなかった。
 いつだか聞いた気もするが忘れてしまった。金銭の管理は弟に任せている。
 カインは何も知らない。何も知らないで、ただ木を倒している。それで何も問題なかった。
 カインの生活はアベルによって支えられているようなものだったが、それでもカインはこの弟を殺したいと思っていた。
 殺したいという、その殺意だけは敏感に自覚していた。

 弟のアベルは実にいい奴だった。
 正直で、純朴で、おっちょこちょいなところもあるがどこか憎めない男で、町の連中もアベルはいい奴だと口をそろえて言う。
 だから気に入らない。いや、気に入らないどころではない。大嫌いだ。死ねばいいと思う。殺してやりたい。

 自分は実にいやな奴だ。カインはそう思う。
 嘘つきで、卑屈で、ねちこくて陰湿だ。こうやって弟の性格を喜べないことからして明らかだろう。
 自分が最低だということは随分前から気付いていた。町での評判もきっとよくない。

 アベルは実際、勤勉で良く働く弟だった。その評価は身内びいきではない。
 むしろカインは身内だという理由で弟の人格を歪曲できるならば、積極的に欠点を強調したいくらいだ。
 しかし、アベルにはあげつらうべき欠点はほとんどなく、見つけてもむしろその欠点は『それでもカインよりまし』という評価になってしまうものだから余計に気にくわない。 
 弟が勤勉であればある程、働き者であればある程、それはカインのだらしなさを引き立たせることになる。
 冗談じゃない。カインはアベルの引き立て役などまっぴらごめんだった。
 同じ兄弟というだけで。自分は人並みにだらしないだけなのに。
 カインは不当に謗られている気分になりむしゃくしゃした気分になる。
 カインはそれが自分の勝手な思い込みだということには気付かない。

 うっそうとした森には日の光がはいってこない。この森は基本的に無人だった。
 手には人殺しに使える道具。目撃者はいない。
 例え今後ろからアベルの頭をかち割ったとして、カインはそれを隠し通せる自信があった。
 道具の使い方を誤ったと言えば疑う者もいないだろうし、最悪アベルの死体の上に木を載せておけばいい。
 倒れてくる木の下敷きになるなんて言うのは樵にはついて回る話だ。
 実際、五年前、一度アベルは木の下敷きになっていた。

「兄さん、今日はいい天気だねぇ」

 アベルの声は浮かれている。沈んでいるのなど聞いたことがなかった。
 五年前の事故で奇跡的に生還した時も、そのせいで顔にひどい傷を負ったと知った時も。アベルは笑っていた。 大したことないと。包帯をぐるぐる巻きにしたその顔では笑顔かどうかも判別がつかなかったが、声はいつでも明るかった。

 でも、一応アベルも包帯で巻かれた姿を人前にさらすのはいやらしく、アベルはその事故以来町に行くことはなくなった。いい気味だと思う。

「ああ、いい天気だな」

――いい天気なものか。あの事故で死んでいればよかったのに。

 五年前、二人は大きな木を倒した。アベルはその下敷きになったのだ。
 その時はセツという幼馴染の医者を生業にする女が傍にいて、アベルは一命を取り留めた。
 自分も動転していて助けなど呼んでしまったが、思えばアベルはあのとき死んでいるべきだったのだ。

「泉の精霊は今日も来るかな」

「手を出すなよ。俺が惚れたんだからな」

「あはは、冗談だよ兄さん」

――冗談なものか。知らないとでも思っているのか。

 最近この辺にやってくる巡礼者の女がいた。
 本名は名乗らず、泉の精霊と称している。
 そして、森の奥にある泉のほとりに建っている朽ち果てた石造りの寺院で寝起きしている。
 その寺院はカインの両親が子どもだったころに放棄されたものらしく、いままで誰も住んでいなかったし、泉の精霊がいなくなれば、再びただの遺跡となってしまうだろう。

 しかし、朽ち果てた巌でつつましく暮らす彼女にカインは一目惚れした。
 美しい女だった。彼女の真珠のような真っ白の盲目は、それは一層女を神秘的なものに仕立て上げていて、カインは彼女のことを半ば本気で精霊だと信じている。
 彼女はカインを汚らわしいと差別しなかった。
 カインのことを知っても屑だと罵らなかった。
 泉の精霊は、カインに優しくしてくれたのだ。

 誰にでも優しくする、それは彼女が聖職者で博愛の精神を持っているからだ。
――カインはその当然の結論に至らない。
 彼女は自分に優しい。それだけが事実だった。
 その事実は短絡的に彼女が自分に好意を持っているという結論に達するのに時間は掛からなかった。

 カインはそれが当然の結論だと信じている。
 カインは嫌いな人間に媚を売ることはしないし、死ねばいいと思っている人間には死ねという。アベルにも何度言ったことだろう。
 反対に好意を持つ人間には態度で示す。多くが触れるという表現をとることが多い。
 だからカインは好きでもない人間に優しくすることがあるなんて考えたこともなかった。
 優しくしてくれるのは自分に好意があるからである。好意のないところに優しさは生れない。
 それがカインのなけなしの頭を使った結論のすべてだった。

 仕事の合間を見ては彼女に会いに行っている。
 だが、泉の精霊はどうやらアベルともつながっているらしかった。
 ある日、アベルが金の斧を持って帰ってきたことがあった。どうしたのかと聞くと泉の精霊に貰ったと言う。
 別にカインが勝手に泉の精霊が自分に惚れていると勘違いしているだけで、彼女にしてみれば、アベルが会いにきたならそれを拒むいわれもないはずだが、カインにはそれは浮気として映る。
 しかも、その相手はほかならぬアベルなのだ。腹立たしいどころではない。

 泉の精霊はあちこちの寺院を遍歴する巡礼者の一人だ。
 巡礼者は多く罪を抱えているか、何らかの困苦を抱えていて、神の施しを受けるために寺院を巡る。
 おそらく泉の精霊は自らの盲目のために旅をしているのだろう。
 だからいろいろな街の不思議な道具を持っている。
 巡礼者は基本的に施しによって日々の糧を得るが、長く一所に逗留するような場合、そうやって所持品を日用品と交換しながら生活するものは少なくない。
 カインは他ならぬ泉の精霊本人からそう聞いて、そういうものなのだと思っていた。
 何しろカインは旅に出たこともないし、この町に旅をしに人が来たこともなかった。

 カインはアベルに贈り物をしたのかと泉の精霊を問い詰めた。
 すると彼女は、そんなこと知らないという。金の斧を持っていって見せても全く見覚えがないと言った。
 だがカインはそんな嘘には騙されない。泉の精霊はアベルのことも悪くないと思っているのだ。
 だってカインとアベル並べて見せられればどっちに惚れるかなど火を見るより明らかではないか。
 アベルがいるせいでいつも自分が低く見られてしまう。アベルがいつも、本来カインが得られる取り分まで横取りしてしまう。

――冗談じゃない。泉の精霊は俺のものだ。アベルが死ねばいいのに。

――カインはそういう男だった。
 とにかく人の気持ちや、周りの状況や、自分が置かれている立場――そう言ったことに気付かない男だった。
 気付かなければいけない多くのことを見過ごしていて、見過ごしてしまっていることにさえ、気付くこともない。
 カインは黙々と斧を振り続ける。斧を握る手に込められているアベルへの殺意には気付いている。
 カインが気付くことができるのは精々そう言ったわかりやすいことだけだった。
 本当はもっと気付かなければならないことがある。
 それでもカインは気付かない――。
真実の泉と殺意の朝
»»  2013.10.04.
3050年 6月12日 朝

 快晴。カインの寝醒めの天気は、まさしく雲一つない透き通った青空だった。
 世界が輝いている。鳥たちが快哉を鳴いているし、花々は勝利を咲き誇っていた。
 とても晴れやかで、安らかな気持ちだった。
 不快な障害物が取り払われ、光に充ち溢れるような心地に、カインは満足げな伸びをした。

 軋むベッドの上で上体を起こし、壁際のカーテンを引き開ける。
 現実の窓の外はそれほどいい天気ではない。
 際限無く続く森林のコントラストを、薄い雲が漂うくすんだ空が覆う。太陽光を遮り、視界を狭くするような灰色。
 しかしそれは、カインにとってさして気になるものでもなかった。
 空を覆っていても世界を隠しているわけではない。空一面の雲などは、軽く笑い飛ばせる程度のものだ。

 何よりも大事なものは、世界で一番邪魔な障害が、この世界にもういないということだ。
 あの、憎き弟のアベルは――もうこの世にいないのだ。

 自然と口元には笑みが浮かぶ。
 ここ最近寝醒めが良くなかっただけに、気分はますます高揚した。
 ベッドから降りると、床が唸る。使い古された木造りの小屋はあちこちが傷だらけで、雨漏りが木の色を変色させてしまっていた。

 成程、この家も随分長く使った。これを機に新しく作り直すのもいいかもしれない。
 カインは鼻歌交じりにそんなことを考えた。今ある貯金を使えば職人を雇って少々豪華に作り直すくらいのことはできるはずだ。
 いや――そもそもこの町から出て行ってもいいかもしれない。別に思い入れもない。
 もうこの地に自分を縛る存在はかけらもないのだ。町を出て、新しい生活を――彼女と。

「それがいい。泉の精霊も喜んでくれるだろう」

 アベルがいない以上、彼女が自分に惚れることは、カインにとって疑いようもない未来だった。
 ベッド脇の丸い小卓から酒のボトルをとる。
 ラッパ飲みして残り僅かだったボトルを空にした。祝杯だ。
 トンと叩くように、小卓にボトルを戻した。口元をぬぐいながらカインは右手を見下ろす。

 蘇る、あの生々しい感覚。障害物をその手で排除した、勝利の痺れ。
 それを思い出した為か神経が震えはじめたようだった。

「ふ、ふ、ふ」

 口の端がつり上がるのがよく分かった。

――俺は勝者だ、障害物を蹴散らして自由になった男だ。憎き弟アベル。呪わしい弟アベル。いつどこへ行くにもカインの前に立っていたあの男。野郎が、いつだって消さなかった笑み、どんな時も捨てようとしなかった偽り。それをついに壊してやった!

――ある日の朝、カインは、作業に行こうと小屋を出ていく彼の障害に向けて言った。

「アベル、金の斧について話したいことがある」

 アベルは使い古した作業着の肩越しに振り返って言った。

「兄さん、またその話かい?」

 返事は返さなかった。その障害物は、呆れたように包帯の顔を歪めた。
 笑ってみたのだろう。その包帯に覆われた醜い顔も見納めかと思うとこみ上げるものがあったのは事実だ。
 これで最後かと思うと、笑いをこらえるのが一苦労だった。

「分かったよ兄さん、兄さんの気が済むまで話そう。お昼に遺跡の前の湖で待ってる」

 カインの眼の光に気づいた風もなく、明るい様気を振りまいて小屋を出て行った。
 カインは疑わずにはいられなかった。

――何故アベルは、場所を精霊の湖に指定した? 決まっている、彼女と口裏を合わせるために違いない。そうだ、あの弟は実直で純粋で勤勉な男だと思われている。だが実際は、俺と変わりのない、汚い男であるに違いない。あんなにも正しすぎる人間がこの世に存在するものか。あの陽気さで黒い臓物を隠し、他者を欺いているのだ。あたかも醜い顔面を包帯で取り繕うように。

――お前の思う通りにはさせるものか、アベルめ。いや、お前の思う通りにはいかないんだよ。

 カインは知っていた。湖の妖精は昼食時、決まって村の教会へ出かける。
 カインがそれを知っているのは、いつもその時間帯の少しだけ前に、彼女に会いに行っていたからだ。
 カインはいつも日が高く昇るそのずっと前に昼食を食べてしまう。
 その後の休みの時間を利用して彼女に会いに行っていたのだ。

 アべルも、カインのいない別の時間帯に彼女と会っている様子を見せていたが、はち合わせになることを恐れてか、相当ずらした時間であったに違いない。

 昼食時に時間を指定したのが運のつきだ、アベルめ。

 口裏を合わせる計画は成立しない。

 カインは昼食時よりも早めに約束の場所へ赴いた。
 昼飯は食べなかった。木を倒すこともしなかった。ただひたすらに、斧の手入れをした。
 柄が腐っていないか、刃の接合部分が緩んでいないか、刃先が潰れていないか。
 何度も何度も確認した。

 斧を片手に、茂みを抜けた。
 生い茂った植物群がぷっつりと途切れ、代わりに綺麗な円形の湖が広がっている。
 木々に遮られることなく差し込む陽光がキラキラと波に反射する。
 逆光の中に浮かぶ、真黒なシルエットを、カインは見つけた。

 一瞬だけ、湖の精霊と見間違う。
 しかし、振り返ったその人物がアベルの服装をしていることに気がついた。
 何よりも、その顔に幾重にもまかれた包帯を見て、見間違いだと確かめた。

――あいつと彼女とを見間違えるだなんて。

 カインはそう呟いて歯ぎしりしながら、後ろ手に斧の柄を強く握りしめた。
 手が汗ばむが、木でできた柄は程よい湿り気を帯びておかげで滑りにくくなっていた。

「あ、カ……兄さん。どうしたの、約束の時間より少し早い様だけど?」

 振り返ってすぐにカインの姿を捕らえ、そう話しかけてくる。
 カインは返事をせずに一歩ずつ歩を進めた。
 その様子に、鬼気迫るものを感じたのかもしれない。
 不審そうな表情を作る、その標的へ、カインは迫る。

「ちょっと……、ねえ、どうしたの?」

 カインは言う。馬鹿め、サヨナラだアべル。俺の世界の全てを覆い隠そうとする、弟よ。

「カイ……」

 あばよ――。

 湖に沈めた。今頃その骸は、真っ二つにかち割れた頭部を抱えて湖の底で眠っている。

 棚にしまった自分の斧へ視線を向けたカインはにやりと笑った。
 誇らしい気持ちになる。自分はついにやり遂げたのだ。

――ここでもやはりカインは気付かなければならないことに気付かなかった。
 気付く機会は何百とあったはずだ。考えさえすればその結論には至ることができたはずだ。
 それでもカインは考えるべきを考えず、気付くべきことに気付かない。
 そうしていたずらに罪だけを重ねていく。
 そのことにさえ無自覚で、カインはただ邪魔者を排除したことの高揚感に酔っていた――。

 台風一過などというが、空を覆う厚い雲が去った後には透き通るような空がただただ広がっているばかりだ。
 カインの心は見事に晴れ渡っていた。

――さあ、アベル亡き今、素晴らしい青空が俺を待っている。

 そう心躍らせながら、カインは扉を引いて、寝室の外へ出た。
 テーブル一つでいっぱいいっぱいの狭苦しいダイニング。
 そこにいたものを見て、カインは思わず息を止めてしまった。

 それは、昨日までずっとそこにあった光景と何一つ変わっていない。
 テーブルが置いてあって、四つのイスがある。カインが作ったものだ。
 その向こうが一段下がって土間になっていて、煉瓦造りの竈がある。
 竈の上には燻製の豚肉やら、フライパンやらがかかっていて、そして今、竈には火がついている。
 もちろんカインは火をつけていない。
 いつも竈をいじるのはアベルだった。カインは料理などしたことが無い。
 アベルはいつも、その竈の前に立って、フライパンを振って、カインが起きてダイニングに入ると――。

「やあ、兄さん、おはよう。今日は過ごしやすそうな一日になりそうだね」

 そこには悪夢とも言うべき先客がいた。
 昨日までと少しの代わりもない、明るく、純粋で、実直な、包帯まみれの笑みを湛え、弟が朝食の準備をしていた。

――これは夢だ。悪い夢だ。しかもその中でも最悪と言えるだろう。

 カインはアベルを殺した。殺したはずだ。殺して死体を泉に沈めた。
 二度と浮き上がらないように石を重しに付けて沈めた。生きているはずがない。

 アベルは竈で肉を焼いている。鼻歌が聞こえてくる。
 あれは誰だろう。アベルだ。自分が殺したはずのアベルだ。
 カインは自分のすねをつねった。鈍い痛み。これは現実の痛みだ。
 ここが現実の世界であるのは間違いない。

――では、あれが夢か。昨日のアベルを殺したあの光景が夢だろうか。積もりに積もったオレの殺意が見せた幻想だろうか。この掌に残る西瓜を割るような感覚。この目に残るとび散った鮮紅は幻? 全て夢?

 否。断じてそれは夢ではなかった。全身の細胞がその結論を否定する。
 自分がアベルを殺した、それは間違いない。否定する気もなかった。
 夢であればいいなんて思わない。罪の意識もなかった。
 夢であればいいのは今この状況の方だ。殺したはずのアベルが生き返って朝食を作っている。
 この現実が嘘であればいいと思っても昨日のことを夢にしたいとは思わない。

「さあ、ご飯ができたよ。どうしたの今日は、酒なんて開けちゃってさ。いいことでもあったかい?」

 朗らかな声、相変わらず癇に障る。
 まだ少年期が残っているかのような低くなりきっていない声はカインの神経を逆なでする。
 包帯で顔が隠れているのが救いかもしれないと思った。
 顔がそのまま出ていたら、カインは弟と顔を合わせるたびにアベルに襲いかかることになるだろう。
 顔が隠れているからまだこらえられる。

「あ、もしかして泉の精霊がらみかな」

「アベル、……お前、昨日何をしていた」

「何って、いつも通りだよ。木を切ってた。僕はこのなりだから兄さんと違って町には行けないしね。泉で鳩に餌をやったり、庭の花壇をいじったり。何もないよ」

「泉に、……いたよな」

 カインはある疑念を抱いた。
 それは殺したアベルがもしかして別人なのではないかという疑念だ。
 もしそうだったら、カインは昨日の事こそ夢であればいいと思わざるを得ない。
 よもやこの男のために自分が牢に入れられることなど、絶対にあってはならない。
 カインは殺した顔はちゃんと確認していなかった。
 死体の顔をよく眺める趣味などなかったし、何よりあの場ではその光景を誰かに見られてはいけないと思って、泉に沈めることを急いでいた。
 背格好はアベルに似ていた。服もアベルのものだったし、何より顔全体を包帯で覆っていた。そんな恰好をしているのはこの辺にはアベルしかいない。

 だがもし――。

 もしそれが別人だったなら。たまたまアベルと同じような格好をした別人だったなら。
 いや待て、自分はちゃんとアベルと話しているではないか。
 あのときアベルは確かに兄さんと言った。
 自分のことを兄さんと呼ぶ人間など他に誰がいるというのか。
 それ以前に、アベル以外にあんなところにだれがいるというのか。
 誰も入ってこない樵の兄弟が暮らす森。
 そこにアベルを殺そうと思った日に限ってアベルそっくりでアベルと同じ格好をして自分のことを兄さんなどと呼ぶ別人がいて、自分がその別人を殺してしまった?

――あり得ないあり得ない。何という荒唐無稽さ。馬鹿馬鹿しい。

「泉にいたよ。昼時から、三時くらいまでかなぁ。でも、何もなかった」

「何もなかった?」

 カインは考える。アベルは平然と朝食を食べている。
 仮にアベルが、殺されるということを気取っていて、カインに先んじて手を打ち、殺される前に身代わりを立てたということはどうだろう。
 アベルはこんな風にぽやんとしているがなかなかどうして頭が回る。
 自分が嫌われていることにはきっととうの昔から気付いているはずだ。
 ならば、カインが殺そうとしていることに気付いているくらいはあってもいいかもしれない。

 ではなぜ、アベルは身代わりなど立てたのだろうか。

――浮浪者を金で雇って身代わりにした? だが何のために。殺されたくなければ自分が姿を消せばいいだけではないか。むしろそうしてもらいたいくらいだ。そうすれば自分が人殺しなどしなくて済んだのだし。

 考えられるとすれば、殺した現場を押さえて、カインを警察に突き出すくらいだ。
 だが、アベルはそんなことをするそぶりもない。
 少なくとも今カインはこうして家で食卓についている。
 縄を打たれているわけでも、牢屋に入れられているわけでもない。

――そして、もしそうなら、アベルの今の行動も意味不明だ。自分を殺した(殺そうとした)人間とともに、食卓についている。そいつに朝食を振るまってすらいる。何故? 殺されるとは思わないのか。オレを見くびっている? 一人殺している人間に恐怖を抱かない人間などいるものか。知っていれば絶対に警戒するし、こんな平然としてはいられない。

――まさかオレに自首でも勧めるつもりだろうか。なるほどお人好しの弟ならあり得そうなことだ。自首すれば殺人でも幾分罪が軽くなる。最期の最後までこいつはバカなお人好しなのだ。

 いくつかの推論。いくつかの議論。いくつかの仮説。結論は出ない。
 カインの頭の中で疑問符が飛び交い、喧々諤々と議論が交わされている。
 アベルは食事をしている。包帯を巻かれた口にサンドイッチが消えていく。
 その口から自首してくれという類の言葉が出てくることはついになかった。

「さあ、今日も一日、頑張ろうか」

 食事を終えたアベルは一つ伸びをして、森に出かけようとする。

「どうしたの、兄さん」

「今日は――、疲れてる。仕事は休みだ」

「財布は戸棚にしまってあるからね」

 カインは戸棚から財布を出して、それを懐に隠すようにしまいこんで、そして逃げるように家を飛び出した。

――あれはなんだ。俺は一体、どうなっているんだ。
真実の泉と蘇る死者
»»  2013.10.04.
3050年 6月12日 正午

 太陽は空高く昇っており、その光が天窓を通して部屋の中を穏やかに照らしている。
 朝はどんよりとしていた天気も、もうすっかりと晴れ渡っていた。
 そこは石造りの割と大きな食堂だったが、窓の少なさが影響してか、狭苦しい感がある。
 仕事の間を縫って、昼食にありつかんとやってきた人々でごった返しているとあればなおさらだ。

 何しろこの町に唯一の飯屋だった。
 飲みどころはいくつかあったが、昼にやっていて、しっかりとした食事を提供する店はここだけしかない。
 所せましと並んだ丸いテーブルには一つの空きもない。
 黒ずんだテーブルの上に置かれるのは素朴で簡単な料理ばかり。
 だが料理にがっつく客たちは、それをさして気にする風でもなかった。

 そんな猥雑とした飯屋の一角で、特に人が密集している場所があった。
 カウンター席のど真ん中に、円状の人の壁ができているのだ。

 中心にいる男は、周りの人々と比べると、一風変わった雰囲気を纏っていた。
 町の者ではないから旅人だろうが、質素で邪魔にならない格好を心がけているらしく、着古したレインコート姿で、この天気と季節を鑑みてもいささか不自然であることは確かだった。
 そもそもこの町には何もない。旅で立ち寄るような場所ではないはずだった。
 男は背の高い体躯を小さな椅子に落ち着けている。
 周囲から受ける注目はハエほどにも思っていない無表情さで、黙々とスプーンを盛った手を動かしている。
 眉一つ動かさずただ黙々と皿のシチューを掬う彼の脇で、皿がいくつも塔を築いていた。

 観衆はこの男の食べっぷりを見て、揃ってみんな目を丸くする。
 あっと言う間に目の前の皿をかたずけたその男は、それを無造作に脇へと積み上げた。
 どよめく人々の中、その男のすぐ傍に寄り添う小さな男の子の姿があった。

「ほらほら、頑張って頑張って! 見てよ、もうちょっとで四十枚だよ。マスターのおじさん、早くもっともっとシチューを持ってきてよ。全部片付けちゃうから!」

 年のころは五歳くらいか。
 はしゃいだ声を上げて、男の周りでは小さな男の子が綺麗に日焼けした褐色の腕を振り回している。
 店の中だというのに麦わら帽子を被って、あちこちが擦り切れたぼろぼろの黒いマントが動くたびに風をはらんで翻る。
 絶えることなく応援の言葉を送りながら、その顔は自慢げな笑顔で一杯にしている。
 太い眉と無邪気な瞳、鼻の頭のそばかすとがあどけなさを溢れさせている。

 男は男の子に声をかけられながらも反応を示すことはなく、ただひたすらに手を動かし続けた。
 男の子もそれを見て満足そうに頷いている。男の子はとび跳ねながら叫び声をあげた。

「ね、マスターのおじさん! これ、あと五分ちょっとで残りのお皿全部をかたずければホントにお代はタダでいいんだよね!」

 マスターは、苦笑いを浮かべて頷いた。頷くこと以外なにもできない。
 シチューの皿を持ってくるマスターの額には、大きな滴が浮かんでいる。
 結局それからレインコートの男が五十枚分のシチューを平らげるのに、五分もかからなかった。
 周りで男が平らげる方に賭けた酔漢たちが歓声を上げる一方で、男が時間切れになる方に賭けて負けた酔っぱらいたちが地団太を踏む。
 喧嘩が始まりそうになるのをしり目に、二人の旅人は銅貨一枚も払うことなく、店を後にした。

「流石ウッドマン、本当にあれだけのお皿からにしちゃったんだねー。でもお腹、がぼがぼになってない?」

「……いや」

 店を出て、男の子は太陽の下で大きく伸びをした。
 シチューをたいらげた男もその脇に佇んでいる。男の子はいたく満足げな様子だった。
 半ズボンの腰に両手をあててご満悦の表情である。昼飯代が浮いたことより、自分の相棒が注目の的になったことが嬉しくて仕方ないのだ。

「ねえウッドマン、この後どうする? やっぱりまずは町の探検だけど、買い物とかも済ませておかなきゃ。そろそろ底ついちゃいそうなものもいくつかあるし、どうするどうする?」

 ウッドマンと呼ばれた男は、目にかかる黒い髪を払っただけで、言葉を返したりはしなかった。

「ほら、ウッドマンのおかげで浮いた昼飯代使って何か買おうよ。オレ欲しいものあるかも!」

 男の子はワイシャツの袖をたくしあげ、剥き出しになっている腕を組んだ。その指にくるくるとサスペンダーを巻き付けている。

「あ、それよりも先に宿を見つけるのが先かな? ウッドマンどれがいいかな?」

「宿を探すのが先だ……。行くぞ、スケアクロウ(助悪郎)」

 ウッドマンは、背中に背負った細長い荷物を担ぎ直して言った。
 スケアクロウの麦わら帽子の上に手を置き、進むべき方向へと押しやる。
 スケアクロウは手を抜けだして道を駆けて行った。
 その後ろをゆったりと、しかし大股でついていくウッドマン。
 親子にしては年齢が合いそうもないし、逆に兄弟にしては歳の差がありそうだ。
 奇妙な二人連れは粗雑な石畳の通りを、町の中心の方へ向かって行った。
 道は狭く、店らしき看板もほとんどないさびれた町だった。
 露天商の威勢のいい掛け声などは全くなく、むしろカラスの鳴き声の方が大きいくらいだ。
 やっている店と言えば石鹸屋やら、ろうそく屋やら、小さな服屋、小さな床屋、生活雑貨を売る店がぽつぽつあるくらいだった。
 ときたま思い出したようにまだ開いていない飲みどころがある程度でほとんど何もないに等しい。

「これも違う、あれも違う」

 先ほどまでの元気もあまりに寂れた街に嫌気がさしてきたようで、スケアクロウは少々元気のない声で呟く。

「本当に何にもない町だね、ウッドマン。それにこの町なんかちょっと臭い。ウッドマンは何しにこの町に来たの?」

 スケアクロウは鼻をつまみながら言った。
 実際町のあちらこちらから異様なにおいがしていた。
 においの発生源は多くはどうやら人家であるらしくスケアクロウは下水の設備が整っていないのだろうかと思った。
 やたらとハエが多いのも気になった。先ほどから目の前をちらちらとうっとうしいことこの上ない。

「偉大なる魔法使い、オズの予言を成就させるためだ」

 おず、とスケアクロウは舌足らずな言い方で繰り返した。
 世界の中央、エメラルドの都に住むという偉大なる魔法使い、オズ。
 彼の魔法がこの世界の理を定め、彼の魔力がこの世界において魔法の行使を可能にするという。
 そのオズが記した予言を成就するための機関が、二人が所属するゼロ機関(Organization Zero)の目的だった。
 ウッドマンはゼロ機関の最初期のメンバーの一人であり、指折りの機関員だった。
 スケアクロウはその父親がやはり最初期のメンバーの一人だった。
 身寄りがないために、ウッドマンと共に旅をしている。

「この町の奥の森には、泉があるという」

「イズミ?」

「大きな水たまり――くぼんだ地面に水が湧き出して溜まったもののことだ。その泉には精霊が住んでいるらしい。曰く、泉に斧を落とした樵が困っていると、精霊が出てきて、あなたが落としたのは金の斧か、それとも銀の斧か、と尋ねる。樵が正直に鉄の斧だと答えると、精霊は樵の正直さを褒め、金の斧と銀の斧を下す。この町にはそういう風に、落としたものを向上させて、与えてくれる泉があるらしい。私達の任務はその泉の存在を確認し、それが本当なら、本物の心臓を手に入れることだ」

 ウッドマンは自分の心臓を親指でさして言う。
 スケアクロウはふーん、とわかったようなわからないような返事をする。

「早く見つかるといいね。ウッドマンの本当の心臓」

 スケアクロウはそう言って笑う。
 木の看板を一つ一つ眺めながら、宿を探して歩き続けていたが、スケアクロウが突然何かを指さした。

「ねえ、ウッドマン、あれ何かな?」

「……」

 ウッドマンは既にそれが何だか、見えていた。酔っぱらいだ。
 スケアクロウの指の先には、バーがあった。
 その脇で、若い男が瓶を抱えて倒れているのだ。
 スケアクロウはウッドマンを見上げて、何も喋らないことに苦笑いした。
 連れの無口さは、ちゃんと理解していた。

「相手にするなってことでしょ?」

 スケアクロウはにっこりと笑って口にチャックのジェスチャーをする。
 ウッドマンはそれを見下ろしたが、やはり笑い返さない。

 スケアクロウはあからさまに酔っぱらいを意識しながら大げさなほどに距離をとってそのわきを通り過ぎようとした。
 しかし、その横を通り過ぎるウッドマンの長いコートの裾を倒れている男は突然つかむ。

 相当飲んだに違いない。眼が焦点を失っている。それにどこか殺気だっている。
 呂律の回らない舌でその酔っぱらいは叫んだ。

「お、おおいアンタぁ、旅人なんだろう。か、金をくれてやるからよおぉ、うっ、殺してくれえ。あの野郎を殺してくれえ」

 酔った男はウッドマンに縋り付くようにして立ちあがり、そして鬼気迫る声でそういうと、そのままバタンと倒れこみ、意識を失ってしまった。

「……お医者さんだね」

 ウッドマンは答えず、倒れ伏す男を背中に担ぎ上げた。
 スケアクロウはバーに駆け込み事情を話すと、この町に唯一の診療所を教えてもらった。
真実の泉と二人の旅人
»»  2013.10.04.
3050年 6月12日 午後

 夢を見ていた気がする。
 それはとても恐ろしい夢で、自分が怪物になっていろんな人を殺してしまうというものだった。
 弟を殺し、友人を殺し、そしてあんなに愛した泉の精霊までも手にかけた。
 自分が一人きり残った森の奥で斧を振り続ける、そんな夢だった。

 だからカインは、まず一番にそれが夢であったことに何よりも安堵した。
 とび起きれば白いシーツの上にいた。ベッドの並んでいる部屋。薬のにおい。
 自分の家ではなかったけれど、カインはその場所をよく知っていた。

 カインたちの家に続く森の一本道の入口にある診療所。
 この辺では唯一の医者で、カインとアベルの旧知であるセツの仕事場兼自宅だった。
 彼女もカインは夢の中で殺していたことを思い出して、ひょっとしたら自分はセツを殺して、この家を乗っ取ってしまったのではないかという思いに駆られた。

「あ、ようやく起きたね。あんたもなんか駄目になったね」

 しかし直後にそれが思い違いであると証明するかのように、心配と哀れみの混じった顔でカインを診るセツと目が合った。

「……うるせぇ。関係ねえだろ」

 同情するようなセツにカインはそんなぶっきらぼうな言葉をかけるが、半分以上が照れ隠しだった。
 髪形だけ見れば男のようにも見える短髪のセツが猫のような印象を見る者に与える釣り気味の目で、呆れたように笑った。
 その笑顔を見て、少しだけ安心する。やはりあれは夢だったのだ。

 夢? どこからが夢? ひょっとして、アベルを殺したことすらも、やはり夢だったのだろうか。
 自分はいつから夢を見ていて、いつ覚めたのだろうか。

「……、これは、夢か?」

「……酔いがまだ回ってる? これは現実。あんたが旅人だって人にわけわかんないこと言って襲いかかってのされてここに運び込まれた。その旅人さん――ウッドマンとかって言うらしいけど、その人が運んでくれたんだよ。全く、世話の焼ける男だね。何をそんなに飲んだくれていたのさ」

――そうだ。思い出した。自分は弟を殺して。泉に捨てた。だけど朝起きてみたら。弟が平然と朝食を作っていて。恐ろしくなって。弟が恐ろしくなって。酒場で酒を浴びるように飲んだ。もしかしたらそれが夢を覚ましてくれると思って。

 そこからは記憶があいまいだったが、酒場のおやじが言っていた気がする。
 何でも旅人が来ているとか。飯屋のロベルトの店が食いつぶされそうだとか何とか聞いた気がする。
 そして、いい加減飲んだくれてるんじゃないと追い出されて、家に帰るのはやっぱり怖かったから道端で安酒を飲んでいたところに――。

「そうだ、あの男は……ウッドマンっていうのか? そいつはどこ行った?」

 いや――。それよりもまず。

「セツ、アベルの奴は――」

「アベル? 包帯を買いに来たけど」

「いつだ?」

「今日だよ」

 ではやはり――生きているのだ。あの弟は。夢じゃなかった。弟は生き返ったのだ。

「その男はどこだ」

「いい人でね、裏で薪を割ってくれてるよ。この辺には宿がないだろ? ほら、一軒だけあるのはガーフィールドの親父さんのとこだけだし、あそこに泊めるのはちょっとね。うちはベッドがあるし、泊めてやってもいいと思って……」

 最後まで聞かず、カインはベッドからとび起きて、履物も履かずはだしで診療所の裏庭に飛び出した。
 そこには切り株の上に座り込んで鉈を振り上げるレインコートの男の姿があった。

 男の近くにいた麦わら帽子の男の子が、あ、と声をあげた。それに応じて男が振り返る。

 その目を見てカインは一瞬背筋に何か寒いものが走るのを感じた。
 それは一番近いものをあげるのであれば、あの、生き返ったアベルを見たときの感覚に似ていたかもしれない。
 あり得ないものを見たときの気持ちの悪さ。
 この世に存在する、この世にあるはずのないものを目の当たりにした恐怖。

「目が覚めたんだね。おじさん。大丈夫? でも、おじさんが悪いんだよ。ウッドマンにいきなり飛びかかってくるから。痛い? ごめんね」

 男の子はカインを気遣っているのか責めているのかわからないようなことを言った。
 カインはその男の子に目を移した。男とは違い、とるに足らない存在のように感じた。
 少なくともさっきのような不気味さを感じない。
 カインと目が合うと、男の子は人懐っこそうな笑みを浮かべた。
 太い眉とそばかすがどこか田舎っぽい印象を与える。

「あ、あんた……いや、あんたら」

 カインは何を言えばいいのかを考えた。自分が何を言おうとしていたのか。
 先ほど男に睨まれた時の感覚で一切が頭から吹き飛んでしまったので、思い出すのに多少苦労した。
 そして、弟の殺しの依頼をしようとしていたことを思い出して、再びその男の子に目を向けた。
 どう考えても、子どもの前でする話ではない。

「オレはスケアクロウ(助悪郎)。こっちはウッドマン。おじさんはカインっていうんでしょ。先生からお話ししてもらったよ。樵なんだってね」

――そうか、セツは、幼馴染であるセツは。きっといろいろあることないこと吹き込んだろう。おしゃべりだからな。

 セツと、カインとアベルは、まるで本当の兄弟のように身近な存在だった。
 子どもの頃の話ではあったが。アベルが顔に大けがを負った事故でも、アベルを救ったのは彼女だった。
 その意味ではセツが助けなければよかったのにとは思ったが、少なくともカインの中で、セツは憎むべき相手ではなかった。
 特に言葉にするような感情はなかった。好きでも嫌いでもない。
 気の置けない飲み友達の一人ではあった。

「おじさん、……カインさんは、オレ達になんか用があったの?」

「あ、と、それは……ん」

 カインは問われて言葉に詰まった。スケアクロウを見、ウッドマンを見た。
 多少、目で懇願するようにへつらった笑みを浮かべてみた。通じたかどうかはわからない。

「……スケアクロウ、いいにおいだ」

「本当だ! なんだろう」

「セツさんがお菓子を焼いてるんだろう。よければもらってきてくれ。お茶にしよう」

「わかった!」

 スケアクロウは跳ねるように立ち上がって、さっきカインが出てきたそのドアから診療所の中に消えていった。

「カインさん、でしたね。お話を伺いましょうか」

 カインはその目を見た。深い深い泉の底に沈んでいる死者の眼に、きっと繋がっている。
 そんな風に思うほど暗い緑色の瞳を。

「……あんた、何モンだ? ただの旅人はこんな辺鄙な街に来たりはしねえんだよ」

 スケアクロウが消えると、カインはまずは強気にウッドマンに向かった。
 へりくだったりすることは性に合わない。

「そうですね、私はトレイズ。トレイズ・ウッドマン。人造人間です」

「人造、人間?」

 カインは聞きなれない言葉にそのまま繰り返す。
――わかりやすくお見せしましょう、とウッドマンは自分の腕を取り外してカインに放り投げてよこした。
 カインは間抜けな叫び声を上げて、投げられたひじから先の左腕を避ける。
 地面に落ちたそれの内部には、見たこともない金属光沢をもつ繊維が何重にも張り巡らされていた。

「私の全身は機械でできています。全てのパーツが代用可能で、エーテルを原動力に動いています」

「へ、気色悪ぃ……、それで、その人造人間様が何の用だよ」

「一言でいうなら暗殺です」

 ウッドマンは平坦な声音で静かに言った。
 暗殺、とカインは返す。

「誰を?」

「この町に――悪い魔女と聖なる泉があると聞きまして」

「悪い魔女?」

「ええ、何でもその泉は『死んだ人間を蘇らせる』そうです。ご存じありませんか? そして悪い魔女がその泉の力を悪用して、町の人間をたぶらかしているという。私は依頼を受けて、その魔女を討伐しに来た――殺し屋です」

 その言葉にカインは数瞬、言葉を失った。
 死んだ人間を蘇らせる泉と魔女――ならばあのアベルは、その魔女によって蘇えらされたとでもいうのだろうか。

「機関から私に下された任務は三つ。一つ目は泉の存在の確認と分析、二つ目は魔女の討伐。そして三つ目は、魔女の力によって蘇ったものに、永遠の死を与えること」

 ウッドマンはそう言って鉈をかませた薪を振り下ろす。
 ぱっかりときれいに二つに薪が割れる。

「あなた――もしかして、身近な人が、生き返りでもしましたか?」

「……ふ、へへへ、へははは、ははははは!」

 カインはその言葉を聞いて、笑いが込み上げるのを止めることができなかった。
 神は――カインを祝福している。運命はカインに味方してくれている。
 だから、カインの殺人は失敗したが、それを救うものがちゃんと現れた。

「へへ、そうなんだよ。俺は今、とても困ってるんだ。あいつが、アベルが生き返ったりするから――あんた、あいつを殺せるんだな」

 そしてカインはウッドマンに、自分が体験したことを話した。
 それは自らの殺人の告白であり、到底人に話せることではないはずだったが、カインは既にウッドマンを信用しきっていた。
 この男はアベルを殺してくれるに違いない、と。
真実の泉と人造人間
»»  2013.10.04.
3050年 6月12日 夕刻

「いいか、スケアクロウ。くれぐれもセツさんに迷惑かけるな」

「まっかせてよ!」

 スケアクロウの頭に手を置いたウッドマンは、顔をあげ、スケアクロウの隣に立つ女性、セツに向かって頭を下げた。

「では、彼をよろしく頼みます」

「はいはい、任せてくださーい」

「だいじょーぶ、オレ大人しくしてるし!」

 ウッドマンはそのまま玄関から離れ、数段のステップを降りた。石畳の道の少し先には、カインがそわそわと待っていた。

 セツは笑顔で二人を見送る。スケアクロウの肩に手を置きながら何も心配することはないという風に。
 ウッドマンは振り向きこそしなかったが、彼女の視線がずっとカインに向けられているのを感じていた。
 ウッドマンはカインの傍まで歩み寄ると、レインコートのフードをかぶった。

「お待たせしました。行きましょうか」

「あ、ああ。早く行こう」

 スケアクロウが大きな見送りの言葉をあげているが、二人とも振り返らなかった。
 セツの声は聞こえなかった。

「行っちゃったね」

 深い森に続く一本道に二人の影が遠く消え去っても、スケアクロウは大きく手を振り続けていた。
 それがまるで、ウッドマンとの最後になるとでも言わんばかりに大声を張り上げて、その姿が見えなくなっても、未練がましく二人が行った森の入口を睨んでいた。
 ようやく気がすんだのか、やっとスケアクロウはそんな言葉をため息といっしょにはいた。

「さあ、お家に入ろう。もうすぐ夕方だからね。この辺は割と物騒な獣がよく出るんだ。君みたいなかわいい子供はオオカミに食べられちゃうぞ」

 セツは口の端を釣り上げていっひっひと笑って見せる。スケアクロウはその様子に大声で笑った。
 笑いこけるスケアクロウを連れてセツは家の扉を閉めた。

――予想外、ではある。ウッドマンとスケアクロウの存在。
 セツは顔だけ笑いながら状況を頭の中に構築する。
 表面は相手に合わせて内部ではかりごとをするその二面性の使い分けはこれまでの生活で研ぎ澄まされてきた。
 誰もセツの内部の考えを知らない。だれも、彼女の素顔を知らない。

「さて、スケアクロウ君。先生はこれから夜の回診の時間なの。だから、そうだなぁ、一、二時間ほど出かけなければならない。お留守番を、頼めるかな」

「お留守番? まっかせてよ。オレ待つの得意なんだ」

「じゃあ、お約束しよう。その一、戸棚にはとっても危険なお薬が入ってます。一応鍵がかかってるけど、絶対に戸棚には触らないこと。その二、隣の部屋は診療室です。先生がいない間に具合が悪い人が来るかもしれません。具合が悪い人が着たらすぐに診療室に入れてあげること。そして先生が帰ってくるまで君は絶対に診療室に入らないこと。怖~い病気がうつるかもしれないからね。その三、お外に出ないこと。この辺は人眼がなくて危険だからね。おなかがすいたらスコーンとジャムはここ。この瓶は牛乳だから好きに飲んでいいよ。わかった?」

「わかった!」

「じゃあ一つ目は?」

「えっとねー……、戸棚に触らない!」

「二つ目」

「具合悪い人が来たら診療室に入れて、先生が帰ってくるまではいらない!」

「三つ目は?」

「外に出ない!」

「よく出来ました。守れるかな?」

「守れるよ。オレはウソをつかないことと約束を破らないことをシンジョーにしてるんだ」

 麦わら帽子の端をつまんでスケアクロウは自分が思う一番かっこいい角度で決め台詞を放つ。
 セツはその様子に思わず噴き出した。

「む、笑うな」

「ごめんごめん。いや、立派な信条だと思うよ。じゃあ、先生は行ってくるからね」

 セツはそう言って、大きなトランクを持って外套を羽織り出かけて行った。
 スケアクロウは窓の外を眺めた。空はいつの間にか段々に青さを増していた。
 夜の気配。森のあたりなどは本当に真っ暗になっている。

――ウッドマンは大丈夫かしら。

 あのカインという男はろくな男に見えなかった。
 スケアクロウは聞こうとは思わなかったけれど、カインの第一声を聞いている。

 スケアクロウの胸がチクリと痛む。
 これは考えてはいけないこと。思い出してはいけないこと。忘れないといけないこと。

――ウッドマンの仕事のことだろ。

 スケアクロウはふと窓ガラスを見た。大きなカラスが一羽、窓にいちばん近い木の枝に止まっていた。
 カラスが口を開ける。

――ウッドマンは人殺しに行ったんだよ。

「お仕事は、オレには関係ないよ。ウッドマンがオレの知らないところで何をしてても、オレは知らないよ!」

 こいつは悪い奴だ。だってウッドマンはあんなに優しいじゃないか。だからウッドマンはいい人なんだ。人殺しなんてするわけないんだ。してたとしてもオレには関係ないこと。ウッドマンがなにも言ってこないんだからオレは何も知らない! 何も聞かない! 何も見ない! 何も知らない! ただの案山子!

――スケアクロウ、何をそんなに苦しんでいるの? 認めろよ。そして楽になれ。ウッドマンは――。

「こんばんはー。セツー? 誰かいないー?」

 スケアクロウはその言葉にはっとする。窓にははっとした顔を浮かべるスケアクロウ自身の姿があった。
 カラスはいつの間にか木の枝からいなくなっていた。
 スケアクロウはパンパンとほっぺたをたたいて気持ちを切り替える。

――オレは大丈夫。いつも通り。

「はーい。ごめんなさい。先生は今留守で……」

 スケアクロウはドアの前に立つ人物を見て思わず腰を抜かした。
 砂漠の国の包帯ぐるぐる巻きの死人の話そっくりの包帯男が立っていた。
 確かそれは、生きている人間の内臓を求めてさまようのだ。

「あれ、……ごめん、ここ、セツの診療所だよね。あれ?」

 包帯ぐるぐる巻きはスケアクロウをマジマジと見て玄関を行ったり来たりしてしばらくうなっていた。

 スケアクロウは這うようにして後ずさり壁に寄り掛かった。そして、壁を頼りに何とか立ち上がる。

「君、セツの知り合い? 弟? なわけないよな。ねえ、セツを知らない?」

「お、お前は、誰だぁ!」

「いや、アベルだけど」

「何の用だぁ!」

「困ったなぁ、セツはいないの? 君、名前は?」

「オレはスケアクロウ(助悪郎)だ!」

「なんでセツの家にいるの? まさか泥棒?」

――何を言い出すんだこの包帯男は! このオレが、このスケアクロウが言うに事欠いて泥棒だと? そういうお前こそ妖怪の仲間のくせに!

 スケアクロウがあまりの怒りに物を言えなくなっているうちにアベルの方はどうしたものかと頭をかいていた。

「君、何してるの?」

「オレは先生からお留守番を頼まれたんだ! 先生は夜の回診に行ってくるからお留守番しててねって」

「じゃあその時、病気の人が来たら、みたいなことを言ってなかった?」

「病気? お前、病気なのか?」

 病気という言葉を聞いて、スケアクロウの顔から怒りと恐怖が消える。
 アベルはよくよく見ると確かに具合が悪そうにしていた。何だか息が荒いし、震えている。

「具合悪いのか? その顔も病気か?」

「まあそんなものだよ。実はこうやって立ってるのもつらいんだ。中に入れてくれないかな」

 スケアクロウはあわてて道を譲る。そして、セツに言われたことを思い出す。

――約束その二、自分がいないときに病気の人が訪ねてきたら診療室に入れて、帰ってくるまでその部屋に入らないこと。

「先生は、病気の人が来たら、あの部屋に入れて、オレは入っちゃいけないって言ってた」

「そうだね。僕は悪い病気かもしれないんだ。セツは回診に行ってるのかい?」

「うん」

「じゃあ、帰ってきたらアベルが寝てると伝えてくれ。君は絶対にここに入っちゃいけないよ。あと、君は今すぐ手を石鹸で洗ってうがいをした方がいい」

 その言葉の意味するところをスケアクロウは理解して、あわてて外の井戸までかけて言った。

 スケアクロウが出て行ったのを確認して、アベルは内側からドアに鍵をかけた。

「ふぅ――」

 息をついて、アベルは包帯を解く。
 やがて、スケアクロウが家に戻ったのを確認して診療室の裏口から、外に出た。
 窓を避けて、『アベル』は家を離れる。町の方に消えていく彼と入れ違いになるようにセツが帰ってきた。

「お帰りなさい先生! そう、オレ、約束守ったよ。えっとね、何か病気の人が来たから、ちゃんとあの部屋に案内したよ。確か名前は――アベル」

「そう、ありがとう。よくできました。それじゃあ先生はその人の診察をするから、君はこの部屋でウッドマンさんが帰ってくるのを待ってるんだよ」

 セツは薄く笑う。大丈夫だ。誰にもばれていない。
真実の泉と診療所
»»  2013.10.04.
3050年 6月12日 夜

 すでにウッドマンとカインの間に契約が完了していた。後は取引をするだけだった。
 カインの弟を殺す。ウッドマンは殺し屋を生業としている男だった。
 その意味で、この町の住人が多く感じるウッドマンに対しての差別感情は間違ってはいない。
 ウッドマンは決して町に招き入れられるべき存在ではなかった。

 セツの診療所は町の外れの森の入り口にある。実際に患者がやってくる場合よりも、セツ自身が診察に赴く方が多いらしい。
 数分と経たぬうちにすっかり建物は見えなくなり、完全に森の中に入っていた。
 空を覆い隠すように木々が生い茂っている。もう夜が近いこの時間、すでに足元が見えないほどにあたりは暗くなっていた。
 カインが手に持つランプが、かろうじて足元を照らしている。
 その道はそれでもそこかしこに人が歩いた跡が残っていた。
 この奥には話に聞く限りでは樵の兄弟――カインとアベルの家と、その奥に朽ちた遺跡があるだけのようだ。
 人が頻繁に行きかう要素があるとも思えないが、それにもかかわらず、踏み鳴らされた地面が道のようになっている。
 二人は、万が一にも人に話を聞かれる心配がない森の奥まで歩く。
 そろそろ大丈夫だと判断したのか、カインがおもむろに口を開いた。

「さっきも言ったが、アベルは……俺の弟だ。親は死んだ。他に身寄りはいない」

「……」

 ウッドマンは相槌を打ったりはしなかった。しかしカインは気にした風もなく、続ける。
 弟を殺してほしい。それは出会ったときにも酔ったカインが言った言葉であり、先ほどセツの家でスケアクロウがいない間にもカインが依頼したことだった。

「いつだってあいつは傍にいた。タチの悪い奴で正直者の仮面を外そうとしない。純粋そのものっていう顔で俺の隣を歩いて、なにもかもを自分で独り占めにしやがるんだ。俺のものも平気で横取りする。奴は泥棒だ」

 カインは立ち止まり、地面の草を踏みつける。両の掌に爪を立てながら吐き捨てた。

「そうだ、俺は昔からあいつが気にくわなかった。この手で殺してやりたいといつも思っていた。そして、この手で殺してやった。たしかに殺した筈だ! なのに……!」

 ぎり、と歯を食いしばった。

「あいつは平気な顔して、生きてやがった! そして俺のことを嘲笑いやがったんだ」

「話では包帯で顔を覆って……」

「うるさい! 包帯越しでも俺には分かるんだよ! あいつは笑いながら……俺をコケにしてやがるんだ! そうだ、そうに違いない。だいたい俺がこの手で殺したのに、何でアイツは生きてるんだよぉっ? おかしいじゃねえか! なあ!」

 カインは振り返った。激情したままウッドマンに詰め寄った。
 息を乱し、目を赤くし、獣のような形相でウッドマンを睨む。
 カインも身長は低い方ではないが、頭一つ分高いウッドマンを見上げる形になった。
 ウッドマンはあくまでも表情を変えなかった。

「なんにせよ、動機など仕事には関係ありません」

 淡々と、機械的にカインに言った。

「具体的な段取りの話に入りましょう」

 おさまりのつかない感情を吐露したのに、関係ないと切り捨てられたカイン。
 カインはいらつきを隠そうともせず舌打ちしたが、くってかかるような真似はしなかった。
 今は確実な殺しを行う者が必要なのだ。ここで気分を損ねられては、カインが困る。

「アア、分かったよ……」

「結構」

 カインは再び歩きはじめた。後ろをついてくるウッドマンにぼそぼそと説明を始めた。

「殺してほしい男は何度も言っているとおり俺の弟のアベルだ」

「容姿は」

「こいつも繰り返しになるが包帯で顔を覆っている男だ。歳は俺より少し下。あいつ以外に包帯面の野郎なんざ、いるわけがない。見りゃわかるさ。ゾンビみてえな野郎だ」

 ウッドマンは少し首を傾けて質問を投げかけた。

「さっきから何度も聞いてますが、彼は死から蘇ったと言う。それは記憶違いや勘違いと言うことはないのですか」

「俺が嘘吐いてるって言うのかよ!」

 ぎろりと肩越しに睨んできたカインを見て、ウッドマンは縦にも横にも首を振ろうとはしなかった。
 カインはウッドマンの目を睨み付けたが、その何を考えているのかわからない、意志のない視線に耐えかねて、すぐに視線を外した。

「確かにこの手で殺したんだよ」

「いつの話ですか」

「昨日の昼頃だ……町の野郎どもの昼食時だな」

「どこで」

「精霊の湖だ」

「精霊の湖?」

 ウッドマンが反芻する。カインはすぐに説明した。

「ああ、この森のさらに奥にある精霊が住んでる湖だ」

「伝承ですか?」

「違ェよ!」

 再び声を荒げカインが振り返った。

「あそこには、本当に湖の精霊が住んでいる。彼女も俺のものなのに、アベルが奪おうと企んでやがるんだ。だから、俺は、俺の手で彼女を守らなきゃいけないんだ! あそこには彼女が住んでいるんだ」

 ウッドマンが初めて表情らしい表情を見せた。
 いぶかしむ様に眉をひそめ、わずかに首をかしげたのだ。

「その精霊とは何者ですか」

 カインは露骨に警戒した。

「アベルを殺すのにそんなことが関係あるのかよ」

「……いえ、ただ、もしかして盲目の巡礼者なのではないかと思いまして」

「あんた……彼女を知っているのか?」

「ああ、いえ、ただここに来る前にこの辺りにそういう女がいるということを耳にしまして。そう、三か月くらい前にここに来たのでは?」

「……そうだな、確かそれくらいだろう。おいあんたまさか、彼女に何かしようっていうんじゃないだろうな!」

「滅相もない」

 ウッドマンは即座に否定した。それ以降黙り込み、再び表情を消した。
 カインの方にもそれ以上喋ることはなかった。彼の家までの道中は沈黙のままだった。

 幾人もの足で踏み固められた道を、二人は歩く。時折近くから鳥や獣の声が聞こえた。
 それを聞きながら、二人は葬送行進のように進んだ。そう、それはまさに葬り送るための行進だった。
 殺意と憎悪に彩られた呪われた二人ぼっちの行列。

 カインの靴が土を踏みにじる音だけが響く。
 足音もなく、滑るように背後につくウッドマンは、さながら影のようだった。

 視界を遮る小枝が徐々にその密度を薄くしていく。
 そしてついに、拓けた場所にたどり着いた。
 目の前に小さな家が現れた。カインと、そしてアベルが暮らす家である。

「ウッドマンとか言ったな、あんた。旅人のあんたは俺の好意でウチに泊まることになったってことにしよう。それであいつと顔を合わせる。後はいつでもあんたのやりやすい時に……やっちまってくれ」

「……」

 生まれてから数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに通り慣れた道なのに、カインはたどたどしい足取りで自分の家に近づいて行った。

 木組みの簡素なつくりで、木々に囲われこじんまりと立っている。
 だが見た目程に脆くはなさそうで、ちょっとやそっとの嵐で飛ばされたりはしなさそうだ。
 純粋に宿泊目的で案内されたのであれば、悪くない場所だろう。
 ウッドマンはカインに促されるまま、扉へと近寄く。敷居すらまともにない簡易な扉から見るに、ここが裏口なのだろう。

 陽はもう暮れる。夕日もとうに、地平のかなたへと沈んでいた。
 扉のすぐ近くの開け放たれた窓からは薄暗くて中の様子が見えない。。

「人の気配がありませんね」

 大抵の家からはそろそろ夕飯の支度をはじめてもおかしくない。
 しかし、その小屋の煙突からは煙が上っていない。ウッドマンの一言にカインが眉をひそめた。
 いや、そもそも部屋に明かりの一つも灯っていないのだ。この時間に、人がいる家では考えにくいことだった。

「おかしいな。今日は一日中家にいる筈なのに」

 無造作に扉を引きあけ、中に入っていく。ウッドマンもその後を追った。

 暗い部屋をランプで照らしながら、カインは面倒くさそうに部屋の燭台に火を灯していく。
 明るさの変化に目を馴らしながら、ウッドマンは部屋の中を見回した。とても狭い。
 両腕を伸ばせば壁から壁に手が届く。その壁には雑然と斧やなたが並んでいた。
 刃物類の管理としては不用心な整理だが、カインも、そしてウッドマンもそれを気にすることはない。

「納屋だ」

「……」

 納屋を真っ直ぐ抜け、別の扉を抜けた。
 先ほどよりは少し広い部屋に出る。寝具が置いてあるものの、ごくせまい空間だ。

「野郎、本当にいないのか」

「ここは」

「アベルの野郎の部屋だ」

 外から見た感じでは、せいぜい四部屋程度と言ったところか。
 納屋とアベルの部屋。あとはカインの部屋とダイニングだろう。

 カインが先立って扉を抜けて行く。そちらはダイニングだった。

 ウッドマンはすぐにその後を追わず、アベルの部屋を見回した。
 人一人生活するのにぎりぎりの広さと言ったところか。寝具と小さなチェストでいっぱいいっぱいだ。
 床が見えるのは倉庫の扉からダイニングへの扉間にある通路くらいのものだ。

 ウッドマンはチェストの上の写真立てに目をつけた。手にとって眺めてみる。
 写っていたのは三人の人物だった。正面にやや幼さが残る女性、両隣りに同年代の男性が。
 ウッドマンはそのうちの二人を知っていた。カインとセツだ。となるともう一人はアベルか。

 不機嫌そうに表情を硬くしているカイン。二人の間ではにかんだような表情のセツ。
 そしてもう一人の男は、底抜けの笑顔でカメラへピースサインをしていた。
 写真立ての裏に日付と言葉が添えられている。

 3045年4月25日、兄さんとセツと、泉のほとりで――。

 どうやらアベルの字らしい。
 あまり字を書くのは得意ではなかったらしく一文字一文字が分離していて不恰好だ。
 日付によると五年前の物らしい。

 この三人は一体それぞれどういう関係なのか。
 一瞬だけウッドマンはそう気にしたものの、そこまで興味があるわけでもなかった。
 突然リビングの扉からカインが首をのぞかせた。

「おい、お前。なにしてんだ」

「特に。アべルさんはいましたか?」

「……おら」

 苛立った表情のカインが紙を投げてよこした。
 ひらりひらりと空中を舞い、その紙はウッドマンのブーツの下に挟まった。
 ウッドマンは首だけ下に向けてその文字に眼をやる。
 焦って書いたような、しかし流暢な筆記で書かれた丸文字が、一文だけ。

『風邪をひいたのでセツのところに泊まります』

「畜生! あの野郎! 一足先に逃げやがった!」

 カインは乱暴にアベルのベッドを殴りつけた。ウッドマンはアベルの書き置きを拾い上げる。

「セツのところというのはさっきの診療所のことですか?」

「他にあると思うのかよ」

 馬鹿にしたような言い方にも、さして機嫌を損ねる風でもなく、ウッドマンは続ける。

「逃げた、というのはあなたに殺されるかもしれないと思って逃亡を図ったという意味ですか?」

「だから他にどういう意味があるってんだよ!」

 露骨に怒りをあらわにし、口角から泡を飛ばしてカインは怒鳴った。
 カインの中ではアベルは逃げてしまったのだからウッドマンに対する仕事も水泡に帰している。
 もはやこの男はさっさと帰るべきだ、などと連れてきておいて勝手なことを思っていた。

「書いてある通りの意味である可能性はないのですか? つまり、本当に具合が悪くなってセツさんのところに泊まりに行っているということは?」

「タイミングが出来過ぎだろうが! そんな都合よく具合が悪くなるもんかよ! それにおかしいじゃねえか、こことセツの診療所は一本道なんだぞ。その言葉の通りだとしてあいつがセツの家を目指したなら俺たちとどこかで落ち合ってるはずだろうが!」

 ウッドマンは、それ以上はそのことに関して追求しなかった。
 どっちにせよスケアクロウを迎えにセツの家には寄ることになる。
 いるかいないかはその時に確かめればいい。

「では質問を変えます。この字はアベルさんのものですか?」

 ウッドマンはアベルの書き置きを示した。

「知るか! あいつがどんな字を書くかなんて、俺が知るもんか!」

 やはりカインは怒鳴り声で答える。今のこの男には冷静に答えさせることはできそうにない。
 ウッドマンは写真立ての裏の字と紙に描かれた文字を見比べる。
 書く道具と、歳月による進歩と、書かれた状況を鑑みても、到底同一人物が書いたものとは思い難いものだったが――。

「昨日アベルさんを殺したと言いましたね。死体はどこに隠したのですか?」

「泉に捨てたんだよ!」

「泉というのは精霊がすむという泉ですか?」

「そうさ! 重い石を十個も付けて二度と浮き上がらないように沈めてやったんだ! それなのにあの野郎ときたら……」

「泉の精霊という方に見つかる恐れはなかったのですか?」

 そういうとカインは心底馬鹿にしたような声でウッドマンを鼻で笑った。

「っは! あるわけねえ! あんたもさっき言っただろ、泉の精霊は盲(めしい)なんだよ! だから彼女には眼には映らない真実が見えるのさ! そうさ、だから彼女は俺の本当の気持ちも、アベルの醜い本性も……」

 そうか――。

「カインさん、最後に一つだけ聞きますが、あなたは彼女の物だという金の斧を知っていますね?」

 刹那、カインの顔色が変わった。

「――あんた、なんでそれを知ってる?」

「把握しました。仕事をお受けします」

「あ?」

「アベルさんを殺しましょう。報酬はその金の斧で」

 カインはしばらく茫然としていたがやがてげらげらと下品な笑い声をあげた。
 ウッドマンはやはり無表情だ。無表情というよりも、その顔は無機質という方がいいのかもしれない。
 しゃべるというだけで、後は人形と変わらない。
 ウッドマンが精巧なしゃべる人形だと言われてもカインはそれをすんなりと受け入れるだろう。

「何言ってやがる! アベルの野郎には逃げられちまってるんだぞ!」

「いいえ、彼はおそらくセツさんのところに……いや、この場合は、うん、セツさんのところにいるはずです。少し調べたいことがあるので、私はしばらく町の方に行きます。代金は後払いということで」

 そう言うとすたすたとウッドマンは来た通り物置に続くドアを抜けてそのままカインの家を出た。
 カインは慌てて後を追う。
 引き受けるとも言っていない殺し屋を現場に連れてくる依頼人と、依頼人が、依頼が無くなったと思われる段階で引き受けると言いだし仕事を始める殺し屋。
 双方勝手であるという点においては非常によく似ていたのかもしれない。

「おい、待ってくれよ。どういうことか説明しろ」

「説明してもあなたには理解しがたいことだと思います。アベルさんを殺すためには、まずアベルさんが『どこまでで生きていることになっているのか』を調べなくては」

 カインはウッドマンの言葉を少しも理解できなかった。
 ただあなたには理解しがたいという言葉に言いようのない侮蔑が含まれているような気がしてしゃくだった。

 ウッドマンはどうやらセツの家に向かっているらしい。アベルに会うためだろうか。
 だが、セツの家で殺しをしてもらうのは困る。
 セツには――彼女は無関係だし、気のいい友人である。
 カインとアベル――兄弟同士の問題なのだから、そこに彼女を巻きこみたくない――カインは、それは彼にとってはとても、とても珍しく殊勝な心もちで、そう思った。

「おいあんた、仮にアベルがセツのところにいたとして、そこでいきなり殺しにかかられても困るぜ! セツは関係ないんだからよ。アベル殺しの依頼者がオレだとばれるようなやり方はまっぴらだぞ!」

「彼女は無関係ですか……、そうですね」

 それきり黙ってしまったウッドマンに、カインは事情を分かっているのだろうかと心配になる。
 表情が変わらないのでこの男は何を考えているのかまるで判別がつかないのだ。

「アベルさんは」

「あ?」

 長い沈黙の後、ウッドマンは口を開いた。

「顔に包帯を巻いていると言いましたね。何か理由が?」

「ああ、五年前のことだよ。オレ達二人は少しでかい木を倒してたときさ。樵にはつきものの事故だよ。あいつの方に木が倒れちまったんだな。それで顔が潰れちまって。セツに何とか助けてもらったが、以来あいつは顔を包帯で巻いて、町にも出なくなった。いい気味だよ」

――また、セツ。

「カインさん、あなたは合計で何回アベルさんを殺しましたか?」

「なんだその合計で何回ってのは。一回きりだよ。その一回が、あいつが生き返るもんだからあんたに頼んでるんだろうが」

「では、アベルさんが死んだ後、泉の妖精には会いましたか?」

「……会ってねえな。彼女は聖職者だ。穢れは持ち込めねえ。オレはオレのみそぎがすむまで、彼女には会わないと決めてる。彼女には血の穢れはなじまない」

 そんな話をしているうちに二人はセツの家についた。
 カインは診療室にろうそくがともっているのを見る。患者がいない限りあそこに明かりがつくことはない。
 ウッドマンの連れの子供のためだろうか。いや、セツなら客を診療室には泊めないだろう。
 ということはカインたちが離れている間に、病人が来たのだ。――アベルが来たのだ。

 玄関のドアを叩くとスケアクロウが顔をのぞかせた。
 ウッドマンの姿を見るなり満面に笑みを浮かべておかえりウッドマンと大きな声で言った。
 そしてドアを開けてその巨躯に抱きついた。
 犬でもあるまいに、よほどウッドマンという男は好かれているらしい。

「セツはどこだ?」

 カインは二人の邂逅にも構わず言った。
 スケアクロウはそっちの部屋だよと診療室をさした。
 カインが診療室に行こうとすると、ウッドマンにべたべたくっついていたスケアクロウは、脱兎のごとく離れてすかさずカインの正面に立ち、両手を広げてカインを制した。

「ダメだよ! 今は入っちゃダメだよ!」

「アベルが来てんだろう? オレ達はそいつに用があんだよ。いい子だからそこをどきな」

「ダメダメ! アベルって言う人はすごい怖い病気なんだよ! うつったら死ぬかもしれない怖い病気なんだって。えっと、ぺす、ぺす……」

「ペスト(黒死病)」

 言い淀むスケアクロウにウッドマンが助け船を出した。
 スケアクロウはそうそれと我が意を得たりとでも言うように手を叩いて言った。

「ペストだって?!」

 カインはその病気の名前に色を失った。ペストと言えば――恐ろしい病の一つだ。
 親が死んだのもその病気が原因だったはずだ。カインは覚えている。
 段々に黒い班が体にできて、血を吐いたこともあった気がする。両親とも医者がペストだと言ってから一週間もたたないうちにあっという間に死んでしまった。
 二人が、具合が悪いと訴えてから十日もたたないうちにだった。
 それから町には同じ病気があふれ、一時町の人口は半分になった。
 それはカインの記憶にはいまだに忘れられない恐ろしい記憶として残っている。

「おいおい、冗談じゃないぜ……いや、それは、冗談じゃねえ」

――今すぐにこの家を出て手を洗おう、いや、風呂を沸かして風呂に入った方がいい。ここにいるのは危険だ。

 その時、診療室のドアがゆっくり開いた。
 カインは身構えたが、中から出てきたのはマスクで顔を覆ったセツだった。
 白衣の端に赤い大きなしみがついている。血液だろう。

「おいセツ! ……マジかよ」

「見た感じでは九分九厘そうだね。でも大丈夫、ペストは、今は治る病気だからね。さっき薬を投与したから、ペスト自体はすぐに治ると思う。心配しなくていいよ。ああ、でも旅人さん、ちょうどよかった。あなた達はここじゃなくて別の宿を探した方がいい。スケアクロウ君は感染してないだろうし、あなた達から他の人に移ることはないだろうけど、ここにいるのは危険だからね。カインの家に泊まるのも薦めない。アベルがいたところだからね。カイン、あんたは少し問診したいからここに残って」

 カインは戦々恐々だった。もし自分がペストにかかっていたら。
 両親の死にざまを思い出す。そうだ、ペストの死体は焼かれてしまうのだ。そんなのはひどい。
 死んだ人間を焼くだなんて冒涜以外の何物でもない。

――ああ畜生、どうする、自分は感染してる可能性が高いぞ。なんと言ってもアベルを殺すときに血を浴びているじゃないか。くそったれ、あいつがペストなら、それこそ殺す必要無かったじゃないか。待ってれば勝手に死んでいくものだったのに。

「くそっ!」

 カインは机をドンと叩いた。その行動がどんな感情の発露であったかはおそらく誰にも分からなかった。

 ウッドマンとスケアクロウはその後すぐにセツの家を出て、セツが紹介してくれたガーフィールドという人が経営する宿に向かった。
 もう昼間営業の店が店じまいをするような時間である。
 ようやく見つけたその宿は食事なし、布団なし、代金前払いという何ともいい加減なところだったが、事情を話すと店主のガーフィールドは快く泊めてくれた。
 スケアクロウは眠そう、というよりほとんど寝ているような状態だった。
 この少年は、朝はとびきり早いが夜も相当に早い。
 まだ夕飯も食べていないはずだったが、この様子を見るとお腹が減っているようではないから、セツのところで何か食べたのかもしれない。

「ご飯は食べたのか?」

「うーん、セツさんが……」

 どうやら食事は済んでいるようだ。
 ウッドマンはスケアクロウを狭い部屋に寝かせて上から毛布をかけ、食事を取ろうと夜の街に出かけた。
 昼にロベルトの店を食いつぶしたといううわさはもう周知の事実になっており、ほとんどの店はウッドマンの顔を見るなり出てってくれという始末だったので、ウッドマンのその日の食事は屋台のホットドックのみとなった。
真実の泉と殺人の依頼
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 朝

 眼を覚ましたスケアクロウは、どうやら自分が置いて行かれたということを理解するのにしばらくかかった。
 もちろん連れあいのウッドマンに置いて行かれたのだ。

 スケアクロウはとりあえず目を覚ましてまず部屋から出て部屋を降り、一階に備え付けられている共用のトイレで用を足し、表へ出て井戸の水で顔を洗った。
 防寒・砂避け・日除け・寝具その他諸々を兼ねるいつも身につけているお気に入りの黒いマントでごしごしと顔を拭い再び部屋に戻った。

 部屋のドアを閉めてようやく同じ部屋にいたウッドマンがおらず、それだけではなく彼が持つ荷物も何一つないことに気付いた。
 昨日ほとんど眠っている状態で宿にやってきて、おそらくそのまま寝かされたのであろうスケアクロウは、改めて部屋をまじまじと見る。

 背中にドアがある。目の前に窓がある。窓の前には小ぶりのタンスがしつらえてある。
 自分がくるまって寝ていたのはごわごわした安っぽい毛布だった。
 多分普段はあのタンスに入っているのだろう。他には何もない。
 タンスの上に溶けてすっかり小さくなったろうそくを載せた蝋燭立が立っていて、盆に載った水差しと逆さまに置かれたコップ、そして何かの紙包みがあるだけだった。
 ここは宿屋と呼んでいいのだろうか。せいぜいが雨風をしのげるというだけではないだろうか。

――それだけ安いのかしら、とスケアクロウは考えた。
 スケアクロウの中の乏しい宿ランキングでも五本の指に入りそうだ。
 それともこの部屋だけで、他の部屋にはちゃんとした設備があるのだろうか。
 ウッドマンとの旅は、贅沢はしないが、ここまで何もない宿に泊まるというのも珍しい。
 この部屋には寝台すらないのだ。

 とりあえずタンスの上の紙包みを開いてみる。それはどうやらウッドマンが買ったらしきホットドッグだった。
 スケアクロウのお腹が小さく音を立てた。食べていいものだろうかと思う。
 ウッドマンの許可なしに、という意味と、このホットドックが安全だろうかという意味で、だ。

 なおも空腹を訴える胃袋にスケアクロウはまあいいやと結論した。
 水差しの水をコップに注ぎ、冷えたホットドッグをほおばる。冷えていてまずかった。
 しかし腹の虫はおさまった。

 そして自分が寝ていた麻布をきちんと折りたたんで一番下の段にしまう。することは一つもなくなった。

 ……。

「……暇だい!」

 スケアクロウは一言そう言ってみる。暇の一言で済ませられたらまだましな方である。
 スケアクロウは不安で一杯だった。もしこのままウッドマンが帰ってこなかったら。
 自分は足手まといだと、見捨てられたのでは――。
 開け放した窓の向こう側で小鳥たちが飛び回っている。しかし小鳥達は歌うばかりで、返事を返してくれるわけでもない。
 もちろんウッドマンはちゃんと帰ってくるよ、などと言うわけもない。
 むくれたスケアクロウはもう一度言ってみた。

「暇なんだってば!」

 帰ってくるってば。自分の口から出た言葉はそう聞こえた。
 鳥達はもうだいぶ高い朝日に向って飛んで行ってしまった。
 ああ――君達も行ってしまうんだな。

 スケアクロウはチェッと舌打ちをして部屋の中を振り返る。
 勿論部屋の中にも、返事をしてくれる連れはいない。

 スケアクロウは窓から見える太陽がいつもより若干高いことに気付き、それはどうやら自分が起きる時間が普段より若干遅かったということを意味するのだと理解する。
 要するに寝坊したのだ。もちろんそんなことでウッドマンが自分を置いてけぼりにするとは思わなかったけれど、だからと言って絶対にそんなことはしないとは言えなかった。        
 念の為に部屋の箪笥も調べたのだが、出てきたのは痩せこけた鼠と名も知らない真っ黒な虫だけだった。
 引き出しを開けると青いタヌキが出てくるというのはウッドマンが話してくれたのだったか。
 スケアクロウはついぞ見たことが無い。

 今すぐに出て、ウッドマンを探すべきだろうか。
 スケアクロウは夢現に通り抜けた昨日の宿泊の手続きを思い出す。
 ウッドマンは確か、入口の脇に座っていた痩せた老人に多分お金を渡していた。
 つまりここは前払いの宿と言うことだ。ウッドマンが払ったのは一日分の宿代だと思う。
 ならば――延長時間分の割増料金を請求される前に宿を発たなければ、スケアクロウには払うお金が無い。
 出せるものと言ったら服と麦わら帽子くらいだが、いくら粗略な宿だからと言って、これらで足しになるとも思えない。
 そもそもこの麦わら帽子は絶対あげられないスケアクロウの父親の形見なのだ。

 その時、スケアクロウはホットドッグを包んでいた紙の表面に文字が書いてあることに気付いた。
 スケアクロウは教育を受けたわけではないのでまだあまり字は読めない。
 だから、ほとんど定形句でかろうじてスケアクロウが覚えた簡単な文字が走り書きで記されていた。

――やど から でるな。すぐ もどる。かね は しんぱい ない。 トレイズ

 紙にはそう書かれていた。スケアクロウはその文面を何度も読み直し、そして安心した。 
 トレイズというのはウッドマンの名前だ。彼が戻ると言うのだから、彼は絶対戻ってくる。
 スケアクロウはウッドマンに全面の信頼を置いていた。
 ウッドマンは約束を破らない――それはスケアクロウの中は真理に近いものだった。

 しばらくの間は箪笥に潜むウッドマンを想像して思わず笑ったりしていたのだが、すぐに退屈を持て余すようになってしまった。
 もう不安はなかったけれど――依然として暇だった。

 窓から離れたスケアクロウは腕組みをしながら部屋の中を行ったり来たりする。
 その度に腐りかけの床が不機嫌な音を立てた。

「ウッドマンは出かけてしまった。オレは部屋に残されてしまった。このままでは退屈で死んでしまう」

 スケアクロウは芝居がかった仕草で考え込むポーズをとる。
 退屈で死ぬ以前にこのままではお昼になる頃には餓死しているかもしれないなと、スケアクロウは思った。
 昼まではまだたっぷりと時間があったが、それまでにウッドマンが帰ってくる確証はない。

「しかしウッドマンは宿から出るなと言った。宿から出るなと言った。……宿から出ちゃあいけないのか。うーん」

 顎に手を当てて唸ってみる。

「これは難しい問題だぞ」

 箪笥から出てきた鼠がスケアクロウの足元でチューと鳴いた。
 行き場をなくして部屋を彷徨っているうちに、ぎしぎし鳴る床に驚いて迷走しているらしい。
 スケアクロウはポーズを解いてしゃがみ込む。あちらこちら走り回る鼠に相談してみた。

「ねえ、どうすればいいかな?」

 ネズミはスケアクロウから離れていき、ドアの方へ走って行った。
 立てつけの悪いドアでやたら固いくせに上下に大きな隙間があいている。
 鼠は隙間から部屋の外に出ていってしまった。

 スケアクロウはしばらく鼠の出ていったドアをぼんやり眺めていた。
 が、やがて妙案を思い付きにんまりと笑った。

「ウッドマンは宿から出るなとは言ったけど、部屋から出るなとは言ってない!」

 途端に元気づいたスケアクロウは部屋から飛び出した。
 それから小さな探検と称して宿内をすみずみまで歩いてまわった。
 スケアクロウは寝起きにトイレに行くために部屋を出て、しかも顔を洗うために宿からも出ている事実はすっかり忘れていた。
 その結果分かったことが幾つかある。

 一つ目は、どの部屋も平等にぼろぼろだということである。
 一等室二等室というように部屋ごとに格差があるわけでもなく、全ての客室に手入れがされていない。
 もはや客室と呼んでいいのかどうかすらはっきりしない。

 二つ目は、この宿には今ウッドマンとスケアクロウ以外の宿泊客がいないらしい、ということである。
 全ての部屋を勝手に見て回ったのだが、使われた痕跡が特にない。
 当然と言えば当然かもしれない。食事もつかずロクな設備もない前払いの宿場である。
 客が寄り付かないのも頷ける。それにこの街にはそもそも旅人という来訪者が少ないのかもしれない。
 温泉もなければ風光明媚なところがあるわけでもないように見える。
 ウッドマンは何か特別な泉があると言ってきたところだが、それにあやかりに他の旅人がこの町にいる様子もなかった。
 街道からも外れているから、用事がなければ誰もやってくることはないのだろう。

 三つ目。この宿屋は三階建てだが粗末な造りの建物である。
 一階にカウンターがあり、二階より上が客室になっている。
 立地条件が悪いのか、ワンフロアにせいぜい二部屋と言ったところで、三階に至っては屋根裏部屋同然である。

 そして四つ目に、この宿にはどうやらかなり広い裏庭があるらしいことだった。
 宿の裏手には公園とも空き地ともつかない草原が広がっていた。
 初めは宿とは関係ないのかと思っていたのだが、どうやら一階から草原に繋がるドアがあり、草原は木の板で四角く区切られていた。
 そしてところどころに木の棒が等間隔に立っている。

――お墓だ。

 墓碑は石と相場は決まっているものだが、その光景を見てスケアクロウは直感的にそう思った。
 棒の数は十や二十では到底足りない。おそらく百本を超えているだろう。この土地代々の墓所なのだろうか。

 三階の窓からそれを俯瞰したスケアクロウは何だか見てはいけないものを見た気になった。
 そして同時に、自らの小さな冒険が終了を迎えたことを悟るのだった。

「ううん」

 スケアクロウは一階まで階段を下りる。カウンターには誰もいなかった。
 結局スケアクロウの探検は、自分が誰もいないがらんとした宿場に一人残されたことを確認することで終わりを告げた。

 窓が少なくどんよりとした空間には暇つぶしを見つける要素がなかった。
 出来そうなことといったらせいぜい壁の木目を何かに見立てて想像を膨らませる程度のこと。
 これでは部屋に閉じこもっているのとなんら変わらない。

 そんな生産性の無い暇つぶしをしているのは、そうでもしないとこの建物とあの墓がどういう関係なのかを考えてしまうからだった。
 スケアクロウが知る知識の中に宿泊と墓地という単語に引っ掛かる説話があったからだ。

 いくつもパターンがある『入っていく人はいるが出ていく人はいない館』の話である。
 それは宿泊客の身ぐるみを剥いで、最終的に殺してしまう悪辣な主人が営む宿屋というのが真相とされる。
 もちろんその話には宿の裏手が墓地になっているなんて言うタイプのものはないし、よくよく考えれば金目当てで客を殺す宿の主人が、わざわざ被害者の墓を作るわけもないのだが、そこまで考える前にスケアクロウは冷静さを失っていた。

 なぜなら――。

 なぜなら、ウッドマンは現にいなくなっているのである。
 ウッドマンが既に殺されていないとどうして断言できるだろう。荷物も残っていなかったじゃないか。
 それはちょっと出かけてくるという次元の出来事ではない。
 ウッドマンは出かけようとしたその直後に、あのカウンターに座っていた宿屋の老人に後ろから――。

 その時、スケアクロウの耳にザクリ、ザクリと音が聞こえた。
 それはシャベルで土を掻く音にのようだった。
 言い方を変えると穴を掘る音のようでもある。
 スケアクロウはカウンターの中に入って、カーテンで区切られた部屋の内側を覗く。
 カーテンの裏側が一段高くなっていて、そこにテーブルやら雑多な小物が置いてあった。
 どうやら主人の老人が寝起きする部屋なのだろう。
 そしてカーテンの正面、ずっと下がった地面が続くその先に、ドアがあった。
 あの裏庭に続くドアに違いなかった。
 スケアクロウは恐る恐る近づいてドアに耳を当てた。

 ザクリ、ザクリ。

 穴を掘る音が絶え間なく聞こえる。何の穴だろうか。相当に大きい穴ではないだろうか。
 だってこんなに掘っているもの。
 例えば――人間を埋めるような穴。
 老人が穴を掘る傍らに、頭を割られたウッドマンがいないとどうして言いきれるだろう。

『アンタんとこに泊っていると聞いたぜ。どんなやつらなんだ』
『知らんよ、儂にゃあ興味がない。そんなに知りたきゃ自分で見て来い』
『つれないなぁ、じいさん。こうして新聞を持ってきてやったのに』
『別にお前に持ってきてもらわんでもうちは一向に困らんよ。暇つぶしに読んどるだけさ』

 ふいにシャベルの音が止まり、老人と、そしてもう一人、若い男の声が聞こえた。
 しかし断じてウッドマンの声ではない。何気ない会話だが、スケアクロウは聞き逃すまいと耳を澄ます。
 ドアをちょっとだけ開けてみようかとも思ったが、立てつけの悪いこの宿のとびらなら、大きな音がするかもしれない。
 もしスケアクロウがここにいることがばれれば、それが意味するものは一つしかなかった。

『それでさ、アンタんとこの滞在客、ロベルトの飯屋を食いつぶしたんだと。一人前の昼飯をなんと数十人分! とんだ化け物じゃねえか』
『ああそうかい、儂は興味がないとさっきっから言っているんだがな、早く新聞を渡してくれないかね』
『まあそう言わずに。それで気になることだが、その男が小さな子供を連れてるらしいじゃねえか』

 スケアクロウは話題に上がっているのが自分であることに気がついてますます息をつめた。

『町中あちこち、その男と子供が何者かって噂の嵐だぜ。じいさん聞いてないのか?』
『そう言えば酒を届けにきた奴が何かぐだぐだと喋っていた。正直この街に来るような旅人なんてのは、胡散臭いだけだ』
『確かに。こんな寂れ切った町にあんのは木と酒と――くらいのもんだ』
『おい、軽々しく口を滑らすな若造』

 一瞬老人の声に明確な怒気がこもって、スケアクロウはびっくりした。
 何のことだろう。スケアクロウにはよく聞き取れなかった。

『どうせだれも聞いちゃいないよ。心配性なじいさんだ』
『お前が軽薄なんだ。いいかそれは町の秘密だ。男と子供も――それが目当てかもしれん』
『そうさ、それで、だ。じいさんあの男と子供ってどういう関係だと思いなさるね』

 じいさんと呼ばれている宿の主人は、不機嫌そうに適当な返事を返す。相手の男はお構いなしに話を続けた。

『取り敢えず出てるのは兄弟とか親を失った子を引き取った親の弟とか……でも一番濃厚なのは人買いだな』
『なんだろうとおかしかないね。儂が子供の頃からこの世界はイカレてるらしい。気になるならお前が確かめればいいんだ。聞けば隠すような関係じゃないかもしれん。はたから見て怪しいからそういういかがわしいうわさで盛り上がるのは、儂ゃ好まんね。そう教えられた』
『誰に?』
『儂の親だ』
『ふうん。まあそれは置いておいて、俺はそれとは違う別の説を支持するね』

 男は間をおいて吟遊詩人が物語を語るように喋った。

『かどわかしだよ。あの子供はどこかのお偉いさんの坊ちゃんか何かで、あの男は子供を拉致しているっていうわけさ。この町に潜伏して身代金をふんだくるって寸法さ』

 何を言うんだこの男は――! スケアクロウは口を曲げて、音を立てないように憤慨した。
 どうやらこの町でウッドマンとスケアクロウは歓迎される存在ではないらしい。

『ああそうかい。話しに付き合ってやったんだ、新聞は渡して貰うよ』
『あ、じいさん、勝手に取るなよ。話はまだいろいろあるんだぜ』
『鏡に映った自分の顔にでもしてやんな。いつも暇そうにしてる』
『暇そうにしてるのはあんたもじゃないか』

 宿の主人は答えない。話を切り上げて宿の中に戻るつもりなのだ。
 スケアクロウは慌てて回りを見回した。隠れられそうな場所はどこにもない。
 このままでは間違いなく見つかってしまうだろう。

『なあ、じいさん見たんだろ。あの二人、どんなだった』
『さぁね、まあお前さん達の想像は大方外れだよ。儂ゃこれでも人を見る目には自信があってね。血縁っていうのはないだろうな。顔かたちがまるで違う。男の方はよく見りゃあれはなかなか色男じゃないか。顔に気品がある。だがガキの方はまるで品もない。誘拐もないだろうな。良くて商人の子じゃないかね。とてもじゃないが金に縁があるとは思えない。身のこなしも粗野だ。九分九厘百姓か物乞いの類だろうね。男がガキを買ったっていうのはあるかもしれんな』
『買った? 何のために?』

 スケアクロウは品が無いだの金に縁が無いだの百姓だの物乞いだのさんざんな言われようだったが、そんな事に頓着はしていなかった。
 それよりも、お前らはそのウッドマンを一体どうしてしまったんだ――。
 二人がそのことを洩らさないか、スケアクロウは堪え切れない思いだった。

『仕事を手伝わせてるわけでもないだろうな。そういや、あの二人は昨日セツ先生の家の方から来たんだっけね』
『ああ、そうだぜじいさん。ロベルトの飯屋の次に先生の診療所によってその後あんたのとこにきてんだ。確かに変な足取りだな。先生の家なら泊めてくれそうなものだが』
『何らかの……悶着があったんだろうな』
『何だよ悶着ってのは』

 例えばの話だが、と老人は声をひそめていった。

『ハーメルンの笛吹きの話を知っとるか?』
『男が笛を吹くとネズミがぞろぞろって奴だろ?』
『ありゃな、おとぎではない。事実だ』
『おいおい、笛を吹けばネズミが集まったり、子供が行列作ったりしちまうのかよ』

 ハーメルンの笛吹き男の話――スケアクロウもその話は知っている。
 ネズミが増えすぎて困っていたある町に一人の男がやってきて、ネズミを退治して見せようと町の主に話を持ちかける。男は笛を吹いて町中を歩くと、その笛の音に引き寄せられるように町中のネズミが集まって、男はそのまま歩いて河を渡る。すると後に続くネズミたちはみんな溺れて死んでしまう。男は報酬を求めるが町の人々は払い渋る。すると男はまた笛を吹いて町中を歩く。すると今度は町中の子供たちが操られたかのようにその笛の音に引き寄せられて、男とともに姿を消してしまうと言う話だ。
 知ってはいるが、それが事実だなんて聞いたことが無い。

『ハーメルンっていや西の方じゃ。その笛吹き男はネズミを退治し子どもを集めておったのだ』
『何のためにだい?』
『男は魔法使いだった。ネズミを退治したのは笛吹き男がネズミを操る魔法使いだったからさ。自分が操るネズミを使って病を媒介し、それを退治して町から金をとる。そういうペテン師の魔法使いだったのさ。でも、その正体がハーメルンでばれて、金をもらえなかった腹いせに、魔法で子どもたちをさらって行った。恐ろしい、悪い魔法使いだよ』

 老人の言っていることはスケアクロウにはさっぱりわからなかった。
 そもそもよく聞こえない扉越しの会話である。
 いや、仮に正面で言われてもスケアクロウには理解できない内容だろう。

『へえ、良く知ってるな爺さん』
『知ってるとも。ハ―メルンの笛吹き男はこの町にも来たからな。ちょうどわしが今泊まってるガキ位の頃だよ。黒死病が流行ってな。町にやってきた男は十人程度の子供を連れていて、やはりネズミを退治して、この町から大金と、子供を幾人か連れて行った』
『へえ』
『今でこそ宿なんて言ってるがな。ここはもともと病院さ。ここに並んでるのはみんなここに運ばれて死んだ連中だよ。ひどい時代だった。親父も黒死病で死んで、それから医学の分かる奴はセツ先生だけになったもんで、ここは宿にしちまったがね』

 それではやはり、ここは訪れる人が二度と出てこない宿で、裏庭は墓所なのだ。
 ならば、今掘っている穴は――誰の墓穴だ。ウッドマンだろうか。

『で、それが何であの二人の話になるんだ?』
『だから魔法使いじゃよ。あの男は魔法使いで、今にこの町でペストを流行らせだす。そしてさも自分がそれを何とかできるように言って、ネズミを退治し始めるのさ。子どもは別の町であの男についてきちまったんだろう』
『ああ、そういうことかい。ふうん……でもじいさん、その推理には大きな穴があるぜ』
『こんなの推理でも何でもあるまい。穴とはなんじゃな』

 穴――、ウッドマンのじゃない。それはきっと――スケアクロウの入る穴だ。

『まあその男がハーメルンの笛吹きよろしく町から町へ病気うつして回って金儲けしてるってのはいいさ。だけどな、あの二人がここに来た理由が説明できてないぜ。男がハーメルンなら、もっと金と人のいそうな町を狙うはずじゃないか?』
『男が魔法使いなら何の不思議もないさ』
『訳知り顔だなじいさん』
『十中八九泉が目当てじゃろう』

――泉? スケアクロウの耳にその言葉は引っ掛かった。

『おいおい爺さん、そりゃ禁句だったんじゃねえのかよ。さっき俺が言ったときは随分ひどいことを言われた記憶があるが』
『そいつは白昼夢って奴じゃな』
『たく、都合のいい爺だ。しかしなるほど、魔法使いなのか……なら、そうだな。欲しがるはずだ』
『真実の泉――鉄の斧を落としたと答えれば、鉄の斧のほかに金の斧と銀の斧を。病の娘を失ったと答えれば娘を返し、病さえも癒し、手足を失ったと言えば、より屈強な肉体を返してくれる魔法の泉。ネズミを操って小金を稼ぐより、ずっと多くの富を得られるじゃろう』

 スケアクロウの心臓が早鐘を打つ。ウッドマンが言っていたのと同じ話だ。
 それじゃあやはり、この町にあるのか――ウッドマンの心臓を元に戻すすべが。
 ガン、と空っぽな音を立ててそれは思いのほか大きく響いた。
 スケアクロウは慌てるあまり戸口の横に置いてあったバケツに足が当たってしまった。

『ネズミか?』

 若者が言った。

『ああ、ネズミさ。悪いネズミだ。黒死病をうつす』

 老人が低い声で言った。
 スケアクロウは慌ててドアを塞いだ。

『じゃあな』

 ドアが押される。スケアクロウの背で木がぎしぎしと悲鳴を上げた。

『おや?』

 二度三度と扉が押される。スケアクロウがぴったり押さえているため扉は動かない。

『もともと硬かったが……ついに開かなくなったかな?』
『じいさん建物の修理ぐらいしろよ』
『うるさい』

 足音と話声が次第に遠くへ去っていく。
 表口へ回ったに違いない。宿はそう大きくないから回るといっても大した距離にはならない。
 すぐにこっちにきてしまう。だから、カウンターを通って元の部屋に戻ろうとすれば、玄関から来た老人と鉢合わせになるかもしれない。

――どうする。

 迷っている間にも時間は過ぎていく。もはや後ろからは何の気配も感じられない。
 玄関からドアの開く音が響いた。もうこの部屋までは目と鼻の先だ。
 隠れろ、どこへ? 逃げろ、どこへ? どこでもいいから、早く――。
 スケアクロウはとっさにさっきまで自分が開かないように押さえていた背中の扉から宿の裏にある墓地に飛び出した。

 飛び出した瞬間に鼻をつくひどいにおいにスケアクロウは吐きそうになった。
 そしてハエの群れにたかられる死体を見て息を飲む。ウッドマンではない。
 着ている物の形から辛うじて男だと分かる。ふと傍らに新聞を持っているのが見えた。
 それでは、さっきまで老人と話していたのは一体――。
 スケアクロウは恐ろしくなって墓地を囲う塀をよじ登って宿を出た。

「……なんだ? 開くんじゃないか」

 老人は軽く開いた木戸を見て小さくため息をついた。部屋には誰もいない。
 あの旅人はどうやら戻ってくるらしいが。今夜くらい食事を出そうと色々作ったが、おかげで大量の生ゴミが出た。
 ゴミ捨ての穴を掘るのも久しぶりで、老人は再び穴を掘りに戸を開け裏庭に出た。
 これが終わる頃には昼時になっているだろう。子供の方は起きているだろうか。お昼でも差し入れてやろう。

 老人は肉刺のできた手にシャベルを握った。
 傍らには新聞を持ってきた青年がまだふてくされたような顔をして突っ立っている。

「お前さんもどうだね、その旅人とやらと昼飯でも食わんか」

「いや、オレは遠慮しておくよ。君子危うきに近寄らずってね」

 老人は若者の声色で自分の問いかけに自分で答えていた。
 ハエが耳障りな羽音を立てて飛び交っているのにも、老人は気付いていない。
 もちろん自分が話しかけている相手がとうに死んでいることも、その相手が自分の息子だということも、老人は気付いていない。
真実の泉と墓守の宿
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 正午

 街中で飯屋を営むロベルトは、店のカウンターを一人占領し、酒に溺れていた。
 彼はグラスに並々と注いだ酒を煽る。すでにかなり酔いが回っている。
 それは決して心地よいものではなかった。

 目を閉じて、耳を澄ませばいつものように粗野で下品な町の男たちの浮かれた鼻歌や、血気盛んな奴らの罵りあいが聞こえてきそうだ。
 安っぽい町女の香水だって半径三十センチの至近距離に今にも嗅ぎ取れそうなのに。
 目を開ければがらんどうの店。昼飯時だというのに看板を掲げることもできない。
 貧乏な酔っぱらいの気軽な歌も、その貧乏な酔っぱらいからなけなしの金を得ることに必死な女の香りも、全て幻覚だ。
 誰もいない飯屋ほど寒々しいものもなく、しかもそこの店主がふてくされて安酒を飲んでいるともなれば不景気なことこの上ない。
 ロベルトはそんなことを思って一層ささくれ立った気持ちになる。

――いっそ昨日のことをなかったことにできるなら。

 昨日店に訪れた奇妙ないでたちの、陰気な旅人が全ての元凶だった。
 彼が店の食料をほとんど食い尽くしてしまったのだ。
 もっとも、祭りや祝い事の時に大勢で囲むための特別メニューであるタンシチュー五十皿を空にできるか、という大食い勝負を吹っかけたロベルトが悪いと言えばそれはそうなのだが。
 賭け事に負けて勝った方を恨むのはそれこそお門違いだろう。
 いざ負ければこの結末を十分に予測することはできたわけだし、そのための時間だって十分にあった。
 でもそれ以上にロベルトは自分の店のタンシチューのボリュームへの自信の方が大きかった。
 絶対に食いきれるわけがないと思っていた。

 この町の流通はかなり悪い。そもそもこの町自体がいわゆる新天地開拓のその前線にあたるからである。
 否、あたっていたというべきだろう。
 ロベルトの両親が子供の頃の話だとロベルトは聞いている。
 この辺りはここからはるか遠く離れた中央政府からの命により、国を挙げて国土を開拓する事業の一端だったのだと。
 当時はフロンティア・クレタなどと呼ばれ、大いにこの町も潤っていたらしいが、自分の両親から聞かされるそんな昔話は、さびれた片田舎という印象しかないロベルトたちの世代にとっては、年寄りの現実逃避に過ぎなかった。

 その両親ももう死んだ。ペストだった。
 ロベルトは週に一度しかやってこない商人から一週間分の食料を買って、次の週まで店を切り盛りするのだ。
 辺境の町まで食料を届けてくれる卸売は、その馴染みの商人くらいのものだ。
 この町の地面は畑には向いていないらしく、農家はほとんどないし、あったとしても育つのはせいぜい芋くらいしかない。

 だからこそロベルトの飯屋はある意味では絶対に潰れる心配のない店だったが、それゆえにロベルトの店の休業は町の多くの人に空腹を与えているはずだった。
 その事実もさらにロベルトを悩ませている。
 気が付けば頭の中に響く酔漢の歌声は、いつの間にかロベルトを非難する声に変っていた。
 餓えて、ロベルトの軽挙を罵倒する怨嗟の声。

 普通に堅実な商売をやっていればよかったのだ。
 わざわざ見も知らぬ旅人に賭けを挑んで、暴利をむさぼろうなどとわずかでも思ってしまったロベルトに神が罰を与えたのだ。
 普通にやっていれば、後五日はちゃんと営業できたであろう食糧庫を満たしていた食材の数々――そのほとんどを旅人は胃に収めてしまった。
 しかも結果として一銭たりとも払わずに、である。飯の食い上げもいいところだ。
 次の入荷まで店を開くことは難しいだろう。
 何せ倉庫に残っているのはチーズとポテトばかりなのだ。
 わずかな貯金を切り崩す必要さえ考えなくてはならないかもしれない。考えれば考えるだけ鬱になった。
 ロベルトは空のグラスを握りしめる。

 こんな時も妻は明るく振舞って彼を励ましてくれた。
 足が弱く店の上の自室から滅多に出てこない静かな女だが、その本質は気丈だった。
 そういうこともあるわよ、と笑顔の彼女を見て、ロベルトはますます情けない気分にさせられたのだ。
 ずぼらな自分に似つかわしくないほどよくできた妻だった。
 縁者のほとんどが死に絶えた今、彼女を養えるのは自分だけだ。
 その自分がしっかりしないといけないのに、逆に彼女に励まされていてどうするのだ。

 いつもは仕事に忙殺されて悩む暇などないのだが、今日に限っては仕込みの一つもできやしない。
 ロベルトはもやもやする気分を誤魔化す方法を知らなかった。
 そうなれば飲むことしかできない。自棄酒だ。皮肉にも酒はあった。
 人間が酒だけで生きていけたらどんなに楽だろう。
 酒はすぐに腐ったりしないし、一度の仕込みで大量に仕入れることができる。
 駄目になることを心配する必要もない。
 ああ、本当にそうだったらよかったのに――。

 そうやって次々と新しいボトルを開けている時だった。
 スイングドアがバタバタと音を立て、店の床がミシリと鳴った。

――客か。

 ロベルトは客の方を見ようともせずに言い放った。

「今日はやってないよ、看板が出てなかったろう」

 ところが客は帰る気配がない。ブーツで床を踏み鳴らしながら、カウンターへ向かってくる。

 ロベルトは訝しみながら、ようやくその視線をあげ、そして目を丸くした。

「あんたは……!」

 来訪客はカウンターの椅子を引くと、それに腰をかける。
 男は一見痩身だったが、腰かけられた椅子の方はやたらと鈍い音を響かせた。
 全身を黒いレインコートで覆う陰気な男、黒い長髪と緑色の瞳、感情などかけらもないと言わんばかりの鉄面皮――ロベルトの店の食材を全て平らげた旅人だった。
 ロベルトはグラスを脇へ除けると、挑みかかるように噛みついた。

「どこぞの胃袋魔人のせいで商売あがったりでな。悪いが水一つ出せねえ。昨日のようなただ飯を期待してるんならさっさと帰れ」

「……」

 旅人は無言で答えない。

「帰ってくれよ。なんだよその目は。俺のことを笑ってんのか? あ? そりゃ俺はバカだったよ。いいさ。気が済むまで馬鹿にすれば。さっさと帰れよ。帰れっていうのが聞こえねえか!」

 ロベルトはグラスを大きくカウンターにたたきつけようとした。
 しかし、その振り上げたグラスは降ろされることなく中途半端な位置で止まった。男が止めたのだ。

「そのお酒を一杯いただけますか」

「何?」

 男は無言で布袋を机の上に置いた。
 ずっしりと中身が詰まったその袋は、木のテーブルの上で金属の音を立てる。
 中に何が入っているのかは、考えるまでもなく明白だった。

 ロベルトは意図を読みかねて口をつぐんだ。
 どういう意味かを探ろうと、据わった目線を男に合わせるが、見つめ返す彼の目からは一つの意志も、微塵の感情も感じ取ることはできなかった。
 そもそもこの男にそう言った人間的な機能が備わっているのかどうかすら怪しく思えるほどに。
 その言いようのない不気味な目つきに気圧されたロベルトは、回らない頭と舌で、台詞を絞り出す。

「安酒一杯のために払う金額にゃ見えねえが」

「では代わりに面白い話でもしてもらえませんか」

「面白い、話……?」

 男はカウンターに肘を立て、その上に顎を乗せた。

「袋の中に金貨がちょうど百枚入っています。あなたが金貨百枚の価値があると思う話を聞かせてください」

 酔いが回っていたロベルトも、考えなしに頷くほど理性を欠いてはいなかった。
 軽く頭を振ってアルコールを抜こうと努める。

 ここは行き止まりの町だ。そこへやってくるということは、この町に目的があるということに違いない。
 だがその目的に思い当たる節がない。本当に何もない土地なのだ。
 目の前の男は何を企んでいるのか。ロベルトは無駄と分かっていながらも、男の考えを読み取ろうとした。

「……」

「いかがです?」

 男が袋に手をかけて、強く握る。通貨の音がロベルトの鼓膜に突き刺さった。
 ロベルトは考える。この旅行者は、あからさまに胡散臭い。
 もしかしたら町にろくでもない厄災を持ち込むかもしれないのだ。
 町の一員としては、異物を追い出すべきだ。だが。

――だが。より現実的な考えがロベルトを支配する。
 ロベルトは席を立った。カウンターの奥からグラスを持ってくると、それに並々と酒を注いだ。

「お待ち」

 男の前に酒が置かれる。不透明でツンとした匂いの酒だった。
 男は何も言わずに、それをぐっと飲み干してしまう。
 彼がグラスを置くのを待って、ロベルトの方から質問を投げた。

「で、お前さんが聞きたいのはどんな話なんだ。今の俺は酔ってるからな、いろいろと口を滑らせてやるよ」

「金貨百枚は普通の人が一生、生まれてから死ぬまで必要な金の総額に相当すると言いますね。一生に一度の話を聞かせていただきたい」

 男はそう言いながらもグラスを押し出した。ロベルトはその杯に再び酒を注ぐ。

「私達がこの村に来て、診療所に立ち寄ったことは、既にご存知ですね」

「私達? ああ、そういえば、ガキは今日一緒じゃねえのかい?」

 ロベルトは言われてようやく思い出す。
 そういえばうっとうしい子どもが男の周りを跳ね回っていたのではなかったか。
 確かいくつかの噂――というかこの男の噂はほぼ子どもと男がどういう関係かというもののみだった気がする。

「結局ガーフィールドの親父の下宿に泊まったんだってな。先生とひと悶着起こしたとかどうとか……」

 ロベルトの露骨な警戒を気に止める様子もなく、男は話を続ける。

「そこで聞きました、『精霊の湖』について……」

 途端にロベルトはなるほどと頷いた。この男はあの湖を目当てにはるばるこんな土地までやってきたのか。

 それは町外れの森の中にある、この近辺ではそれなりに大きな湖だ。
 昔からある水場なのだが、どう言うわけかここ最近おかしな噂が広がっているのだ。
『精霊の湖は失ったものを与えてくれる。自らの欠落を湖に投げ入れると、精霊が現れ、その不足を補ってくれる』と。

 なるほどその噂が外部までもれ、こんな旅人を呼び寄せてしまったのだろう。
 その程度のことは隠すものでもない、ロベルトはそういう噂の湖がある、ということについて洗いざらい教えてやることにした。

「ああ、その話か。聞いたってことはもう大体知ってるんじゃあないのか? ごく最近になって湧いてきた噂さ」

「実に興味深い噂だと思います。昔からの話ではないのですね?」

「そうだな……確かに泉に精霊がいて、種を落とせばどんな土地でも育つ種を返してくれるとか、怪我した体を泉に浸せば、精霊が治してくれるとか……まあ、本当か嘘か分かったもんじゃない。実際に効果があったと言い張ってやまない連中もいるが、所詮噂は噂さ」

「あなたはその噂をいつご存知に?」

「いつって……そんなことまで覚えていないよ」

「では三か月以上前にその噂を知っていましたか?」

「そんな細かくは覚えていないって」

 そうですか。男はそう答えて話題を変えた。

「私は泉のそばに女が住んでいると聞きました。きれいな女だと」

 ロベルトは記憶を漁りつつ宙を見た。

「そういえばそんな話もあったな。だがそっちの話は本当らしいぞ」

「おや、本当にそんな女性がいると?」

「ああ、そういう話だ。あの近辺は町から外れてるし、あの兄弟が……いや、とにかく町の目が届く場所じゃあないんだ。だから正確な話かと言われると断言はできんが、まあそれなりに信憑性の高い噂が流れているのさ。とびきり美人な巡礼者の女が住み着いてるってな」

「あなたはその人を見ましたか?」

「あいにくと女房がいるからな。そんな噂にうつつを抜かしてたら叱られっちまう」

「その噂はいつごろから?」

「だからいつとかは知らないって」

「三か月前には?」

「覚えてねえな」

「そうですか」

 男はグラスの中身を一気にあおった。
 それなりに度数の強い酒なのだが、さっきからぐいぐい飲んでいく男を見て、ロベルトはこの男は人間の形をした何か人間ではないものではないかと思い始めていた。
――悪魔とか、幽霊とか、何かそういう良くないもの。

「今の話に金貨百枚をあなたはかけられますか?」

「いや、それほど値打ちのある話じゃなかっただろう」

 男に問われ、ロベルトは正直に言う。

「ところで奥方がいらっしゃるようですね」

「ん、ああ、まあな。俺が言うのもなんだが自慢の女房だよ。気立てはいいし、我がままじゃないし、足が悪いから部屋から出られないが、なかなかの別嬪でな。俺にはホント、もったいないくらいの」

「今日、お会いになりましたか?」

「あんたが来る前にあいつに励ましてもらってたところだ」

「そうですか。ではなぜあなたは一人で酒を飲んでいたのですか?」

「だから女房は足が悪くて二階の部屋から動けないんだって」

「そうですか……」

 男は一つ頷くと、グラスを傾けた。
 空になった透明のグラスを置くと、通貨の入った袋をそのままに席を立つ。
 ロベルトは引き止めるわけでもなく声をかけた。

「行くのかい? こんな大金、本当にもらっていいのか?」

「ええ、ご馳走になりました」

「後で返せって言われたって絶対に返さないぞ!」

 ロベルトは大声で言う。男はそのまま店を去っていくかに思われたが、思い出したようにロベルトを振り返った。

「そう言えば、今朝方からカインさんの行方が知れないから探してくれ、とセツさんに頼まれました。この店には来ませんでしたか?」

 ロベルトは、さっきのそれで質問は終わりだと思っていたため、半分以上警戒を解いていた。
 特に不審がることもなく、答えた。

「知らんな。だがあいつは滅多に町には来ない。大方弟の幻影と森で仕事でもしてるんだろう」

「幻影、ですか?」

「ああ、あいつの弟のアベルは……」

 さすがに喋り過ぎた、とロベルトは口をつぐんだ。

「おいあんた、俺がこの話をしたってことは、金輪際秘密にしておいてくれるって約束できるか?」

 金貨百枚を前にその存在感にロベルトは少しの罪悪感を覚えていた。
 こんなものを本当にもらってしまって、自分はひょっとして騙されているのではないだろうか。
 そんなことを思いつつも、ロベルトは言う。

「俺はカインとアベルっていう樵の兄弟の昔話を知ってるが、聞いていくか?」

 男は是非、と静かに言う。
 ロベルトは、自分はただ昔話をしているのだと自分自身に言い聞かせ、平静を保ちつつ、会ったばかりの、そしておそらくもう二度と会うことのないであろう旅人に、町でタブーとされている兄弟の話をした。

「昔、この町にカインとアベルっていう樵の兄弟が住んでいた。兄のカインははっきり言って屑だった。仕事もまともにやらないしがさつで乱暴者だった。反対に弟のアベルはよくできたやつで頭もよかったし何より気立てが優しい。当然町でも好かれてたのはアベルの方さ。でも、アベルはよくできた弟だったから、決して兄のカインより目立ったりしないようにいつだって控えめに暮らしていた」

 ちなみにこれはこの町のカインとアベルのことじゃないからな、とロベルトは今更言い訳をするように言った。
 続けてくださいと、男は立ったまま言う。

「ところで、カインとアベルには幼馴染の女がいた。この女をセツという。三人は本物の兄弟のように近くで育ったが、それでも三人の間には兄弟には存在しえない男女の思いが出来上がっていた。皮肉にも、その思いの方向は全員が全員違う方向を向いていた。アベルはセツが好きだった。だがセツが惚れていたのはよくできた弟じゃなく、できの悪い兄のカインだった。そしてカインは――屑だからその頃あばずれの町女に夢中だった」

 よくある話ですね、と男は言う。
 ロベルトはそうともよくある話さ、と大げさな身振りを加えて言った。
 決してこの町だけのタブーを話しているわけではないと強調したつもりだった。

「ある日アベルはセツに告白する。もっともセツは告白される前からアベルの気持ちは分かっていたし、アベルもセツがカインに惚れてることを知っていた。そして、セツはやっぱりカインが好きで、振られたアベルは……町を出ていくことにした」

「どこか、身を寄せるところがこの町の外に?」

 男は淡々と聞いた。

「いや、知らねえな、とにかくここにはいたくなかったんだろう。幼馴染に告白して、振られて、それでまた明日から何もなかったように普通に、なんてことは出来ねえもんさ。だが、アベルはその前に死んじまう。旅立つ前の最後の仕事で倒した木の下敷きになっちまった」

 それは可哀想に。男の口調はあまりに平坦でいっそ白々しいほどだった。

「カインはアベルが死んでからおかしくなった。無理もないかな。カインはアベルが死んだ時もそのあばずれと一緒にいたし、死に顔は拝んでないだろうからな。もしかしたらアベルはカインが全く知らない間に消えるように葬られちまったのかもな。とにかくカインはアベルが死んだ後も、アベルが生きてるようなことを言う。街の連中は思ったね、とうとういかれちまったってな」

――それは面妖な。

 男が言う。少しもそんなふうに思ってはなさそうな言い方だった

 カインは「アベルが生きている、毎日俺をあざ笑っている」と町の者に話していたが、町の者から見ればカインが狂っているのは一目瞭然だった。
 きっと実体のない弟と共に木々の中で寝起きして、樵の仕事を続けているのだ。
 あるいはそれは、カインに残されたほんの一匙の弟に対する罪悪感の発露なのかもしれなかった。
 考えてみれば、カインも哀れな男なのかもしれない。
 アベルの兄でなければ、ただのくだらない男で済んだのだろうに――。
 ロベルトはふとそんなことを思って、あのろくでなしに少しばかり同情した。

「その後、そのカインさんと、セツさんはどうなったのですか?」

「さてね、俺が知ってる話はここまでさ。まあこの二人はうまく結ばれることはないだろうよ。結ばれないほうがお互いにとって幸せだろうしな。さっさとほかの男を見つけるべきだと思うね、セツせん……いや、セツは」

 思わずセツ先生と言いそうになって慌ててロベルトは言い直す。

「面白い話でした。その金貨百枚に値する素晴らしい話です」

「おい、これは……」

「当然、私とあなただけの秘密の話ですよ。大丈夫、その皮袋の程度には私の口は軽くないですよ」

 ロベルトは改めて革袋を手に握った。
 重さは同じでもそれが小麦の袋か人間かで、体に感じる重みは違うという。
 皮袋は見た目よりもロベルトの手にはるかに重く感じられた。

「ああ、そうだ。いつもいろんな料理のにおいに紛れているからお気づきでないのかもしれませんが、一度この家を掃除した方がいいですよ。ひどいにおいがしています。特に二階の方から」

「余計なお世話だ、二度と来るな」

 男はロベルトの捨て台詞を背中に聞きながら、またスイングドアを揺らして店を出る。
 ロベルトはその後姿にそう吐き捨てると自分のグラスに酒を注いだ。
 酒のボトルが空っぽになった。ロベルトはしまったと思った。
 また泉に酒を汲みに行かなくてはなるまい。泉に精霊が住んでいるなんてほらもいいところだ。
 あの泉の水は酒なのだ。あの泉から酒が湧くようになってロベルトは酒に不自由しなくなった。

「……あいつに飯を作ってやらないとな」

 ロベルトは窓の外から真下に照り付けるような光を見て、昼が近いことに気付く。
 ありあわせの物しかできないが仕方あるまい。それでも妻はきっと怒らないだろう。
 ロベルトがキッチンに入ってジャガイモをゆでていると、そこに小さな影が駆け込んできた。

 息せき切らしてロベルトの酒屋に駆け込んできたのは誰かと思うと、先ほどの旅人の片割れの子どもだった。
 麦わら帽子が完全にずれて顎紐だけでようやく首に引っかかっている。
 子どもはそのままロベルトの体に突進してきた。
 何事かと思って引き離そうとすると、ねっとりと透明な液体が手についた。
 涙と鼻水と汗が混じったものだった。

「うわ」

 思わず声を上げてしまったが、子どもはとてもおびえた様子で、ロベルトの白いエプロンの裾を握りしめて離さない。

「うおおお、おっ、おっ、おじさん……。う、うえ、うう、ウッドマンは?」

 子どもは涙をボロボロこぼしながらとぎれとぎれにしゃくりあげながら聞く。
 とりあえずロベルトは手拭きに使っている布巾を子どもに渡し、カウンターの席を勧めた。
 子どもは涙をぬぐい何度も布巾で鼻をかみ、それでもなおあふれてくる涙をこらえつつも、泣きわめくのは我慢しているようだった。

「どうしたい、お前、あの旅人と一緒じゃなかったのか?」

「ううう、ウッドマンはどこにいるか知らない? 朝目が覚めたらいなくなってたんだよぉ。そんで、宿の裏にはお墓がいっぱいあって、おじいさんは穴を掘ってるんだよ。それで、それで、人の、死体が、うわ、あああ……」

 記憶をたどりつつ再び嫌なことを思い出したのか泣きそうになる子どもをロベルトは慌ててなだめた。
 なだめつつもロベルトは状況を考える。
――男が子どもを連れて町にやってくる。その子どもを置いて町から出ていく。
 とすれば、これは子捨てに他ならないだろう。そうであればこの町であることも頷ける。
 ここは辺境にあるちっぽけな町である。
 大きな街に捨てれば捕えられる。山に捨てれば子どもが死んでしまう。
 殺したくはないが、育てる親もない。

 この子どもはそんな子どもなのだろう。可哀想な奴なのだ。この町に住む大半の住人と同じく。
 急にこの異質な旅人に対して、ロベルトはウッドマンには感じ得なかった親近感を感じ始めていた。

「坊主、お前、名前は?」

「スケアクロウ(助悪郎)……」

「変わった名前だな。生まれはどこだ?」

「知らない」

「親は?」

「いない」

 つまりはそういうことなのだろう。
 きっとあちこちをたらい回しにされて、あの非情な男が最後にこの子どもをこの町に捨てに来た。
 ロベルトはまじまじとスケアクロウを見た。
 身なりはぼろぼろと言っても差し支えないし、日に焼けた肌はいかにも貧しそうだ。
 太い眉毛と鼻の上のそばかすは田舎者という印象だし、実際に話し方にも知性を感じられない。
 おそらく教育など受けたこともないはずだ。

 ロベルトは今すぐウッドマンを追いかけようかとも思った。
 しかし追いかけてどうするというのだ。ウッドマンにこのスケアクロウを突き返すのか。
 そんなことをしてどうなる。別の町で同じように捨てられるだけではないだろうか。
――それよりも。

「まあ小僧、いや、スケアクロウだったな。腹減ってるだろ。ちょうど作り立てだ、って言ってもお前らが昨日食い尽くしちまったからロクなもんじゃねえが、腹の足しくらいにゃなんだろ」

 そういってロベルトは自分と妻のために作った昼食の一皿をスケアクロウに差し出した。

「え、でもオレ、お金持ってないよ」

「気にすんなよ、金ならさっきお前の連れが……」

 言いかけてロベルトは気付いた。

――この金貨百枚の意味は、そういうことだったのか。

「ウッドマンが来たの? おじさん!?」

 ロベルトは腰を落としてスケアクロウの目線に合わせてその瞳を覗き込んだ。
 きっとこの子どもは、いまだ自分が捨てられた事実に気付いていない。
 受け入れるのは困難なことかもしれない。
 これまでも何度も何度も捨てられてきたのだろう。
 ロベルトはスケアクロウの潤んだ瞳を見つめる。
 自分と同じ、この町に住む多くのものと同じ可哀想な色をした瞳。

「スケアクロウ、おじさんはな、お前の連れの、ウッドマンからしばらくお前の面倒を見てくれって、頼まれちまったんだよ」

「やっぱり来たんだね! どっちに行った? 今から追いかければ間に合うと思う?」

「よく聞け、スケアクロウ、ウッドマンは大切なお仕事があって、それにお前は連れていけないんだ。お前は子どもだから。いい子にして待ってような」

 そのうち迎えに来るから――。
 そんなことは絶対にないのだ、とロベルトは確信していたから言うことはできなかった。
 スケアクロウは怪訝そうな顔をしてロベルトの顔を覗き込む。
 その純粋な瞳に、なぜか目頭が熱くなった。

――ごめんなさい、あなた。流れてしまった。

 妻は子宝に恵まれず、生来子どもを産めないだろうと言われていた。
 そんな妻も五年前に子どもを孕んだことがあった。
 結局生まれてくることのできなかった命。きっと生まれていれば目の前のこの子くらいだったろうか。

「おじさん?」

 スケアクロウは急に泣き出したロベルトに戸惑う。
 だが、ロベルトは構わなかった。
 そうだ、この子どもはあの時に流れてしまった自分たちの子どもだ。
 運命の神様は自分たちから子どもを奪ったけれど、今こうして五年の歳月を超えてここに帰ってきたのだ。
 この子どもは――スケアクロウは俺達の子どもだ。

 ロベルトはそう思った。
 そうであってもそうでなくても、今ここにロベルトにはこの子どもを養えるだけの金があり、そしてロベルト達は子どものない夫婦で、そこに捨てられた子供がいる。
 状況がこの子どもを育てろと雄弁に物語っているではないか。
 ロベルトにとってそれ以上に強烈な真実は存在しなかった。

――きっと妻も喜ぶだろう。

 あんなに欲しがっていた子どもだ。欲しがっても決して手に入らない子どもだ。
 俺達の、俺達だけの子ども。喜ばないわけがない。

「スケアクロウ、いっぱい食えよ、お代りならいくらでもあるんだからな」

「う、うん」

 その時、スケアクロウはピクリと震えた。

「お、おじさん、おしっこ」

「なんだ、しょうがねえな、こっちの奥言って右だ」

 スケアクロウは小走りにトイレに向かった。
 その姿を見て、ロベルトは何となく微笑ましくて笑ってしまう。
 子どもは本当に、どうしてかわいいのだろう。
 家族がいるというのは何と素敵なことだろうか。

 しばらくしてもスケアクロウは戻ってこなかった。どうやら出るものが違ったらしい。
 そんなことを思っていると、何故か二階からスケアクロウの悲鳴が聞こえた。
 ロベルトは何事かと思って階段を駆け上がると、妻の部屋の扉の前にスケアクロウが腰を抜かしていた。

「どうした? ああ、これがお前のお袋さんになる人だ。すまん、いろいろあって、この子を預かることにしたんだ。スケアクロウっていう」

 ロベルトは寝台に腰掛けて本を読んでいた妻にスケアクロウを紹介した。
 妻はにっこりとほほ笑んで、それはそれは、と言う。
 しかしスケアクロウは妻とロベルトを交互に見比べて、愕然とした顔をしている。

「おじさん、おじさん! 何言ってるの? あれが見えないの? ベッドの上で、人が死んでるじゃないか!」

 スケアクロウは指をさして叫んだ。
 ロベルトは妻が寝たきりに近い生活をしていることに対してだと思い、スケアクロウを殴った。
 もちろん小突いた程度の感覚だったのだが、スケアクロウは目を白黒させていた。

「そんな言い方はないだろ。歩けなくたってあいつは生きてる。謝りなさい」

 スケアクロウはうるうると目に涙をためて、そして階段を走って駆け下り、そのまま店を出て行ってしまった。
 ロベルトは即座にしまったと思った。
 あの子は捨てられたばかりで心が不安定なのだ。
 叱りつけて伝わるほどの信頼関係がまだできていない。

 ロベルトは妻の方を眺めた。
 妻はため息を一つついて、お腹が空いたら帰ってきますよ、と言った。

「帰ってくるかな」

 ロベルトが言うと、子どもってそういうものよ、と妻は笑った。
 ロベルトにはそれが、妻が笑ったように見えていた。
 真っ黒に朽ち果てた死体に、山のような蛆虫とハエがたかっている。
 それが、ロベルトが愛している全てだった。
 ロベルトは彼女がもはや死んでいることに気付いていない。

「さあ、俺たちも昼飯にしよう。あの子のことを話すよ。昨日の旅人の続きなんだが……」

 うわん、とハエの羽音が耳を掠める。ロベルトには心地よい妻の声が聞こえていた。

真実の泉と町に一つの食堂
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 午後

 ウッドマンはロベルトの酒屋を出ると次にセツの診療所を目指した。
 依頼主の弟で、殺人の対象たるアベルが泊まっている場所だ。
 森の入口に水先案内のように立っている木造りの家。
 ペストに感染している恐れがあると言われたアベルは治療を受けているはずだ。

 ウッドマンは診療所の外側を一周した。
 おそらく診療室なのであろう玄関と反対側の部屋の窓にはカーテンが下ろされていて、中の様子をうかがい知ることはできなかった。
 しかし明かりはついているようで、暖色を伴った光がゆらゆらと揺れるのを確認することができた。

 ウッドマンはもう一度正面に周り、今度は入り口のドアを二度たたいた。
 すぐに声がし、ほどなくしてセツが出てきた。

「ごめんください。強い感染力を持つ病気の患者と連れが接触しているかもしれないと不安になり、その病気のことを詳しく教えていただきたいのです」

 ウッドマンの発声はひたすら淡々としていて、棒読みということもないが、いささかの感情も読み取れないものではあった。
 セツはその言葉の真意を測りかねた様子だったが、ウッドマンを家の中に招く。

「そんなヒステリックになることもないさ。ペストは、空気感染は少ないんだ。ペスト菌は嫌気性の菌だしね。一番多いのはペスト菌を持つ蚤に食われる媒介感染だよ。アベルはここにきて、少なくともあの子に咳やくしゃみを浴びせるようなことはしてないし、接触もしてないっていうからね。虫食いがあったら少し心配だけど、そうでないなら多分感染はしてないよ」

「ペストというのはどういう病気なのですか?」

 ウッドマンは別段ペストに興味があったわけでもないし、スケアクロウがその病気かもしれないことを心配しているわけでもなかった。
 ただウッドマンはいまだ、対象であるアベルを一眼も拝んでいない。

「ペストかい? そうだね、死ぬ病気さ。全身が真っ黒になってね。こいつは体が敗血症を起こして内部組織が出血を起こしてなるんだけどね。ひどいもんだよ。さっき言ったように媒介するのはノミ。ノミを飼ってるネズミが多いとまずいね。不衛生なところに出やすい」

「なるほど、たとえばこの町のような環境では発生しやすい病気でしょうね。あちらこちらから腐臭がしている。……それで、アベルさんは、どうだったんですか?」

 ウッドマンはその緑色の双眸を凝らしセツの一挙手一投足をくまなく見る。
 彼女の視線の動き、呼吸の仕方、発汗量、手の動き、足の動き、唇の動き、瞳孔の縮小率、些細な動揺の表れが無いか――彼女の全ての行動を見る。

「アベルは――ペストでは無かったよ」

 セツは――ウッドマンから視線をそらし、机の上のカルテを取った。

「熱は37.2度。ペストはもう少し高くなるね。多分風邪かなんかだと思うよ。少なくともペスト様の症状は出ていない。リンパ腺肥大もないし、何より虫食いが無かったからね」

「そのカルテを見せていただけますか」

「あんた、字が読めるのかい? 旅人なんかしてるわりに」

 セツは驚いたように若干目を見開いたが、ウッドマンにそのカルテを渡す。
 ウッドマンはカルテの上をなぞるように目を動かした。
 内容を見ていたのではない。彼女の筆致を見ている。
 頭の中でアベルの部屋にあった写真の文字と、アベルの書置き、そしてこのカルテを照合する。

「アベルさんは顔に包帯を巻きつけているとか」

 カルテをセツに返しながら、ウッドマンはセツの顔を見て問いかける。

「ああ、五年前かな。ほら、カインとアベルは兄弟の樵だからね。でかい木を倒したときに運悪くそれがアベルの方に倒れたことがあってね。下敷きになったアベルは一命こそ取り留めたものの、素顔は人前にさらせないだろうね。可哀想なもんだよ。以来アベルはずっと森にこもりきりさ。出てくるとしてもこの家までで、決して町まではいかないんだ」

「では町の人はほとんどアベルさんのことを――」

「知らない、あるいは死んだ、なんていう人もいるかもしれないね。昔は躍起になって否定して回ったけどさ。今は何か、もういいやって気もするね。町の人にとってアベルは死んだことになってる、アベルも町にはもう二度と行かない。両者が交わることが無いっていうなら、そういうことになっていてもいいのかなって。だって、町にとってアベルが生きてても死んでても、それは全然関係ない話なんだもの。私やカインがいくら生きてるって言ったところで、ふーんの一言で済んじゃう話なんだ。アベルは町にはいかない。だったら、いつまでも町にアベルの席を無理して残しておくことも無意味な気がしてね。町じゃあその話はあんまりしないんだよ」

――アベルは町では死んでいたことにされている、か。

「アベルさんとあなたの御関係は?」

「御関係って……そんな大層なもんはないよ。ただ家が近くて……近いって言ってもまあ遠いっちゃ遠いんだけどさ。腐れ縁っていう言葉が一番近いのかね。その五年前の事故っていうのも、診たのは私だからね。それにしても、やけにアベルのことばっかり聞くね。噂を信じるわけじゃないんだけど、あんたもしかして男の方がいける口かい?」

「御冗談を。そんな噂が立ってますか?」

 ウッドマンは笑うでもなく、にべもなく答えた。
 セツはイスに背を投げて伸びをするように腕を上げた。

「立ってるね。あること無いこと。まあ片田舎で、あんたらはなんだかんだで目立つし、ロベルトの店を食いつぶしたなんて言うのも相当インパクトあったからね。あそこのタンシチューなんて、よく五十皿も食ったね。換算すると十キロ相当なんだけど、到底その体に入ったとは思えないね」

「おかげさまで燃費が悪くて参ります」

 ウッドマンは真顔で答える。その様子にセツは噴き出した。

「あはは、あんた変わってるよやっぱり。それで、あんた、何をしにこの町へ?」

 セツは相変わらず顔に笑みを浮かべている。
 しかし、言葉とともに部屋の空気は一変していた。

「興味本位とかで訊いてるんじゃないんだよ。あんたが魔法使いで町から町へネズミを使ってペストをうつして金を巻き上げる詐欺師だなんて噂も立ってる。別にあんたらが異常性癖の恋人同士だってなら構いやしないが、人攫いって言うのだけは見過ごせないね。スケアクロウ君だっけ。あんたの子じゃないだろ。兄弟でもないはずだ。どういう関係? 答えによっては、今すぐにこの町を出て行ってもらうよ」

 笑顔は絶やさず、しかし、確実に威圧する口調でセツは冷たく言い放つ。
 女には珍しい短く刈り込まれた茶色い髪は彼女から女らしさからくる甘さを感じさせない。
 存在感だけならば、セツは圧倒的にウッドマンよりも強かった。

「ただの旅人、では通らないようで」

「旅にこんな場所は通らないさ。この町は道のどん詰まり。この先には何もないからね。ならあんた達はここに来ようと思って来たはずだ。この町に――何の用がある」

「私はトレイズ。トレイズ・ウッドマン。ご覧のとおり、人造人間です」

 ウッドマンはセツに見えるように、レインコートの上から自分の胸部を開いてその内部に走る機構を露出した。
 鈍色の心臓からは緑色に光る液体が全身に巡らされている。
 セツはそれに驚いたように、猫のような瞳をわずかに開いた。

「こりゃ……参ったね。太古の技術の集大成――、人間が『造り出した人間』。まさか、本当にいるとは。てっきりおとぎ話だと思ってたよ。今の今まで。通りでタンシチュー十キロも食えるわけだ」

「私も少し驚きました。まさか今時、しかもこんな辺境で人造人間を知っている人に出会うとは」

 アベルはそういうのが大好きだったからね、とセツは苦笑いを浮かべる。

「ってことは、スケアクロウ君も?」

「いいえ、あれは人間ですよ。正真正銘のね。では、そういうことで納得していただけますか?」

 ウッドマンは開いた胸を閉じて、慇懃な態度で聞く。

「そういうわけにもいかないんだよ。あんたがペストをうつして回ってるなんて噂を持ってると、こっちも枕を高くして寝られないんだ」

 セツは立ちあがった。合わせるようにウッドマンもゆっくりとした動きで立ち上がる。
 女としては、セツは背の高い方だった。
 それでも改めて見上げるほどに、ウッドマンはさらに長身だった。
 しかし、セツは毅然として胸を張る。

「――戯れを。ペストのことはわかりました。教えていただきありがとうございました。気に障ったなら謝ります。失礼しました」

 ウッドマンは踵を返して部屋を出た。

 ウッドマンの人造人間としての驚異的な聴覚は絶えず隣の部屋に向けられていた。
 ウッドマンは診療室にアベルがいないことを確信した。

 蘇る死体、五年前の事故、顔を包帯で覆った男、町では死んだことになっている存在。

 セツ、カイン、そしてアベル――。

 泉の妖精、か――。

――魔法は人間の信じる力を源に発現する奇跡で、科学は疑うことを根本にする学問だ。
 かつてこの世界には科学が蔓延していた。人々はあらゆる物事を疑いに疑いぬいて、ついには生死さえも絶対ではなくしてしまった。
 何一つ信じるものがなくなって、人々は信じられるものを求めた。
 そして五十年前――世界の向こう側から、『唯一絶対に信じられるもの』がやってきた。魔法という奇跡とともに。
 人々は疑うことを、科学することをやめ、盲信することを、魔法にすがることを始めた。
 魔女は人間を惑わし、偽りを信じさせる。この町の住人は自分たちが知らないうちにどっぷりと魔女の魔法に浸かっていた。

「けったいな名前をつけたものじゃないか――東の魔女、ネッサローズ」

 ウッドマンがセツの診療所を出ると、陽はすでに橙を帯び始めていた。
 照りつける西日に身を隠すようにフードをかぶる。
 まるで漆黒の影法師のようないでたちでウッドマンは森の奥へと進んで行く。
 そこから先には何もない。
 あるのは樵の兄弟の小屋――そして、精霊が住むという泉だった。
真実の泉と黒死病
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 夕刻

 スケアクロウは転がるようにしてロベルトの飯屋から飛び出した。
 町を覆う異様なにおい、あちこちの家々から柱を作るように飛び回っているハエの群れ。
 あの家も、この家も、どこもかしこも。

「うわ、うわあっ!」

 スケアクロウは自分でも泣いているのか叫んでいるのかわからなかった。
 この町は死人の町だ。至る所に死体があふれている。
 それだというのに誰もそれを気にかけもしない。
 彼らにとってその死者は生きているからだ。この町の誰もがおかしいのだ。
 みんな夢を見ている。死んだ人間が生きている、幸せな夢を。

 泣きわめいて走り去るスケアクロウを、町の住人達はそれこそスケアクロウがおかしくなったかのように奇妙なものを見る目つきで眺めていた。
 誰も自分の正気を疑っていない。彼らは死体としゃべり、死体の世話をしているのに気付きさえしない。
 きっと一生気付かない。スケアクロウが狂っているように見える彼らの目では。

 スケアクロウはウッドマンを探した。
 探すと言ってもこの町にスケアクロウが知っているところはほとんどない。
 スケアクロウはウッドマンの名前を叫びながら、すがるような気持ちでその家のドアをたたく。

「ウッドマン、ウッドマン!」

 そこはセツの診療所だった。
 ここにいないとなれば、もうスケアクロウに行くあてはない。扉には鍵がかかっていた。
 中からは返事がない。スケアクロウは何度も相棒の名前を呼びながらドアを強くたたく。
 それはもう蹴破るほどの勢いで。

「ウッドマン!」

 スケアクロウが満身の力を込めてその小さな体を扉に押し当てようとした時だった。
 キィと音を立てて、ドアが中から開かれた。
 スケアクロウは止まることができずにそのままドアに突撃した。
 ドアの中にいた人物の腹辺りに強く体当たりをする形となり、スケアクロウはその人物ごと廊下に倒れこんだ。

「げほっ、ごほっごほ、いった、たた……!」

 腹にスケアクロウの全力の頭突きを食らったその人物は咳き込み、そして腹と尻をさすりながら倒れた上半身を起こす。
 スケアクロウはその人物の服にしがみついて離れなかった。ウッドマンではなかった。
 それは声でわかった。腹の柔らかさも別人だということを告げていた。
 ウッドマンの声は聞こえてきた声よりずっと低くて、彼の腹はぬくもりや柔らかさとは無縁のものだった。

「君は……確か、スケアクロウ君だったっけ」

――ほらやっぱり。

 ウッドマンならそんなセリフは出てこない。
 ウッドマンじゃないなら、この町の狂った住人の一人なのだろうか。
 スケアクロウは涙でにじむ目を上にあげて自分を覗き込むその人物を確認した。
 顔中を包帯で覆った男――確か名前は。

「う、うう……」

「どうしたの? 泣いているのかい? まあちょっと離れようよ。君、確か旅の人だろ。セツから聞いているよ。ほら、ね?」

「うう、ウッドマン、ウッドマン!」

 スケアクロウは大声で叫ぶ。
 今すぐここにウッドマンを連れてこいと。今すぐウッドマンはここに現れろと。
 何もわからない。ただウッドマンに会いたい。
 スケアクロウは金切り声をあげて泣き叫んだ。
 アベルは困ったように笑っていたが構わなかった。

「はは、困ったな……やれやれ」

 アベルは困り果てて、スケアクロウを抱きかかえた。
 突然の浮遊感にスケアクロウは一瞬泣くのをやめた。
 その一瞬を逃さずアベルは言う。

「大丈夫、君の相棒は帰ってくるよ。さっきだってここを訪ねてきたんだから」

 アベルに抱きかかえられながら大きな目を点のようにしてスケアクロウはアベルの瞳をじっと見つめた。

「本当に?」

 もちろんさ、とアベルは答える。
 スケアクロウを抱えたままテーブルまで歩き、椅子を引いてそこにスケアクロウを座らせた。
 タオルを渡し、顔を拭うように言う。
 スケアクロウの顔は涙と鼻水と汗でそれはもうひどいものだった。

「さっきここに来たの? ウッドマンが? 本当に?」

 スケアクロウは椅子の上に立つ勢いでアベルに聞く。
 アベルはそうだよ、と落ち着いた声で答えながら、水差しから一杯の水と、パンとジャムをスケアクロウに差し出した。

「さっき僕の病気に君がうつっていないか心配して聞きに来たんだから。彼が君を置いていくなんてことはないと思うけど。ほら、飲みな」

――病気、そうだ、この男は何か恐ろしい病気なのだ。
 それを思い出してスケアクロウは若干アベルから離れるように身をそらした。

「……ぺす、ぺす」

「ん? ああ、君の連れから聞いてない? てっきり君に伝えたと思ってたんだけど。あ、そっか伝えられてないから心配になっちゃったのか。僕はペストじゃないよ。ただの風邪。セツがペストかもしれないって言ったのは君たちを家から追い出すためだよ。なんせ宿無しだったから、ちょっとやそっとの理由じゃ出ていきそうになかったって言ってたからね。さすがに患者と客を一緒に泊めるわけにもいかないから、つい嘘をついちゃったって」

「……そうだったんだ」

 スケアクロウは言われて安心し、コップを両手で持ち一気にあおってもう一杯とコップを差し出した。
 喉はカラカラだった。涙も汗も、もう出そうにもない。

「お腹すいてるだろ? 食べていいよ。セツのだけど」

「でもオレ、お金持ってない……」

「安心しなよ、セツはこの辺のものは自由に食べていいって言ってたし、なら僕が君にあげるのも自由だろう?」

 さあ、どうぞ。

 アベルがそう笑う。スケアクロウはパンをちぎってジャムをたくさん塗り付けて食べた。
 イチジクのジャムは大きな果肉が入っていて、甘くておいしかった。
 スケアクロウは瓶の半分ほどを食べてしまって、ようやく食べすぎかもしれないと思った。

 またもや口の周りがジャムでひどいことになっているスケアクロウを見て、アベルは笑った。
 スケアクロウはようやく何か落ち着いた気分になって、ごちそう様でした、と言い口の周りをタオルで拭いた。
 そしてまた水差しからアベルに水を入れてもらい、一息に飲んだ。

「落ち着いた?」

「う、ウッドマンには内緒だよ」

 ようやくスケアクロウは自分が何をしてここまでたどり着いたかを思い返し、たどり着いてからの自分の行いを振り返った。
 それは到底ウッドマンの相棒としてふさわしくない子どもじみた行為だった。
 ウッドマンに知られたら愛想を尽かされてしまうだろうか。

 アベルはそれを聞くと噴出した。

「む、笑うな」

――ふと、どこかでこんな光景があった気がした。

「いや、ごめんごめん。僕が言わなくても、誰かが言いそうな気もするけど。それで、スケアクロウ君はなんでそんなに泣いてたわけ?」

 アベルに問われ、スケアクロウはたどたどしく自分が見てきたものの全てを持ちうる言葉を最大限に活用して伝えた。
 宿屋の老人は隣に死体があるのにも気付かず穴を掘って、誰かわからない相手と話していた。
 飯屋の亭主は妻が死んでいるのに気付かず、生きていると思っていて、あまつさえスケアクロウを捨てられたと勘違いして引き取ろうとしていた。
 この町の至る所に死体があふれかえっていてそれなのに、誰一人気にしてすらいない。
 伝えながらも思う。この男も、町の人間と同じくおかしくなっているのではないだろうか――。

「そっか――、町はそんなことになっているのか」

「家の中は死体ばっかりなんだよ。どの家からもハエが湧いていて、でもみんなそれに気付いてないんだ。本当だよ!」

 本当だよ、を強調するスケアクロウにアベルは分かっているよと制するように言う。

「僕は顔がこうなってからは町に行ってないから、そんな風になっているとは知らなかったし……うーん」

「先生は知らないの? 本当にひどいんだよ」

「わからない、もしかしたら理由があるのかもしれないね。セツが昨日ペストなんて言い出したのは町で本当にペストがはやっているからなのかもしれない。死体がそこら中にあるのはその病気でたくさん人が死んでいるからかもしれないし、葬儀が追いつかないからなのかもしれない。もしかしたら、みんなお葬式を待っているのかもしれないね。もしかして穴を掘っている人もいたんじゃないのかい?」

「いた! 宿屋のおじいさんはずっと穴を掘ってた」

 ガーフィールドさんのところだね、とアベルは言った。

「あそこは昔から共同の墓所だからやっぱりお墓が追いつかないんじゃないのかな」

「そっか、なんだ……」

 スケアクロウは安心した。ひょっとしたら全部見間違いだったのかもしれない。
 あの町の人たちは、お墓が整う順番を待っていたのだ。なあんだ、そうだったんだ。
 目をごしごしと擦る。なんだかとても眠い。

「眠たいのかい。疲れてるもんね。ベッドはこっちだよ」

 大丈夫だ。ウッドマンはきっと迎えに来てくれる。
 ここなら安心だ。アベルとセツは普通の人だ。
 スケアクロウはアベルに引かれて診療室のベッドの上に横になった。

 スケアクロウは横になるとすぐに、小さな寝息を立て始めた。
 それを見てアベルは、大きなため息をついた。
真実の泉と樵の弟
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 逢魔時

 脛のあたりが昨日から妙に痒い。

――大丈夫、あんたは罹ってないみたいだ。

――でも、アベルは、あいつはペストなんだろ?

――わからないよ。それにアベルがペストだからって、その相手と長く一緒にいたとしても、あんたまで絶対罹るってもんじゃないよ。

 嘘だ。嘘だ嘘だ。自分はペストだ。そうに決まっている。
 なぜならカインはアベルの体液を、それを何よりも濃い、血液を体中に浴びているのだ。
 あの時すでにアベルがペストだったなら、カインが罹っていないわけが無い。
 そうだ、この脛の痒みはその初期症状ではないのか。

 それを思っても、カインはズボンをあげて脛を確認する気にはなれなかった。
 もしそこが、目も当てられない状況になっていたなら、カインは発狂してしまうかもしれない。
 勢い余って、斧で足を切り落としてしまうかもしれない。
 今はとにかく泉に足を服のまま突っ込むしかなかった。
 この泉はカインを癒してくれるはずだ。泉の精霊はきっと、カインを助けてくれるはずだ。

 カインはずっと待っていた。白銀の長い髪を遊ばせて、鈴のような囁きでカインを導いてくれる、盲目の聖母――泉の精霊を。

――あなたがアベルにも優しくしていたことを怒ったりしません。あなたがアベルに金の斧をくれたり、いろんな贈り物をしていたことも嫉妬したりしません。

――だからどうか。

――どうかもう一度オレの前に姿を見せてください。

 そうして一晩が明け、泉につかりっぱなしのカインはいよいよ悪寒が止まらなくなってきた。

「――ゴホッ、カハッ……」

 咳が止まらない。脛のかゆみはいよいよ痛みにも近くなってきた。
 もはや脛に限らず全身に痛痒感が走っている。
 鼓動が体に血液を送るたび、その時の動きに連動してピリピリとかゆみは増していく。
 掻き毟りたい衝動に駆られるけれど、そうしたらいよいよ皮膚を突き破って中の組織があふれ出すのではないかと思うと、何もできなかった。

 カインはもう腰まで泉に浸かっている。
 全身が冷え切っていた。もはや鳥肌も立たないほどに。
 息をするたびにタンの絡んだ喉はヒューヒューと隙間風のような音を立てた。
 寒さに凍えて鼻をすすっているうちにいよいよ病は深刻化しているようだった。

「泉の精霊、どうか、どうか……」

 カインはずっとそれだけを唱え続けている。泉の精霊はいつか来るはずだ。
 そう待ち続けて日は沈み、明けてもいまだ精霊は戻らない。その明けた日も再び沈もうとしている。
 カインの中に正常な時間の感覚はなくなっており、どれくらいそうしているのかも、もうわからない。

 カインは一歩、深く、昏い水底に足を踏み出した。
 しかし、その危なっかしい足取りは湖底のぬめりに取られてカインはそのまま水の中に沈んだ。
 薄暗い空に一番星が見える。水の底から見る世界は、なぜかとても美しく感じられた。
 そのまま死んでいけるならそれでもいいのかもしれないと、カインは思った。

 カインは目を閉じ、息を吐いた。
 空気のなくなった体はゆっくりと沈んでいく。
 抗うこともせず、自ら進めることもなく、カインはただ沈んでいくのに身を任せる。
 やがて全身が水底に落ちた。カインはふと目を開ける。
 それを最後の光景にしようと思った。きっと何かきれいなものが見えるはずだから。

 しかし、目の前をかすめたのは海藻のような水中を漂う細長いものだった。
 カインはやや落胆し、その根元の方に目をやる。そこにあったのは海藻ではなかった。
 海藻のように揺らめいていたのは長い銀髪だった。
 その中央にあるのは、――カインが心から願ってやまなかった顔だった。

 泉の精霊は湖の底に、カインが身を浸す泉のその足元にずっといた。斧で頭をぱっくりと割られて。
 体にはいくつものおもりのような石がくくりつけられていた。
 カインは思わず叫んだ。もうないと思っていたのに口から空気が出た。
 それと同時に思い切り水が入ってきて、カインは大きく咳き込む。

 その反応は水中にあって肺に水を侵入させることにしかならない。
 カインはもがいて、もがき苦しんで、ようやく湖の淵をつかんで顔を思い切り上げる。
 水を吐いて大きく息を吸った。

――げほ、っごほ、っかは。

 そして、もう一度湖の中に潜る。
 果たして泉の精霊は無残な姿に成り果ててそこにあった。
 カインは何とかしてそれを湖の底から引き揚げる。
 それはおもりがあるせいか、服が水を吸っているせいか、はたまたカインが凍えていて体力を消耗しているせいなのか、女の体と思えないほど重かった。
 しかしカインはそれを泉の岸辺に揚げ、自分も泉から這い出た。

――こんなのは、嘘だ。

 カインはわなわなとふるえてその銀髪に沈む顔をそっと両手でつかむ。
 白濁した見えない目。開かれたままのそれをそっと閉じ、カインはその頭を抱きしめた。
 嗚咽は震えてもはや声にならない。

 嘘だ、嘘だ。泉の精霊が死んでいるなんて。どうして、何故。誰が殺した。

「――アベル」

 カインは低い声で呟く。そうだ、他にいるか、いるわけがない。
 あの弟は、呪わしい弟は、そうに違いない。
 自分が生き返る代わりに、カインが一番大切に思っていた泉の精霊を犠牲にささげたに違いない。
 悪魔との取引に、彼女を差し出したのだ。

――そして自分だけ助かって、俺からは何もかも奪っていくんだ。

 可哀想な泉の精霊。彼女が何をしたというのだろう。
 目も見えず、きっとここまでの道のりだって苦難の連続だったに違いない。
 それでも巡礼の果てに神の許しを得られると信じてやってきたというのに、そこに、アベルなんかがいたから。

 ああ、畜生、本当にどうしてアベルは五年前に死んでいなかったんだ。
 アベルが五年前に死んでいたなら、あの顔の怪我の時に死んでいたなら、泉の精霊の旅は報われていたんだ。
 彼女はここにたどり着いて、そして俺と出会って、町から出て、二人で暮らせたはずなんだ。
 ささやかで、だけど幸せな日々が彼女にも、そして俺にも訪れたはずなのに――。

――あの野郎。

 カインは泉の精霊を背負って、彼女を朽ちた教会の祭壇の上に載せた。
 手近にあった花を摘んで、祭壇の前に供える。
 可哀想な彼女。せめてあちらの世界では目が見えるようになっていて欲しい。

 カインは鬼のように重い足取りで、まっすぐに服が濡れているのにも構わず自分の家に向かった。
 そして斧をとる。アベルを殺した斧ではない。
 アベルを殺して、殺しそこなった挙句、泉の精霊を殺してしまう斧など使うものか。

 カインが手に持ったのは、アベルがいつだか泉の精霊からもらったという金の斧だった。
 それは刃も柄も金でできた美しい斧だった。
 全てが金属でできていることを実感させるように、手には普通の物よりもはるかに重い手ごたえがある。
 だが構わない。むしろそれがいい。これならきっと仕留めきれるはずだ。

 これは彼女の無念を晴らすための聖なる行為だ。だからこの斧でなくては意味がない。
 彼女のもので、彼女の命を奪った男の命を奪う。

――泉の精霊、どうか俺に加護を与えてください。

 カインは斧を担いで、想い歩みでセツの家を目指す。アベルはそこにいるはずだ。
 程なくしてセツの診療所は見えてきた。
 カインはドアをたたくことすらしない。
 そのドア二つを支える蝶番二つに向かって、斧を繰り出す。
 あっけないほど簡単に蝶番ははじけ飛び、カインはそのドアを思い切り蹴りつけた。

 どん、と大きな音を立ててドアが家の廊下に倒れこむ。
 その上をずかずかと進む。アベルが机の上に座って目を白黒させていた。
 顔に巻いた包帯、今度こそ間違いない、アベルだ。さあ、死ね。

 振り上げた斧を止めようと思ったのかアベルは手を向けた。
 その腕ごと叩き切るようにカインは思い切り斧を振り下ろす。
 何千回繰り返してきた動作だろう。
 木を切るのに比べて、人間を切るその感触のあっけなさと言ったらない。

――カインはこういう男なのだ。
 気付かなくちゃいけないことに最後の最後まで全然気づかない。
 カインは今憎しみに駆られて、『アベル』を殺しているつもりだろう。
 それは全然違うのだけど。でもカインは気付かない。
 そういう、どうしようもない、可哀想な男なのだ。

『アベル』が崩れ落ちた。
 その口元には、やはり笑みが浮かんでいる。
 カインは自分が笑われているようで腹が立って、その顔を思い切り蹴りつけた。
 どさりと転がる大きな死体。
 その切れ落ちた腕の先から、そして割られた頭から、心臓の動きに合わせて血液が脈動しながら噴出している。

 その死に顔を確認しようと包帯を顔から外す。
 血にまみれて顔がよくわからない。
 カインは手に持った包帯で顔を拭うが次から次へと血があふれては顔を汚し、確認することができない。
 その時にふと、隣の部屋から物音がした。カインはそちらを凝視する。耳を澄ませる。

――誰かいる。

 カインは斧を手に持った。途端に部屋を走ってドアから抜け出る音がした。
 カインはドアを開けてその診療室から裏庭に出るための裏口を走っていく影を見た。
 黒いマントに、麦わら帽子を被って、小さな小さな影は慌てふためきながら森を奥の方へ奥の方へと走り去っていく。

 カインは笑った。そして斧を片手に、目撃者を追いかける。
 走ることはしない。どうせこの先に行って行き着くところはカインたちの家か、さもなければ泉である。
 慌てることはない。小さな影は必死に逃げようとしていたが、夜の森に転んだり倒れたりして、歩いていても後を追うことは難しくなかった。

「かはっ、かははは……」

――咳をしながらカインは笑う。ウッドマンなど頼る必要はなかったのだ。
 アベルが生き返るというのなら、何度だって殺せばいいことだ。
 もはや泉の精霊は死んでしまった。
 ならばアベルが誰を引き替えに生き返ろうと知ったことか。
 生き返れるなら生き返って見せろ、何度だって殺してやる。
 お前が死ぬのに世界中の人間を殺す必要があるというのなら、俺は世界中の人間の頭をたたき割ってやる――。

 そのウッドマンは一部始終を見ていた。
 セツの診療所からカインの家に向かう、その途中で斧を携えたカインを見つけ、森に隠れて後を追った。
 そしてカインは、セツの家に押し入り、そしてアベルを殺した。
 スケアクロウが追われているが、それよりも先に確認しなければならないことがある。

 ウッドマンは無言で死体を眺める
 体つきはどちらかというと細身、身に纏っているのは酷く粗末な服、周りに広がっているのは、血を吸って真紅に染まった包帯か。
 ウッドマンの眼に仕込まれた精密な機械は暗闇の室内でもそこにあるものをはっきりと映し出す。
 浅い闇に飲み込まれた頭は、割れた額から滂沱の血を浴び、黒く染まっていた。

 ウッドマンは一つの確信を抱きながら死体の傍にしゃがみ込む。
 血だまりは新鮮で、ウッドマンが中に踏み込むと波紋が起きた。
 傍のテーブルからガーゼの束をひっつかみ、無造作に死体の顔を拭う。血の仮面を剥がし、素顔を確認した。

――やはり。

 ウッドマンはガーゼを捨て、立ち上がる。
 死体の裂傷は斧によるものだった。
 カインは死なない弟に怯え、酒に溺れ、かなり危険な精神状態にあった。
 あと一つでも背中を押すものがあれば、簡単に狂気の湖に落ちたはず。
――いや、すでに落ちたのだろう。

 樵の兄は「弟」を三度殺した。

 木の下敷きにしたという初めの「弟」は本物だ。
 その時、彼は弟の命を潰すことに確かに成功していた。
 だが、肝心の兄は、弟がその時に死んだことを知らないでいる。
 しかし、町の人間にとっては、弟は既にその時に死んでいて、以後一切の交流はない。
 ただ、兄は弟が生きている幻を見ているという噂が流れ、そして兄は事実、弟は今の今まで生きているものだと思っていた。

 ウッドマンは悟る。
 なにもかも、ウッドマンの目の前で血だまりに浮かんでいるこの三人目の「弟」によって仕組まれていたことだ。
「三人目の弟」は抑えきれぬ思いに駆られて、亡霊を装った。その末路だ。

 ウッドマンはさっと立ち上がる。
 机の上に一つの手帳を見つけた。手に取ってぱらぱらとめくる。
 そこには彼の予想を裏付ける文が延々と綴られていた。
 彼はそれをレインコートのポケットにねじ込んだ。
 ウッドマンは『アベル』の死体を担ぐ。そして、重い足音を立ててカインの後を追った。
 
真実の泉と最後の殺人
»»  2013.10.04.
3050年 6月13日 夜

 スケアクロウは勝手口を飛び出し、死に物狂いで走った。
 背後から聞こえてくる笑い声は明らかに常軌を逸していた。

 街の方へ向かえば町の人間に助けを求めることができたのかもしれない。
 だが、そっちに行けばカインに捕まるかもしれなかった。
 それに、町の人間は、やはりみんな狂っているのだ。あの男と同じように。

 アベルは殺されてしまった。セツも戻らない。

「ウッドマン! ウッドマン、助けて!」

 スケアクロウは叫ぶ。泣きながら、大声で。
 カインから距離を取るため、まっすぐ森へと突っ込んだ。
 邪魔な木を避けながらひた走る。全速力だ。
 日はとっぷりと暮れて、もはや森は人の住処ではなくなっていた。
 うす暗がりには魔物が潜み、そして背後からは人殺しが追いかけてくる。
 カインの気配は離れるどころか、逆にずんずんと迫ってきていた。

 恐怖で脳みそが回らない。噴き出た血が広がるように、脳裏に診療室の情景が広がった。
 ぐちゃぐちゃに混乱した赤くて白くて暗くて明るい光景の中に、見開かれたアベルの眼球だけがはっきり形を持って浮かんでいた。

――いやだ、死にたくない。

 膝から下が石になってしまったかのように、思うように動かせない。
 スケアクロウは四つん這いになって、這いずるように森をかける。
 枝をかき分け、草を踏み鳴らし、たまに転んで擦りむきながら、それでも必死に。
 初めのうちは疎らに並んでいただけだった木々が、徐々に増えている。
 スケアクロウは木々が身を寄せ合い、草木が茂る空間を選んで進んだ。
 首をすくめて藪を突っきると、枝葉が剥き出しの腕や膝を抉った。
 濃い肌にいくつもの赤い線を引き、どんどん森の暗い方へ入り込んでいく。

 それでも悪魔のような笑い声はついてくる。
 木々を打ち鳴らす斧の雄叫びはついてくる。
 弾む呼吸に嗚咽が混じり、どこから滲み出たのかもわからない液体が喉に引っかかった。
 咳き込んで気道を確保したかったが、そうして息を乱すとそのまま喉が塞がってしまうような恐怖を感じた。
 肌の焼けるような痛みと鉛のような手足の重み、喉を塞ぐ異物感に苦しみもがきながらも、スケアクロウは止まることが許されない。
 しかし彼の小さな体は着実に限界に近づきつつあった。
 もはや走り続けるために必要なだけの体力は残っていなかった。

 もう駄目かと思われたその瞬間、唐突に木々の壁が消え、開けた空間に飛び出していた。
 目の前にこじんまりとした木の家が建っている。

 恐怖で真っ白な意識があの家の方へ行け、と命令を出す。
 もはや背後を確認する余裕もなかった。視界は歪み、耳は心臓の爆音でふさがれていた。

 ふらふらと家の扉にすがり力の入らない手で扉を叩いた。
「助けて」と口を開いたが、正確に音が出たかどうかは分からない。
 扉に鍵はかかっておらず、スケアクロウはその中に飛び込む。

 彼を迎えたのは倉庫のような空間だった。

――隠れなくちゃ。

 平衡感覚すら怪しい中、スケアクロウは奥へ向かう。少し広い部屋だ。
 ベッドを見つけその下へと潜り込んだ。じっと息を潜め、体を横たえる。
 吐き気がしていた。悪寒がする。おなかも痛い。
 スケアクロウは情けなさと無力感、そしてどうにもならない苦痛に耐えるように膝を抱いて丸くなった。

 ウッドマン、助けに来て!

 どれだけの時間そこでじっと横たわっていただろうか。
 僅かに機能を取り戻した彼の聴覚が扉の軋む音を聞きつけた。

――ウッドマンであってくれ。

 強く心にそう願う。
 しかしその後に聞こえてきた、無造作で知性のかけらもない足音は、彼のそれとはまったく違っていた。
 カインだった。

――殺される。

「はっはあははっはははは、げほ、ごっほごほ、くはは、どォこに隠れたんだァ小僧ォ!」

 カインは乱暴に斧を振り回す。窓をぶち破り、壁を打ち抜いていく。
 耳をつんざくようなガラスの音が聞こえてくる。金属が転がる音が響き、重みのある物体が床に散らばる音。
 木が叩き割れたような音も聞こえる。

 カインはかなり長い間倉庫を漁っていた。
 倉庫を探し終えた後は、こちらの部屋へやってくるに違いない。
 そしたらカインは絶対に、ベッドの下に潜んでいるスケアクロウを見つけるだろう。

 スケアクロウは重い身体を引きずり、必死にベッドの下を這い出した。
 音を立ててはならない。気づかれたらすぐにでもこちらへやってくるだろう。
 再び心臓が躍り出す。
 スケアクロウは中腰のまま扉へ向かった。

 入ってきたのは勝手口だ。
 このまま真っ直ぐ部屋を抜けていけば、その反対側から逃げることができるはずだ。
 しかしその時、スケアクロウの足が床に転がる何かを蹴り飛ばした。酒の瓶だった。
 臓腑を掴まれるような絶望を感じた。
 それでもスケアクロウの身体は弾かれたように走りだしていた。
 狂った歓喜の声と共に、倉庫の扉が開け放たれる音がする。

「見つけたぞ小僧!」

 すでにスケアクロウは次の部屋にいた。
 体勢を崩す身体をテーブルで支えながら走る。
 少し大きな扉が目に映る。玄関に違いない。体で押すようにして扉を開け放った。

――外に出た、逃げられる!

 しかしそう思ったのも束の間、背後から怒号と共にカインが現れた。

「逃げられると思うなよ、ガキィ!」

 肩に強い衝撃が走った。斧の柄でぶたれたのだ。
 体勢を崩し、そのまま草の茂った地面へ倒れ込む。
 一拍遅れて前方の地面に何かが突き立つ。斧だった。
 血と木くずと埃にまみれた、一振りで命を奪える金属の塊。

――逃げなくちゃ。

 足掻くスケアクロウは肩を掴まれ、ひっくり返された。
 叫ぶ間もなく顔面を掴まれる。
 狂気の樵はとても人とは思えない表情で笑っていた。

「へはっはあ、とうとう捕まえたぜ。ぶっ殺してやる」

「お願い! 殺さないで!」

 スケアクロウは泣いて命乞いをする。

「へはっははは! 嫌だね! アベルの野郎は何度でも生き返るし、泉の精霊は死んじまった! くそったれな世界だ! こんな下らない世界は滅びればいい! 俺が滅ぼしてやる!」

「お、おじさんも、死んだ人が生き返ると思ってるの?」

 スケアクロウが泣く泣く言った言葉に、カインはあぁ、と手を緩めた。

「おじさんも、この町の人達とおんなじように、死んだ人が生きてると思ってるの? 死体を見て、生きてる人だと思い込んでるの?」

「何言ってやがる……? 死体を見て、生きてると思い込んでるだぁ?」

「そうだよ! この町の人はみんな、とっくに死んだ人の死体に話しかけて、おしゃべりをして、生きているんだと思い込んでるんだよ! だからこの町にはハエの群れがぶんぶん飛んでるし、ひどいにおいが立ち込めてるんだ! この町の人達はみんな、夢を見させられているんだ!」

「アベルは生き返ったんだ! 俺が殺したのに、泉の精霊を引き換えにして、泉の精霊に自分の死を押し付けて、生き返りやがったんだ! だから俺が殺してやったんだ!」

「――その人、本当にアベルさんだったのかな」

 スケアクロウの言葉にカインの目が開かれる。

「うるさい! 皆殺しだ、皆殺しだ! お前は記念すべき二人目だ。死ね死ね! みんな死んじまえ!」

 カインはスケアクロウの顔を掴んで斧を振りかぶる。
 スケアクロウは渾身の力でカインの手首に歯を立てた。
 白い歯が皮膚を破り、肉を抉る。たまらずカインは仰け反った。
 スケアクロウの顔面を掴んだまま大きく腕を振る。
 スケアクロウは振り払われ、吹っ飛んだ。小さな体が地面を転がる。

「クソ、ガキィ! ぶち殺す! 死ね!」

 怪物が金切り声交じりにそう叫び、地面に突き立っていた斧を掴みあげた。
 カインはスケアクロウの背中を足で踏みつける。
 スケアクロウは何とか逃げ出そうと手足をばたつかせるが大人の重さに抵抗できるはずもない。
 鈍色に光る斧の刃が、斜めに振り上げられる。
 地面に倒れ伏すスケアクロウは、振り返ってそれを見る。
 こんな時だというのに、こんな場所だというのに。
 その時、雲一つない夜空には、真円の月が浮かんでいた。一点の汚れもない銀色の光で世界を青く照らす。
 振り上げられた金の斧はその月の光を浴びて、きらめいて。
――きれいだと思った。

 ゆっくりと刃が下りてくる。
 スケアクロウはゆっくり瞼を閉じる。
 世界が細く閉じていく。

――助けて。ウッドマン。

 まるで線のようになった世界に、スケアクロウは黒い影法師の背中を見た。

 ぐちゃり、という音とともにスケアクロウの顔には生暖かいしぶきがかかった。
 スケアクロウは思わず目を見開く。
 斧は寸前で留められていた。他ならぬ、ウッドマンの、その頭によって。

「ウッドマン!」

 頭を斧で割られたウッドマンは緑に光るしぶきを上げてその場に崩れ落ちるように倒れた。
――エーテルが漏れ出しているのだ。ウッドマンを動かすその燃料が、頭から。
 夜の闇に輝く緑色の輝きは、さながら蛍のようで、一見美しかったが、その光景はいっそおぞましかった。
 ウッドマンは肩には何故か、殺されたアベルを背負っている。
 スケアクロウはそれを見て、絶望が全身を襲うのを感じた。

――ウッドマンが、殺されてしまった。

「ウッドマン、ウッドマン、嘘だ、嘘だよ、ねえ、ウッドマン!」

 揺すっても、呼びかけても、その重い体が返事をすることはない。

「げほ、っげほ、ははは、殺し屋だぁ? くっだらねえな! 点で話にならねェ! くたばっちめえやんの! はははは!」

 カインは壊れたように笑う。スケアクロウは、また逃げ出した。

――逃げても無駄だ。もうウッドマンは死んでしまった。なら、オレは殺されるしかない。

 絶望に胸を支配されながらもスケアクロウは走った。
 そして最後に行きついたのは、大きな水たまりだった。
 スケアクロウはこんなに大きな、たくさんの水がたまっているのを見たことが無い。
 足のつかないくらいに深くて、船でもないと向こうまで行くのは難しそうだ。
 要するに、ここが行き止まりなのだ。

「へへへ、もう逃げられねえぞ、ガキ」

 カインの声はすぐ後ろまで迫っている。
 スケアクロウは泉を見た。ウッドマンが行っていた泉だ。
 確か、ものを投げ込めば、精霊が現れて、もっといいものを授けてくれる魔法の泉。
 それに賭けるしかない。
 
 スケアクロウはマントを脱いだ。そして靴を泉に投げ込む。
 麦わら帽子を胸に抱きしめて、大きく息を吸い込む。
 スケアクロウは泳いだことなどない。
 でもとりあえず息をたくさん吸い込んでおけば沈まないはず。
 そして、三つ数えて、スケアクロウは泉に飛び込んだ。
真実の泉と樵の兄
»»  2013.10.04.
3050年 6月14日 深夜

 泉に飛び込んだスケアクロウを見てカインは笑う。

――バカめ。それで逃げ切れるつもりか。お前が浮き上がってきたら今度こそ最後だ。

 カシャリ。

 その時、その音はどこから聞こえてきたものだろうか。
 カインは連続的に聞こえてくる背後の音に振り返る。

「損傷確認、メインカメラ破損、視覚データを胸部サブカメラに切り替え。循環式エーテルの流出を確認、破損部位を結節。エーテル流出の停止を確認。行動損傷10%未満。プログラム・オルガンⅩⅢ【トレイズ】を再起動」

 その音は、あの死体から聞こえているのではないか。
 まるで人形のような、あの殺し屋の死体から。
 直後、カインはわが目を疑った。
 無残にも頭を真っ二つに割られた死体は、割られた頭部をそのままに、むくりと起き上がった。
 そして、横に転がるアベルの死体を肩に担ぎ、ゆるぎない足取りでこちらに向かってくる。
 割れた頭部は緑色に光り、中に詰まっている機械をグロテスクに照らしていた。

「状況を認識。口唇機能の破損を確認。以後音声は咽頭部スピーカーより直接発声――カインさん」

 ウッドマンが口も動かさずにカインの名を呼ぶ。カインは到底信じられない。
 これはもう、絶対に人間じゃない。こんなのは、これは――。

「お前は一体、一体――何だ!」

「会ったときにも言ったはずです。私は人造人間。体の全ての部分を機械に交換し、自分の心さえ失った『ブリキの樵』。私の名はウッドマン。トレイズ・ウッドマン。ゼロ機関から偉大なる魔法使いオズの予言成就のために派遣された暗殺者です」

 ウッドマンは口を全く動かさずに言葉をしゃべった。

「はへへ、そうか、そういうことかい! 結局俺が殺した奴ぁ、みんな生き返るって、そういう仕組みなんだな! そうかいそうかい! 道理でアベルは生き返るわけだ! 俺が、呪われてる! そういうこったな!」

「それは違います」

 ウッドマンは言う。それはどこか冷酷な言い方にも聞こえた。

「ちょうどいい。ここに真実の泉があります。カインさん、あなたは一体、誰と一緒に暮らしていて、誰を殺したのですか」

 ウッドマンはそう言って、アベルの死体を担いで、カインの隣を通り過ぎ、泉の前に立つ。

「あなたが殺した『アベル』の死体です。これを泉に入れましょう。さあカインさん、正直に答えてください。あなたは、誰を、殺したのか」

 ウッドマンは泉にその死体を投げ入れた。
 そしてそこに手をかざす。手からは強烈な明かりが発せられていて、泉を照らし出していた。

「お、俺が殺したのは、アベルだ! あのひきょう者で姑息ないやしい弟の、アベルだ!」

 泉に鮮血が広がって、辺りを赤く染めていく。
 そしてその暗い水面に、血糊を洗われた死体が浮かび上がってきた。
 それは――セツだった。
 顔は一見無残に割られているが、アベルの顔ならば、醜い傷跡が覆っているはず。
 その白い肌は、猫のような眼は、茶色い髪の毛は、間違いなくセツのものだった。

「セツ……! 何でセツが!」

「わかりませんか」

 カインはわなわなと唇を震わせて、ウッドマンの方を向く。

――あなたが殺したからですよ。

「違う、俺は、アベルを、あのふてぶてしいクソ野郎を……!」

「アベルさんは五年前に死んでいるんですよ」

 何、と問いかける声はもう言葉になっていなかった。

「あなたは町では五年前にアベルさんが死んだことにされていることをご存知でしたか?」

「バカな、だってあの時は、セツが余計なことをして、あいつは助かったんだ! 死んでいればよかったのに、顔に傷を負って、それでも生き残った!」

「本当は死んでいたんですよ、その時に。それなのに、あなたにアベルさんが生きていると嘘をついた人がいる」

「誰だそりゃ!」

 吠えるように問うカインに、ウッドマンはわかりませんか、と逆に聞く。
 そしてその指先が、す、と池に浮かぶアベルの、いや、セツの死体を指す。

「セツが? 何で! 何でセツがそんなことをする必要がある!」

 カインには全く分からない。
 セツがどうしてアベルの死をカインに隠さなければならないのか。

「セツさんは思いついてしまったんですよ。あなたと一緒に暮らす方法を」

「何を、言ってやがる……?」

「セツさんはあなたのことがずっと好きだった。あなたと一緒にいたいと思った。でもあなたはセツさんの思いになど気付かない。好意を伝えても思いが叶わないことは明白だった。そこに、アベルさんの死が舞い込んだ。彼女はアベルさんの手術を行い、彼が死んだときに、アベルさんになり替わることを思いついた。幸い顔は潰れていて、それで包帯を巻けばいいという言い訳はすぐに考えられた。本物のアベルさんの死体は、もうずっと前にこの泉に沈められていたんですよ。以後、あなたの隣で暮らしていた樵の弟は、セツさんだったんです」

 はあ、とカインは威圧するような声を上げた。
 理解できない。何だそれは。アベルの正体が実はセツだった? そんなバカな。

「何でセツがそんなことしなくちゃなんねェんだよ!」

「あなたが好きだったからですよ」

「わけわかんねえよ!」

「セツさんはあなたが大好きだった。でも、あなたはセツさんのことなど見向きもしない。これでアベルさんが死んだら、あなたはもしかしたら町を出て行ってしまうかもしれない、彼女はそう思った。そこで、アベルさんが死んでないことにしたんです。顔に包帯を巻いて、アベルさんの振りをすることにした。それで当面、あなたは町に留まるだろうと彼女は考えた。町の人達にはアベルさんが死んだと伝え、あなたがそのことを気に病んでいるから、なるべく話題に出さないようにと触れ、セツさんはアベルと自分の一人二役の二重生活を続けた。そして、セツさんはそのうち、この二重生活の味を占めてしまった。彼女は、自分がアベルとして生きることで、あなたとの仮の結婚生活を送ることに成功したんです。それがやめられなくなってしまった」

――アベルはいつだってニコニコ笑って、カインが起きるころには朝ごはんを作ってくれていた。昼の弁当を作り、夜はカインが街に繰り出して、帰ってくるのをずっと待っていた。

「しかし三か月前、セツさんの幸せを踏みにじる天敵が現れた。それはあなたが泉の精霊と慕っていた盲目の巡礼者の存在だった。セツさんはアベルとして暮らしつつも、セツである自分にあなたが振り向くのを待っていたんですよ。それなのにあなたは、また新しい女に夢中になった。しかも今度はかなりご執心だった。だからセツさんは――泉の精霊を殺すことにしたんです」

 その言葉に、カインの中の最悪の想像が一本の線でつながった。

「セツさんは泉の精霊に、あなたに告白するから機会を作ってほしいと願い出た。お昼に泉にあなたがやってくるから、アベルの変装をして、あなたを自分と交際するように説得してほしいとでも言ったんでしょう。そしてまんまと泉の精霊にアベルの変装をさせた。そこにあなたがやってくる。そしてあなたは、彼女をアベルだと思い込んだまま、彼女の額を斧で割った。そして、この泉に沈めたんです」

――そして、セツさんは何事もなかったかのように、アベルの振りを続けた。
 ウッドマンは言う。
 カインは愕然として、空いた口を塞ぐことができずにいた。

「そこに、私達がやってきて、彼女は困った。彼女はあの日、私達が診療所の裏で、アベルの殺害を依頼するのをちゃんと聞いていたんです。それで彼女は、私達の前に、アベルとして登場することはできなかった。スケアクロウの前には現れられても、私の前には出てこられなかった。だからあの日、アベルさんは診療所に行ったように見せかける必要があった。そして、当分登場しなくていいように、ペストかもしれないと嘘をついた。彼女の計画はそれで終わりのはずだった。旅人の私達がこの町に長居するはずがないし、依頼に拘ることもあるまいと踏んで、彼女はアベルでいることをしばらくやめれば、私達に殺されることもないと考えた。だが、あなたはそれを待ちきれず、彼女を殺してしまった。あなたは最後まで気付かなかった。あなたの弟が死んでいることも、セツさんがあなたの弟の振りをしていることも、そしてセツさんの本当の気持ちにも。あなたは何一つ気付くことなく、彼女を――殺してしまった」

 ウッドマンの言葉に、カインは再び泉に浮かぶセツの死体を見た。
 その無残に割られた頭部。

「――嘘だ」

 ようやくそれだけ言うことができた。

――嘘に決まっている。そうだ、人間でもないこんな奴の言葉を誰が信じるものか!

「それではあなたが信じるものに、真実を言ってもらいましょうか。――どうせ聞いているんだろう、ネッサローズ。いい加減スケアクロウを返せ」

 ウッドマンが泉に向かってそう告げる。
 すると、泉の底から、ごぼごぼと何かが吹き出し、大きな水しぶきを立てて、何かが飛んできた。
 ウッドマンはそれを抱きとめる。
 
「ぶはあ! はあ、はあ! あれ、オレ、生きてる! ウッドマン! 生きてるのか?」

 荒く息を吐くそれは、びしょ濡れのスケアクロウだった。
 顔を真っ赤にして、ウッドマンの割れた頭に抱きつく。
 そして大きな声で泣く。

 しかしカインはそんなものよりも、その泉の淵に立つものから目が離せなかった。
 さっきスケアクロウを泉から投げ飛ばしたもの――白銀の髪に、空ろな白い眼。玉のような肌に鈴の鳴るような声で笑う――それは、泉の妖精だった。
 銀の月の光を浴びる彼女は、神々しいまでに美しかった。
 頭が割られた跡など少しもない。くすくすと笑いながら、こちらを見ている。

「スケアクロウと言ったねえ、そこの子ども。ここに金の広つば帽と、銀の靴がある。お前が落としたのはどれだい?」

 ウッドマンが生きていることと、自分が助かったことに大声で泣いていたスケアクロウは、問われてそちらを見る。
 そして、どっちも違うよ、と答える。

「そうだ、オレの帽子! あれは父さんの形見の麦わら帽子なんだ! こんなはではでの帽子じゃないよ! 靴だってこんなのじゃないよ! もっとぼろぼろだけど、俺の帽子と靴は、これじゃない!」

「くすくす、正直正直、いい子だ。よしよし、ちゃあんと麦わら帽子とゴム靴を返してあげようねぇ。それからこの金の広つば帽と、銀の靴もあげようねぇ」

 スケアクロウはきょとんとしていたが、泉の精霊から、自分の帽子と靴と、それから金の帽子と銀の靴をもらう。
 呆然と渡された麦わら帽子をかぶり、他のものを腕の中に抱きしめたままぽかんとしている。

「い、泉の精霊――あんた、生きてるのか?」

 カインは目を丸くして、しかしそれでも微かに喜びながら問いかけた。
 彼女が生きていてくれたなら。彼女さえ生きていたなら、それで、もう。

「泉の精霊だって、そんな名前でお呼びでないよ。アタシの名前はネッサローズ。四方を統べる魔女の一角、東の魔女、虚ろなる東雲――ネッサローズ。それがアタシの名前さ」

 カインは泉の精霊――ネッサローズの変貌に戸惑いを覚える。
 カインが知る彼女はそんなしゃべり方ではなかった。
 いつも敬虔で、真摯で、優しくて――。

「うふふ、少しは淑やかに可愛らしく見えたかねえ? いやいや、あんた達の色恋沙汰はいい見世物だったよ。惚れた男に近付きたくて、その弟の振りして身の世話することに命がけの女! もう笑いをこらえるので一杯一杯! ひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ネッサローズは下品に笑う。

「違う、お前は、泉の精霊じゃない! 彼女を返せ!」

 カインは叫んだ。するとネッサローズはピクリと止まる。

「た、すけて、……カイン、様。魔女に、体を乗っ取られて……く、苦しいの……」

 白い目をゆがめて、薄く涙を浮かべながら、荒い息を吐いて呻くその姿は、カインがよく知る泉の精霊と寸分と違わない。
 そうか、やはり彼女は、悪い魔女に体を乗っ取られて――。

「泉の精霊! 今助けるぞ!」

 泉の精霊はまたうつむく。そしてひくひくとその修道服の肩を震わせた。

「ば~っかじゃねえの? だからさぁ、あんたが知る泉の精霊、なんて女は、最初からいないんだよ! 全部嘘、最初から最後まで嘘! この町は嘘の町! 町の人間はみんな死んだ奴が生きてると思ってて、お前はいもしない女のことが大好きだった。殺したいほど憎んでいる弟はすでに死んでいて、お前を好いている女はお前に本当のことを隠していた。嘘つきだらけのこの町の名はクレタ! 全てのクレタ人は嘘つきなのさ! ひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ネッサローズは歪んだ笑みを浮かべて、舌を出して心底馬鹿にしたような顔でカインを見下した。

「嘘だ、嘘だと言ってくれよ、泉の精霊!」

 カインは悲壮な声で叫ぶ。

「だからさ、最初から言ってんだろ、全部嘘でしたってさ! あんたが愛した女はアタシの演技! いやあいいもの見させてもらったよ。楽しかったぁ!」

 ネッサローズはけらけらと馬鹿にしたように甲高い声で笑う。

「カインさん、こいつはあなたが思うような盲目の巡礼者なんかではありませんよ。かつて科学が支えていたこの世界を滅ぼして、その上に自分たちが自由に使える魔法という法則を上書きして、世界をずたずたに引き裂いた、邪悪な四人の魔女の一人だ」

 カインは言葉さえ失って、ただ目線だけをウッドマンとネッサローズの間で往復する。

「その通りだよ! あたしは人間に甘い夢を見せて、その夢が覚めた時の、悲壮な現実を知って絶望する顔が大好きなのさ! 今のあんたの顔のことだよカイン。まあ、もっともあんたやそこで頭かち割られて死んでる女は、町の他の連中と違って、アタシの泉の水を飲まなかったから、魔法にかからなかったんだけど。魔法にかかってもいないくせにやってることはその辺の連中よりずっとぶっ飛んでて、あはは、ひゃひゃひゃひゃひゃ! いやあ、ホント、面白かったよ。ひゃひゃひゃひゃひゃ! ――で」

 そう言って、ネッサローズはウッドマンの方を振り向いた。

「お前らはアタシを退治しに来たんだろう? でも残念でしたぁ! このネッサローズはそう簡単にはやられない!」

「エーテル機関銃、全砲門展開」

 ネッサローズの侮った声に、ウッドマンは両手を前に突き出す。
 次の瞬間、ウッドマンの体が『開いた』。
 それは文字通り、開いたとしか言いようがなく、レインコートの袖に覆われていた腕が、その袖ごと六枚の花弁を持つ花が蕾を開くように展開し、その金属質な花の中央には無骨に輝くいくつもの砲門がずらりと並んでいた。
 胸も、腹も、足も、中央から横に開いて、その中にはやはり一様に鈍色に光る筒がネッサローズに照準を合わせている。

「エーテル弾頭、前段発射」

 ウッドマンの平坦な声とともにすべての砲が緑色の輝きに満たされ、息をつく間もなく、辺りに凄まじい爆音が響いた。
 太鼓を滝のように打ち鳴らしているような、断続的に続く轟音――否、銃声。
 十秒は続いただろうか。カチンカチンと、金属同士が打ちつけられる音が響いたかと思うと、ウッドマンは、開いていた体から、たくさんの水蒸気を出して、その体を閉じた。

 爆音の後の森の静寂は、音が消えてしまったのかと思うくらい静かに感じられた。
 カインは恐る恐るネッサローズの方に目を向けた。
 もうもうと立ちこめる土煙と、泉から立ち上る水しぶき。
 そして――その中から、壊れた鈴を鳴らすような、バカにしたような笑い声が辺りにこだました。

「ひゃひゃひゃ! だから無駄だって! アタシは虚ろなる魔女、ネッサローズ! エーテル弾頭だろうと、金属弾頭だろうと、お前の攻撃など通じないんだよ!」

 先ほどのウッドマンの攻撃で掘り返したように原型を失っている地面を見れば、どれほどの威力だったのかは想像するまでもない。
 しかし、その崩壊した泉の淵に、ネッサローズは――泉の精霊は、毛ほどの傷跡もなく、笑いながら立っていた。

「いい加減この町も飽きたところだ! 新しい住処を探す前に一つ、滅ぼしてやろう!」

 ネッサローズがそう叫ぶと、辺りに地鳴りが響いた。
 ネッサローズは甲高い笑い声をこだまさせながら、徐々にその姿を変えていく。
 足が足元の水と一体となって溶けていく。
 泉の淵の地面を割って、姿を現したのは奇怪な生き物だった。
 巨大な八本の半透明のクモのような足。その中心には逆巻いた水があり、その水の上にネッサローズの上半身が生えている。
 八本の足がそれぞれ屈んだと思いきや、それが一気に跳ね上がり、町の上に飛び上がって、その八本の足はそれぞれの節ごとに分離し、空いっぱいに広がる。
 夜が明け始め、薄く明るくなりつつある空に、赤黒く光るものがその空を満たしていく。

「アタシは東の魔女、ネッサローズ! 我が魔法は『虚』! 口に『虚』せば即ち『嘘』となり、町に『虚』せば、即ち『廃墟』と化す! 近隣一体廃墟と化すがいい!」

 ネッサローズがそう宣言すると、分離したクモの足はそれぞれ天空に、ネッサローズを中心に周り出し、やがてそれは目で追えぬほど速くなった。
 辺りには雷雲が黒く立ち込め出し、強く風が吹き始めた。

――これは何だ。

――この世の終わりだ。

 カインはそう自問自答した。そうだ。もう誰もいないのだ。アベルもセツも、そして泉の精霊も。
 カインの世界は――滅んでいるのだ。

「ウッドマン!」

 聞こえてきた声はスケアクロウのものだった。

「ウッドマン、大変だよ! このままじゃ……」

 スケアクロウは慌てた様子だったが、ウッドマンは焦った様子もない。
 もっとも割れた頭では焦っていようといまいと、表情など読み取れないだろうが。

「カインさん。契約通り、アベルさんの殺害は成功しました。約束通り、この金の斧はいただきます」

 呆然とするカインの持っていた斧をウッドマンは奪う。
 カインはそれに抵抗することもしなかった。

「どうするの、ウッドマン」

「ネッサローズの魔法は『虚』。彼女に『実』なるものは通じない。……彼女は人の言葉によって虚像の幸せを生み出す魔女。すなわちそれによって生み出されたものは全て『虚』だ。ならば『虚』に『虚』を撃ち込んだらどうなる?」

 言いながら、ウッドマンの金の斧を握る手はとけるようにその形を失っていく。
 あっという間にそれは、漆黒の大砲の形になった。
 砲身には金の斧が隙間なく埋め込まれていた。
 その金の刃だけが、腕から生えているようだった。

「スケアクロウ、木につかまって、うずくまっていろ」

 ウッドマンが言うと、スケアクロウは慌てて近くの木の根ものを掴んでしゃがみこむ。
 ウッドマンはそれを確認すると、手から生える大砲を真上にいるネッサローズに向けた。

「炸裂エーテル式火砲『クエララ』。照準合わせ、完了。砲身固定」

 ウッドマンのレインコートの端々から伸びる紐がアンカーのようにウッドマンの周りの地面に突き刺さる。

「ひゃひゃひゃひゃひゃ! 無駄無駄ぁ! アタシは虚なる魔女! 生も死も、何もかも虚ろ! 攻撃なんか効くかね!」

「エーテル充填……五十パーセント、八十パーセント、……完了。秒読み開始、十、九、八」

 カインは目の前で繰り広げられるそれを呆然と突っ立ったまま見ていた。
 何が起こっているのか理解できなかった。
 泉の精霊は、あのふざけた姿は何だ。この殺し屋のバカげた体は一体。

「五、四、三」

 この殺し屋は、今、泉の精霊を殺そうとしていて。
 ああ、だってそうだ、あの手を見ろ。あの金の斧を埋め込んで、それを打ち出そうと泉の精霊を狙っているじゃないか。
 今にも打ち出そうとしているじゃないか。
 だったら、俺は――。

「二、一、発射」

「やめろぉおおおおおおっ!」

 轟音とともにカインは叫んだ。そしてウッドマンに掴み掛る。
 途端にウッドマンの体から大量の蒸気が噴出される。しかし、カインはその胸に、やけどするほど熱い砲身を抱え込んできた。
 泉の精霊は殺させない。彼女は俺が守るんだ――。
 カインは今気付いた。自分の本当の気持ち。
 泉の精霊を、自分は愛している。彼女が魔女だったとしても関係ない。
 どんなに邪悪で、冷酷で残忍な魔女でも、彼女の笑顔を守りたい。

――俺は、彼女を愛している。

 それが樵の兄、カインが果てしない罪を重ねてたどり着いた、最後の結論だった。
 カインはようやく、それに気付く。それでもまだ真実には辿り着かない。

真実の泉と東の魔女
»»  2013.10.04.
3050年 6月14日 夜明け 

 辺りは既に明かりが無くても何があるか見える程度には明るくなり始めていた。
 ネッサローズの足元の逆巻く水に、金の斧は間違いなく当たった。
 雷が落ちたかのような轟音と共に、ネッサローズは泉に落っこちた。
 もうもうと水蒸気が上がる森の中。スケアクロウはウッドマンの側に駆け寄る。

「ウッドマン、やったの?」

「……やっていない。彼が体当たりして、狙いが微かにそれた」

 スケアクロウが目をやると、そこには四つん這いになって手と胸から血を流すカインがいた。
 おそらく、ウッドマンが大砲を撃つ直前に、その腕に抱きついて止めたのだろう。
 カインは、這いずりながら、泉の精霊、と呼び続ける。
 やがて水煙が消え、その干上がった泉の中心に、その姿はあった。

「泉の精霊!」

 カインは安堵したように叫ぶ。

「いい加減にその名でアタシを呼ぶんじゃない!」

 ネッサローズの下半身は溶けたように半透明の緑色の粘液になっていた。
 その上に生えている上半身を、両手で支えながら、憤怒に歪んだ顔で言う。

「まさか、アタシが、自分で生み出した虚によって、倒されるとは……」

「とどめだネッサローズ。その状態なら、エーテル弾でも十分に倒せる」

 ウッドマンはそう言い放つと、またその腕の大砲をネッサローズに向けた。

「止めろウッドマン! そ、そうだ、取引をしよう! アタシの力は『虚』。お前が嘘にしたいことを嘘にできる。お前、本物の心臓が欲しいんだろう? アタシの力を使えば、それを叶えることができる! だからやめてくれ!」 

「交渉は成立しない。さよならだ、ネッサローズ」

「やめろ!」

 そこにカインが立ちふさがった。

「どいてください、カインさん。でないとあなた事彼女を打ち抜くことになる」

「撃つなら撃てよ。彼女と一緒に死ねるなら、本望だ」

「どきなカイン。ゼロ機関屈指の暗殺者ウッドマンを騙し抜いて逃げ延びるならまだしも、……お前みたいな無力な人間の影に隠れて、守られたんじゃあ……アタシの魔女としての面目が、丸潰れだよ」

「そんなもの知らない。俺はお前を守る。愛してるんだ。お前に愛されなくてもいい。今ここで、お前を助けることができたら、俺はそれで満足なんだ!」

 またウッドマンのレインコートからアンカーが伸びる。
 そして、ウッドマンの冷酷なカウントダウンが始まった。

「本当に……バカな男だね、カイン!」

 突然ネッサローズが叫んだ。

 カインが振り返ると、ネッサローズは嫌だなぁと、涙を浮かべて苦い笑みをこぼした。

「アタシは、虚ろの魔女。何もかも薄っぺらな虚像で、真実なんてこれっぽっちもないつもりだったのに、カイン、あんたが命がけで守ったりするから……本当の気持ちが――『真実のまごころ』なんてものに、『気付い』ちまった…アタシはもう、アタシ自身の存在を保てない」

 ネッサローズの体が、しゅうしゅうと煙を上げて、溶けていく。カインは思わずそれに駆け寄った。

「カイン、小僧から金の広つば帽を奪って、アタシのところに持ってきておくれ……」

「渡すな、スケアクロウ!」

 ウッドマンが珍しく慌てた声を上げた。先に動いたのはカインだった。
 ネッサローズが言うが早いか、カインは脱兎のごとくスケアクロウから金の帽子を奪って、ネッサローズの元に駆け付ける。
 スケアクロウはウッドマンが怒鳴ったことにびっくりして、動くことができなかった。
 ネッサローズはそれを受け取り、何かを唱えた。
 すると突如、大きな喝采のような羽ばたきの音が大空を覆った。
 それは鳥ではない。黒い羽根を生やした――サルの群れだった。
 羽を生やしたサルはネッサローズの前にひれ伏す。

「楽しめたよウッドマン。アタシはこれで消える。嘘つきは本当の気持ちなんかに気付いちまったらおしまいなのさ。さあ、カイン、お前はこれで西の魔女の――エルファバの城へお行き」

「いやだ、泉の精霊、お前を残してなんていけるもんか!」

 カインは消えていくネッサローズを抱きしめる。
 ネッサローズは苦笑いを浮かべながら、その白い眼でカインの瞳を見つめた。

「だからさ、違うって言ってるだろ。アタシの名前は――」

 カインの抱擁を受けて――東の魔女、ネッサローズは朝焼けに溶けていく。

「待ってくれ、行かないでくれ、ネッサローズ!」

 カインはついにその名を呼んだ。
 最後に名前を呼ばれたネッサローズは幸せそうな笑みを浮かべて、東に向かって吹く風に消える。
 カインはその残滓を手に留めるように、祈るように両手で風を包む。
 そのカインの姿を、翼の生えたサル達は覆い、そして、西の空へと飛んでいった。
 サル達が飛び去った後には、カインの姿はなかった。
 ただ、八つの高足がついた丸い金属の輪だけが、残されていた。
 ウッドマンは手を普通の形に戻し、それを拾う。

「オルガンⅠ【ネッサローズ】を認識。任務達成を確認。予言の成就率二十パーセント」

 ウッドマンはそれを、胸を開いて内部にある空間に収めると、うずくまっていたスケアクロウを抱きかかえた。
 スケアクロウはただ、その胸の中でうずくまる。

 やがて、後にはただ干上がった泉と、荒れ果てた森、そしてその底に転がる死体だけが残った。
 頭を割られたセツの死体と、白骨化した――本物のアベル。

「無事か、スケアクロウ」

 割られた頭のまま、ウッドマンは問う。
 スケアクロウはそれに、大丈夫、と答えて、近くの木の枝に引っかかっていたマントを羽織る。

「ごめん、金の帽子、とられちゃった……」

 ばつが悪そうに言うスケアクロウの頭を、ウッドマンは撫でた。

「お前のせいじゃない。銀の靴が手に入ったし、『ネッサローズ』も回収できたから良しとしよう」

 ウッドマンはスケアクロウが胸に抱えている銀の靴を見て言った。
 気付いたようにスケアクロウは自分のゴム靴を穿く。

「これからどうするの?」

「まずは一度機関に戻って報告をしないといけない。この頭部の破損も、機関でなければ修復できない。さあ、帰ろう。スケアクロウ」

 そこに、大きな悲鳴のような怒号のような声が響いた。

「ああ、俺達の泉が!」
「やはりお前らは町に入れるべきじゃなかった! あの割れた頭を見ろ、奴は人間じゃない!」
「泉を返せ! この化け物!」

 スケアクロウ達はあっという間に四方を町の住人に囲まれた。
 ウッドマンはスケアクロウを守るように抱きかかえる。
 怒り浸透した様子の住人達はそれぞれの手に斧やら鉈やらを携えている。

「俺の娘が腐っちまった! 泉の水が必要なんだ!」
「私の息子を返してちょうだい! あの子はちゃんと生きてたんだ!」
「両親は死んでなんかいない! あの泉があれば、また生き返る!」

 憤怒の形相に顔をゆがめる住人は口々にウッドマンに言う。

「あなた達は魔女に悪い夢を見させられていたのです。そんな泉はどこにもない。これまでも、これからも」

 ウッドマンがそういうと、町の住人の怒りはさらに苛烈になり、今にも掴みかかって来そうになった。

「待たんか、皆の者」

 静かに言ったのは、老人の声だった。老人は人垣を割ってウッドマンの前に姿を現す。
 それはスケアクロウ達が止まった宿屋の主人だった。

「ガーフィールドの旦那……」

 住人の誰かが言う。

「わしゃ全部思い出したよ。息子が三か月前に死んだことも。あの泉のことも何もかも。お前さん達も、本当は思い出しとるんだろ?」

 ガーフィールドが言うと、数人が息のつまったような声を上げた。

「――いい夢じゃったよ。毎日毎日、気のいい新聞配りの若いのとやりあって、ありゃ、わしの息子じゃったか。いい男になりよって。三か月前、ペストでぽっくり逝っちまったんじゃった。わしらは夢を見とった。死んだものが生きてる夢じゃ。――幸せな、いい夢じゃった。のう、みんな」

 老人の声に、周りからはすすり泣く声が聞こえ出した。

「いい夢じゃったが、夢は夢じゃ。醒めなければならぬ。思えば長く眠りこけておった。三か月も夢の中――これ以上は、必要あるまい」

 でも、と声が上がる。ガーフィールドはそれを制す。

「死者には墓を作ってやらねばなるまい。わしらがすべきなのは、新しい躯を作ることではなく、今ある躯を早くちゃんとしたところに葬ることじゃろう。違うかの」

 その言葉を皮切りに、スケアクロウ達を囲む人垣の号泣が始まった。
 ガーフィールドは目に涙を浮かべつつも、ウッドマンに一礼する。

「よくぞわれらの夢を覚ましてくださった。クレタの町の者を代表してお礼を申し上げる。そして、出ていきなされ。もはやこの地に、あなた方の望むものはあるまい」

 そう言ってガーフィールドが町の出口を示すと、その方向の人垣が割れる。
 ウッドマンはただ無言で、スケアクロウを抱きかかえたまま、町を通り抜ける。
 町には死臭が満ちていた。ハエの群れが飛んでいた。
 そして家々からは、嘆きの声が聞こえる。

「おい」

 町の入り口から出ようとする二人を、誰かが呼び止めた。
 振り返るとそこにはあの飯屋の店主がいた。彼は革袋をウッドマンの足もとに投げる。
 地面に落ちた革袋は、金属の音を立てる。入っているのは多分お金だ、とスケアクロウは思った。

「返す。そんなもの、いらない」

「受け取っておいた方がいい。あなた方にこれから一番必要になるものです」

「いらないんだ」

 ウッドマンの答えに、ロベルトは強い調子で答えた。
 ウッドマンはスケアクロウを腕から下ろし、革袋を拾う。
 ロベルトは、スケアクロウの頭に手を載せた。

「――悪かったな、坊主。俺の方が間違ってた。怖い思いさせてごめんな」

 涙をこらえるようにそう言って、ロベルトは町の方に戻っていく。
 ウッドマンは特に何も感じてない様子で歩き出す。

「ウッドマン、オレ達、これでよかったのかな」

「よくはない。ネッサローズは倒せなかった。任務達成率は七割と言ったところだ。銀の靴が手に入ったのは予期せぬ僥倖だったが――」

「そうじゃなくてさ!」

 淡々と任務のことを語るウッドマンをスケアクロウは止めた。

「あの町にかかってた魔法は、解かない方が幸せだったんじゃないかな」

「スケアクロウ、魔法が解けたら幸せでなくなってしまうようなものを、そもそも幸せと呼ぶべきじゃないんだ。幸せは魔法によってもたらされるものではない」

「でも……」

 スケアクロウは思う。あの時、スケアクロウはあの町の人を狂っていると思ったけれど。
 でも飯屋の店主の妻を思う気持ちは本当だったし、宿屋の主人と新聞配りの青年は、本当に楽しそうに話していたのだ。
 泉の精霊を思うカインの気持ちも本物だったし、セツが死んだのだって、きっと本物の気持ちからなのだとスケアクロウは思う。
 そして――東の魔女、ネッサローズも、何もかも嘘っぱちだったけれど、最後に、本気でカインを愛した。
 それに気付いてしまったから、彼女は滅びたのだ。

「ではお前は、スケアクロウ、あのまま死んだ人達が野ざらしにされていて、それが本当に幸せの形だと思うのか?」

「それは――」

 確かに、ロベルトの妻や、ガーフィールドの息子の死体は、ちゃんと埋葬してやるべきだと思う。

「好きな人が死んでいるのに、死んでいることに気付かない。――それは不幸な話だ」

 ウッドマンの声に相変わらず抑揚はなかったが、その言葉には何か深い感情が感じられた。

「いつか、誰かが気付かなければならなかったんだ。そして、気付いた時に、町の人達が悲しむのも避けられないことだった。夢はいつだって幸せで、目を覚ませば耐え難い現実が控えているものだ。起きた時は、誰だって憂鬱だ。夢が幸せであればあるほど。現実が耐え難いものであればあるほど」

「あの町の人達は――」

「心配ない。ネッサローズは滅びた。他の三人の魔女たちが、すぐに動くことはないだろう。金の広つば帽が西の魔女の手に渡ったのも、オズの予言どおりではある」

「ねえ、ウッドマン。じゃあ、オレの気持ち、気付いてる?」

「私は心を持っていない。人間の気持ちを推量するように設計されていない」

「じゃあどうすればいい?」

「言葉にすれば理解できる。行動で表せば把握できる。スケアクロウ、人間は人間が思っているほど、相手の気持ちを推察できる動物ではないんだ。私が人造人間だろうと、人間だろうと、思いは表さなければ伝わらない」

「あのね、ウッドマン」

 スケアクロウはウッドマンの手を握る。

「お腹すいた」

「次の町までの辛抱だ」

 スケアクロウのお腹が大きく音を立てる。
 二人の旅人は金色のタイルの道を歩いて行く。
 次の町を目指して――。

「――あ、その前にウッドマン、その顔隠した方がいいよ」

 スケアクロウは言って笑う。
 ウッドマンはフードをかぶって、微かに笑ったように息を吐いた。
ブリキの樵と真実の泉
»»  2013.10.04.

人殺しの斧と真実の泉

2013.10.04.[Edit]
 本当は金の斧が欲しかったんだろう。 本当は銀の斧が欲しかったんだろう。 だけどお前は正直だから、落としたのは鉄の斧だと正直に答えてしまうんだろう。 それは質問には正直だけれど、自分の気持ちには嘘をついているね。 今度は気持ちに正直に答えるんだよ。 お前が落としたのは一本で家が買えるきらびやかな金の斧かい。 それとも一本で酒樽が十は買える美しい銀の斧かい。――あるいは、一振りで肉を立ち、骨を砕き、命...

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 この町の名をクレタと言ったが、その名が失われて、久しい年月が経った。
 別に住民がいなくなったわけでも、国が亡びたわけでもない。
 確かに住んでいるものは尽く病にかかり住民は半分まで減ったこともあったが。
 住民が知らないだけで、国などはとっくに亡び去っているのかもしれなかったが。

 とにかくこの町は大陸の東の果てにぽつんと存在していて。
 住民の大半が病にかかったところで都の人間が救援に来ることもなければ、同じように都に大異変があったとしても、町自体には何の知らせも来ない。
 この町は、そういう町だった。辺境の辺境。田舎のさらに田舎だった。

 何しろ町には何もなかった。
 あるものといえば、小さな食堂が一つ、問診に回らなければいけない小さな診療所が一つ、さびれた宿屋が一つあるだけだった。
 町の周りは一度迷い込めば二度とは出られない樹海が広がっている。
 中央都市、エメラルドの都へ続く道は金色のタイルで舗装されていたが、都へ出かけると言って帰って来たものは一人もいなかった。
 それが都にたどり着いてあまりに便利なので、帰ってくるのが嫌になってしまったのか、それともこの道が都ではなく、死へと続いているからなのかは誰にもわからなかった。

 祭りもなければ面白いことなど何一つなかった。
 仕事もなかったし、食べ物だって豊富にあるわけではなかった。
 この町に住まうものは、どこにも行けない。行きたい場所があるわけでもない。
 この町に住まうものは、ここでしか生きられない。生きたい場所があるわけでもない。
 たまに行商がやってきて、宿を借りて荷を売るけれど、町の外の様子がわかるわけではなかった。
 とにかくこの町の人間はあらゆることに興味がなくて、ただ日が昇ったら目を覚まして働き、日が沈めば家に帰って酒を飲んで寝る、その単調な繰り返しを何の疑問も持つことなく、続けるだけだった。
 親から子へ、子から孫へ、変わることなく、営々と受け継がれていた生き方。
 町の人間はそれが実はほんの五十年前からいきなりそうなってしまったと知ったらどうなるだろう。

 かつて――そう、ほんの五十年前まで。
 この世界を科学と言う技術が席巻していた。
 それは今のこの町の暮らしが哀れで馬鹿馬鹿しくなるほどに、万能で、発達していたという。
 鉄の塊が空を飛び、あらゆる病を治す薬を生み出す。
 一つで世界を終わらせることができる爆弾があり、一匹で全生物を根絶やしにできる細菌を生み出す。
 そして、人の命は永遠に続き、死んだ人間さえ蘇らせたという。

 それは、えらい違いだ。
 水を井戸から汲んで、水瓶に移し、それぞれの家においておかなければならないこの町とは。
 夜になればろうそくが無ければ、暗くて足元さえおぼつかないこの町とは。
 冬に暖を取るために、絶えず薪を割らなくてはならないこの町とは、まるで違う。

 五十年前のある日――科学に支えられた文明は突如滅びたのだ、と本を読む限りでは思うしかない。
 この町で本が読めるのは限られた人間だけだったが、とにかく五十年前の本と、それ以降の本では歴史が継続していない。
 それはまるで世界自体が違うものになってしまったかのようだ。
 科学についての記述は、五十年以前の本にしか書かれていなくて、それ以降の本は、必ずこの世界を支配している理は魔法という因果に支えられていると書かれている。

――魔法は人間の信じる力を源に発現する奇跡で、科学は疑うことを根本にする学問だ。
 かつてこの世界には科学が蔓延していた。人々はあらゆる物事を疑いに疑いぬいて、ついには生死さえも絶対ではなくしてしまった。
 何一つ信じるものがなくなって、人々は信じられるものを求めた。
 そして五十年前――世界の向こう側から、『唯一絶対に信じられるもの』がやってきた。魔法という奇跡とともに。
 人々は疑うことを、科学することをやめ、盲信することを、魔法にすがることを始めた。
 今はもう、なぜ自分たちが魔法にすがっていたのか、すがっているのか、その理由さえ忘れてしまった。

 実際大きな町には幾人もの魔法使いがいるらしかった。
 あのエメラルドの都に住むという偉大なる魔法使い、オズを筆頭に、たくさんの魔法使いがいて、この世界を支配しているという。
 その記述も本を見る限りでは五十年前のある日を境に唐突にそういうことになったみたいに感じられた。
 でも、この町はそんなこととは全く関係なかった。魔法使いもいなければ、訪れたこともない。

 今、この世界を支配する唯一の法理は、魔法だという。
 魔法は選ばれた人間が、選ばれた教育を与えられて初めて使えるようになるものだ。
 当然この町に魔法を使える人間はいないし、おそらくこれから先も使えるようにならないだろう。
 それに比べて科学は、科学によって生み出されたものは、誰の手の中にあっても同じく作用するという。
 科学は、五十年前に滅び去った。――それはつまり、この町の文明も滅び去ったということだ。
 空白を埋めるべき魔法は、その福音をこの地にもたらさなかった。

 万能の、科学。
 夢のようだ。おとぎ話のようだ。
 到底今の町を見る限りでは考えられない。
 町には弱い五十を超える老人はそれでも十数人はいる。
 しかし彼らはそんなことがあったことなど、まるで知らないように過ごしている。
 彼らも、彼らの親も、額に汗して土を耕す生き方が当然だったような顔をしている。

――僕は。

――ある日、突然気付いたのだ。この世界のありようが、本当の姿ではないことに。
 それは、考え難い偶然が織りなす奇跡の真実かもしれなかったし、あるいは僕が好きな女の子に振られてふて腐れてそう思うだけの、単なる妄想に過ぎないのかもしれない。

 でも、とにかく僕は――この町を出たい。この世界の本当の姿を知りたい。
 五十年前に突如世界がその姿を変えたというなら、どうしてそうなったのかを知りたい。
 この町の外に続く唯一の道。金のタイルが敷き詰められた石畳。
 
 旅には何が必要だろう。お金、力、知恵? 違うと思う。
 人が旅立つのに一番必要なのは理由だ。
 どこを目指すのか。どうして旅に出たいのか。何のための旅なのか。

――僕は明日、この町を出る。金色の道を通って、中央都市を目指す。
 世界の中心に栄えるという――エメラルドの都。
 僕はそこに行かなければならない。だって僕は気付いてしまったのだから。

(3045年4月30日 アベル・アイアナックスの日記)

嘘つきの町の樵の日記

2013.10.04.[Edit]
 この町の名をクレタと言ったが、その名が失われて、久しい年月が経った。 別に住民がいなくなったわけでも、国が亡びたわけでもない。 確かに住んでいるものは尽く病にかかり住民は半分まで減ったこともあったが。 住民が知らないだけで、国などはとっくに亡び去っているのかもしれなかったが。 とにかくこの町は大陸の東の果てにぽつんと存在していて。 住民の大半が病にかかったところで都の人間が救援に来ることもなけれ...

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3050年5月21日 朝

――殺したい。

 カインはそう思っていた。他ならぬ自分の弟、アベルを。

 だからその日は、朝からずっと雨降りだった。
 殺意の黒い雲が空を覆って、心に血の雨を降らせていた。
 幸せとか平穏をもたらす光など一点もなく、ただただ殺戮の夢を見せる激しい雨が降っていた。少なくとも、カインの心の中では。
 カインの世界ではカインの心が曇っていれば日は影っているし、晴々している気分ならば雨の日でも晴れなのだ。
 実際の空模様は雨など降ってはいないし、太陽はちゃんと空にあった。
 それでもカインの耳には雨音が止まない。殺したいという憎悪の声が、ザアザアと降りしきっている。

 カインとアベルは樵の兄弟だった。
 両親は既になく、町はずれの森の小屋に二人で住んでいる。
 今日も二人は斧を担ぎ森に出る。森の木を倒すことが二人の仕事だ。
 実際町は昔森だった、と今は亡き両親に聞いたことがある。
 カインとアベルの祖父たちが木を倒し、そこに町を作った。切った木は適当に倒しておくが、いつの間にかなくなっていることが多い。
 薪の需要は多いので町の人間の誰かが持っていくのだろうと考えているが、運んでいるところを見たことはない。いつも気がつくとなくなっている。
 そういうことは全てアベルに任せている。だからカインは、自分が木を倒すことでどうしてお金がもらえるのか、その仕組みも知らなかった。
 アベルはその木の行方を知っているようだったがカインは興味がなかった。
 いつだか聞いた気もするが忘れてしまった。金銭の管理は弟に任せている。
 カインは何も知らない。何も知らないで、ただ木を倒している。それで何も問題なかった。
 カインの生活はアベルによって支えられているようなものだったが、それでもカインはこの弟を殺したいと思っていた。
 殺したいという、その殺意だけは敏感に自覚していた。

 弟のアベルは実にいい奴だった。
 正直で、純朴で、おっちょこちょいなところもあるがどこか憎めない男で、町の連中もアベルはいい奴だと口をそろえて言う。
 だから気に入らない。いや、気に入らないどころではない。大嫌いだ。死ねばいいと思う。殺してやりたい。

 自分は実にいやな奴だ。カインはそう思う。
 嘘つきで、卑屈で、ねちこくて陰湿だ。こうやって弟の性格を喜べないことからして明らかだろう。
 自分が最低だということは随分前から気付いていた。町での評判もきっとよくない。

 アベルは実際、勤勉で良く働く弟だった。その評価は身内びいきではない。
 むしろカインは身内だという理由で弟の人格を歪曲できるならば、積極的に欠点を強調したいくらいだ。
 しかし、アベルにはあげつらうべき欠点はほとんどなく、見つけてもむしろその欠点は『それでもカインよりまし』という評価になってしまうものだから余計に気にくわない。 
 弟が勤勉であればある程、働き者であればある程、それはカインのだらしなさを引き立たせることになる。
 冗談じゃない。カインはアベルの引き立て役などまっぴらごめんだった。
 同じ兄弟というだけで。自分は人並みにだらしないだけなのに。
 カインは不当に謗られている気分になりむしゃくしゃした気分になる。
 カインはそれが自分の勝手な思い込みだということには気付かない。

 うっそうとした森には日の光がはいってこない。この森は基本的に無人だった。
 手には人殺しに使える道具。目撃者はいない。
 例え今後ろからアベルの頭をかち割ったとして、カインはそれを隠し通せる自信があった。
 道具の使い方を誤ったと言えば疑う者もいないだろうし、最悪アベルの死体の上に木を載せておけばいい。
 倒れてくる木の下敷きになるなんて言うのは樵にはついて回る話だ。
 実際、五年前、一度アベルは木の下敷きになっていた。

「兄さん、今日はいい天気だねぇ」

 アベルの声は浮かれている。沈んでいるのなど聞いたことがなかった。
 五年前の事故で奇跡的に生還した時も、そのせいで顔にひどい傷を負ったと知った時も。アベルは笑っていた。 大したことないと。包帯をぐるぐる巻きにしたその顔では笑顔かどうかも判別がつかなかったが、声はいつでも明るかった。

 でも、一応アベルも包帯で巻かれた姿を人前にさらすのはいやらしく、アベルはその事故以来町に行くことはなくなった。いい気味だと思う。

「ああ、いい天気だな」

――いい天気なものか。あの事故で死んでいればよかったのに。

 五年前、二人は大きな木を倒した。アベルはその下敷きになったのだ。
 その時はセツという幼馴染の医者を生業にする女が傍にいて、アベルは一命を取り留めた。
 自分も動転していて助けなど呼んでしまったが、思えばアベルはあのとき死んでいるべきだったのだ。

「泉の精霊は今日も来るかな」

「手を出すなよ。俺が惚れたんだからな」

「あはは、冗談だよ兄さん」

――冗談なものか。知らないとでも思っているのか。

 最近この辺にやってくる巡礼者の女がいた。
 本名は名乗らず、泉の精霊と称している。
 そして、森の奥にある泉のほとりに建っている朽ち果てた石造りの寺院で寝起きしている。
 その寺院はカインの両親が子どもだったころに放棄されたものらしく、いままで誰も住んでいなかったし、泉の精霊がいなくなれば、再びただの遺跡となってしまうだろう。

 しかし、朽ち果てた巌でつつましく暮らす彼女にカインは一目惚れした。
 美しい女だった。彼女の真珠のような真っ白の盲目は、それは一層女を神秘的なものに仕立て上げていて、カインは彼女のことを半ば本気で精霊だと信じている。
 彼女はカインを汚らわしいと差別しなかった。
 カインのことを知っても屑だと罵らなかった。
 泉の精霊は、カインに優しくしてくれたのだ。

 誰にでも優しくする、それは彼女が聖職者で博愛の精神を持っているからだ。
――カインはその当然の結論に至らない。
 彼女は自分に優しい。それだけが事実だった。
 その事実は短絡的に彼女が自分に好意を持っているという結論に達するのに時間は掛からなかった。

 カインはそれが当然の結論だと信じている。
 カインは嫌いな人間に媚を売ることはしないし、死ねばいいと思っている人間には死ねという。アベルにも何度言ったことだろう。
 反対に好意を持つ人間には態度で示す。多くが触れるという表現をとることが多い。
 だからカインは好きでもない人間に優しくすることがあるなんて考えたこともなかった。
 優しくしてくれるのは自分に好意があるからである。好意のないところに優しさは生れない。
 それがカインのなけなしの頭を使った結論のすべてだった。

 仕事の合間を見ては彼女に会いに行っている。
 だが、泉の精霊はどうやらアベルともつながっているらしかった。
 ある日、アベルが金の斧を持って帰ってきたことがあった。どうしたのかと聞くと泉の精霊に貰ったと言う。
 別にカインが勝手に泉の精霊が自分に惚れていると勘違いしているだけで、彼女にしてみれば、アベルが会いにきたならそれを拒むいわれもないはずだが、カインにはそれは浮気として映る。
 しかも、その相手はほかならぬアベルなのだ。腹立たしいどころではない。

 泉の精霊はあちこちの寺院を遍歴する巡礼者の一人だ。
 巡礼者は多く罪を抱えているか、何らかの困苦を抱えていて、神の施しを受けるために寺院を巡る。
 おそらく泉の精霊は自らの盲目のために旅をしているのだろう。
 だからいろいろな街の不思議な道具を持っている。
 巡礼者は基本的に施しによって日々の糧を得るが、長く一所に逗留するような場合、そうやって所持品を日用品と交換しながら生活するものは少なくない。
 カインは他ならぬ泉の精霊本人からそう聞いて、そういうものなのだと思っていた。
 何しろカインは旅に出たこともないし、この町に旅をしに人が来たこともなかった。

 カインはアベルに贈り物をしたのかと泉の精霊を問い詰めた。
 すると彼女は、そんなこと知らないという。金の斧を持っていって見せても全く見覚えがないと言った。
 だがカインはそんな嘘には騙されない。泉の精霊はアベルのことも悪くないと思っているのだ。
 だってカインとアベル並べて見せられればどっちに惚れるかなど火を見るより明らかではないか。
 アベルがいるせいでいつも自分が低く見られてしまう。アベルがいつも、本来カインが得られる取り分まで横取りしてしまう。

――冗談じゃない。泉の精霊は俺のものだ。アベルが死ねばいいのに。

――カインはそういう男だった。
 とにかく人の気持ちや、周りの状況や、自分が置かれている立場――そう言ったことに気付かない男だった。
 気付かなければいけない多くのことを見過ごしていて、見過ごしてしまっていることにさえ、気付くこともない。
 カインは黙々と斧を振り続ける。斧を握る手に込められているアベルへの殺意には気付いている。
 カインが気付くことができるのは精々そう言ったわかりやすいことだけだった。
 本当はもっと気付かなければならないことがある。
 それでもカインは気付かない――。

真実の泉と殺意の朝

2013.10.04.[Edit]
3050年5月21日 朝――殺したい。 カインはそう思っていた。他ならぬ自分の弟、アベルを。 だからその日は、朝からずっと雨降りだった。 殺意の黒い雲が空を覆って、心に血の雨を降らせていた。 幸せとか平穏をもたらす光など一点もなく、ただただ殺戮の夢を見せる激しい雨が降っていた。少なくとも、カインの心の中では。 カインの世界ではカインの心が曇っていれば日は影っているし、晴々している気分ならば雨の日でも晴れな...

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3050年 6月12日 朝

 快晴。カインの寝醒めの天気は、まさしく雲一つない透き通った青空だった。
 世界が輝いている。鳥たちが快哉を鳴いているし、花々は勝利を咲き誇っていた。
 とても晴れやかで、安らかな気持ちだった。
 不快な障害物が取り払われ、光に充ち溢れるような心地に、カインは満足げな伸びをした。

 軋むベッドの上で上体を起こし、壁際のカーテンを引き開ける。
 現実の窓の外はそれほどいい天気ではない。
 際限無く続く森林のコントラストを、薄い雲が漂うくすんだ空が覆う。太陽光を遮り、視界を狭くするような灰色。
 しかしそれは、カインにとってさして気になるものでもなかった。
 空を覆っていても世界を隠しているわけではない。空一面の雲などは、軽く笑い飛ばせる程度のものだ。

 何よりも大事なものは、世界で一番邪魔な障害が、この世界にもういないということだ。
 あの、憎き弟のアベルは――もうこの世にいないのだ。

 自然と口元には笑みが浮かぶ。
 ここ最近寝醒めが良くなかっただけに、気分はますます高揚した。
 ベッドから降りると、床が唸る。使い古された木造りの小屋はあちこちが傷だらけで、雨漏りが木の色を変色させてしまっていた。

 成程、この家も随分長く使った。これを機に新しく作り直すのもいいかもしれない。
 カインは鼻歌交じりにそんなことを考えた。今ある貯金を使えば職人を雇って少々豪華に作り直すくらいのことはできるはずだ。
 いや――そもそもこの町から出て行ってもいいかもしれない。別に思い入れもない。
 もうこの地に自分を縛る存在はかけらもないのだ。町を出て、新しい生活を――彼女と。

「それがいい。泉の精霊も喜んでくれるだろう」

 アベルがいない以上、彼女が自分に惚れることは、カインにとって疑いようもない未来だった。
 ベッド脇の丸い小卓から酒のボトルをとる。
 ラッパ飲みして残り僅かだったボトルを空にした。祝杯だ。
 トンと叩くように、小卓にボトルを戻した。口元をぬぐいながらカインは右手を見下ろす。

 蘇る、あの生々しい感覚。障害物をその手で排除した、勝利の痺れ。
 それを思い出した為か神経が震えはじめたようだった。

「ふ、ふ、ふ」

 口の端がつり上がるのがよく分かった。

――俺は勝者だ、障害物を蹴散らして自由になった男だ。憎き弟アベル。呪わしい弟アベル。いつどこへ行くにもカインの前に立っていたあの男。野郎が、いつだって消さなかった笑み、どんな時も捨てようとしなかった偽り。それをついに壊してやった!

――ある日の朝、カインは、作業に行こうと小屋を出ていく彼の障害に向けて言った。

「アベル、金の斧について話したいことがある」

 アベルは使い古した作業着の肩越しに振り返って言った。

「兄さん、またその話かい?」

 返事は返さなかった。その障害物は、呆れたように包帯の顔を歪めた。
 笑ってみたのだろう。その包帯に覆われた醜い顔も見納めかと思うとこみ上げるものがあったのは事実だ。
 これで最後かと思うと、笑いをこらえるのが一苦労だった。

「分かったよ兄さん、兄さんの気が済むまで話そう。お昼に遺跡の前の湖で待ってる」

 カインの眼の光に気づいた風もなく、明るい様気を振りまいて小屋を出て行った。
 カインは疑わずにはいられなかった。

――何故アベルは、場所を精霊の湖に指定した? 決まっている、彼女と口裏を合わせるために違いない。そうだ、あの弟は実直で純粋で勤勉な男だと思われている。だが実際は、俺と変わりのない、汚い男であるに違いない。あんなにも正しすぎる人間がこの世に存在するものか。あの陽気さで黒い臓物を隠し、他者を欺いているのだ。あたかも醜い顔面を包帯で取り繕うように。

――お前の思う通りにはさせるものか、アベルめ。いや、お前の思う通りにはいかないんだよ。

 カインは知っていた。湖の妖精は昼食時、決まって村の教会へ出かける。
 カインがそれを知っているのは、いつもその時間帯の少しだけ前に、彼女に会いに行っていたからだ。
 カインはいつも日が高く昇るそのずっと前に昼食を食べてしまう。
 その後の休みの時間を利用して彼女に会いに行っていたのだ。

 アべルも、カインのいない別の時間帯に彼女と会っている様子を見せていたが、はち合わせになることを恐れてか、相当ずらした時間であったに違いない。

 昼食時に時間を指定したのが運のつきだ、アベルめ。

 口裏を合わせる計画は成立しない。

 カインは昼食時よりも早めに約束の場所へ赴いた。
 昼飯は食べなかった。木を倒すこともしなかった。ただひたすらに、斧の手入れをした。
 柄が腐っていないか、刃の接合部分が緩んでいないか、刃先が潰れていないか。
 何度も何度も確認した。

 斧を片手に、茂みを抜けた。
 生い茂った植物群がぷっつりと途切れ、代わりに綺麗な円形の湖が広がっている。
 木々に遮られることなく差し込む陽光がキラキラと波に反射する。
 逆光の中に浮かぶ、真黒なシルエットを、カインは見つけた。

 一瞬だけ、湖の精霊と見間違う。
 しかし、振り返ったその人物がアベルの服装をしていることに気がついた。
 何よりも、その顔に幾重にもまかれた包帯を見て、見間違いだと確かめた。

――あいつと彼女とを見間違えるだなんて。

 カインはそう呟いて歯ぎしりしながら、後ろ手に斧の柄を強く握りしめた。
 手が汗ばむが、木でできた柄は程よい湿り気を帯びておかげで滑りにくくなっていた。

「あ、カ……兄さん。どうしたの、約束の時間より少し早い様だけど?」

 振り返ってすぐにカインの姿を捕らえ、そう話しかけてくる。
 カインは返事をせずに一歩ずつ歩を進めた。
 その様子に、鬼気迫るものを感じたのかもしれない。
 不審そうな表情を作る、その標的へ、カインは迫る。

「ちょっと……、ねえ、どうしたの?」

 カインは言う。馬鹿め、サヨナラだアべル。俺の世界の全てを覆い隠そうとする、弟よ。

「カイ……」

 あばよ――。

 湖に沈めた。今頃その骸は、真っ二つにかち割れた頭部を抱えて湖の底で眠っている。

 棚にしまった自分の斧へ視線を向けたカインはにやりと笑った。
 誇らしい気持ちになる。自分はついにやり遂げたのだ。

――ここでもやはりカインは気付かなければならないことに気付かなかった。
 気付く機会は何百とあったはずだ。考えさえすればその結論には至ることができたはずだ。
 それでもカインは考えるべきを考えず、気付くべきことに気付かない。
 そうしていたずらに罪だけを重ねていく。
 そのことにさえ無自覚で、カインはただ邪魔者を排除したことの高揚感に酔っていた――。

 台風一過などというが、空を覆う厚い雲が去った後には透き通るような空がただただ広がっているばかりだ。
 カインの心は見事に晴れ渡っていた。

――さあ、アベル亡き今、素晴らしい青空が俺を待っている。

 そう心躍らせながら、カインは扉を引いて、寝室の外へ出た。
 テーブル一つでいっぱいいっぱいの狭苦しいダイニング。
 そこにいたものを見て、カインは思わず息を止めてしまった。

 それは、昨日までずっとそこにあった光景と何一つ変わっていない。
 テーブルが置いてあって、四つのイスがある。カインが作ったものだ。
 その向こうが一段下がって土間になっていて、煉瓦造りの竈がある。
 竈の上には燻製の豚肉やら、フライパンやらがかかっていて、そして今、竈には火がついている。
 もちろんカインは火をつけていない。
 いつも竈をいじるのはアベルだった。カインは料理などしたことが無い。
 アベルはいつも、その竈の前に立って、フライパンを振って、カインが起きてダイニングに入ると――。

「やあ、兄さん、おはよう。今日は過ごしやすそうな一日になりそうだね」

 そこには悪夢とも言うべき先客がいた。
 昨日までと少しの代わりもない、明るく、純粋で、実直な、包帯まみれの笑みを湛え、弟が朝食の準備をしていた。

――これは夢だ。悪い夢だ。しかもその中でも最悪と言えるだろう。

 カインはアベルを殺した。殺したはずだ。殺して死体を泉に沈めた。
 二度と浮き上がらないように石を重しに付けて沈めた。生きているはずがない。

 アベルは竈で肉を焼いている。鼻歌が聞こえてくる。
 あれは誰だろう。アベルだ。自分が殺したはずのアベルだ。
 カインは自分のすねをつねった。鈍い痛み。これは現実の痛みだ。
 ここが現実の世界であるのは間違いない。

――では、あれが夢か。昨日のアベルを殺したあの光景が夢だろうか。積もりに積もったオレの殺意が見せた幻想だろうか。この掌に残る西瓜を割るような感覚。この目に残るとび散った鮮紅は幻? 全て夢?

 否。断じてそれは夢ではなかった。全身の細胞がその結論を否定する。
 自分がアベルを殺した、それは間違いない。否定する気もなかった。
 夢であればいいなんて思わない。罪の意識もなかった。
 夢であればいいのは今この状況の方だ。殺したはずのアベルが生き返って朝食を作っている。
 この現実が嘘であればいいと思っても昨日のことを夢にしたいとは思わない。

「さあ、ご飯ができたよ。どうしたの今日は、酒なんて開けちゃってさ。いいことでもあったかい?」

 朗らかな声、相変わらず癇に障る。
 まだ少年期が残っているかのような低くなりきっていない声はカインの神経を逆なでする。
 包帯で顔が隠れているのが救いかもしれないと思った。
 顔がそのまま出ていたら、カインは弟と顔を合わせるたびにアベルに襲いかかることになるだろう。
 顔が隠れているからまだこらえられる。

「あ、もしかして泉の精霊がらみかな」

「アベル、……お前、昨日何をしていた」

「何って、いつも通りだよ。木を切ってた。僕はこのなりだから兄さんと違って町には行けないしね。泉で鳩に餌をやったり、庭の花壇をいじったり。何もないよ」

「泉に、……いたよな」

 カインはある疑念を抱いた。
 それは殺したアベルがもしかして別人なのではないかという疑念だ。
 もしそうだったら、カインは昨日の事こそ夢であればいいと思わざるを得ない。
 よもやこの男のために自分が牢に入れられることなど、絶対にあってはならない。
 カインは殺した顔はちゃんと確認していなかった。
 死体の顔をよく眺める趣味などなかったし、何よりあの場ではその光景を誰かに見られてはいけないと思って、泉に沈めることを急いでいた。
 背格好はアベルに似ていた。服もアベルのものだったし、何より顔全体を包帯で覆っていた。そんな恰好をしているのはこの辺にはアベルしかいない。

 だがもし――。

 もしそれが別人だったなら。たまたまアベルと同じような格好をした別人だったなら。
 いや待て、自分はちゃんとアベルと話しているではないか。
 あのときアベルは確かに兄さんと言った。
 自分のことを兄さんと呼ぶ人間など他に誰がいるというのか。
 それ以前に、アベル以外にあんなところにだれがいるというのか。
 誰も入ってこない樵の兄弟が暮らす森。
 そこにアベルを殺そうと思った日に限ってアベルそっくりでアベルと同じ格好をして自分のことを兄さんなどと呼ぶ別人がいて、自分がその別人を殺してしまった?

――あり得ないあり得ない。何という荒唐無稽さ。馬鹿馬鹿しい。

「泉にいたよ。昼時から、三時くらいまでかなぁ。でも、何もなかった」

「何もなかった?」

 カインは考える。アベルは平然と朝食を食べている。
 仮にアベルが、殺されるということを気取っていて、カインに先んじて手を打ち、殺される前に身代わりを立てたということはどうだろう。
 アベルはこんな風にぽやんとしているがなかなかどうして頭が回る。
 自分が嫌われていることにはきっととうの昔から気付いているはずだ。
 ならば、カインが殺そうとしていることに気付いているくらいはあってもいいかもしれない。

 ではなぜ、アベルは身代わりなど立てたのだろうか。

――浮浪者を金で雇って身代わりにした? だが何のために。殺されたくなければ自分が姿を消せばいいだけではないか。むしろそうしてもらいたいくらいだ。そうすれば自分が人殺しなどしなくて済んだのだし。

 考えられるとすれば、殺した現場を押さえて、カインを警察に突き出すくらいだ。
 だが、アベルはそんなことをするそぶりもない。
 少なくとも今カインはこうして家で食卓についている。
 縄を打たれているわけでも、牢屋に入れられているわけでもない。

――そして、もしそうなら、アベルの今の行動も意味不明だ。自分を殺した(殺そうとした)人間とともに、食卓についている。そいつに朝食を振るまってすらいる。何故? 殺されるとは思わないのか。オレを見くびっている? 一人殺している人間に恐怖を抱かない人間などいるものか。知っていれば絶対に警戒するし、こんな平然としてはいられない。

――まさかオレに自首でも勧めるつもりだろうか。なるほどお人好しの弟ならあり得そうなことだ。自首すれば殺人でも幾分罪が軽くなる。最期の最後までこいつはバカなお人好しなのだ。

 いくつかの推論。いくつかの議論。いくつかの仮説。結論は出ない。
 カインの頭の中で疑問符が飛び交い、喧々諤々と議論が交わされている。
 アベルは食事をしている。包帯を巻かれた口にサンドイッチが消えていく。
 その口から自首してくれという類の言葉が出てくることはついになかった。

「さあ、今日も一日、頑張ろうか」

 食事を終えたアベルは一つ伸びをして、森に出かけようとする。

「どうしたの、兄さん」

「今日は――、疲れてる。仕事は休みだ」

「財布は戸棚にしまってあるからね」

 カインは戸棚から財布を出して、それを懐に隠すようにしまいこんで、そして逃げるように家を飛び出した。

――あれはなんだ。俺は一体、どうなっているんだ。

真実の泉と蘇る死者

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月12日 朝 快晴。カインの寝醒めの天気は、まさしく雲一つない透き通った青空だった。 世界が輝いている。鳥たちが快哉を鳴いているし、花々は勝利を咲き誇っていた。 とても晴れやかで、安らかな気持ちだった。 不快な障害物が取り払われ、光に充ち溢れるような心地に、カインは満足げな伸びをした。 軋むベッドの上で上体を起こし、壁際のカーテンを引き開ける。 現実の窓の外はそれほどいい天気ではない。 際...

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3050年 6月12日 正午

 太陽は空高く昇っており、その光が天窓を通して部屋の中を穏やかに照らしている。
 朝はどんよりとしていた天気も、もうすっかりと晴れ渡っていた。
 そこは石造りの割と大きな食堂だったが、窓の少なさが影響してか、狭苦しい感がある。
 仕事の間を縫って、昼食にありつかんとやってきた人々でごった返しているとあればなおさらだ。

 何しろこの町に唯一の飯屋だった。
 飲みどころはいくつかあったが、昼にやっていて、しっかりとした食事を提供する店はここだけしかない。
 所せましと並んだ丸いテーブルには一つの空きもない。
 黒ずんだテーブルの上に置かれるのは素朴で簡単な料理ばかり。
 だが料理にがっつく客たちは、それをさして気にする風でもなかった。

 そんな猥雑とした飯屋の一角で、特に人が密集している場所があった。
 カウンター席のど真ん中に、円状の人の壁ができているのだ。

 中心にいる男は、周りの人々と比べると、一風変わった雰囲気を纏っていた。
 町の者ではないから旅人だろうが、質素で邪魔にならない格好を心がけているらしく、着古したレインコート姿で、この天気と季節を鑑みてもいささか不自然であることは確かだった。
 そもそもこの町には何もない。旅で立ち寄るような場所ではないはずだった。
 男は背の高い体躯を小さな椅子に落ち着けている。
 周囲から受ける注目はハエほどにも思っていない無表情さで、黙々とスプーンを盛った手を動かしている。
 眉一つ動かさずただ黙々と皿のシチューを掬う彼の脇で、皿がいくつも塔を築いていた。

 観衆はこの男の食べっぷりを見て、揃ってみんな目を丸くする。
 あっと言う間に目の前の皿をかたずけたその男は、それを無造作に脇へと積み上げた。
 どよめく人々の中、その男のすぐ傍に寄り添う小さな男の子の姿があった。

「ほらほら、頑張って頑張って! 見てよ、もうちょっとで四十枚だよ。マスターのおじさん、早くもっともっとシチューを持ってきてよ。全部片付けちゃうから!」

 年のころは五歳くらいか。
 はしゃいだ声を上げて、男の周りでは小さな男の子が綺麗に日焼けした褐色の腕を振り回している。
 店の中だというのに麦わら帽子を被って、あちこちが擦り切れたぼろぼろの黒いマントが動くたびに風をはらんで翻る。
 絶えることなく応援の言葉を送りながら、その顔は自慢げな笑顔で一杯にしている。
 太い眉と無邪気な瞳、鼻の頭のそばかすとがあどけなさを溢れさせている。

 男は男の子に声をかけられながらも反応を示すことはなく、ただひたすらに手を動かし続けた。
 男の子もそれを見て満足そうに頷いている。男の子はとび跳ねながら叫び声をあげた。

「ね、マスターのおじさん! これ、あと五分ちょっとで残りのお皿全部をかたずければホントにお代はタダでいいんだよね!」

 マスターは、苦笑いを浮かべて頷いた。頷くこと以外なにもできない。
 シチューの皿を持ってくるマスターの額には、大きな滴が浮かんでいる。
 結局それからレインコートの男が五十枚分のシチューを平らげるのに、五分もかからなかった。
 周りで男が平らげる方に賭けた酔漢たちが歓声を上げる一方で、男が時間切れになる方に賭けて負けた酔っぱらいたちが地団太を踏む。
 喧嘩が始まりそうになるのをしり目に、二人の旅人は銅貨一枚も払うことなく、店を後にした。

「流石ウッドマン、本当にあれだけのお皿からにしちゃったんだねー。でもお腹、がぼがぼになってない?」

「……いや」

 店を出て、男の子は太陽の下で大きく伸びをした。
 シチューをたいらげた男もその脇に佇んでいる。男の子はいたく満足げな様子だった。
 半ズボンの腰に両手をあててご満悦の表情である。昼飯代が浮いたことより、自分の相棒が注目の的になったことが嬉しくて仕方ないのだ。

「ねえウッドマン、この後どうする? やっぱりまずは町の探検だけど、買い物とかも済ませておかなきゃ。そろそろ底ついちゃいそうなものもいくつかあるし、どうするどうする?」

 ウッドマンと呼ばれた男は、目にかかる黒い髪を払っただけで、言葉を返したりはしなかった。

「ほら、ウッドマンのおかげで浮いた昼飯代使って何か買おうよ。オレ欲しいものあるかも!」

 男の子はワイシャツの袖をたくしあげ、剥き出しになっている腕を組んだ。その指にくるくるとサスペンダーを巻き付けている。

「あ、それよりも先に宿を見つけるのが先かな? ウッドマンどれがいいかな?」

「宿を探すのが先だ……。行くぞ、スケアクロウ(助悪郎)」

 ウッドマンは、背中に背負った細長い荷物を担ぎ直して言った。
 スケアクロウの麦わら帽子の上に手を置き、進むべき方向へと押しやる。
 スケアクロウは手を抜けだして道を駆けて行った。
 その後ろをゆったりと、しかし大股でついていくウッドマン。
 親子にしては年齢が合いそうもないし、逆に兄弟にしては歳の差がありそうだ。
 奇妙な二人連れは粗雑な石畳の通りを、町の中心の方へ向かって行った。
 道は狭く、店らしき看板もほとんどないさびれた町だった。
 露天商の威勢のいい掛け声などは全くなく、むしろカラスの鳴き声の方が大きいくらいだ。
 やっている店と言えば石鹸屋やら、ろうそく屋やら、小さな服屋、小さな床屋、生活雑貨を売る店がぽつぽつあるくらいだった。
 ときたま思い出したようにまだ開いていない飲みどころがある程度でほとんど何もないに等しい。

「これも違う、あれも違う」

 先ほどまでの元気もあまりに寂れた街に嫌気がさしてきたようで、スケアクロウは少々元気のない声で呟く。

「本当に何にもない町だね、ウッドマン。それにこの町なんかちょっと臭い。ウッドマンは何しにこの町に来たの?」

 スケアクロウは鼻をつまみながら言った。
 実際町のあちらこちらから異様なにおいがしていた。
 においの発生源は多くはどうやら人家であるらしくスケアクロウは下水の設備が整っていないのだろうかと思った。
 やたらとハエが多いのも気になった。先ほどから目の前をちらちらとうっとうしいことこの上ない。

「偉大なる魔法使い、オズの予言を成就させるためだ」

 おず、とスケアクロウは舌足らずな言い方で繰り返した。
 世界の中央、エメラルドの都に住むという偉大なる魔法使い、オズ。
 彼の魔法がこの世界の理を定め、彼の魔力がこの世界において魔法の行使を可能にするという。
 そのオズが記した予言を成就するための機関が、二人が所属するゼロ機関(Organization Zero)の目的だった。
 ウッドマンはゼロ機関の最初期のメンバーの一人であり、指折りの機関員だった。
 スケアクロウはその父親がやはり最初期のメンバーの一人だった。
 身寄りがないために、ウッドマンと共に旅をしている。

「この町の奥の森には、泉があるという」

「イズミ?」

「大きな水たまり――くぼんだ地面に水が湧き出して溜まったもののことだ。その泉には精霊が住んでいるらしい。曰く、泉に斧を落とした樵が困っていると、精霊が出てきて、あなたが落としたのは金の斧か、それとも銀の斧か、と尋ねる。樵が正直に鉄の斧だと答えると、精霊は樵の正直さを褒め、金の斧と銀の斧を下す。この町にはそういう風に、落としたものを向上させて、与えてくれる泉があるらしい。私達の任務はその泉の存在を確認し、それが本当なら、本物の心臓を手に入れることだ」

 ウッドマンは自分の心臓を親指でさして言う。
 スケアクロウはふーん、とわかったようなわからないような返事をする。

「早く見つかるといいね。ウッドマンの本当の心臓」

 スケアクロウはそう言って笑う。
 木の看板を一つ一つ眺めながら、宿を探して歩き続けていたが、スケアクロウが突然何かを指さした。

「ねえ、ウッドマン、あれ何かな?」

「……」

 ウッドマンは既にそれが何だか、見えていた。酔っぱらいだ。
 スケアクロウの指の先には、バーがあった。
 その脇で、若い男が瓶を抱えて倒れているのだ。
 スケアクロウはウッドマンを見上げて、何も喋らないことに苦笑いした。
 連れの無口さは、ちゃんと理解していた。

「相手にするなってことでしょ?」

 スケアクロウはにっこりと笑って口にチャックのジェスチャーをする。
 ウッドマンはそれを見下ろしたが、やはり笑い返さない。

 スケアクロウはあからさまに酔っぱらいを意識しながら大げさなほどに距離をとってそのわきを通り過ぎようとした。
 しかし、その横を通り過ぎるウッドマンの長いコートの裾を倒れている男は突然つかむ。

 相当飲んだに違いない。眼が焦点を失っている。それにどこか殺気だっている。
 呂律の回らない舌でその酔っぱらいは叫んだ。

「お、おおいアンタぁ、旅人なんだろう。か、金をくれてやるからよおぉ、うっ、殺してくれえ。あの野郎を殺してくれえ」

 酔った男はウッドマンに縋り付くようにして立ちあがり、そして鬼気迫る声でそういうと、そのままバタンと倒れこみ、意識を失ってしまった。

「……お医者さんだね」

 ウッドマンは答えず、倒れ伏す男を背中に担ぎ上げた。
 スケアクロウはバーに駆け込み事情を話すと、この町に唯一の診療所を教えてもらった。

真実の泉と二人の旅人

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月12日 正午 太陽は空高く昇っており、その光が天窓を通して部屋の中を穏やかに照らしている。 朝はどんよりとしていた天気も、もうすっかりと晴れ渡っていた。 そこは石造りの割と大きな食堂だったが、窓の少なさが影響してか、狭苦しい感がある。 仕事の間を縫って、昼食にありつかんとやってきた人々でごった返しているとあればなおさらだ。 何しろこの町に唯一の飯屋だった。 飲みどころはいくつかあったが、...

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3050年 6月12日 午後

 夢を見ていた気がする。
 それはとても恐ろしい夢で、自分が怪物になっていろんな人を殺してしまうというものだった。
 弟を殺し、友人を殺し、そしてあんなに愛した泉の精霊までも手にかけた。
 自分が一人きり残った森の奥で斧を振り続ける、そんな夢だった。

 だからカインは、まず一番にそれが夢であったことに何よりも安堵した。
 とび起きれば白いシーツの上にいた。ベッドの並んでいる部屋。薬のにおい。
 自分の家ではなかったけれど、カインはその場所をよく知っていた。

 カインたちの家に続く森の一本道の入口にある診療所。
 この辺では唯一の医者で、カインとアベルの旧知であるセツの仕事場兼自宅だった。
 彼女もカインは夢の中で殺していたことを思い出して、ひょっとしたら自分はセツを殺して、この家を乗っ取ってしまったのではないかという思いに駆られた。

「あ、ようやく起きたね。あんたもなんか駄目になったね」

 しかし直後にそれが思い違いであると証明するかのように、心配と哀れみの混じった顔でカインを診るセツと目が合った。

「……うるせぇ。関係ねえだろ」

 同情するようなセツにカインはそんなぶっきらぼうな言葉をかけるが、半分以上が照れ隠しだった。
 髪形だけ見れば男のようにも見える短髪のセツが猫のような印象を見る者に与える釣り気味の目で、呆れたように笑った。
 その笑顔を見て、少しだけ安心する。やはりあれは夢だったのだ。

 夢? どこからが夢? ひょっとして、アベルを殺したことすらも、やはり夢だったのだろうか。
 自分はいつから夢を見ていて、いつ覚めたのだろうか。

「……、これは、夢か?」

「……酔いがまだ回ってる? これは現実。あんたが旅人だって人にわけわかんないこと言って襲いかかってのされてここに運び込まれた。その旅人さん――ウッドマンとかって言うらしいけど、その人が運んでくれたんだよ。全く、世話の焼ける男だね。何をそんなに飲んだくれていたのさ」

――そうだ。思い出した。自分は弟を殺して。泉に捨てた。だけど朝起きてみたら。弟が平然と朝食を作っていて。恐ろしくなって。弟が恐ろしくなって。酒場で酒を浴びるように飲んだ。もしかしたらそれが夢を覚ましてくれると思って。

 そこからは記憶があいまいだったが、酒場のおやじが言っていた気がする。
 何でも旅人が来ているとか。飯屋のロベルトの店が食いつぶされそうだとか何とか聞いた気がする。
 そして、いい加減飲んだくれてるんじゃないと追い出されて、家に帰るのはやっぱり怖かったから道端で安酒を飲んでいたところに――。

「そうだ、あの男は……ウッドマンっていうのか? そいつはどこ行った?」

 いや――。それよりもまず。

「セツ、アベルの奴は――」

「アベル? 包帯を買いに来たけど」

「いつだ?」

「今日だよ」

 ではやはり――生きているのだ。あの弟は。夢じゃなかった。弟は生き返ったのだ。

「その男はどこだ」

「いい人でね、裏で薪を割ってくれてるよ。この辺には宿がないだろ? ほら、一軒だけあるのはガーフィールドの親父さんのとこだけだし、あそこに泊めるのはちょっとね。うちはベッドがあるし、泊めてやってもいいと思って……」

 最後まで聞かず、カインはベッドからとび起きて、履物も履かずはだしで診療所の裏庭に飛び出した。
 そこには切り株の上に座り込んで鉈を振り上げるレインコートの男の姿があった。

 男の近くにいた麦わら帽子の男の子が、あ、と声をあげた。それに応じて男が振り返る。

 その目を見てカインは一瞬背筋に何か寒いものが走るのを感じた。
 それは一番近いものをあげるのであれば、あの、生き返ったアベルを見たときの感覚に似ていたかもしれない。
 あり得ないものを見たときの気持ちの悪さ。
 この世に存在する、この世にあるはずのないものを目の当たりにした恐怖。

「目が覚めたんだね。おじさん。大丈夫? でも、おじさんが悪いんだよ。ウッドマンにいきなり飛びかかってくるから。痛い? ごめんね」

 男の子はカインを気遣っているのか責めているのかわからないようなことを言った。
 カインはその男の子に目を移した。男とは違い、とるに足らない存在のように感じた。
 少なくともさっきのような不気味さを感じない。
 カインと目が合うと、男の子は人懐っこそうな笑みを浮かべた。
 太い眉とそばかすがどこか田舎っぽい印象を与える。

「あ、あんた……いや、あんたら」

 カインは何を言えばいいのかを考えた。自分が何を言おうとしていたのか。
 先ほど男に睨まれた時の感覚で一切が頭から吹き飛んでしまったので、思い出すのに多少苦労した。
 そして、弟の殺しの依頼をしようとしていたことを思い出して、再びその男の子に目を向けた。
 どう考えても、子どもの前でする話ではない。

「オレはスケアクロウ(助悪郎)。こっちはウッドマン。おじさんはカインっていうんでしょ。先生からお話ししてもらったよ。樵なんだってね」

――そうか、セツは、幼馴染であるセツは。きっといろいろあることないこと吹き込んだろう。おしゃべりだからな。

 セツと、カインとアベルは、まるで本当の兄弟のように身近な存在だった。
 子どもの頃の話ではあったが。アベルが顔に大けがを負った事故でも、アベルを救ったのは彼女だった。
 その意味ではセツが助けなければよかったのにとは思ったが、少なくともカインの中で、セツは憎むべき相手ではなかった。
 特に言葉にするような感情はなかった。好きでも嫌いでもない。
 気の置けない飲み友達の一人ではあった。

「おじさん、……カインさんは、オレ達になんか用があったの?」

「あ、と、それは……ん」

 カインは問われて言葉に詰まった。スケアクロウを見、ウッドマンを見た。
 多少、目で懇願するようにへつらった笑みを浮かべてみた。通じたかどうかはわからない。

「……スケアクロウ、いいにおいだ」

「本当だ! なんだろう」

「セツさんがお菓子を焼いてるんだろう。よければもらってきてくれ。お茶にしよう」

「わかった!」

 スケアクロウは跳ねるように立ち上がって、さっきカインが出てきたそのドアから診療所の中に消えていった。

「カインさん、でしたね。お話を伺いましょうか」

 カインはその目を見た。深い深い泉の底に沈んでいる死者の眼に、きっと繋がっている。
 そんな風に思うほど暗い緑色の瞳を。

「……あんた、何モンだ? ただの旅人はこんな辺鄙な街に来たりはしねえんだよ」

 スケアクロウが消えると、カインはまずは強気にウッドマンに向かった。
 へりくだったりすることは性に合わない。

「そうですね、私はトレイズ。トレイズ・ウッドマン。人造人間です」

「人造、人間?」

 カインは聞きなれない言葉にそのまま繰り返す。
――わかりやすくお見せしましょう、とウッドマンは自分の腕を取り外してカインに放り投げてよこした。
 カインは間抜けな叫び声を上げて、投げられたひじから先の左腕を避ける。
 地面に落ちたそれの内部には、見たこともない金属光沢をもつ繊維が何重にも張り巡らされていた。

「私の全身は機械でできています。全てのパーツが代用可能で、エーテルを原動力に動いています」

「へ、気色悪ぃ……、それで、その人造人間様が何の用だよ」

「一言でいうなら暗殺です」

 ウッドマンは平坦な声音で静かに言った。
 暗殺、とカインは返す。

「誰を?」

「この町に――悪い魔女と聖なる泉があると聞きまして」

「悪い魔女?」

「ええ、何でもその泉は『死んだ人間を蘇らせる』そうです。ご存じありませんか? そして悪い魔女がその泉の力を悪用して、町の人間をたぶらかしているという。私は依頼を受けて、その魔女を討伐しに来た――殺し屋です」

 その言葉にカインは数瞬、言葉を失った。
 死んだ人間を蘇らせる泉と魔女――ならばあのアベルは、その魔女によって蘇えらされたとでもいうのだろうか。

「機関から私に下された任務は三つ。一つ目は泉の存在の確認と分析、二つ目は魔女の討伐。そして三つ目は、魔女の力によって蘇ったものに、永遠の死を与えること」

 ウッドマンはそう言って鉈をかませた薪を振り下ろす。
 ぱっかりときれいに二つに薪が割れる。

「あなた――もしかして、身近な人が、生き返りでもしましたか?」

「……ふ、へへへ、へははは、ははははは!」

 カインはその言葉を聞いて、笑いが込み上げるのを止めることができなかった。
 神は――カインを祝福している。運命はカインに味方してくれている。
 だから、カインの殺人は失敗したが、それを救うものがちゃんと現れた。

「へへ、そうなんだよ。俺は今、とても困ってるんだ。あいつが、アベルが生き返ったりするから――あんた、あいつを殺せるんだな」

 そしてカインはウッドマンに、自分が体験したことを話した。
 それは自らの殺人の告白であり、到底人に話せることではないはずだったが、カインは既にウッドマンを信用しきっていた。
 この男はアベルを殺してくれるに違いない、と。

真実の泉と人造人間

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月12日 午後 夢を見ていた気がする。 それはとても恐ろしい夢で、自分が怪物になっていろんな人を殺してしまうというものだった。 弟を殺し、友人を殺し、そしてあんなに愛した泉の精霊までも手にかけた。 自分が一人きり残った森の奥で斧を振り続ける、そんな夢だった。 だからカインは、まず一番にそれが夢であったことに何よりも安堵した。 とび起きれば白いシーツの上にいた。ベッドの並んでいる部屋。薬のに...

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3050年 6月12日 夕刻

「いいか、スケアクロウ。くれぐれもセツさんに迷惑かけるな」

「まっかせてよ!」

 スケアクロウの頭に手を置いたウッドマンは、顔をあげ、スケアクロウの隣に立つ女性、セツに向かって頭を下げた。

「では、彼をよろしく頼みます」

「はいはい、任せてくださーい」

「だいじょーぶ、オレ大人しくしてるし!」

 ウッドマンはそのまま玄関から離れ、数段のステップを降りた。石畳の道の少し先には、カインがそわそわと待っていた。

 セツは笑顔で二人を見送る。スケアクロウの肩に手を置きながら何も心配することはないという風に。
 ウッドマンは振り向きこそしなかったが、彼女の視線がずっとカインに向けられているのを感じていた。
 ウッドマンはカインの傍まで歩み寄ると、レインコートのフードをかぶった。

「お待たせしました。行きましょうか」

「あ、ああ。早く行こう」

 スケアクロウが大きな見送りの言葉をあげているが、二人とも振り返らなかった。
 セツの声は聞こえなかった。

「行っちゃったね」

 深い森に続く一本道に二人の影が遠く消え去っても、スケアクロウは大きく手を振り続けていた。
 それがまるで、ウッドマンとの最後になるとでも言わんばかりに大声を張り上げて、その姿が見えなくなっても、未練がましく二人が行った森の入口を睨んでいた。
 ようやく気がすんだのか、やっとスケアクロウはそんな言葉をため息といっしょにはいた。

「さあ、お家に入ろう。もうすぐ夕方だからね。この辺は割と物騒な獣がよく出るんだ。君みたいなかわいい子供はオオカミに食べられちゃうぞ」

 セツは口の端を釣り上げていっひっひと笑って見せる。スケアクロウはその様子に大声で笑った。
 笑いこけるスケアクロウを連れてセツは家の扉を閉めた。

――予想外、ではある。ウッドマンとスケアクロウの存在。
 セツは顔だけ笑いながら状況を頭の中に構築する。
 表面は相手に合わせて内部ではかりごとをするその二面性の使い分けはこれまでの生活で研ぎ澄まされてきた。
 誰もセツの内部の考えを知らない。だれも、彼女の素顔を知らない。

「さて、スケアクロウ君。先生はこれから夜の回診の時間なの。だから、そうだなぁ、一、二時間ほど出かけなければならない。お留守番を、頼めるかな」

「お留守番? まっかせてよ。オレ待つの得意なんだ」

「じゃあ、お約束しよう。その一、戸棚にはとっても危険なお薬が入ってます。一応鍵がかかってるけど、絶対に戸棚には触らないこと。その二、隣の部屋は診療室です。先生がいない間に具合が悪い人が来るかもしれません。具合が悪い人が着たらすぐに診療室に入れてあげること。そして先生が帰ってくるまで君は絶対に診療室に入らないこと。怖~い病気がうつるかもしれないからね。その三、お外に出ないこと。この辺は人眼がなくて危険だからね。おなかがすいたらスコーンとジャムはここ。この瓶は牛乳だから好きに飲んでいいよ。わかった?」

「わかった!」

「じゃあ一つ目は?」

「えっとねー……、戸棚に触らない!」

「二つ目」

「具合悪い人が来たら診療室に入れて、先生が帰ってくるまではいらない!」

「三つ目は?」

「外に出ない!」

「よく出来ました。守れるかな?」

「守れるよ。オレはウソをつかないことと約束を破らないことをシンジョーにしてるんだ」

 麦わら帽子の端をつまんでスケアクロウは自分が思う一番かっこいい角度で決め台詞を放つ。
 セツはその様子に思わず噴き出した。

「む、笑うな」

「ごめんごめん。いや、立派な信条だと思うよ。じゃあ、先生は行ってくるからね」

 セツはそう言って、大きなトランクを持って外套を羽織り出かけて行った。
 スケアクロウは窓の外を眺めた。空はいつの間にか段々に青さを増していた。
 夜の気配。森のあたりなどは本当に真っ暗になっている。

――ウッドマンは大丈夫かしら。

 あのカインという男はろくな男に見えなかった。
 スケアクロウは聞こうとは思わなかったけれど、カインの第一声を聞いている。

 スケアクロウの胸がチクリと痛む。
 これは考えてはいけないこと。思い出してはいけないこと。忘れないといけないこと。

――ウッドマンの仕事のことだろ。

 スケアクロウはふと窓ガラスを見た。大きなカラスが一羽、窓にいちばん近い木の枝に止まっていた。
 カラスが口を開ける。

――ウッドマンは人殺しに行ったんだよ。

「お仕事は、オレには関係ないよ。ウッドマンがオレの知らないところで何をしてても、オレは知らないよ!」

 こいつは悪い奴だ。だってウッドマンはあんなに優しいじゃないか。だからウッドマンはいい人なんだ。人殺しなんてするわけないんだ。してたとしてもオレには関係ないこと。ウッドマンがなにも言ってこないんだからオレは何も知らない! 何も聞かない! 何も見ない! 何も知らない! ただの案山子!

――スケアクロウ、何をそんなに苦しんでいるの? 認めろよ。そして楽になれ。ウッドマンは――。

「こんばんはー。セツー? 誰かいないー?」

 スケアクロウはその言葉にはっとする。窓にははっとした顔を浮かべるスケアクロウ自身の姿があった。
 カラスはいつの間にか木の枝からいなくなっていた。
 スケアクロウはパンパンとほっぺたをたたいて気持ちを切り替える。

――オレは大丈夫。いつも通り。

「はーい。ごめんなさい。先生は今留守で……」

 スケアクロウはドアの前に立つ人物を見て思わず腰を抜かした。
 砂漠の国の包帯ぐるぐる巻きの死人の話そっくりの包帯男が立っていた。
 確かそれは、生きている人間の内臓を求めてさまようのだ。

「あれ、……ごめん、ここ、セツの診療所だよね。あれ?」

 包帯ぐるぐる巻きはスケアクロウをマジマジと見て玄関を行ったり来たりしてしばらくうなっていた。

 スケアクロウは這うようにして後ずさり壁に寄り掛かった。そして、壁を頼りに何とか立ち上がる。

「君、セツの知り合い? 弟? なわけないよな。ねえ、セツを知らない?」

「お、お前は、誰だぁ!」

「いや、アベルだけど」

「何の用だぁ!」

「困ったなぁ、セツはいないの? 君、名前は?」

「オレはスケアクロウ(助悪郎)だ!」

「なんでセツの家にいるの? まさか泥棒?」

――何を言い出すんだこの包帯男は! このオレが、このスケアクロウが言うに事欠いて泥棒だと? そういうお前こそ妖怪の仲間のくせに!

 スケアクロウがあまりの怒りに物を言えなくなっているうちにアベルの方はどうしたものかと頭をかいていた。

「君、何してるの?」

「オレは先生からお留守番を頼まれたんだ! 先生は夜の回診に行ってくるからお留守番しててねって」

「じゃあその時、病気の人が来たら、みたいなことを言ってなかった?」

「病気? お前、病気なのか?」

 病気という言葉を聞いて、スケアクロウの顔から怒りと恐怖が消える。
 アベルはよくよく見ると確かに具合が悪そうにしていた。何だか息が荒いし、震えている。

「具合悪いのか? その顔も病気か?」

「まあそんなものだよ。実はこうやって立ってるのもつらいんだ。中に入れてくれないかな」

 スケアクロウはあわてて道を譲る。そして、セツに言われたことを思い出す。

――約束その二、自分がいないときに病気の人が訪ねてきたら診療室に入れて、帰ってくるまでその部屋に入らないこと。

「先生は、病気の人が来たら、あの部屋に入れて、オレは入っちゃいけないって言ってた」

「そうだね。僕は悪い病気かもしれないんだ。セツは回診に行ってるのかい?」

「うん」

「じゃあ、帰ってきたらアベルが寝てると伝えてくれ。君は絶対にここに入っちゃいけないよ。あと、君は今すぐ手を石鹸で洗ってうがいをした方がいい」

 その言葉の意味するところをスケアクロウは理解して、あわてて外の井戸までかけて言った。

 スケアクロウが出て行ったのを確認して、アベルは内側からドアに鍵をかけた。

「ふぅ――」

 息をついて、アベルは包帯を解く。
 やがて、スケアクロウが家に戻ったのを確認して診療室の裏口から、外に出た。
 窓を避けて、『アベル』は家を離れる。町の方に消えていく彼と入れ違いになるようにセツが帰ってきた。

「お帰りなさい先生! そう、オレ、約束守ったよ。えっとね、何か病気の人が来たから、ちゃんとあの部屋に案内したよ。確か名前は――アベル」

「そう、ありがとう。よくできました。それじゃあ先生はその人の診察をするから、君はこの部屋でウッドマンさんが帰ってくるのを待ってるんだよ」

 セツは薄く笑う。大丈夫だ。誰にもばれていない。

真実の泉と診療所

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月12日 夕刻「いいか、スケアクロウ。くれぐれもセツさんに迷惑かけるな」「まっかせてよ!」 スケアクロウの頭に手を置いたウッドマンは、顔をあげ、スケアクロウの隣に立つ女性、セツに向かって頭を下げた。「では、彼をよろしく頼みます」「はいはい、任せてくださーい」「だいじょーぶ、オレ大人しくしてるし!」 ウッドマンはそのまま玄関から離れ、数段のステップを降りた。石畳の道の少し先には、カインがそわ...

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3050年 6月12日 夜

 すでにウッドマンとカインの間に契約が完了していた。後は取引をするだけだった。
 カインの弟を殺す。ウッドマンは殺し屋を生業としている男だった。
 その意味で、この町の住人が多く感じるウッドマンに対しての差別感情は間違ってはいない。
 ウッドマンは決して町に招き入れられるべき存在ではなかった。

 セツの診療所は町の外れの森の入り口にある。実際に患者がやってくる場合よりも、セツ自身が診察に赴く方が多いらしい。
 数分と経たぬうちにすっかり建物は見えなくなり、完全に森の中に入っていた。
 空を覆い隠すように木々が生い茂っている。もう夜が近いこの時間、すでに足元が見えないほどにあたりは暗くなっていた。
 カインが手に持つランプが、かろうじて足元を照らしている。
 その道はそれでもそこかしこに人が歩いた跡が残っていた。
 この奥には話に聞く限りでは樵の兄弟――カインとアベルの家と、その奥に朽ちた遺跡があるだけのようだ。
 人が頻繁に行きかう要素があるとも思えないが、それにもかかわらず、踏み鳴らされた地面が道のようになっている。
 二人は、万が一にも人に話を聞かれる心配がない森の奥まで歩く。
 そろそろ大丈夫だと判断したのか、カインがおもむろに口を開いた。

「さっきも言ったが、アベルは……俺の弟だ。親は死んだ。他に身寄りはいない」

「……」

 ウッドマンは相槌を打ったりはしなかった。しかしカインは気にした風もなく、続ける。
 弟を殺してほしい。それは出会ったときにも酔ったカインが言った言葉であり、先ほどセツの家でスケアクロウがいない間にもカインが依頼したことだった。

「いつだってあいつは傍にいた。タチの悪い奴で正直者の仮面を外そうとしない。純粋そのものっていう顔で俺の隣を歩いて、なにもかもを自分で独り占めにしやがるんだ。俺のものも平気で横取りする。奴は泥棒だ」

 カインは立ち止まり、地面の草を踏みつける。両の掌に爪を立てながら吐き捨てた。

「そうだ、俺は昔からあいつが気にくわなかった。この手で殺してやりたいといつも思っていた。そして、この手で殺してやった。たしかに殺した筈だ! なのに……!」

 ぎり、と歯を食いしばった。

「あいつは平気な顔して、生きてやがった! そして俺のことを嘲笑いやがったんだ」

「話では包帯で顔を覆って……」

「うるさい! 包帯越しでも俺には分かるんだよ! あいつは笑いながら……俺をコケにしてやがるんだ! そうだ、そうに違いない。だいたい俺がこの手で殺したのに、何でアイツは生きてるんだよぉっ? おかしいじゃねえか! なあ!」

 カインは振り返った。激情したままウッドマンに詰め寄った。
 息を乱し、目を赤くし、獣のような形相でウッドマンを睨む。
 カインも身長は低い方ではないが、頭一つ分高いウッドマンを見上げる形になった。
 ウッドマンはあくまでも表情を変えなかった。

「なんにせよ、動機など仕事には関係ありません」

 淡々と、機械的にカインに言った。

「具体的な段取りの話に入りましょう」

 おさまりのつかない感情を吐露したのに、関係ないと切り捨てられたカイン。
 カインはいらつきを隠そうともせず舌打ちしたが、くってかかるような真似はしなかった。
 今は確実な殺しを行う者が必要なのだ。ここで気分を損ねられては、カインが困る。

「アア、分かったよ……」

「結構」

 カインは再び歩きはじめた。後ろをついてくるウッドマンにぼそぼそと説明を始めた。

「殺してほしい男は何度も言っているとおり俺の弟のアベルだ」

「容姿は」

「こいつも繰り返しになるが包帯で顔を覆っている男だ。歳は俺より少し下。あいつ以外に包帯面の野郎なんざ、いるわけがない。見りゃわかるさ。ゾンビみてえな野郎だ」

 ウッドマンは少し首を傾けて質問を投げかけた。

「さっきから何度も聞いてますが、彼は死から蘇ったと言う。それは記憶違いや勘違いと言うことはないのですか」

「俺が嘘吐いてるって言うのかよ!」

 ぎろりと肩越しに睨んできたカインを見て、ウッドマンは縦にも横にも首を振ろうとはしなかった。
 カインはウッドマンの目を睨み付けたが、その何を考えているのかわからない、意志のない視線に耐えかねて、すぐに視線を外した。

「確かにこの手で殺したんだよ」

「いつの話ですか」

「昨日の昼頃だ……町の野郎どもの昼食時だな」

「どこで」

「精霊の湖だ」

「精霊の湖?」

 ウッドマンが反芻する。カインはすぐに説明した。

「ああ、この森のさらに奥にある精霊が住んでる湖だ」

「伝承ですか?」

「違ェよ!」

 再び声を荒げカインが振り返った。

「あそこには、本当に湖の精霊が住んでいる。彼女も俺のものなのに、アベルが奪おうと企んでやがるんだ。だから、俺は、俺の手で彼女を守らなきゃいけないんだ! あそこには彼女が住んでいるんだ」

 ウッドマンが初めて表情らしい表情を見せた。
 いぶかしむ様に眉をひそめ、わずかに首をかしげたのだ。

「その精霊とは何者ですか」

 カインは露骨に警戒した。

「アベルを殺すのにそんなことが関係あるのかよ」

「……いえ、ただ、もしかして盲目の巡礼者なのではないかと思いまして」

「あんた……彼女を知っているのか?」

「ああ、いえ、ただここに来る前にこの辺りにそういう女がいるということを耳にしまして。そう、三か月くらい前にここに来たのでは?」

「……そうだな、確かそれくらいだろう。おいあんたまさか、彼女に何かしようっていうんじゃないだろうな!」

「滅相もない」

 ウッドマンは即座に否定した。それ以降黙り込み、再び表情を消した。
 カインの方にもそれ以上喋ることはなかった。彼の家までの道中は沈黙のままだった。

 幾人もの足で踏み固められた道を、二人は歩く。時折近くから鳥や獣の声が聞こえた。
 それを聞きながら、二人は葬送行進のように進んだ。そう、それはまさに葬り送るための行進だった。
 殺意と憎悪に彩られた呪われた二人ぼっちの行列。

 カインの靴が土を踏みにじる音だけが響く。
 足音もなく、滑るように背後につくウッドマンは、さながら影のようだった。

 視界を遮る小枝が徐々にその密度を薄くしていく。
 そしてついに、拓けた場所にたどり着いた。
 目の前に小さな家が現れた。カインと、そしてアベルが暮らす家である。

「ウッドマンとか言ったな、あんた。旅人のあんたは俺の好意でウチに泊まることになったってことにしよう。それであいつと顔を合わせる。後はいつでもあんたのやりやすい時に……やっちまってくれ」

「……」

 生まれてから数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに通り慣れた道なのに、カインはたどたどしい足取りで自分の家に近づいて行った。

 木組みの簡素なつくりで、木々に囲われこじんまりと立っている。
 だが見た目程に脆くはなさそうで、ちょっとやそっとの嵐で飛ばされたりはしなさそうだ。
 純粋に宿泊目的で案内されたのであれば、悪くない場所だろう。
 ウッドマンはカインに促されるまま、扉へと近寄く。敷居すらまともにない簡易な扉から見るに、ここが裏口なのだろう。

 陽はもう暮れる。夕日もとうに、地平のかなたへと沈んでいた。
 扉のすぐ近くの開け放たれた窓からは薄暗くて中の様子が見えない。。

「人の気配がありませんね」

 大抵の家からはそろそろ夕飯の支度をはじめてもおかしくない。
 しかし、その小屋の煙突からは煙が上っていない。ウッドマンの一言にカインが眉をひそめた。
 いや、そもそも部屋に明かりの一つも灯っていないのだ。この時間に、人がいる家では考えにくいことだった。

「おかしいな。今日は一日中家にいる筈なのに」

 無造作に扉を引きあけ、中に入っていく。ウッドマンもその後を追った。

 暗い部屋をランプで照らしながら、カインは面倒くさそうに部屋の燭台に火を灯していく。
 明るさの変化に目を馴らしながら、ウッドマンは部屋の中を見回した。とても狭い。
 両腕を伸ばせば壁から壁に手が届く。その壁には雑然と斧やなたが並んでいた。
 刃物類の管理としては不用心な整理だが、カインも、そしてウッドマンもそれを気にすることはない。

「納屋だ」

「……」

 納屋を真っ直ぐ抜け、別の扉を抜けた。
 先ほどよりは少し広い部屋に出る。寝具が置いてあるものの、ごくせまい空間だ。

「野郎、本当にいないのか」

「ここは」

「アベルの野郎の部屋だ」

 外から見た感じでは、せいぜい四部屋程度と言ったところか。
 納屋とアベルの部屋。あとはカインの部屋とダイニングだろう。

 カインが先立って扉を抜けて行く。そちらはダイニングだった。

 ウッドマンはすぐにその後を追わず、アベルの部屋を見回した。
 人一人生活するのにぎりぎりの広さと言ったところか。寝具と小さなチェストでいっぱいいっぱいだ。
 床が見えるのは倉庫の扉からダイニングへの扉間にある通路くらいのものだ。

 ウッドマンはチェストの上の写真立てに目をつけた。手にとって眺めてみる。
 写っていたのは三人の人物だった。正面にやや幼さが残る女性、両隣りに同年代の男性が。
 ウッドマンはそのうちの二人を知っていた。カインとセツだ。となるともう一人はアベルか。

 不機嫌そうに表情を硬くしているカイン。二人の間ではにかんだような表情のセツ。
 そしてもう一人の男は、底抜けの笑顔でカメラへピースサインをしていた。
 写真立ての裏に日付と言葉が添えられている。

 3045年4月25日、兄さんとセツと、泉のほとりで――。

 どうやらアベルの字らしい。
 あまり字を書くのは得意ではなかったらしく一文字一文字が分離していて不恰好だ。
 日付によると五年前の物らしい。

 この三人は一体それぞれどういう関係なのか。
 一瞬だけウッドマンはそう気にしたものの、そこまで興味があるわけでもなかった。
 突然リビングの扉からカインが首をのぞかせた。

「おい、お前。なにしてんだ」

「特に。アべルさんはいましたか?」

「……おら」

 苛立った表情のカインが紙を投げてよこした。
 ひらりひらりと空中を舞い、その紙はウッドマンのブーツの下に挟まった。
 ウッドマンは首だけ下に向けてその文字に眼をやる。
 焦って書いたような、しかし流暢な筆記で書かれた丸文字が、一文だけ。

『風邪をひいたのでセツのところに泊まります』

「畜生! あの野郎! 一足先に逃げやがった!」

 カインは乱暴にアベルのベッドを殴りつけた。ウッドマンはアベルの書き置きを拾い上げる。

「セツのところというのはさっきの診療所のことですか?」

「他にあると思うのかよ」

 馬鹿にしたような言い方にも、さして機嫌を損ねる風でもなく、ウッドマンは続ける。

「逃げた、というのはあなたに殺されるかもしれないと思って逃亡を図ったという意味ですか?」

「だから他にどういう意味があるってんだよ!」

 露骨に怒りをあらわにし、口角から泡を飛ばしてカインは怒鳴った。
 カインの中ではアベルは逃げてしまったのだからウッドマンに対する仕事も水泡に帰している。
 もはやこの男はさっさと帰るべきだ、などと連れてきておいて勝手なことを思っていた。

「書いてある通りの意味である可能性はないのですか? つまり、本当に具合が悪くなってセツさんのところに泊まりに行っているということは?」

「タイミングが出来過ぎだろうが! そんな都合よく具合が悪くなるもんかよ! それにおかしいじゃねえか、こことセツの診療所は一本道なんだぞ。その言葉の通りだとしてあいつがセツの家を目指したなら俺たちとどこかで落ち合ってるはずだろうが!」

 ウッドマンは、それ以上はそのことに関して追求しなかった。
 どっちにせよスケアクロウを迎えにセツの家には寄ることになる。
 いるかいないかはその時に確かめればいい。

「では質問を変えます。この字はアベルさんのものですか?」

 ウッドマンはアベルの書き置きを示した。

「知るか! あいつがどんな字を書くかなんて、俺が知るもんか!」

 やはりカインは怒鳴り声で答える。今のこの男には冷静に答えさせることはできそうにない。
 ウッドマンは写真立ての裏の字と紙に描かれた文字を見比べる。
 書く道具と、歳月による進歩と、書かれた状況を鑑みても、到底同一人物が書いたものとは思い難いものだったが――。

「昨日アベルさんを殺したと言いましたね。死体はどこに隠したのですか?」

「泉に捨てたんだよ!」

「泉というのは精霊がすむという泉ですか?」

「そうさ! 重い石を十個も付けて二度と浮き上がらないように沈めてやったんだ! それなのにあの野郎ときたら……」

「泉の精霊という方に見つかる恐れはなかったのですか?」

 そういうとカインは心底馬鹿にしたような声でウッドマンを鼻で笑った。

「っは! あるわけねえ! あんたもさっき言っただろ、泉の精霊は盲(めしい)なんだよ! だから彼女には眼には映らない真実が見えるのさ! そうさ、だから彼女は俺の本当の気持ちも、アベルの醜い本性も……」

 そうか――。

「カインさん、最後に一つだけ聞きますが、あなたは彼女の物だという金の斧を知っていますね?」

 刹那、カインの顔色が変わった。

「――あんた、なんでそれを知ってる?」

「把握しました。仕事をお受けします」

「あ?」

「アベルさんを殺しましょう。報酬はその金の斧で」

 カインはしばらく茫然としていたがやがてげらげらと下品な笑い声をあげた。
 ウッドマンはやはり無表情だ。無表情というよりも、その顔は無機質という方がいいのかもしれない。
 しゃべるというだけで、後は人形と変わらない。
 ウッドマンが精巧なしゃべる人形だと言われてもカインはそれをすんなりと受け入れるだろう。

「何言ってやがる! アベルの野郎には逃げられちまってるんだぞ!」

「いいえ、彼はおそらくセツさんのところに……いや、この場合は、うん、セツさんのところにいるはずです。少し調べたいことがあるので、私はしばらく町の方に行きます。代金は後払いということで」

 そう言うとすたすたとウッドマンは来た通り物置に続くドアを抜けてそのままカインの家を出た。
 カインは慌てて後を追う。
 引き受けるとも言っていない殺し屋を現場に連れてくる依頼人と、依頼人が、依頼が無くなったと思われる段階で引き受けると言いだし仕事を始める殺し屋。
 双方勝手であるという点においては非常によく似ていたのかもしれない。

「おい、待ってくれよ。どういうことか説明しろ」

「説明してもあなたには理解しがたいことだと思います。アベルさんを殺すためには、まずアベルさんが『どこまでで生きていることになっているのか』を調べなくては」

 カインはウッドマンの言葉を少しも理解できなかった。
 ただあなたには理解しがたいという言葉に言いようのない侮蔑が含まれているような気がしてしゃくだった。

 ウッドマンはどうやらセツの家に向かっているらしい。アベルに会うためだろうか。
 だが、セツの家で殺しをしてもらうのは困る。
 セツには――彼女は無関係だし、気のいい友人である。
 カインとアベル――兄弟同士の問題なのだから、そこに彼女を巻きこみたくない――カインは、それは彼にとってはとても、とても珍しく殊勝な心もちで、そう思った。

「おいあんた、仮にアベルがセツのところにいたとして、そこでいきなり殺しにかかられても困るぜ! セツは関係ないんだからよ。アベル殺しの依頼者がオレだとばれるようなやり方はまっぴらだぞ!」

「彼女は無関係ですか……、そうですね」

 それきり黙ってしまったウッドマンに、カインは事情を分かっているのだろうかと心配になる。
 表情が変わらないのでこの男は何を考えているのかまるで判別がつかないのだ。

「アベルさんは」

「あ?」

 長い沈黙の後、ウッドマンは口を開いた。

「顔に包帯を巻いていると言いましたね。何か理由が?」

「ああ、五年前のことだよ。オレ達二人は少しでかい木を倒してたときさ。樵にはつきものの事故だよ。あいつの方に木が倒れちまったんだな。それで顔が潰れちまって。セツに何とか助けてもらったが、以来あいつは顔を包帯で巻いて、町にも出なくなった。いい気味だよ」

――また、セツ。

「カインさん、あなたは合計で何回アベルさんを殺しましたか?」

「なんだその合計で何回ってのは。一回きりだよ。その一回が、あいつが生き返るもんだからあんたに頼んでるんだろうが」

「では、アベルさんが死んだ後、泉の妖精には会いましたか?」

「……会ってねえな。彼女は聖職者だ。穢れは持ち込めねえ。オレはオレのみそぎがすむまで、彼女には会わないと決めてる。彼女には血の穢れはなじまない」

 そんな話をしているうちに二人はセツの家についた。
 カインは診療室にろうそくがともっているのを見る。患者がいない限りあそこに明かりがつくことはない。
 ウッドマンの連れの子供のためだろうか。いや、セツなら客を診療室には泊めないだろう。
 ということはカインたちが離れている間に、病人が来たのだ。――アベルが来たのだ。

 玄関のドアを叩くとスケアクロウが顔をのぞかせた。
 ウッドマンの姿を見るなり満面に笑みを浮かべておかえりウッドマンと大きな声で言った。
 そしてドアを開けてその巨躯に抱きついた。
 犬でもあるまいに、よほどウッドマンという男は好かれているらしい。

「セツはどこだ?」

 カインは二人の邂逅にも構わず言った。
 スケアクロウはそっちの部屋だよと診療室をさした。
 カインが診療室に行こうとすると、ウッドマンにべたべたくっついていたスケアクロウは、脱兎のごとく離れてすかさずカインの正面に立ち、両手を広げてカインを制した。

「ダメだよ! 今は入っちゃダメだよ!」

「アベルが来てんだろう? オレ達はそいつに用があんだよ。いい子だからそこをどきな」

「ダメダメ! アベルって言う人はすごい怖い病気なんだよ! うつったら死ぬかもしれない怖い病気なんだって。えっと、ぺす、ぺす……」

「ペスト(黒死病)」

 言い淀むスケアクロウにウッドマンが助け船を出した。
 スケアクロウはそうそれと我が意を得たりとでも言うように手を叩いて言った。

「ペストだって?!」

 カインはその病気の名前に色を失った。ペストと言えば――恐ろしい病の一つだ。
 親が死んだのもその病気が原因だったはずだ。カインは覚えている。
 段々に黒い班が体にできて、血を吐いたこともあった気がする。両親とも医者がペストだと言ってから一週間もたたないうちにあっという間に死んでしまった。
 二人が、具合が悪いと訴えてから十日もたたないうちにだった。
 それから町には同じ病気があふれ、一時町の人口は半分になった。
 それはカインの記憶にはいまだに忘れられない恐ろしい記憶として残っている。

「おいおい、冗談じゃないぜ……いや、それは、冗談じゃねえ」

――今すぐにこの家を出て手を洗おう、いや、風呂を沸かして風呂に入った方がいい。ここにいるのは危険だ。

 その時、診療室のドアがゆっくり開いた。
 カインは身構えたが、中から出てきたのはマスクで顔を覆ったセツだった。
 白衣の端に赤い大きなしみがついている。血液だろう。

「おいセツ! ……マジかよ」

「見た感じでは九分九厘そうだね。でも大丈夫、ペストは、今は治る病気だからね。さっき薬を投与したから、ペスト自体はすぐに治ると思う。心配しなくていいよ。ああ、でも旅人さん、ちょうどよかった。あなた達はここじゃなくて別の宿を探した方がいい。スケアクロウ君は感染してないだろうし、あなた達から他の人に移ることはないだろうけど、ここにいるのは危険だからね。カインの家に泊まるのも薦めない。アベルがいたところだからね。カイン、あんたは少し問診したいからここに残って」

 カインは戦々恐々だった。もし自分がペストにかかっていたら。
 両親の死にざまを思い出す。そうだ、ペストの死体は焼かれてしまうのだ。そんなのはひどい。
 死んだ人間を焼くだなんて冒涜以外の何物でもない。

――ああ畜生、どうする、自分は感染してる可能性が高いぞ。なんと言ってもアベルを殺すときに血を浴びているじゃないか。くそったれ、あいつがペストなら、それこそ殺す必要無かったじゃないか。待ってれば勝手に死んでいくものだったのに。

「くそっ!」

 カインは机をドンと叩いた。その行動がどんな感情の発露であったかはおそらく誰にも分からなかった。

 ウッドマンとスケアクロウはその後すぐにセツの家を出て、セツが紹介してくれたガーフィールドという人が経営する宿に向かった。
 もう昼間営業の店が店じまいをするような時間である。
 ようやく見つけたその宿は食事なし、布団なし、代金前払いという何ともいい加減なところだったが、事情を話すと店主のガーフィールドは快く泊めてくれた。
 スケアクロウは眠そう、というよりほとんど寝ているような状態だった。
 この少年は、朝はとびきり早いが夜も相当に早い。
 まだ夕飯も食べていないはずだったが、この様子を見るとお腹が減っているようではないから、セツのところで何か食べたのかもしれない。

「ご飯は食べたのか?」

「うーん、セツさんが……」

 どうやら食事は済んでいるようだ。
 ウッドマンはスケアクロウを狭い部屋に寝かせて上から毛布をかけ、食事を取ろうと夜の街に出かけた。
 昼にロベルトの店を食いつぶしたといううわさはもう周知の事実になっており、ほとんどの店はウッドマンの顔を見るなり出てってくれという始末だったので、ウッドマンのその日の食事は屋台のホットドックのみとなった。

真実の泉と殺人の依頼

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月12日 夜 すでにウッドマンとカインの間に契約が完了していた。後は取引をするだけだった。 カインの弟を殺す。ウッドマンは殺し屋を生業としている男だった。 その意味で、この町の住人が多く感じるウッドマンに対しての差別感情は間違ってはいない。 ウッドマンは決して町に招き入れられるべき存在ではなかった。 セツの診療所は町の外れの森の入り口にある。実際に患者がやってくる場合よりも、セツ自身が診察...

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3050年 6月13日 朝

 眼を覚ましたスケアクロウは、どうやら自分が置いて行かれたということを理解するのにしばらくかかった。
 もちろん連れあいのウッドマンに置いて行かれたのだ。

 スケアクロウはとりあえず目を覚ましてまず部屋から出て部屋を降り、一階に備え付けられている共用のトイレで用を足し、表へ出て井戸の水で顔を洗った。
 防寒・砂避け・日除け・寝具その他諸々を兼ねるいつも身につけているお気に入りの黒いマントでごしごしと顔を拭い再び部屋に戻った。

 部屋のドアを閉めてようやく同じ部屋にいたウッドマンがおらず、それだけではなく彼が持つ荷物も何一つないことに気付いた。
 昨日ほとんど眠っている状態で宿にやってきて、おそらくそのまま寝かされたのであろうスケアクロウは、改めて部屋をまじまじと見る。

 背中にドアがある。目の前に窓がある。窓の前には小ぶりのタンスがしつらえてある。
 自分がくるまって寝ていたのはごわごわした安っぽい毛布だった。
 多分普段はあのタンスに入っているのだろう。他には何もない。
 タンスの上に溶けてすっかり小さくなったろうそくを載せた蝋燭立が立っていて、盆に載った水差しと逆さまに置かれたコップ、そして何かの紙包みがあるだけだった。
 ここは宿屋と呼んでいいのだろうか。せいぜいが雨風をしのげるというだけではないだろうか。

――それだけ安いのかしら、とスケアクロウは考えた。
 スケアクロウの中の乏しい宿ランキングでも五本の指に入りそうだ。
 それともこの部屋だけで、他の部屋にはちゃんとした設備があるのだろうか。
 ウッドマンとの旅は、贅沢はしないが、ここまで何もない宿に泊まるというのも珍しい。
 この部屋には寝台すらないのだ。

 とりあえずタンスの上の紙包みを開いてみる。それはどうやらウッドマンが買ったらしきホットドッグだった。
 スケアクロウのお腹が小さく音を立てた。食べていいものだろうかと思う。
 ウッドマンの許可なしに、という意味と、このホットドックが安全だろうかという意味で、だ。

 なおも空腹を訴える胃袋にスケアクロウはまあいいやと結論した。
 水差しの水をコップに注ぎ、冷えたホットドッグをほおばる。冷えていてまずかった。
 しかし腹の虫はおさまった。

 そして自分が寝ていた麻布をきちんと折りたたんで一番下の段にしまう。することは一つもなくなった。

 ……。

「……暇だい!」

 スケアクロウは一言そう言ってみる。暇の一言で済ませられたらまだましな方である。
 スケアクロウは不安で一杯だった。もしこのままウッドマンが帰ってこなかったら。
 自分は足手まといだと、見捨てられたのでは――。
 開け放した窓の向こう側で小鳥たちが飛び回っている。しかし小鳥達は歌うばかりで、返事を返してくれるわけでもない。
 もちろんウッドマンはちゃんと帰ってくるよ、などと言うわけもない。
 むくれたスケアクロウはもう一度言ってみた。

「暇なんだってば!」

 帰ってくるってば。自分の口から出た言葉はそう聞こえた。
 鳥達はもうだいぶ高い朝日に向って飛んで行ってしまった。
 ああ――君達も行ってしまうんだな。

 スケアクロウはチェッと舌打ちをして部屋の中を振り返る。
 勿論部屋の中にも、返事をしてくれる連れはいない。

 スケアクロウは窓から見える太陽がいつもより若干高いことに気付き、それはどうやら自分が起きる時間が普段より若干遅かったということを意味するのだと理解する。
 要するに寝坊したのだ。もちろんそんなことでウッドマンが自分を置いてけぼりにするとは思わなかったけれど、だからと言って絶対にそんなことはしないとは言えなかった。        
 念の為に部屋の箪笥も調べたのだが、出てきたのは痩せこけた鼠と名も知らない真っ黒な虫だけだった。
 引き出しを開けると青いタヌキが出てくるというのはウッドマンが話してくれたのだったか。
 スケアクロウはついぞ見たことが無い。

 今すぐに出て、ウッドマンを探すべきだろうか。
 スケアクロウは夢現に通り抜けた昨日の宿泊の手続きを思い出す。
 ウッドマンは確か、入口の脇に座っていた痩せた老人に多分お金を渡していた。
 つまりここは前払いの宿と言うことだ。ウッドマンが払ったのは一日分の宿代だと思う。
 ならば――延長時間分の割増料金を請求される前に宿を発たなければ、スケアクロウには払うお金が無い。
 出せるものと言ったら服と麦わら帽子くらいだが、いくら粗略な宿だからと言って、これらで足しになるとも思えない。
 そもそもこの麦わら帽子は絶対あげられないスケアクロウの父親の形見なのだ。

 その時、スケアクロウはホットドッグを包んでいた紙の表面に文字が書いてあることに気付いた。
 スケアクロウは教育を受けたわけではないのでまだあまり字は読めない。
 だから、ほとんど定形句でかろうじてスケアクロウが覚えた簡単な文字が走り書きで記されていた。

――やど から でるな。すぐ もどる。かね は しんぱい ない。 トレイズ

 紙にはそう書かれていた。スケアクロウはその文面を何度も読み直し、そして安心した。 
 トレイズというのはウッドマンの名前だ。彼が戻ると言うのだから、彼は絶対戻ってくる。
 スケアクロウはウッドマンに全面の信頼を置いていた。
 ウッドマンは約束を破らない――それはスケアクロウの中は真理に近いものだった。

 しばらくの間は箪笥に潜むウッドマンを想像して思わず笑ったりしていたのだが、すぐに退屈を持て余すようになってしまった。
 もう不安はなかったけれど――依然として暇だった。

 窓から離れたスケアクロウは腕組みをしながら部屋の中を行ったり来たりする。
 その度に腐りかけの床が不機嫌な音を立てた。

「ウッドマンは出かけてしまった。オレは部屋に残されてしまった。このままでは退屈で死んでしまう」

 スケアクロウは芝居がかった仕草で考え込むポーズをとる。
 退屈で死ぬ以前にこのままではお昼になる頃には餓死しているかもしれないなと、スケアクロウは思った。
 昼まではまだたっぷりと時間があったが、それまでにウッドマンが帰ってくる確証はない。

「しかしウッドマンは宿から出るなと言った。宿から出るなと言った。……宿から出ちゃあいけないのか。うーん」

 顎に手を当てて唸ってみる。

「これは難しい問題だぞ」

 箪笥から出てきた鼠がスケアクロウの足元でチューと鳴いた。
 行き場をなくして部屋を彷徨っているうちに、ぎしぎし鳴る床に驚いて迷走しているらしい。
 スケアクロウはポーズを解いてしゃがみ込む。あちらこちら走り回る鼠に相談してみた。

「ねえ、どうすればいいかな?」

 ネズミはスケアクロウから離れていき、ドアの方へ走って行った。
 立てつけの悪いドアでやたら固いくせに上下に大きな隙間があいている。
 鼠は隙間から部屋の外に出ていってしまった。

 スケアクロウはしばらく鼠の出ていったドアをぼんやり眺めていた。
 が、やがて妙案を思い付きにんまりと笑った。

「ウッドマンは宿から出るなとは言ったけど、部屋から出るなとは言ってない!」

 途端に元気づいたスケアクロウは部屋から飛び出した。
 それから小さな探検と称して宿内をすみずみまで歩いてまわった。
 スケアクロウは寝起きにトイレに行くために部屋を出て、しかも顔を洗うために宿からも出ている事実はすっかり忘れていた。
 その結果分かったことが幾つかある。

 一つ目は、どの部屋も平等にぼろぼろだということである。
 一等室二等室というように部屋ごとに格差があるわけでもなく、全ての客室に手入れがされていない。
 もはや客室と呼んでいいのかどうかすらはっきりしない。

 二つ目は、この宿には今ウッドマンとスケアクロウ以外の宿泊客がいないらしい、ということである。
 全ての部屋を勝手に見て回ったのだが、使われた痕跡が特にない。
 当然と言えば当然かもしれない。食事もつかずロクな設備もない前払いの宿場である。
 客が寄り付かないのも頷ける。それにこの街にはそもそも旅人という来訪者が少ないのかもしれない。
 温泉もなければ風光明媚なところがあるわけでもないように見える。
 ウッドマンは何か特別な泉があると言ってきたところだが、それにあやかりに他の旅人がこの町にいる様子もなかった。
 街道からも外れているから、用事がなければ誰もやってくることはないのだろう。

 三つ目。この宿屋は三階建てだが粗末な造りの建物である。
 一階にカウンターがあり、二階より上が客室になっている。
 立地条件が悪いのか、ワンフロアにせいぜい二部屋と言ったところで、三階に至っては屋根裏部屋同然である。

 そして四つ目に、この宿にはどうやらかなり広い裏庭があるらしいことだった。
 宿の裏手には公園とも空き地ともつかない草原が広がっていた。
 初めは宿とは関係ないのかと思っていたのだが、どうやら一階から草原に繋がるドアがあり、草原は木の板で四角く区切られていた。
 そしてところどころに木の棒が等間隔に立っている。

――お墓だ。

 墓碑は石と相場は決まっているものだが、その光景を見てスケアクロウは直感的にそう思った。
 棒の数は十や二十では到底足りない。おそらく百本を超えているだろう。この土地代々の墓所なのだろうか。

 三階の窓からそれを俯瞰したスケアクロウは何だか見てはいけないものを見た気になった。
 そして同時に、自らの小さな冒険が終了を迎えたことを悟るのだった。

「ううん」

 スケアクロウは一階まで階段を下りる。カウンターには誰もいなかった。
 結局スケアクロウの探検は、自分が誰もいないがらんとした宿場に一人残されたことを確認することで終わりを告げた。

 窓が少なくどんよりとした空間には暇つぶしを見つける要素がなかった。
 出来そうなことといったらせいぜい壁の木目を何かに見立てて想像を膨らませる程度のこと。
 これでは部屋に閉じこもっているのとなんら変わらない。

 そんな生産性の無い暇つぶしをしているのは、そうでもしないとこの建物とあの墓がどういう関係なのかを考えてしまうからだった。
 スケアクロウが知る知識の中に宿泊と墓地という単語に引っ掛かる説話があったからだ。

 いくつもパターンがある『入っていく人はいるが出ていく人はいない館』の話である。
 それは宿泊客の身ぐるみを剥いで、最終的に殺してしまう悪辣な主人が営む宿屋というのが真相とされる。
 もちろんその話には宿の裏手が墓地になっているなんて言うタイプのものはないし、よくよく考えれば金目当てで客を殺す宿の主人が、わざわざ被害者の墓を作るわけもないのだが、そこまで考える前にスケアクロウは冷静さを失っていた。

 なぜなら――。

 なぜなら、ウッドマンは現にいなくなっているのである。
 ウッドマンが既に殺されていないとどうして断言できるだろう。荷物も残っていなかったじゃないか。
 それはちょっと出かけてくるという次元の出来事ではない。
 ウッドマンは出かけようとしたその直後に、あのカウンターに座っていた宿屋の老人に後ろから――。

 その時、スケアクロウの耳にザクリ、ザクリと音が聞こえた。
 それはシャベルで土を掻く音にのようだった。
 言い方を変えると穴を掘る音のようでもある。
 スケアクロウはカウンターの中に入って、カーテンで区切られた部屋の内側を覗く。
 カーテンの裏側が一段高くなっていて、そこにテーブルやら雑多な小物が置いてあった。
 どうやら主人の老人が寝起きする部屋なのだろう。
 そしてカーテンの正面、ずっと下がった地面が続くその先に、ドアがあった。
 あの裏庭に続くドアに違いなかった。
 スケアクロウは恐る恐る近づいてドアに耳を当てた。

 ザクリ、ザクリ。

 穴を掘る音が絶え間なく聞こえる。何の穴だろうか。相当に大きい穴ではないだろうか。
 だってこんなに掘っているもの。
 例えば――人間を埋めるような穴。
 老人が穴を掘る傍らに、頭を割られたウッドマンがいないとどうして言いきれるだろう。

『アンタんとこに泊っていると聞いたぜ。どんなやつらなんだ』
『知らんよ、儂にゃあ興味がない。そんなに知りたきゃ自分で見て来い』
『つれないなぁ、じいさん。こうして新聞を持ってきてやったのに』
『別にお前に持ってきてもらわんでもうちは一向に困らんよ。暇つぶしに読んどるだけさ』

 ふいにシャベルの音が止まり、老人と、そしてもう一人、若い男の声が聞こえた。
 しかし断じてウッドマンの声ではない。何気ない会話だが、スケアクロウは聞き逃すまいと耳を澄ます。
 ドアをちょっとだけ開けてみようかとも思ったが、立てつけの悪いこの宿のとびらなら、大きな音がするかもしれない。
 もしスケアクロウがここにいることがばれれば、それが意味するものは一つしかなかった。

『それでさ、アンタんとこの滞在客、ロベルトの飯屋を食いつぶしたんだと。一人前の昼飯をなんと数十人分! とんだ化け物じゃねえか』
『ああそうかい、儂は興味がないとさっきっから言っているんだがな、早く新聞を渡してくれないかね』
『まあそう言わずに。それで気になることだが、その男が小さな子供を連れてるらしいじゃねえか』

 スケアクロウは話題に上がっているのが自分であることに気がついてますます息をつめた。

『町中あちこち、その男と子供が何者かって噂の嵐だぜ。じいさん聞いてないのか?』
『そう言えば酒を届けにきた奴が何かぐだぐだと喋っていた。正直この街に来るような旅人なんてのは、胡散臭いだけだ』
『確かに。こんな寂れ切った町にあんのは木と酒と――くらいのもんだ』
『おい、軽々しく口を滑らすな若造』

 一瞬老人の声に明確な怒気がこもって、スケアクロウはびっくりした。
 何のことだろう。スケアクロウにはよく聞き取れなかった。

『どうせだれも聞いちゃいないよ。心配性なじいさんだ』
『お前が軽薄なんだ。いいかそれは町の秘密だ。男と子供も――それが目当てかもしれん』
『そうさ、それで、だ。じいさんあの男と子供ってどういう関係だと思いなさるね』

 じいさんと呼ばれている宿の主人は、不機嫌そうに適当な返事を返す。相手の男はお構いなしに話を続けた。

『取り敢えず出てるのは兄弟とか親を失った子を引き取った親の弟とか……でも一番濃厚なのは人買いだな』
『なんだろうとおかしかないね。儂が子供の頃からこの世界はイカレてるらしい。気になるならお前が確かめればいいんだ。聞けば隠すような関係じゃないかもしれん。はたから見て怪しいからそういういかがわしいうわさで盛り上がるのは、儂ゃ好まんね。そう教えられた』
『誰に?』
『儂の親だ』
『ふうん。まあそれは置いておいて、俺はそれとは違う別の説を支持するね』

 男は間をおいて吟遊詩人が物語を語るように喋った。

『かどわかしだよ。あの子供はどこかのお偉いさんの坊ちゃんか何かで、あの男は子供を拉致しているっていうわけさ。この町に潜伏して身代金をふんだくるって寸法さ』

 何を言うんだこの男は――! スケアクロウは口を曲げて、音を立てないように憤慨した。
 どうやらこの町でウッドマンとスケアクロウは歓迎される存在ではないらしい。

『ああそうかい。話しに付き合ってやったんだ、新聞は渡して貰うよ』
『あ、じいさん、勝手に取るなよ。話はまだいろいろあるんだぜ』
『鏡に映った自分の顔にでもしてやんな。いつも暇そうにしてる』
『暇そうにしてるのはあんたもじゃないか』

 宿の主人は答えない。話を切り上げて宿の中に戻るつもりなのだ。
 スケアクロウは慌てて回りを見回した。隠れられそうな場所はどこにもない。
 このままでは間違いなく見つかってしまうだろう。

『なあ、じいさん見たんだろ。あの二人、どんなだった』
『さぁね、まあお前さん達の想像は大方外れだよ。儂ゃこれでも人を見る目には自信があってね。血縁っていうのはないだろうな。顔かたちがまるで違う。男の方はよく見りゃあれはなかなか色男じゃないか。顔に気品がある。だがガキの方はまるで品もない。誘拐もないだろうな。良くて商人の子じゃないかね。とてもじゃないが金に縁があるとは思えない。身のこなしも粗野だ。九分九厘百姓か物乞いの類だろうね。男がガキを買ったっていうのはあるかもしれんな』
『買った? 何のために?』

 スケアクロウは品が無いだの金に縁が無いだの百姓だの物乞いだのさんざんな言われようだったが、そんな事に頓着はしていなかった。
 それよりも、お前らはそのウッドマンを一体どうしてしまったんだ――。
 二人がそのことを洩らさないか、スケアクロウは堪え切れない思いだった。

『仕事を手伝わせてるわけでもないだろうな。そういや、あの二人は昨日セツ先生の家の方から来たんだっけね』
『ああ、そうだぜじいさん。ロベルトの飯屋の次に先生の診療所によってその後あんたのとこにきてんだ。確かに変な足取りだな。先生の家なら泊めてくれそうなものだが』
『何らかの……悶着があったんだろうな』
『何だよ悶着ってのは』

 例えばの話だが、と老人は声をひそめていった。

『ハーメルンの笛吹きの話を知っとるか?』
『男が笛を吹くとネズミがぞろぞろって奴だろ?』
『ありゃな、おとぎではない。事実だ』
『おいおい、笛を吹けばネズミが集まったり、子供が行列作ったりしちまうのかよ』

 ハーメルンの笛吹き男の話――スケアクロウもその話は知っている。
 ネズミが増えすぎて困っていたある町に一人の男がやってきて、ネズミを退治して見せようと町の主に話を持ちかける。男は笛を吹いて町中を歩くと、その笛の音に引き寄せられるように町中のネズミが集まって、男はそのまま歩いて河を渡る。すると後に続くネズミたちはみんな溺れて死んでしまう。男は報酬を求めるが町の人々は払い渋る。すると男はまた笛を吹いて町中を歩く。すると今度は町中の子供たちが操られたかのようにその笛の音に引き寄せられて、男とともに姿を消してしまうと言う話だ。
 知ってはいるが、それが事実だなんて聞いたことが無い。

『ハーメルンっていや西の方じゃ。その笛吹き男はネズミを退治し子どもを集めておったのだ』
『何のためにだい?』
『男は魔法使いだった。ネズミを退治したのは笛吹き男がネズミを操る魔法使いだったからさ。自分が操るネズミを使って病を媒介し、それを退治して町から金をとる。そういうペテン師の魔法使いだったのさ。でも、その正体がハーメルンでばれて、金をもらえなかった腹いせに、魔法で子どもたちをさらって行った。恐ろしい、悪い魔法使いだよ』

 老人の言っていることはスケアクロウにはさっぱりわからなかった。
 そもそもよく聞こえない扉越しの会話である。
 いや、仮に正面で言われてもスケアクロウには理解できない内容だろう。

『へえ、良く知ってるな爺さん』
『知ってるとも。ハ―メルンの笛吹き男はこの町にも来たからな。ちょうどわしが今泊まってるガキ位の頃だよ。黒死病が流行ってな。町にやってきた男は十人程度の子供を連れていて、やはりネズミを退治して、この町から大金と、子供を幾人か連れて行った』
『へえ』
『今でこそ宿なんて言ってるがな。ここはもともと病院さ。ここに並んでるのはみんなここに運ばれて死んだ連中だよ。ひどい時代だった。親父も黒死病で死んで、それから医学の分かる奴はセツ先生だけになったもんで、ここは宿にしちまったがね』

 それではやはり、ここは訪れる人が二度と出てこない宿で、裏庭は墓所なのだ。
 ならば、今掘っている穴は――誰の墓穴だ。ウッドマンだろうか。

『で、それが何であの二人の話になるんだ?』
『だから魔法使いじゃよ。あの男は魔法使いで、今にこの町でペストを流行らせだす。そしてさも自分がそれを何とかできるように言って、ネズミを退治し始めるのさ。子どもは別の町であの男についてきちまったんだろう』
『ああ、そういうことかい。ふうん……でもじいさん、その推理には大きな穴があるぜ』
『こんなの推理でも何でもあるまい。穴とはなんじゃな』

 穴――、ウッドマンのじゃない。それはきっと――スケアクロウの入る穴だ。

『まあその男がハーメルンの笛吹きよろしく町から町へ病気うつして回って金儲けしてるってのはいいさ。だけどな、あの二人がここに来た理由が説明できてないぜ。男がハーメルンなら、もっと金と人のいそうな町を狙うはずじゃないか?』
『男が魔法使いなら何の不思議もないさ』
『訳知り顔だなじいさん』
『十中八九泉が目当てじゃろう』

――泉? スケアクロウの耳にその言葉は引っ掛かった。

『おいおい爺さん、そりゃ禁句だったんじゃねえのかよ。さっき俺が言ったときは随分ひどいことを言われた記憶があるが』
『そいつは白昼夢って奴じゃな』
『たく、都合のいい爺だ。しかしなるほど、魔法使いなのか……なら、そうだな。欲しがるはずだ』
『真実の泉――鉄の斧を落としたと答えれば、鉄の斧のほかに金の斧と銀の斧を。病の娘を失ったと答えれば娘を返し、病さえも癒し、手足を失ったと言えば、より屈強な肉体を返してくれる魔法の泉。ネズミを操って小金を稼ぐより、ずっと多くの富を得られるじゃろう』

 スケアクロウの心臓が早鐘を打つ。ウッドマンが言っていたのと同じ話だ。
 それじゃあやはり、この町にあるのか――ウッドマンの心臓を元に戻すすべが。
 ガン、と空っぽな音を立ててそれは思いのほか大きく響いた。
 スケアクロウは慌てるあまり戸口の横に置いてあったバケツに足が当たってしまった。

『ネズミか?』

 若者が言った。

『ああ、ネズミさ。悪いネズミだ。黒死病をうつす』

 老人が低い声で言った。
 スケアクロウは慌ててドアを塞いだ。

『じゃあな』

 ドアが押される。スケアクロウの背で木がぎしぎしと悲鳴を上げた。

『おや?』

 二度三度と扉が押される。スケアクロウがぴったり押さえているため扉は動かない。

『もともと硬かったが……ついに開かなくなったかな?』
『じいさん建物の修理ぐらいしろよ』
『うるさい』

 足音と話声が次第に遠くへ去っていく。
 表口へ回ったに違いない。宿はそう大きくないから回るといっても大した距離にはならない。
 すぐにこっちにきてしまう。だから、カウンターを通って元の部屋に戻ろうとすれば、玄関から来た老人と鉢合わせになるかもしれない。

――どうする。

 迷っている間にも時間は過ぎていく。もはや後ろからは何の気配も感じられない。
 玄関からドアの開く音が響いた。もうこの部屋までは目と鼻の先だ。
 隠れろ、どこへ? 逃げろ、どこへ? どこでもいいから、早く――。
 スケアクロウはとっさにさっきまで自分が開かないように押さえていた背中の扉から宿の裏にある墓地に飛び出した。

 飛び出した瞬間に鼻をつくひどいにおいにスケアクロウは吐きそうになった。
 そしてハエの群れにたかられる死体を見て息を飲む。ウッドマンではない。
 着ている物の形から辛うじて男だと分かる。ふと傍らに新聞を持っているのが見えた。
 それでは、さっきまで老人と話していたのは一体――。
 スケアクロウは恐ろしくなって墓地を囲う塀をよじ登って宿を出た。

「……なんだ? 開くんじゃないか」

 老人は軽く開いた木戸を見て小さくため息をついた。部屋には誰もいない。
 あの旅人はどうやら戻ってくるらしいが。今夜くらい食事を出そうと色々作ったが、おかげで大量の生ゴミが出た。
 ゴミ捨ての穴を掘るのも久しぶりで、老人は再び穴を掘りに戸を開け裏庭に出た。
 これが終わる頃には昼時になっているだろう。子供の方は起きているだろうか。お昼でも差し入れてやろう。

 老人は肉刺のできた手にシャベルを握った。
 傍らには新聞を持ってきた青年がまだふてくされたような顔をして突っ立っている。

「お前さんもどうだね、その旅人とやらと昼飯でも食わんか」

「いや、オレは遠慮しておくよ。君子危うきに近寄らずってね」

 老人は若者の声色で自分の問いかけに自分で答えていた。
 ハエが耳障りな羽音を立てて飛び交っているのにも、老人は気付いていない。
 もちろん自分が話しかけている相手がとうに死んでいることも、その相手が自分の息子だということも、老人は気付いていない。

真実の泉と墓守の宿

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 朝 眼を覚ましたスケアクロウは、どうやら自分が置いて行かれたということを理解するのにしばらくかかった。 もちろん連れあいのウッドマンに置いて行かれたのだ。 スケアクロウはとりあえず目を覚ましてまず部屋から出て部屋を降り、一階に備え付けられている共用のトイレで用を足し、表へ出て井戸の水で顔を洗った。 防寒・砂避け・日除け・寝具その他諸々を兼ねるいつも身につけているお気に入りの黒いマ...

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3050年 6月13日 正午

 街中で飯屋を営むロベルトは、店のカウンターを一人占領し、酒に溺れていた。
 彼はグラスに並々と注いだ酒を煽る。すでにかなり酔いが回っている。
 それは決して心地よいものではなかった。

 目を閉じて、耳を澄ませばいつものように粗野で下品な町の男たちの浮かれた鼻歌や、血気盛んな奴らの罵りあいが聞こえてきそうだ。
 安っぽい町女の香水だって半径三十センチの至近距離に今にも嗅ぎ取れそうなのに。
 目を開ければがらんどうの店。昼飯時だというのに看板を掲げることもできない。
 貧乏な酔っぱらいの気軽な歌も、その貧乏な酔っぱらいからなけなしの金を得ることに必死な女の香りも、全て幻覚だ。
 誰もいない飯屋ほど寒々しいものもなく、しかもそこの店主がふてくされて安酒を飲んでいるともなれば不景気なことこの上ない。
 ロベルトはそんなことを思って一層ささくれ立った気持ちになる。

――いっそ昨日のことをなかったことにできるなら。

 昨日店に訪れた奇妙ないでたちの、陰気な旅人が全ての元凶だった。
 彼が店の食料をほとんど食い尽くしてしまったのだ。
 もっとも、祭りや祝い事の時に大勢で囲むための特別メニューであるタンシチュー五十皿を空にできるか、という大食い勝負を吹っかけたロベルトが悪いと言えばそれはそうなのだが。
 賭け事に負けて勝った方を恨むのはそれこそお門違いだろう。
 いざ負ければこの結末を十分に予測することはできたわけだし、そのための時間だって十分にあった。
 でもそれ以上にロベルトは自分の店のタンシチューのボリュームへの自信の方が大きかった。
 絶対に食いきれるわけがないと思っていた。

 この町の流通はかなり悪い。そもそもこの町自体がいわゆる新天地開拓のその前線にあたるからである。
 否、あたっていたというべきだろう。
 ロベルトの両親が子供の頃の話だとロベルトは聞いている。
 この辺りはここからはるか遠く離れた中央政府からの命により、国を挙げて国土を開拓する事業の一端だったのだと。
 当時はフロンティア・クレタなどと呼ばれ、大いにこの町も潤っていたらしいが、自分の両親から聞かされるそんな昔話は、さびれた片田舎という印象しかないロベルトたちの世代にとっては、年寄りの現実逃避に過ぎなかった。

 その両親ももう死んだ。ペストだった。
 ロベルトは週に一度しかやってこない商人から一週間分の食料を買って、次の週まで店を切り盛りするのだ。
 辺境の町まで食料を届けてくれる卸売は、その馴染みの商人くらいのものだ。
 この町の地面は畑には向いていないらしく、農家はほとんどないし、あったとしても育つのはせいぜい芋くらいしかない。

 だからこそロベルトの飯屋はある意味では絶対に潰れる心配のない店だったが、それゆえにロベルトの店の休業は町の多くの人に空腹を与えているはずだった。
 その事実もさらにロベルトを悩ませている。
 気が付けば頭の中に響く酔漢の歌声は、いつの間にかロベルトを非難する声に変っていた。
 餓えて、ロベルトの軽挙を罵倒する怨嗟の声。

 普通に堅実な商売をやっていればよかったのだ。
 わざわざ見も知らぬ旅人に賭けを挑んで、暴利をむさぼろうなどとわずかでも思ってしまったロベルトに神が罰を与えたのだ。
 普通にやっていれば、後五日はちゃんと営業できたであろう食糧庫を満たしていた食材の数々――そのほとんどを旅人は胃に収めてしまった。
 しかも結果として一銭たりとも払わずに、である。飯の食い上げもいいところだ。
 次の入荷まで店を開くことは難しいだろう。
 何せ倉庫に残っているのはチーズとポテトばかりなのだ。
 わずかな貯金を切り崩す必要さえ考えなくてはならないかもしれない。考えれば考えるだけ鬱になった。
 ロベルトは空のグラスを握りしめる。

 こんな時も妻は明るく振舞って彼を励ましてくれた。
 足が弱く店の上の自室から滅多に出てこない静かな女だが、その本質は気丈だった。
 そういうこともあるわよ、と笑顔の彼女を見て、ロベルトはますます情けない気分にさせられたのだ。
 ずぼらな自分に似つかわしくないほどよくできた妻だった。
 縁者のほとんどが死に絶えた今、彼女を養えるのは自分だけだ。
 その自分がしっかりしないといけないのに、逆に彼女に励まされていてどうするのだ。

 いつもは仕事に忙殺されて悩む暇などないのだが、今日に限っては仕込みの一つもできやしない。
 ロベルトはもやもやする気分を誤魔化す方法を知らなかった。
 そうなれば飲むことしかできない。自棄酒だ。皮肉にも酒はあった。
 人間が酒だけで生きていけたらどんなに楽だろう。
 酒はすぐに腐ったりしないし、一度の仕込みで大量に仕入れることができる。
 駄目になることを心配する必要もない。
 ああ、本当にそうだったらよかったのに――。

 そうやって次々と新しいボトルを開けている時だった。
 スイングドアがバタバタと音を立て、店の床がミシリと鳴った。

――客か。

 ロベルトは客の方を見ようともせずに言い放った。

「今日はやってないよ、看板が出てなかったろう」

 ところが客は帰る気配がない。ブーツで床を踏み鳴らしながら、カウンターへ向かってくる。

 ロベルトは訝しみながら、ようやくその視線をあげ、そして目を丸くした。

「あんたは……!」

 来訪客はカウンターの椅子を引くと、それに腰をかける。
 男は一見痩身だったが、腰かけられた椅子の方はやたらと鈍い音を響かせた。
 全身を黒いレインコートで覆う陰気な男、黒い長髪と緑色の瞳、感情などかけらもないと言わんばかりの鉄面皮――ロベルトの店の食材を全て平らげた旅人だった。
 ロベルトはグラスを脇へ除けると、挑みかかるように噛みついた。

「どこぞの胃袋魔人のせいで商売あがったりでな。悪いが水一つ出せねえ。昨日のようなただ飯を期待してるんならさっさと帰れ」

「……」

 旅人は無言で答えない。

「帰ってくれよ。なんだよその目は。俺のことを笑ってんのか? あ? そりゃ俺はバカだったよ。いいさ。気が済むまで馬鹿にすれば。さっさと帰れよ。帰れっていうのが聞こえねえか!」

 ロベルトはグラスを大きくカウンターにたたきつけようとした。
 しかし、その振り上げたグラスは降ろされることなく中途半端な位置で止まった。男が止めたのだ。

「そのお酒を一杯いただけますか」

「何?」

 男は無言で布袋を机の上に置いた。
 ずっしりと中身が詰まったその袋は、木のテーブルの上で金属の音を立てる。
 中に何が入っているのかは、考えるまでもなく明白だった。

 ロベルトは意図を読みかねて口をつぐんだ。
 どういう意味かを探ろうと、据わった目線を男に合わせるが、見つめ返す彼の目からは一つの意志も、微塵の感情も感じ取ることはできなかった。
 そもそもこの男にそう言った人間的な機能が備わっているのかどうかすら怪しく思えるほどに。
 その言いようのない不気味な目つきに気圧されたロベルトは、回らない頭と舌で、台詞を絞り出す。

「安酒一杯のために払う金額にゃ見えねえが」

「では代わりに面白い話でもしてもらえませんか」

「面白い、話……?」

 男はカウンターに肘を立て、その上に顎を乗せた。

「袋の中に金貨がちょうど百枚入っています。あなたが金貨百枚の価値があると思う話を聞かせてください」

 酔いが回っていたロベルトも、考えなしに頷くほど理性を欠いてはいなかった。
 軽く頭を振ってアルコールを抜こうと努める。

 ここは行き止まりの町だ。そこへやってくるということは、この町に目的があるということに違いない。
 だがその目的に思い当たる節がない。本当に何もない土地なのだ。
 目の前の男は何を企んでいるのか。ロベルトは無駄と分かっていながらも、男の考えを読み取ろうとした。

「……」

「いかがです?」

 男が袋に手をかけて、強く握る。通貨の音がロベルトの鼓膜に突き刺さった。
 ロベルトは考える。この旅行者は、あからさまに胡散臭い。
 もしかしたら町にろくでもない厄災を持ち込むかもしれないのだ。
 町の一員としては、異物を追い出すべきだ。だが。

――だが。より現実的な考えがロベルトを支配する。
 ロベルトは席を立った。カウンターの奥からグラスを持ってくると、それに並々と酒を注いだ。

「お待ち」

 男の前に酒が置かれる。不透明でツンとした匂いの酒だった。
 男は何も言わずに、それをぐっと飲み干してしまう。
 彼がグラスを置くのを待って、ロベルトの方から質問を投げた。

「で、お前さんが聞きたいのはどんな話なんだ。今の俺は酔ってるからな、いろいろと口を滑らせてやるよ」

「金貨百枚は普通の人が一生、生まれてから死ぬまで必要な金の総額に相当すると言いますね。一生に一度の話を聞かせていただきたい」

 男はそう言いながらもグラスを押し出した。ロベルトはその杯に再び酒を注ぐ。

「私達がこの村に来て、診療所に立ち寄ったことは、既にご存知ですね」

「私達? ああ、そういえば、ガキは今日一緒じゃねえのかい?」

 ロベルトは言われてようやく思い出す。
 そういえばうっとうしい子どもが男の周りを跳ね回っていたのではなかったか。
 確かいくつかの噂――というかこの男の噂はほぼ子どもと男がどういう関係かというもののみだった気がする。

「結局ガーフィールドの親父の下宿に泊まったんだってな。先生とひと悶着起こしたとかどうとか……」

 ロベルトの露骨な警戒を気に止める様子もなく、男は話を続ける。

「そこで聞きました、『精霊の湖』について……」

 途端にロベルトはなるほどと頷いた。この男はあの湖を目当てにはるばるこんな土地までやってきたのか。

 それは町外れの森の中にある、この近辺ではそれなりに大きな湖だ。
 昔からある水場なのだが、どう言うわけかここ最近おかしな噂が広がっているのだ。
『精霊の湖は失ったものを与えてくれる。自らの欠落を湖に投げ入れると、精霊が現れ、その不足を補ってくれる』と。

 なるほどその噂が外部までもれ、こんな旅人を呼び寄せてしまったのだろう。
 その程度のことは隠すものでもない、ロベルトはそういう噂の湖がある、ということについて洗いざらい教えてやることにした。

「ああ、その話か。聞いたってことはもう大体知ってるんじゃあないのか? ごく最近になって湧いてきた噂さ」

「実に興味深い噂だと思います。昔からの話ではないのですね?」

「そうだな……確かに泉に精霊がいて、種を落とせばどんな土地でも育つ種を返してくれるとか、怪我した体を泉に浸せば、精霊が治してくれるとか……まあ、本当か嘘か分かったもんじゃない。実際に効果があったと言い張ってやまない連中もいるが、所詮噂は噂さ」

「あなたはその噂をいつご存知に?」

「いつって……そんなことまで覚えていないよ」

「では三か月以上前にその噂を知っていましたか?」

「そんな細かくは覚えていないって」

 そうですか。男はそう答えて話題を変えた。

「私は泉のそばに女が住んでいると聞きました。きれいな女だと」

 ロベルトは記憶を漁りつつ宙を見た。

「そういえばそんな話もあったな。だがそっちの話は本当らしいぞ」

「おや、本当にそんな女性がいると?」

「ああ、そういう話だ。あの近辺は町から外れてるし、あの兄弟が……いや、とにかく町の目が届く場所じゃあないんだ。だから正確な話かと言われると断言はできんが、まあそれなりに信憑性の高い噂が流れているのさ。とびきり美人な巡礼者の女が住み着いてるってな」

「あなたはその人を見ましたか?」

「あいにくと女房がいるからな。そんな噂にうつつを抜かしてたら叱られっちまう」

「その噂はいつごろから?」

「だからいつとかは知らないって」

「三か月前には?」

「覚えてねえな」

「そうですか」

 男はグラスの中身を一気にあおった。
 それなりに度数の強い酒なのだが、さっきからぐいぐい飲んでいく男を見て、ロベルトはこの男は人間の形をした何か人間ではないものではないかと思い始めていた。
――悪魔とか、幽霊とか、何かそういう良くないもの。

「今の話に金貨百枚をあなたはかけられますか?」

「いや、それほど値打ちのある話じゃなかっただろう」

 男に問われ、ロベルトは正直に言う。

「ところで奥方がいらっしゃるようですね」

「ん、ああ、まあな。俺が言うのもなんだが自慢の女房だよ。気立てはいいし、我がままじゃないし、足が悪いから部屋から出られないが、なかなかの別嬪でな。俺にはホント、もったいないくらいの」

「今日、お会いになりましたか?」

「あんたが来る前にあいつに励ましてもらってたところだ」

「そうですか。ではなぜあなたは一人で酒を飲んでいたのですか?」

「だから女房は足が悪くて二階の部屋から動けないんだって」

「そうですか……」

 男は一つ頷くと、グラスを傾けた。
 空になった透明のグラスを置くと、通貨の入った袋をそのままに席を立つ。
 ロベルトは引き止めるわけでもなく声をかけた。

「行くのかい? こんな大金、本当にもらっていいのか?」

「ええ、ご馳走になりました」

「後で返せって言われたって絶対に返さないぞ!」

 ロベルトは大声で言う。男はそのまま店を去っていくかに思われたが、思い出したようにロベルトを振り返った。

「そう言えば、今朝方からカインさんの行方が知れないから探してくれ、とセツさんに頼まれました。この店には来ませんでしたか?」

 ロベルトは、さっきのそれで質問は終わりだと思っていたため、半分以上警戒を解いていた。
 特に不審がることもなく、答えた。

「知らんな。だがあいつは滅多に町には来ない。大方弟の幻影と森で仕事でもしてるんだろう」

「幻影、ですか?」

「ああ、あいつの弟のアベルは……」

 さすがに喋り過ぎた、とロベルトは口をつぐんだ。

「おいあんた、俺がこの話をしたってことは、金輪際秘密にしておいてくれるって約束できるか?」

 金貨百枚を前にその存在感にロベルトは少しの罪悪感を覚えていた。
 こんなものを本当にもらってしまって、自分はひょっとして騙されているのではないだろうか。
 そんなことを思いつつも、ロベルトは言う。

「俺はカインとアベルっていう樵の兄弟の昔話を知ってるが、聞いていくか?」

 男は是非、と静かに言う。
 ロベルトは、自分はただ昔話をしているのだと自分自身に言い聞かせ、平静を保ちつつ、会ったばかりの、そしておそらくもう二度と会うことのないであろう旅人に、町でタブーとされている兄弟の話をした。

「昔、この町にカインとアベルっていう樵の兄弟が住んでいた。兄のカインははっきり言って屑だった。仕事もまともにやらないしがさつで乱暴者だった。反対に弟のアベルはよくできたやつで頭もよかったし何より気立てが優しい。当然町でも好かれてたのはアベルの方さ。でも、アベルはよくできた弟だったから、決して兄のカインより目立ったりしないようにいつだって控えめに暮らしていた」

 ちなみにこれはこの町のカインとアベルのことじゃないからな、とロベルトは今更言い訳をするように言った。
 続けてくださいと、男は立ったまま言う。

「ところで、カインとアベルには幼馴染の女がいた。この女をセツという。三人は本物の兄弟のように近くで育ったが、それでも三人の間には兄弟には存在しえない男女の思いが出来上がっていた。皮肉にも、その思いの方向は全員が全員違う方向を向いていた。アベルはセツが好きだった。だがセツが惚れていたのはよくできた弟じゃなく、できの悪い兄のカインだった。そしてカインは――屑だからその頃あばずれの町女に夢中だった」

 よくある話ですね、と男は言う。
 ロベルトはそうともよくある話さ、と大げさな身振りを加えて言った。
 決してこの町だけのタブーを話しているわけではないと強調したつもりだった。

「ある日アベルはセツに告白する。もっともセツは告白される前からアベルの気持ちは分かっていたし、アベルもセツがカインに惚れてることを知っていた。そして、セツはやっぱりカインが好きで、振られたアベルは……町を出ていくことにした」

「どこか、身を寄せるところがこの町の外に?」

 男は淡々と聞いた。

「いや、知らねえな、とにかくここにはいたくなかったんだろう。幼馴染に告白して、振られて、それでまた明日から何もなかったように普通に、なんてことは出来ねえもんさ。だが、アベルはその前に死んじまう。旅立つ前の最後の仕事で倒した木の下敷きになっちまった」

 それは可哀想に。男の口調はあまりに平坦でいっそ白々しいほどだった。

「カインはアベルが死んでからおかしくなった。無理もないかな。カインはアベルが死んだ時もそのあばずれと一緒にいたし、死に顔は拝んでないだろうからな。もしかしたらアベルはカインが全く知らない間に消えるように葬られちまったのかもな。とにかくカインはアベルが死んだ後も、アベルが生きてるようなことを言う。街の連中は思ったね、とうとういかれちまったってな」

――それは面妖な。

 男が言う。少しもそんなふうに思ってはなさそうな言い方だった

 カインは「アベルが生きている、毎日俺をあざ笑っている」と町の者に話していたが、町の者から見ればカインが狂っているのは一目瞭然だった。
 きっと実体のない弟と共に木々の中で寝起きして、樵の仕事を続けているのだ。
 あるいはそれは、カインに残されたほんの一匙の弟に対する罪悪感の発露なのかもしれなかった。
 考えてみれば、カインも哀れな男なのかもしれない。
 アベルの兄でなければ、ただのくだらない男で済んだのだろうに――。
 ロベルトはふとそんなことを思って、あのろくでなしに少しばかり同情した。

「その後、そのカインさんと、セツさんはどうなったのですか?」

「さてね、俺が知ってる話はここまでさ。まあこの二人はうまく結ばれることはないだろうよ。結ばれないほうがお互いにとって幸せだろうしな。さっさとほかの男を見つけるべきだと思うね、セツせん……いや、セツは」

 思わずセツ先生と言いそうになって慌ててロベルトは言い直す。

「面白い話でした。その金貨百枚に値する素晴らしい話です」

「おい、これは……」

「当然、私とあなただけの秘密の話ですよ。大丈夫、その皮袋の程度には私の口は軽くないですよ」

 ロベルトは改めて革袋を手に握った。
 重さは同じでもそれが小麦の袋か人間かで、体に感じる重みは違うという。
 皮袋は見た目よりもロベルトの手にはるかに重く感じられた。

「ああ、そうだ。いつもいろんな料理のにおいに紛れているからお気づきでないのかもしれませんが、一度この家を掃除した方がいいですよ。ひどいにおいがしています。特に二階の方から」

「余計なお世話だ、二度と来るな」

 男はロベルトの捨て台詞を背中に聞きながら、またスイングドアを揺らして店を出る。
 ロベルトはその後姿にそう吐き捨てると自分のグラスに酒を注いだ。
 酒のボトルが空っぽになった。ロベルトはしまったと思った。
 また泉に酒を汲みに行かなくてはなるまい。泉に精霊が住んでいるなんてほらもいいところだ。
 あの泉の水は酒なのだ。あの泉から酒が湧くようになってロベルトは酒に不自由しなくなった。

「……あいつに飯を作ってやらないとな」

 ロベルトは窓の外から真下に照り付けるような光を見て、昼が近いことに気付く。
 ありあわせの物しかできないが仕方あるまい。それでも妻はきっと怒らないだろう。
 ロベルトがキッチンに入ってジャガイモをゆでていると、そこに小さな影が駆け込んできた。

 息せき切らしてロベルトの酒屋に駆け込んできたのは誰かと思うと、先ほどの旅人の片割れの子どもだった。
 麦わら帽子が完全にずれて顎紐だけでようやく首に引っかかっている。
 子どもはそのままロベルトの体に突進してきた。
 何事かと思って引き離そうとすると、ねっとりと透明な液体が手についた。
 涙と鼻水と汗が混じったものだった。

「うわ」

 思わず声を上げてしまったが、子どもはとてもおびえた様子で、ロベルトの白いエプロンの裾を握りしめて離さない。

「うおおお、おっ、おっ、おじさん……。う、うえ、うう、ウッドマンは?」

 子どもは涙をボロボロこぼしながらとぎれとぎれにしゃくりあげながら聞く。
 とりあえずロベルトは手拭きに使っている布巾を子どもに渡し、カウンターの席を勧めた。
 子どもは涙をぬぐい何度も布巾で鼻をかみ、それでもなおあふれてくる涙をこらえつつも、泣きわめくのは我慢しているようだった。

「どうしたい、お前、あの旅人と一緒じゃなかったのか?」

「ううう、ウッドマンはどこにいるか知らない? 朝目が覚めたらいなくなってたんだよぉ。そんで、宿の裏にはお墓がいっぱいあって、おじいさんは穴を掘ってるんだよ。それで、それで、人の、死体が、うわ、あああ……」

 記憶をたどりつつ再び嫌なことを思い出したのか泣きそうになる子どもをロベルトは慌ててなだめた。
 なだめつつもロベルトは状況を考える。
――男が子どもを連れて町にやってくる。その子どもを置いて町から出ていく。
 とすれば、これは子捨てに他ならないだろう。そうであればこの町であることも頷ける。
 ここは辺境にあるちっぽけな町である。
 大きな街に捨てれば捕えられる。山に捨てれば子どもが死んでしまう。
 殺したくはないが、育てる親もない。

 この子どもはそんな子どもなのだろう。可哀想な奴なのだ。この町に住む大半の住人と同じく。
 急にこの異質な旅人に対して、ロベルトはウッドマンには感じ得なかった親近感を感じ始めていた。

「坊主、お前、名前は?」

「スケアクロウ(助悪郎)……」

「変わった名前だな。生まれはどこだ?」

「知らない」

「親は?」

「いない」

 つまりはそういうことなのだろう。
 きっとあちこちをたらい回しにされて、あの非情な男が最後にこの子どもをこの町に捨てに来た。
 ロベルトはまじまじとスケアクロウを見た。
 身なりはぼろぼろと言っても差し支えないし、日に焼けた肌はいかにも貧しそうだ。
 太い眉毛と鼻の上のそばかすは田舎者という印象だし、実際に話し方にも知性を感じられない。
 おそらく教育など受けたこともないはずだ。

 ロベルトは今すぐウッドマンを追いかけようかとも思った。
 しかし追いかけてどうするというのだ。ウッドマンにこのスケアクロウを突き返すのか。
 そんなことをしてどうなる。別の町で同じように捨てられるだけではないだろうか。
――それよりも。

「まあ小僧、いや、スケアクロウだったな。腹減ってるだろ。ちょうど作り立てだ、って言ってもお前らが昨日食い尽くしちまったからロクなもんじゃねえが、腹の足しくらいにゃなんだろ」

 そういってロベルトは自分と妻のために作った昼食の一皿をスケアクロウに差し出した。

「え、でもオレ、お金持ってないよ」

「気にすんなよ、金ならさっきお前の連れが……」

 言いかけてロベルトは気付いた。

――この金貨百枚の意味は、そういうことだったのか。

「ウッドマンが来たの? おじさん!?」

 ロベルトは腰を落としてスケアクロウの目線に合わせてその瞳を覗き込んだ。
 きっとこの子どもは、いまだ自分が捨てられた事実に気付いていない。
 受け入れるのは困難なことかもしれない。
 これまでも何度も何度も捨てられてきたのだろう。
 ロベルトはスケアクロウの潤んだ瞳を見つめる。
 自分と同じ、この町に住む多くのものと同じ可哀想な色をした瞳。

「スケアクロウ、おじさんはな、お前の連れの、ウッドマンからしばらくお前の面倒を見てくれって、頼まれちまったんだよ」

「やっぱり来たんだね! どっちに行った? 今から追いかければ間に合うと思う?」

「よく聞け、スケアクロウ、ウッドマンは大切なお仕事があって、それにお前は連れていけないんだ。お前は子どもだから。いい子にして待ってような」

 そのうち迎えに来るから――。
 そんなことは絶対にないのだ、とロベルトは確信していたから言うことはできなかった。
 スケアクロウは怪訝そうな顔をしてロベルトの顔を覗き込む。
 その純粋な瞳に、なぜか目頭が熱くなった。

――ごめんなさい、あなた。流れてしまった。

 妻は子宝に恵まれず、生来子どもを産めないだろうと言われていた。
 そんな妻も五年前に子どもを孕んだことがあった。
 結局生まれてくることのできなかった命。きっと生まれていれば目の前のこの子くらいだったろうか。

「おじさん?」

 スケアクロウは急に泣き出したロベルトに戸惑う。
 だが、ロベルトは構わなかった。
 そうだ、この子どもはあの時に流れてしまった自分たちの子どもだ。
 運命の神様は自分たちから子どもを奪ったけれど、今こうして五年の歳月を超えてここに帰ってきたのだ。
 この子どもは――スケアクロウは俺達の子どもだ。

 ロベルトはそう思った。
 そうであってもそうでなくても、今ここにロベルトにはこの子どもを養えるだけの金があり、そしてロベルト達は子どものない夫婦で、そこに捨てられた子供がいる。
 状況がこの子どもを育てろと雄弁に物語っているではないか。
 ロベルトにとってそれ以上に強烈な真実は存在しなかった。

――きっと妻も喜ぶだろう。

 あんなに欲しがっていた子どもだ。欲しがっても決して手に入らない子どもだ。
 俺達の、俺達だけの子ども。喜ばないわけがない。

「スケアクロウ、いっぱい食えよ、お代りならいくらでもあるんだからな」

「う、うん」

 その時、スケアクロウはピクリと震えた。

「お、おじさん、おしっこ」

「なんだ、しょうがねえな、こっちの奥言って右だ」

 スケアクロウは小走りにトイレに向かった。
 その姿を見て、ロベルトは何となく微笑ましくて笑ってしまう。
 子どもは本当に、どうしてかわいいのだろう。
 家族がいるというのは何と素敵なことだろうか。

 しばらくしてもスケアクロウは戻ってこなかった。どうやら出るものが違ったらしい。
 そんなことを思っていると、何故か二階からスケアクロウの悲鳴が聞こえた。
 ロベルトは何事かと思って階段を駆け上がると、妻の部屋の扉の前にスケアクロウが腰を抜かしていた。

「どうした? ああ、これがお前のお袋さんになる人だ。すまん、いろいろあって、この子を預かることにしたんだ。スケアクロウっていう」

 ロベルトは寝台に腰掛けて本を読んでいた妻にスケアクロウを紹介した。
 妻はにっこりとほほ笑んで、それはそれは、と言う。
 しかしスケアクロウは妻とロベルトを交互に見比べて、愕然とした顔をしている。

「おじさん、おじさん! 何言ってるの? あれが見えないの? ベッドの上で、人が死んでるじゃないか!」

 スケアクロウは指をさして叫んだ。
 ロベルトは妻が寝たきりに近い生活をしていることに対してだと思い、スケアクロウを殴った。
 もちろん小突いた程度の感覚だったのだが、スケアクロウは目を白黒させていた。

「そんな言い方はないだろ。歩けなくたってあいつは生きてる。謝りなさい」

 スケアクロウはうるうると目に涙をためて、そして階段を走って駆け下り、そのまま店を出て行ってしまった。
 ロベルトは即座にしまったと思った。
 あの子は捨てられたばかりで心が不安定なのだ。
 叱りつけて伝わるほどの信頼関係がまだできていない。

 ロベルトは妻の方を眺めた。
 妻はため息を一つついて、お腹が空いたら帰ってきますよ、と言った。

「帰ってくるかな」

 ロベルトが言うと、子どもってそういうものよ、と妻は笑った。
 ロベルトにはそれが、妻が笑ったように見えていた。
 真っ黒に朽ち果てた死体に、山のような蛆虫とハエがたかっている。
 それが、ロベルトが愛している全てだった。
 ロベルトは彼女がもはや死んでいることに気付いていない。

「さあ、俺たちも昼飯にしよう。あの子のことを話すよ。昨日の旅人の続きなんだが……」

 うわん、とハエの羽音が耳を掠める。ロベルトには心地よい妻の声が聞こえていた。

真実の泉と町に一つの食堂

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 正午 街中で飯屋を営むロベルトは、店のカウンターを一人占領し、酒に溺れていた。 彼はグラスに並々と注いだ酒を煽る。すでにかなり酔いが回っている。 それは決して心地よいものではなかった。 目を閉じて、耳を澄ませばいつものように粗野で下品な町の男たちの浮かれた鼻歌や、血気盛んな奴らの罵りあいが聞こえてきそうだ。 安っぽい町女の香水だって半径三十センチの至近距離に今にも嗅ぎ取れそうなの...

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3050年 6月13日 午後

 ウッドマンはロベルトの酒屋を出ると次にセツの診療所を目指した。
 依頼主の弟で、殺人の対象たるアベルが泊まっている場所だ。
 森の入口に水先案内のように立っている木造りの家。
 ペストに感染している恐れがあると言われたアベルは治療を受けているはずだ。

 ウッドマンは診療所の外側を一周した。
 おそらく診療室なのであろう玄関と反対側の部屋の窓にはカーテンが下ろされていて、中の様子をうかがい知ることはできなかった。
 しかし明かりはついているようで、暖色を伴った光がゆらゆらと揺れるのを確認することができた。

 ウッドマンはもう一度正面に周り、今度は入り口のドアを二度たたいた。
 すぐに声がし、ほどなくしてセツが出てきた。

「ごめんください。強い感染力を持つ病気の患者と連れが接触しているかもしれないと不安になり、その病気のことを詳しく教えていただきたいのです」

 ウッドマンの発声はひたすら淡々としていて、棒読みということもないが、いささかの感情も読み取れないものではあった。
 セツはその言葉の真意を測りかねた様子だったが、ウッドマンを家の中に招く。

「そんなヒステリックになることもないさ。ペストは、空気感染は少ないんだ。ペスト菌は嫌気性の菌だしね。一番多いのはペスト菌を持つ蚤に食われる媒介感染だよ。アベルはここにきて、少なくともあの子に咳やくしゃみを浴びせるようなことはしてないし、接触もしてないっていうからね。虫食いがあったら少し心配だけど、そうでないなら多分感染はしてないよ」

「ペストというのはどういう病気なのですか?」

 ウッドマンは別段ペストに興味があったわけでもないし、スケアクロウがその病気かもしれないことを心配しているわけでもなかった。
 ただウッドマンはいまだ、対象であるアベルを一眼も拝んでいない。

「ペストかい? そうだね、死ぬ病気さ。全身が真っ黒になってね。こいつは体が敗血症を起こして内部組織が出血を起こしてなるんだけどね。ひどいもんだよ。さっき言ったように媒介するのはノミ。ノミを飼ってるネズミが多いとまずいね。不衛生なところに出やすい」

「なるほど、たとえばこの町のような環境では発生しやすい病気でしょうね。あちらこちらから腐臭がしている。……それで、アベルさんは、どうだったんですか?」

 ウッドマンはその緑色の双眸を凝らしセツの一挙手一投足をくまなく見る。
 彼女の視線の動き、呼吸の仕方、発汗量、手の動き、足の動き、唇の動き、瞳孔の縮小率、些細な動揺の表れが無いか――彼女の全ての行動を見る。

「アベルは――ペストでは無かったよ」

 セツは――ウッドマンから視線をそらし、机の上のカルテを取った。

「熱は37.2度。ペストはもう少し高くなるね。多分風邪かなんかだと思うよ。少なくともペスト様の症状は出ていない。リンパ腺肥大もないし、何より虫食いが無かったからね」

「そのカルテを見せていただけますか」

「あんた、字が読めるのかい? 旅人なんかしてるわりに」

 セツは驚いたように若干目を見開いたが、ウッドマンにそのカルテを渡す。
 ウッドマンはカルテの上をなぞるように目を動かした。
 内容を見ていたのではない。彼女の筆致を見ている。
 頭の中でアベルの部屋にあった写真の文字と、アベルの書置き、そしてこのカルテを照合する。

「アベルさんは顔に包帯を巻きつけているとか」

 カルテをセツに返しながら、ウッドマンはセツの顔を見て問いかける。

「ああ、五年前かな。ほら、カインとアベルは兄弟の樵だからね。でかい木を倒したときに運悪くそれがアベルの方に倒れたことがあってね。下敷きになったアベルは一命こそ取り留めたものの、素顔は人前にさらせないだろうね。可哀想なもんだよ。以来アベルはずっと森にこもりきりさ。出てくるとしてもこの家までで、決して町まではいかないんだ」

「では町の人はほとんどアベルさんのことを――」

「知らない、あるいは死んだ、なんていう人もいるかもしれないね。昔は躍起になって否定して回ったけどさ。今は何か、もういいやって気もするね。町の人にとってアベルは死んだことになってる、アベルも町にはもう二度と行かない。両者が交わることが無いっていうなら、そういうことになっていてもいいのかなって。だって、町にとってアベルが生きてても死んでても、それは全然関係ない話なんだもの。私やカインがいくら生きてるって言ったところで、ふーんの一言で済んじゃう話なんだ。アベルは町にはいかない。だったら、いつまでも町にアベルの席を無理して残しておくことも無意味な気がしてね。町じゃあその話はあんまりしないんだよ」

――アベルは町では死んでいたことにされている、か。

「アベルさんとあなたの御関係は?」

「御関係って……そんな大層なもんはないよ。ただ家が近くて……近いって言ってもまあ遠いっちゃ遠いんだけどさ。腐れ縁っていう言葉が一番近いのかね。その五年前の事故っていうのも、診たのは私だからね。それにしても、やけにアベルのことばっかり聞くね。噂を信じるわけじゃないんだけど、あんたもしかして男の方がいける口かい?」

「御冗談を。そんな噂が立ってますか?」

 ウッドマンは笑うでもなく、にべもなく答えた。
 セツはイスに背を投げて伸びをするように腕を上げた。

「立ってるね。あること無いこと。まあ片田舎で、あんたらはなんだかんだで目立つし、ロベルトの店を食いつぶしたなんて言うのも相当インパクトあったからね。あそこのタンシチューなんて、よく五十皿も食ったね。換算すると十キロ相当なんだけど、到底その体に入ったとは思えないね」

「おかげさまで燃費が悪くて参ります」

 ウッドマンは真顔で答える。その様子にセツは噴き出した。

「あはは、あんた変わってるよやっぱり。それで、あんた、何をしにこの町へ?」

 セツは相変わらず顔に笑みを浮かべている。
 しかし、言葉とともに部屋の空気は一変していた。

「興味本位とかで訊いてるんじゃないんだよ。あんたが魔法使いで町から町へネズミを使ってペストをうつして金を巻き上げる詐欺師だなんて噂も立ってる。別にあんたらが異常性癖の恋人同士だってなら構いやしないが、人攫いって言うのだけは見過ごせないね。スケアクロウ君だっけ。あんたの子じゃないだろ。兄弟でもないはずだ。どういう関係? 答えによっては、今すぐにこの町を出て行ってもらうよ」

 笑顔は絶やさず、しかし、確実に威圧する口調でセツは冷たく言い放つ。
 女には珍しい短く刈り込まれた茶色い髪は彼女から女らしさからくる甘さを感じさせない。
 存在感だけならば、セツは圧倒的にウッドマンよりも強かった。

「ただの旅人、では通らないようで」

「旅にこんな場所は通らないさ。この町は道のどん詰まり。この先には何もないからね。ならあんた達はここに来ようと思って来たはずだ。この町に――何の用がある」

「私はトレイズ。トレイズ・ウッドマン。ご覧のとおり、人造人間です」

 ウッドマンはセツに見えるように、レインコートの上から自分の胸部を開いてその内部に走る機構を露出した。
 鈍色の心臓からは緑色に光る液体が全身に巡らされている。
 セツはそれに驚いたように、猫のような瞳をわずかに開いた。

「こりゃ……参ったね。太古の技術の集大成――、人間が『造り出した人間』。まさか、本当にいるとは。てっきりおとぎ話だと思ってたよ。今の今まで。通りでタンシチュー十キロも食えるわけだ」

「私も少し驚きました。まさか今時、しかもこんな辺境で人造人間を知っている人に出会うとは」

 アベルはそういうのが大好きだったからね、とセツは苦笑いを浮かべる。

「ってことは、スケアクロウ君も?」

「いいえ、あれは人間ですよ。正真正銘のね。では、そういうことで納得していただけますか?」

 ウッドマンは開いた胸を閉じて、慇懃な態度で聞く。

「そういうわけにもいかないんだよ。あんたがペストをうつして回ってるなんて噂を持ってると、こっちも枕を高くして寝られないんだ」

 セツは立ちあがった。合わせるようにウッドマンもゆっくりとした動きで立ち上がる。
 女としては、セツは背の高い方だった。
 それでも改めて見上げるほどに、ウッドマンはさらに長身だった。
 しかし、セツは毅然として胸を張る。

「――戯れを。ペストのことはわかりました。教えていただきありがとうございました。気に障ったなら謝ります。失礼しました」

 ウッドマンは踵を返して部屋を出た。

 ウッドマンの人造人間としての驚異的な聴覚は絶えず隣の部屋に向けられていた。
 ウッドマンは診療室にアベルがいないことを確信した。

 蘇る死体、五年前の事故、顔を包帯で覆った男、町では死んだことになっている存在。

 セツ、カイン、そしてアベル――。

 泉の妖精、か――。

――魔法は人間の信じる力を源に発現する奇跡で、科学は疑うことを根本にする学問だ。
 かつてこの世界には科学が蔓延していた。人々はあらゆる物事を疑いに疑いぬいて、ついには生死さえも絶対ではなくしてしまった。
 何一つ信じるものがなくなって、人々は信じられるものを求めた。
 そして五十年前――世界の向こう側から、『唯一絶対に信じられるもの』がやってきた。魔法という奇跡とともに。
 人々は疑うことを、科学することをやめ、盲信することを、魔法にすがることを始めた。
 魔女は人間を惑わし、偽りを信じさせる。この町の住人は自分たちが知らないうちにどっぷりと魔女の魔法に浸かっていた。

「けったいな名前をつけたものじゃないか――東の魔女、ネッサローズ」

 ウッドマンがセツの診療所を出ると、陽はすでに橙を帯び始めていた。
 照りつける西日に身を隠すようにフードをかぶる。
 まるで漆黒の影法師のようないでたちでウッドマンは森の奥へと進んで行く。
 そこから先には何もない。
 あるのは樵の兄弟の小屋――そして、精霊が住むという泉だった。

真実の泉と黒死病

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 午後 ウッドマンはロベルトの酒屋を出ると次にセツの診療所を目指した。 依頼主の弟で、殺人の対象たるアベルが泊まっている場所だ。 森の入口に水先案内のように立っている木造りの家。 ペストに感染している恐れがあると言われたアベルは治療を受けているはずだ。 ウッドマンは診療所の外側を一周した。 おそらく診療室なのであろう玄関と反対側の部屋の窓にはカーテンが下ろされていて、中の様子をうか...

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3050年 6月13日 夕刻

 スケアクロウは転がるようにしてロベルトの飯屋から飛び出した。
 町を覆う異様なにおい、あちこちの家々から柱を作るように飛び回っているハエの群れ。
 あの家も、この家も、どこもかしこも。

「うわ、うわあっ!」

 スケアクロウは自分でも泣いているのか叫んでいるのかわからなかった。
 この町は死人の町だ。至る所に死体があふれている。
 それだというのに誰もそれを気にかけもしない。
 彼らにとってその死者は生きているからだ。この町の誰もがおかしいのだ。
 みんな夢を見ている。死んだ人間が生きている、幸せな夢を。

 泣きわめいて走り去るスケアクロウを、町の住人達はそれこそスケアクロウがおかしくなったかのように奇妙なものを見る目つきで眺めていた。
 誰も自分の正気を疑っていない。彼らは死体としゃべり、死体の世話をしているのに気付きさえしない。
 きっと一生気付かない。スケアクロウが狂っているように見える彼らの目では。

 スケアクロウはウッドマンを探した。
 探すと言ってもこの町にスケアクロウが知っているところはほとんどない。
 スケアクロウはウッドマンの名前を叫びながら、すがるような気持ちでその家のドアをたたく。

「ウッドマン、ウッドマン!」

 そこはセツの診療所だった。
 ここにいないとなれば、もうスケアクロウに行くあてはない。扉には鍵がかかっていた。
 中からは返事がない。スケアクロウは何度も相棒の名前を呼びながらドアを強くたたく。
 それはもう蹴破るほどの勢いで。

「ウッドマン!」

 スケアクロウが満身の力を込めてその小さな体を扉に押し当てようとした時だった。
 キィと音を立てて、ドアが中から開かれた。
 スケアクロウは止まることができずにそのままドアに突撃した。
 ドアの中にいた人物の腹辺りに強く体当たりをする形となり、スケアクロウはその人物ごと廊下に倒れこんだ。

「げほっ、ごほっごほ、いった、たた……!」

 腹にスケアクロウの全力の頭突きを食らったその人物は咳き込み、そして腹と尻をさすりながら倒れた上半身を起こす。
 スケアクロウはその人物の服にしがみついて離れなかった。ウッドマンではなかった。
 それは声でわかった。腹の柔らかさも別人だということを告げていた。
 ウッドマンの声は聞こえてきた声よりずっと低くて、彼の腹はぬくもりや柔らかさとは無縁のものだった。

「君は……確か、スケアクロウ君だったっけ」

――ほらやっぱり。

 ウッドマンならそんなセリフは出てこない。
 ウッドマンじゃないなら、この町の狂った住人の一人なのだろうか。
 スケアクロウは涙でにじむ目を上にあげて自分を覗き込むその人物を確認した。
 顔中を包帯で覆った男――確か名前は。

「う、うう……」

「どうしたの? 泣いているのかい? まあちょっと離れようよ。君、確か旅の人だろ。セツから聞いているよ。ほら、ね?」

「うう、ウッドマン、ウッドマン!」

 スケアクロウは大声で叫ぶ。
 今すぐここにウッドマンを連れてこいと。今すぐウッドマンはここに現れろと。
 何もわからない。ただウッドマンに会いたい。
 スケアクロウは金切り声をあげて泣き叫んだ。
 アベルは困ったように笑っていたが構わなかった。

「はは、困ったな……やれやれ」

 アベルは困り果てて、スケアクロウを抱きかかえた。
 突然の浮遊感にスケアクロウは一瞬泣くのをやめた。
 その一瞬を逃さずアベルは言う。

「大丈夫、君の相棒は帰ってくるよ。さっきだってここを訪ねてきたんだから」

 アベルに抱きかかえられながら大きな目を点のようにしてスケアクロウはアベルの瞳をじっと見つめた。

「本当に?」

 もちろんさ、とアベルは答える。
 スケアクロウを抱えたままテーブルまで歩き、椅子を引いてそこにスケアクロウを座らせた。
 タオルを渡し、顔を拭うように言う。
 スケアクロウの顔は涙と鼻水と汗でそれはもうひどいものだった。

「さっきここに来たの? ウッドマンが? 本当に?」

 スケアクロウは椅子の上に立つ勢いでアベルに聞く。
 アベルはそうだよ、と落ち着いた声で答えながら、水差しから一杯の水と、パンとジャムをスケアクロウに差し出した。

「さっき僕の病気に君がうつっていないか心配して聞きに来たんだから。彼が君を置いていくなんてことはないと思うけど。ほら、飲みな」

――病気、そうだ、この男は何か恐ろしい病気なのだ。
 それを思い出してスケアクロウは若干アベルから離れるように身をそらした。

「……ぺす、ぺす」

「ん? ああ、君の連れから聞いてない? てっきり君に伝えたと思ってたんだけど。あ、そっか伝えられてないから心配になっちゃったのか。僕はペストじゃないよ。ただの風邪。セツがペストかもしれないって言ったのは君たちを家から追い出すためだよ。なんせ宿無しだったから、ちょっとやそっとの理由じゃ出ていきそうになかったって言ってたからね。さすがに患者と客を一緒に泊めるわけにもいかないから、つい嘘をついちゃったって」

「……そうだったんだ」

 スケアクロウは言われて安心し、コップを両手で持ち一気にあおってもう一杯とコップを差し出した。
 喉はカラカラだった。涙も汗も、もう出そうにもない。

「お腹すいてるだろ? 食べていいよ。セツのだけど」

「でもオレ、お金持ってない……」

「安心しなよ、セツはこの辺のものは自由に食べていいって言ってたし、なら僕が君にあげるのも自由だろう?」

 さあ、どうぞ。

 アベルがそう笑う。スケアクロウはパンをちぎってジャムをたくさん塗り付けて食べた。
 イチジクのジャムは大きな果肉が入っていて、甘くておいしかった。
 スケアクロウは瓶の半分ほどを食べてしまって、ようやく食べすぎかもしれないと思った。

 またもや口の周りがジャムでひどいことになっているスケアクロウを見て、アベルは笑った。
 スケアクロウはようやく何か落ち着いた気分になって、ごちそう様でした、と言い口の周りをタオルで拭いた。
 そしてまた水差しからアベルに水を入れてもらい、一息に飲んだ。

「落ち着いた?」

「う、ウッドマンには内緒だよ」

 ようやくスケアクロウは自分が何をしてここまでたどり着いたかを思い返し、たどり着いてからの自分の行いを振り返った。
 それは到底ウッドマンの相棒としてふさわしくない子どもじみた行為だった。
 ウッドマンに知られたら愛想を尽かされてしまうだろうか。

 アベルはそれを聞くと噴出した。

「む、笑うな」

――ふと、どこかでこんな光景があった気がした。

「いや、ごめんごめん。僕が言わなくても、誰かが言いそうな気もするけど。それで、スケアクロウ君はなんでそんなに泣いてたわけ?」

 アベルに問われ、スケアクロウはたどたどしく自分が見てきたものの全てを持ちうる言葉を最大限に活用して伝えた。
 宿屋の老人は隣に死体があるのにも気付かず穴を掘って、誰かわからない相手と話していた。
 飯屋の亭主は妻が死んでいるのに気付かず、生きていると思っていて、あまつさえスケアクロウを捨てられたと勘違いして引き取ろうとしていた。
 この町の至る所に死体があふれかえっていてそれなのに、誰一人気にしてすらいない。
 伝えながらも思う。この男も、町の人間と同じくおかしくなっているのではないだろうか――。

「そっか――、町はそんなことになっているのか」

「家の中は死体ばっかりなんだよ。どの家からもハエが湧いていて、でもみんなそれに気付いてないんだ。本当だよ!」

 本当だよ、を強調するスケアクロウにアベルは分かっているよと制するように言う。

「僕は顔がこうなってからは町に行ってないから、そんな風になっているとは知らなかったし……うーん」

「先生は知らないの? 本当にひどいんだよ」

「わからない、もしかしたら理由があるのかもしれないね。セツが昨日ペストなんて言い出したのは町で本当にペストがはやっているからなのかもしれない。死体がそこら中にあるのはその病気でたくさん人が死んでいるからかもしれないし、葬儀が追いつかないからなのかもしれない。もしかしたら、みんなお葬式を待っているのかもしれないね。もしかして穴を掘っている人もいたんじゃないのかい?」

「いた! 宿屋のおじいさんはずっと穴を掘ってた」

 ガーフィールドさんのところだね、とアベルは言った。

「あそこは昔から共同の墓所だからやっぱりお墓が追いつかないんじゃないのかな」

「そっか、なんだ……」

 スケアクロウは安心した。ひょっとしたら全部見間違いだったのかもしれない。
 あの町の人たちは、お墓が整う順番を待っていたのだ。なあんだ、そうだったんだ。
 目をごしごしと擦る。なんだかとても眠い。

「眠たいのかい。疲れてるもんね。ベッドはこっちだよ」

 大丈夫だ。ウッドマンはきっと迎えに来てくれる。
 ここなら安心だ。アベルとセツは普通の人だ。
 スケアクロウはアベルに引かれて診療室のベッドの上に横になった。

 スケアクロウは横になるとすぐに、小さな寝息を立て始めた。
 それを見てアベルは、大きなため息をついた。

真実の泉と樵の弟

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 夕刻 スケアクロウは転がるようにしてロベルトの飯屋から飛び出した。 町を覆う異様なにおい、あちこちの家々から柱を作るように飛び回っているハエの群れ。 あの家も、この家も、どこもかしこも。「うわ、うわあっ!」 スケアクロウは自分でも泣いているのか叫んでいるのかわからなかった。 この町は死人の町だ。至る所に死体があふれている。 それだというのに誰もそれを気にかけもしない。 彼らにとっ...

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3050年 6月13日 逢魔時

 脛のあたりが昨日から妙に痒い。

――大丈夫、あんたは罹ってないみたいだ。

――でも、アベルは、あいつはペストなんだろ?

――わからないよ。それにアベルがペストだからって、その相手と長く一緒にいたとしても、あんたまで絶対罹るってもんじゃないよ。

 嘘だ。嘘だ嘘だ。自分はペストだ。そうに決まっている。
 なぜならカインはアベルの体液を、それを何よりも濃い、血液を体中に浴びているのだ。
 あの時すでにアベルがペストだったなら、カインが罹っていないわけが無い。
 そうだ、この脛の痒みはその初期症状ではないのか。

 それを思っても、カインはズボンをあげて脛を確認する気にはなれなかった。
 もしそこが、目も当てられない状況になっていたなら、カインは発狂してしまうかもしれない。
 勢い余って、斧で足を切り落としてしまうかもしれない。
 今はとにかく泉に足を服のまま突っ込むしかなかった。
 この泉はカインを癒してくれるはずだ。泉の精霊はきっと、カインを助けてくれるはずだ。

 カインはずっと待っていた。白銀の長い髪を遊ばせて、鈴のような囁きでカインを導いてくれる、盲目の聖母――泉の精霊を。

――あなたがアベルにも優しくしていたことを怒ったりしません。あなたがアベルに金の斧をくれたり、いろんな贈り物をしていたことも嫉妬したりしません。

――だからどうか。

――どうかもう一度オレの前に姿を見せてください。

 そうして一晩が明け、泉につかりっぱなしのカインはいよいよ悪寒が止まらなくなってきた。

「――ゴホッ、カハッ……」

 咳が止まらない。脛のかゆみはいよいよ痛みにも近くなってきた。
 もはや脛に限らず全身に痛痒感が走っている。
 鼓動が体に血液を送るたび、その時の動きに連動してピリピリとかゆみは増していく。
 掻き毟りたい衝動に駆られるけれど、そうしたらいよいよ皮膚を突き破って中の組織があふれ出すのではないかと思うと、何もできなかった。

 カインはもう腰まで泉に浸かっている。
 全身が冷え切っていた。もはや鳥肌も立たないほどに。
 息をするたびにタンの絡んだ喉はヒューヒューと隙間風のような音を立てた。
 寒さに凍えて鼻をすすっているうちにいよいよ病は深刻化しているようだった。

「泉の精霊、どうか、どうか……」

 カインはずっとそれだけを唱え続けている。泉の精霊はいつか来るはずだ。
 そう待ち続けて日は沈み、明けてもいまだ精霊は戻らない。その明けた日も再び沈もうとしている。
 カインの中に正常な時間の感覚はなくなっており、どれくらいそうしているのかも、もうわからない。

 カインは一歩、深く、昏い水底に足を踏み出した。
 しかし、その危なっかしい足取りは湖底のぬめりに取られてカインはそのまま水の中に沈んだ。
 薄暗い空に一番星が見える。水の底から見る世界は、なぜかとても美しく感じられた。
 そのまま死んでいけるならそれでもいいのかもしれないと、カインは思った。

 カインは目を閉じ、息を吐いた。
 空気のなくなった体はゆっくりと沈んでいく。
 抗うこともせず、自ら進めることもなく、カインはただ沈んでいくのに身を任せる。
 やがて全身が水底に落ちた。カインはふと目を開ける。
 それを最後の光景にしようと思った。きっと何かきれいなものが見えるはずだから。

 しかし、目の前をかすめたのは海藻のような水中を漂う細長いものだった。
 カインはやや落胆し、その根元の方に目をやる。そこにあったのは海藻ではなかった。
 海藻のように揺らめいていたのは長い銀髪だった。
 その中央にあるのは、――カインが心から願ってやまなかった顔だった。

 泉の精霊は湖の底に、カインが身を浸す泉のその足元にずっといた。斧で頭をぱっくりと割られて。
 体にはいくつものおもりのような石がくくりつけられていた。
 カインは思わず叫んだ。もうないと思っていたのに口から空気が出た。
 それと同時に思い切り水が入ってきて、カインは大きく咳き込む。

 その反応は水中にあって肺に水を侵入させることにしかならない。
 カインはもがいて、もがき苦しんで、ようやく湖の淵をつかんで顔を思い切り上げる。
 水を吐いて大きく息を吸った。

――げほ、っごほ、っかは。

 そして、もう一度湖の中に潜る。
 果たして泉の精霊は無残な姿に成り果ててそこにあった。
 カインは何とかしてそれを湖の底から引き揚げる。
 それはおもりがあるせいか、服が水を吸っているせいか、はたまたカインが凍えていて体力を消耗しているせいなのか、女の体と思えないほど重かった。
 しかしカインはそれを泉の岸辺に揚げ、自分も泉から這い出た。

――こんなのは、嘘だ。

 カインはわなわなとふるえてその銀髪に沈む顔をそっと両手でつかむ。
 白濁した見えない目。開かれたままのそれをそっと閉じ、カインはその頭を抱きしめた。
 嗚咽は震えてもはや声にならない。

 嘘だ、嘘だ。泉の精霊が死んでいるなんて。どうして、何故。誰が殺した。

「――アベル」

 カインは低い声で呟く。そうだ、他にいるか、いるわけがない。
 あの弟は、呪わしい弟は、そうに違いない。
 自分が生き返る代わりに、カインが一番大切に思っていた泉の精霊を犠牲にささげたに違いない。
 悪魔との取引に、彼女を差し出したのだ。

――そして自分だけ助かって、俺からは何もかも奪っていくんだ。

 可哀想な泉の精霊。彼女が何をしたというのだろう。
 目も見えず、きっとここまでの道のりだって苦難の連続だったに違いない。
 それでも巡礼の果てに神の許しを得られると信じてやってきたというのに、そこに、アベルなんかがいたから。

 ああ、畜生、本当にどうしてアベルは五年前に死んでいなかったんだ。
 アベルが五年前に死んでいたなら、あの顔の怪我の時に死んでいたなら、泉の精霊の旅は報われていたんだ。
 彼女はここにたどり着いて、そして俺と出会って、町から出て、二人で暮らせたはずなんだ。
 ささやかで、だけど幸せな日々が彼女にも、そして俺にも訪れたはずなのに――。

――あの野郎。

 カインは泉の精霊を背負って、彼女を朽ちた教会の祭壇の上に載せた。
 手近にあった花を摘んで、祭壇の前に供える。
 可哀想な彼女。せめてあちらの世界では目が見えるようになっていて欲しい。

 カインは鬼のように重い足取りで、まっすぐに服が濡れているのにも構わず自分の家に向かった。
 そして斧をとる。アベルを殺した斧ではない。
 アベルを殺して、殺しそこなった挙句、泉の精霊を殺してしまう斧など使うものか。

 カインが手に持ったのは、アベルがいつだか泉の精霊からもらったという金の斧だった。
 それは刃も柄も金でできた美しい斧だった。
 全てが金属でできていることを実感させるように、手には普通の物よりもはるかに重い手ごたえがある。
 だが構わない。むしろそれがいい。これならきっと仕留めきれるはずだ。

 これは彼女の無念を晴らすための聖なる行為だ。だからこの斧でなくては意味がない。
 彼女のもので、彼女の命を奪った男の命を奪う。

――泉の精霊、どうか俺に加護を与えてください。

 カインは斧を担いで、想い歩みでセツの家を目指す。アベルはそこにいるはずだ。
 程なくしてセツの診療所は見えてきた。
 カインはドアをたたくことすらしない。
 そのドア二つを支える蝶番二つに向かって、斧を繰り出す。
 あっけないほど簡単に蝶番ははじけ飛び、カインはそのドアを思い切り蹴りつけた。

 どん、と大きな音を立ててドアが家の廊下に倒れこむ。
 その上をずかずかと進む。アベルが机の上に座って目を白黒させていた。
 顔に巻いた包帯、今度こそ間違いない、アベルだ。さあ、死ね。

 振り上げた斧を止めようと思ったのかアベルは手を向けた。
 その腕ごと叩き切るようにカインは思い切り斧を振り下ろす。
 何千回繰り返してきた動作だろう。
 木を切るのに比べて、人間を切るその感触のあっけなさと言ったらない。

――カインはこういう男なのだ。
 気付かなくちゃいけないことに最後の最後まで全然気づかない。
 カインは今憎しみに駆られて、『アベル』を殺しているつもりだろう。
 それは全然違うのだけど。でもカインは気付かない。
 そういう、どうしようもない、可哀想な男なのだ。

『アベル』が崩れ落ちた。
 その口元には、やはり笑みが浮かんでいる。
 カインは自分が笑われているようで腹が立って、その顔を思い切り蹴りつけた。
 どさりと転がる大きな死体。
 その切れ落ちた腕の先から、そして割られた頭から、心臓の動きに合わせて血液が脈動しながら噴出している。

 その死に顔を確認しようと包帯を顔から外す。
 血にまみれて顔がよくわからない。
 カインは手に持った包帯で顔を拭うが次から次へと血があふれては顔を汚し、確認することができない。
 その時にふと、隣の部屋から物音がした。カインはそちらを凝視する。耳を澄ませる。

――誰かいる。

 カインは斧を手に持った。途端に部屋を走ってドアから抜け出る音がした。
 カインはドアを開けてその診療室から裏庭に出るための裏口を走っていく影を見た。
 黒いマントに、麦わら帽子を被って、小さな小さな影は慌てふためきながら森を奥の方へ奥の方へと走り去っていく。

 カインは笑った。そして斧を片手に、目撃者を追いかける。
 走ることはしない。どうせこの先に行って行き着くところはカインたちの家か、さもなければ泉である。
 慌てることはない。小さな影は必死に逃げようとしていたが、夜の森に転んだり倒れたりして、歩いていても後を追うことは難しくなかった。

「かはっ、かははは……」

――咳をしながらカインは笑う。ウッドマンなど頼る必要はなかったのだ。
 アベルが生き返るというのなら、何度だって殺せばいいことだ。
 もはや泉の精霊は死んでしまった。
 ならばアベルが誰を引き替えに生き返ろうと知ったことか。
 生き返れるなら生き返って見せろ、何度だって殺してやる。
 お前が死ぬのに世界中の人間を殺す必要があるというのなら、俺は世界中の人間の頭をたたき割ってやる――。

 そのウッドマンは一部始終を見ていた。
 セツの診療所からカインの家に向かう、その途中で斧を携えたカインを見つけ、森に隠れて後を追った。
 そしてカインは、セツの家に押し入り、そしてアベルを殺した。
 スケアクロウが追われているが、それよりも先に確認しなければならないことがある。

 ウッドマンは無言で死体を眺める
 体つきはどちらかというと細身、身に纏っているのは酷く粗末な服、周りに広がっているのは、血を吸って真紅に染まった包帯か。
 ウッドマンの眼に仕込まれた精密な機械は暗闇の室内でもそこにあるものをはっきりと映し出す。
 浅い闇に飲み込まれた頭は、割れた額から滂沱の血を浴び、黒く染まっていた。

 ウッドマンは一つの確信を抱きながら死体の傍にしゃがみ込む。
 血だまりは新鮮で、ウッドマンが中に踏み込むと波紋が起きた。
 傍のテーブルからガーゼの束をひっつかみ、無造作に死体の顔を拭う。血の仮面を剥がし、素顔を確認した。

――やはり。

 ウッドマンはガーゼを捨て、立ち上がる。
 死体の裂傷は斧によるものだった。
 カインは死なない弟に怯え、酒に溺れ、かなり危険な精神状態にあった。
 あと一つでも背中を押すものがあれば、簡単に狂気の湖に落ちたはず。
――いや、すでに落ちたのだろう。

 樵の兄は「弟」を三度殺した。

 木の下敷きにしたという初めの「弟」は本物だ。
 その時、彼は弟の命を潰すことに確かに成功していた。
 だが、肝心の兄は、弟がその時に死んだことを知らないでいる。
 しかし、町の人間にとっては、弟は既にその時に死んでいて、以後一切の交流はない。
 ただ、兄は弟が生きている幻を見ているという噂が流れ、そして兄は事実、弟は今の今まで生きているものだと思っていた。

 ウッドマンは悟る。
 なにもかも、ウッドマンの目の前で血だまりに浮かんでいるこの三人目の「弟」によって仕組まれていたことだ。
「三人目の弟」は抑えきれぬ思いに駆られて、亡霊を装った。その末路だ。

 ウッドマンはさっと立ち上がる。
 机の上に一つの手帳を見つけた。手に取ってぱらぱらとめくる。
 そこには彼の予想を裏付ける文が延々と綴られていた。
 彼はそれをレインコートのポケットにねじ込んだ。
 ウッドマンは『アベル』の死体を担ぐ。そして、重い足音を立ててカインの後を追った。
 

真実の泉と最後の殺人

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 逢魔時 脛のあたりが昨日から妙に痒い。――大丈夫、あんたは罹ってないみたいだ。――でも、アベルは、あいつはペストなんだろ?――わからないよ。それにアベルがペストだからって、その相手と長く一緒にいたとしても、あんたまで絶対罹るってもんじゃないよ。 嘘だ。嘘だ嘘だ。自分はペストだ。そうに決まっている。 なぜならカインはアベルの体液を、それを何よりも濃い、血液を体中に浴びているのだ。 あの時...

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3050年 6月13日 夜

 スケアクロウは勝手口を飛び出し、死に物狂いで走った。
 背後から聞こえてくる笑い声は明らかに常軌を逸していた。

 街の方へ向かえば町の人間に助けを求めることができたのかもしれない。
 だが、そっちに行けばカインに捕まるかもしれなかった。
 それに、町の人間は、やはりみんな狂っているのだ。あの男と同じように。

 アベルは殺されてしまった。セツも戻らない。

「ウッドマン! ウッドマン、助けて!」

 スケアクロウは叫ぶ。泣きながら、大声で。
 カインから距離を取るため、まっすぐ森へと突っ込んだ。
 邪魔な木を避けながらひた走る。全速力だ。
 日はとっぷりと暮れて、もはや森は人の住処ではなくなっていた。
 うす暗がりには魔物が潜み、そして背後からは人殺しが追いかけてくる。
 カインの気配は離れるどころか、逆にずんずんと迫ってきていた。

 恐怖で脳みそが回らない。噴き出た血が広がるように、脳裏に診療室の情景が広がった。
 ぐちゃぐちゃに混乱した赤くて白くて暗くて明るい光景の中に、見開かれたアベルの眼球だけがはっきり形を持って浮かんでいた。

――いやだ、死にたくない。

 膝から下が石になってしまったかのように、思うように動かせない。
 スケアクロウは四つん這いになって、這いずるように森をかける。
 枝をかき分け、草を踏み鳴らし、たまに転んで擦りむきながら、それでも必死に。
 初めのうちは疎らに並んでいただけだった木々が、徐々に増えている。
 スケアクロウは木々が身を寄せ合い、草木が茂る空間を選んで進んだ。
 首をすくめて藪を突っきると、枝葉が剥き出しの腕や膝を抉った。
 濃い肌にいくつもの赤い線を引き、どんどん森の暗い方へ入り込んでいく。

 それでも悪魔のような笑い声はついてくる。
 木々を打ち鳴らす斧の雄叫びはついてくる。
 弾む呼吸に嗚咽が混じり、どこから滲み出たのかもわからない液体が喉に引っかかった。
 咳き込んで気道を確保したかったが、そうして息を乱すとそのまま喉が塞がってしまうような恐怖を感じた。
 肌の焼けるような痛みと鉛のような手足の重み、喉を塞ぐ異物感に苦しみもがきながらも、スケアクロウは止まることが許されない。
 しかし彼の小さな体は着実に限界に近づきつつあった。
 もはや走り続けるために必要なだけの体力は残っていなかった。

 もう駄目かと思われたその瞬間、唐突に木々の壁が消え、開けた空間に飛び出していた。
 目の前にこじんまりとした木の家が建っている。

 恐怖で真っ白な意識があの家の方へ行け、と命令を出す。
 もはや背後を確認する余裕もなかった。視界は歪み、耳は心臓の爆音でふさがれていた。

 ふらふらと家の扉にすがり力の入らない手で扉を叩いた。
「助けて」と口を開いたが、正確に音が出たかどうかは分からない。
 扉に鍵はかかっておらず、スケアクロウはその中に飛び込む。

 彼を迎えたのは倉庫のような空間だった。

――隠れなくちゃ。

 平衡感覚すら怪しい中、スケアクロウは奥へ向かう。少し広い部屋だ。
 ベッドを見つけその下へと潜り込んだ。じっと息を潜め、体を横たえる。
 吐き気がしていた。悪寒がする。おなかも痛い。
 スケアクロウは情けなさと無力感、そしてどうにもならない苦痛に耐えるように膝を抱いて丸くなった。

 ウッドマン、助けに来て!

 どれだけの時間そこでじっと横たわっていただろうか。
 僅かに機能を取り戻した彼の聴覚が扉の軋む音を聞きつけた。

――ウッドマンであってくれ。

 強く心にそう願う。
 しかしその後に聞こえてきた、無造作で知性のかけらもない足音は、彼のそれとはまったく違っていた。
 カインだった。

――殺される。

「はっはあははっはははは、げほ、ごっほごほ、くはは、どォこに隠れたんだァ小僧ォ!」

 カインは乱暴に斧を振り回す。窓をぶち破り、壁を打ち抜いていく。
 耳をつんざくようなガラスの音が聞こえてくる。金属が転がる音が響き、重みのある物体が床に散らばる音。
 木が叩き割れたような音も聞こえる。

 カインはかなり長い間倉庫を漁っていた。
 倉庫を探し終えた後は、こちらの部屋へやってくるに違いない。
 そしたらカインは絶対に、ベッドの下に潜んでいるスケアクロウを見つけるだろう。

 スケアクロウは重い身体を引きずり、必死にベッドの下を這い出した。
 音を立ててはならない。気づかれたらすぐにでもこちらへやってくるだろう。
 再び心臓が躍り出す。
 スケアクロウは中腰のまま扉へ向かった。

 入ってきたのは勝手口だ。
 このまま真っ直ぐ部屋を抜けていけば、その反対側から逃げることができるはずだ。
 しかしその時、スケアクロウの足が床に転がる何かを蹴り飛ばした。酒の瓶だった。
 臓腑を掴まれるような絶望を感じた。
 それでもスケアクロウの身体は弾かれたように走りだしていた。
 狂った歓喜の声と共に、倉庫の扉が開け放たれる音がする。

「見つけたぞ小僧!」

 すでにスケアクロウは次の部屋にいた。
 体勢を崩す身体をテーブルで支えながら走る。
 少し大きな扉が目に映る。玄関に違いない。体で押すようにして扉を開け放った。

――外に出た、逃げられる!

 しかしそう思ったのも束の間、背後から怒号と共にカインが現れた。

「逃げられると思うなよ、ガキィ!」

 肩に強い衝撃が走った。斧の柄でぶたれたのだ。
 体勢を崩し、そのまま草の茂った地面へ倒れ込む。
 一拍遅れて前方の地面に何かが突き立つ。斧だった。
 血と木くずと埃にまみれた、一振りで命を奪える金属の塊。

――逃げなくちゃ。

 足掻くスケアクロウは肩を掴まれ、ひっくり返された。
 叫ぶ間もなく顔面を掴まれる。
 狂気の樵はとても人とは思えない表情で笑っていた。

「へはっはあ、とうとう捕まえたぜ。ぶっ殺してやる」

「お願い! 殺さないで!」

 スケアクロウは泣いて命乞いをする。

「へはっははは! 嫌だね! アベルの野郎は何度でも生き返るし、泉の精霊は死んじまった! くそったれな世界だ! こんな下らない世界は滅びればいい! 俺が滅ぼしてやる!」

「お、おじさんも、死んだ人が生き返ると思ってるの?」

 スケアクロウが泣く泣く言った言葉に、カインはあぁ、と手を緩めた。

「おじさんも、この町の人達とおんなじように、死んだ人が生きてると思ってるの? 死体を見て、生きてる人だと思い込んでるの?」

「何言ってやがる……? 死体を見て、生きてると思い込んでるだぁ?」

「そうだよ! この町の人はみんな、とっくに死んだ人の死体に話しかけて、おしゃべりをして、生きているんだと思い込んでるんだよ! だからこの町にはハエの群れがぶんぶん飛んでるし、ひどいにおいが立ち込めてるんだ! この町の人達はみんな、夢を見させられているんだ!」

「アベルは生き返ったんだ! 俺が殺したのに、泉の精霊を引き換えにして、泉の精霊に自分の死を押し付けて、生き返りやがったんだ! だから俺が殺してやったんだ!」

「――その人、本当にアベルさんだったのかな」

 スケアクロウの言葉にカインの目が開かれる。

「うるさい! 皆殺しだ、皆殺しだ! お前は記念すべき二人目だ。死ね死ね! みんな死んじまえ!」

 カインはスケアクロウの顔を掴んで斧を振りかぶる。
 スケアクロウは渾身の力でカインの手首に歯を立てた。
 白い歯が皮膚を破り、肉を抉る。たまらずカインは仰け反った。
 スケアクロウの顔面を掴んだまま大きく腕を振る。
 スケアクロウは振り払われ、吹っ飛んだ。小さな体が地面を転がる。

「クソ、ガキィ! ぶち殺す! 死ね!」

 怪物が金切り声交じりにそう叫び、地面に突き立っていた斧を掴みあげた。
 カインはスケアクロウの背中を足で踏みつける。
 スケアクロウは何とか逃げ出そうと手足をばたつかせるが大人の重さに抵抗できるはずもない。
 鈍色に光る斧の刃が、斜めに振り上げられる。
 地面に倒れ伏すスケアクロウは、振り返ってそれを見る。
 こんな時だというのに、こんな場所だというのに。
 その時、雲一つない夜空には、真円の月が浮かんでいた。一点の汚れもない銀色の光で世界を青く照らす。
 振り上げられた金の斧はその月の光を浴びて、きらめいて。
――きれいだと思った。

 ゆっくりと刃が下りてくる。
 スケアクロウはゆっくり瞼を閉じる。
 世界が細く閉じていく。

――助けて。ウッドマン。

 まるで線のようになった世界に、スケアクロウは黒い影法師の背中を見た。

 ぐちゃり、という音とともにスケアクロウの顔には生暖かいしぶきがかかった。
 スケアクロウは思わず目を見開く。
 斧は寸前で留められていた。他ならぬ、ウッドマンの、その頭によって。

「ウッドマン!」

 頭を斧で割られたウッドマンは緑に光るしぶきを上げてその場に崩れ落ちるように倒れた。
――エーテルが漏れ出しているのだ。ウッドマンを動かすその燃料が、頭から。
 夜の闇に輝く緑色の輝きは、さながら蛍のようで、一見美しかったが、その光景はいっそおぞましかった。
 ウッドマンは肩には何故か、殺されたアベルを背負っている。
 スケアクロウはそれを見て、絶望が全身を襲うのを感じた。

――ウッドマンが、殺されてしまった。

「ウッドマン、ウッドマン、嘘だ、嘘だよ、ねえ、ウッドマン!」

 揺すっても、呼びかけても、その重い体が返事をすることはない。

「げほ、っげほ、ははは、殺し屋だぁ? くっだらねえな! 点で話にならねェ! くたばっちめえやんの! はははは!」

 カインは壊れたように笑う。スケアクロウは、また逃げ出した。

――逃げても無駄だ。もうウッドマンは死んでしまった。なら、オレは殺されるしかない。

 絶望に胸を支配されながらもスケアクロウは走った。
 そして最後に行きついたのは、大きな水たまりだった。
 スケアクロウはこんなに大きな、たくさんの水がたまっているのを見たことが無い。
 足のつかないくらいに深くて、船でもないと向こうまで行くのは難しそうだ。
 要するに、ここが行き止まりなのだ。

「へへへ、もう逃げられねえぞ、ガキ」

 カインの声はすぐ後ろまで迫っている。
 スケアクロウは泉を見た。ウッドマンが行っていた泉だ。
 確か、ものを投げ込めば、精霊が現れて、もっといいものを授けてくれる魔法の泉。
 それに賭けるしかない。
 
 スケアクロウはマントを脱いだ。そして靴を泉に投げ込む。
 麦わら帽子を胸に抱きしめて、大きく息を吸い込む。
 スケアクロウは泳いだことなどない。
 でもとりあえず息をたくさん吸い込んでおけば沈まないはず。
 そして、三つ数えて、スケアクロウは泉に飛び込んだ。

真実の泉と樵の兄

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月13日 夜 スケアクロウは勝手口を飛び出し、死に物狂いで走った。 背後から聞こえてくる笑い声は明らかに常軌を逸していた。 街の方へ向かえば町の人間に助けを求めることができたのかもしれない。 だが、そっちに行けばカインに捕まるかもしれなかった。 それに、町の人間は、やはりみんな狂っているのだ。あの男と同じように。 アベルは殺されてしまった。セツも戻らない。「ウッドマン! ウッドマン、助けて...

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3050年 6月14日 深夜

 泉に飛び込んだスケアクロウを見てカインは笑う。

――バカめ。それで逃げ切れるつもりか。お前が浮き上がってきたら今度こそ最後だ。

 カシャリ。

 その時、その音はどこから聞こえてきたものだろうか。
 カインは連続的に聞こえてくる背後の音に振り返る。

「損傷確認、メインカメラ破損、視覚データを胸部サブカメラに切り替え。循環式エーテルの流出を確認、破損部位を結節。エーテル流出の停止を確認。行動損傷10%未満。プログラム・オルガンⅩⅢ【トレイズ】を再起動」

 その音は、あの死体から聞こえているのではないか。
 まるで人形のような、あの殺し屋の死体から。
 直後、カインはわが目を疑った。
 無残にも頭を真っ二つに割られた死体は、割られた頭部をそのままに、むくりと起き上がった。
 そして、横に転がるアベルの死体を肩に担ぎ、ゆるぎない足取りでこちらに向かってくる。
 割れた頭部は緑色に光り、中に詰まっている機械をグロテスクに照らしていた。

「状況を認識。口唇機能の破損を確認。以後音声は咽頭部スピーカーより直接発声――カインさん」

 ウッドマンが口も動かさずにカインの名を呼ぶ。カインは到底信じられない。
 これはもう、絶対に人間じゃない。こんなのは、これは――。

「お前は一体、一体――何だ!」

「会ったときにも言ったはずです。私は人造人間。体の全ての部分を機械に交換し、自分の心さえ失った『ブリキの樵』。私の名はウッドマン。トレイズ・ウッドマン。ゼロ機関から偉大なる魔法使いオズの予言成就のために派遣された暗殺者です」

 ウッドマンは口を全く動かさずに言葉をしゃべった。

「はへへ、そうか、そういうことかい! 結局俺が殺した奴ぁ、みんな生き返るって、そういう仕組みなんだな! そうかいそうかい! 道理でアベルは生き返るわけだ! 俺が、呪われてる! そういうこったな!」

「それは違います」

 ウッドマンは言う。それはどこか冷酷な言い方にも聞こえた。

「ちょうどいい。ここに真実の泉があります。カインさん、あなたは一体、誰と一緒に暮らしていて、誰を殺したのですか」

 ウッドマンはそう言って、アベルの死体を担いで、カインの隣を通り過ぎ、泉の前に立つ。

「あなたが殺した『アベル』の死体です。これを泉に入れましょう。さあカインさん、正直に答えてください。あなたは、誰を、殺したのか」

 ウッドマンは泉にその死体を投げ入れた。
 そしてそこに手をかざす。手からは強烈な明かりが発せられていて、泉を照らし出していた。

「お、俺が殺したのは、アベルだ! あのひきょう者で姑息ないやしい弟の、アベルだ!」

 泉に鮮血が広がって、辺りを赤く染めていく。
 そしてその暗い水面に、血糊を洗われた死体が浮かび上がってきた。
 それは――セツだった。
 顔は一見無残に割られているが、アベルの顔ならば、醜い傷跡が覆っているはず。
 その白い肌は、猫のような眼は、茶色い髪の毛は、間違いなくセツのものだった。

「セツ……! 何でセツが!」

「わかりませんか」

 カインはわなわなと唇を震わせて、ウッドマンの方を向く。

――あなたが殺したからですよ。

「違う、俺は、アベルを、あのふてぶてしいクソ野郎を……!」

「アベルさんは五年前に死んでいるんですよ」

 何、と問いかける声はもう言葉になっていなかった。

「あなたは町では五年前にアベルさんが死んだことにされていることをご存知でしたか?」

「バカな、だってあの時は、セツが余計なことをして、あいつは助かったんだ! 死んでいればよかったのに、顔に傷を負って、それでも生き残った!」

「本当は死んでいたんですよ、その時に。それなのに、あなたにアベルさんが生きていると嘘をついた人がいる」

「誰だそりゃ!」

 吠えるように問うカインに、ウッドマンはわかりませんか、と逆に聞く。
 そしてその指先が、す、と池に浮かぶアベルの、いや、セツの死体を指す。

「セツが? 何で! 何でセツがそんなことをする必要がある!」

 カインには全く分からない。
 セツがどうしてアベルの死をカインに隠さなければならないのか。

「セツさんは思いついてしまったんですよ。あなたと一緒に暮らす方法を」

「何を、言ってやがる……?」

「セツさんはあなたのことがずっと好きだった。あなたと一緒にいたいと思った。でもあなたはセツさんの思いになど気付かない。好意を伝えても思いが叶わないことは明白だった。そこに、アベルさんの死が舞い込んだ。彼女はアベルさんの手術を行い、彼が死んだときに、アベルさんになり替わることを思いついた。幸い顔は潰れていて、それで包帯を巻けばいいという言い訳はすぐに考えられた。本物のアベルさんの死体は、もうずっと前にこの泉に沈められていたんですよ。以後、あなたの隣で暮らしていた樵の弟は、セツさんだったんです」

 はあ、とカインは威圧するような声を上げた。
 理解できない。何だそれは。アベルの正体が実はセツだった? そんなバカな。

「何でセツがそんなことしなくちゃなんねェんだよ!」

「あなたが好きだったからですよ」

「わけわかんねえよ!」

「セツさんはあなたが大好きだった。でも、あなたはセツさんのことなど見向きもしない。これでアベルさんが死んだら、あなたはもしかしたら町を出て行ってしまうかもしれない、彼女はそう思った。そこで、アベルさんが死んでないことにしたんです。顔に包帯を巻いて、アベルさんの振りをすることにした。それで当面、あなたは町に留まるだろうと彼女は考えた。町の人達にはアベルさんが死んだと伝え、あなたがそのことを気に病んでいるから、なるべく話題に出さないようにと触れ、セツさんはアベルと自分の一人二役の二重生活を続けた。そして、セツさんはそのうち、この二重生活の味を占めてしまった。彼女は、自分がアベルとして生きることで、あなたとの仮の結婚生活を送ることに成功したんです。それがやめられなくなってしまった」

――アベルはいつだってニコニコ笑って、カインが起きるころには朝ごはんを作ってくれていた。昼の弁当を作り、夜はカインが街に繰り出して、帰ってくるのをずっと待っていた。

「しかし三か月前、セツさんの幸せを踏みにじる天敵が現れた。それはあなたが泉の精霊と慕っていた盲目の巡礼者の存在だった。セツさんはアベルとして暮らしつつも、セツである自分にあなたが振り向くのを待っていたんですよ。それなのにあなたは、また新しい女に夢中になった。しかも今度はかなりご執心だった。だからセツさんは――泉の精霊を殺すことにしたんです」

 その言葉に、カインの中の最悪の想像が一本の線でつながった。

「セツさんは泉の精霊に、あなたに告白するから機会を作ってほしいと願い出た。お昼に泉にあなたがやってくるから、アベルの変装をして、あなたを自分と交際するように説得してほしいとでも言ったんでしょう。そしてまんまと泉の精霊にアベルの変装をさせた。そこにあなたがやってくる。そしてあなたは、彼女をアベルだと思い込んだまま、彼女の額を斧で割った。そして、この泉に沈めたんです」

――そして、セツさんは何事もなかったかのように、アベルの振りを続けた。
 ウッドマンは言う。
 カインは愕然として、空いた口を塞ぐことができずにいた。

「そこに、私達がやってきて、彼女は困った。彼女はあの日、私達が診療所の裏で、アベルの殺害を依頼するのをちゃんと聞いていたんです。それで彼女は、私達の前に、アベルとして登場することはできなかった。スケアクロウの前には現れられても、私の前には出てこられなかった。だからあの日、アベルさんは診療所に行ったように見せかける必要があった。そして、当分登場しなくていいように、ペストかもしれないと嘘をついた。彼女の計画はそれで終わりのはずだった。旅人の私達がこの町に長居するはずがないし、依頼に拘ることもあるまいと踏んで、彼女はアベルでいることをしばらくやめれば、私達に殺されることもないと考えた。だが、あなたはそれを待ちきれず、彼女を殺してしまった。あなたは最後まで気付かなかった。あなたの弟が死んでいることも、セツさんがあなたの弟の振りをしていることも、そしてセツさんの本当の気持ちにも。あなたは何一つ気付くことなく、彼女を――殺してしまった」

 ウッドマンの言葉に、カインは再び泉に浮かぶセツの死体を見た。
 その無残に割られた頭部。

「――嘘だ」

 ようやくそれだけ言うことができた。

――嘘に決まっている。そうだ、人間でもないこんな奴の言葉を誰が信じるものか!

「それではあなたが信じるものに、真実を言ってもらいましょうか。――どうせ聞いているんだろう、ネッサローズ。いい加減スケアクロウを返せ」

 ウッドマンが泉に向かってそう告げる。
 すると、泉の底から、ごぼごぼと何かが吹き出し、大きな水しぶきを立てて、何かが飛んできた。
 ウッドマンはそれを抱きとめる。
 
「ぶはあ! はあ、はあ! あれ、オレ、生きてる! ウッドマン! 生きてるのか?」

 荒く息を吐くそれは、びしょ濡れのスケアクロウだった。
 顔を真っ赤にして、ウッドマンの割れた頭に抱きつく。
 そして大きな声で泣く。

 しかしカインはそんなものよりも、その泉の淵に立つものから目が離せなかった。
 さっきスケアクロウを泉から投げ飛ばしたもの――白銀の髪に、空ろな白い眼。玉のような肌に鈴の鳴るような声で笑う――それは、泉の妖精だった。
 銀の月の光を浴びる彼女は、神々しいまでに美しかった。
 頭が割られた跡など少しもない。くすくすと笑いながら、こちらを見ている。

「スケアクロウと言ったねえ、そこの子ども。ここに金の広つば帽と、銀の靴がある。お前が落としたのはどれだい?」

 ウッドマンが生きていることと、自分が助かったことに大声で泣いていたスケアクロウは、問われてそちらを見る。
 そして、どっちも違うよ、と答える。

「そうだ、オレの帽子! あれは父さんの形見の麦わら帽子なんだ! こんなはではでの帽子じゃないよ! 靴だってこんなのじゃないよ! もっとぼろぼろだけど、俺の帽子と靴は、これじゃない!」

「くすくす、正直正直、いい子だ。よしよし、ちゃあんと麦わら帽子とゴム靴を返してあげようねぇ。それからこの金の広つば帽と、銀の靴もあげようねぇ」

 スケアクロウはきょとんとしていたが、泉の精霊から、自分の帽子と靴と、それから金の帽子と銀の靴をもらう。
 呆然と渡された麦わら帽子をかぶり、他のものを腕の中に抱きしめたままぽかんとしている。

「い、泉の精霊――あんた、生きてるのか?」

 カインは目を丸くして、しかしそれでも微かに喜びながら問いかけた。
 彼女が生きていてくれたなら。彼女さえ生きていたなら、それで、もう。

「泉の精霊だって、そんな名前でお呼びでないよ。アタシの名前はネッサローズ。四方を統べる魔女の一角、東の魔女、虚ろなる東雲――ネッサローズ。それがアタシの名前さ」

 カインは泉の精霊――ネッサローズの変貌に戸惑いを覚える。
 カインが知る彼女はそんなしゃべり方ではなかった。
 いつも敬虔で、真摯で、優しくて――。

「うふふ、少しは淑やかに可愛らしく見えたかねえ? いやいや、あんた達の色恋沙汰はいい見世物だったよ。惚れた男に近付きたくて、その弟の振りして身の世話することに命がけの女! もう笑いをこらえるので一杯一杯! ひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ネッサローズは下品に笑う。

「違う、お前は、泉の精霊じゃない! 彼女を返せ!」

 カインは叫んだ。するとネッサローズはピクリと止まる。

「た、すけて、……カイン、様。魔女に、体を乗っ取られて……く、苦しいの……」

 白い目をゆがめて、薄く涙を浮かべながら、荒い息を吐いて呻くその姿は、カインがよく知る泉の精霊と寸分と違わない。
 そうか、やはり彼女は、悪い魔女に体を乗っ取られて――。

「泉の精霊! 今助けるぞ!」

 泉の精霊はまたうつむく。そしてひくひくとその修道服の肩を震わせた。

「ば~っかじゃねえの? だからさぁ、あんたが知る泉の精霊、なんて女は、最初からいないんだよ! 全部嘘、最初から最後まで嘘! この町は嘘の町! 町の人間はみんな死んだ奴が生きてると思ってて、お前はいもしない女のことが大好きだった。殺したいほど憎んでいる弟はすでに死んでいて、お前を好いている女はお前に本当のことを隠していた。嘘つきだらけのこの町の名はクレタ! 全てのクレタ人は嘘つきなのさ! ひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ネッサローズは歪んだ笑みを浮かべて、舌を出して心底馬鹿にしたような顔でカインを見下した。

「嘘だ、嘘だと言ってくれよ、泉の精霊!」

 カインは悲壮な声で叫ぶ。

「だからさ、最初から言ってんだろ、全部嘘でしたってさ! あんたが愛した女はアタシの演技! いやあいいもの見させてもらったよ。楽しかったぁ!」

 ネッサローズはけらけらと馬鹿にしたように甲高い声で笑う。

「カインさん、こいつはあなたが思うような盲目の巡礼者なんかではありませんよ。かつて科学が支えていたこの世界を滅ぼして、その上に自分たちが自由に使える魔法という法則を上書きして、世界をずたずたに引き裂いた、邪悪な四人の魔女の一人だ」

 カインは言葉さえ失って、ただ目線だけをウッドマンとネッサローズの間で往復する。

「その通りだよ! あたしは人間に甘い夢を見せて、その夢が覚めた時の、悲壮な現実を知って絶望する顔が大好きなのさ! 今のあんたの顔のことだよカイン。まあ、もっともあんたやそこで頭かち割られて死んでる女は、町の他の連中と違って、アタシの泉の水を飲まなかったから、魔法にかからなかったんだけど。魔法にかかってもいないくせにやってることはその辺の連中よりずっとぶっ飛んでて、あはは、ひゃひゃひゃひゃひゃ! いやあ、ホント、面白かったよ。ひゃひゃひゃひゃひゃ! ――で」

 そう言って、ネッサローズはウッドマンの方を振り向いた。

「お前らはアタシを退治しに来たんだろう? でも残念でしたぁ! このネッサローズはそう簡単にはやられない!」

「エーテル機関銃、全砲門展開」

 ネッサローズの侮った声に、ウッドマンは両手を前に突き出す。
 次の瞬間、ウッドマンの体が『開いた』。
 それは文字通り、開いたとしか言いようがなく、レインコートの袖に覆われていた腕が、その袖ごと六枚の花弁を持つ花が蕾を開くように展開し、その金属質な花の中央には無骨に輝くいくつもの砲門がずらりと並んでいた。
 胸も、腹も、足も、中央から横に開いて、その中にはやはり一様に鈍色に光る筒がネッサローズに照準を合わせている。

「エーテル弾頭、前段発射」

 ウッドマンの平坦な声とともにすべての砲が緑色の輝きに満たされ、息をつく間もなく、辺りに凄まじい爆音が響いた。
 太鼓を滝のように打ち鳴らしているような、断続的に続く轟音――否、銃声。
 十秒は続いただろうか。カチンカチンと、金属同士が打ちつけられる音が響いたかと思うと、ウッドマンは、開いていた体から、たくさんの水蒸気を出して、その体を閉じた。

 爆音の後の森の静寂は、音が消えてしまったのかと思うくらい静かに感じられた。
 カインは恐る恐るネッサローズの方に目を向けた。
 もうもうと立ちこめる土煙と、泉から立ち上る水しぶき。
 そして――その中から、壊れた鈴を鳴らすような、バカにしたような笑い声が辺りにこだました。

「ひゃひゃひゃ! だから無駄だって! アタシは虚ろなる魔女、ネッサローズ! エーテル弾頭だろうと、金属弾頭だろうと、お前の攻撃など通じないんだよ!」

 先ほどのウッドマンの攻撃で掘り返したように原型を失っている地面を見れば、どれほどの威力だったのかは想像するまでもない。
 しかし、その崩壊した泉の淵に、ネッサローズは――泉の精霊は、毛ほどの傷跡もなく、笑いながら立っていた。

「いい加減この町も飽きたところだ! 新しい住処を探す前に一つ、滅ぼしてやろう!」

 ネッサローズがそう叫ぶと、辺りに地鳴りが響いた。
 ネッサローズは甲高い笑い声をこだまさせながら、徐々にその姿を変えていく。
 足が足元の水と一体となって溶けていく。
 泉の淵の地面を割って、姿を現したのは奇怪な生き物だった。
 巨大な八本の半透明のクモのような足。その中心には逆巻いた水があり、その水の上にネッサローズの上半身が生えている。
 八本の足がそれぞれ屈んだと思いきや、それが一気に跳ね上がり、町の上に飛び上がって、その八本の足はそれぞれの節ごとに分離し、空いっぱいに広がる。
 夜が明け始め、薄く明るくなりつつある空に、赤黒く光るものがその空を満たしていく。

「アタシは東の魔女、ネッサローズ! 我が魔法は『虚』! 口に『虚』せば即ち『嘘』となり、町に『虚』せば、即ち『廃墟』と化す! 近隣一体廃墟と化すがいい!」

 ネッサローズがそう宣言すると、分離したクモの足はそれぞれ天空に、ネッサローズを中心に周り出し、やがてそれは目で追えぬほど速くなった。
 辺りには雷雲が黒く立ち込め出し、強く風が吹き始めた。

――これは何だ。

――この世の終わりだ。

 カインはそう自問自答した。そうだ。もう誰もいないのだ。アベルもセツも、そして泉の精霊も。
 カインの世界は――滅んでいるのだ。

「ウッドマン!」

 聞こえてきた声はスケアクロウのものだった。

「ウッドマン、大変だよ! このままじゃ……」

 スケアクロウは慌てた様子だったが、ウッドマンは焦った様子もない。
 もっとも割れた頭では焦っていようといまいと、表情など読み取れないだろうが。

「カインさん。契約通り、アベルさんの殺害は成功しました。約束通り、この金の斧はいただきます」

 呆然とするカインの持っていた斧をウッドマンは奪う。
 カインはそれに抵抗することもしなかった。

「どうするの、ウッドマン」

「ネッサローズの魔法は『虚』。彼女に『実』なるものは通じない。……彼女は人の言葉によって虚像の幸せを生み出す魔女。すなわちそれによって生み出されたものは全て『虚』だ。ならば『虚』に『虚』を撃ち込んだらどうなる?」

 言いながら、ウッドマンの金の斧を握る手はとけるようにその形を失っていく。
 あっという間にそれは、漆黒の大砲の形になった。
 砲身には金の斧が隙間なく埋め込まれていた。
 その金の刃だけが、腕から生えているようだった。

「スケアクロウ、木につかまって、うずくまっていろ」

 ウッドマンが言うと、スケアクロウは慌てて近くの木の根ものを掴んでしゃがみこむ。
 ウッドマンはそれを確認すると、手から生える大砲を真上にいるネッサローズに向けた。

「炸裂エーテル式火砲『クエララ』。照準合わせ、完了。砲身固定」

 ウッドマンのレインコートの端々から伸びる紐がアンカーのようにウッドマンの周りの地面に突き刺さる。

「ひゃひゃひゃひゃひゃ! 無駄無駄ぁ! アタシは虚なる魔女! 生も死も、何もかも虚ろ! 攻撃なんか効くかね!」

「エーテル充填……五十パーセント、八十パーセント、……完了。秒読み開始、十、九、八」

 カインは目の前で繰り広げられるそれを呆然と突っ立ったまま見ていた。
 何が起こっているのか理解できなかった。
 泉の精霊は、あのふざけた姿は何だ。この殺し屋のバカげた体は一体。

「五、四、三」

 この殺し屋は、今、泉の精霊を殺そうとしていて。
 ああ、だってそうだ、あの手を見ろ。あの金の斧を埋め込んで、それを打ち出そうと泉の精霊を狙っているじゃないか。
 今にも打ち出そうとしているじゃないか。
 だったら、俺は――。

「二、一、発射」

「やめろぉおおおおおおっ!」

 轟音とともにカインは叫んだ。そしてウッドマンに掴み掛る。
 途端にウッドマンの体から大量の蒸気が噴出される。しかし、カインはその胸に、やけどするほど熱い砲身を抱え込んできた。
 泉の精霊は殺させない。彼女は俺が守るんだ――。
 カインは今気付いた。自分の本当の気持ち。
 泉の精霊を、自分は愛している。彼女が魔女だったとしても関係ない。
 どんなに邪悪で、冷酷で残忍な魔女でも、彼女の笑顔を守りたい。

――俺は、彼女を愛している。

 それが樵の兄、カインが果てしない罪を重ねてたどり着いた、最後の結論だった。
 カインはようやく、それに気付く。それでもまだ真実には辿り着かない。

真実の泉と東の魔女

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月14日 深夜 泉に飛び込んだスケアクロウを見てカインは笑う。――バカめ。それで逃げ切れるつもりか。お前が浮き上がってきたら今度こそ最後だ。 カシャリ。 その時、その音はどこから聞こえてきたものだろうか。 カインは連続的に聞こえてくる背後の音に振り返る。「損傷確認、メインカメラ破損、視覚データを胸部サブカメラに切り替え。循環式エーテルの流出を確認、破損部位を結節。エーテル流出の停止を確認。行...

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3050年 6月14日 夜明け 

 辺りは既に明かりが無くても何があるか見える程度には明るくなり始めていた。
 ネッサローズの足元の逆巻く水に、金の斧は間違いなく当たった。
 雷が落ちたかのような轟音と共に、ネッサローズは泉に落っこちた。
 もうもうと水蒸気が上がる森の中。スケアクロウはウッドマンの側に駆け寄る。

「ウッドマン、やったの?」

「……やっていない。彼が体当たりして、狙いが微かにそれた」

 スケアクロウが目をやると、そこには四つん這いになって手と胸から血を流すカインがいた。
 おそらく、ウッドマンが大砲を撃つ直前に、その腕に抱きついて止めたのだろう。
 カインは、這いずりながら、泉の精霊、と呼び続ける。
 やがて水煙が消え、その干上がった泉の中心に、その姿はあった。

「泉の精霊!」

 カインは安堵したように叫ぶ。

「いい加減にその名でアタシを呼ぶんじゃない!」

 ネッサローズの下半身は溶けたように半透明の緑色の粘液になっていた。
 その上に生えている上半身を、両手で支えながら、憤怒に歪んだ顔で言う。

「まさか、アタシが、自分で生み出した虚によって、倒されるとは……」

「とどめだネッサローズ。その状態なら、エーテル弾でも十分に倒せる」

 ウッドマンはそう言い放つと、またその腕の大砲をネッサローズに向けた。

「止めろウッドマン! そ、そうだ、取引をしよう! アタシの力は『虚』。お前が嘘にしたいことを嘘にできる。お前、本物の心臓が欲しいんだろう? アタシの力を使えば、それを叶えることができる! だからやめてくれ!」 

「交渉は成立しない。さよならだ、ネッサローズ」

「やめろ!」

 そこにカインが立ちふさがった。

「どいてください、カインさん。でないとあなた事彼女を打ち抜くことになる」

「撃つなら撃てよ。彼女と一緒に死ねるなら、本望だ」

「どきなカイン。ゼロ機関屈指の暗殺者ウッドマンを騙し抜いて逃げ延びるならまだしも、……お前みたいな無力な人間の影に隠れて、守られたんじゃあ……アタシの魔女としての面目が、丸潰れだよ」

「そんなもの知らない。俺はお前を守る。愛してるんだ。お前に愛されなくてもいい。今ここで、お前を助けることができたら、俺はそれで満足なんだ!」

 またウッドマンのレインコートからアンカーが伸びる。
 そして、ウッドマンの冷酷なカウントダウンが始まった。

「本当に……バカな男だね、カイン!」

 突然ネッサローズが叫んだ。

 カインが振り返ると、ネッサローズは嫌だなぁと、涙を浮かべて苦い笑みをこぼした。

「アタシは、虚ろの魔女。何もかも薄っぺらな虚像で、真実なんてこれっぽっちもないつもりだったのに、カイン、あんたが命がけで守ったりするから……本当の気持ちが――『真実のまごころ』なんてものに、『気付い』ちまった…アタシはもう、アタシ自身の存在を保てない」

 ネッサローズの体が、しゅうしゅうと煙を上げて、溶けていく。カインは思わずそれに駆け寄った。

「カイン、小僧から金の広つば帽を奪って、アタシのところに持ってきておくれ……」

「渡すな、スケアクロウ!」

 ウッドマンが珍しく慌てた声を上げた。先に動いたのはカインだった。
 ネッサローズが言うが早いか、カインは脱兎のごとくスケアクロウから金の帽子を奪って、ネッサローズの元に駆け付ける。
 スケアクロウはウッドマンが怒鳴ったことにびっくりして、動くことができなかった。
 ネッサローズはそれを受け取り、何かを唱えた。
 すると突如、大きな喝采のような羽ばたきの音が大空を覆った。
 それは鳥ではない。黒い羽根を生やした――サルの群れだった。
 羽を生やしたサルはネッサローズの前にひれ伏す。

「楽しめたよウッドマン。アタシはこれで消える。嘘つきは本当の気持ちなんかに気付いちまったらおしまいなのさ。さあ、カイン、お前はこれで西の魔女の――エルファバの城へお行き」

「いやだ、泉の精霊、お前を残してなんていけるもんか!」

 カインは消えていくネッサローズを抱きしめる。
 ネッサローズは苦笑いを浮かべながら、その白い眼でカインの瞳を見つめた。

「だからさ、違うって言ってるだろ。アタシの名前は――」

 カインの抱擁を受けて――東の魔女、ネッサローズは朝焼けに溶けていく。

「待ってくれ、行かないでくれ、ネッサローズ!」

 カインはついにその名を呼んだ。
 最後に名前を呼ばれたネッサローズは幸せそうな笑みを浮かべて、東に向かって吹く風に消える。
 カインはその残滓を手に留めるように、祈るように両手で風を包む。
 そのカインの姿を、翼の生えたサル達は覆い、そして、西の空へと飛んでいった。
 サル達が飛び去った後には、カインの姿はなかった。
 ただ、八つの高足がついた丸い金属の輪だけが、残されていた。
 ウッドマンは手を普通の形に戻し、それを拾う。

「オルガンⅠ【ネッサローズ】を認識。任務達成を確認。予言の成就率二十パーセント」

 ウッドマンはそれを、胸を開いて内部にある空間に収めると、うずくまっていたスケアクロウを抱きかかえた。
 スケアクロウはただ、その胸の中でうずくまる。

 やがて、後にはただ干上がった泉と、荒れ果てた森、そしてその底に転がる死体だけが残った。
 頭を割られたセツの死体と、白骨化した――本物のアベル。

「無事か、スケアクロウ」

 割られた頭のまま、ウッドマンは問う。
 スケアクロウはそれに、大丈夫、と答えて、近くの木の枝に引っかかっていたマントを羽織る。

「ごめん、金の帽子、とられちゃった……」

 ばつが悪そうに言うスケアクロウの頭を、ウッドマンは撫でた。

「お前のせいじゃない。銀の靴が手に入ったし、『ネッサローズ』も回収できたから良しとしよう」

 ウッドマンはスケアクロウが胸に抱えている銀の靴を見て言った。
 気付いたようにスケアクロウは自分のゴム靴を穿く。

「これからどうするの?」

「まずは一度機関に戻って報告をしないといけない。この頭部の破損も、機関でなければ修復できない。さあ、帰ろう。スケアクロウ」

 そこに、大きな悲鳴のような怒号のような声が響いた。

「ああ、俺達の泉が!」
「やはりお前らは町に入れるべきじゃなかった! あの割れた頭を見ろ、奴は人間じゃない!」
「泉を返せ! この化け物!」

 スケアクロウ達はあっという間に四方を町の住人に囲まれた。
 ウッドマンはスケアクロウを守るように抱きかかえる。
 怒り浸透した様子の住人達はそれぞれの手に斧やら鉈やらを携えている。

「俺の娘が腐っちまった! 泉の水が必要なんだ!」
「私の息子を返してちょうだい! あの子はちゃんと生きてたんだ!」
「両親は死んでなんかいない! あの泉があれば、また生き返る!」

 憤怒の形相に顔をゆがめる住人は口々にウッドマンに言う。

「あなた達は魔女に悪い夢を見させられていたのです。そんな泉はどこにもない。これまでも、これからも」

 ウッドマンがそういうと、町の住人の怒りはさらに苛烈になり、今にも掴みかかって来そうになった。

「待たんか、皆の者」

 静かに言ったのは、老人の声だった。老人は人垣を割ってウッドマンの前に姿を現す。
 それはスケアクロウ達が止まった宿屋の主人だった。

「ガーフィールドの旦那……」

 住人の誰かが言う。

「わしゃ全部思い出したよ。息子が三か月前に死んだことも。あの泉のことも何もかも。お前さん達も、本当は思い出しとるんだろ?」

 ガーフィールドが言うと、数人が息のつまったような声を上げた。

「――いい夢じゃったよ。毎日毎日、気のいい新聞配りの若いのとやりあって、ありゃ、わしの息子じゃったか。いい男になりよって。三か月前、ペストでぽっくり逝っちまったんじゃった。わしらは夢を見とった。死んだものが生きてる夢じゃ。――幸せな、いい夢じゃった。のう、みんな」

 老人の声に、周りからはすすり泣く声が聞こえ出した。

「いい夢じゃったが、夢は夢じゃ。醒めなければならぬ。思えば長く眠りこけておった。三か月も夢の中――これ以上は、必要あるまい」

 でも、と声が上がる。ガーフィールドはそれを制す。

「死者には墓を作ってやらねばなるまい。わしらがすべきなのは、新しい躯を作ることではなく、今ある躯を早くちゃんとしたところに葬ることじゃろう。違うかの」

 その言葉を皮切りに、スケアクロウ達を囲む人垣の号泣が始まった。
 ガーフィールドは目に涙を浮かべつつも、ウッドマンに一礼する。

「よくぞわれらの夢を覚ましてくださった。クレタの町の者を代表してお礼を申し上げる。そして、出ていきなされ。もはやこの地に、あなた方の望むものはあるまい」

 そう言ってガーフィールドが町の出口を示すと、その方向の人垣が割れる。
 ウッドマンはただ無言で、スケアクロウを抱きかかえたまま、町を通り抜ける。
 町には死臭が満ちていた。ハエの群れが飛んでいた。
 そして家々からは、嘆きの声が聞こえる。

「おい」

 町の入り口から出ようとする二人を、誰かが呼び止めた。
 振り返るとそこにはあの飯屋の店主がいた。彼は革袋をウッドマンの足もとに投げる。
 地面に落ちた革袋は、金属の音を立てる。入っているのは多分お金だ、とスケアクロウは思った。

「返す。そんなもの、いらない」

「受け取っておいた方がいい。あなた方にこれから一番必要になるものです」

「いらないんだ」

 ウッドマンの答えに、ロベルトは強い調子で答えた。
 ウッドマンはスケアクロウを腕から下ろし、革袋を拾う。
 ロベルトは、スケアクロウの頭に手を載せた。

「――悪かったな、坊主。俺の方が間違ってた。怖い思いさせてごめんな」

 涙をこらえるようにそう言って、ロベルトは町の方に戻っていく。
 ウッドマンは特に何も感じてない様子で歩き出す。

「ウッドマン、オレ達、これでよかったのかな」

「よくはない。ネッサローズは倒せなかった。任務達成率は七割と言ったところだ。銀の靴が手に入ったのは予期せぬ僥倖だったが――」

「そうじゃなくてさ!」

 淡々と任務のことを語るウッドマンをスケアクロウは止めた。

「あの町にかかってた魔法は、解かない方が幸せだったんじゃないかな」

「スケアクロウ、魔法が解けたら幸せでなくなってしまうようなものを、そもそも幸せと呼ぶべきじゃないんだ。幸せは魔法によってもたらされるものではない」

「でも……」

 スケアクロウは思う。あの時、スケアクロウはあの町の人を狂っていると思ったけれど。
 でも飯屋の店主の妻を思う気持ちは本当だったし、宿屋の主人と新聞配りの青年は、本当に楽しそうに話していたのだ。
 泉の精霊を思うカインの気持ちも本物だったし、セツが死んだのだって、きっと本物の気持ちからなのだとスケアクロウは思う。
 そして――東の魔女、ネッサローズも、何もかも嘘っぱちだったけれど、最後に、本気でカインを愛した。
 それに気付いてしまったから、彼女は滅びたのだ。

「ではお前は、スケアクロウ、あのまま死んだ人達が野ざらしにされていて、それが本当に幸せの形だと思うのか?」

「それは――」

 確かに、ロベルトの妻や、ガーフィールドの息子の死体は、ちゃんと埋葬してやるべきだと思う。

「好きな人が死んでいるのに、死んでいることに気付かない。――それは不幸な話だ」

 ウッドマンの声に相変わらず抑揚はなかったが、その言葉には何か深い感情が感じられた。

「いつか、誰かが気付かなければならなかったんだ。そして、気付いた時に、町の人達が悲しむのも避けられないことだった。夢はいつだって幸せで、目を覚ませば耐え難い現実が控えているものだ。起きた時は、誰だって憂鬱だ。夢が幸せであればあるほど。現実が耐え難いものであればあるほど」

「あの町の人達は――」

「心配ない。ネッサローズは滅びた。他の三人の魔女たちが、すぐに動くことはないだろう。金の広つば帽が西の魔女の手に渡ったのも、オズの予言どおりではある」

「ねえ、ウッドマン。じゃあ、オレの気持ち、気付いてる?」

「私は心を持っていない。人間の気持ちを推量するように設計されていない」

「じゃあどうすればいい?」

「言葉にすれば理解できる。行動で表せば把握できる。スケアクロウ、人間は人間が思っているほど、相手の気持ちを推察できる動物ではないんだ。私が人造人間だろうと、人間だろうと、思いは表さなければ伝わらない」

「あのね、ウッドマン」

 スケアクロウはウッドマンの手を握る。

「お腹すいた」

「次の町までの辛抱だ」

 スケアクロウのお腹が大きく音を立てる。
 二人の旅人は金色のタイルの道を歩いて行く。
 次の町を目指して――。

「――あ、その前にウッドマン、その顔隠した方がいいよ」

 スケアクロウは言って笑う。
 ウッドマンはフードをかぶって、微かに笑ったように息を吐いた。

ブリキの樵と真実の泉

2013.10.04.[Edit]
3050年 6月14日 夜明け  辺りは既に明かりが無くても何があるか見える程度には明るくなり始めていた。 ネッサローズの足元の逆巻く水に、金の斧は間違いなく当たった。 雷が落ちたかのような轟音と共に、ネッサローズは泉に落っこちた。 もうもうと水蒸気が上がる森の中。スケアクロウはウッドマンの側に駆け寄る。「ウッドマン、やったの?」「……やっていない。彼が体当たりして、狙いが微かにそれた」 スケアクロウが目...

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